世界史版の皆様
明けましておめでとうございます、本年もあやめを宜しくm(__)m
日本史・東洋史・西洋史と分野別に大学の史学科講座が置かれてこのかた、史学界には
次々と巨星が生まれました。
その中でも東洋史学の大宗師と仰がれるべき学者は?となれば、内藤湖南を推すことに
恐らく誰からも異論の出ないところでしょう。
東大系からは白鳥庫吉という声も揚がりそうですが、公平に見て關羽に対する張飛と
いった格で、いささか見劣りするのを免れないのではないでしょうか。
湖南についての正面からの評価や分析といったカキコなどは無理なあやめとしては、
この高峰を目指しての直登は諦め周辺のトレッキング、というより裾野のあたりでの
ピクニックという気楽な話題で楽しもうと思います。
皆様にも楽しく為になるレスを期待しております。
なお昔の伝聞情報については叔父のむじな老人から多くを得たものです。
今日でこそ湖南の名は読書子の間に普く知られていますが、昔は必ずしもそうでも
なかったようで「書家」とか「書画鑑定家」とか「支那問題について政治家や新聞
記者などが談話を伺いにゆく人」といった位置付けが一般的だったそうです。
昭和30年代くらいまでは柳田國男・津田左右吉・吉川幸次郎といった人に比べても、
湖南の認知度はかなり低かったようです。
内藤史学について専門家以外の文化人で事あるごとに顕彰していたのは、文芸評論や
時事評論でジャーナリスティックに活躍していた桑原武夫です。特に湖南を広汎に
宣伝する効果が絶大であったのは、彼が新たに刊行を開始した中公新書の第1巻の
「日本の名著」において、湖南の「日本文化史研究」を取り上げ歴史の時代の意味を
直観的に把握する眼力や、歴史を体系的に構想する視点を指摘したことでしょう。
もちろん彼は湖南の京大における同僚である桑原隲藏の子息であって、若いときから
湖南の偉大さを聞いて育ったという事情を割り引いても、彼の見識は優れていたと
言ってよいでしょう。
東大入試 1981年第一問
「だいたい今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の
歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っ
ておったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じく
らいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉
に直接触れた歴史であって、これを本当に知っていれば、それで日本歴
史は十分だと言っていいのであります。」これは、東洋学者として知ら
れた内藤湖南が、1921(大正10)年、「応仁の乱について」と題して行
なった講演の一節である。この部分だけを取り出してみると、あるいは
あまりにも極端な議論と思われるかもしれない。しかし、この発言の前
で、湖南はほぼ以下のころを述べて、その主旨を説明している。
(1) 歴史とは、ある一面からいえば、いつまでも下級人民の向上発展
してゆく過程であるといってよい。日本の歴史もまたそうであるが、
中でも応仁の乱は、そのもっとも大きな記録である。
(2) 元来、日本の社会は、地方に多数の有力な家があって、そのおの
おのを中心につくられた集団から成り立っていた。ところが今日、多数
の華族のうちで、公卿華族を除いた大名出身の家の大部分は、みな応仁
の乱以後に出て来た家である。応仁の乱以前にあった家の多数は、応仁
以後の長い争乱のため、ことごとく滅亡している。応仁の乱以後百年ば
かりの間は、日本全体の身代の入れかわりである。こういうことから考
えると、応仁の乱は日本をまったく新しくしてしまったのだ。
以上に要約した論旨を参考にしつつ、各人の自由な視点から、湖南の
見解を、400字(句読点も1字に数える)以内で論評し、答案用紙に記入
せよ
桑原武夫より前に専門家以外で湖南を推重して已まなかった意外な人に、
大正昭和を通じて瑰麗なゴシックロマンの詩人として、独自な地歩を保つ
日夏耿之介がいます。彼の評論「露伴と鷗外」などの中には頻繁に湖南の
名を挙げて称揚しています。
戦後まもなく湖南の「目睹書譚」が粗末な装丁で上梓されたとき、逸早く
その書評を新聞に寄稿したのも彼でした。
この事実はあまり知られていないことなので、是非このスレで紹介して
置いてくれと、むじな老からも強って要請されました。
5 :
考える名無しさん:03/01/01 12:52
上の問題の出題者知ってるんだけど。
湖南の文章を高校教科書などで採用している事例はあるのでしょうか?
上記の「応仁の乱について」などは程よいユーモアも漂い、語りのテンポも
緩急自在で、教科書に好適な一文ではないかと思っていますが。
7 :
サルゴン大王 ◆rCdB1iVsLc :03/01/01 13:16
内藤湖南は、京都帝大教授になる以前は記者でしたよね。
素人考えですが、教授となって以降も、良くも悪くも、
記者としての視点があったように思います。
>5
尾藤さん?それとも勝俣さんでしょうか。
>6
教科書で採用された例はないと思います。
>記者としての視点があったように思います。
そのとおりと思います。
現実的問題意識というか湖南の学問の特徴の重要な一つでしょう。
湖南の経歴について書かれたものは必ず「秋田県の出身」としています。
彼が生まれたのは秋田県鹿角郡毛馬内ですから誤りでは勿論ありません。
しかし本人には秋田県人という意識は恐らく無かったのではないでしょうか。
それは鹿角郡の特殊な地位に因るものかと考えられます。
鹿角は元来は陸奥國内の一郡であって、旧幕時代は南部藩の支藩のような地位に
在ったものでした。戊辰戦争の際は奥羽越列藩同盟の一員であった南部は、
官軍側の秋田の佐竹藩と交戦しましたが、その前線基地が鹿角であって秋田への
対抗意識が旺盛であったようです。
そのような鹿角が秋田県に併合された事情は詳知しませんが、当時はよくあった
幕府側に加担した藩に対する懲罰的措置かと想像されます。
湖南も当然のことながら南部へのシンパシーの方が強かったのでしょう。
親友も那珂通世とか原敬とか岩手県人が多かったようです。
青江舜二郎の「龍の星座」などは著者が秋田人のためか、湖南を秋田と結びつけ
語る部分が見られますが、正しい認識ではないと思います。
10 :
世界@名無史さん:03/01/02 20:20
>>9 でも、秋田師範学校卒業だしねぇ。そこいらへんは、どうなんだろう?
師範学校を卒業後は、秋田県北部の現在の鷹巣町綴子小学校に勤務して
います。この綴子というのは、戊辰戦争で南部藩によって焼き討ちにあ
った町で、その僅か二十数年後に攻め込んだ兵士(陪臣だから当然攻めて
来たんじゃ…)の息子が赴任してきても心から歓迎されたかどうか…。
4年後上京するのもその為かもと思っています。
11 :
世界@名無史さん:03/01/03 13:00
ちなみに、秋田県北部一の進学高校は「大館鳳鳴高校」なんですが、この学校
は内藤湖南がいた鹿角からも近く、多くの学生が進学していました。
ところが、明治の頃は戊辰戦争の記憶も生々しくのこっていて、焼き討ちにさ
れた大館市の学生は、鹿角地区出身の学生を差別する傾向があったようです。
攻め込んできた南部藩の将兵に、大館の商人は酒や魚・食料品を援助したのに
焼き討ちにあったのですから…。
湖南が秋田師範に進学したのは心情的帰属意識とは関係なく、将来の立身を考慮した
結果に過ぎないでしょう。当時の師範学校は官費支給制ですから他県の選択には相当
困難を伴ったものと思います。
出奔上京の事情については明日あたり書きます。
13 :
世界@名無史さん:03/01/03 22:54
>>あやめ先生。
大長編になりそうな予感。
>出奔上京の事情については明日あたり書きます。
楽しみにしております。
湖南内藤虎次郎かあ。私の印象では、丁度「史家」と「史論家」の中間を
行くというか、その両方を兼ね備えているというか、そんな感じがします。
サルゴン大王氏が(7)でいみじくも述べていられるように、「記者とし
ての視点」がほぼすべての著作に感じられますね。日本や中国の「いま」
と「これから」を常に意識しているところがある。犬養毅(元新聞記者)
とも親しかったと聞きます。「史論家」としての湖南を見るには三宅雪嶺
の存在は落とせないでしょうし、同時代の、たとえば山路愛山なんかとも
面識はあったのでしょうか。今後の論考に期待します。
あと学問的(アカデミック)な交流で言うと、京大諸教授(狩野、桑原、
原etc)や東京の那珂通世などとどういう関係があって、それが湖南の学風
の形成にどうかかわったかなんてこともぜひお聞きしたいですね。新資料
に目が利くというのはみなに共通するかもしれませんが、那珂のように蒙
古語文献に半生をかけたわけでなし、狩野、桑原のように一字一句をゆる
がせにしないで「ギシギシ」と書物を読んでいくタイプでもなかったよう
ですね。
あと彼の作になる漢詩漢文について本格的に言及した書物や研究書の類を
私寡聞にして知らないのですが、読んで見られたことはありますか。彼が
中国をどう捉えて自分のものにしたか、「史」を離れて考察するのにはい
い材料ではないかと夢想しますが、新知見があればご紹介お願いします。
先生の問題意識とは少しずれるかもしれませんが。乱筆乱文失礼しました。
14 :
世界@名無史さん:03/01/03 23:07
調べてみると湖南は綴子でかなり評価されたみたいですね。給料を上げる
から残って欲しいとか、縁談話すらあったみたい…。うーん。焼き討ちに
した人の子でも優秀なら…ってとこかな?
15 :
世界@名無史さん:03/01/04 00:01
ジャスミン演ってたのあやめだろ。
ところで歴変換プログラムはどうなったんだ?
公開報告汁。
あやめ先生はこそばゆいわ、止めてくださいね。
>「史家」と「史論家」の中間を行くというか、
>その両方を兼ね備えているというか
御指摘のとおり単なる樸学の士に甘んじられない資質の人で、更に言えば
「政論家」でもありました。この辺についてはジョシュア-A-フォーゲルの
「ポリティックスとシノロジー」(平凡社刊)という湖南の評伝に詳細に
触れられています。
湖南の学風の形成といったテーマはちょっと荷がおもいですぅ(汗)
山路愛山は在野の史論家であり政論家でもあったという点で、確かに共通点が
ありますね。ただ両者にリアルなコンタクトがあったかどうか不明です。
湖南の漢詩漢文について言及した論考があるかどうか、これも管見に入って
おりません。専著はないと思いますが雑誌などに発表されたものはあるかも
知れません。
全集には「湖南詩存」というものが収録されており、重要な作品はその中に
網羅されているようです。
秋田関連の湖南の詩作を一つ紹介しておきます。
千秋園
故城雲物控川原 興廢千年跡尚存
肅愼石砮歸糞土 新羅源氏最名門
墜釵繡汎花間井 斷礎苔侵雨後園
古廟聳望烟樹外 越王經略與誰論
「新羅源氏」というのは佐竹氏が新羅三郎義光の後裔とされていることを指し、
「越王」というのは春秋の越ではなく、秋田郊外の「古四王」の祠について
湖南は大彦命の子の古志王その人であるという見解を持っていることから、
古志王(コシノミコ)を越王に擬したものでしょう。
>湖南は綴子でかなり評価されたみたいですね
そうみたいですよ。師範を通常の半分の修学で首席卒業した秀才ということで、
赴任当初から初任者の給与9円ではなく10円を支給されたとのことで、
さらに御指摘のように他校に取られては困るということで3円増俸して
引き留めを図ったようです。
縁談もあったんですか? 耳寄り情報です。
湖南は綴子の人情風土が気に入ったらしく、また生徒たちとの交情も厚く、
野外授業などもよくやったようです。
ただ教員生活そのものは余り好んではいなかったらしく思われます。
「烘冬夫子」という雑文に教師が生徒の操行を評価する仕事について、
くだらない制度だというような感想を述べています。
>>15 ジャスミンてなんのこと?判らないわ。
茉莉花茶は大好きですけどね(笑)
>歴変換プログラムはどうなったんだ
それを言われると辛いですぅ~へ~
プログラム自体は昔の作品なので、いつでも発表OKなんだけど、
ここに書き込むとガタガタに桁が乱れてしまって情けない表示になっちゃうの。
前に系図を表示しようとしたら縦線が繋がんなかったことがあったけど、
ある人から「等幅フォントを使えばいいんだよ」と教えてもらったんだけど
フォントの指定なんかどこでやれるの?
AA職人さんなんかはどういうテクつかってるのかしら、オセーテm(__)m
20 :
世界@名無史さん:03/01/04 20:22
>>18 > ここに書き込むとガタガタに桁が乱れてしまって情けない表示になっちゃうの。
> 前に系図を表示しようとしたら縦線が繋がんなかったことがあったけど、
> ある人から「等幅フォントを使えばいいんだよ」と教えてもらったんだけど
> フォントの指定なんかどこでやれるの?
> AA職人さんなんかはどういうテクつかってるのかしら、オセーテm(__)m
えっと、教えたヒトは大嘘を言ってます。現在多数派のIE系のブラウザの標準
はプロポーショナルフォントです。
表示がずれないように確認するには、MS Pゴシック12ポイントを指定します。
もう一つ、半角のスペースの連続は1つの半角スペースに置き換わってしまい
ます。この2つを頭に入れて、より高度なテクニックについては、モナー板初心
者向け総合案内所の10以降あたりのレスを参考にしてはどうでしょうか。
あと、世界史なんでも質問コーナー5でも、あやめさんを待っているようですが。
> 154 名前: 122 投稿日: 03/01/03 21:27
−略−
>
>>124 > ところで、私の書き込みはアジモフその他をネタに記憶を頼りにアバウトに書いた
> んで、暦の歴史としてはいいかげんなのは確かです。
> ここはひとつ、あやめさんに薀蓄かたむけた書き込みをお願いしたいんですが、ま
> だでつか?
>>20 誤解のないようにフォローしておきますが、ワープロ文書などで、文字がずれない
ようにするには、等幅フォントを指定するのが正解です。
ただ、インターネット上ではブラウザを使用するので、ブラウザのフォントの標準設
定によって見た目が変ります。
こちらは、表示用の標準がプロポーショナルフォントと呼ばれる句読点や空白の幅
が異なる系統のフォント、多くはMS Pゴシックが設定されていることが多くなってい
ます。
また、困ったことに、入力用、テキスト用のフォントには等幅フォントが設定されてい
るので、入力画面上の表示と2chへの送信後の表示が異なってしまいます。
さらに、HTMLの仕様で、連続するASCIIコードのスペースは無視されるため、半角
のスペースを使って位置合わせをすると、これもずれまくります。
2chでの位置合わせの基本は、入力データを、MS Pゴシックあたりを設定したワー
プロかエディタで作成し、さらに、半角スペースを2つ以上連続して使わないように注
意することです。
あとは、専用エディタがあるので、これらを使って出来上がりを確認するのも良いと
思います。
「先生」がお気に召されませんでしたか。失礼しました。
これからは「あやめさん」と呼ばせていただきます。(これでもだめかなあ)
湖南の詩の紹介、お手間を取らせました。ありがとうございます。
若干の推測を交えて感想を述べると、
起承転結と進むにしたがって、気合が入っていってるって感じかなあ。
詩句として一番キマッテいる(文学的にね)のは
「墜釵繡汎花間井 斷礎苔侵雨後園」でしょうか。光景(シーン)が目に浮
かびますね。そこから「古廟聳望烟樹外」と続けて「越王經略與誰論」と風
物に自分の気持ちを投影させてしめたあたりがいいですね。余韻も残ります。
一番苦吟したのはおそらく承句だろうと思います。「肅愼石砮」に対するに
「新羅源氏」を以ってしている訳だが、この「新羅源氏」が詩語としてはチト
「こなれ」というか、収まりが良くない(それを言い出すと「肅愼石砮」も
そうだけど)ように感じられます。
貴註によれば、「新羅源氏」とは
>佐竹氏が新羅三郎義光の後裔とされていることを指し、
との事。日本に特異の事象を漢詩漢文中で表現しようとすると、そこだけ浮
いてしまうのは仕方がないかも知れません。漢詩漢文作家としては永遠のテ
ーマという気がします。
さて小生あすから浮世での仕事(ノルマつき)が待っているので今日はこの
辺で。乱筆乱文失礼しました。
追伸 詩中の字がうまく印字されていないかも知れませんが、ご勘弁の程を。
追伸其の2。
22文中の「句」は「聯」に訂正ください。
24 :
世界@名無史さん:03/01/05 23:28
あやめ。こんな糞スレ忘れて二人でどこか遠く旅にでようゼ。
25 :
世界@名無史さん:03/01/05 23:28
あやめ。こんな糞スレ忘れて二人でどこか遠く旅にでようゼ。
連発するとははなはだ格好悪い。
27 :
世界@名無史さん:03/01/05 23:34
あやめたんはぁはぁ
28 :
世界@名無史さん:03/01/05 23:54
秋田→京都のブンヤくずれのドサマワリ学者が話題の
クソスレはここですか?
29 :
世界@名無史さん:03/01/06 00:18
しかも最終学歴は秋田師範なんだよね。それが京大のセンセーになるん
だから、よほど抵抗はあったんじゃないのかな?それ以上に本人の能力
があったんだろうね。
しかも、彼によって「邪馬台国論争」は萌えにじゃなく…燃えに燃えた
から、論議好きな歴史板の住民の元祖みたいなものか…。
>>29 内藤湖南は、『卑弥呼考』以後、ほとんどこの手の論文は書いていないらしい。
九州説派の東大閥が騒いだだけというのが実体に近いかも。
31 :
世界@名無史さん:03/01/06 10:22
>>29 田舎の大学のセンセーなんてそんなモンで充分だろw
32 :
世界@名無史さん:03/01/06 19:54
33 :
世界@名無史さん:03/01/06 21:10
>>29 > よほど抵抗はあったんじゃないのかな?
その話は、司馬遼太郎が何かに書いていました。大変な騒動だったようです。
帝国大学の教授職は帝国大学卒業生でなければならないという事務局側を、
京都帝国大学初代文学部長の狩野亨吉が強引に押さえ込んで、招聘したと
いうことでしたね。
昨晩の報告。
俺二回、あやめ七回
さて、「朝まで寝かせないぞっ!」と言ったのはどちらでしょう。
内藤湖南は万朝報の記者もしていたのでしたね。
昨日、以前の書類を整理していたら、万朝報の社説をコピーしたのが結構
出て来たのですが、沈冥子というペンネームで社説を書いてるのって
ひょっとして内藤湖南ですかね?
ちなみに「東洋の危機に就て」と、「再び東洋の危機に就て」という題の
社説です。文章の感じが内藤湖南ぽかったので、なんとなくそうなのかな
と思った次第です。
まあ、この社説の内容自体には首肯しかねる部分も多いですが。
おサル演ってたのあやめだろ。
>>36 そりは違うと思うぞ。
おサルは「支那」表記にいちいち噛み付いたりして、カナーリ教条的な
ところがあった。
>>33 幸田露伴が京大に招かれた時にもかなりの抵抗があったそうですね。
この時も狩野亨吉が一人で頑張って招聘したそうです。
サルは見事な完全無欠ネット単細胞だから
演技できようはずがない。
(^^)
41 :
世界@名無史さん:03/01/12 17:35
おい、何とかしろよこのスレ
あやめ得意の衒学こけ脅しだからほっとけ。
変換プログラム公開するまで偉そうに社会人ツラし
て出てくるな、この立て逃げ女。
あやめさん、お変わりございませんか。ご無沙汰しております。
山犬さん。貴殿も湖南にはとてもおくわしいようで、色々お教えください。出来れ
ば「東洋の危機に就て」と、「再び東洋の危機に就て」、そんなに長くなければ、
全文、せめて大意だけでもご紹介下さるを得ば幸いです。(小生には一次資料を一
々参照するだけのヒマも機会もない。申し訳ありません)
で、湖南からは少し話がそれますが、幸田露伴は京大に招かれるも、程なくして又
東京に帰ってしまったでしょう。露伴に関する書物をいくら読んでも、その経緯が
分明ではない。鴨川では利根川のように釣りが出来ないとか、後から取ってつけた
ような事が色々言われてますが、常識的に考えると、同僚との「人間関係」がうま
くいってなかったのではないか(特に狩野さんかな)というのが一番の原因ではな
いかと小生は自分の経験則も踏まえて推測しますが、いかがお考えですか。御見解
があれば是非お聞かせください。それにしても青木正児博士のように露伴を認め、
或いは師とし、これを尊敬していた人がその当時の京大にもっとたくさんいれば、
京大文学部の学風も今とは違ったものになっていたかもしれません。
横レスならすみません、乱文乱筆失礼しました。
湖南・ザ・グレートage
45 :
世界@名無史さん:03/01/18 12:49
真実はいつも一つ!
新年早々ちょっとした事故に遭ってしまい、ネットどころじゃありませんでした(泣)
皆様もお気を付けあそばせ、っても気を付けきれない場合もあったりしますけど。
私事は休題として「湖南の出奔」について書く予定になってましたわね。
昔から奥羽の陰鬱な人間風土と苛烈な自然環境は、遥か南の空を爪立ちして望む
若者の背を推して、家郷を棄てさせるような因子を孕んでいたようです。親戚や
知人の東北出身者は口を揃えて「早く京浜方面で生活したかった」と言ってます。
現に同居させてもらってる叔父の奥さん=叔母さんは会津の人だけど、叔父との
見合の吊り書に「三十歳 家出」と堂々と謳った剛の者です。ある時家出の事情に
ついて「家庭とか職場に居にくい問題があったの」と尋ねてみたところ「そんな
事情は全く無かったんだけど、こんな田舎に居たんじゃダメになっちゃうみたいな
脅迫観念が原因かしらね」と言ってました。
鬱勃たる青雲の志はどこの若者にも共通のものでしょうが、閉鎖的な僻陬の地に
暮らし自己の材能に矜る湖南は、殊のほか窮屈な思いを募らせていたようです。
そんな彼の脳裏には父祖以来のDNAも蠢いていたようなのです。
実は湖南の実父である内藤十灣(調一)にも少壮時の出奔履歴があったのです。
十灣が晩年に著した「鹿角志」の湖南の跋文に十灣の半生を叙した中で「家君……
年甫(は)じめて十八、先王父の樂善府君(祖父の天爵)を捐(す)つ、二十二、江都
(江戸)に遊ぶ、先王母(祖母の辰子)老ひたるを以って未だ周歳ならずして歸る」と
述べています。格別の問題ない情況のような書きぶりですが実は家出だったのです。
そのことは十灣が編した内藤氏の家譜にも「二十三歳の夏、遂に脱走して江戸に入る」と
明記されています。主君の許可を受けず自侭に他郷に赴くのは藩譴を免れない行状で、
十灣の場合は鹿角の領主である櫻庭氏の家宰の地位に在る岳父の泉澤修齋に善後を
嘱しての決行だったようです。
三年前に娶った修齋の長女容子(イレコと読むらしい)と生後間もない長男の文藏を
郷里に残したまま旅立った十灣は、江戸に着くと伊勢亀山の藩主の石川主殿頭の
屋敷に修齋の叔父の泉澤履齋(牧太)を訪ねました。履齋も二十七歳の折に外叔父の
伊藤爲憲を頼って江戸に出奔し、朝川善庵の学僕となって研鑚して大成した人物で、
爲憲もまた壮年で毛馬内から江戸に出奔し苦学した履歴を経ています。このような
いきさつから履齋は十灣の江戸遊学の宿志を理解し、当然のこととして援助を快諾
してくれるものと十灣は期待していたようです。 (続きは明日)
春節好、昌裙仙姑!好久没見、未年大吉、羊羊羊泰
中國板の武侠小説も依然存在してますし、
あやめさんもお変り無く何よりでございます。
何某は西の空の彼方より皆様の健勝を願って止みませぬ。
閑話休題、内藤湖南と申せば・・・
何某の記憶に誤りが無ければ、支那は戦国時代、、、
ちょうの武霊王を支那の学者に先駈けて評価した学者だとか。
何でも武霊王の出した「胡服令」は、馬に戦車を引かせていた当時にあって、
騎馬戦術を可能にさせた優れた発想の賜物だった、とか何とか。
上も下も知らない高校生だった当時、
学問の上では当地の人を越ぇる業績を揚げることだって可能なのだ、
と想ったものでした。遠ぃ目
凄い勘違いでしたら「本当に何足道ですね」と笑って許して下さい。
わー何足道さん、おひさー、なつかしーなー、お元気でなによりです
このところ武侠小説のスレにお邪魔してませんが近日中に寄りますね
本年も宜しくですぅm(__)m 皆さんにも御鳳声ください
武霊王について湖南は「支那上古史」で「秦の前に天下を統一し得べき資格のあった」
英傑として評価してます。間者として秦の様子を探りに入ったりしてて、どこか
ピョートル大帝を思わせるとこがあります。武侠小説向きな君主ですね。
湖南は武霊王とか後周の世宗みたいな人が好きだったようです。
泉澤履齋は折衷派の儒者として一家を成していた朝川善庵の弟子ですが、彼が天下に
名を知られるようになったのは幕命によって漂流の清国人と応接したことからです。
文化十三年に邱有斌という清人が水戸浦に漂着したので、幕府は善庵に事情の聴取と
処置の執行を命じました。多くの儒者中から特に善庵が指名された理由は、その前年
韮山代官の江川太郎左衛門の委嘱を受けた善庵が、下田に漂着した清国海舶の取調に
当たった実績が評価されたものでしょう。しかし水戸浦の件では善庵は自ら赴臨せず、
弟子の履齋を推挙して任務に当らせました。恐らく善庵は下田での経験から履齋なら
十分に善処し得る事案と判断したもののようです。幕命を承けた履齋は有斌を海路で
水戸から長崎に護送し、清国の定時郵船の寄港を待って便乗させ使命を全うしました。
履齋は有斌とこの間に筆談のみならず詩文の応酬も交わし、それらをも含めて幕府に
報告復命しましたが、このことが世上に喧伝され亀山・盛岡の両藩から招聘を受ける
栄誉を蒙りました。
このように鹿角出身者中の出頭である履齋を成功せる郷先輩として、内藤十灣は一途に
景仰していたに相違ありません。そして年来の衷情と熱誠を面に表わし切々と愁たえた
ことでしょう。ところが頼みの履齋の応対はは予期に反して懇望を拒絶し、心得違いを
諭し帰郷を勧めるものでした。十灣の失望は大きかったようです。
泉澤履齋は実兄の子で十灣の師でもあり舅でもある泉澤修齋に宛てた書簡に「内藤幾太郎
登り候趣きにて尋ね來たり……學問修行致し度き旨申し述べ候に付き、心得違ひの旨再應
諭示仕り候間、罷り歸り候事に相成り、路金一兩相渡し明日發足の處へ御状相達し、愈々
以て早速出立を進め、今日當地を出立し罷り歸り候間、委曲は當人より次第御聞き合わせ
下さる可く候……右様の者尋ね來たり申さず候様、御取計らひ下され度く偏へに願ひ奉り
候、御書中の趣き委細承知致し、氣の毒千萬止むを得ざる處より出來の事乍ら、俗に曰ふ
論語讀みの論語知らず、小生杯(など)も同様の事愧じ入り申し候」と書いています。
幾太郎は十灣の旧幕時代の假名(けみゃう)です。本人を追って届いた修齋の手紙の内容は
履齋の書き振りから察するに、宜しく頼入りますといったものだったかと思われますが、
履齋としては迷惑なので今後こんなことのないよう願いたいと皮肉たっぷりです。小生も
同様のことと言っているのは当人も嘗っては出奔した前歴を後ろめたく感じてのことから
書き添えずにいられなかったものでしょうか。
しかし十灣は履齋の手紙にあるように即日帰郷はしなかったようで、旧知の医師を四谷に
訪ねていますが冷遇されて留まれなかったようです。前述の「鹿角志」跋には「未だ周歳
ならずして歸る」と表現されているのから推すると、数ヶ月間は江戸に滞在していたもの
かとも想われます。
52 :
世界@名無史さん:03/02/02 21:05
言訳口実、責任逃れで身内を何人も殺す
タイプと見た(藁。
夜のトイレで背後に何か感じない?
53 :
世界@名無史さん:03/02/08 00:13
内藤湖南といえば、武田氏の武将・内藤昌豊の子孫を称していたようですね。
湖南自身は余り信じていなかったようですが、父の十湾は信じ込んでいた
ようです。
54 :
世界@名無史さん:03/02/08 01:35
>>46 > 昔から奥羽の陰鬱な人間風土と苛烈な自然環境は、遥か南の空を爪立ちして望む
>若者の背を推して、家郷を棄てさせるような因子を孕んでいたようです。親戚や
>知人の東北出身者は口を揃えて「早く京浜方面で生活したかった」と言ってます
酷い言われようw 湖南が住んでいた地域に居る者も見ているのですから…。
55 :
世界@名無史さん:03/02/08 14:36
内藤湖南研究会/編著『内藤湖南の世界』(河合文化教育研究所)
増淵達夫『日本の近代史学史における中国と日本』 (《リキエスタ》の会 )
これ以外の書では、内藤湖南の伝記関係で読んだほうがいいのはありますか?
あやめさん
長らくの御無沙汰、
申し訳ありませぬ。
「支那上古史」ですか・・・
当地では入手し難い故、
機会があれば帰国後、
読んでみようと想います。
ところで、あやめさんが湖南の父親の足跡を辿られているということは。
新体髪膚、受于父母、無敢毀傷、孝之始也
立身行道、揚名於世、以顕父母、孝之終也
と、
内藤湖南は孝行を終えられている様ですね。
57 :
世界@名無史さん:03/02/21 18:34
初めまして。実家のそばに内藤湖南が綴子小学校で教師をしていた時に
下宿していた跡地があります。いまは、そこは民家が立っていますけど。
内藤湖南という人がどんな人なのかわからなかったのですが、偶然ここで
すごい人だったんだということを知りました。
58 :
世界@名無しさん:03/02/23 17:00
>55 『龍の星座ー内藤湖南のアジア的生涯』(朝日新聞社)
古本屋で大枚はたいて『内藤湖南全集』買いました。
そ
うです。
ジ
ャスミン演っていた
のは、こ
のあ
やめです。
匿名板とは言え、これからは、素直に勤め、発言、行動、に責任をもっていく次第です。改
行
にも気を
付け
ま
す。
私も全集を購入したいのですが、古本屋で
5万5千円。これってお買い得?
61 :
世界@名無しさん :03/02/24 13:27
>>60 かなりのお買い得では。
神田の古本屋やその他の古書目録などで見かける限りでは、
通常80000円前後が相場価格のようですから。
62 :
世界@名無しさん:03/02/24 20:17
>60
私もお買い得だと思う(ちなみに自分も5万5千円で買いました)。
最近、値崩れしてるのだろうか?
吉川幸次郎全集や宮崎市定全集も10万を切ったのを見て、買うか買うまいか
迷ってます。
>61,62
ありがとうございます。
このところ再び超多忙になってしまいネット疎遠の日々になっていました。
やっと脱出できそうなので今度こそ最低でも週1回はレスするよう心がけます。
>54
気を悪くさせて御免なさい、湖南の血統や周辺で出奔を志向させる因子が多かった
という点を強調するためのレトリックとして理解してください。
奥羽から江戸に出てくるのは実際には士分の者が多かったようで、目下開催されている
「大江戸八百八町展」でも、四谷塩町一丁目に文久元年に在住していた他国者は、殆どが
関東甲信越地域からの流入で奥羽方面は皆無である点が図示されています。
>59
ことわるまでもないでしょうが、これはあやめのコキコじゃありません。
それにしてもジャスミンて何のこと?
65 :
世界@名無史さん:03/02/25 19:16
幼少の頃、秋田に住んでおり、何かの折に秋田出身の名士としての湖南の名を耳にした。稚き私は、「未来少年コナンは秋田出身だったのか!」と思ってしまった。
月日は流れ、大学では何かの手違いで東洋史を専攻してしまったが、内藤湖南と未来少年コナンは切り離せないでいる・・・
(実は宮崎駿は、宮崎市定の血縁ではないかと密かに疑っている)
上から4番目のbook-kandaの値段の\k書落としましたが20万円です。
それにしても20万から5万まで随分ばらついてますね。
UPした時期もまちまちなんだろうと思いますけど。
くれぐれも注文するつもりの方は在庫の有無や保存状態など直接お店に
詳しく照会してみてくださいね。
(^^)
最低でも週1回とか言っといて丸1月サボっちゃいました。反省m(..)m
「内藤湖南全集」は筑摩書房から昭和44年4月〜51年7月に刊行されています。
しかし湖南の全集は本来であれば弘文堂から出されるべき筋合いのものでした。
弘文堂は湖南の生前に「日本文化史研究」(大正13年9月)「研幾小録」(昭和3年
4月)「讀史叢録」(4年8月)「増補日本文化史研究」(5年11月)を上梓しています。
また湖南の還暦を慶賀して支那学と東洋史それぞれ関係の学友と門人が編纂した
「内藤博士還暦記念支那學論叢」「内藤博士頌壽記念史學論叢」はいずれも弘文堂が
扱ったものでした。
もっとも湖南は弘文堂の対応について必ずしも満足していたわけでもなさそうで、
大正11年8月12日付の原田氏宛て書簡中に、弘文堂が見積書を寄越さず一寸
逃れの口実を構えているとの不満を述べています。「見積書」が何に関するものか
不明ですが或いは翌年に出された「日本文化史研究」の出版に係るものかとも想像
されます。また昭和5年には「東洋文化史研究」の出版準備が一定段階まで進捗を
見ていたのに、どのような事情からか弘文堂が湖南の心証を害するような挙動に
出て頓挫を来たしてしまったこともあったようです。
71 :
世界@名無史さん:03/03/26 19:57
内藤湖南の「新支那論」は興味深いな。
戦前における文科系学術出版の雄は東京で岩波書店そして京都が弘文堂書房で、
それぞれ東西の帝国大学の学会を背景にして競い立っていました。
特に京都は東京への対抗意識が濃厚で謂わゆる京都学派というものが各学部に
成立しています。最も知られているのが西田幾太郎・田邊元に率いられた一群の
哲学者たち、瀧川幸辰・佐々木惣一郎などの法学者といったところでしょうか。
但し京都の諸先生が主として弘文堂から著書を出しているかというと必ずしも
然らずで、西田は岩波との結びつきが強いようです。逆に専ら岩波から主著を
出してる印象が強い河上肇の「貧乏物語」の初版が弘文堂から出ていたりします。
そうした中で京大支那学と弘文堂との親密さは目立っています。
弘文堂は京大東洋学の関連書籍を戦前戦後に亘り一手に手がけてきており、殊に
若手研究者を中心とする論文発表機関紙であった「支那學」の版元でした。これら
少壮支那学者による「支那學入門叢書」という企画ものも弘文堂から出されており、
狩野直喜・桑原隲藏などの諸大家を始めとする専門書も数多く発行しています。
そうした縁故から湖南の全集は没後間もなく弘文堂において提案された模様です。
しかし結局のところ「弘文堂の湖南全集」は遂に実現を見ませんでした。
73 :
世界@名無史さん:03/03/27 18:14
あやめさん。内藤湖南が支那との関係において、学者としての良心を疑われたと
いう話(毎日新聞2001年5月13日東京朝刊に載った内藤湖南評による)は
どういうことだったのか語って下さい。湖南は日本人としての、独立自尊の視野に
立ったため、支那人差別だとか蔑視だとかいわれのない批判を受けたのでしょうか。
その批判の多くは支那人に阿り、湖南を不当に貶めようとするものだったのでは?
74 :
世界@名無史さん:03/03/27 19:21
「新史那論」で日本による中国侵略を肯定した。
短いから全集読んでみろ。
75 :
世界@名無史さん:03/03/27 19:52
内藤湖南はすごい。国民的ジャーナリストであり、学者だ。偉大な先人だ。
支那人の味方みたいな学者ばかりでウンザリしてたんだ。
うち毎日新聞は取ってないので判りません。どんなこと書いてあったのか
教えてください。
「新支那論」は以前から湖南の先見性の限界として、特に左翼史家から厳しく
批判されて来ました。
例えば増淵龍夫著「歴史家の同時代的考察について」(岩波書店刊)などでは
「日本の中国侵略とともに高まってくる中国の民衆の民族主義的抵抗のもつ
歴史的必然性を軽視することとなる」とか、J.A.フォーゲル著「内藤湖南
-ポリティックスとシノロジー」(平凡社刊)では「湖南は1910−20年代に
おける中国情勢の推移を深く検討すればするほど、結論として提示する
有効な改革案を次々と変更せざるを得なかった。改革案に現れた変化には
中国の現状に対する彼の戸惑いや絶望感が投影されていたのである」とかが
代表的な所見と言えましょう。
しかし彼は少なくとも自身の見識に基づく考察と提言を続けたものであって、
時流やイデオロギーに阿ることで学問上の良心を曲げたことは無かったと
見てよいでしょう。
77 :
世界@名無史さん:03/03/28 10:56
「竜の星座」読みたいな
弘文堂が企画した湖南の全集が実現を見なかった事情はいろいろ考えられます。
戦前には個人全集といえば小説家それも文豪と言われるような、評価の定まった
一定の部数の確実に見込める場合に限られていました。また弘文堂もそれまでに
巻数の多い出版は叢書や講座といった形式のシリーズ物だけで、文学者を含めて
個人全集を手がけた経験がありませんでした。昭和初年だったかにマルクス全集
出版の計画があったそうですが、単独では困難ということで岩波とか改造社とか
数社の共同出版プロジェクトが組まれ、弘文堂も参加したのですが早々に脱退し
プロジェクトも空中分解してしまったという話です。社会主義関連の書籍という
問題もあったのでしょうが、膨大な巻数の企画ということで経験の乏しい商売は
避けた方が無難という思惑も働いたのでしょう。
しかし全集編纂においての困難な条件として湖南の著述に特有の事情も存在し、
相当な時間が要ることが予想されたのが企画が頓挫した最大の要因でしょう。
それは生前に一定の分量のある著述が成書していなかったため、湖南自身でも
大学での講義を整理する方法で纏める方針でいたので、聴講していた学生から
借りたノートをベースにして講義を再現するという、極めて手間の要る作業が
必要だったからです。
79 :
島田新六 ◆89LYwifxfU :03/04/05 09:32
>「竜の星座」
一般人に忘れられていた、内藤湖南の事跡を改めて世に示した本ですね。
アッシャー家の崩壊を真似たエピローグが意味不明であること以外は、とても良い本かと。
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
82 :
世界@名無史さん:03/04/29 21:19
保守あげ
唐揚げイッテヨシ
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
うわー、2ヶ月以上もさぼってしまってた、慚愧に堪えないですゥ(A^^;;
これからはスレの維持に励まなくては……。
湖南の著述の公刊についてのドキュメントを続けます。
彼は明治三十二年に初めて清國に遊んだ折に天津で王修植に面晤しています。
王は光緒帝の信任を得て変法維新の中心人物として活躍中の名士です。王は
湖南に「聞くならく先生は萬朝報館の主筆たりと、平日の著作は必ず富まん、
悉く印行有らざるや否、能く示されんや否」と質され、「平生報紙に従事して、
著して成書少なし」と答えています。
実のところ彼は既に明治三十年の内に「近世文學史論」を一月に、「諸葛武侯」と
「涙珠唾珠」を六月に世に問うています。少ないと言えば少ないけれども内容は
人に示すに愧ずかしいものではありません。殊に「近世文學史論」などは非常な
好評を以って迎えられたものです。しかし北洋大學堂總辦である王に呈上する
自著としては、やはり漢文でものした学術か時務に関する文集を携えたかった
ことでしょう。湖南の郷先輩である那珂通世の明治二十年代に漢文で撰述した
「支那通史」が、清國で翻刻され彼の土の人士から高い評価を受けている情況を
知っていたからです。
訂正
誤 王は湖南に「聞くならく……」と質され
正 湖南は王に「聞くならく……」と質され
88 :
世界@名無史さん:03/06/11 23:15
あやめ復活おめ
89 :
世界@名無史さん:03/06/23 05:19
age
90 :
((≡ ̄♀ ̄≡)):03/06/23 06:18
91 :
世界@名無史さん:03/07/04 01:04
age
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
94 :
世界@名無史さん:03/07/27 15:25
age
95 :
世界@名無史さん:03/07/27 15:41
湖南 ザ・バーベリアン
名探偵 湖南
湖南 怒入る?
96 :
世界@名無史さん:03/08/18 07:45
age
97 :
世界@名無史さん:03/08/18 22:20
名探偵湖南が日本史の謎を探る…なんて誰か小説かマンガ書いてくれない
かなぁ?
湖南・ザ・バーバリアンも。
腕力で歴史のナゾを探る。
99 :
世界@名無史さん:03/09/11 21:33
ニセ骨董箱書きの大家を語るスレはここですか?
ついでに100ゲト
101 :
世界@名無史さん:03/09/11 21:45
アニメ界の巨星が描いた不朽の名作
未来少年湖南
102 :
世界@名無史さん:03/09/14 15:16
>> 101
シャーロック・ホームズの作者
サー・アーサー・湖南・ドイル
104 :
世界@名無史さん:03/09/15 12:01
宮崎市定御大の師匠だよね
age
106 :
世界@名無史さん:03/10/13 13:14
一般人にも読みやすい著作って何?
東洋文庫に入ってる清朝衰亡論?
ものすごくさぼってしまいました、慙愧に耐えません。何とか暇みて続けるようにしますm(__)m
一般人に読みやすいということになるとやっぱり「日本文化史研究」でしょうね。
これは一般市民を相手にした講演の速記が多く、テンポもよくユーモアもあり面白いこと請合い。
「現代日本を知るための歴史知識は應仁の乱以降で十分」と喝破した「應仁の乱について」が
入ってます。また「支那文化は日本文化という豆腐にとってのニガリである」という比喩で有名な
「日本文化とは何ぞや」、今上天皇も言及された桓武天皇の母方が百済王家の血筋であることを
指摘した「近畿地方における神社」などが収められています。この本はいろんな文庫のに入ってて
入手が容易です。
「日本文化史研究」と対になるものとしては「東洋文化史研究」があります。
こちらも講演速記など一般向けの内容ですが、「概括的唐宋時代観」のように
内藤史学のエッセンスを示した高度の成果が盛られています。「近代支那の
文化生活」は支那近代社会における精神世界の特色を説いたもので、「概括的
時代観」と併せ読むと面白いかも。学問芸術の漂わす一種のエロティシズムが
士大夫を誘惑することを述べたところなど、彼らと心性の波長がシンクロする
内藤博士ならではというところかしら。
「先哲の学問」も講演速記が主体です。
富永仲基や山片蟠桃など江戸時代の学者の学風の特長を顕彰したものですが、
附録として信西入道の一族―特に悉曇学の開祖の解脱上人について述べた
一篇も、博士の関心の一端を示した者としてあやめ的には興味を覚えました。
岩波の文庫の白い表紙のシリーズに『「なんたら」精読』とか言うのがあった様ななかったような。
あ、あれは内藤湖南じゃなくて、えーと。誰だっけ・・・
111 :
世界@名無史さん:03/10/23 14:06
この人の説によると
対中戦争は侵略行為じゃなくなるわけだよな?
112 :
世界@名無史さん:03/10/29 19:07
>>110 松本健一著
『竹内好「日本のアジア主義」精読』
ダロ
侵略行為までしてよいとは言ってない筈です。ただ東亜における勢力中心は
歴史的に移動してるので、その中心が日本であってもエエジャナイカと言ってる
だけです。
114 :
世界@名無史さん:
確かに「侵略行為」なんて言葉は近代以降の概念だけど・・・
あまりにクールすぎる