世界史に置ける秀吉の朝鮮征伐の考察その4

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658世界@名無史さん
>>616 >>649
沙也可 について「看羊録」の記述

1592 壬辰倭乱 

加藤清正の左先鋒として3000の兵を率いて侵入
慶尚兵使・朴 晋に投降

1597 丁酉倭乱,1627 丁卯胡乱で戦功を上げ
「金 忠善」の姓名を下賜される

子孫は慶尚道 達城郡 嘉昌面に存する。
659世界@名無史さん:2005/09/06(火) 15:59:16 0
『看羊録』より 『賊中見聞録』 by姜 (16世紀の朝鮮儒者)

(対馬について)

平時にはただ我が国の関市に通ってそれで生活を維持してきた。
その女子は多くの場合、我が国の衣装を着ている。
男子はほとんどが我が国の言語を理解している。

彼らはいまだかつて日本だと自らを処した事はまずない。
平時にあっては我が国から利益を蒙ること多く、日本からは少ない。
それで将倭かた卒倭に至るまで、我が国を戴く心が日本に附くよりも強い。
いつも朝鮮に渡るには海路が遥かに遠く、波涛も険悪なのだと、
本土の倭に偽りを告げてきた。

秀吉が66州を併呑するに及ぶや、
宗義智は罪を恐れ、ついに我が国を売って秀吉に媚び
その先鋒となったのである。
秀吉は筑前博多の地を割いてその功を賞し、
それで対馬の将倭は初めて粒食することが出来たのであった。
以前はただ我が国から賜う米を食べるだけであった。

しかし義智は倭京にあっても家屋敷を持てず、市楼に賃泊したのであるが
斥けられて、他の将倭らの例にもあずかれなかったという。
660世界@名無史さん:2005/09/06(火) 16:00:12 0
『看羊録』より 『賊中見聞録』 by姜 (16世紀の朝鮮儒者)

(対馬について)

大方の本土の倭は我が国の事情について東西さえ知らず、
戦火を交えて8年になっても我が国の辺将の名さえ識らなかったのである。

対馬の倭は我が国のことについても知り尽くしていない者は居ない。
平時から島中の童子の怜悧な者を択んで我が国の言語を教え、
また我が国の諸文書全般についての詳細も教える。
我が国の眼識ある人でもにわかな場合はそれが倭書であることを識別できない。


我が国と間隙のない時は専ら内附して我が国につくことを意とし、
倭奴が強盛であるときは我が国を裏切って嚮導役を買って出る。
辺将の撫恤、制御がもし適切でなかったら、必ずやこの者共に騙されるであろう。

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宗氏の二股膏薬が全ての原因。
661世界@名無史さん:2005/09/06(火) 16:37:36 0
宗氏にしてみれば、はた迷惑な話を押しつけられて
二股膏薬もへったくれもあったものではないだろうけどな。
662世界@名無史さん:2005/09/09(金) 03:48:35 0
『看羊録』より 『詣承政院啓辞』  by姜 (16世紀の朝鮮儒者)

(日本に囚われて生還した朝鮮儒者から李王へ)

平(柳川)調信なるものは宗義智の家老であります。
表面的には恭しく謹み、温やかで素直な言辞で通訳に伝言させました。

柳川調信が姜に曰く
「前に予めその時期を報告し、上国(朝鮮)が予め防備するように望んだのであります。
しかし大群が席巻して過ぎるに及んでは我が島としては無理をしても従わざるを得ません。
早晩日本が衰弱して上国(朝鮮)が富強になり、大軍が海を渡って東征するとなれば
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やはりやむを得ず従わざるを得ません。
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(本土の倭が)200年来、ひそかに倭船を出してあるいは大海から湖南(全羅道)を犯したことはあっても
いままで一度も嶺南(慶尚道)沿岸に至らなかったのは皆この島が妨いだからであります。 

到底従いがたいような要求はすべて秀吉がこれをなしたもので、今ではもはや
そのような要求はありません。
お国(貴国)からの賜米は、ことさら賜ろうとは思っておりません。」

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日本と朝鮮の間の日和見「バランサー」それが対馬