世界史上の人物をコーエー数値化するスレ!

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303厨房時代小説愛好家
>>207に金春秋があったので、その第一の部下を紹介

金庚信(キムユシン)

【統率】90(部下の人心把握術に長けたエピソードが多く、部下のやる気を引き出すのが上手だった)
【武力】84(唐まで武名が伝わっていた。迅速な用兵と攻城戦に長けていたと思われる)
【知力】81(諜報員をうまく使いこなしている。また援軍を仰いだときから唐軍との戦いを予想しており、先見の明も確か)
【政治】55(ほとんど政治に介入しようとしなかったが、先見性と情報収集力を買ってまあまあと判断)
【魅力】80(死ぬまで部下に信頼されていた)

金春秋〜文武王配下の名将、唐、新羅、高句麗、日本と戦い、統一新羅建国に多大な貢献をした。
西暦595年、新羅の首都慶州生まれ。先祖は加羅国の王族と言われている。
15歳の時、新羅の花郎(騎士階級の一種)となり、武人の道を歩み始める。
いつしか王族だった金春秋(後の太宗武烈王)と意気投合し、対高句麗戦や百済戦で武功を立てる。
唐と共同で百済と高句麗を滅ぼし、援軍の日本を白村江で撃退した後、駐留する唐軍とも戦った。
金春秋は外交の天才で、唐、日本を手玉に取ったが、その背後では彼の軍事的功績が大きかった。
唐軍を撤退させ、統一新羅樹立を見ることなく死去したが、彼が育てた部下がそれをなしとげた。
304厨房時代小説愛好家:02/12/14 01:21
いくつかエピソードを紹介

対百済戦を有利にするために、金春秋が困難な高句麗との同盟交渉に踏み切る。案の定捕虜になるが、
金庚信は決死隊を募って武力を示唆するとともに、わざと高句麗のスパイに情報をリークして金春秋の
釈放に成功した。

645年、百済の7城を陥落させ凱旋した直後、再び百済軍が侵攻してくる、撃退したが3度も襲来。
家族に会う暇もなかったが、家人に自宅の井戸水を持ってこさせ「我が家の水は変わっておらぬわい」
と言葉を残して戦場に戻る。これをみた部下達はすっかり心服したという。

648年、金春秋は失敗した高句麗との外交を補うため、唐に援軍を持ちかける。このときの皇帝大宗(李世民)
は「お前の国には金庚信という名将がいるではないか」との返答。結局、このときは援軍要請には成功したが、
金庚信の優秀さは唐まで伝わっていたことが分かる。

大国唐の介入が決まり、新羅軍の軍規がゆるみそうな時期にわざと隠居し、百済軍を放置した。
当然危機感を抱く人が増えてきて、彼らが自主的に防衛体制を築くように誘導した。

百済との講和時に、殺された金春秋の娘夫婦の遺骨と、先に捕虜にした百済の将軍8人を交換。
このときの名セリフ「木の葉が落ちても、森に変化はなく、チリがつもっても大山に影響はない」実にカッコイイ
結局、この直後の戦闘で百済兵9,000余を討ち取り、9城を占領した。

冬季に生じた対高句麗戦の際、寒風吹きすさぶ中で片肌を脱いで馬を駆けさせた。部下は寒さに耐えた。
唐軍への食糧補給を成功させが、その唐軍はいきなり撤退。
金庚信軍は高句麗領内に孤立するが、奇策とタイミングをつかんだ用兵で追撃軍を撃退、撤退に成功する。
(一度に1万本もの矢を放ち、ひるんだ隙に切り込み、1万近い首級と捕虜将軍を得たという)
305厨房時代小説愛好家:02/12/14 01:21
出典=豊田有恒著「古代史を彩った人々」
ローマネタ、戦国、三国志、近代史ネタは偉大なる先達者がいらっしゃるようなので、手持ちの本から
このスレに未登場の人物を取り上げてみました。

残念ながら、私には歴史書を原文で読むだけの読解力と、出典の信頼性を判断する知識はありません。
先に指摘のあった、朝鮮史の史料の問題もあるでしょうが、参考になれば幸いです。