福音書って、筆者は誰もじかにイエスを見てないんだから、要するに
噂を鵜呑みにして書いただけなんじゃないの?歴史資料としたって
第2級に分類されると思うが。
254 :
世界@名無史さん:03/04/10 08:46
内容より編纂の過程のほうが重要なのかも
255 :
世界@名無史さん:03/04/10 09:37
>>251 聖書のノアの洪水のくだりは、シュメールの粘土板の
ギルガメシュ叙事詩の第11章とそっくりですが、なにか?
256 :
世界@名無史さん:03/04/10 12:01
しかし誰もマリアの処女降誕の話はヘブライ語(だったっけな?)の「若い乙女(処女という意味ではない)」と
いうような言葉をギリシア語に訳す時に「処女」と訳し間違えてしまった、という説を紹介しないんだね。
俺はこれがスタンダードな説だと思ってたんだけど・・・
257 :
世界@名無史さん:03/04/10 12:19
父親に身の覚えがない子供なんだから不倫の子。
258 :
世界@名無史さん:03/04/10 13:46
>>23 ギリシア人、ニコス・カザンザキスの名作だね。
>この映画では(うろ覚え)確かマグダラのマリアがイエスの子供を生むとかなんか
というのは、十字架上で悪魔がイエスに見せた幻覚で、最後には十字架上で死ぬ。
原作ではこうだけど、映画だと違うのかなぁ。
しかし、ニコスは正教会から破門されたり、墓は荒らされたりして、可哀想な人だな。
259 :
円光寺の住職:03/04/10 13:53
>>253 少々、作家的才能があったら、
福音書ぐらい容易に創作できるだろう。
260 :
世界@名無史さん:03/04/10 13:59
>>256 >これがスタンダードな説だと思ってたんだけど・・・
「どこで」スタンダードなのか、の問題だろうな。
俺も、聖書学「では」スタンダードな説だと思うよ。
個人的にも聖書そういうつもりで読んでるけど。
去年だっけな?バチカンは否定というか、えーと確か記憶によれば
「聖書に関するいくつかの説の内最も支持者が少なかった説のひとつ」って主旨で言ってたと思う<「処女」と訳し間違えてしまった
261 :
世界@名無史さん:03/04/10 14:02
>>253 資料として2級かどうかは置いておいて、
>要するに噂を鵜呑みにして書いただけなんじゃないの?
これは違う。Q資料や言の葉資料は仮説存在だけど、ナグ・ハマディ文書に含まれて
発見された(マグダラの)マリアの福音書は、
想定上の言の葉資料に近い形式だった。
つまり、噂を鵜呑みにしたとは考えられない。
共通資料を元に編纂された文書群。
歴史資料としたって
第2級に分類されると思うが。
あれ、
>>261カキコの末尾にコピペの消し忘れが。
チッ。文章が意味不明になっちまった。
みっともないが蛇足をつけとくか。
福音書は、イエス当時の歴史文書としては第二級というか物語
宗教説話だろ。
しかし、原始教団の思想を考える場合は一級資料だな、
いわゆる史料としてはいろいろ特殊な性格があるが。
しかし特殊な性格のない史料などあるまい。
263 :
円光寺の住職:03/04/10 15:07
>>261(マグダラの)マリアの福音書は、想定上の言の葉資料に近い形式だった。
想定された形に近かったら、それがどうした。
福音書でっちあげ説を否定できるものではない。
264 :
世界@名無史さん:03/04/10 15:29
>>261 つまり、噂を鵜呑みにしたとは考えられない。共通資料を元に編纂された文書群。
最初に1つのでっちあげ文書があり、
その文書を元にして複数のでっちあげ文書が
創作された、と推理できませんか。
>>263 あんた何にもわかってねーでしゃべってんだろ(苦笑)
聖書学で推定されてるQ資料ってのは作業仮説なんだよ。
これは新約正典の対観福音書の対観点の分析から導き出された文献学上の作業仮説なわけ。
で、Q資料仮説が成立してから「後に」発見された文書に、仮説に近い型の文書があった。
つまりこれは文献学的推論の確実性の旁証なわけ。
文献学の基本だろ。
この場合「福音書でっちあげ説」の方に挙証責任がある。
それ以前にどういう事態を指して「でっち上げ」と呼んでいるのか、
まず概念定義が必要だな。
あー、別に無理して概念定義とかしなくてもいいよ。
たわ言聞くほど閑じゃないんでね。
>>264 >最初に1つのでっちあげ文書があり、
>その文書を元にして複数のでっちあげ文書が
>創作された、と推理できませんか。
推理しても構いません。
しかし、その場合、推理する人は、なぜそのようなでっち上げ文書に基づいた
福音書作成が、各地で(大局的に見れば)同時多発的に前後してとりくまれたか、
動機付けについて説得力のある説明を同時に提出する義務があります。
これもある種の挙証責任ですね。
何しろ、でっちあげと仮定するにしても、関わった人数は大人数と想定されますし、
地域的にもあまりに各地に渡ります。
例えば「でっちあげをすることがおもしろかったから」では根拠薄弱ですね。
それよりは、
「イエスの歴史的言動が、当時のユダヤ系コミュニティーの構成員には
印象深かったから」(内因)
「当時のパクスロマーナ体制の異文化系社会に対する搾取構造」(背景因)
などから説明した方が説得力があります。
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271 :
世界@名無史さん:03/04/10 16:09
>>260 よくわからないな〜。聖書学ってのは聖書に関する学術的な研究を行なう学問なんでしょ?
ここは世界史板なんだから学術的な研究を前提に話すべきじゃないの? 宗教的なバイアスの
かかった見方とか、強姦とかいった電波な見方が紹介されてるのにスタンダードな説が紹介さ
れなかったのはおかしいよ。この説ならイエスはヨセフの子供になるし、最初の系図紹介との
矛盾がないでしょ? 「聖書学ではスタンダードな説」って言ってたけどそれ以外にはどんな
スタンダードな説があるの?
273 :
世界@名無史さん:03/04/10 17:46
>>265 Q資料は、護教論の立場からの憶測に過ぎない。
護教論とは、イエスが神の子・キリストであったことを
前提とした議論だ。しかし歴史の中に神の子・キリストの実在を
証明するものは何もない。したがって、Q資料は衒学的空想
の域を出るものではない、と見なければならない。
274 :
世界@名無史さん:03/04/10 18:06
>>266 これもある種の挙証責任ですね。
何を眠たいこと言ってるんだ。護教論に立つから
否定的見解に挙証責任を欲しているまでであり、逆に
否定論に立てば、護教的見解に挙証責任を要求する
ことになる。これ程度の理屈ぐらい承知しておけよな。
275 :
世界@名無史さん:03/04/10 18:10
276 :
世界@名無史さん:03/04/10 18:19
>>275 天使による受胎告知を否定する場合も挙証責任ですか。
単純に、
作り話を作り話と
言わせていただくまでです。
イエスなるミラクル・マンを主人公にした福音書は
ぜんぶ作り話です。早い話が、宗教ビジネスの
宣伝パンフですね。
277 :
世界@名無史さん:03/04/10 18:22
日本一成功した宗教ビジネスは創価学会、
世界一成功した宗教ビジネスはキリスト教です。
278 :
世界@名無史さん:03/04/10 18:52
279 :
世界@名無史さん:03/04/10 19:05
>>265 しかし、その場合、推理する人は、なぜそのようなでっち上げ文書に基づいた
福音書作成が、各地で(大局的に見れば)同時多発的に前後してとりくまれたか、
動機付けについて説得力のある説明を同時に提出する義務があります。
義務はありません。土から人間を造っただの、キリストの血によって罪を贖うだの
わけのわからないこと言っているほうが、自分の主張の正しいことを証明する必要があるのです。
解るかな。
280 :
bloom:03/04/10 19:23
>>272 >よくわからないな〜。
>「聖書学ではスタンダードな説」って言ってたけどそれ以外にはどんな
>スタンダードな説があるの?
だからさ、聖書学ではスタンダードだけど
宗教社会学的には、「聖書説話を信じてる人が今でも多数います」、ってのがスタンダードなわけ
聖書学も学術だけど、宗教社会学も学術なのよ、
ようするに歴史に関る話題で、宗教現象の何を焦点に論じているかって前提が欠けた議論は無意味って話。
>スタンダードな説が紹介されなかったのはおかしいよ。
おかしいかもしれない。
その件はあなたが紹介したんだからもういいでは。
聖書学ではスタンダードという紹介ならば、もっとよかった。
>>273 >Q資料は、護教論の立場からの憶測に過ぎない。
これは違います。Q資料仮説は、文献学的なテキスト批評に基づく分析推定です。
分析の結果推定される仮説、というのが正しいですが。
護教論は関係ありませんし憶測でもありません。
>護教論とは、イエスが神の子・キリストであったことを前提とした議論だ。
聖書学が前提とするのは「イエスが神の子・キリストであった、と主張した人々が歴史上実在した」ことです。
このことからも聖書学が護教論とは関係ないことは自明です。
わかりましたか?
283 :
世界@名無史さん:03/04/10 19:40
>>278 べつに宗教ビジネスだとは言ってないと思うけど。
示唆はしてますけどね。
284 :
世界@名無史さん:03/04/10 19:41
こりゃまった活気ありますねえ、きょうは。
Qと言うものがあったと言う仮説に対して「Qそのもの」が出てきたならともかく、
それを遠くから示唆するような文書群が出てきただけですね。
これをもって「文献学的推論の旁証」と言うなら、
それは「護教」と言われても仕方がないのではないでしょうか。
この世に起こるはずの普通ない事(奇跡とか処女降誕とか)のでっちあげ説は
論証が必要ないと言うのにも同意です。
ただ、新約のイエスの記述が全て架空かどうかについてはどちらのサイドにも
証明できない事ですね。総論と個別の記述は分けて考えるべきでしょう。
その際「イエスはいた」と言う前提で考えない事が重要だと思います。
護教的なひとは頭からイエスは存在した、として論証を展開しますから。
285 :
世界@名無史さん:03/04/10 19:45
>>281 >聖書学も学術だけど、宗教社会学も学術なのよ、
>ようするに歴史に関る話題で、宗教現象の何を焦点に論じているかって
>前提が欠けた議論は無意味って話。
それではあなたの議論は板違いです。
民俗神話板にもたくさんキリスト教のスレはたってますので、そちらへどうぞ。
あるいは社会学板へ。
>>274 >護教論に立つから否定的見解に挙証責任を欲している
前提が間違っています。
聖書学は聖典テキストの文献学的分析に基づいています。
したがって「でっち上げ説」もテキスト分析に基づいた推定を提出し、推定論旨に説得力があれば、はじめて議論になります。
>逆に否定論に立てば、護教的見解に挙証責任を要求する。
挙証責任を要求するのは自由です。
しかし、疑問があるから聖書学に挙証責任を要求すると
「でっち上げ説」主張に挙証責任を挙げる必要がある、とは別レベルの問題です。
問題をすり替えないように。
>これ程度の理屈ぐらい承知しておけよな。
あなたの主張は、単なる問題のすり替えであって、理屈になってません(苦笑)。
聖書学に挙証責任を要求する方は、聖書学の入門書・概説書と聖書テキストから読めばよろしい。
>>279 >動機付けについて説得力のある説明を同時に提出する義務があります。
>義務はありません。
なぜですか?
当然あるでしょう。
>土から人間を造っただの、キリストの血によって罪を贖うだの
>わけのわからないこと言っているほうが、自分の主張の正しいことを証明する必要があるのです。
あなたも論点のすり替えをする人ですね。
聖書学は「土から人間を造っただの、キリストの血によって罪を贖うだの」を言ってるわけではありません。
解りましたか?
>>285 >>聖書学も学術だけど、宗教社会学も学術なのよ、
>>ようするに歴史に関る話題で、宗教現象の何を焦点に論じているかって
>>前提が欠けた議論は無意味って話。
>それではあなたの議論は板違いです。
>民俗神話板にもたくさんキリスト教のスレはたってますので、そちらへどうぞ。
>あるいは社会学板へ。
これは奇妙なことを言われる。
社会を扱う観点を欠けた歴史学がありますか?
あなたの言っていることは、社会史の話題は社会学板で、と言っているのに等しいナンセンスです。
289 :
世界@名無史さん:03/04/10 20:01
>>284 >Qと言うものがあったと言う仮説に対して「Qそのもの」が出てきたならともかく、
>それを遠くから示唆するような文書群が出てきただけですね。
>これをもって「文献学的推論の旁証」と言うなら、
>それは「護教」と言われても仕方がないのではないでしょうか。
そこは少し違うと思います。
個人的な意見になりますが、私はかつて考えられたようないわゆるQなる文書はなかったと思います。
あったならこれまで発見されないのが不審です。
あったのは、Q仮説が洗練された(と私が個人的に評価する)言の葉資料
つまりイエスの言行録で、時間的前後関係についてのレファランスはなく、あったとしても極希薄なもの、です。
さっきは論点が違いましたので言及しませんでしたが、
マグダラのマリアの福音書は、言の葉タイプのパラグラフが編成され、物語的因果関係が緩い形式です。
この事例のように「文献学的推論の旁証」というのは、推定の確からしさに関することがらです。
関連した複数文献間の矛盾点をついていくような研究となんら異なるアプローチではありません。
ですから護教論とは関係ありません。
護教論、というのは、例えば、キリスト教がローマに広まったのは、教えがすぐれているから、知識人から広がったのだ、といった説。
ローマ帝国はキリスト教を継続的に弾圧していたが、教えが優れていたから断絶しなかったのだ、というような説。
こうした説が、護教経論的な説です。
290 :
世界@名無史さん:03/04/10 20:11
>>288 歴史関係の御専門とはお見受けできないが。
聖書の文献そのものの話は歴史板では扱いにくいですよ、本来ね。
歴史学は実際に起こったこと(史実)に対する論証がが軸になって、
それに民俗学的社会学的な考察がサブでついてくるわけです。
聖書の話はその立場が逆転ですからね。
周辺の情報はあるけど、肝心の聖書が(細部はともかく大筋として)
史実どうかがわからんからねえ。
常に「架空のストーリーを扱ってる可能性」と同居するから。
291 :
世界@名無史さん:03/04/10 20:15
>>282 Q資料仮説は、文献学的なテキスト批評に基づく分析推定です。
分析推定から分析推定者の主観を払拭することは出来ません。
護教的に分析推定された場合と否定的に分析推定された場合では
導き出される結論が異なります。現在のQ資料仮説は、あくまでも
護教的推測の結果です。
292 :
世界@名無史さん:03/04/10 20:36
>>289 こうした説が、護教論的な説です。
福音書に述べられているような「イエスの存在」を前提すれば、
すでに立派な護教論です。「キリスト教がローマに広まったのは、
教えがすぐれているから、知識人から広がった云々」は、護教論というより
キリスト教会の宣伝文案です。
293 :
世界@名無史さん:03/04/10 20:43
護教論の人は何が護教かの感覚無しで区別つかないよ。
これは信者かどうかとは関係ない。聖書学の一年生の時点での刷り込み。
>>292 >福音書に述べられているような「イエスの存在」を前提すれば、
あなたの主張は勘違いが前提にされています。
聖書学はイエスの実在を前提にはしていません。
テキスト分析の結果、言の葉資料を言うものが推定されざるを得ません。
でなければ、対観点の存在事実、対観点があるにも関わらず、福音書間で物語プロットが異なることの統一的な説明ができない。
しかし、言の葉資料は文書化されていなかったかもしれない。
発見されていない以上、文書化されちなかったと推定するのが論理的に正しい仮説、と個人的には思います。
だとすれば、言の葉を伝えた人々には共通の体験記憶があったはずだ。
以上は聖書学全体のスタンダードな説ではないと思います。
多分、あるトレンドの学説です。
が、イエス実在は、前提ではなく、推定の積み重ねの結果の結論だと、おうことは示せているはずです。
私が紹介したトレンド以外の聖書学でも>「イエスの存在」を前提、などされていません。
それはあなたの勘違いです。
勘違いを含んだ前提から出発しているので、あなたの主張は(部分的にうなづけるものを含んでいるとしても)すべて無効です。
キモイな
>>290 >聖書の文献そのものの話は歴史板では扱いにくいですよ、本来ね。
そうでしょうね、「扱いにくい」ということは同意できます。
しかし、だとしたら「でっち上げ説」も同様に扱いづらいということでなければ公正ではありませんよね。
>歴史学は実際に起こったこと(史実)に対する論証がが軸になって、
>それに民俗学的社会学的な考察がサブでついてくるわけです。
いや。でしたら、聖書学のように「これこれの主張を持った集団(教団)がある時期のある地域に存在した」という分析は、まさに歴史学的もメインの話題ではないですか?
このことと、>常に「架空のストーリーを扱ってる可能性」と同居する
こと(これも否定はしません)両立すると思いますが。
>>294 わたしの「板違いではないか」と言う意見はどう思いますか?
本来これは「民俗神話板」でキチンとなされるべき議論です、と思いますが。
御説の方向性は
>宗教社会学的には、「聖書説話を信じてる人が今でも多数います」、ってのがスタンダード
なので、この板的にはそういう人々が信じた日記でも残っていましたら盛り上がるわけです。
板の特徴を御理解下さい。
一言添えますと歴史学というのは「ソースだせよ、ゴルァ!」の世界でして、
文献から類推した仮説の資料(例えばQ)等は本来肌にあわないのです。
考古学が「掘って見つけてなんぼ」であるのと同じように歴史学もまた
目撃証人の第一次史料がないと身動きとれないんです。
聖書にかかれたことを信じていた人々を聖書だけから推測することはご法度です。
その人たちが直接書き残したものが欲しい。状況証拠では駄目だ、と言うことですね。
299 :
世界@名無史さん:03/04/10 21:26
>>294 イエス実在は、前提ではなく、推定の積み重ねの結果の結論だと、おうことは示せているはずです。
神の子・キリストの存在は、
護教的推定の積み重ねの結果の結論です。
所詮キリストの血による贖罪は未開人の呪術であり、
したがって、そこから発想され構想されたストーリー
(福音書の記述)は、似非真理の表現に過ぎません。
つまるところ、神の子・キリストは、でっちあげの所産と
見なされるべきです。
300 :
世界@名無史さん:03/04/10 21:46
>>298 状況証拠では駄目だ、と言うことですね。
次々に死人を生き返らせ、自分も死から復活したほどの神人の歴史的記録が
まったくない。そのこと自体、福音書のイエスが実在していなかったことの
証拠です。この証拠、どうでしょう。駄目ですか。
301 :
世界@名無史さん:03/04/10 21:53
>>300 神人の非存在?う〜ん。やっぱり状況証拠かな。
>>
>わたしの「板違いではないか」と言う意見はどう思いますか?
でしたら、まず根拠レス&前提認識錯誤&論理すり替えの
でっち上げ説に向って「板違いだ」と言っていただきたいですね。
それがきっかけになってのスレの流れですので。
>>宗教社会学的には、「聖書説話を信じてる人が今でも多数います」、ってのがスタンダード
>なので、この板的にはそういう人々が信じた日記でも残っていましたら盛り上がるわけです。
これは歴史学畑の方の発言とは思えません。
古代イスラエルの下層民に日記の習慣を期待するのですか?
ローマの高官ではないのですよ?
おかしいと思います。
古代の下層民の日記に代わるものがあるとしたら何でしょうか?
板の性質は私なりに理解しているつもりです。
>>300 それは状況証拠でしょう。
史料と言うものは今ないから永遠に見つからないか、と言うとそうは言えない。
たまたま見つかってない可能性と言うのはいつもあるんですな。
歴史がくはそれが見つかった時点で初めて考慮するわけですよ。
今手持ちであるものから説きあかしていくと言うことです。
では聖書がなぜ駄目か、と言うと全部駄目ではないです。
当時の生活習慣や地理的情報など、貴重な情報が山盛りです。
突き合わせる史料がありますからね。
ただ奇跡を信じた情報は聖書にしかない。これが問題な訳です。
>>298 >聖書にかかれたことを信じていた人々を聖書だけから推測することはご法度です。
これについては私の方の言葉が足りませんでした。
訂正させてもらいます。
特定教団が宗教文書だけから状況証拠的に証明されるのみでは確かに歴史学的には判断もためらわれるでしょう。
しかし歴史学的な実在証拠がある場合、その教団の思想を宗教文書から判断する、というのはこれは歴史学の領分でしょう?
違いますか??
仮にそうだとしたら、もっと聖書学と言う学問の性格をきちんと理解した方がよくはないですか?(←これは298氏のことではありません)
また、実在が確かな教団と実在が確かな教団の間の言わばミッシンク・リンクを状況証拠で推定するという作業はどうですか?
これは歴史学ですか?違いますか??
この件でも「福音書でっち上げ説」はナンセンスだと思います。
この関係は、私などよりおそいそらさんらの方がよほど詳しく正確なはずですが。
例えば、クムラン教団と初期キリスト教団の間にイエスが率いた集団の実在を推定する。
これは歴史学でしょうか?歴史学ではないのでしょうか?
>>299 同じ説明を繰り返すのは馬鹿馬鹿しいですが
>神の子・キリストの存在は、
A「護教的推定の積み重ねの結果の結論」これは古代末期のロジックの結論ですね。
B「所詮キリストの血による贖罪は未開人の呪術」これは宗教民俗的なロジックですね、
すでに説明したようにC聖書学のロジックはこれらのロジックとロジックの性質が異なります。
Aは宗教的イデオロギーである、Bは迷信である、故にCも似非真理である。
この論理は似非論理です。
>神の子・キリストは、でっちあげの所産と見なされるべきです。
違います。
神の子・キリストは、特殊な宗教思想の表明であり、その宗教思想は歴史的な産物だ、とみなされるべきです。
306 :
世界@名無史さん:03/04/10 22:12
キモイな
>>304 日記でもあれば、と言ったのは
「日記のようなキレっぱしでもいいから」と言う意味です。
壁に掘ったものとか、なんでもよい。
何か他に記述はないか、と言うことです。日記が必要なんではない(w
キリスト教を信じたひとの中には知識人もいたと思いますが、
まあそれはここでの話題とはずれます。
それから他の人も板違いだ、と私が宣言することにどんな意味がありますか?
それではこれで
>>298 >次々に死人を生き返らせ、自分も死から復活したほどの神人の歴史的記録が
>まったくない。そのこと自体、福音書のイエスが実在していなかったことの
>証拠です。この証拠、どうでしょう。駄目ですか。
論点がズレています。
私も聖書学も、福音書のイエスが実在だ、などという主張はしていません。
福音書で語られた、キリストのモデルになったイエスという人物は実在とみなすべきだ、と言っています。
この違いは明瞭ですね?
309 :
世界@名無史さん:03/04/11 01:01
>>304 神の子・キリストは、特殊な宗教思想の表明であり、その宗教思想は歴史的な産物だ、とみなされるべきです。
その思想は歴史的な産物です。しかし処女から生まれた神の子は実在せず、
空想の産物です。空想の産物とは、つまりでっちあげということです。
310 :
世界@名無史さん:03/04/11 01:36
>>308 福音書で語られた、キリストのモデルになったイエスという人物は実在とみなすべきだ、と言っています。
見なすべき必然性はありません。福音作者の誰が
そのモデルのことを知っていたのですか。民衆の
期待する救世主像が、リアリズム文学の手法で
描き出されただけです。
311 :
世界@名無史さん:03/04/11 01:55
>>305「所詮キリストの血による贖罪は未開人の呪術」これは宗教民俗的なロジックですね。
べつに宗教民俗的なロジックじゃないですね。
文明人の目から見た、ただの皮肉でしょう。
>>309 >その思想は歴史的な産物です。しかし処女から生まれた神の子は実在せず、
>空想の産物です。空想の産物とは、つまりでっちあげということです。
考え方が違います。
>処女から生まれた神の子は、
宗教思想の民俗的な表象です。
これを空想の産物だと言っても構いませんが。
その場合、空想をした民衆は歴史的実在です。
これをでっちあげ、と呼ぶことは、民衆を歴史から切り捨てることです。
そんな歴史観はくだらないしつまらない。
>>310 >福音作者の誰がそのモデルのことを知っていたのですか。
福音書作者は、証人からの証言を聞いて福音書を記述したのです。
モデルとなった人物が実在した、とはそういう事です。
>民衆の期待する救世主像が、リアリズム文学の手法で
>描き出されただけです。
どうでもいいことですが、リアリズムではないでしょう。
>>311 >>
>>305「所詮キリストの血による贖罪は未開人の呪術」これは宗教民俗的なロジックですね。
>べつに宗教民俗的なロジックじゃないですね。
>文明人の目から見た、ただの皮肉でしょう。
つまり、あなたの言う歴史とは、文明人の歴史だという意味でしょうか?
過去や非文明圏の異文化は皮肉な切り口で切り捨てればいい、と。
随分間口の狭い歴史ですね。
あなたいつの時代の人ですか??
キモイな
316 :
世界@名無史さん:03/04/11 14:39
>>313 どうでもいいことですが、リアリズムではないでしょう。
死から復活したイエスが、雲に迎えられて父なる神の元へ
帰っていった、と述べられている。2000年前のリアリズムです。
317 :
世界@名無史さん:03/04/11 14:51
>>313 福音書作者は、証人からの証言を聞いて福音書を記述したのです。
事件から50年〜70年も経ってから、よくそんな証言が聞けましたねえ♪
モデルとなった人物の実在が疑われる、と言っているのと同じですよ。
>>317 >モデルとなった人物の実在が疑われる、と言っているのと同じですよ。
はて?
奇妙なことを言われる。
事件当時10〜30代の人々は、50年〜70年後、60〜100歳ですが。
極単純な計算ですね。
証言が聞かれたことに特に無理はありません。