世界史上の人物をコーエー数値化するスレ!

このエントリーをはてなブックマークに追加
213「ど」の字
 日本人として、豊臣秀吉の唐入り軍に抵抗して戦ったこの人を外すわけにもいかんでしょう。

【李舜臣】 1545年〜1598年   >141の書式で。

【統率】82(当時逃げてばかりの半島出身将軍たちの中で、自軍の統率を保てた一握りの将軍の一人)
【武力】85(転戦を重ねて遂に日本軍を撤退させた功績は大きい。小さい戦いの数々を良くも破綻せずに戦えたと思う)
【知力】72(冷静な現状把握力で、外国の支援を上手く有機的に使って戦っている。思考力も優秀)
【政治】30(この人の弱点。この人が政治勢力を保てていたら、文碌の役は違った展開をしていただろう)
【魅力】70(兵士には慕われていたが、上司同僚に好かれる人ではなかったらしい※)
※なお、現在韓国においてのカリスマは限りなく100に近い。

 漢城(現ソウル)出身。李氏朝鮮中期の人。
 長じて軍人となってからは、女真族との戦いなどで活躍したと記録にある。
 1591年、全羅左道水軍節度使に昇進。亀甲船を建造し水軍を強化。
 1592年からの文禄の役(半島では壬辰倭乱と呼ぶ) 水軍を率いて加藤清正、九鬼嘉隆ら豊臣秀吉による日本の侵攻軍を海上で破る
 以後、日本軍の補給路を断ち、全羅道より西への進出をふせぎ、戦局転換に大きな役割をはたす。
 日本軍の撤退後、軍功によって忠清・全羅・慶尚三道水軍統制使に任命されるも、慶尚右道水軍節度使の元均らに中傷されて失脚。
 1597年からの慶長の役(半島名・丁酉倭乱)開始当初の李舜臣は白衣で(一兵卒として義勇兵的に)従軍。
 自分を讒言した元均が巨済島の海戦で敗死すると、再度水軍統制使を命じられ、日本水軍を撃破。
 1598年12月16日の露梁海戦(麗水沖の戦い)で島津義弘らの軍に勝利し、撤退する日本軍を追撃中、流れ弾に当たって戦死。
 死後、忠武公の名を追贈される。現在も民族的英雄として朝鮮各地に銅像がある。