>>935 私は、このスレの
>>1の基準に準拠して、評価を行っています。
曹操は積極的な施策を行ったとはいえ、なかなか領内を安定させることが出来ませんでした。
何年も統治して、内地化したはずの地域でさえ、反乱を起こされています。
知力・政治力・魅力の高い筍或を片腕としてもなお、このような状態だったということは、
曹操の政策能力に疑問符を付ける材料になり得るでしょう。
ただ、統治が困難だった戦乱の世に生きたことは、情状酌量の材料になると考え、
平凡な政治家として、40台の数値を与えました。
>>935 諸葛亮は、四川を統治した地方軍閥のナンバー2でした。
後漢末期の四川は、ひじょうに不安定な地域で、
劉焉・劉璋父子の時代には、何度も大きな内乱が起きていました。
しかし、劉備が四川を支配し、諸葛亮が行政を担当するようになると、急速に安定しました。
連年の出兵と重税にも関わらず、四川で大きな内乱が起きることは、二度とありませんでした。
政敵を次々と粛清し、敵国内に内通者を作るなど、「汚い」ことも出来る政治家でした。
外交上でも、劉備と孫権の同盟を成立させ、荊州失陥後に途絶した呉との国交を復活させ、
北伐に際して、鮮卑の王軻比能を味方に付けるなど、多くの成果をあげています。
戦略上では彼は多くの過誤を犯しているので、知力に高い点を付けることは困難です。
あまりに厳格過ぎた為に、貴州・雲南地方の離反を招き、反乱鎮圧後も内地化出来なかったこと、
また、自分の言うことを聞く小粒な人材ばかりを登用したために、
結果として蜀を「諸葛丞相の個人商店」にしてしまったことから、
統率に高い点を付けることも困難です。
そのため、彼の政治的業績は高い政治力によるものと判断しました。
ちなみに、彼が厳罰主義の法家的政治家であったことは、
蜀の法律制定委員になった時、彼の出した案は、
他の委員から「あまりに厳しすぎる」と言われましたが、
「これまでがぬるすぎたんだ。本来ならこれぐらい厳しくしないといけないのだ」と答えたこと、
劉備の薨去に伴って、彼が名実ともに蜀のトップになった時に、
「恩威政治」(いわゆる馴れ合い)に親しんできた貴州・雲南地方が一斉に反発したこと、
街亭の敗戦後、敗戦責任者の馬稷を腹心であったにも関わらず、容赦なく処刑し※、
自らの官位まで引き下げていることも、
彼が厳罰主義の法家的政治家であったことの傍証となるでしょう。
※意外に思われるかもしれませんが、三国時代では、どんなにみっともない敗戦をやらかした将軍でも、
せいぜい左遷か免職で済む場合が多く、罪に問われない場合すら、ありました。
馬稷が処刑されることは、当時の常識を越えていました。
>>950 そういうことです。
いや、世界史の本を紐解けば紐解くほど、
イデオロギーと宗教の区別が、付かなくなってしまうのです。
キリスト教徒が聖書を、ムスリムがコーランを、儒学者が四書五経を、マルクス主義者が資本論を奉じるのに、
どれだけの違いがあるのか?
結局は、同じ結果に、原理主義と革新主義がせめぎ合うだけになっているのでは、ないかと。
>儒教では「何故(他の子ではなくて)私の子が」という問いにどう答える?
>「何故私の子が死んだのか」「何故私は病弱なのか」と。
>本来の宗教が人の苦しみを除くためのものという側面を持つ(というか
>そうあるべき)以上、儒教が宗教であるためには
>この問いに答えられなければならないと思う。
論語には、数々の死生観が語られています。
オカルトも、死後の世界も否定した孔丘にとっては、この世界がすべてでした。
だから、「この世界でより良く生きよ」と説き、そのための「道」を探せと説きました。
スレ違いなので、sageましょう。
955 :
世界@名無史さん:03/04/30 18:03
>前スレの948さん
よろしければ、袁紹と荀イクの数値化お願いします。
曹操との比較によく出てきますから。
>>955 いいでしょう。
この二人については、言いたい事がいっぱいあるのでお受けします。
中華が長く分裂する遠因を作った人物であり、
世界史レベルで扱っても良いと思われるからです。
sage進行でいきますので、楽しみにお待ちください。
【コラム】「天を掴めなかった男」袁紹 (?〜202)
1.統率
彼は、おそらく後漢末で唯一の武力90を有すると思われる名将麹義、
冀州乗っ取りで主導的な役割を果たした策士張導、公孫讚で多くの功績をあげた名参謀田豊など、
多くの功績ある人材を使い捨てにしてきました。
袁紹軍は急激に膨張したため、
逢紀・許攸を中心とする、漢が平和だった時代からの子飼いの部下、
郭図・辛評らを中心とする、頴川出身者のグループ、
沮授・田豊・審配・張コウといった、冀州乗っ取り後に参入してきたグループなど、
多くの派閥を内部に抱えていましたが、袁紹はそれをうまく統御することが出来ず、
無用な派閥争いで自陣営を無用に消耗させてしまいました。
その隙を知力の高い曹操に付け入られ、天下を取れなかったのです。
よって、統率力は苦手レベルの「39」とします。
2.武力
袁紹は自ら軍を率いて戦うタイプの指導者であり、
多くの戦いを指揮し、多くの野戦攻城で勝利を収めてきました。
特に河北統一期の彼の指揮は冴え渡っており、
遠征している隙に本拠地の魏郡を黒山賊に奪われたにも関わらず、
迷うことなく黒山賊の大軍に戦いを挑んで勝利したり、
界橋の戦いで公孫讚軍に本陣を奇襲された際にも、
自ら先頭に立って抗戦し、主力を率いる麹義と合流するまで耐え抜きました。
官渡で敗北したのは、統率力と知力の欠如によるものであり、
彼自身の武力の低さによるものではありません。
むしろ、袁紹は戦上手といって良いぐらいです。
よって、武力は優秀レベルの「76」とします。
3.知力
彼は策謀好きで、さまざまな謀略を画策してきましたが、
どれもロクな結果を生み出しませんでした。
大将軍何進の参謀となって宦官皆殺しを計画したら、
もっと危険な董卓を呼び込んでしまうし、
袁術配下の将孫堅が董卓を洛陽から追い払い、河南一帯を抑えつつあった時、
いきなり孫堅の根拠地を部下の周昴に攻めさせ、孫堅を河南から撤退させ、
董卓に河南の再確保を許してしまうという、反董卓連合軍の盟主としては、
やってはならない致命的なミスを犯してしまいます。
また、皇族の劉虞を皇帝に擁立しようとしますが、曹操や袁術の反対に遭い、
さらに劉虞との関係を悪化させただけで、失敗に終わりました。
これだけミスを犯しているのに、天下を掴みかけるところまで行ったのは、
不思議としか言い様がありません。
ただ、彼がミスを犯したのは、董卓・袁術・曹操など、知力が高い人物相手であり、
公孫讚や黒山賊の諸将など、知力の大して高くない相手には、それほど苦労していません。
よって、知力は凡人レベルの「45」とします。
4.政治力(1)
袁紹は後漢政府の中で順調に出世街道を歩き、若くして司隷校尉(警視総監)の重職に就きます。
こうして書くと、エリート然とした貴公子という姿が浮かびあがってきますが、
実際はそれほど順調な人生を歩いてきたわけでは無かったようです。
名門の出身とは言え、彼は妾の子であり、母親の身分がモノを言う当時では、
本来なら日の当たるところに出られる人物ではありませんでした。
ですから、若い頃はかなりグレて、豪傑(ヤクザな奴ら)とつるんでいました。
そして、あまりにワルとして名が売れすぎて、
叔父で当時の袁一門の総帥であった袁隗に
「お前みたいのが居ると一族の恥さらしになるから、とっととマトモな仕事に就いてくれ」と言われ、
ようやく役所勤めするようになったのです。
それ以後は、信じられないようなスピードで出世し、
袁一門嫡流のプリンス袁術の地位をあっという間に追い抜いてしまいます※。
袁紹の実務能力が、よほど高かったことが伺われます。
話は飛んで、反董卓連合軍が失敗した後に移ります。
この時、彼は渤海郡しか持っておらず、かき集めた大軍を食わせるのに苦労していました。
かなり危機的な状況だったのですが、逢紀の策によって、冀州乗っ取りに成功します。
あまりに汚いやり口だったので、周囲の総スカンを食らいました。
当然、民衆の反発も強かったものと思われます。
※宦官皆殺し当時、袁紹は司隷校尉。袁術は虎憤中郎将(近衛軍の指揮官の一人)でした。
前者よりは、後者の方が格下のポストです。
エリートコースであることに変わりはないのですが。
4.政治力(3)
しかし、袁紹はよほどの善政をしいたのでしょう。
短期間で冀州の内地化に成功し、餓死寸前だった袁紹軍は、
食い物には困らない袁紹軍に生まれ変わったのです。
後年、袁紹は圧倒的な大軍を率いて曹操と官渡で対峙しますが、
先に兵糧が切れたのは曹操の側でした。
官渡で惨敗した後、冀州の各地で反乱が起きましたが、
彼は軍を再編成して、これを鎮圧しています。
以後、彼が死んでからも、冀州は袁一族に忠実であり続けました。
冀州平定後、曹操は敵討ちと厚葬(派手な葬式)を禁止しました。
袁紹の重臣達は皆、職権を濫用して私財を貯め込んでいました。
冀州は長い間、袁一族の兵站基地となってきました。
それでもなお、冀州の民衆は、派手な葬式をやるだけの余裕があったのです。
「袁紹様の時代は良かったなあ」と、河北の民衆は言っていたそうです。
それを証拠付けるかのように、冀州平定から十年以上経ってもなお、冀州では民衆の反乱が起きていました。
魏が冀州の内地化に成功するのは、曹操が死んで、統率力と政治力の高い曹ヒの時代になってからのことです。
統率力の低い袁紹が、冀州を上手く治めることが出来たのは、高い政治力を持っていたからでしょう。
よって、袁紹の政治力は一級レベルの「83」とします。
5.魅力(1)
袁紹は容姿端麗な美男子で、押し出しも立派でした。
若い頃、ヤクザな生活を送っていましたが、
物凄い人望があって、いつも4人の高名な豪傑(ヤクザ者)を連れ歩いていました※。
あまりに人気者過ぎて、ビビった叔父の袁隗に、仕官するよう泣き付かれたぐらいです。
妾の子で、家門を背負えなかったのに、これだけの人気を得たのですから、
袁紹の人間的魅力には凄まじいものがあります、
仕官してからも、袁紹の人気はとどまることを知りません。
あまりに多くの人が袁紹の元に集まるので、
袁一門嫡流のプリンス袁術は、その人気を妬んでいたそうです。
5.魅力(2)
反董卓連合軍が結成された際も、人々は袁一門のプリンス袁術を差し置いて、
袁紹を盟主に推しました。
冀州乗っ取りの際、袁紹のブレーン達は、
「袁紹は人気者だから、冀州を譲ってやって恩を売っといたほうがいいと思うよ(かなり意訳)」
と言って、冀州牧(冀州総督)韓馥を説得しました。
また、統率力の項でも述べましたが、
袁紹には、人材を使い捨てにする悪癖があります。
にも関わらず、袁紹配下には次々と新しい人材が集まり、
官渡まで破綻しなかったのです。
その人格的吸引力には、凄まじいものがあります。
よって、魅力は一級レベルの「82」とします。
袁紹の最終的な評価を発表します。
【統率】39
【武力】76
【知力】45
【政治】83
【魅力】82
統率力と知力が低いので、指導者には向いていません。
武力が高いので、軍人としては、かなり使える部類です。
ただ、知力が低いので、単独で軍を率いさせると、
敵方に戦略的優位を確立されるおそれがあります。
良い参謀を付けても、言うことを聞かない恐れがあるので、
知力の高い方面軍司令官の下で、一軍を率いさせるといいでしょう。
政治家としては、政治と魅力が高いので、かなり使えます。
政策実務や対外宣伝に従事させれば、いい仕事をしてくれます。
これだけ能力があれば、勘違いして天下を取ってみたくなる気持ちも分かります。
人に使われてこそ、能力を発揮できる人なのですが。
魅力が高すぎるために、指導者の地位に押し上げられてしまったことが、
この人の悲劇でした。
ほえぇ〜
袁紹は世界史レベルでも、政治83、魅力82ですか〜
自分は魅力は臧洪や田豊の件でマイナスですね。
あ。 955は私です。
【コラム】袁紹が連れ歩いていた4人の豪傑(ヤクザ)について。
1.許子遠(名は攸)
「百計を蔵し救世の才がある」と評された策士です。
霊帝の時代にクーデターを計画して、失敗するなど、かなりきな臭いことをやっていました。
知略を評価される一方で「根性が曲がっている」「金に汚い」という評判が、
全国的に鳴り響いていました。
その評判を裏付けるかのように、官渡では袁紹の参謀をやっていたのですが、
曹操に寝返り、袁紹の主力が壊滅するきっかけを作っています。
しかし、最後はつまらない自慢話がきっかけで曹操に粛清されてしまいます。
まあ、とんでもない危険人物なんで、曹操としては、とっとと消してしまいたかったのでしょう。
2.張孟卓(名はバク)
とてもいい人で、人が困っていたら、
自分の金をいくらつぎ込んででも、助けてくれる人だったそうです。
そのため、当時の名士ランキングでは「八厨(8人の気前がいい奴)」の一人に数えられてました。
乱世になっても、この人のいい人ぶりは変わらず、
曹操が董卓軍に無謀な突撃を試みた時、兵士と腹心の衛慈を貸しました。
兵士は全滅し、衛慈も死んでしまいましたが、彼は曹操を恨むことなく、交友を続けました。
袁紹に殺されそうになった呂布や、袁紹に地位を追われた前の冀州牧(冀州総督)韓馥に、
居場所を提供してあげるなど、男気満点です。
しかし、いい人なだけでは世の中渡れません。
反董卓連合軍の頃に袁紹に意見を言ったところ、激怒されてしまいます。
袁紹は曹操に「張孟卓をぶっ殺せ」と命じますが、
曹操が袁紹をなだめてくれたおかげで、どうにか助かります。
このように曹操とはマブダチで、「俺が死んだら孟卓を頼れ」と言っていたそうです。
しかし、彼はある日唐突に曹操を裏切ります。
曹操の腹心陳宮や、弟の張超に曹操の悪口を吹き込まれた彼は、
曹操が徐州に出かけてる隙に、曹操の本拠地エン州を乗っ取り、
知り合いの呂布をエン州牧(エン州総督)に担ぎ出したのです。
しかし、乗っ取りは失敗し、彼も部下に殺されてしまいます。
たった一度の裏切りが、いい人人生を終わらせてしまったのです。
3.何伯求(名はギョウ)
洛陽で太学(国立大学)の学生をやっていましたが、とんでもない事件を起こして有名になりました。
彼には、虞偉高という親友がいたのですが、病に倒れ、「オヤジの仇が討てなかったのが残念だ」と言い残し、息を引き取りました。
虞偉高のオヤジの仇というのは、「巨万の財を蓄し、百駟(400頭)の駿馬を飼う」と言われた大物でした。
今風に言えば、「億万長者で、何百台もいいクルマを持っている」というところでしょうか。
仇なんて、普通に考えれば取れるわけがありません。
しかし、何伯求は普通ではないので、「俺が仇を取ってやらにゃあいかんな」と考え、
仇を本当にぶっ殺して、虞偉高の墓前にその首を供えたのです。
この事件で何伯求は一躍洛陽中の有名人になりました。
その後、「党錮の禁」(反宦官クーデター失敗事件)に絡んで、全国指名手配されました。
しかし、年に何回か、洛陽に潜入しては、自分のように指名手配されている人の逃亡を手助けしたり、
反宦官派と会合するなど、大胆不敵に立ち回ります。
ちなみに、この時アジトにしていたのは、袁紹の屋敷でした。
指名手配犯を匿ってるのがバレたらただじゃすまないのに、袁紹はやはり大物です。
「黄巾の乱」(カルト教団の武装反乱)の際に、反宦官派と黄巾軍が手を結ぶのを恐れた政府は、
すべての反宦官派の指名手配を解除します。
15年間に逃げ続けた彼でしたが、そんなブランクなどはものともせず、 北軍中候(近衛軍の監察官)にまで出世します。
そして、親友袁紹とともに、宦官皆殺しを決行しました。
しかし、宦官の次に政権を握ったのは、悪名高き董卓でした。
董卓は何伯求の能力を評価し、相国長史(宰相の首席補佐官)に昇進させますが、
何伯求は「董卓は消さなきゃいかん」と思っていました。
かくして、クーデターを起こそうとしますが、バレて逮捕されてしまいます。
彼は自分の口から余計な事が漏れないように、獄中で自決しました。
(荀攸伝では、「捕まってビビったから自殺した」とされていますが、海千山千の何伯求が捕まったぐらいでビビるとは思えないので、
「墓場まで秘密を持っていくために自決した」と解釈しました)
>>966 >袁紹は世界史レベルでも、政治83、魅力82ですか〜
中国ほどの大国で、自力で政権を掴みかけるところまで行った乱世の雄なら、
それぐらいはあってしかるべきでしょう。
袁紹は、最初からいい立場にいたわけではありません。
自力で高い地位を勝ち取って、後漢政界の実力者となり、
反董卓連合軍失敗後、軍を維持できなくなるほどの窮地に陥ったのに、
韓馥を騙し、黒山賊や公孫讚との死闘を経て、大国冀州の支配者となったのです。
>自分は魅力は臧洪や田豊の件でマイナスですね。
臧洪や田豊の件に関しては、むしろ統率力でしょう。
「臧洪や田豊は、袁紹の魅力が高かったから、従った。
しかし、統率力が低かったため、使い切れなかった」
と解釈しています。
>あ。 955は私です。
そうでしたか。少し、曹操の評価が高すぎはしませんか?
>>968 そういえば、縦横家と農家を忘れていましたね。
ご指摘ありがとうございます。
農家に関しては、知識が無いので、何とも言えません。
しかし、縦横家に関しては、「舌で天下は動くんだ」という、
一種のイデオロギーみたいなものを感じます。
972 :
前スレの948:03/04/30 22:39
>みなさま
申し訳有りませんが、どなたか次スレを立てていただけませんでしょうか。
どうも、私のところからは立てられないみたいなのです。
既に次回のネタは用意しております。
「世界史で『真の政治家』と呼べる人物を一人推せ」と言われたら、彼を推します。
>>966 そういうわけで、荀ケに関するコラムは少し遅れますが、よろしいでしょうか?
それにしても、このスレで私が最後に扱ったのが袁紹とは…。
日本史ネタと三国志ネタは盛り上がりますが、
世界には立派な人物がたくさんいるんです。
それを書きたくて書きたくて、書いているわけです。
皆様も「このような優れた人物が知られていないのは許せん」と
お思いになることはあるはずです。
そんな時にこのスレを利用していただけたらと。
そう思います。
977 :
世界@名無史さん:03/04/30 22:48
誰か、昭和天皇を!!
まとめの季節、ということで
前スレに引き続きまとめてみますた。
前948氏は一気に書いてもらえると助かるのですがw
>977
ネタでなければ二つばかり上を見てみ。
い、今次スレのテンプレ作ってるからちょっと待って>ALL
次はリチャードの好敵手、サラディンを書かせて頂きます。お楽しみに!
981 :
前スレの948:03/04/30 23:37
>>978 ありがとうございます。
ご迷惑をおかけしますが、私は考えながら書き込まないと、
文章が書けない性質なのです。
申し訳ありませんが、ご理解をお願いします。
>>828 唐突で申し訳ないのですが、
ブルシロフの能力は、もう少し高いのではないかと思います。
統率に関しては、問題ないと思うのですが、武力は確実に70を越えているはずです。
彼は戦略だけでなく、戦術にも長じていました。
第一次世界大戦では、緒戦から武勲を重ね、
ロシア軍が最も無様に敗れた戦いの一つであるゴルリッツの戦いでも、
態勢を立て直して逆襲を成功させた将軍です。
知力は、少し高すぎますね。90台前半で良いのではないかと思います。
当時のドイツ・オーストリア軍の指導部の知力を考えれば、
90台前半でも、十分に一つの戦争を逆転させることができます。
政治力は、他の軍司令官と十分な連携が取れなかったこと、
ブルシロフ攻勢の後に、アレクセイエフに自分の意見を通せなかったこと、
(通せれば、戦争は完全なロシアの勝利に終わっていたはず)
赤軍では棚上げされた感があることから、根回しには長じていなかったと思われます。
苦手ということで、30台でも良いと思われます。
魅力については、赤軍でも閲兵長官を務めていることから、
ブルシロフの名声と人柄は、軍の看板とするに足るものはあったのでしょう。
平均以上ということで、50台とします。
982 :
世界@名無史さん:03/04/30 23:43
以下、項目別TOP
【統率】アレクサンドロス
【武力】チンギスハーン
【知力】孔子
【政治】徳川家康
【魅力】イエス
カエサルはどこいった?
このスレ的には孔子より孫子の方が合っていると思うが。
正直、申し訳ないが、漏れも建てられなかった。本当にすみませぬ。
テンプレだけ公開・・・。
歴史上の武将・政治家達をコーエー数値化するスレ!3
このスレは、歴史上の著名な政治家・軍人・国家指導者達の能力を”光栄”の歴史
シミュレーション風に数値で勝手に表してしまおう、という名スレです。
数値の指標は>2〜4、関連スレは5で。
能力値の基準
0代=逆にすごい
10代=ゴミ
20代=ろくでなし
30代=苦手
40代=凡人
50代=可もなく不可もなく
60代=まあまあ
70代=優秀
80代=一級
90代=超人
100=神
各能力値の説明
右にある指標については、いまだ議論中です。
【統率】組織を纏めあげ、強固にする力。また、そのために組織を改編し、造り上げる能力。
【武力】戦術・戦域級での戦闘指揮能力。
【知力】問題への正しい理解・判断能力。先見の明。戦略眼。意志力。
【政治】己の描いた方策を実現する能力。内政、外交、謀略の能力。
【魅力】利害抜きで人を引きつける力。人望。
項目別TOP候補
【統率】始皇帝、チンギスハーン、スターリン
【武力】アレクサンドロス、ナポレオン、トハチェフスキー
【知力】カエサル、サラディン、マンネルハイム
【政治】アウグストゥス、康煕帝
【魅力】劉邦、カエサル、ムハンマド、リチャード一世、サラディン
990 :
前スレの948:03/05/01 00:10
>>982 私の基準でも、項目別TOPを立てて見ました。
【統率】スターリン・始皇帝・朱元璋・チンギスハーン
【武力】アレクサンドロス・ヤン=ジシュカ・バトゥ・李靖
【知力】ビスマルク
【政治】康熙帝
【魅力】カエサル
といったところでしょうか?
991 :
前スレの948:03/05/01 00:25
>>989 別の場所から試して見ましたが、ここからも立てられないみたいです。
新スレを立ててくださる神様の出現を、切に祈ります。
例の170さんテンプレちょっと手直しさせて頂きました、
勝手にすみませんです。
995 :
世界@名無史さん:03/05/01 01:06
>>982確かにコーエー数値化向きに考慮となると、要は
イエスを精神的カリスマとし、アレクサンドロスを王に頂いた、宰相の家康(他にも人材?)の派遣した、孫子(孔子辞め)を軍師に伴ったチンギスの軍勢。というエライことになった。
アショーカ王の評伝を書くため、
軌跡を辿って天竺に渡り、ガンジスを吹き渡る風に涼んできたため(嘘)
しばらく書き込みができませんでしたが、
ここもいよいよ新スレに以降ですね、謹んでお喜び申し上げます。
新スレでも、折をみてお邪魔させていただきますので
その時はまたよろしくお願いします。
>>973 ついでに、石原莞爾のは僕です。
向こうでジャンヌダルクのリクエストがあったが、ジャンヌ自身ではないのでこちらでコソーリと(w
前もって言っておくが、贔屓目があるのは否定しない。
ラクシュミー・バーイ
【統率】83 宗教・民族の枠を超え、多くの民衆が彼女の元に結集し戦った
【武力】71 蜂起してから最期に至るまで常に陣頭に立ち、騎馬隊の指揮も執った
【知力】77 イギリス総督に送った理論整然とした抗議文は、イギリスの役人達が驚嘆する程の説得力を持っていた
【政治】64 イギリスによるジャンシー併合の危機に際し、毅然たる態度と正論を以て抵抗した
【魅力】95 その美貌も去る事ながら、細やかな気遣いと聡明にして公正なる人柄で人々に愛されていた
ジャンシー藩王国王妃。通称『ジャンシーの女王』『インドのジャンヌ・ダルク』。
「反乱とその弾圧の直中で、ただ一つ輝かしい名前が暗闇の中に一点の光を投じている」とネルーが絶賛し、
「反乱軍において最も優れた、最も勇敢なる指導者」と敵軍からも賞賛された、
インド独立戦争(セポイの反乱)の指導者の一人にしてインド史上最高の女傑。
絹のブラウスに乗馬ズボンを纏い、短剣と銃を携え白馬を駆る若き王妃の姿は、
ジャンシー城で蜂起しグワーデリ城攻防にて狙撃されるその時まで常に最前線にあった。
植民地時代には彼女に関する書物は全て発禁とされていたが、
独立運動家達の間で密かに愛読され、その名は先駆者として彼らのシンボルとなっていた。
そして現在に至るまで敬愛を以て語り継がれ、様々な物に彼女の名前が冠されている。
sage
さげ
さ
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。