1 :
世界@名無史さん :
02/11/28 11:29 三国志演義について語れる人は集え!!
三国志演義は世界史じゃないぞ
明代に成立 著者羅漢中 終了
ここは三国志艶義のスレになりますた
三戦板へどうぞ
6 :
世界@名無史さん :02/11/30 14:30
7 :
世界@名無史さん :02/11/30 15:46
良いんじゃないかい
8 :
世界@名無史さん :02/11/30 16:04
正史の関羽伝読んでたら 羽は呂布の妻を貰い受けたいなんて 曹操に何度も願い出て挙句奪われている。 演義にこんな話載ってた?
10 :
世界@名無史さん :02/12/12 22:57
>8 それが元曲(それとも京劇かな?)の“関羽月下識[チョウセン]”の元ネタだろうな、たぶん。
どうせなら演義がいかに嘘でオタクか語るスレにしようぜ。 断言しましょう!孔明は軍事的に実績皆無の凡庸指揮官です!
内容を語りたいなら三国志戦国板へ 古典としての毛宗崗本を語るなら、古文漢文板へどうぞ…
(^^)
14 :
世界@名無史さん :03/01/19 18:42
>>8 赤兎馬のエピソードはそれが元になってると思われ
「三国志演義」の成立によって、 「明代の社会にどんな影響があったのでつか?」 これなら世界史板らしい?
『四大奇書と〜〜』とかいう本が出てたような。
19 :
世界@名無史さん :03/02/15 18:25
>>17 何の影響もないよ。
一部の読書層が喜んだだけ。
明の社会から演義が生じたという話なら話題かもしれないが。
族譜の編纂が盛んになったらしいぞ。
21 :
世界@名無史さん :03/02/16 09:04
三国志通俗演義の辻講釈を聞いている聴衆は 内容がすべて史実だと思って拍手喝采していたのだろうか。
落語が史実として受け取られてたかどうか、ってことと同じだろうね。 それ以前に、当時の民衆が史実云々まで意識を持っていたのかどうか。 士大夫レベルにならないと歴史意識は教養として持てなかったのではないかと 私は愚考するしだいです。まぁ明代だし士大夫とは言わないまでも 相応の教育、もしくは市井で文字が読めるレベルまでではないかと。
>>8 陳瞬臣がそのネタを「秘本・三国志」で拾っていたな
関羽が落城時のどさくさにまぎれて【チョウセン】をさらうだったか
現代日本で忠臣蔵が史実だと思ってる人間がどのくらいいるか ッて問題でしょうか?
25 :
世界@名無史さん :03/02/18 01:06
中国では約8割の人が演義を事実だと思ってます。
その根拠を示してよ。
27 :
世界@名無史さん :03/02/18 01:13
25じゃないけど、とりあえず漏れの知ってる中国人は全員思ってそうだったよ
29 :
なっちの戯曲 ◆Qx/7DEzf5E :03/03/01 13:11
演技派です
30 :
世界@名無史さん :03/03/01 21:15
演義の歴史的信用度って50%もないんじゃ・・・ せいぜい10%ですよ、10%。 でも諸葛亮の死後はほとんどフィクションが無いんですよね・・・
>25 日本人もかなり多数の人が水戸光圀は漫遊し、徳川吉宗が暴れん坊で、 長谷川宣似が鬼平と呼ばれていて、銭形平次は実在したと思ってそうですが何か? >30 創作小説の歴史的信用度を云々してどうなるというのかね。
鼠小僧は実在したっけ?
33 :
世界@名無史さん :03/03/04 21:52
>>31 まさにその感覚なんだよ。中国人にとっての三国志は。
34 :
世界@名無史さん :03/03/04 22:10
>>30 >でも諸葛亮の死後はほとんどフィクションが無いんですよね・・・
吉川英治にカットされてしまったくらいだからな。
(^^)
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
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40 :
世界@名無史さん :03/05/27 02:48
曹操ってどんなヤツだったの?実際。 野心むき出しの「花の慶次」って感じ? 蒼天航路の曹操が、悪役モノより的を得てるのだろうか。
蒼天航路は劉備が良くできてる・・・というか正史のイメージに近い。 蒼天の曹操はなんだかなあ・・・?
横山三国志は、正史三国志と三国志演義の中間的だね?
>>30 まあ近現代史よりはまだ三獄死演技のほうがマシだろ。
今の中共の教科書なんてさしずめ「中華人民共和国演義」ってなもんよ。
44 :
世界@名無史さん :03/05/28 00:53
そもそも正史だって、あてにはならんからな(糞
>>45 何も知らないゴミは黙ってろ。
左氏伝も崔杼も知らないんだろ?
この意味わかるか?
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
蒼天航路のお話しませんか?おもろいねー
男は黙って北方三国志
「残唐五代史演義」きぼーん。
51 :
世界@名無史さん :03/06/24 22:56
でもさー権力者バリバリの中国で真実の歴史書なんて残るのか? そう考えると正史もどうだか
52 :
世界@名無史さん :03/06/24 23:02
藻前らやっぱりSF三国志だろ。 呂布がメカトロニクスの天才というのにワラタ
53 :
世界@名無史さん :03/06/30 03:46
>>51 司馬遷の史記なんて結構際どいこと書きまくりだろ
創始者の劉邦のあらもよく見えるし
>創始者の劉邦のあらもよく見えるし なら漢書もだね
はじめまして。 あるスレで「諸葛亮が戦いの神」という電波な書き込みを見て、気になったと言うか・・・ 「空城の計」と言うものは、孔明のオリジナルの策なのですか? 凄い初心者質問ですいませんが、教えてくれませんでしょうか???? <(_ _)>お願いします。
んなわけねぇ。
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
毛沢東が三国志演義を引用することたびたび。 毛沢東に影響を与えた演義という一面もある
61 :
世界@名無史さん :03/08/12 18:27
62 :
トクU ◆tokuUgwIxo :03/09/07 15:35
ふーむ。ぺた 現場で優秀な人間が、必ずしも指導者(上司)に向いているとは限らない、と思われる。 たとえば、三国志において、蜀の、諸葛孔明、劉備元徳の立場に、戦場では バリバリ働く張飛(呂布とか)が向いてるとはとてもいえないといった具合である。 現場でよく働けるといって、自分が指導者に向いてると勘違いすると、組織が うまくまわらなくなるであろう。 人間向き不向きがある。諸葛孔明、劉備元徳などは、逆に武力はなさそうであるが、 その点三国志においては、人間の向き不向きをよく考えていたように思える。 また、たとえば学校の先生は、勉学のエキスパートで優秀かもしれないが、とても 全員が、教えるのがうまいとはいいがたいところがある。テストでもやればいい点を取るか もしれないのだが。 官僚にしても、有名大学にでたりして優秀といわれるが、政治としては周りの評価が低い。 これらの場合、優秀というのは、勉強や実技など個人で使う場合であって、政策立案とか、指導 とかいった、全体を動かす能力について優秀といわれているわけではないだろう。 その点、今の日本(世界も)社会は、誤解を持ってることが多いかもしれない。
>>32 鼠小僧は実在したんじゃなかったけ。ただしただの泥棒だったらしいが。
>>62 のつづき
これを、年功序列に対して、現場序列とか勝手に名づけてみたりしてみる。
これは、孔明、シバイ、ホウトウなど(←そういえばことごとく現場が苦手そ
うだが)がやりそうなことを、現場で功績があるからと張飛や呂布にやらせるよ
うなまねをすることである。
たとえば日本では明治維新にこのことが起こった。
戊辰戦争で功績があったものを、政府の高官にしたのだがどうも向いてないらしく
混乱がおきた。
65 :
匿名U ◆tokuUgwIxo :03/09/12 11:27
あ
鼠小僧は実在の人物です。普段は中村座の木戸番やってたという話です。 お墓は回向院に在って、墓石が欠き取られるので有名。 本名は中村次郎吉とか。 芥川龍之介の「鼠小僧次郎吉」は本物の鼠小僧が旅の宿で騙りの鼠小僧と 同宿する話、芥川は生粋の江戸っ子で通人の津之国屋藤兵衛の親族なので、 この小説での江戸弁は間然するところなき本物。近頃の時代物作者の遠く 及ぶところではありません。
三戦板でやれと言われても、あそこは噛み付く厨房が¥ばかりで この板ほど気楽に話せないのですよ……
68 :
世界@名無史さん :03/09/12 14:39
禿堂。三戦板は近づく気にもならない。
鼠小僧の墓見たことあるけど欠けまくっていた
>>69 三戦板の厨房も
>>67-68 も、目糞鼻糞なのにな。
本人たちに自覚がない分、 こいつらの方がヤバイかもしれん。
72 :
世界@名無史さん :03/09/13 07:41
なんでそんなに必死になって三戦板を擁護するの? 見てて哀れになってくるよ
73 :
世界@名無史さん :03/09/13 08:48
まぁまぁ厨同士仲良くしろや(ワラ
75 :
世界@名無史さん :03/09/21 22:13
一つ聞きたいんだが、劉備三兄弟の「桃園の約束」って何なのさ?
スマソ・・・自己解決です
77 :
世界@名無史さん :03/10/14 21:14
コーエーのゲームのおかげで、最近欧米でも三国志が結構読まれてるみたいだ。 amazon.comでアメリカ人の批評読んだけど、かなり絶賛されてる。 感想は日本人とあまり変わらなかったけど。 三国無双がdynasty warriorsって名前で出てる。 三国志演義の英語の題名は the romance of three kingdoms だったと思う。
>>55 「空城計」の元になった話は「三國志」の「諸葛亮傳」の裴註に引かれている郭沖の
條する諸葛亮の五隠事というものの第三事に出てきます。亮が陽平に屯している時に
魏延を遣わして東下させ万人を留めて城を守っているところへ、手薄を窺がい司馬懿が
攻めてきました。将士は色を失い計を知らずという有様であったのですが。亮は意気
自若として軍を戒め旗を伏せ鼓を止めさせ、妄りに幔幕から出ないようにして四方の
城門を大きく開き、地面を掃き清めて敵を待ち受けました。司馬懿は伏兵があるかと
疑い軍を引いてしまいました。これは諸葛亮の見通しのとおりであった。ということ
なのですが裴松之はこれに対し当時は懿は宛城に在り亮と対陣することはなかった。
彼が関中で亮と抗争するようになったのは曹真が死んでから後である。そもそも亮の
兵力が少ないことは20万の兵を挙げて蜀を討った司馬懿は知っていたのだ。もしも
伏兵が気になるなら慎重に兵を進めればよいことで退却には及ばない。魏延は亮に
精兵万人を率いて潼関を衝きたいと申出て拒否されており、魏延が亮と別行動をとる
ことは考えられない。云々と詳しく論難しています。
似たような故事として南朝の宋の元嘉七年に到彦之が北伐して大敗し、勝勢に乗じた 北魏の将の乙旃眷が濟南に寇しました。濟南を守っていたのは後の南齊の高帝となる 蕭道成の実父の承之でした。城兵は僅か数百人に過ぎず一旦は退いた敵は大軍を集め 攻撃してきました。ところが承之は兵を休息させ城門を開かせたので部下は皆な彼を 諌め、「賊は多く我が方は寡ない、敵を軽んじるにも程があります」と詰りました。 承之は「今のように窮城を辛うじて守っている状態は既に危急である。もしその上に 弱味をみせたら必らず敵に屠ふられてしまだろう。ここは強気に出て対応する手しか あるまい」と答えました。果して敵は伏兵があるものと疑って去っていったそうです。 この故事は「南齊書」の「高帝本紀」の冒頭に出ています。 日本では家康公が三方ヶ原でボロ負けして浜松に逃げ帰った際に、ヤケクソの余りか 城門を開かせ篝火を焚かせて武田勢を誤魔化したという話がありました。
>>17 :世界@名無史さん :03/02/13 03:16
>「三国志演義」の成立によって明代の社会にどんな影響があったのでつか?
「演義」が大流行しすぎて士大夫の教養にまで影響を及ぼすまでになったってことは
否定できないところでしょう。
清の章學誠の「丙辰剳記」に小説は概して虚構の作で問題にするようなものではないが
「唯だ『三國演義』のみは則ち七分は實事にして三分は虚構、以て觀る者を致して往々
惑亂する所と爲す。桃園等の事の如きは士大夫にして故事の用と作す者有り矣。故に
衍義の屬は著述の倫に當る無しと雖も、然れども流俗の耳目の漸く染すれば實に勸懲に
益する有り。但し須らく實なれば則ち概ね其の實に從がひ、虚なれば則ち明かに寓言を
著はすべし」と言っています。要するに史実であればそのままに、ウソならば作り事と
判るようにして、紛らわしい叙述はせんようにと批判しているわけです。桃園結義を
史実と思い込んでいてショウガクセイに厨房扱いされてしまった文人が誰なのか?は
未発見ですが、明清人の筆記には色んな事例が報告されています。
清の袁枚の「隨園詩話」には幾つかの厨房サンプルが挙げられてますので紹介します。 「崔念陵なる進士の詩才は極めて佳なり。惜しむらくは五古(五言古詩)一篇有りて、 關公が華容道上に曹操を放ちし一事を責む。此れ小説衍義の語なり。何ぞ詩に入る 可けんや。何キ(山偏に己)瞻は札を作り『既に(周)瑜を生ぜしに何ぞ(諸葛)亮をも 生じたりしや』の語有り。毛西河に其の無稽を誚(そ)しられ身を終ふまで慙悔せり。 某孝廉は關廟の對聯を作り竟(つひ)に『燭を秉(と)りて旦に達たる』を用ゐる者有り」 崔念陵というのはどういう人物か調べがつきませんでしたが、少なくとも進士なので 相当に教養ある身であることは間違いないでしょう。何キ瞻は名はシャク(火偏に卓) キ瞻は字です。先祖が義門として表彰されていたことから世間からは「義門先生」と 呼ばれていました。彼は諸生の時分から盛名があり康煕中には抜貢生の身でありながら 南書房の入直を命ぜられ、更に挙人を賜り復た進士を賜った大秀才です。南書房とは 康熙帝が詩文の才の優れた人物を身近に置いて顧問に備えるべく設けたサロンです。 その学風は考訂に長ずと言われており凄くレヴェルの高い才能だったようです。彼の 作った札なるものの内容は明らかでありませんが、「生瑜生亮」というのはどうやら 周瑜が孔明との闘智に敗れ憤死したという「演義」の挿話を、義門先生が史実と信じ 文中に用いたということかと想われます。
何キ瞻を批判した毛西河は名は奇齢で字は大可といい、元来は明の遺民で康熙帝から 招かれて「明史」の纂修を命ぜられたのですが病気と称して辞職し、終に仕官せずに 著述に専念して生涯しました。彼は学問文章のみならず書画にも優れた才能をもった 人物であったようです。しかし論争が好きで当時の人士からは敬遠されてたようです。 こんな人のターゲットにされた何氏の終身慙悔は同情に値いしますが、いかに「演義」が インテリの頭まで侵食していたか想像に余りあるところです。 某孝廉の対聯に用いられた「秉燭達旦」というのは関羽が玄徳の二夫人を奉じて曹操に 降った際に、操がわざと羽と二夫人を同室に居らせて君臣の義を誤らせようと図ったが、 羽は燭を持って夜明けまで戸外に立ち尽くしていたという話で、正史などまともな文献に 全く顕われない故事です。 士大夫階層でこれですから読書人でない者は先ず全員が「演義」を歴史そのものと思い 込んでいても無理ない次第です。出典を忘却しましたが清の某宦官は当時の宮廷画家の 某名手に、虎牢関で呂布が劉備や関張を相手に大戦しているシーンを是非とも描いて 下さいと頼み込み、一応インテリである画家を困惑させたそうです。
あやめさん、何義門は正史三国志の優れた注釈書(非常に厳密な内容)まで書いた人物なのですが・・ 随園の話はとても信じられません。時代も相当離れて居ますし、多分伝聞で書いているだけではないかなぁ。 >清の某宦官 宦官には三国志演義が教科書として与えられて居たためでしょう。
あやめちゃん、何を書きたいのか纏めてから書いてくれ。読みづらくてかなわん。
>>84 あやめタンは世界史コテハンの最古参。
この人は昔からこういうスタイルなんだよ。
タンとか抜かすなカスが
カスとか抜かすなタンが
>>86 いや、知ってるけどさ・・・
段落ごとで趣旨を纏めると主題が何なのか訳が判らなくなってきて・・・ね。
91 :
世界@名無史さん :03/11/13 00:59
一般大衆にとって三国志演義が史実かどうかなんてどうでもいいのさ。 大衆は物語に英雄を求める、客観的史実よりも感情移入し喝采を叫ぶ ことができる登場人物を求めるのさ。
94 :
世界@名無史さん :03/11/22 16:27
同時代の孔明とかの評判ってどうだったんだろう。 同時代って三国時代の。
信賞必罰が明確で公正であったようだ。 兵站を重視した慎重な作戦を立案する人物だったようだ。
age