>>173 これなんかドンピシャですが。
伊藤昌太「ビスマルクのロンバード禁止と独露通商対立」、『福大史学』第12号、1971年5月
>>174 おお、まさにその人!
学生時代はお世話になりました。
176 :
世界@名無史さん:03/12/01 23:16
僕はビスマルクの国内政策に興味があるんですが
進歩党、社会民主党、カトリック中央党への対応と
その背景を知りたいのですが詳しい方教えてもらいたいです。
>>175 つーか、129以下の記述は伊藤先生の論文に全面依拠です(笑)。
舞姫にもビスマルクの名が出てくるのには驚いた。
鴎外はビスマルクを尊敬していたんだろうか?
179 :
世界@名無史さん:03/12/07 02:56
「森鷗外」
180 :
世界@名無史さん:03/12/18 23:19
手詰まりになる前に首になったんで、
異常に高評価って見方をする奴が事ビスマルクにかんしては
いないのが不思議
首切ったのがDQN皇帝だったからねぇ
182 :
世界@名無史さん:03/12/19 20:36
ウィルヘルム2世って言われてるほど酷くないってのが
最近つーかちょっとまえから言われ始めてるな。
ヴィルヘルム2世がホモだったという話は最近どこかで聞いたなあ。
184 :
世界@名無史さん:03/12/21 22:10
>>183 俺が「ウ」って言ってるのにワザワザ、「ヴ」っていうなや
糞やろう
185 :
世界@名無史さん:03/12/21 22:16
ヸルヘルムと言はふぞ。
>>184 そういうことあんまり気にするな
禿げるぞ
187 :
世界@名無史さん:03/12/23 15:33
丸出禿照 =丸出ダメ夫の父 =十朱久雄 =十朱幸世の父
188 :
世界@名無史さん:04/01/17 22:55
age
189 :
世界@名無史さん:04/02/12 22:56
ビスマルクについて語ることはこの程度かい?
>>189 不平不満を言うよりも 進んで灯りを付けましょう
191 :
ビスマルクの知恵に触れたい:04/04/04 21:10
ビスマルクスレの皆さんにお願いがあります。
世界各国の外交官は自分の体験した出来事や
ノウハウをメモワールや日記にして残していると
もとタイ大使の岡崎市の著作で呼んだ事があります。
それで、その時代の雰囲気や外交の勉強の為に
そうした類の日記を集めようと思っているのですが、
ビスマルクが書いたと言われる著作の国家と権力が
どうしても見当たらないのです。
ドイツ語が読めれば一番なのですが、非力にして日本語しか
読む事が出来ない私にはどうしようもありません。
この著作はどうやったら入手できるのか教えていただけないでしょうか。
またよろしかったらどのような内容であったかご教授
願えないでしょうか。
是非、お力をお借りしたいのです。
日本語はないんじゃないの?
英語探してみたら?
ビスマルクの新全集が発刊中で、またビスマルクブームが来そうな予感がするので、
この際一念発起してドイツ語勉強されてみては?慣れればウムラウトがいとおしく思えてきますよ
>>192、193,194
皆さん、私の質問にご親切にレスして下さって
ありがとうございます。
どうやらなかなか難しいようですね。
日本語訳があれば絶対売れると思うんですけどね。
これから自分なりに頑張ってみようかと思います。
外国語が出来るように成るには道は険しいですが(笑。
皆さん、本当にご丁寧にレスの返答感謝いたします。
196 :
世界史好き:04/06/18 23:53
>>51 この城って、ノイシュヴァンシュタイン城ですね。
シンデレラ城のモデルです。
197 :
世界史好き:04/06/19 00:23
>>46 Peakさんの知識に感動しつつ、プラスアルファ。
もう1つの重要な要素として、「ドイツ連邦内の宗教対立」があります。
【1】プロイセンを含む多くの領邦
16世紀前半のルターの宗教改革により「反神聖ローマ皇帝派」の領邦に
ルター派(新教)が広まった。
【2】オーストリア
15世紀以来、ハプスブルク家から神聖ローマ皇帝が出されるようになり、
ローマ教皇との結びつきができたことからカトリックの領邦の代表格。
【3】バイエルンを含む西南ドイツの領邦
古くから西に隣接するフランスとの交流が盛んであったため、
カトリック国フランスの影響を受け、カトリックの領邦が多かった。
ルターらの宗教改革直後の、イエズス会によるカトリック再布教によるところも大きい。
1848年の三月革命直後に開かれたフランクフルト国民「議会」(一応、ドイツ連邦の正式な議会)
において、統一問題が議論された際、
新教国プロイセンを中心に「オーストリアを排除」する小ドイツ主義と
旧教国オーストリアを中心に全ドイツを統一する大ドイツ主義が対立しました。
ビスマルクは、民族問題を抱えるオーストリアのみを排除したいと画策したようです。
そのため、普墺戦争直後の新連邦には小ドイツ主義に反発していた西南ドイツ諸邦
を無理矢理編入しようとはしなかったわけです=北ドイツ連邦。
(長くてすいません。)
197の続きです…。
バイエルンは西南ドイツ諸邦の「リーダー格」であったため、
これを説得できれば「平和的に」ドイツ統一を完成に導くことになります。
そのチャンスの動きが「バイエルン王国の築城資金援助」でした。
実際、この裏取引のおかげで、1871年のドイツ帝国成立宣言の際、
バイエルン国王が「プロイセン国王をドイツ帝国皇帝に推戴する」と発声しています。
しかしこれは、バイエルン国民の心情を無視した行動でもあった訳なので、
ドイツ帝国成立直後に、その国内において、西南ドイツのカトリック勢力がつくった
中央党と新教国プロイセンとの間に宗教対立を原因とする「文化闘争」が
起きるようになったのも当然の動きでした。
199 :
世界@名無史さん:04/07/23 21:34
良スレだなぁ
200
201 :
世界@名無史さん:04/07/24 10:26
このスレで英独の建艦競争について語るのはOK?
202 :
世界@名無史さん:04/08/18 00:13
ヴェルヘルム二世はヒトラーの台頭とWW2をどんな思いでみてたんだろうね。
回顧録とかないんかな
203 :
世界@名無史さん:04/08/24 01:02
>>202 年金もらえなくなるから悪口はいえません。
今、キッシンジャーの「外交」を読んでて、
ビスマルクのところまでを読み終わったんだが、さすがに評価が高いな。
他の部分も含め、「遅らせる」ことに結構評価を与えているのが印象的だ。
205 :
世界@名無史さん:04/09/17 19:29:27
グリムらが、先行するナポレオン民法典の謳う「普遍性」なるものに対抗して、
「ゲルマン的な」ドイツ民法典の編纂の必要を感じ、
その作業の一環として古ゲルマン神話やゲルマン民話の収集を行った事実は
もっと知られてもいいことですよね。
日本でもそのような作業は不可能だったのか、とふと思います。
どうも、「普遍性」なるものに胡散臭さを感じてしまう性分なので…
もちろん、法学を学ぶ以上、そんなフィクションに
付き合わなきゃいけないのは百も承知なのですが。
206 :
世界@名無史さん:04/09/18 02:56:44
>>205 多分、柳田民俗学とかがそんなノリだったんじゃないの?
207 :
世界@名無史さん:04/10/27 18:51:38
ビスマルクはともかくモルトケはなにが凄いのかわからん。
208 :
世界@名無史さん:04/11/04 21:36:41
『独乙平原』っていう
1200頁もあるビスマルクの伝記小説読了。
中々面白かった。
>>207 モルトケは「七週間戦争」のインパクトでしょう。
オーストリアを完膚無きまでに叩きのめした。
ナポレオン三世はこれが長期化すると踏んでいたが、
あっさり当てが外れた。
当時の常識から考えても、いくらビスマルクだけ優秀でも、
軍事力が伴わなければ上手く行かなかったと思う。
>>207 「軍事」とか「戦史」の人にとっては、ものすごい人です。
現代の軍事思想に大きな影響を与えていますしね。
例えば、訓令戦術(委任戦術)など。
米陸軍ではモルトケ研究は結構盛んらしく、士官学校では
普墺戦史などは必須科目らしいですよ。(←ソースは忘れました、スマソ)
211 :
世界@名無史さん:04/11/19 17:31:28
究極の敵の敵は味方作戦
212 :
世界@名無史さん:04/11/27 18:50:24
モルトケは天性の軍人じゃないと思う
だから逆に凄いのかもしれないが
213 :
世界@名無史さん:05/01/02 08:49:29
良スレ保守
214 :
世界@名無史さん:05/01/02 08:51:31
軍事外交は何のためか?
という点で参考になる。
215 :
世界@名無史さん:05/01/02 23:06:02
モルトケは経営学の中の組織関係の議論でわりと頻出。
ライン横断型のスタッフ制度を本格的に取り入れて理論化した人ということで。
ビスマルクは個人的に大好きだ。
子供の頃は善悪よく分からず不快な存在だったが今では芯から偉業の人と思う。
ただ、退陣についてはあれが潮だったのではないかと。
彼が退陣した頃というのは大きな目でみて、
本来流動的な外交というものが大きく動こうとする矢先だった。
むしろ流動的な筈の外交をたった一人で長い間せき止め続けたことに、
彼の前人未踏の業績が隠されている。
まああの辺が限度だったろうということさ。
216 :
世界@名無史さん:05/01/08 15:29:22
保守
217 :
世界@名無史さん:05/01/14 07:30:24
218 :
世界@名無史さん:05/02/03 02:40:09 0
ビスマルクとヴィルヘルムU世の不和はよく話題に登り、
加えてヴィルヘルムUがビスマルクをいたく嫌い、辞任だか解任だかに追い込んだという話もよく聞きます。
そこの所へ最近、ビスマルクの方がアタマっから若僧である皇帝をずいぶん嫌っていた、という話を聞きました。
一体どちらが本当なのでしょう?というより、先に相手を毛嫌いしたのはどちらだったのかな、と。
219 :
世界@名無史さん:05/02/03 13:17:14 0
力のヒエラレルキーを考えてみると良い。
U世は皇帝。 ビスマルクは臣下。
臣下が皇帝を誹るのは考えにくい
まず皇帝が嫌い、不和に繋がったという結論がある。
宰相が皇帝を、「嫌っていた」というよりは「舐めていた」という感じかな。
まあ、この二人の人間関係については、漏れはどっちもどっちだと思います。
ウィルヘルム2世は身体的なコンプレックスのせいか病的な自尊心の持ち主だったようですし、
目の上のたんこぶを嫌っていたことは想像に難くありません。
一方、ビスマルクは「オレ様がいちばん」な考えの持ち主ですから、
王室は尊敬する(というポーズは取る)ものの、王族の人間はバカにしきっていました。
(一応、馬のあったヴィルヘルム1世を泣かすこと数知れず。
夭折したフリードリヒ3世は、太子時代にはビスマルクに疎外されまくってしました。)
よって、ヴィルヘルム2世に対しても若僧扱いして師匠風を吹かせたわけです。
(ビスマルクは政治的宣伝の達人でもありますから、ザクセンヴァルトに隠遁した後には、
自分を皇帝のわがままに対する被害者として描き出すことに努め、それに成功します。)
結局、この二人の関係は、諸葛孔明と劉禅のようにはいかなかった、と。
七週間戦争の勝利後、軍人たちは当然のようにウィーン入城しようとしたが
ビスマルクが反対して大喧嘩になった。次はフランスだし
オーストリアに憎まれたくなかったから。
「なんでみんなわかってくれないんだ!」ってビスマルクは泣いたらしい。
軍人気取りの王も反対したが王子だけが
味方になって説得してくれて渋々みんなビスマルクに従った。
んで、フ仏戦争。セダンでナポ三世を捕らえる大戦果を上げたが、
これまたビスマルクだけが困った。和平交渉できないじゃんw
軍人たちは有無を言わさず意気揚揚とパリに進撃。それでパリ・コミューンw
いらぬ血が流されていらぬ憎しみをかってしまった。
モルトケもビスマルクの事を政治屋だって嫌ってたらしい。
戦争は外交の一手段だという良い例だよね
「戦争は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてんだ!」と叫んだ軍人がいたとかいないとか…