1 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:14
?
2 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:15
あほ
3 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:20
4 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:24
大室寅之祐の弟、庄吉(1853〜1926)の孫、大室近祐(1905〜1995)は祖父庄吉から聞いた話として、
「わしが12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」
という。
石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。
このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。
孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。
そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。
彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。
大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。
大室寅之祐と、殺害された睦仁親王(孝明天皇の実子)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。
さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。
同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。
やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。
(便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。)
5 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:25
こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。
ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、
>大室寅之祐(明治天皇)と睦仁親王は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。
>寅之祐は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲が得意だった(もと、力士隊にいたから当然か)。
>睦仁親王は女のように華奢で病気がちで、乗馬ができなかった。
>寅之祐は達筆だったが、睦仁親王は字が下手だった。
>睦仁親王は幼時、種痘をしたはずなのに、寅之祐の口の周りには5,6個の痘痕があった。
性格だけは父の孝明帝に似て強情で「幕府擁護」を主張したから、岩倉らはついに邪魔者として片づけることに決めて、7月10日猿に引っ掻き傷をつくらせた後毒殺した。
遺体は母方の中山家に運び出して秘かに葬ったという。
官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。
--------------------------------------
当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。
藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。
実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。
6 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:27
防長における南朝の系譜/松重 正(転載その壱)
大室家の人々の篤くべき証言
大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田
家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人
は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年87才、故あってず
っと大室家で暮らしてきた方である。
この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれる
のだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解
説する。
一、田布施町役場の戸簿謄本を見ると、頭出しに、
山口県熊毛郡麻郷村第五百五拾四番屋敷
前戸主亡夫大室弥兵衛長男
大室庄吉(嘉永三年正月十日生)とあり、つぎに庄吉の母として、
亡祖父文右衛門長女・亡夫弥兵衛妻
ハナ (文化十二年十二月五日生)
つぎに庄書の妻(同村峠嘉右衛門長女)
マチ (嘉永二年八月二十三日生)
そして庄書とマチの間の子として、
長男儀作(明治十九年十一月二十三日生)
長女モト (〃四年正月八日生)
二女タカ (〃八年十一月二十四日生)
三女ツネ(〃十一年十一月一日生)
四女ヨネ(〃十四年十月二十四日生)
五女ツユ(〃十七年六月二十八日生)
二男音吉(〃ニ十二年九月二十六日生)
と記してある。
7 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:27
しかし実際の大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐(嘉永四年・一八五一年生)で
あって、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在したとき、三條実美らはこの寅
之祐(当時一二才)を掌中の珠のように可愛がり慈しんでいたという。
そのため二才年下の次男庄助(一〇才)は、別府村の高城家に預けられて別居す
ることになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤
俊輔が寅之祐を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌三年
四月、寅之祐が「玉」として上洛したとさ、庄吉は一四才であった。
これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方
について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらを
きり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命
はなかったであろう。だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助け
よう」ということになって実家に帰ることを許されたのである。
すると、
田布施町役場の戸籍謄本に、大室弥兵衛長男庄吉(嘉永三年正月十日生)とあ
るのは誤りで、実際は弥兵衛次男庄吉(嘉永六年生で月日不明)というのが正し
いことになる。
また庄吉の妻マチの年令も、当時の慣習からして初子の出産年令が高いことを
考えると、庄吉の年令かくしに合わせたものであって、それは寅之祐の出自を不
明にするために大室家の戸籍を改ざんした結果である。
かくして寅之祐の戸籍は抹消され、あわれ明治天皇はほんとうの雲上人・無籍
者になってしまった。
8 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:28
一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐天皇が女性に化けて、芸者風に
装った女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷に帰ってきた。その中に睦仁の皇后
になったはずの一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりで
あったという。
この勝子は寿栄姫ともいったが、三才年上女房のせいか性慾も独占慾も強くて、
寅之祐の行く所へは何処までもついていった。しかし彼女の子宮には欠陥があっ
たのか、性力旺盛な明治天皇といくらセックスしても子が出来なかった。そのた
め異常に嫉妬心を燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの
一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。
天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多く
は二才までの間に死亡している。
明治一二年、天皇の子を身寵った権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐
れて、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。
この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。
一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々
しく行列を組んで田布施にやって来た。愛子は大室庄助を呼び出して石城山へ登
る道案内をさせたが、彼女がやってきた目的は何だったのであろうか。
天皇の実家が大室家であることを知りぬいてやって来たことは確かであるが、
あるいは庄吉とその係累を抹殺するのが狙いであったかも知れない。今でも大室
家の人々はそのように言い伝えている。それが本当だとすれば怖い話である。
三宅明光寺の所の富永家の側に、この時の従者(女官)が病死したのを葬って
建てた墓があって、墓石には柳沢某の墓と刻んである。ある時、それと知ってか
知らずにか富永家の人がこの墓を移動させたところ、この家にはその後七人の児
が生まれたが、そのうち五人まで足が立たない骨なし子であったという。
これもまた怖い話である。
9 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:31
盛りあがってきましたね。
明治天皇 = 大室寅之祐 説はトンデモで、鹿島氏のデムパと言われますが
この本の殆どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。 鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限れば
はでっち上げではない様です。 自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。
鹿島本の引用要約
・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎
毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か毒殺か」
刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)
他 アーネスト・サトウ
・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎
→ 三浦芳聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)
→ 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」
→ etc...
・明治天皇の変身ぶりについての謎
→ 中山忠能日記
→ 蜷川新/「維新史にこれだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)
→ etc...
・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」
と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)
→ 長島銀蔵/「皇統正史」
・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后?
→ 原敬/「原敬日記」
10 :
世界@名無史さん:02/09/30 22:32
個人的には2chで書き込みがあった次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。
2chオンライン上で大いにもり上げましょう。
1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎
2)有栖川宮熾仁親王の息子、出口王仁三郎・大本教弾圧の謎
3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に南朝の功臣が多く祀られている謎
4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだれ??)
5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎
(226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)
6)田布施住人の勇気ある驚くべき証言(藁
(寅之祐は大室弥兵衛の実子ではなかった、岸/佐藤兄弟の錬金術、橋龍コネクション)
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12 :
世界@名無史さん:02/10/23 11:39
.....
・
14 :
nanasi:02/11/24 15:05
age
http://www.ma.megafit.net/~xpu_8510/oomuro.htm 今、日本史でもっとも熱い話題が明治天皇が即位前後に
大室寅之祐なる長州出身の人物とすりかえられたかどう
かという話題です。事の真偽はともかく、この件に関し
て何らかの噂が、当時から今まで、諸外国であったのでしょうか。
有名なところでは、アーネストサトウや安重根が孝明天皇暗殺説の
噂を知っていたというのがありますが、さて、明治天皇に関しては、
どうだったのでしょうか?
即位前(睦仁親王時代)即位当初の少年京都明治天皇(写真)
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html 睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。
故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。
睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。
御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を
学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。
故に、左利きになる訳が無く、(育ちが良かったので)右利きであった。
基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を
継承。この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。
(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり
切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事に
なり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた
睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、
毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に
「遊戯」にいそしんでいた。睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、
つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。
即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。
つまり、馬には乗れなかった。
即位後(明治天皇時代)1868年1月15日からの明治天皇
◇明治維新後の大室寅之祐東京明治天皇(写真)
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html 明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、
痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。
その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに
描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。
又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。明治天皇(大室寅之祐)は、
左利きだった。 基本は「倒幕開国」(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」を
も厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。
この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、
日本の開国・近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、
アジアで唯一、列強の地位を獲得。明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、
自ら大声で号令した。体重24貫(約90Kg)身長180センチの巨漢で、側近の者と
相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。明治天皇は、書が「達筆」であった。
又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、
馬上豊かに閲兵した。
東京明治天皇(大室寅之祐の明治天皇)(写真)
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html (1866年1月。当時。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。
中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。
フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛)