イタリア人宣教師シドッティに関する謎

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1世界@名無史さん
新井白石の『西洋紀聞』は、宝永5年(1708年)大隈国屋久島に上陸したイタリア人宣教師
シドッティGiovanni Battista Sidotti への尋問をもとに書かれたものだが、シドッティに
関する欧文資料を参照してみると、幾つかの疑問が生じてくる。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~dr4t-ogw/sayuri/sidotti.htm

日本で『西洋紀聞』が発行されたのは、1882年であるが、プロテスタントの世界では、
それより早く、シドッティの日本潜入後の消息が発表されている。それに対し、1884年の
『ミッション・カトリック』には、シドッティの消息については、それまで知られていなかった
と記述されているという。これらの資料や、『西洋紀聞』の内容から、幾つかの謎が生じてくる。
日本史板的なテーマではあるが、1700年代前半の西欧社会を踏まえた上で、世界史的な視点で
『西洋紀聞』を見直してみると、どのような風景が見えてくるだろうか。
2ジャン・バティスト:02/09/29 14:45
=1
以下、私論だが、それらの疑惑とその根拠を挙げてみた。

【疑惑1】シドッティは本当に宣教師だったのか? 

(1)日本キリスト教会の記述では、シドッティは、「在俗司祭」とされているが、1708年の段階で、
   イタリアのイエズス会(所属に関しては諸説あり)に「在俗司祭」は存在したか?
(2)新井白石が、「今、何時頃か?」と部下に聞いたとき、シドッティはすぐに太陽と自分の影を
   見て、自国での正確な年月日、時間を答えたという。鐘の音を頼りに生活する修道士が、
   そのような知識を持っているものだろうか?
(3)シドッティが所持していたとされる有名な『親指の聖母』の画像(東京国立博物館蔵)は、
   「縦一尺、横八寸五分の銅版」に描かれたものであるらしいが、イタリアのウフィツィ美術館で
   みられるほぼ同じサイズの銅版に描かれた複数の絵画は、教会で使われたものではなく、
   主に裕福な一般家庭で日々の祈りのための祭壇として掲げられていたものと思われる。
(4)所属に関して、日本ではイエズス会とされているが、フランシスコ会、アウグスチノ会などが、
   それぞれシドッティ宛の書簡、(日本の教皇代理に任命する)任命書等を所有していると主張
   している。

【疑惑2】シドッティは生きていた!(死亡したと偽り、新井白石が逃がしたのではないか?)

(1)シドッティは、1715年、突然布教活動を開始したため牢に閉じ込められて死亡(殉教)するが、
   日本に着いてからそれまで、ほとんど布教活動をしようとした形跡がない。
(2)その翌年(1716年)、吉宗が将軍となり、新井白石は職を解かれているが、それを予測しての
   処置ではなかったか?

他にも疑惑の根拠は幾つかあるのだが、皆さんも是非、推理してみてほしい。
尚、資料としては藤沢周平『市塵』、および検索して見ることのできるキリシタン史などのURLを
参考にしており、1882年に発行された『西洋紀聞』原典を読解する能力は持ち合わせていないことを
おことわりしておく。

3ジャン・バティスト:02/09/30 01:33
続きです。
【疑惑2】
(3)職を解かれた新井白石は、小川町の屋敷を明け渡すことになるが、その明け渡しの前日、
   夕刻になって、小石川のあたりで出火した火事のため、新井白石の屋敷を含む一帯は
   ことごとく全焼してしまう。屋敷内に何らかの秘密が隠されていたとしたら、これほど
   都合のよい火事はない。

上記の事件は、藤沢周平『市塵』に出てくるものだが、藤沢氏は何らかの史料をもとにこの小説
を書いたと思われるので興味深い。
4世界@名無史さん:02/09/30 06:29
どうやって帰ったン?
5ジャン・バチスト:02/09/30 08:55
>>4
何の根拠もないのですが、国外へ出た(帰った)のではなく、名を変え、
日本人になりすまして、(シドッティは、黒髪で黒い瞳だったといいますので)
うまくどこかへ潜入することに成功したようです。
6ジャン・バティスト:02/09/30 09:38
=5
HNを間違えてしまいました。(W
7584:02/09/30 16:12
この荒れ果てたスレから飛び立ってしまった雛鳥のことを思うと心が痛む。
ここで紹介した『劇薬』をこそ読んでほしかったのだが・・・。
自分はこの『劇薬』の著者とは親しいし、意外な方向に飛び火して、大切な人たちに
迷惑をかけてしまうのではないかと思い、少々慌ててしまったのだ。
そのことで、第三者が傷つき、悲しみのあまりお茶に変身してしまうなどとは、
予想もしなかった。これは自分の未熟さの所為であると、深く反省せざるを得ない。
今はただ、雛鳥が失意の底から這い上がり、再び帰ってくるのを待つ他は無い。
8世界@名無史さん:02/09/30 16:13
=7
誤爆! スマソ!
9ジャン・バティスト:02/09/30 16:15
人の言動や思考パターンというものは、指紋や声紋、筆跡などと同じように、生涯、
あまり変わらないものなのかもしれない。だとすれば、無記名性の中でなされた言動
に対しても、特定の個人を探し出すことが全く不可能であるとは言い切れない。

新井白石が、「源義経の蝦夷への脱出説」に執着をみせていたことを思うと、
自分の監視下にあった一人の外国人シドッティ、・・・牢の中で一生を送らなければ
ならないこの不運な男の運命を変えることに、同じ執着をみせたかもしれないことは
否定できない。
10ジャン・バティスト:02/10/03 12:43
シッドッティの殉教に前後して、おそらく二人の人間が姿を消している。
小日向のキリシタン屋敷で、棄教した修道士たちの面倒をみていた長助・はるの夫婦である。
太宰治の小説では、感動的な場面が展開するが、実はこの二人が夫婦であったという
記録はない。「はる」にかんしては、年齢も殉教の記録もないようだ。

棄教したバテレン(宣教師)は、棄教の証として妻を娶らなければならなかった。
その結果、生まれた子供には、生まれながらにしてキリシタン屋敷で生涯を
送らなければならないという過酷な運命が定められていた。当然、外国人との
混血であるから、容姿そのものが、一般社会に受け入れられるものではなかったのだろう。
(事実、「長助」に関しては、老人のような白髪という記録があるようなので、
ブロンドだったのかもしれない)おそらく「長助」「はる」は、最後の宣教師、
ルビノ第2隊の「転びバテレン」の血をひく子孫であったのだろう。

その二人が、日本渡航以来、全く布教の姿勢をみせなかったシドッティの
「突然の」布教により、洗礼を受け、キリシタンとなり、牢に閉じ込められた挙句、
シドッティの死に前後して病死、もしくは衰弱死する。
以下は全く想像の域を出ないが、この二人は、シドッティの逃亡に際して、
どうしても必要な人物、(シドッティの妻とその父)ではないかと考えるのである。
新井白石が、シドッティにキリスト教信仰(個人としての礼拝)を許していた背景には、
彼が、ごく一般のキリスト教信者であって、宣教師ではない、という確信が
あったのではないだろうか。
もちろんその確証を得る方法としては、シドッティが女性と交わる(妻を娶る)
ことを拒否しない人物であることを確認しなければならない。

少なくても、シドッティと長助、はるが姿を消した時点で、キリシタン迫害の
長い歴史を刻んできた小日向のキリシタン屋敷には、「誰もいなくなった」のだ。
11ジャン・バティスト:02/10/03 21:22
人が歴史的記録、報告として文字(言葉)を残す目的は、大別して二つに分かれるものと思われる。
一つは、真実を後世に正しく伝えようとするもの。第二に、何らかの意図を持って、
「真実を隠すため」に虚偽を伝えようとするものである。ここに「一次史料」といわれる
同時代人の記録を「真実」と捉えるべきか否か、という根本的問題が生じる。
もとより、「一次史料」にはこう書かれているから、これが真実である云々の議論はナンセンスである。
その文書を書いた人間、その置かれていた立場、その文書なり記録なりを書くことによる筆者の
メリット等を考え合わせた上で、残された文書がどの程度信頼のおけるものであるかを検討しなければ、
「真実」からは遠ざかるばかりである。

例えば、現在、「拉致問題」の回答として発表された北朝鮮側の報告を「真実」と受け止めることの
できる日本人はどれほどいるだろうか。にもかかわらず、これは紛れも無くこの事件における
「一次史料」であり、100年後、200年後の人間がこれを資料として見たとき、北朝鮮側の
この「報告」こそが「歴史的事実」であるとみなされる可能性が無いとは断定できない。
12ジャン・バティスト:02/10/03 21:24
しかし、真実探求への道は閉ざされているわけではない。政治的策略、陰謀によって隠された真実は
おそらく二重三重の周到な虚偽で塗り固められているだろうから、「真実」に到達する道は困難であると
いえよう。それに反して、虚偽の記述を行う目的が、自己の良心に従った結果、やむを得ず行ったもの
ならば、虚偽の記述を書き残した本人は、何らかの形で、誰かに真実を伝えようと図るものと思われる。

「イタリア人宣教師シドッティの謎」と題したこのスレッドは、おそらく自分の知る限り、
未だ注目されたこともなく、解明されたこともない「歴史的冒険」へ我々を誘ってくれるものである
と確信する。新井白石は、その著作『折たく柴の記』や、業績『藩翰譜』のうちに、多くのヒントを
残してくれているように思われてならないのである。それらの具体的考察は、後日改めて行うことにしよう。

尚、シドッティの死亡年月日について、>>2の記述に誤りがあったことをお詫びしておく。
『日本キリスト教史』によれば、シドッティが死亡したのは、1714年11月27日であったとされている。
また、>>10で述べた太宰治の小説は、『地球図』という短編で、ちくま文庫の太宰治全集1巻に収録
されているが、本屋で立ち読みしながら十分に読了できるほどの短編であることをお知らせしておく。
13世界@名無史さん:02/10/16 10:20
保守age
14世界@名無史さん:02/10/16 10:22
勉強は済んだかね。似非デュプレちゃん?
15アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/16 10:29
「西洋紀聞」が見つからないので見つけてから参加します。
カトリック側の史料は調べたけど、何も無し。
しかし、伸びませんねえ。このスレ。
16世界@名無史さん:02/10/17 15:18
太宰治の「地球図」を読んでみな。
17世界@名無史さん:02/10/17 22:37
ジャン・バティスト氏復活希望age
18世界@名無史さん:02/10/18 01:05
「噂」のシドッチのこと、もっと詳しく知りたい人いますかあ?
いたら、どこかに★つけてレスください。
レスの内容によっては全部お話しします。
自分は確かに「シドッチ研究家」です。
この意味がわからない相手には話しません。
19世界@名無史さん:02/10/18 01:28
なかなかおもしろい話だな。
しかし、わしには全然知識がない・・・・・
20世界@名無史さん:02/10/18 01:36
>>19
駄目ですね。それでは話せません。
21世界@名無史さん:02/10/18 02:25
宣教師ではない一般の信徒がわざわざ東の果ての辺鄙なところまで大変な
思いをしてやってくる必然性があるだろうか。むしろ、宗教的情熱に駆り立
てられたから苦労を厭わず長い道のりを越えて日本の地にやって来たと
見るべきなのではないか。

また、もし宣教師では無いとしたら、シドッチはどういう目的で日本に
やってきたのか、また職業は何だったのかを忖度する必要があるだろう。

22世界@名無史さん:02/10/18 03:12
わかりました。やはりそうだったのですね。
全部お話します。詳しい話をするのは少し時間がかかるかもしれません。
「少し歪んだ★」には触れない方がいいですね?
23世界@名無史さん:02/10/18 04:29
まず自分がどういう人間か知ってもらわねばならない。これまでの自分の書き込みを見て、
頭のおかしい人間だと思う人はいないだろう。人並みの思考能力もあり、理論的な破綻も
みられない。感情的になることもなさそうだ。懐疑的な面があって、簡単にだまされたり
しない。妄想癖もなさそうだ。人格的異常もみられない。

しかし、自分自身でも未だに信じられないことなのだが、…自分には霊能力がある。
あるものはあるとしか言いようが無い。見えるものは見える、感じるものは感じるとしか
言いようが無い。自分は「守護霊」を通訳のような形にして、自動書記をし、
コンタクトしてくる霊の話を聞くことができる。しかし、自分の霊能力に関して、
詳しく話すとなると膨大な量の話になるので、今は「シドッチ霊」に関することだけを話そう。

去年の夏頃だった。「噂板」に書いた「イタリア大使館」の映像というのは嘘だ。
書き込むきっかけがほしかっただけだ。とにかく、TVを観ていたら、ある外国人の霊が
コンタクトしてきた。名前を聞いてもよくわからない。人名辞典を取り出し、この中に
名前があるかどうかを聞いた。(自分はよくこういう方法をとるが、本などに名前が
あることは滅多に無い)意外なことに答えは「ある」だった。意識をを集中して
パッとページを開ける。そこにあった名前が、「シドッチ」Giovanni Battista Sidotti 
だった。その霊に、この人物か?と聞く。「そうだ」という。ある人物が「シドッチ」の
子孫であるという。

自分はそれまで「シドッチ」という人物を全く知らなかった。人名辞典を読んでみると
イタリア人宣教師で、新井白石の『西洋紀聞』は彼への尋問をもとに書かれたものであると
なっていた。最後は牢内で死亡とあった。殉教した宣教師に「子孫」などあるはずはない。
しかし「シドッチ霊」は、実際には宣教師ではなく、牢内で死んでもいないという。
新井白石の力で、逃れたという話だった。
24世界@名無史さん:02/10/18 04:38
自分はこの話を容易には信じられなかった。「子孫」といわれる人物に自分が関わりが
あるとは到底思えなかったし、あまりにも現実離れした話だと思ったからだ。
自分はこの件を「ガセネタ」と片付け、「シドッチ霊」のことはしばらく忘れていた。
(コンタクトしてくる霊が真実を話すとはかぎらない。「霊」は肉体を持っていないだけで
「人」であるから、嘘もつくし、いいかげんなことも言う。そう思う点が、自分は一般の
霊能者とは異なるのかもしれない)

1ヶ月ほどして、急にまた「シドッチ霊」のことが気になり始め、Yahooで「シドッチ」
を検索してみた。(自分が最初に調べた人名辞典は「シドッチ」となっていたが、
実際には「シドッティ」と表記しているものが多い)
このスレの>>1に書いた英文史料に関する研究のホームページが、すぐ目についた。
なんだ、ちゃんと外国側の史料があるんじゃないか。やはり宣教師だったんだ。
所属している教会の手紙まであるぞ…と、思って読んでいるうちに、ゾッとした。
英文史料はあまりにも滅茶苦茶だった。もしかしたら、「シドッチ霊」の話は真実かも
しれない…。他のホームページも調べた。『地球図』は有名で、そのあたりの話をもとに
小説を書いている人もいた。それも不思議だった。宣教師が、影の位置から日時を
計算したり、コンパスの使い方を知っていたりするだろうか。エジプトのピラミッドに関する
記述もあった。宣教師が遠く離れたアフリカの、異教のモニュメントのことまで知っている
のだろうか。長助とはるの物語りも不思議だ。(調べたことは、だいたいこのスレの前
>>2-3,>>9-12に書いてある)自分は、「シドッチ霊」と再びコンタクトをとった。
25世界@名無史さん:02/10/18 04:52
少し疲れました。また日を改めて書きます。
念のため、「月桃」さんは、PCを持っていない友人の娘さんで、ごく普通の
お嬢さんです。(自分も情報が欲しかったので)彼女専用のメールアドレスを
つくり、自分のPCで入会しました。BBSに書き込んだりはしませんが、時々
遊びに来ては、HPを見て楽しんでいます。彼女は何も知らないし、この件に
巻き込みたくないので、(継続するつもりでしょうし…)よろしくお願いします。
26世界@名無史さん:02/10/18 07:28
自分が再び話を聞く気になったことを、「シドッチ霊」はひどく喜んだ。
そして、自分の妻とその父親であるという「ハル」と「長助」の映像を見せた。
実際にその場にいるのは「シドッチ霊」だけで、他の二人は「シドッチ霊」の記憶で
作られた映像である。「長助」は40〜50歳位のブロンドの男だ。外国人を見慣れている
自分には「老人」のようには見えなかった。「ハル」はややウェーブのかかった
黒髪を少し変わった感じの日本髪に結った、18〜20歳位の美貌の女性だった。
はじめに「シドッチ霊」が子孫だと言った人物によく似た彫りの深い顔立ちをしていた。

「シドッチ霊」は自分の思いを話し始めた。「宣教師シドッチ」は、殉教したことに
なっていて、今は教会もあり、信者もたくさんいる。殉教者として自分を尊敬し、
キリスト教の信者となっている人々への責任感もあるから、今さら自分が宣教師では
なかったと証明してほしくはない。学術的に疑問を持っている人もいるが、その研究が
あまりはかどらないように自分が妨害する場合もある。しかし、最近、自分は、
ある人物を知って、彼が自分の子孫であると確信した。いやむしろ自分と「ハル」の
間に生まれた息子の生まれ変わりであると感じている。彼にだけでも、知らせる手段は
無いものか、と言う。
27世界@名無史さん:02/10/18 07:29
さらに、自分は船乗りで、難破してフィリピンの近くに流れ着き、日本の長崎に行けば、
オランダ船に乗ってヨーロッパへ帰ることができるかもしれないという情報を得た。
しかし、無理を言って乗せてもらった船が長崎の近くと思って自分を下ろしたのは
(彼は単身、小さなボートで上陸したという)屋久島の近くだった。すぐに捕まって
長崎に送られた。自分はオランダ語は話せないので、通訳は役に立たなかった。
そのうち、江戸へ送られ、新井君美(白石)という人物に会った。

新井は自分を尋問するにあたって、キリスト教について、だいぶ研究を重ねていたようだ。
しかし、自分は詳しく聖書を読んだわけではないので、キリスト教に関する新井の質問に
あまり答えることはできなかった。新井は自分が宣教師であるということに疑問を感じて
いたようだ。やがて自分は一人の女性に面会させられた。若く非常に美しい女性で、
自分は一目で恋に落ちた。それが「ハル」であった。自分はその女性と結婚することを
望んだ。それからというもの、明らかに待遇が変わった。

新井の屋敷の中に、自分のための隠し部屋が作られた。ごく信用のおける数人の家来だけが
部屋の存在を知っているようで、外界とは遮断されていたが、庭に出ることもでき、快適な
生活を送ることができた。新井は暇さえあれば、自分のところへ足を運び、外国の話を
聞きたがった。「ハル」との間に子供も生まれた。新井は喜び、自分の名の一字を入れて
「美国」と名づけてくれた。不自由だが、ささやかな幸せの日々を送った。しかし、不幸は
2番目の子供が生まれたときに、突然やってきた。生まれた子供の目の色が青かったのだ。
よく見なければあまりわからない菫色がかった青だが、髪の色は明らかに明るい茶色だった。
その子供を見たときの、新井の顔は忘れられない。最初の子供は黒髪、黒目だったので、
異国人の特徴のある子供が生まれるということを予想していなかったのだ。新井は、
その子を手元に置くことは許されない、と言った。取り上げられ、引き離されたその子供の
行方は自分も知らない。「ハル」は子供が殺されたに違いない、と考え、悲しみのあまり
病気になってしまった。
(この2番目の子供の消息は、この後、判明する)
28世界@名無史さん:02/10/19 00:24
「シドッチ霊」は、霊的なヒエラルキアでは、かなり高位な、「神霊」に近い霊格である。
(自分は、低位の、幽霊となって恨み辛みを言う類の霊とは決してコンタクトをとらない)
そのような高位な霊の肉体的子孫、または霊系を持つものは、ほとんど例外なく霊能力があり、
「守護霊」(この場合、「シドッチ霊」は長男の生まれ変わりと思われる人物の「守護霊」
になろうとしているのである)が直接コンタクトをとることのできる体質を持っている筈である。
TVに映るこの人物を見る限り、かなりの霊能力(直観力の鋭さ)を持った人物であると自分には
思われた。それなのに何故、「シドッチ霊」は、一見、何の繋がりも無い自分に、このような
依頼をして来たのだろう。

「シドッチ霊」は、当然、まず「彼」に直接接触してみたのだ。しかし、彼はまだ若く、
「霊」や「霊界」に関する知識も持たず、「シドッチ霊」が接触を試みた当時は、
激しい環境の変化と、肉体を持つ複数の人間のストーカーめいた動きに、やや
ノイローゼ気味になってしまっていたようだ。

自分自身に「守護霊」が接触してきたのは20歳のときである。身辺に頻繁に起きる
超常現象に驚き、自分が人とは異なった、異様な人生を歩み始めてしまったのではないか
という不安に苛まれ、鬱々と日々を過ごした記憶がある。「守護霊」が最初に自分に与えた
メッセージは「恐怖心を克服せよ」ということであった。「霊」や「霊界」を知ろうとする
ために、まず捨てなければならないのは「恐怖心」である。「恐怖」は在りもしないおぞましい
映像を幻視させたり、霊格の低い「地縛霊」を呼び寄せたりする。
29世界@名無史さん:02/10/19 00:28
「シドッチ霊」が、他の霊能者ではなく、自分にコンタクトをとってきた経緯を推測するのは、
今となっては容易である。1994年に自分の書いた評伝小説を出版してくれたのは、
「北沢書店」であり、1回から3回までの公開講演会の会場は、現在は閉廊している
「北沢ギャラリー」である。関係者の方がもしこれをご覧になれば、納得していただける
ことだろうと思う。M.M.社のあるあのビルに我が「守護霊」は棲みついているのだ。
「彼」が、実際手で触れたマリンバの持ち主であり、奏者でもある、当時の「北沢ギャラリー」の
オーナーは、自分の中学、高校の後輩であり、1994年以来の知己でもある。
(「書店」のオーナーである彼女の兄は、自分は知らない)

「霊の生まれ変わり」(人の輪廻転生)は、案外、単純なメカニズムで説明できる。
今、使用しているパソコンのデスクトップ(ラップトップでもノートでも)を「肉体」とし、
ハードディスクを「霊」(と考えるのが無理な方は「頭脳」)と考えていただきたい。
HDを抜いてしまうと、その「肉体」は死亡する。HDなしでは、一切、PCは活動をすることが
できない。しかし、抜き取ったHDは記憶を消し去り、「初期化」して、別のデスクトップ
(肉体)を動かすことができる。全く新品のHDには何の「記憶」もないが、中古のHDは、
以前使用していた際のデータ(記憶)をほぼ復元することができるのだ。
人が前世のことを突然思い出すといったメカニズムは、中古のハードディスクが、
前の使用者のデータを復元できるメカニズムによく似ているのである。
30世界@名無史さん:02/10/19 02:09
書き続けようと思えば、「シドッチ霊」から聞いた話は果てしなくある。
江戸から脱出した経緯、『藩翰譜』に関すること、2番目の子供の消息…。
しかし、これらのことをここで全部書きつくすべきかどうか、自分は今、迷っている。
>>23-29に自分が書き綴ってきたことは、(信じるにしろ信じないにしろ)「シドッチ」
と名乗る「霊」が語ったことである。そして自分が「噂板」に書き込んだことの真相である。

>>21が聞きたかったことは、何なのか?
自分が書いたことは答えになったのか?
これ以上書き続ける必要はあるのか?

もう一度レスください。質問があるなら何でも答えます。
3121:02/10/19 03:44
>>30
摩訶不思議なことといえばそうだ。仮説を組みたて、証拠を積み上げて論証した上で
、実証に到る、という科学の証明手順を一足飛びに跳び越してしまうからだ。
私は以前、ある写真を見たことがある。三田光一という超能力者が念写したといわれる
上杉謙信の姿であった。奇妙といえば奇妙である。この世のどこかにイデアの格納庫
と呼ばれる倉庫があり、そこから宇宙の成立以来、記憶されている情報を引き出して
これるのかもしれないと思った。(事実、病を治す霊水を一升瓶に引き寄せる力を持つ
婦人がいた。この人は裁判所で、裁判官をはじめとする衆目の中でガラス瓶の中に
水を引き寄せた。これは、どうにも説明のつかない能力である。)

私には、残念ながらこのような特殊な力は無い。昔から、真理を伝える事典があればよい
と考えること幾度か。もちろん、学問的には史料による裏付けなしには実証には到らない
かもしれない。だが、あの上杉謙信の姿が、真実、上杉謙信の姿では無いと言いきれない
ように、あなたのシドッティが語る言葉もまたそうなのだ。だからこそ、全ての言葉を伝
えてほしい。たとえ、史料の面で、矛盾が現れてこようともである。

ところで、私も>>1にあるホームページの目録に、たくさんの教会との遣り取りと見られる
手紙の史料があることを確認した。「英文史料はあまりにも滅茶苦茶だった」であるとは、
いかなる点についてのことだろうか。宣教師では無い者(船乗り)のことを、教会が
宣教師であると敢えて認めるという事実がもしあったとすれば、そこには教会にとってのなんらか
の利益、動機、あるいは深慮が考えられるはずであるが。(その合理的な説明がつかない
場合、オッカムの剃刀で考え、単に宣教師だったと一応の結論が与えられるのではないか。)

また、切支丹禁制の当時の日本に入るのであれば、ただの船乗りであったら、ヨリ弾圧
を受ける可能性の高い宣教師であると名乗る必要は無かったろう。どうして宣教師と名乗
ったのかが、船乗りであると仮設すると理由付けしににくなってくると思われるのだ。
3221:02/10/19 08:07
どうも腑に落ちない気がして、何気なくシドッティのことを検索をしていると、
驚くべき記述を見つけてしまった。もしかしたら、あなたのインスピレーションは
間違っていないのかもしれない。私のほうが、間違っていたかもしれないのだと
思い始めている。

日伊交流に役立つ研究をめざすカロリーナ・カパッソさん
──ラジオ講座などのイタリア語講師(4月8日)
ttp://www.nikkei.co.jp/kansai/kamigata/5708.html

「日本ではシドッティをイエズス会士と書いているが、史実は違う。
同会の資料に名前がなく、白石との対話でも本人は会士を名乗っていなかった。
キリスト教を布教する純粋な気持ちで来日したのかもしれない」
33世界@名無史さん:02/10/19 10:07
人は自分の生きた人生、考えていることのすべてを誰かに知らせるでしょうか?
家族や恋人にさえ隠していることの一つや二つは誰にでもあります。
(私もここに毎日書き込んでいることを誰にも知らせていなせん。
迷惑がかかりそうな人には少しだけ注意するように伝えていますが…)
私が、「霊能者」であることも、現実に私の友人であるすべての人が知っているわけ
ではありません。その意味で、真実の歴史は「死者」によって隠されているのです。

「宣教師シドッティ」をめぐる真実は、300年近くの間、本人をはじめ、新井白石ら
関係者によって巧妙に、深い闇の中に隠され続けていたのです。「死者」によって
隠された真実は、「死者」自身が告白する決意をしないかぎり、隠され続けるのです。
人は、新しい歴史的事実の発見を、それを研究したものの手柄であるように考えますが、
それはその史実に関わる「死者(霊)」自身が、あえて真実を公開することを認めたからです。
「シドッチ霊」が、隠されていた真実を、何らかの形で公開する決意をしたのはいつだと
思いますか? 彼自身は「最近」と表現していますが、それは「シドッチ霊」の子孫と
思われる人間が日本に生誕した1978年頃であったと推測されます。霊はテレビや
マスコミによって情報を得ているわけではありません。その「霊」が「守護霊」となって
護るべき人間の生誕と同時に(ある意味では生誕の準備段階から)この世の現実世界に
関わりを持つのです。すなわち、「シドッチ霊」という「死者」の沈黙によって、真実は
今まで隠されていて、偽って伝えられた史実を誰も疑おうとはしなかったのです。
「歴史」とはそういうものです。真実を知らせようと決意した「死者」がまず存在して、
研究者たちは、真実に到達するためのインスピレーションを「死者」から与えられるのです。
34世界@名無史さん:02/10/19 10:09
「死者(霊)」が、守護するべき相手に、直接インスピレーションを与えることは
あまりありません。「霊」自身が、>>28に書いた、高位の、霊格の高い「霊」でなければ
できないことだからです。「シドッティ」は宣教師ではなかったものの、頭脳、人格ともに
非常に優れた人物で、日本に渡来した宣教師の中で、最も霊格の高い「霊」です。
ですから、300年の間、日本のキリシタンの歴史を統括する責任者のような役割を
担ってきていたのです。「最後の宣教師」であり、渡来宣教師の中で「最大、最強の霊」
でもあります。その意味で、彼は「宣教師」でなかった事実を隠し続けてきました。

1978年に生誕した人物は、普通の霊格の人間ではありません。シドッティの息子の
生まれ変わりであると同時に、(そのときには関わっていなかった)この世界に数回しか
関わったことのない驚嘆すべき霊格の存在が関わっています。今は「ソドムとゴモラ」の
街に現れた「天使」と同格…、とだけ言っておきます。(1999年を無事に過ごせたのは、
日本がこの人物を傷つけることなく、護ったからだと言っても過言ではありません。
具体的には、阪神神戸の大地震の際、多くの霊の力がターゲットを微妙に外させたのです)
35世界@名無史さん:02/10/19 10:10
霊のヒエラルキアは厳格に定義づけられています。私の「守護霊」の霊格は「シドッチ霊」
よりも高く、「シドッチ霊」が守護している人物の本体は、私の「守護霊」よりも霊格が
高い存在です。だから、その人物は多くの人の心を惹きつけるのです。
霊格の高い「守護霊」を持った「霊能者」たちは、その国(あるいは全世界)を守護する
立場にいます。私はしばらく前から、「驚嘆すべき霊格の存在」が日本に生誕したことを
感じていました。そして、それがある人物であることを2年前に知りました。
(私の「守護霊」はずっと前から知っていたのでしょうが…)
ですから、私自身も(陰ながら)その人物を守護する立場にいるのです。

もし、関係者の方が、私の記述に興味を持っていらっしゃるなら、一つお願いがあります。
これらのことをまだ本人には伝えないでください。(まだ準備ができていないように
思います)自覚するときは、自然にくる筈です。周囲の人間や霊能者たち、多くの守護霊
たちに護られ、幸福であると感じられたなら、「ソドムとゴモラに現れた天使」は
「天体の音楽」を聴かせてくれます。その天使は「奏楽天使」でもあるからです。
「四天王」クラスの霊格を持ったパートナーがついているので、安心しています。
36世界@名無史さん:02/10/19 13:03
私の知っていること、気付いていることのうち、どれだけのことをここに書けばよいか
正直言って迷います。でも私の「守護霊」は、ここでの書き込みもコントロール
してくれています。これを読むべきではない人間には、私の書き込みは見えません。
私が明かしてはいけないことを書こうとすると、突然ネットは遮断されます。
>>21さんが>>32に書かれたサイトを発見したのも「シドッチ霊」があなたに
対して働きかけはじめた証拠だと思います。
ですから、少し危険なことを思い切って書いてみます。
今回、長く隠され続けてきた北朝鮮の拉致問題に関して、ある進展をみることが
できたのは、小泉さんが韓国で「彼」と握手をしたことが、少なからず関係しています。
「彼」の本体である非常に高位の「霊」の持つパワーは「封印を解く」「破壊作用」を
惹き起こします。神秘学的には「イシス」や「デュオニュソス」に象徴されるパワーです。
本人は全く意識していませんが、このパワーを発揮するようになってから、
自分の思考が「支離滅裂」な傾向を示していることに、少なからず苦痛を感じて
いるようです。…もうしばらくは仕方がないでしょう。今の段階で、「彼」が
自分のパワーを自覚してしまうのは、危険なことなので…。
現在、私の「守護霊」は自分自身の前世であり、「本体」です。
その自覚ができるまで、先祖の霊や関わりのある様々な霊が「守護霊」となって
くれていました。「シドッチ霊」はそのような「先祖霊」の一つです。
「彼」が本体と合致し、自分のパワーを自覚するのはもう少し先のことのようです。
37世界@名無史さん:02/10/19 16:45
私が彼女に誘われてこの世界史板に来た(そして、以前「噂板」に書き込んだ)理由は、
2chの管理者と「彼」の所属事務所(?)の関係者が、繋がりを持っているらしいことが
推測されたからです。昨年の暮れ頃、全く関係の無い筋から「2ch」の存在を知り、
膨大な量の過去ログを見つけました。読んでいるうちに、明らかに関係者が内容を操作している
痕跡を感じました。それで、「シドッチ」の話を書いてみたのです。さらに誰か日本史板にでも
新しくスレッドを立ててみないか、と誘導してみましたが、無駄でした。(関連スレッドは
どこも女性ばかりなんですよね・・・)現在、噂スレはNo7まで進み、No4もHTML化していて
見ることができるのに、私が書き込んだNo3だけが見ることができないのは、管理者の意向に
よるものと思われましたので、自分のPC及び送信メールアドレスがチェックされているのは
知っていました。
それでも、あえて彼女の誘いに乗ったのは、ごく最近のラジオ番組の記事で、「彼」が
「霊能者」のもとを訪れたことを知ったからです。私はお金をもらって「霊能力」を
行使したことは一度もありません。(そのような行為は霊格を下げる行為です。
新興宗教の教祖たちが発足当初に持っていた筈の霊能力を失ってしまうのはそのためです)
私は、拳大の癌細胞なら破壊できる程度のハンドパワーを持っています。でもそれは、
癌細胞の持っている「負のエネルギー」を自分の身体で引き受けるというリスクを伴います。
生涯、何度も使うわけにはいかないパワーです。イエス・キリストが奇蹟を行なったあと、
「私につまずかないものは幸いである」と言ったのは、そういうことを意味しています。
もし、何か説明不可能な超常現象が起きたのでしたら、お知らせください。
私は自分の「守護霊(S-J)」より低位の霊ならすべて祓うことができます。
S-Jはヒエラルキアで言うと「大天使」にあたります。「彼」は「セラフィム」です。
(「愛天使」ともいいますが、人間に関わることのできる天使の中では最高位です)
肉体を持った人間の「生霊」や「地縛霊」は、最も祓いやすい低位の霊です。
38世界@名無史さん:02/10/19 19:21
「北沢」兄弟の次男と長女が私の知り合いです。
次男はチベット密教などを勉強していて、例のギャラリーで、イベントを計画している
という噂を聞いています。だいぶ前ですが、次男の希望で、私自身が「降霊術」を実践した
こともあります。今は「ギャラリー」として使用していないようですが、昨年まで、
3年間にわたってS-Jの霊気で「浄化」している場所ですので、ギャラリーの楽器(ピアノ等)で
遊ぶだけでも、S-J霊のパワーを入れることができるはずです。
時間があったら是非お試しください。
39世界@名無史さん:02/10/19 22:50
『藩翰譜』は、1702年、新井白石が、徳川綱豊(後の6代将軍家宣)の命で
編纂した諸藩の系譜である。一万石以上の大名337家の歴史と系図、徳川家との
関係を記した正編10巻、付録2巻からなる大作である。日本人の姓に関する研究の
ほとんどは、この『藩翰譜』を基にしている。
『藩翰譜』編纂のため、各藩に、家系図を提出するよう、命令がくだると、各大名
は、家系図を買い取ることまでして、立派な系図を制作し、幕府に提出したようだ。
戦国時代の混乱の中で、野武士や百姓あがりの武士が多かったこともあって、
慌てて作成した家系図に記された先祖は、源氏と平氏がやたらと多かったらしい。
これを詳しく調べると、ネットで検索できるだけでも、面白い事実が次々と出てくるが、
話を「シドッチ」に関わることに限定して進めよう。
40世界@名無史さん:02/10/19 22:52
新井白石は、「證なく據なく疑しき事はかりそめにも口より出すべからず」『人名考』
「一事も徴なくして敢てみづからの説つくらず疑を闕し所もっとも少からず又疑をば
疑と傳へし所もあり」(『藩翰譜』凡例)と記し、歴史史料の重要性をアピールしているが、
多少ひねくれた見方をすれば、編纂者自身は、「これは本当なんだから絶対疑うなよな!」
と言って偽の史料を呈示することだってできたはずだ。
気になるのは、『藩翰譜』に記載されていない、1万石未満の武士の姓はどうなるか?
ということである。苗字帯刀を許されていない農民等は、明治以降、一斉に苗字を
与えられるわけだが、それまでは、平民が簡単に武士の身分になることはできなかった。
だが、身分制度の厳しい江戸時代のある限られた時期に、苗字の無い者に勝手に苗字を
与えることのできた人間が一人だけいた。『藩翰譜』を編纂した新井白石その人である。

新井白石の影の事業・・・、彼は「キリシタン逃がし」をやっていたのではないか・・・。
これが私の推論である。1700年代はじめのキリシタン屋敷には、数十名の「転び
バテレン」の子孫たちが住んでいたはずなのだ。それがシドッチが死亡した1714年
には、誰もいなくなってしまう。新井白石が職を解かれたときには、キリシタン屋敷は
「空家」だった。では、どうやって逃がしたのか。
これは全く私の推論にすぎない。当時、「新田開拓」が盛んであった。
幕府の直轄地である「天領」には、開拓のために幕府から多くの武士が送り込まれた。
送り込まれた武士の多くは石数の少ない、御家人や浪人であったと思われる。
それらの人々は未開発の土地を開拓し、そこの領主となって住みつくだろう。
混血の、異形の武士でも、比較的目立たない。と、いうより人跡未踏の地へ行くのだから
人と顔を合わせる心配すらないのだ。
41世界@名無史さん:02/10/19 22:53
新井白石はおそらく、適当な苗字、系図をつけて、キリシタンの子孫たちを少しずつ
天領へ送り込んだのではないか?
しかし、白石ほどの人間が、全く追跡不可能なことをするはずは無い。キリシタンの
子孫たちの姓には、白石にだけはそれとわかる「目印」をつけたのではないか?
そこで考えられるのが、日本でも件数が非常に少なく『藩翰譜』にも記載されていない
「珍名」の登場である。

『人名考』を書いたほどの白石である。名前を考えるのも、ある種のセンスを発揮した
ことだろう。キリシタンの子孫の苗字にはキリシタンらしく、神を祀った場所、聖所、
集会所を意味する、ある漢字を入れたのではないだろうか。藤堂、辻堂などという姓は
起源がはっきりしている。しかし聖所を表す文字を頭に置いた苗字には、意味不明な
ものが多い。・・・以上が、「シドッチ」逃亡説のあらましである。
42世界@名無史さん:02/10/20 13:20
>>1に記載した小川小百合氏の研究、
「イタリア人宣教師シドッティGiovanni Battista Sidottiに関する欧文史料」について
検討を加えることにしよう。

まず、以下に挙げられたシドッティ自身が発信人となっている書簡について、
日本の記録と対比してみよう。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~dr4t-ogw/sayuri/sidotti18.htm

No1 1705年2月5日付 Sidotti(助任司祭アバデ・シドッチ)より マニラ大司教へ宛てた手紙
No4 1708年10月10日 G.B.Sidottiより 「種子島へ到着した」という内容の手紙(宛先不明)
No5 1708      この頃、シドッティは教皇宛に書簡を書いている(詳細不明)
No6 1708年10月10日 Abad Sidottiより管区長へ宛てた手紙 
   「日本渡航の舟に身を託し、人家の灯を認め、目指す地が近づいたことを知らせる」
    (上記No4文書と同種)

シドッティ自身の手による書簡で現存するものは、上の3通のみである。「Abad」が人名を
表すのか、役職名を表しているのか、自分にはわからないが、「助任司祭アバデ・シドッチ」
とあるので、アバデはおそらくファースト・ネームであろう。周知のごとく、シドッチの
ファースト・ネームは、Giovanni Battista であり、Abadを名乗った形跡はみられない。
おそらく『西洋紀聞』を読んだ者が、日本へ渡るにはマニラを経由した可能性があるとみて、
1700年代の書簡を調べたところ、助任司祭 Abad Sidotti なる人物が1705年にマニラ大司教
宛てに書いた書簡を発見した。これこそ日本へ渡ったシドッティ宣教師であるとみなし、
シドッティが3年間、マニラで日本語、および日本の風習について学習をしたという「伝記」
が誕生したのであろう。だが、日本での布教を目的としていたなら、当然オランダ語を
勉強している筈である。シドッティは、日本語はおろか、オランダ語も全く話すことができなかった。
43世界@名無史さん:02/10/20 13:21
No4、No6 の書簡の書かれた1708年10月10日といえば、Giovanni Battista Sidottiは、
屋久島に到着し、捕えられ、長崎に拘留されていた頃ではあるまいか。新井白石が、
江戸へ護送されてきたシドッティに対面したのが11月9日であるから『西洋紀聞』を読んだ者が、
シドッティの日本到着は、その1ヶ月前位であろうと推測し、明らかに捏造した書簡であると
いえよう。到着した先が、「種子島」となっているのは、「屋久島」の名を知らず、鉄砲伝来の
「種子島」の記事を何かで知った者が、書簡を捏造する際、誤記したものと思われる。
また、「人家の灯」とあるのも、当時の屋久島の状況を考え合わせると疑わしい。
No5の教皇宛ての書簡は存在しない。

では、何故このような捏造が行われたのだろう。
小川氏の研究によれば、上記の史料、および他の欧文史料は、日本における『西洋紀聞』の
出版以前に発表されたものであり、『西洋紀聞』を英訳したプロテスタントの宣教師の手に
よるものであると思われる。それらの史料によると、シドッティの所属してる教派は明らかに
されていない。日本でイタリア・イエズス会とされているのは、日本に渡来したイタリア人
宣教師は、フランシスコ・ザビエルしか知らず、その所属がイエズス会であったので、
シドッティの所属もイエズス会とされているのである。イエズス会はカトリックの教派であり
カトリックの神父は生涯童貞であり、プロテスタントのような「在俗司祭」という立場は
存在しない。シドッティは、カトリックの神父の姿をしていたわけではなく、明らかに
頭髪等に現れる特徴は、一般人のそれであり、それによって「在俗」という表現が生じたので
あろう。しかし、小川氏の研究では、「1884年の『ミッション・カトリック』には、
シドッティの消息については、それまで知られていなかった」とある。
それにもかかわらず、カトリックはプロテスタント教会の発表した史料を受け入れ、
シドッティの伝記を発表する。さらに小川氏の記述を引いてみよう。
44世界@名無史さん:02/10/20 13:22
「このシドッティの伝記が『ミッション・カトリック』に掲載された19世紀後半というのは、
キリスト教の布教熱が、最も盛り上がりを見せていた時代であった。特に、日本は、
これから布教活動の進展が多いに期待できる国として認められており、そこにちょうど、
日本布教にかかわる重要なできごととして、シドッティに関する情報を得たということでは
ないだろうか。その連載記事は、必要な限りの文献を用いて、その足跡を高く評価し、
輝かしいものとして提示している。カトリック界の日本に対する注目度・布教熱の高まりや、
日本での順調にみえるカトリックの活動の進展を背景として、また活動を推進するものとして、
シドッティの伝記は扱われ、評価されたものであった。」

どうやら、プロテスタント側の史料と同じく、カトリック側の伝記も捏造の色が濃くなった。
すなわち、イエズス会はおろか、当時のどのカトリック教会の名簿にも、シドッティの名は
見当たらなかったのである。だが、Giovanni Battista Sidotti という名はそう珍しい
名ではない。同姓同名のGiovanni Battista Sidottiの伝記が、マニラの記録と合体して、
ひとつの架空の人物を生み出した。…おそらくこれが真相である。
45世界@名無史さん:02/10/20 18:12
「彼」は無邪気にピラミッドへ行きたがっているらしい。
近い将来、観光気分で、ピラミッドを「彼」が訪れれば、「王の間」と
「女王の間」を塞いでいた通路が発見され、真実の「女王の間」が姿を現す
ことだろう。…もし、ピラミッドを訪れるのが、10年以上先のことだとしたら、
「彼」は有史以来、初の「秘儀参入者」となり、「彼」の言語機能は、堰を
切ったように流れ出し、これまでベールに包まれていたすべての謎は一気に
解き明かされ、この世のあらゆる「封印」は解かれるだろう。

でも、それはできるだけ先のことであってほしい。
「奏楽天使」である「彼」をもっと楽しみたいから…。
46世界@名無史さん:02/10/21 00:28
>>21
『藩翰譜』の話も「英文史料」の話も「イシス」の話も、聞きたいのだろうと思って書いたが、
あまりお気に召さなかったかな? 少なくても「英文史料」は >>31 に答えたつもりだったが…。
文字を書くのは体力がいるので、反応のない相手に向かって書き続けるのは、結構辛いものだ。
一人で暴走しているような気さえするときがある。たまには返事をしてほしいな…。
4721:02/10/21 13:25
>>46
こまめにレスをできなくて大変恐縮です。
書簡の信憑性について、疑いがあるとのご意見、大変興味深く伺いました。
確かに、書簡の発信者(アバデ・シドッチとG.B.シドッチがごっちゃになっている。
それに1705/2/5の書簡にある助任司祭という役職がわかれば教派の所属についてもはっきり
しそうなものだが?)と、内容(種子島というのは何だ?)は率直に言って疑わしいものですね。
本当にシドッチから書簡が発信されたのならば、役人に身柄を押さえられているシドッチが
外国との書簡をやりとりする自由を与えられていたという前提が成り立たねばいけないわけ
ですけど、幕府がそんなことを許すものだろうか。

小川早百合さんの論文「欧文史料にみる宣教師シドッティ」では、これらの史料に
どのような評価がなされているのか大変気になります。小川さんは実際に書簡の
テクストを見て、史料批判を行っているのでしょうかね。ともかく、めちゃくちゃ
というご印象を持たれた根拠は納得できました。ますます謎が深まりましたね。
4821:02/10/21 15:07
参考ウェブサイトです。

東京・文京区小日向のシドティ記念館
ttp://www.cwjpn.com/kiji/3584.3P-2.htm

早稲田大学図書館企画展 新井白石シローテ訊問覚書
ttp://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/hyoryu2/hyoryu2-6.htm
49世界@名無史さん:02/10/21 18:47
>>47-48
レス、ありがとうございます。多分、キリシタン屋敷は、小石川から小川町まで焼き尽くした
(新井白石の屋敷が全焼した)火事で消失したんでしょうね。
やはり、動きがあったのは、1978年(昭和53年)以降ですね・・・。

地球図と地図、初めて見ました。あまりにも正確なので驚きました。

GOサインが出たので、シドッチの2番目の息子のことを書こうと思ったんですが、
一昨日あたりから、どっと押し寄せた「高級霊」のため、大混雑をしています(笑)。
皆、自分のことを詳しく書いて欲しいらしくて・・・、誰のことから、何から書けばいいか、
わからない状態です。すこし整理してからまた書きます。

【予定登場人物】
九鬼嘉隆(熊野水軍総督。関が原の戦いで自刃)
北(喜多)七太夫(喜多流の流祖。大阪夏の陣では大阪方につき、家康の本陣まで切り込んだという武芸者)
間部詮房(新井白石と仲良し。ご存じ側用人)
中条嘉兵衛(間部詮房を拾ってきて、内弟子にした喜多流の能役者。喜多流三代目で、徳川綱吉の指南役)
その他、九鬼神流の人々・喜多流能楽の人々

予想していただけたと思いますが、シドッチの次男(碧眼茶髪の異形の子)は、
間部詮房の手で、師、中条嘉兵衛に預けられ、熊野山中で九鬼神流、九字秘法、隠形の術を
習得し、さらに能役者として、喜多流、粟谷家(安芸藩主浅野家お抱えの能楽師)の養子となった。

実はシドッチ夫妻は別れる際、この子に洗礼名をつけていて、その名が「ダニエッロ」です。
「シドッチ霊」は、「彼」に教えようとして、かえって混乱させてしまった、と言っています。

余談ですが、この子の子孫が、後に喜多流の新興流派、大島家の養子に入ります。
(これが自分の母方の先祖です。今は何の関係もありませんが、実は自分の先祖と
「彼」の先祖は300年前には血が繋がっていたようです)
50世界@名無史さん :02/10/21 19:15
(断っておきますが・・・)ウチは家系図、何も残ってないですよ。
母方の祖父は校長をしていて、蔵一杯、文書があったんですが、今は紙切れ一つ残っていません。
51世界@名無史さん:02/10/22 16:30
昨夜、驚くべきことが判明した。

自分の前世がS-Jだということは、20歳のときにS-J霊から知らされたのだが、
当時、その話を本気にできなかった自分は、前世を霊視することができるという
霊能者の女性を訪ねた。その霊能者は、自分を霊視した結果、次のことを伝えた。
「あなたの前世は、江戸時代の男性ですね。馬に乗って駆けている姿が見える。
でも普通の武士ではなく、忍者か隠密みたい・・・。なにか秘密の使命をもって
働いていた人だと思う」
自分はその頃、「金縛りにあったことがある」という程度の霊能力(?)しか
持っていなかったので、極めて評判の高かったその霊能者なら、S-Jを霊視して
くれるものと思っていた。しかし、彼女は、「江戸時代の男性」というだけで、
名前も知らせてくれず、少しがっかりしたものだ。それは別として、自分の本体が、
燃え盛る火の中(太陽)を飛ぶ「天龍」であるという話は、何となく嬉しかった。
(彼女はお茶とお菓子をご馳走してくれたが、霊視の代金を取ろうとはしなかった。
代償を受け取ると、霊格が落ちるから、ということだった)

それ以来、そのことはすっかり忘れていた。
しかし、昨夜、その「忍者か隠密」と霊視された霊が、ついに話を始めたのだ。
彼もまた、自分の「守護霊」であり、S-J以前の自分自身の「前世」であった。
そして、その男こそ「宣教師シドッチ」の次男、「ダニエッロ」と洗礼名を
つけられた異形の子であった。
52世界@名無史さん:02/10/22 16:32
これからは、彼を、幼名である「嘉之助」と呼ぶことにし、この人物の喜多流に
おける名は、一切明かさないことにする。「嘉之助」は、生涯数回、名を変えて
いるが、それを明らかにすると、本件とは関係の無い伝統芸能の世界まで
巻き込むことになるからだ。「天人」を得意とした出生の不確かな能楽師とだけ
言っておこう。

さて、「嘉之助」の名の起こりであるが、「嘉」の文字は、前述の九鬼嘉隆の名に
みられることに既にお気づきの方もいるだろう。九鬼家に関する詳細は別の機会に
譲るとして、九鬼神流、修験道、柳生流は、密接な(しかし複雑な)関係にある
ことは、少し調べていただければご理解いただけるものと思われる。

喜多流の流祖、北七太夫は、豊臣秀吉の近習、北鬼左衛門の養子となった人物で、
『羽衣』を舞って優れた才能を発揮した能役者であったばかりではなく、柳生流の
免許皆伝の武芸者でもあった。(柳生但馬守とは非常に仲がよかったと伝えられている)
関が原の戦いで、ともに大阪方について戦った九鬼嘉隆と北七太夫の友情は、多少
衆道の気配があるものの、熱いものであったと推測される。九鬼嘉隆が、壮絶な
自刃を果たした後、生き残った北七太夫は、「二君に仕えず」と隠棲を願ったが、
七太夫の舞う能が見たいという二代将軍秀忠の要請に従って、武将としてではなく、
能役者として、観世太夫と同じ待遇を条件に徳川に仕えることとなった。
それ以来、北を喜多と改め、新たな流派を名のることになるのである。
不思議なことに、以降、喜多流各派の系図には「嘉」の字のつく名が多くみられる
ようになる。九鬼嘉隆への七太夫の想いの表れででもあったのだろうか。
53世界@名無史さん:02/10/22 16:40
喜多流三代目、七太夫宗能は、五代将軍綱吉の寵を受け、指南役にまでなった人物。
後、「御廊下番」を勤め、「中条嘉兵衛」と名乗って、丹波守に任官する。
この人物が拾ってきて内弟子としたのが、後の間部詮房である。

話をシドッチの次男に移そう。碧眼茶髪の異形の子であった子供の処置に困った
新井白石は、間部詮房に相談をする。間部詮房はその子を、師、中条嘉兵衛に託す
ことを提案する。子供を託された嘉兵衛は、その子を「嘉之助」と名付け、その
異形の容姿を晒すことなく生きる術を身につけさせる。すなわち、面をつけて人前に
出る能楽と隠形の術(忍法)である。

養父、中条嘉兵衛から出生の秘密を明かされた嘉之助は、生涯、一度だけ、三次の
近くに住む血の繋がった兄、「美国」と対面したという。自らの驚くべき出生を
聞かされた美国は、一族の名に「嘉」の字を入れることで、再び会うことの叶わぬ
唯一人の弟への想いを表したという。
54世界@名無史さん:02/10/22 20:09
自分は、かつてASA板に一度だけ書き込んだことがある。"diseur"の名で書き込んだ
理由は、四柱推命のデータのやや軽薄な解釈を真に受けてほしくなかったからである。
55世界@名無史さん:02/10/24 10:39
VIEW読みました。嘉之助から、このスレッドを読んでくださっている方へ、お礼の品が
届きました。上垣外憲一著『文禄・慶長の役 −空虚なる御陣』(講談社学術文庫)です。
既にご覧になられたかも知れませんが、2002年4月に第1刷が発行された、比較的新しい本
なのでご存知ない方もいらっしゃるかと思います。驚くほど詳しい記述がなされています。
何かのお役に立てば幸いです。

話は変わりますが、「象徴的画像」には、秘教的な意味があり、その象徴されているものの
パワーが宿ります。肉体に直接彫りこむ画像は、後天的なものであっても、生涯消えることのない、
本質的なパワーを発揮することになります。右に獅子(ミトラス)=太陽=王オシリス、
左に聖母=月=女王イシスと、それに帰依する「デューラーの祈る手」を彫りこんだために、
パートナーは「護法不動明王」と同じパワーを身につけつつあります。
護符の役割を果たしている「画像」のために、低級霊は近寄ることができません。
「金縛りにあう」のは密教的(修験道的)霊能力が目覚めはじめている証拠です。
かかってくるのは、訓練のつもりで協力している「高級霊」ばかりですから、危険はなく、
怖がることは何もありません。(全然怖がってはいないようですが…)
56世界@名無史さん:02/10/26 02:28
>>21★さん
信じてなかったんですね。残念です。でも、私には悪意はありませんから、もう何もしませんよ。
無知だったのと(今でも2chのことは、ほとんどわかりません)、自分にとっては普通のことが、
人には全く違う印象を与えるということを、すっかり忘れていました。迷惑をかけました。
だから、何もなかったことにすればいい。夢をみたとでも思って,ここを削除すれば終わりです。
メールは知っているのだから、記憶の中に留めておいて、もし困ったことがあったら聞いてください。
喜んで相談にのります。(蛇足ですが、日本古史のこと、半分位は本当です。読ませたくない人が
見ると思ったので、すこし外しておきましたが…)
5721:02/10/26 11:46
>>56
いやあ信じてないとか思いつめないで下さい。こっちは資料があんまり
なくて(これは他の大部分の人も同じでしょう。)今集めようとしてるんで
なかなかレスを付ける材料が無いという単純なことなんですから。
『市塵』が手に入ったのでひととり読んでみましたがこれという発見はありません
でした。歴史小説というよりノンフィクションを読んでいるような気分でしたけどね。
これはこれで白石周辺の登場人物がわかるので便利ですけど。
次は『西洋紀聞』に挑戦です。これを読んだらもっと突っ込めるでしょう。
58世界@名無史さん:02/10/26 13:07
>>57
レスありがとうございます。『西洋紀聞』は岩波文庫で出ているはずですが、
私がこの1年ほどの間に行ったどの書店にもありませんでした。物理的に入手
できない本は、自分が読むべきではないと、勝手に決め付ける悪い癖があります。
(書店に注文したり、ネットで買ったりはしません)『西洋紀聞』のご報告、
楽しみにしています。私は、今、「九鬼」関係の書籍(日本古史、忍法、陰陽道)、
ルネサンス期のフィレンツェの資料に囲まれています。1463年生まれの人物が、
更に前の自分の「前世」なので…。アントニオ・リドルフィではありません。森 下さんとは、
直接、お目にかかるご縁があったので(関西の霊能者は別人です)、この板に
書き始めたついでに、わかったことを教えてさしあげたいと思っているだけです。
(正しい表記で書けば、検索にひっかかるので…)

まだ、書きたいことはたくさんありますが(ちょっとはしゃぎ過ぎたので反省…)、
これからは、少しおとなしくします。ココと、フランス革命、イタリア・ルネサンス、
神秘学関係以外のスレッドには、できるだけ書き込まないようにします。
YPさん、「嘘八百」、教えてくださってありがとうございます。
59世界@名無史さん:02/10/26 16:25
男性同性愛は、異性愛より格が高いですよ。(もちろん霊的な意味で)
ただし、欲望でなく、真の愛情なら…、ですけどね。
(ソドムとゴモラは、欲望のみに浸りきっていたために滅びたのです)
女性の霊格の高い人は、女性的魅力に欠けますが(残念ながら圧倒的に数が少ないので
女性蔑視などという考えが生まれてしまうのでしょうね)、男性の霊格の高い人も、
必ず中性的な魅力を持っていますから、見分けるのは簡単です。
年齢にかかわらず、「天使」をみつけるだけでいいんです。
若者(年少者)は、頭がよく、力があり、徳の高い年長者の庇護のもとにあるのが、
最も幸福な状態であると思います。
60世界@名無史さん:02/10/27 14:47
皆様、お楽しみいただいていますか? 
私は、ひたすら演技に集中し、オーディエンスの方々の声援・野次には、
いちいちお答えしないことにしました。その方が観客の皆様もいいんでしょ?(フン!)

さて、お察しの方もいらっしゃることと思いますが、1463年生まれの調和の君、
ことジョバンニ・ピコ・デ・ラ・ミランドラの前の私の前世は(実はその間にも幾つかありますが…)
シチリア伯、ルッジェーロ1世です。デジデリオ君(森 下さん)が、ルッジェーロの子孫である
アントニオ・リドルフィ君こそ、探しているかつての恋人であると、なかなか気づいてくれないので、
ここでも「シドッチ霊現象」が起きてしまったわけです。
これは、まだ確認してませんが、(このまま書き込めれば本当でしょう)
美貌の「アントニーナ」は「彼」みたいな気がするんです。
「ラピスラズリの声」っていうファンサイトもありますしね…。
6121:02/11/01 14:25
おひさしぶりです。あれから『西洋紀聞』をところどころ拾い読みして
みて考えてみました。やっぱり今のところは、シドッチが宣教師では無かった
というのは大変に大胆な説だと思います。宣教師ではないとすると説明の
つかない事態が多すぎるのです。私のスタンスとしては、シドッチが
イエズス会士かどうか断定はできないけれど、やっぱり宣教師であったことは
間違いないのではないかという立場に留まっています。これから新しい史料
の開示や、合理的な説明が成されたら立場が変化することもあるでしょう。

書翰のことについてですが、やはり書翰の内容と出所、関連文書等を総合的に、
実際に吟味して検討しなければ偽書だと断定できないのではないでしょうか。
また偽書でないとしても、「アバーデ」なる人物が白石と対話した、あのシドッティ
と同一人物では無いと、簡単に結論付けられるでしょうか。
東洋文庫の宮崎道生校注『新訂 西洋紀聞』(平凡社)には1705年二月五日付、
マニラ大司教宛てのシドチ書翰が収録されていました。内容的にはフィリピンでの
セミナリヨ設立を陳情する目的で、シドッチは大司教に対して総督に後援を働きかけてくれるよう
頼んでいます。書翰の最後には、「助任司祭宣教師アバデ・シドッティ」とあります。

もう一つ、収録されている書翰は、1705年十月十一日付、国王フェリペ五世宛、
マニラ大司教ディエゴ・カマチヨ書翰です。セミナリヨ建設に際して、シドッティ
が尽力したこと、またセミナリヨの維持と成長のために支援を要請するものでした。
シドッティのことを「アバーデ」「アバーデ・ジョバンニ・シドッティ」と呼んで
います。どうやら上記二つの書翰に見られるシドッティは同一人物であるよう
です。「アバーデ」という言葉の意味がよくわからないままでは、この人が日本に
上陸したシドッティと同一人物では無いと言い切れないのではないでしょうか。
別人であることを示す史料を示して、「アバーデ」の謎を解く必要があります。
62世界@名無史さん:02/11/07 17:47
>>61=21 レスしていただいているのに、気付かず、失礼しました。(一週間も!)
今日は時間がありませんので、詳しいことは書けませんが、シドッティがシチリア出身
であるということを知り、伝記の方から少し判明してくることがあるのではないかと思い、
調べているところです。マニラとの関連よりも、イタリア国内での所属教派、さらに
ローマ法王によって日本布教を命ぜられたということの真偽が問題であると思います。
少なくても、シドッティがオランダ語を話すことが出来なかったことは、長崎奉行の記録にも
ありますので、布教目的で、命がけで日本に渡ろうという人間にしては、少し奇妙な気がします。
聡明な人物だったようなので、3年前から日本布教の準備をしていたのであれば、オランダ語
どころか、日本語さえ堪能であっても不思議ではないと思うからです。このところ、多忙で、
少し日をおいてしまうかもしれませんが、何か判りましたら、またレスいたします。
63世界@名無史さん:02/11/10 12:26
新井白石『折たく柴の記』(岩波文庫)に少し気になる箇所があります。
正徳4年(1714年)10月14日、前将軍家宣の3回忌の法会を済ませた白石が、
自らの辞職について話し合うために、10月16日に間部詮房を訪ねた際、
辞職したいという白石に対して、詮房がそれを思いとどまらせようとし、
白石が、詮房を説得している場面です。
少し長いのですが、注を入れず、原文のまま書き写してみます。(P367-369)
64世界@名無史さん:02/11/10 12:27
「おととしの九月廿七日に、「某がつかへの道もけふを限りとこそなり侍れ」
と申せし事は忘れ給ふべからず。いくほどなくて、かくれさせ給ひぬれば、
其時にいかにもなるべき身の、三とせの程かくて侍らひしは、金銀の事に
限りては、我いかにもして思召置かれし事のごとく。申行ひてむと思ひしに、
その事は過にし五月御沙汰すでに訖りぬ。かくれさせ給ふべき春、「いかにも
身の病をたすけて、長崎に罷むかひ、事の様をも見はからへかし」と仰られし
かど、「彼所の奉行等に問しめられし事共を対申す所を見るに、彼等猶いまだ
其事の詳なる所をしらざる事共あり。たとひ某身みづから其地に至りたらむにも、
其留滞日久しきにあらずは、某がいまだ聞かざる事をも聞くほどの事もある
べからず。さらば、某罷むかひたらむには、かしこのものどもに限らず、
世の人の怪しみおもふ事のみにして、事の益あるべしとも覚えず。もし其事の
御沙汰に及ばれん時に、御使を奉りし人々に副てつかはされんは、その時宜にも
よるべき歟」と答申せしを、「申す所も其謂あり」と仰せられて、其事に及ばざり
しかば、かくれさせ給ふべき御きはまでも近くつかまつり侍りき。これよりのち、
御前志を継れて、此事の御沙汰に及ばれんには、年比某に仰下され、議申せし所
によられなむには、事行はれずといふ事もあるべからず。某此事思ひ定めしは、
前代いまだかくれさせ給はざりし程よりの事ぞかし。然るを、今、とどめ給ふに
よりて、とどまるべきならむには、いかぞかくは聞こえまゐらすべき。いかにも
かなふべからずと申切りたらむには、事がらわろくこそ候べけれ。もし天下の
大議あらむ時に、めし問はるる事もありなむに、某いまだ死せざらむほどは、
いくたびも見え進らせて、心の及ばむほどの事をば、議り申すべし」と申ければ、
かさねて申さるる所もなくして、「さほどに思ひ給はむ事、申とどむべきことば
もなし。されど、今のほどは、勅使、院使、門跡方御応接の事終わざるほどなれば、
その程過し後にこそ心にもまかせ給ふべけれ」とこそ申されたりけり。
65世界@名無史さん:02/11/10 12:29
上記の文中で、「彼所(長崎)の奉行等に問しめられし事共」「彼等(長崎奉行)
猶いまだ其事の詳なる所をしらざる事共」、「世の人の怪しみおもふ事」とは何か?
さらに、白石が職に留まることによって、「事がらわろくこそ候べけれ」と思われる
事とは、いったい何なのか? 注釈には、「長崎貿易のこと」と書かれているが、
その詳細に関しては、この後、かなりの頁を割いて言及しているので、これほど
抽象的に記述する必要はないのではなかろうか。
白石の文は、極めて具体的で、実務的な人であったことが伺われるので、このような
抽象的な言い回しをしていることは珍しい。「その事共」が、辞職の最も大きな理由
であり、詮房も「申とどむべきことばもなし」と答えているにもかかわらず、二人の
会話が何について語られているのか、容易には解らない。
66世界@名無史さん:02/11/10 12:30
しかし、大胆かつ危険な曲解であることを承知の上で、これが、長崎奉行から白石に
あずけられた宣教師シドッティについて語られているのだとすると、この詮房との
会話は、非常に理解しやすいものとなる。前将軍、家宣は承知していたこと、
長崎奉行には報告していないこと、世の人が怪しみ思うこと、白石が職に留まれば、
その処置について追求され、事態が悪化し、考えも及ばない結果になること…。
白石を失うことを恐れて、職を退く意思を覆そうとする詮房が、「それなら仕方が
ない」と諦めるほど重要なこと、それが長崎貿易のことである筈はない。
前にも述べたように、白石は、長崎貿易に関しては、この上なく心配りのきいた、
事細かい記述をしている。そこには、何の秘密も感じられない。

白石が『西洋紀聞』を執筆したのは、この翌年、正徳5年(1715年)であった。
1714年11月、宣教師シドッティが牢内で「死亡」し、この一件が落着した後、
白石は初めてシドッティへの尋問内容を記録として残したのである。
67世界@名無史さん:02/11/14 23:17
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