■慰安婦番組での仕掛け■
ちなみに、この番組では、元慰安婦のインタビュー場面が出てくるが、
ここでも悪質な仕掛けがあった。元慰安婦が語る場面で、日本語の字幕で
「戦争が終わると日本人は誰もいなくなっていたんです。私たちは無一文で
置き去りにされたんです」と出ているのだが、実際には、インドネシア語で
「あの朝鮮人は誰だったろう。全員がいなくなってしまったんです。
私たちは無一文で置き去りにされたんです」
と話していたのであった。慰安所の経営者は朝鮮人であり、
戦争が終わると、慰安婦たちを見捨てて、姿をくらましたのである。
■あなた方日本人の手で何とかしてください■
この番組の予告が、日本共産党の機関紙「赤旗」に出ていたことから、インドネシア政府は、
慰安婦問題の動きが、共産党により、両国の友好関係を破壊する目的で行われていると判断したようだ。
スエノ社会大臣が、すぐにマスコミ関係者を集め、次の見解を明らかにした。
1) インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない。
2) しかし日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお金を払いたいというので、いただくが、
元慰安婦個人には渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。
3) 日本との補償問題は、1958年の協定により、完結している。
インドネシア政府の毅然たる姿勢で、高木弁護士らのたくらみは頓挫した。
この声明の後で取材した中嶋氏は、数名のインドネシア閣僚から次のように言われたという。
「今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我々は日本人を取り締まることはできない。
インドネシアの恥部ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、
両国の友好関係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。あなた方日本人の手で何とかしてください。
■国連での攻防■
しかし国際社会では、事実の伝わりにくさを利用して、慰安婦問題をスキャンダルに仕立てようとする
アプローチが今も展開されている。その最初は宮沢首相の訪韓直後の平成4年2月17日、
日本弁護士連合会の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会で、慰安婦を人道上の罪と位置づけ、
国連の介入を求める発言をした事である。
平成8年3月にジュネーブで開かれた国連の人権委員会に提出されたクマラスワミ女史の報告書は、
家庭内暴力を主テーマにしているのに、その付属文書に「戦時の軍用性奴隷制問題に関する報告書」
と題して、半世紀以上前の日本の慰安婦問題を取り上げている。
戸塚弁護士は、この時にもジュネーブで本岡昭次参議院議員(社会党→民主党)とともに、
デモやロビー活動を行っている。
(つづき)
報告書は、やはり吉田清治の本や、慰安婦たちの証言を取り上げている。
その中で、北朝鮮在住の元慰安婦の証言として、
「仲間の一人が一日40人もサービスするのはきついと苦情を言うと、ヤマモト
中隊長は拷問したのち首を切り落とし「肉を茹でて、食べさせろ」と命じた。
などという話が紹介されている。この元慰安婦は、1920年に生まれ、
13歳の時に一人の日本兵に拉致されたという拉致されたというのだが、
1933年の朝鮮は平時であり、遊郭はあったが、軍専用の慰安所はなかった。
その程度の事実確認もされていない証言が4例紹介され、その上で日本政府に対し、
被害者への補償、犯罪者の追及と処罰を勧告している。
日本のジュネーブ外務省はこの文書に関する40頁の反論を作成し、根回し工作を
したもようだ。西側諸国代表の間では、クマラスワミ報告書の欠陥が理解されたが、
韓国、北朝鮮、中国、フィリピンなどの関係国は立場上、強く反発した。
このような攻防の結果、人権委員会では家庭内暴力に関する本文は「賞賛する」
という最高の評価を得た一方、慰安婦に関する部分は、take note(留意する)
という最低の評価であった。 [1,p259]
国際派日本人養成講座より
「従軍慰安婦」問題(上)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html 同(下)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog107.html
【人材コンサルタント業経営 在日コリアンの辛淑玉氏のお話】
Most of those who appear to be right-wingers,
she says, are just frustrated people feeling the same sense of isolation that minorities such as herself feel.
Many, in fact, are Koreans, she said.
「右翼と思われる人たちの大部分はフラストレーションを抱え、マイノリティ(彼女自身もそうだが)が感じているのと
同じ孤独感を感じている。実際、その多くがコリアンだ」と彼女は言った。
http://www.asahi.com/english/weekend/K2001120900069.html <<インタビュアーが外国人なので思わず喋ってしまったのでしょう(笑)。
「日本における暴力団犯罪の原因、特性とその刑事政策的検討」〜加藤久雄 慶応義塾大学法学部の講演から
【日本における組織犯罪としての暴力団とは何か?】
(2) Boryoku-dan 犯罪の原因としての少数民族問題
戦後起こった政治家と暴力団の癒着から起こったと思われる重大犯罪、例えばリクルート事件から
最近のオウム真理教団員による大量殺人事件の背景にはつねに「暴力団」と「少数民族」問題があった。
ここで何故「暴力団」と「少数民族」「部落問題」「韓国・朝鮮人問題」かと言えば、例えば、
アメリカ人のジャーナリスト、カプランとデュブロによれば、日本の最大「広域暴力団」山口組の構成員25000人のうち
約70%の者がいわゆる「部落」出身者であり、約10%の者が韓国人等の外国人であったとしているからである。
かっての「山一戦争」も一和会が韓国系の暴力団であったところに大きな問題があったといえよう。
http://www.kclc.or.jp/humboldt/katoj.htm <<学術論文の対象にもなっているようです。
1 五代目山口組(神戸市灘区篠原本町4-3-1)渡邉芳則 約17,900人
2 稲川会 (東京都港区六本木7-8-4)稲川角二 約5,100人
3 住吉会 (東京都港区赤坂6-4-21)西口茂男 約6,300人
4 四代目工藤曾(北九州市小倉北区神岳1-1-12)野村悟 約530人
5 三代目旭琉会(那覇市首里石嶺町4-301-6)翁長良宏 約270人
6 沖縄旭琉会 (那覇市辻2-6-19)富永清 約410人
7 五代目会津小鉄会(京都市下京区東高瀬川筋上ノ口上ル岩滝町176-1)圖越利次 約930人
8 四代目共政会(広島市南区仁保新町2-6-5)沖本勲 約280人
9 六代目合田一家(山口県下関市竹崎町3-14-12)温井完治 約160人
10 四代目小桜一鹿(鹿児島市甲突町9-1)平岡喜榮 約120人
11 三代目浅野組(岡山県笠岡市笠岡615-11)串田芳明 約130人
12 道仁会(福岡県久留米市通東町6-9)松尾誠次郎 約740人
13 親和会(高松市塩上町2-14-4)細谷國彦 約70人
14 双愛会(千葉県市原市辰巳台西5-9-9)申明雨 約400人
15 三代目侠道会(広島県尾道市新高山3-1170-221)渡邊望 約190人
16 太州会(福岡県田川市大字弓削田1314-1)日高博 約140人
17 七代目酒梅組(大阪市中央区東心斎橋2-6-23)金在鶴 約210人
18 極東桜井總家連合会(静岡県沼津市原字東沖1767-1)芹澤保行 約330人
19 極東会(東京都豊島区西池袋1-29-5)゙圭化 約1,500人
20 東組(大阪市西成区山王1-11-8)岸田清 約170人
21 松葉会(東京都台東区西浅草2-9-8)李春星 約1,500人
22 國粹会(東京都台東区千束4-3-1)工藤和義 約520人
23 中野会(大阪市天王寺区生玉町12-4)中野太郎 約170人
24 二代目福博会(福岡市博多区千代5-18-15)和田万亀男 約340人
http://www1m.mesh.ne.jp/BOUTSUI/bou1/3.htm
182 :
在日と右翼・暴力団4:03/01/28 16:21
【右翼の90%は、在日と部落出身者】(イギリスBBC)
十年くらい前、イギリスのBBCが日本の右翼を取材した。もちろん本国向けの放送だが、
それをNHK衛星が放送した。 そのときのBBCの女性リポーターのコメントより
「右翼の主張は天皇制復活、日本民族の国粋主観等だが、実際の構成員が国粋主義者とは
相容れない筈の韓国、朝鮮人、また天皇制と言う身分階級の下では最下層に位置され
最も身分制度の被害者であったはずの被差別出身者で90%を占めている。
はっきり言ってこの取材で、彼らの真の目的を知ることは出来なかった」
真の目的=日本の愛国者、天皇信奉者、改憲派の印象を悪くするため。
在日と部落は、愛国者の印象を悪くするために、わざと大音量で怒鳴ったり叫んだりして
市民を威圧している。彼らの収入源は主に恐喝。企業や政治家の弱みを握り、
それを街宣車に叫ばれたくなければ金をよこせ、機関紙を買えというもの。
右翼のビラと街宣活動を注意して見てみるとおかしなことに気付く。
彼らはアメリカ、中国、マスコミの悪口は言うが、韓国、北朝鮮の悪口はまったく言わないのだ。
韓国、北朝鮮の犬である野中や河野の悪口も絶対に言わない。教科書干渉のときも、
靖国参詣干渉のときも、拉致事件についても、竹島侵略についても無言。絶対に非難しない。
何故ならそうした右翼団体の構成員のほとんどが在日や帰化韓国人だからだ。
オウムの村井を刺した右翼も徐裕行という在日韓国人だった。
江沢民が来日した時のビラ 「無礼!江沢民!」
竹島侵略した金泳三が来日した時のビラ 「歓迎!金泳三大統領!」
http://g_gondawara.tripod.co.jp/jiken/jiken001015.html
183 :
壱岐の重文経典盗難事件が時効:03/01/28 17:08
一九九四年に壱岐芦辺町の安国寺から国の重要文化財「高麗版大般若経」が盗まれた事件は、
二十三日午前零時で七年の時効が成立した。酷似した経典三巻が九五年に韓国で国宝に指定されたことが判明。
外務省が韓国側に調査協力を要請したが、同一物か確認できないまま終結となった。
盗難が発覚したのは九四年七月二十三日。十一世紀初頭に高麗で彫られた版木から刷った初彫本と、写本の
計四百九十三巻が宝財殿からなくなっていた。南京錠を切断して侵入し、経典だけを持ち去ったとみられ、
被害額は数億円。県警は全国の古物商から情報を募るなどしたが犯人像はつかめないまま。
「最後に見てから盗難に気付くまで二カ月が過ぎており、広範囲な捜査を余儀なくされた」(県警幹部)。
一方、文化庁は韓国が九五年に国宝に指定した経典三巻と、安国寺の初彫本の写真を照合。
染みや汚れ、巻末の署名などが酷似していることが判明し、外務省は九八年二月、韓国側に調査協力を要請した。
しかし韓国側からは同年七月までに「要請にこたえることは難しい」と回答。
外務省北東アジア課は「相手の好意に期待するしかなく、限界がある」としている。
朝鮮半島から渡来した文化財については、過去に日本が多数を持ち出した経緯から、
韓国側には複雑な国民感情があるとされる。県も「時効と言っても今は(教科書問題などで)難しい時期。
こちらから働き掛けることは難しい」と苦しい立場を強調する。
大浦宏道住職は「経過を全く知らせてもらえず、ちゃんと調べたのか疑いたくなる。時効は身を切られる思い」と話している。
http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kako/200107/23.html
184 :
朝鮮人とうまく(トラブルなく)つきあう方法:03/01/28 17:34
近所に在日が住んでる、家が在日居住区にある、朝鮮人が近くに引っ越してきた等、
やむをえない事情でチョンと近所づきあいしなくてはならなくなってしまった不幸な
方々のために、朝鮮人と何のトラブルもなく付合える三か条をお教えします。
1、朝鮮人とカネの話はするな。
・・・・朝鮮人はカネにがめつく、手に入れるためなら殺人も厭わない凶悪な人種。
おまけに、他人の家の金銭事情を知りたがるストーカーな一面も。
チョンにお金の話題を振られたら「ウチはお金に余裕ないから・・」と言いましょう。
チョンは貧乏人には興味ないのであっさり引いてくれます。
2.朝鮮人と仕事の話はするな。
・・・・「あなたの仕事はなんですか?」こう聞かれてもまともに答えないように。
チョンは才能ある人間を妬みます。 (収入につながるからね)
特に通訳、翻訳の仕事をしてる人は要注意! 拉致の対象になってしまいます。
なにか適当な話題(今だったら訪朝のことかな)を振りましょう。
3.朝鮮人を決して家に上げるな
・・・・朝鮮人を家に上げるということは「どうぞ、強盗の下調べをしてください」
と言ってるようなもの。 一度上げたら最期、嘗め尽くすように部屋を見て
タンスの場所(通帳や印鑑が入ってること多いから)、部屋の構造(逃走
経路の確認)、その他カネがありそうなとこ全て調べていきます。 絶対に
敷居をまたがせちゃダメ! どうしても上げざるを得なくなってしまっても
決してチョンを一人にしないこと! トイレも帰るまで我慢しましょう。
(いない間にタンスあさられるより、マシでしょう?) そしてチョンが帰
ったら、その日のうちに通帳や重要な書類は全て他の場所に隠しましょう!
以上三点、守っていればチョンはあなたを「仕事」の対象外(=貧乏人)とみて普通の付き合い
ができることでしょう。 まあできれば、一切のかかわりを持たず、村八分にしちゃうのが一番
なんですけどね・
私が中学生のころ、初めてテレビで
泣いて賠償を求める韓国のオモニたちの姿が流れた。
日教組の左翼教育を普通に受けた女子中学生であった私は
学校から慰安所へ連れ去られたとかいう報道に心を痛め、
中学生がいきなり拉致られて、何人もの兵士相手に連日
便所にさせられるなんて(((( ;゚Д゚))))ガクガクブルブル
日本は賠償しなくちゃ!とむちゃくちゃ同情した。
そのとき、同時にテレビを見ていたばーちゃんが、一言。
「こんなやつらに好きにさせていたら、
今 に 日 本 の 国 は 食 い 潰 さ れ ち ゃ う よ 。」
そのときは、同じ女なのになんでそんな非情なことを言うんだ!と
激しくばーちゃんを軽蔑したものだけど、今ならわかる。
ばーちゃん、あんたはものすごく正しいことを言った。
きっと経験からいろいろわかってたんだね。あの時、わからなくてごめんね。
そんなばーちゃんはいま81歳です。どうか長生きしてくだちぃ。
186 :
世界@名無史さん:03/01/28 17:52
http://www.technoblood.com/schoollink/ 今話題の低額電話サービス「BBフォン」、高速インターネット接続
サービス「YAHOO!BB」を当サイトよりお申込みいただくことによって、
各朝鮮学校へ補助金が支払われる事になりました。
BBフォン利用で家庭の電話代の節約、YAHOO!BBで快適な
インターネット環境の提供と共に朝鮮学校へのチャリティー事業
にも繋がります。
http://www.technoblood.com/company_top.html 〔概要〕
社名 株式会社テクノブラッド
住所 (本社)東京都渋谷区初台 1-53-6初台光山ビル7F
(投資事業部)東京都新宿区西新宿3-20-2 東京オペラシティータワー37F
(投資事業部 韓国ソウル事務所)ソウル市 江南区 三成洞 159 貿易センタービル 701号
設立 平成11年2月5日
資本金 30,000,000円
役員 代表取締役 柳 日榮
取締役 孫 泰蔵 ←孫正義の弟
取締役 パク インチョル
取締役 滝沢 哲夫
ちょっといい話し。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
あちこちから悲鳴が聞こえる泣き叫ぶ子供。瓦礫と化した家に押しつぶされる日本人。
「助けて…」という声が絶え間なく聞こえている。しかし被災した神戸の住民は、放心
したように黙って座り込んでいるだけだ。あまりのショックに下敷きになっている人を
助けることさえ忘れているのだ。
「今助けるけん。まっとんしゃい!」
こう叫んだのは共に住民として神戸に住む在日韓国人達だった。自分も血を流し怪我を
しているにも関わらず救助活動を続けた。
「ぜったい助けるけん。がんばっとー!」こうして懸命な救助活動の末助け出された人
達は1万人以上にものぼる。助けられた中学生の女の子は「在日韓国人の人がいなかっ
たら間違いなく死んでいた」と涙を流した。村山首相を始め救助活動の遅れが多くの助
けられる人たちの命を奪った。「助けるのは当たり前けん! 私ら同じ住民やもん!」
オモニ達は目に涙を浮かべていた。
189 :
世界@名無史さん:03/01/28 18:07
また捏造だ。
>>188 こらこら、「共に住民として神戸に住む在日韓国人達」やろが!!(w
なんで神戸で広島弁やねん!!(w
191 :
188の現実:03/01/28 18:13
192 :
韓国民に告ぐ20:03/01/28 18:37
韓国の本を読んだり、韓国人とじかに会って話してみると、よく「地震によって日本列島が消
え失せてしまうだろう」と口にする。そこまで日本のことが憎くてこの地球上から消滅すること
を望む気持ちも理解できないではないが、私が思うには、日本が消え去る前にまず消えてし
まうのは韓国だ。つまり地震という天災のためというよりも、人災のせいである。日本のように
地震の多発する島国であったとしたら、それはもう言わずもがなである。
金 文学/金 明学 [韓国民に告ぐ!] 第六章197頁より抜粋
193 :
188は反日小説の一節:03/01/28 18:46
名前: 「むくげの花が咲きました」の中の一説です。 投稿日: 2000/09/15(金) 16:54
あちこちから悲鳴が聞こえる。泣き叫ぶ子供。瓦礫と化した家に押しつぶされる日本人。
「助けて…」という声が絶え間なく聞こえている。
しかし被災した神戸の住民は、放心したように黙って座り込んでいるだけだ。
あまりのショックに下敷きになっている人を助けることさえ忘れているのだ。
「今助けるけん。まっとんしゃい!」
こう叫んだのは共に住民として神戸に住む在日韓国人達だった。
自分も血を流し怪我をしているにも関わらず救助活動を続けた。
「ぜったい助けるけん。がんばっとー!」こうして懸命な救助活動の末助け出された人達は1万人以上にものぼる。
助けられた中学生の女の子は「在日韓国人の人がいなかったら間違いなく死んでいた」と涙を流した。
村山首相を始め救助活動の遅れが多くの助けられる人たちの命を奪った。
「助けるのは当たり前けん! 私ら同じ住民やもん!」オモニ達は目に涙を浮かべていた。
194 :
世界@名無史さん:03/01/28 19:03
251 名前:名無しさんダーバード :2001/04/12(木) 02:59
震災の時の韓国の報道には頭に来た。
1月17日当日夜9時からの「MBCニュースデスク」のキャスターが
特派員を呼ぶ時、「修羅場でしょ?」って半ば喜んでるように
ふったのを見てテレビほりなげたろか!って思った。
もちろんそういうマスコミの姿勢に対して韓国国内でも批判が出たけど...
後日「オンヌリ教会」というプロテスタント系の教会に行った時、
そこの青年部の小冊子に「日本はクリスチャンのほとんどおらん
サタンの国やから地震が起こったんじゃ!」って書いてあるの見て
教会のロビーでまじできれてどなりまくった...
飛鳥の昔、寺院や御所の建築なんかは多分朝鮮の人々が
日本に伝えたのだろう。
瓦の焼き方とかの先進技術を日本人に教えたのも多分彼らだろう。
でも自信を持って断言できるが、当の日本人たちは、この
先進文化を伝えてくれた朝鮮の人々(百済とか新羅とか)に
対して「俺たちより進んだことやってるのが気にいらねぇ」と
激しく憎んでいたと思うぞ。
客観的には日本の文化の発展に大いに寄与しているのに、
そのことに対して絶対感謝せず、逆に朝鮮の人々を殺してやりたいほど
激しく妬んでいた。
当時のことをこの目で見たわけじゃないけど、今の韓国人への態度を
観てると、1300年前の日本人の姿が手をとるように分かる。
196 :
世界@名無史さん:03/01/29 09:31
とにかく虚人が不正を働かずに強かった時期などない。
日 本 の 国 語 は 、 す べ て 韓 国 語 に す べ き。
理由 歴史的には韓国語をしゃべっていた
日本語は臭い
日本の文化のルーツはすべて韓国
198 :
世界@名無史さん:03/01/29 14:35
北鮮による日本人拉致が自明になって以来
在日はまるで被害者のように振舞い
マスコミは在日擁護キャンペーンをしているが
果たして彼らを非難してはいけないのだろうか?
横田めぐみさんの両親が孤独な戦いを強いられている時に
在日は夜でも集団で自宅におしかけ、ドアを蹴り上げ投石で窓を割り
怒声連呼で脅迫する。無言、脅迫電話も日常的である。
脅迫を恐れ公共施設に利用を断られたりしながら
細々続けている集会にも木刀で武装して徒党を組んで襲撃する。
街宣右翼の構成員に在日が多いという話はよく聞く話だが
なるほどと思った。
しかも警察は事件化できないしマスコミも報道できない。
在日は政治家の首根っこを押さえ込んでいるそうだ。
その上で在日は首脳会談まで
「拉致は捏造。貴様らは差別主義者。早く我々の強制連行
労働に対し謝罪と賠償せよ!」と、事あるごとに絶叫していた。
謝罪と賠償するのは自分たちじゃないか!
しかし彼らは違った。
「拉致は悲しい出来事。しかし元々は日本人が朝鮮を
植民地化し我々を拉致して現在まで国交正常化していないのが悪い。
早く国交正常化して謝罪と賠償して欲しい。」
そして最後に
「子供に危害を加えないでください。」
自分たちを正当化して自作自演のチマチョゴリ切り裂きをしてまで
日本人に嘘の贖罪感をさらに植え付けようとする在日に
恐怖感だけでなく嫌悪感も持つのは自然な感情と思う。
もう一度問う。
在日を非難してはいけないのだろうか?
199 :
鮮人劇場(自作自演)3【チマチョゴリ事件その後:03/01/29 14:38
200 :
197は白丁:03/01/29 14:44
>>197 そういうオマエはチョン語を話せるのか?
どうせ、故郷に帰っても「パンチョッパリ」って言われて、
差別されるんだろうが。甘えるんじゃねぇ。
http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/gunji/mame_chishiki/manpouzan.htm 1933年(昭和8)5月、長春の西方約30キロの万宝山付近に約200人の朝鮮人が入植し、
水田耕作に必要な灌漑設備(用水路)建設工事を地主に無断で始めたことから、
付近に住む中国人農民との間に対立が生まれた。
そしてその対立は、双方とも実力を行使するようになるまでエスカレートし、
急遽駆けつけた日本人警官隊が中国人農民に機関銃弾を浴びせるような事態になった。
当時の朝鮮人は日本国民であり、その背後には日本があったので、中国人の反日感情が端なくも爆発したものと言える。
さらに大変なことに、この事件を契機に朝鮮に住む中国人に対し朝鮮人が各地で報復行動をとったのだ。
騒ぎは7月3日仁川(じんせん)からはじまり、瞬く間に京城(現ソウル)・元山・新義州にひろがっていき、
5日夜平壌(ピョンヤン)に及んだときクライマックスに達した。
彼らは入れ替わり立ち替わりに略奪・放火・破壊とあらゆる暴動を働き、多数の中国人が殺傷された。
秀吉の朝鮮出兵には何ぺージも費やす韓国の教科書が、自ら日本を侵略した行為についてはわずか数行の記述で済ませている。
しかも、なんと高麗は元に「強要」されて、仕方なく日本に「遠征」したのだそうである。これも大嘘である。
『高麗史』によれぱ、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖にしきりに働きかけ、執拗に東征を勧めたことによる。
(下條正男『日韓・歴史克服への道』)
しかも高麗軍は日本で何をしたか。最初に侵略を受けた壱岐・対馬の二島では、住民は男はことごとく殺され、
女は手に穴をあけられて数珠(じゅず)つなぎの捕虜にされた。二百人の童男童女は高麗軍に連れ去られ、忠烈王に献上された。
今も泣く子を黙らせるため、母親が子に「モッコ(蒙古の訛り)来るぞ」とあやす言い方が全国各地に残っているが、
元寇から七百年を経過した今なお、日本人の蒙古・高麗に対する潜在的な恐怖心は消えていないのである。
当時の日本人の恐怖は、想像するだに余りある。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/rekisi1.htm
「韓国も昔は今と違って中国式の姓名ではなかったようで、これは中国の記録や日本の記録を見るとわかります」
「どんな名ですか」
「日本に来た技術者はといえば、画部因斬羅我(えかきべいすらが)とか医博士奈率王有稜陀(くすしなりつおうゆうりょうだ)とかいった名前でしたな。
また有名な医師に、允恭天皇三年(414年)に、天皇の病を癒すために新羅から招聘された金波鎮漢記武(こんぱちんかんきむ)がいます。」
「フーム。すると韓国も中国式の朴さんや金さんじゃなかったんですか」
(「日本人とは何か」山本七平著)
中国大陸を制覇したあのラストエンペラーで有名な「清」の初代皇帝はヌルハチといい
遊牧民族で、もともと姓もなかったし名前を漢字で書く習慣もなかったが、
中国の皇帝になってからは「愛新覚羅」という中国風?の姓を名乗るようになった。
といっても一字姓にしなかったところに、民族的なこだわりが感じられる。
ところがこれに比べ韓国人の中国化は徹底している。
(略)文法も語順も違うのに、中国と韓国は、姓は「中国式」の一字姓なのである。
合理的に考えれば答えは一つしかない。
古代のある時期に、韓国人は伝統の姓をすべて捨て「中国式」に改めたということだろう。
ところが、このことは韓国の歴史書に記録されていない。
そこで私は韓国の知識人や学者に会うたびに、それはいつあったことなのか質問する。
ところが、まともに答えてもらったことはない。
それどころか「そんなことは有り得ない」と怒り出した学者すらいる。
(井沢元彦著「逆説の日本史1」小学館)
<<「日本人とは何か」山本七平著はPHP研究所刊より
明の前朝である元の時代、モンゴル人が高麗朝を支配していたころ、
高麗人は競ってモンゴル人の氏名を名乗る「創氏改名」が流行り、モンゴル風を学ぶ動きが風靡した。
高麗朝の多くの貴族はモンゴル名を持っていた。
しかし、モンゴル人が明によって万里の長城の外まで追われると、
朝鮮朝の太祖である李成桂は高麗朝から政権を奪い、モンゴル人を叩いて事大の対象を元から明へと鞍替えした。
明が遼東半鳥に進出していたころ、朝鮮人は明の先頭を切って満州人を征伐したため満州人から恨まれた。
そのため、満州人の朝鮮人に対する大規模な逆襲である「丁卯胡乱」(1627年)と「丙子胡乱」(1636年)が起こり、朝鮮は清の属国となった。
明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。
父として明を敬っていたはずなのに、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。
3回にわたる明征伐では、朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。
満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。
しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。
清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。
「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝(シナの異称)、朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」
(恒屋盛服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年)。
明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。
しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。
日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。
万宝山事件(
>>201)は、朝鮮人と中国人の水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。
満州では、朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた。
(「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国 黄文雄著 徳間書店より)
韓国は創氏改名を問題とするが、進んで改名した人々も多かったのではないか。
満州事変の頃は、満州に移住していた朝鮮人が百万ほどいたというが、彼らはチャッカリ日本人名に改姓した。
それまで朝鮮人は中国人からバカにされていたが、改姓して日本人になったので、こんどは威張れるようになった。
そういう傾向は日本内地から朝鮮内部にも起こった。
そこで朝鮮総督府は、昭和十五年二月になって、勝手に日本名を名乗っていた人々にも、
日本式氏名を名乗る方法を講じてやろうという計らいから「六ヶ月以内に届け出た者に限って認める」とした。
その結果、届け出た者は七九パーセントに達した。
「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著(日本図書館協会選定図書)
朝鮮半島出身者で陸軍中将まで累進した洪思翊将軍に創氏改名の形跡はない。
敗戦前数年の旧陸軍士官学校の半島出身卒業生の名簿には、なるほど日本名を
併記したものもあるが、半数近くは朝鮮名のままなのである。
【産経新聞 主張(社説) 1996年6月25日】
洪 思翊(こう,しよく)
1946(昭和21)年9月26日没
朝鮮出身
日本陸軍軍人 中将 歩兵
1914(大正3)年 陸軍士官学校(26期)卒
1923(大正12)年11月 陸軍大学校(35期)卒
1939(昭和14)年9月28日 支那派遣軍御用掛
1940(昭和15)年8月1日 留守第一師団付
1941(昭和16)年3月1日 少将 第108旅団長
1942(昭和17)年4月17日 公主嶺校付
1944(昭和19)年3月2日 比島俘虜収容所長
10月26日 中将
12月30日 第14方面軍兵站監
戦後、連合軍から収容所長時代の責任を問われる
1946(昭和21)年9月26日 マニラで死去(法務死)
211 :
朝鮮史における創氏改名考8:03/01/29 17:24
現在の韓国人の姓名は、すでに祖先の姓氏を捨てて漢姓を使っているが「日帝時代」の創氏改名は
原則的は自己申告制だった。台湾で日本時代に行われた「許可制」による改名運動に比べたら、
むしろ韓国人にとっては「特権」であって、非常にゆるやかなやり方だ。
ましてや「日帝」は万民平等の原則に基づいた新戸籍制度を創設して、
戸籍さえ許されなかった人口の半数近くを占める奴婢に姓氏を与えた。
さらに、「皇民化」=近代国民運動によって日本語やハングル文字を普及させただけでなく、
李朝時代以来、両班から蔑まれていたハングル文字の教育を学校で採用し、
漢字・ ハングル混じりの文章を体系化させ、伝統文化の研究と再興を推進したというのが、紛れもない史実だ。
「生命を奪われた」というのも、実に史実に反している。近代化の産業発達によって
優生学的な社会改革が行われたことで、有史以来の飢餓と疫病を克服することができ、
植物依存の生態系までも変えることができた。そのため、米の生産量が一千万石から二千万石以上に倍増し、
韓国の人口も倍増した。このことを、生命を奪ったとは言わないだろう。
日本は優生学的にも人口学的にも、韓人の生命の質を飛躍的に向上させたのだ。
客観的に見れば、「日帝三十六年」の「七奪」は実質的には「七恩」と言うべきだろう。
/韓人に少なくとも自国史について「正しい歴史認識」を日本は求めなければならない。
「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国 黄文雄
212 :
世界@名無史さん:03/01/29 18:58
>3回にわたる明征伐では、朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。
満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。
しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。
清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。
「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝(シナの異称)、朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」
(恒屋盛服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年)。
この根拠になってる文献あるの?「朝鮮開化史」には参考文献が載ってねえから、ここから先に進めねんだよ。
【惨憺たる北鮮引揚げ】
日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。
南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。
もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、
満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。
反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。
「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。
それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、
また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、
ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、
その責任はまぬかれない。たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された
咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。
…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて
咸興市内に殺到したるも…われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する
民族的虐待という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。…
駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。
その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、…
富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。
襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、
それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、
蒼白な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、
ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、
暗黒の中にむせびつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、
日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。
こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。
やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、
歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、
人々は南にたどりついたのである。38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、
20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
■「三十八度線」木下宗一■
満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。やがて、38度線は朝鮮を南北にまっ二つに分断した。
北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。(中略)北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。
列をなした乞食の群れである。ぞうりを履いている者はほとんどいない。女も子供も皆ハダシである。
山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、
汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。
若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。中には一椀のカユをふるまわれ優しい言葉で迎えられると、
悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、「畜生、ロスケのやつ」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。
負けた者の宿命に、悲しいあきらめを残して、これらハダシ部隊の大部分はぞうりを恵まれてたって行く。
1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら――
乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。1日ひとり1合の米が心細くなって、
1日2食のカユになった。子供たちは腹をすかして母親を困らせた。ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、
肉入りの味噌汁が大なべで作られていた。そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやってきた。
遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。
そんな時に、このやろう!とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、
打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。この日も悪い奴がやって来た!と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、
「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。あまりの雑言にきっと目をすえると、「これでも食え!」と言いざま、
足もとの土砂をすくって パッと味噌汁の鍋にたたきこんで逃げていった。久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、
この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変わった。
今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。
カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。
これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、
その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。
避難の人々は、最後の1枚を没収されないためにチエを絞り出した。
明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。
その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。
一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。
「今度は一切の所持金を提出しなければならない。もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが後で分った場合は銃殺される。
では、本日ただちに提出するように」有無を言わせない強制処置である。今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。
その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。
しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。
その朝も、恐怖のマトである命令が来た。
1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。
「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。
「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。
この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と
冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。この雨中の別れが、長い長い別れとなった。
この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、遠くシベリア送りとなったのである。
「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑
(日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。
筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行することになった。)
私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。
料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
(中略)
夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、
トラックは始動をしはじめた。あのエンジンの音の嬉しさと恐ろしさとは忘れることができない。
途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。
の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した…
市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、
荷物を載せて身軽で歩いた。牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられて
また金を巻き上げられる… いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、
病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。
山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこのころには、醵出(きょしゅつ)する金は無くなっていたが、
物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、
「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、
疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の
開城府のテント村であった。この脱出コースは、関所があり、検査所があり、牛車やチゲによって金銭や持ち物を
日本人から取上げてしまおうという、最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。
このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。(常松泰秀)
「生きて祖国へ5 死の三十八度線」 引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会発行
222 :
世界@名無史さん:03/01/30 19:18
>>214 米軍の支配下では
韓国人もおとなしかったな。
日本人への報復のような軽挙妄動を慎むよう、
建国の準備委員会が撒いたビラを
見たことがある。
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ