シュヴァーベンの東のほうか。 あの辺がバイエルン領になったのは1803年・1805年だったかな。
歴史的にシュヴァーベンといわれるのはスイスからバーデン、ヴュルテンベルクにかけての地域だな アルザスのあたりはどうだっけか…
520 :
世界@名無史さん :05/01/19 22:10:19 0
メッテルニヒが失脚してから駄目になった
521 :
世界@名無史さん :05/01/22 19:21:38 0
518殿、 すると、ナポレオンへの協力姿勢の見返りとして、 バイエルンが獲得した訳ですな。あわせて、王国への昇格も得たわけだし。 バイエルンが獲得する前は、小国が分立していたわけですかな。 さて、どなたか、ご存知か。
522 :
世界@名無史さん :05/01/22 19:42:45 0
519氏がアルザスの名を挙げましたが、、、、、、 アルザス(エルザス)といえば、ロレーヌはどうなんですか。 シュワーベンではないですか。 前者はエルザス語というドイツ語方言だそうですけど、 ロレーヌの庶民語は、フランス系の言語だったんでしょうか。 フランスの大貴族でロレーヌ公なんていうのがチョクチョク出てきますが、 フランス王がロレーヌ公領(公位)に対し、主君に地位を持っているのは 確立されているみたいに見えますが。
523 :
ヴュルテンベルクについて :05/01/22 20:14:41 0
>歴史的にシュヴァーベンといわれるのはスイスからバーデン、ヴュルテンベルクにかけての地域だな p://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/etc/deutschland/wurtenberg.htm によると、1268年シュヴァーベン公断絶後、近代まで続いたシュヴァーベン地方の有力国。とのこと。 シュワーベン公国は断絶して、分裂しちゃったんでしょうか。 その一部がヴュルテンベルク公国として残ったのですか。 シュワーベン公位自体は、廃止になってしまい、 あらたに、ヴュルテンベルク公位を作ったのは、 シュワーベン公位はあまりに名跡ゆえ、皇帝に脅威だったんでしょうか。
524 :
515以下を読んで :05/01/22 21:40:51 0
すると、 シュワーベン県は、 バーデン・ヴュルテンベルク州に入れたほうが、 文化習慣的には、座りがよさそう。 バイエルンに吸収されたのも、たかだか200年前に過ぎないし。 そのときのいきさつって、シュワーベン民衆の感覚でどうだったんでしょ。 火事場泥棒のような、悪印象ではなかったのかなぁ。すごく疑問だよ。 シュワーベン民衆では(無知蒙昧ゆえ)、不適当ならば、 シュワーベンの知識層、地主・貴族層でも、いいけど。
525 :
世界@名無史さん :05/01/22 21:51:56 0
>>508 >>511 >>513 の話に加わらせてもらいます。
まず、今の「ザクセンアンハルト州」っていうのは、
ザクセン地域とアンハルト地域の二つからなっているんですか。
それでもって、
その昔、3分割されたうちのザクセンの一部をなしているのは、
このザクセン地域ですか、それともアンハルト地域も、ですか。
その3分割されたザクセンというのは、
今のザクセンアンハルト州のザクセン地域?と、
他には、今のザクセン州くらいですか。
それとも、もっと広かったのですか。
526 :
世界@名無史さん :05/01/22 22:52:00 0
>>523 ×:あらたに、ヴュルテンベルク公位を作ったのは、 ○:あらたに、ヴュルテンベルク伯位を作ったのは、 作ったっていうのは、皇帝がそれを認めたってことですかね。 グラーフなんですかね。(ラントグラーフ方伯ではなくて)
そういえばシュヴァーベン公の称号をオーストリアの皇帝が持ってたような…。
シュヴァーベン公国が無くなったのはずっと昔のことだし、
(革命前は帝国都市や教会領やハプスブルク家領やホーエンツォレルン家領が入り乱れて、
ドイツでも有数のごちゃごちゃした地域だった。)
ドイツ諸邦の領土は飛び地だらけだから
>>524 の観点から文句を言うやつは居ないと思う
>>525 アンハルトってのはザクセンの北西にあった小さな公国。今のルクセンブルクよりやや小さい位。
3分割されたザクセンのうちのザクセンは、のちに2分割され、東側が後にザクセン選帝侯領、
西側がザクセン諸公国(コーブルクとかヴァイマールとか…)になってる。
ザクセン諸公国は今のチューリンゲン州かな。
ザクセン選帝侯はナポレオン期に王国に昇格するけど、普墺戦争で負けて南半分だけになっちゃった。
それが今のザクセン州とほぼ同じ。
プロイセンがとった分はブランデンブルク州とザクセン・アンハルト州に入ってるね。
ちなみに、ザクセン・アンハルト州は旧ザクセンの一部と、旧アンハルトと、旧ブランデンブルク領のマグデブルクやアルトマルクからなってるようだ
つーかブランデンブルクの西半分にアンハルトとザクセンの一部くっつけただけじゃねーか…?
529 :
世界@名無史さん :05/01/23 21:54:51 0
部族大公としてのザクセン公位? ザクセン公:ザクセン家( −961) オットー(初代)、ハインリヒ(東フランク王)、オットー(東フランク王、皇帝) ザクセン公:ビルンガー家(961−1106) ヘルマン(初代)、・・・・マグヌス(5代) ザクセン公:××家ズップリング伯ロタール(皇帝) ザクセン公:ヴェルフェン家(1137) ハインリヒ傲慢公(バイエルン公) ザクセン公:アスカン家(1138−1142) アルプレヒト熊公 ザクセン公:ヴェルフェン家(1142−1180) ハインリヒ獅子公(バイエルン公) 最初のザクセン家だが、 ドイツ王家(皇帝家)としてのザクセン家・ザクセン朝なら、よいが、 ザクセン公家としての、ザクセン家というのは、ピンと来ないけどね。
530 :
世界@名無史さん :05/01/23 21:58:39 0
アスカン家や、ヴェルフェン家も、また、ズップリング伯ロタールも ザクセン部族出身の豪族でしょうか。
>>522 ドイツはもともと5つの公爵領の集合体として出発しました。
ロレーヌ(ロートリンゲン)はそのひとつ(あと4つはバイエルンとザクセンとフランケンとシュヴァーベン)。
10世紀半ばに公爵位を巡って争いが起きたらしく、上下に分裂。
上ロートリンゲン公がのちのロレーヌ公。
マリア・テレジアの夫の時にトスカナと交換でフランス領。
下ロートリンゲン公は別名ブラバント公。
1430年からブルゴーニュ公、次いでハプスブルクと同君連合です。
起源をたどるとフランスとは関係ない、といいたいところですが、911-28年に西フランクに属したことがあるみたいで、
なんだかどっちつかずな印象を受けますね。
>>530 ヴェルフェンはバイエルン出身じゃなかったっけ。
532 :
世界@名無史さん :05/01/27 16:49:00 0
533 :
世界@名無史さん :05/01/30 23:14:09 0
>下ロートリンゲン公は別名ブラバント公。 下ロートリンゲンのあたりをブラバント地方と呼んだことからくる別名ですか。 東フランク王から頂いた正式名称は、 つまり、爵位の特許状に載っているのは、「下ロートリンゲン公」という解釈でよいですか。
534 :
世界@名無史さん :05/01/31 00:23:03 0
IFスレッドということで書くと、 その1:マキシミリアンの奥さんのマルガリータ(ブルゴーニユ公の姫)が急死しなかったら、 ブルゴーニユ公国が丸ごと、つまり、フランスに蚕食されずに、 ハプスブルク家に転がり込んだのに、惜しかったと思う。 その2:オーストリア系とスペイン系にハプスブルク家が分かれるとき、 ネーデルランドが、スペイン系に行かなければ、 多分、オランダもドイツから分かれることはなかったと思う。 第一、そもそも、ハプスブルクにスペイン王位が転がり込んでこなければ、 オーストリア系とスペイン系に別れることもなかった訳だから、そういう意味では、 二つの偶然?(ハプスブルク家のお家の事情)が重なったことで、 オランダが生まれたことになる。 言い方を変えると、つまり、低地ドイツ人が、オランダとドイツに分かれたことになる。
535 :
世界@名無史さん :05/01/31 00:34:36 0
もし、ハプスブルク帝国が崩壊しなかったら、ですが、第一次大戦の敗戦で、 ハプスブルク家が生き延びるのは大変そうな気がします。 バイエルンが、反プロシアの意識から、土壇場で、ドイツから離脱し、 協商側につけば、戦後は、オーストリアを併合して南ドイツの統一国家を作れたかもしれない。 ドイツ弱体化を狙い、プロシア憎しの、フランスにとっての利益にも適合するし、 ヨーロッパ事情に疎く、ひたすら民族自決に拘るウイルソン大統領に対しては、もともとのバイエルン部族という意味では、 バイエルン地方とオーストリアは、同族であるとして、誘導できそうな気もする。 チェコとスロバキアを一緒にしたくらいであるのだから、バイエルンとオーストリアは、 一体化が適当とも言える(ウイーンが地方都市に転落するけど、これは、オーストリア側に矜持のみが障害に過ぎないし)。 もっとも、当時のバイエルンは王が、無能とされ、それどころではなかったようだが、 万一、それなりに政府の混乱がなければ、イタリア王・政府のような芸当もできただろうに。
536 :
高地ドイツ人のこと。 :05/01/31 00:35:14 0
もし、ハプスブルク帝国が崩壊しなかったら、ですが、第一次大戦の敗戦で、 ハプスブルク家が生き延びるのは大変そうな気がします。 バイエルンが、反プロシアの意識から、土壇場で、ドイツから離脱し、 協商側につけば、戦後は、オーストリアを併合して南ドイツの統一国家を作れたかもしれない。 ドイツ弱体化を狙い、プロシア憎しの、フランスにとっての利益にも適合するし、 ヨーロッパ事情に疎く、ひたすら民族自決に拘るウイルソン大統領に対しては、もともとのバイエルン部族という意味では、 バイエルン地方とオーストリアは、同族であるとして、誘導できそうな気もする。 チェコとスロバキアを一緒にしたくらいであるのだから、バイエルンとオーストリアは、 一体化が適当とも言える(ウイーンが地方都市に転落するけど、これは、オーストリア側に矜持のみが障害に過ぎないし)。 もっとも、当時のバイエルンは王が、無能とされ、それどころではなかったようだが、 万一、それなりに政府の混乱がなければ、イタリア王・政府のような芸当もできただろうに。
537 :
世界@名無史さん :05/02/05 19:42:12 0
>>534 の「その2」ですが、
スペインのトラスタマ家が断絶しなければ、ネーデルランドは、オーストリアと
別々の君主に治められることはなかったのに、ですね。
フリードリヒ3世の後は、ハプスブルクは、分家を作らないで一体で継承する体制でしたから。
また、スペインを相続するとしても、弟のフェルディナンドが、スペインを継げば
やはり、オーストリアとネーデルランドは、一体としてカールが引き継いだでしょうに。
トラスタマ家の断絶は仕方がないとして、ハプスブルクがオーストリアとスペインに分かれるとき、
どうして、カールがスペイン王位を継いだんでしょうか。フェルディナンドこそ、
スペイン生まれで、スペイン王に相応しいと思うのですが。大変知りたいんですが。
>>537 だからこそです。
アラゴンで養育されたフェルディナントがスペイン王になると
ハプスブルク家ではなく、スペインの国益の為に動く恐れがあると
考えたマクシミリアンらが、アラゴン王を説得して引き離しました。
539 :
世界@名無史さん :05/02/05 23:57:01 0
帝国領の間を埋めればよかったんだよ。 バラバラであるための高コストが是正される
>>539 授封強制という制度がそれを許しませんでした。
もしもそれが無かったら、シュタウフェン朝の時点で
南ドイツの大半は皇帝領になっていたと思われます。
541 :
世界@名無史さん :05/02/06 00:31:47 0
>540 ハプスブルクには掟破りの親戚に授封という手があるのだから可能。
542 :
世界@名無史さん :05/02/06 19:00:56 0
授封強制という制度って?
543 :
世界@名無史さん :05/02/06 20:27:22 0
>>540-541 フリードリヒ1世がハインリヒ獅子公の封を没収しようとした際に
ハインリヒの帝国レーエン没収が皇帝の権力増大に結びつく事を懸念した
他の諸侯がこれに難色を示しました。
フリードリヒと諸侯の折衝の末、皇帝が何らかの理由によって封を没収した際は
短期間の内に他の臣下にこれを再授封するという制度が確立する事になりました。
これが『授封制度』と呼ばれるもので、この制度の成立はドイツの統一を著しく妨げました。
で、そもそも封の没収というものは、皇帝の独断で行いうるものではありませんでした。
常に問題となっている諸侯と同格の諸侯の賛同が必要でした。
よってハプスブルク家といえども、結婚政策によらない封の拡大はなかなか難しかったという
経緯があります。
ドイツ統一のチャンスはシュタウフェン朝で既に失われる決定打があったというのが
私の考えです。
(カール5世の勢威などを考えると異論もあると思いますが)
>>544 の
『授封制度』→『授封強制』に修正して下さい。
>>533 たぶん特許状では「下ロレーヌ」の方だと思いますが、私自身が見て確認したわけではないので何とも……。
>>543 ロレーヌ(ロートリンゲン)は部族名ではありません。
「ロタール王の」という意味で、これは中フランクの分割相続時にロタール2世に相続されたことによります。
つまりもともと中フランク王国領で、メルセン条約その他の結果ドイツに帰属した領域です。
住んでいるのは恐らくフランク人が多数ではないかと……フランクの故地ですし。
>>543 >>546 さんの説明に補足を。
ロートリンゲン(ロタリンギア)は特にロタール王国が消滅した際に
誕生した空白地の事を指す場合もあります。
ロタール王国の版図からイタリア王国と、ブルグント(ブルゴーニュ)地方
そしてアーヘンやケルンなどの若干の所領を除いたのが狭義な意味での
ロタリンギアだったかと思います。(細かい点はうろ覚えですが・・・)
中世初期はこのロタリンギア争奪戦が非常に熾烈で、独自の王権も成立したのですが
最終的には東西フランクに(主に東)分割吸収されたようですね。
部族的にはクローヴィス以前にはあのニーベルンゲンの歌に出てくる部族の
子孫が国家を形成していたかと思います。
>>547 ややこしい話ですが、
勇者トンヌラさんの言われてる「ロタール王国」はロタール1世の王国で、
私の言っている「ロタール王国」はロタール2世の王国です(笑
中フランク王ロタール1世(818-44)の死後、王国は分割され、
長男ルートヴィヒ2世(844-75)がイタリア王、次男ロタール2世(855-69)がロタリンギア王、
三男シャルル(855-63)がプロヴァンス王。
ここでロタール2世が相続した地域をロタリンギアというわけです。
で、ロタール2世の死を受けて、870年にメルセン条約が結ばれるという流れです。
>>548 これはお恥かしい。汗顔の至りです。
なので言い訳代わりに断絶後の同地方について少し。
ロタリンギア及びプロヴァンスはブルグント王国時代からの
勢いある貴族が多数いたのでドイツ王権による支配に頑強に抵抗しました。
890年には最有力者であったヴィエンヌ伯ルイ(盲目侯)がヴァランスで
戴冠しています。
>>547 で挙げた独自の王権はこれを指します。復興されたブルグント王国は
13世紀にはアルル王国と呼称されるようになります。
550 :
世界@名無史さん :05/02/09 14:14:02 0
>>542 受封強制はザクセンシュピーゲルで規定されている制度でドイツ国王に戻された帝国諸候領を1年と1日以内に誰かに受封しなけりゃならないって制度だよ。
しかし、これは机上の空論で受封強制は存在しなかったって説が有力だって話だったばずだがな。
ミッタイスとかブルンナーとか前世紀初め頃の研究者が実在を主張してゲッツとかの60年代の研究者が否定したとかなんとか。
違ったかな。
551 :
世界@名無史さん :05/02/19 20:11:27 0
>>534 下のマルガリータは、マリアの間違いかと。
>その1:マキシミリアンの奥さんのマルガリータ(ブルゴーニユ公の姫)が急死しなかったら、
> ブルゴーニユ公国が丸ごと、つまり、フランスに蚕食されずに、
> ハプスブルク家に転がり込んだのに、惜しかったと思う。
@ブルゴーニュ公国から、アルトワなどが奪われたのは、
二人の婚約の後で、フランス側がマリアとの結婚を果たせないことが
確実になった時点はないかな。
親父の突進公亡き後の、公国の動揺状態を狙った事件のはず。
Aマリアの事故死後の、フランスの介入では、マックスの対応が良く(戦闘指揮を含め)、
どこも奪われなかったんでは。
552 :
世界@名無史さん :05/02/26 20:50:15 0
下ロレーヌやブルグンド(アルル)が、 後のブルゴーニュ公国につながるのでしょうか。 どのように編入されていくのでしょうか。
553 :
世界@名無史さん :05/03/05 19:45:07 0
505 :カラジチ ◆mWYugocC.c :05/01/08 11:56:45
>>502 >ザクセン公領は、ヴェストファーレン、ブラウンシュヴァイク、ザクセンに分裂しました。
>ヴェストファーレン公位はケルン大司教が兼任。
>ブラウンシュヴァイク公位はヴェルフ家が保持、のちのハノーファー選帝侯。
>「ザクセン公」位はヴェルフ家からアスカニエル家に移りました。
ザクセン公のタイトルが、
ザクセン族の本拠であるニーだーザクセンあたりを継承した者ではなくて、
ザクセン族の新開地を引きついた地域の方で引き継がれたのは、
どうしてだと思います。
アスカニエル家が、この名前に拘ったのでしょうか。
554 :
ザクセンとは、 :05/03/05 20:45:37 0
ゲルマン元祖9部族の一つというゲルマン諸侯の中では最も古い名前 だそうです。
555 :
ザクセン :05/03/05 20:54:24 0
556 :
世界@名無史さん :05/03/05 21:12:45 0
ザクセン大公ハインリヒ獅子公―中世北ドイツの覇者 MINERVA西洋史ライブラリー カール ヨルダン (著), Karl Jordan (原著), 瀬原 義生 (翻訳) 価格: ¥5,250 (税込) ドイツ中世の代表的な貴族といえば、 皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサとザクセン大公ハインリヒ獅子公である。 2人は従兄弟で、仲が良く、南北ドイツでの支配拡張にあたっては、 ともに協力しあった仲であった。しかし、権力の絶頂期にさしかかると、 イタリア政策をめぐって対立し、ついには不倶載天の敵となる。 ハインリヒは皇帝と競い、戦いに敗れ、帝国追放の身となる。 ハインリヒの登場は、領邦国家体制へというドイツ中世国家の転換期を 意味し、彼はまた商業を育成し、都市建設を促進した。 ハンザ同盟の盟主リューベック、ハンブルク、そしてミュンヘン市の建設は 彼に負うている。本書は、そうした獅子公の時代と人間像を活写した、 王統派ドイツ中世史研究の傑作といえよう。 イメージを拡大 エディション: 単行本
557 :
世界@名無史さん :05/03/05 21:57:16 0
英vs露 がハプスブルグvsトルコ になったのかな
558 :
世界@名無史さん :05/03/05 23:10:58 0
同じ民族なのにどうしてドイツとオーストリアは別れたままなの? これからも合併はありえないの?
559 :
世界@名無史さん :05/03/05 23:27:27 0
>>558 すでにEUの枠内で合邦の効果を果たしているから、その必要はない。
560 :
世界@名無史さん :05/03/06 02:11:23 0
>>555 ザクセン=ラウエンブルクはニーダーザクセンの外れのほうの公国で、
ウィーン会議の結果デンマーク領となり、
シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争の結果プロイセン領となった。
>>558 同じ民族だからといって1つの国をつくらなきゃいけない理由は無いだろ
561 :
世界@名無史さん :05/03/06 02:29:20 0
>>560 >>555 こんなところで、ザクセン=ラウエンブルクのことを教えていただけるとは。
ちなみに、ザクセン=ヴィッテンベルクの方は、
オーバーザクセン、まさにその地と理解して大丈夫でしょうか。
また、ザクセン=ラウエンブルクのアスカン家(アスカニエル家?)は、いつごろまで
続いたかも、ご存知でしょうか。
>>561 非常にごちゃごちゃして分かりづらいのだが、
1689年までと思われる。
その後はブラウンシュヴァイク系諸邦(ヴェルフ家)を転々とした模様。
563 :
世界@名無史さん :05/03/07 03:22:18 0
ということは、1423年の時点では、 ラウエンブルク系のアスカン家は残っていたんですね。 >本家筋のザクセン=ヴィッテンベルクのアスカン家断絶の際、 継ぐのは、(素人的に考えると)、 分家ともいうべきザクセン=ラウエンブルクのアスカン家だと思うのですが、 何かあったんでしょうか。
564 :
世界@名無史さん :05/03/07 05:13:54 0
>>590 君さ・・・明日も明後日も、ずーっとこのまま
そんな書き込みばっか続けていくつもりだとおもうけどさ、
現実を見てごらんよ。まだまだ先が長い人生だろ?
その年で社会から落ちこぼれてさ、これからの生活は
どうするんだい?生活費は?老後は?家族は?
この先何年、何十年も毎日毎日こんな事ばっかり
やっていくのかい?今だけ今だけと思いながら
目をそらしても時間は間違いなく過ぎていってるんだよ?
もう取返しつかないところまで来ているね。
君・・・本当にどうするんだい(w?
565 :
世界@名無史さん :05/03/07 21:29:46 0
> > 564は590に言っているようですが、それは560の間違いですか? > >さて、他所からコピーしますけどね。 >Saxe-Coburg and Gotha公家は、ザクセン選帝侯の一族で、 >この一族は全員Duke/Duchess of Saxonyの爵位を帯びるようです。 >おっしゃる通り、ザクセン領の公爵位という意味だと私は理解しています。 >Saxe-Coburg and Gotha公家のメンバーは、 >Prince[ss] of Saxe-Coburg-Gotha, Duke/Duchess of Saxony (Highness)を帯びます。 tp://pages.prodigy.net/ptheroff/gotha/saxony.html >>ヴェッテン家については、上記のようなわけなんですね。しかし、 アスカン家の一族も 「Duke/Duchess of Saxonyの爵位を帯び」ないのかなぁと思いますね。
567 :
世界@名無史さん :
05/03/16 20:42:07 0 ビクトリア女王の夫君のアルバート公ですが、 彼は、Saxe-Coburg and Gotha公家の出身で、 @Prince[ss] of Saxe-Coburg-Gothaと呼ばれるわけですが、 同時に、ザクセン選帝侯の一族の一族なので、 ADuke/Duchess of Saxony (Highness)なわけです。 この場合の @Prince は、王子というか、王族出身というか、の意味であって、 Princepalityの首長の意味ではないのですが、 ではAは何かというと、ドイツでは、古くは?、子ども全員が、親の爵位を名乗る習慣があり、 それの流れなわけです。 古い「ザクセン領の公爵位」を名乗るのは、その分家全員にとって、既得権益なわけです。 その「既得権益」というものが、ヴェッテン家(ヴィッテナー家)にあるのなら、 アスカン家(アスカン家傍流のラウエンブルク系)にもあるはず、ということが言いたいわけですね。