インドネシア史

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1
東南アジアのスレはありますけど、独立してたててみました。

最近ふとネットでインドネシアに関する歴史を
調べていたのですが・・・、
とある個人でやっていらっしゃるサイトを発見しました。
ttp://www4.justnet.ne.jp/~eden/Hst/indonesia/index.html

めちゃくちゃおもしろいじゃないですか、インドネシア史。
全然詳しくなかった私が言うのもなんですが、
インドネシア史について
よく知らない方は上の個人運営のサイトなどを参照しましょう。
詳しい方は、ぜひ何か語って欲しいですね。

注・別に宣伝スレではありません。一応無許可ですので(笑
本人が降臨されて、クレームがついた場合もちろん削除依頼
を出す用意があります。
2:02/09/26 23:57
アンボイナ事件で殺された日本人って、名前とか判明してるんですかね?
3:02/09/27 00:09
しかし東南アジア総合スレの方もあまり盛り上がってなさそうですね。
高校の世界史の授業でも、一番とばされやすいところだしなあ。
4世界@名無史さん:02/09/27 00:14
せっかくスレが立ったので語りたいのはやまやまだけどサパーリ知識が無いので語れない。
インドネシア史の知識のある人が居たら何か話題提供きぼんぬ。

興味はあるんだけどね。

おおかたの日本人にとっては盲点みたいな所だな。
5世界@名無史さん:02/09/27 00:22
チュッ・ニャ・ディンくらいしか分からん。
19世紀末に対オランダ・ゲリラ戦を指揮した女性闘士。
6世界@名無史さん:02/09/27 00:27
「ロームシャ」はインドネシアの辞書にも載ってるらしい。
7:02/09/27 00:27
>>4
いやいや私も知識なんて全然なかったんですよ。
同じ史学ですけど専門は別ですから。
せいぜい連合東インド会社〜、日本軍が〜ぐらいでした。
つまり高校性レベル。
それだけに、1に参照したサイトみてびっくりでした。
この運営している方は研究者ではないようですけど、
非常に詳しいサイトです。
日本軍侵入〜インドネシアの独立〜スハルト体制までの
流れなんて、あまりにドラマチックでフランス革命のような
印象を受けましたよ。参照してからでもいいですので、
是非なにか語ってくださいね。
8:02/09/27 00:41
>>5
映画にもなったひとですね。アチェ戦争(1873〜1904)
どうやら、イギリスがけしかけたみたいですね。


チュッ・ニャ・ディンについては調べてみました。

「チュッ・ニャ・ディンは1850年、アチェ東部の地方領主の家柄に生まれた。
1873年、オランダはアチェ王国に侵攻し、1875年、彼女の故郷
の町ランパダンをはじめ東アチェの平野部一帯を支配した。
最初の夫テウク・チック・イブラヒムは1878年、
オランダとの戦闘で死亡。1880年、チュッ・ニャ・ディンは西岸の港町
ムラボーの貴族テウク・ウマールと再婚した。彼は一時期オランダ側
に降服、協力者となったが、その後、豊富な武器・弾薬・兵力を
もってオランダとの戦闘を再開、各地でオランダ側に甚大な被害を与えた。
1899年2月、テウク・ウマールはスパイの通報によってオランダ側の待ち伏せ
を受け死亡、アチェ人領主たちの投降が相次いだが、チュッ・ニャ・ディン
は配下の武将たちと共に、6年間にわたり神出鬼没のゲリラ戦を指揮した。
しかし、オランダの圧倒的な軍事力と封鎖作戦によってゲリラ側は武器、
弾薬、食料の窮乏に見舞われ、チュッ・ニャ・ディン自身も目をわずらい
ほぼ盲目となり、重いリュウマチにもかかった。1905年11月、彼女の健康
状態を憂うる腹心の部下の裏切りによって、ついにオランダ軍に捕らえられ、
州都クタ・ラジャ(現バンダ・アチェ)に移された。その後、オランダは
彼女を西ジャワのスメダンに流刑し、1908年11月彼女は流刑地で死んだ。
遺骸はスメダンの郊外に葬られ、いまも墓には参詣者が絶えない。」

引用元http://www.mapro.or.jp/~araitaku/aceh.htm 
9世界@名無史さん:02/09/27 00:51
インドネシアといえば、金子光晴の『マレー蘭印紀行』を思い出して
しまふ。
10:02/09/27 00:57
ふむ。↓の指摘はおもしろいですな。

(上記サイトのシュリーヴィジャヤに関して) 
「6世紀中頃、北インドではグプタ朝が滅び、大乗仏教の中心ナーランダー
僧院から大勢の仏僧が東南アジア目指して亡命したと思われます。
またカンボジア方面でも7世紀、大乗仏教国「扶南(ふなん)」が、
シヴァ教徒のクメール人の国家「真臘(しんろう)」に圧迫され、
やがて滅ぼされてしまいます。この時にも多数の大乗仏教の信者たちが
マレー半島を南下、インドネシア方面に逃亡したと考えられるのです。」 
11:02/09/27 01:20
9月30日事件(国軍左派のクーデター未遂)の後に起きた
スハルトのレッドパージに関してですが、
↓の記述って非常に気になりませんか?

(上記サイトより)
『インドネシア史上最悪の大量虐殺は、なぜ起きたのでしょう?
 ジャワ人やスンダ人は普段は大人しく礼儀正しいのですが、
いったん興奮すると手が付けられなくなると言われます。この状態を
「パナス (熱い)」と呼び、彼ら自身もそのような状態に陥るのを避ける
工夫をしています。 彼らが日頃欠かさぬマンディ (水浴び) も、
心と体を「冷たい (ディンギン) 」状態に保つ象徴的行為ですし、
西ジャワに多く見られる地名の接頭語チ(ci-)も冷たい水を表します。
 しかしスハルトは、対立勢力である共産党を完全に破壊するため、
「9月30日事件」を利用して国民を煽り、パナス状態---さらには
「アモック (狂乱)」状態---を故意に作り出したのです。 』

う〜ん・・・。
12世界@名無史さん:02/09/27 01:25
>>11
その「アモック」って、東南アジア全体に共通してるような気がする。
例えばタイは「微笑の国」なんていわれてるけど、怒らせると気性は
激しいらしい。
また、あじあでもっとも温和な仏教徒といわれていたカンボジアで、
クメール・ルージュの大虐殺が起こったことを考えると・・・
13世界@名無史さん:02/09/27 01:32
むるでか〜むるでか〜
インドネシア独立は日本があったからこそ出来たのである!!
インドネシアの土着民は日本様にひれ伏せ!
今でもODAだしてやってんだぞ〜オラオラ!!
14世界@名無史さん:02/09/27 01:34
日本がいなくてもそのうち独立したっしょ…
>13
15:02/09/27 01:34
>>12
>その「アモック」って、東南アジア全体
日本、韓国、中国はどうですかね。
もしかしてアジア全体に適用できたり・・。(w
日本はちょっと苦しいかな。
16世界@名無史さん:02/09/27 01:36
>>14

日本があの馬鹿どもに教育を施してやったからこそ勝てたのである。
そもそもオランダ如きに支配されてる時点でインドネシアなぞクズ。
17世界@名無史さん:02/09/27 01:41
オランダの馬鹿供は今でもアリファナを吸いながら騒いでる。
日本がインドネシアをとったせいで我々の経済力は落ちたと。
ププ勝手に騒いでろと。
18世界@名無史さん:02/09/27 01:43
蘭印攻略の総指揮官今村均陸軍大将は、インドネシアで現地人を正当に扱う軍政をしいた。
そのため、戦後オーストラリア側から禁固10年の刑を受けたが、オランダ側の裁判では
現地人が今村大将を有罪にすることの不当性を訴えつづけ、無罪となった。
オーストラリア側の禁固刑は最初巣鴨で服役したが途中で自ら望んでマヌス島に赴き服役した。
19:02/09/27 01:44
>>14
いや、他の国はしりませんが、
インドネシアに関しては、オランダ支配に苦しんだ期間、
日本の敗戦後のオランダの再支配の試みを考えると
間違いなく日本の影響は大きいのでは。
上記サイトの運営者は、軍事教練と民族主義の波及を
功績に考えていらっしゃるようです。
日本がいなかったら、もっと独立は遅くなってたのは
確実でしょう。

でも日本の功績は、あまり強調してもしょうがないような
気がしますね。やはり独立はインドネシアの人達の
熱意と努力の賜物ですから。
しかし日本軍の戦況の悪化に伴うインドネシア
に対する譲歩は、何が原因なのでしょうかね。
20世界@名無史さん:02/09/27 01:45
ハリマオと言う人間は実在したの?
何をした人?
21世界@名無史さん:02/09/27 01:48
日本はインドネシア人に軍事教練を施し。
2000人の英雄達がオランダ軍と戦い勝利した。
合唱!!
これこそ日本が世界に誇るべき事である!!
22世界@名無史さん:02/09/27 01:54
>>20
戦前、マレー半島で盗賊(テレビでは義賊)をしていた。
日本軍の諜報機関(F機関)に協力して、蘭印進駐に功績を残した。

23:02/09/27 01:54
善い行いはくどくど何度も主張しないのが美徳ってもんだ。
24:02/09/27 02:00
>>23
そのとおりですね。

ところで、みなさん日本の軍政時代に興味が強いようですね。
最近の日本史に対する傾向を反映してるのかな。

私としては、スハルト〜スカルノの現代史や
アチュー王国やシュリーヴィジャヤ王国、バンテン王国、
オランダの支配の過程などに対する意見をお聞きしたのですが。
勝手な希望ですけど。(笑
25:02/09/27 02:02
>>24
すみません。間違えました。

お聞きしたのですが。
 ↓
お聞きしたいのですが。
26世界@名無史さん:02/09/27 02:04
>>23
同意。
日本がわざわざ主張しなくても、インドネシア人はよく知っている。
谷豊(ハリマオ)もイスラム教徒として現地では今でも英雄である。
27世界@名無史さん:02/09/27 02:56
>>23

んな事言ってるから日本は過去に悪い事を・・・なんて自虐史観が広がるんだよ。
28世界@名無史さん:02/09/27 03:51
ハリマオは日本人だったのですか?満州以外にも日本人馬賊が板野?
最後どうなったの?
29世界@名無史さん:02/09/27 11:10
「日本の占領下で民族主義が広がった」ってのは嘘ではないが、
誤解を招きやすい表現だと思う。

独立を目指したスカルノのインドネシア国民党の成立が1920年代後半で、
その頃には共産党も含めて反オランダの独立闘争が既に盛んだった。
と言っても全てオランダに鎮圧され、スカルノは流刑になるが。

ただ、その頃の独立運動は全般に「識字層」が中心で、
日本軍によって流刑から解放されたスカルノが得意の演説で
ラジオでもって「非識字層」に語りかけることで、一般大衆にまで
民族主義が浸透した、とするのが正しいように思う。

この辺は「インドネシア 思想の系譜(土屋健治)」と
「スカルノとスハルト(白石隆)」を読むのがいい。
特に「思想の系譜」はスカルノを通じて、当時のインドネシア知識人の
知的水準を知る上でもオススメ。イスラムの問題に関しては
今でも通用する議論が展開されている。
30世界@名無史さん:02/09/27 13:21
アメリカ+イギリスからなかなかの装備を貰って大敗してるオランダ。
日本軍による訓練と指揮のもとでボロボロの装備で戦ったインドネシア。

なぜオランダは負けたのか????
31世界@名無史さん:02/09/27 14:20
>>28
ハリマオは九州男児です。
32世界@名無史さん:02/09/27 16:41
>>29
一般民衆にとっては、支配者としてのさばっていて勝てるはずがないと思っていたオランダ人を、
同じアジア人の日本軍が追い払った、それを目撃したことが大きいと思う。

敗戦で日本軍が去り、オランダ人が戻ってきたとき、インドネシア人はおとなしくいうことを聞く原住民ではなくなっていた。
33世界@名無史さん:02/09/27 17:02
ハリマオはムスリムです
34総督:02/09/27 19:04
スカルノはろくでなしだねえ
とんだ浪費家で無用のハコモノをじゃんじゃん作り、議会を停止し、マレーシアに侵略戦争を起こし
さらに財政を圧迫。最後は共産党と組んで軍部追放を図るも失敗。スハルトに追放される。
デヴィもスハルトの放蕩にかなり貢献していたと・・・
35世界@名無史さん:02/09/27 19:09
デビ夫人をスカルノに引き合わせたのは誰?
36総督:02/09/27 19:09
>>デヴィもスハルトの放蕩にかなり貢献していたと・・・
ややこすぃー
【訂正】スハルト→スカルノ
37世界@名無史さん:02/09/27 19:16
デビ夫人ってインドネシアでは人気有りますか?
38総督:02/09/27 19:17
日本軍占領中はスカルノは日本に接近し独立を達成する。一方共産党のアイジットは
対日徹底抗戦の構えだった。この二者が結託した時スハルトをはじめとする軍部の面々
は相当のショックを受けたらしい。
39世界@名無史さん:02/09/27 21:35
>>37
人気あれば、日本で醜態を晒していないだろうに・・・
40世界@名無史さん:02/09/27 22:47
>>30

戦局は二転三転していて、インドネシアが勝ち始めたのは途中から。
今で言うゲリラ戦術で、指揮系統がちゃんとあったかどうかも怪しい
部隊が同時多発的に発生して、オランダ軍は敵の補足に苦労したらしい。
後、スカルノが当時は一応反共だったため、アメリカが最後の段階で
インドネシア側に着いたのが大きい。

>>32

それ以前から独立派を徹底して弾圧していた
&穏健派の「自治」請願も無視、ということで
原住民エリートがオランダのために戦う気をなくしていたから
日本があっさり勝てた、ということもある。
オランダが負けたという事実の視覚的効果は否定しないが、
「負けたことの意味」を与えたのがスカルノたち民族主義者。
41世界@名無史さん:02/09/27 23:07
>>34

議会を停止したのは、イスラム政党が反乱起こしたから。
更に言うと、当時はフランスのような政体で、
内閣は議会が組織していた。
でもって短命な内閣が続いていて、彼らでは対処できないと
スカルノは判断したようだ。
・・・とは言え結果がアレでは非難されるのも当然だが。

>>37,>>39

国軍左派による九月三十日事件の当夜、スカルノと一緒にいたのは
デヴィ夫人。
当時の動きには未だに不明な点が多く、真相の一部を知っていると
思われる彼女は、スカルノ失脚後パリに亡命した。
でもってスカルノを追い落としたスハルトの失脚後、ああいう形で
復活を遂げたと。
黙っててくれれば良かったんだが。
42:02/09/28 01:46
おお、詳しい方がいらっしゃってますね。
>>29>>40>>41は、同一人物の方のレスですよね?
できればコテハンを御願いして、お話をもっとうかがいたいですね。

>>29
なるほど。
「インドネシア 思想の系譜(土屋健治)」
「スカルノとスハルト(白石隆)」
ですね?チェックしておこう。

>>34
う〜ん。スカルトとスハルトに共通しているには、国の状態や政策が
軌道にのるまでは強権的にと行くという姿勢でしょうかね。
それ自体はよくある事で、戦後のインドネシアの状態を考えると
それほど間違ってはいないと思いますが、どうでしょう?
デヴィ婦人か・・。第3婦人でしたでしょうか?
インドネシアの政治に関する発言を聞いたことがないな。
1998年の暴動の時には、何かコメントしたのでしょうか?
よく聞くのは、その自分の前の地位に対する誇りと「苦労した」ということ
だけのような・・。
その5月の暴動では、華人との対立が先鋭化しましたが、
この中国系の人達との関係は、今でもマレーシア同様複雑なものですね。
たしか、中国系は14世紀以降の明時代に住み着いた人たちだったと思いますが、
この人達が、オランダ・イギリス(ポルトガル)などの植民地貿易における
現地の仲介?となっていたのは、どういう経緯なんですかね。
やはり明(・清)本国との関係をバックにしていたのでしょうか?
インドネシアのあたりは、中継貿易地として栄えていたはずですから、
交渉のノウハウが現地にはあったと多少とも思うんですが。
43世界@名無史さん:02/09/28 12:11
スマラン事件
44世界@名無史さん:02/09/28 23:59
てかオランダ軍が負けたのってやる気がないからでしょ?
武器、弾薬の補給がとれないゲリラなんて鼻くそ同然なのに、占領できなかったのはオランダがヘタリア並だったんでしょ?どうせ。
45世界@名無史さん:02/09/29 01:25
>>44
再占領して最初の頃はオランダ軍は圧勝しております。インドネシア独立派
(その主力はPETA出身者)は武器が木槍しかなく、機関銃の的でした。
状況に変化が現れたのが10月1日です。この日、独立派が日本軍基地を包囲
して槍や斧で脅迫し、武器の引渡しを要求、拒否した場合は殺すという行動
に出ます。その結果、膨大な武器弾薬が独立派に渡りました。この武器強奪若
しくは引渡しは対蘭日本軍降伏協定違反として関係した基地司令及び憲兵隊を
逮捕し、BC級極東軍事裁判法廷に連行、274名を処刑(軍事裁判刑死者は
1068名。8法廷中最大の処刑数)します。この時、日本軍捕虜司令官に任
命された馬渕少将は武器破棄の命令をオランダ軍から受け、拡大解釈して1個
連隊分の武器弾薬をチレボン河河川敷に並べて捨てます。対岸にいた独立派は
夜その武器を回収し、最終的に銃器3万5千挺、戦車・装甲車200両、弾薬
2個師団分の(ジャワにあった日本軍武器の50%)廃棄兵器を入手します。
46年11月、英国の仲介でリンガルジャチ協定が結ばれ停戦となるのですが、
47年7月にオランダ軍が再進駐を行い戦闘が再開され、49年12月にハー
グで独立承認せざる得ない結果となったのです。

先に述べた軍事裁判刑死者274名の他に裁判中不慮の死を遂げた者17名、
インドネシア人への武器引渡しを拒否してインドネシア人によってブカシ鉄橋
で80名が鉄橋したに突き落とされ、スマラン陸輸総局の民間人(婦女子含む)
70名がやはりインドネシア人によってブルー刑務所に連行され、武器引渡し
要求の人質にされ、全員虐待死若しくは射殺された。
46世界@名無史さん:02/09/29 01:40
29=40=41ですが・・・
詳しいというかインドネシア現代史をちょっとかじっただけなので、
中世のことはよく知りません(汗)

>>42

同じ「強権的」でも、スハルトは九月三十日事件で50万、
東ティモール併合で15万、裏で色々やっていた部隊の始末で数千、
その他の独立運動&民主化運動の弾圧で合わせて数万、と一方的な虐殺を
展開してるからな。
50万というのは、多分共産党弾圧に伴う虐殺としては最多。
流石にやりすぎだろう。

東南アジアの華僑に関しては別スレがあるので、そこも見て欲しい。
幾つか書いておくと、同郷者としての個々のつながりを除けば、
明・清時代の中国と華僑とはほとんど接点がなかった。
移民自体、当時の中国は表向き禁止していたし。
なお、98年の暴動は軍の一部による扇動が直接の原因、という説が最有力。
華人はスケープゴートにされたわけだ。

>>44
だから、戦況は二転三転してると言ったはずだが。
確か一度、スカルノはオランダ軍に捕まってる。
そうでなくとも、当初はジャカルタを首都にしたんだが、
オランダ軍の攻撃でジョグジャカルタに遷都せざるを得なくなってるし。
とにかくオランダ軍も本気だったのは間違いない。
ただ、オランダが再び植民地にしようとすればするほど、
国際世論(特にアメリカ)がインドネシアに同情的になっていくという罠。
それと軌を一にして(主に48年以降)インドネシアのゲリラ戦術が
効果を上げ始める。
本土の戦後復興でアメリカの援助が欲しいオランダとしては、
インドネシアの独立を認めざるを得なかったんだろう。
47世界@名無史さん:02/09/29 13:01
>>46

>ただ、オランダが再び植民地にしようとすればするほど、
>国際世論(特にアメリカ)がインドネシアに同情的になっていくという罠。

んなわけねぇだろ。
アメリカ、イギリスがオランダに兵器渡してんだから。

だいたい武器弾薬が補給できない軍隊に負けてる所がポイント。
いかにオランダ軍が弱かったか。
48総督:02/09/29 13:13
>>47
確か、アメリカがオランダにマーシャル・プランを停止するぞ。
と脅してオランダも折れたんじゃなかったっけ?
49オランダ:02/09/29 13:16
>>48

マーシャルプランなぞに頼らなくても。
インドネシアさえ手に入ればオランダは復活出来るのだ!!
50世界@名無史さん:02/09/29 13:22
>>48

侵攻を開始してからその間2年間あるよ。
武器、弾薬が補給できない軍隊を2年かかっても倒せないなんて異常。
本来ならオランダが圧勝すべき戦い。
51世界@名無史さん:02/09/29 14:13
まず一点、開戦当初と48〜49年の情勢をごっちゃにするな。
確かに45〜46年にはオランダに援助してたかも知れんが、
東欧の共産化の急激な進展で、アメリカにとっては共産化の阻止の方が
至上命題になってくる。
トルーマン宣言が47年三月。マーシャルプラン発表が同年四月。
スカルノが当時の共産党の指導者を切ったのが48年。
この時点で、アメリカがオランダに手を貸す理由はなくなった。
その後はインドネシア有利に傾き、独立したのが49年の末だ。
この頃には中国本土の共産化も確定してる。

ついでに、独立戦争におけるインドネシア軍の戦術は
国民党との内戦時における中国共産党の戦術によく似ている。
つまり、上陸を水際で食い止めるのではなく、
上陸した後で「人民の海をもって」防衛するということ。
無論、80万人もの死者は出ているが、独立したのだから
目的は達成したと言える。
52世界@名無史さん:02/09/29 14:20
>>50
12万名(戦闘員は4万名と推測)の将兵を投入していながら
25万(小銃は20%以下の配備率)のゲリラに負けたんだか
ら情けないと言えば情けないが、25万:4万と考えると負け
るかも…となる。
53世界@名無史さん:02/09/29 14:25
>>51
>インドネシア軍の戦術
>中国共産党の戦術によく似ている
>「人民の海をもって」防衛
人民の海に隠れてが正しい。更に大砲を人海戦術で輸送するアイデアを
教えたのは日本陸軍中野学校出身者。ベトナムのディエンビエンフー戦
も中野学校出身者が指導した末です。
54世界@名無史さん:02/09/29 20:25
インドネシア軍にどっかの国が武器弾薬を供給してオランダが負けたっていうならわかる。
ところがインドネシア軍が持っていた武器は日本軍の貯蓄していたもののみ。
ゲリラ戦をやるにも武器弾薬の補給は必要なんだよ。
そしてゲリラといったっていつかは大規模な攻勢をかけなきゃいけない。
その時は大量の武器弾薬が必要となる。
中国は武器弾薬を供給してくれる国があったから勝ってもおかしくない。
ベトナムも然り。アフガンもそうだ。
でもインドネシアにあの当時どっかの国が膨大に武器弾薬を供給した国があったという話は聞かない。
つまりオランダは勝って当然だったわけだ。
55世界@名無史さん:02/09/29 23:05
>>35
瀬島隆三

口を開けば「国家への貢献」という瀬島氏は、デビ夫人を献上した東日貿易をとおして
インドネシア関連ビジネスをとるのにどうしたか。最初の取引で国家警察に日本製ジープ
など八○○万ドル相当を納めることになった伊藤忠は「相手側賠償使節団長バスキ氏に
一パーセントの手数料(ワイロ)を出せといわれて、そそくさと社内決済をし、部下である
小林氏に皇居お堀端の住友銀行からボストンバッグいっぱいに詰めた千円札を受け取らせ、
相手の待つホテル・ニュージャパンに向かわせた」(同書十三ページ)のである。
共同通信社社会部編『沈黙のファイル』
http://www1.doshisha.ac.jp/~twatanab/watanabe/masukomi/97.6.html
http://members.tripod.co.jp/esashib/worldcup01.htm
戦後長らく、韓国では軍人政権がつづき、最初は日本の陸士卒業あるいは
参謀本部で瀬島氏の部下であった韓国人たち、その後は韓国の陸士を卒業したそのまた
「後輩たち」によって政権がつくられた。「瀬島氏は日本の陸士で後輩にあたる朴大統領と
直接親交を深めていたので、朴大統領の崇拝者で韓国陸士出身のチョンドウファンやノテウ
からも軍人の先輩として尊敬された」にあったのである
(元浦項製鉄会長の朴泰俊氏の証言、『沈黙のファイル』五一ページ)。
瀬島氏の韓国権力層ならびに児玉誉志夫氏や読売新聞の渡辺恒雄社長ら
につながる人脈と利権の構造には想像以上の奥行があったわけである
(同書、三○一ページの証言)。
56世界@名無史さん:02/09/30 03:29
独立史もいいけど、開発独裁時代も面白いよー、とか小声で言ってみたり。
57世界@名無史さん:02/09/30 06:58
アチェ、西パプア以外に独立したい地域は無いのかなぁ?
南マルクは宗教対立が扇動されているけど、独立運動は復活して無いみたい
58世界@名無史さん:02/09/30 12:37
>>53

あ・・・スマソ。そこは記憶が曖昧だった。

>>55

けど中国の場合、日本敗戦後の国共内戦時代は
ソ連ですら国民党を支持していた。
(要は共産党が勝てるとは思っていなかった)
勿論武器についてはアメリカの支援付き。
にも関わらず共産党が勝利を収めたこと自体、軍事力のみで
この手の紛争の勝敗を語ることの限界を物語っていると思う。
補給といっても武器弾薬だけではない。

後、オランダとインドネシアは気候が違いすぎる。
今年のワールドカップ、欧州勢は日本の特異な気候もあって苦戦したが、
熱帯で一日中戦うとなればこの比ではない。
当時は訓練施設もなかったろうし。
592チャンネルで超有名:02/09/30 12:46
http://wqll.jpn.ch

  中高生とHな出会い
    即アポ即H出来る
   超最高なH&Hが・・ 
60世界@名無史さん:02/09/30 12:51
>>58の>55は>>54の間違い。重ねてスマソ。

>>56

スハルト時代の・・・例えばアリ・ムルトポとか
ベニー・ムルダニとか?
アリ・ムルトポが死んだ後、彼の下で裏工作を扱っていたとされる
人間たちが「正体不明の暗殺者」によって殺されるんだよね。
実はスハルトの命令でやったらしいんだけど。
こういう「秘密戦」の影がスハルト時代には常にある。

>>57

他は特にないみたいだ。ワヒド政権時代に各州の自治権が大幅に
拡大したのでね。
それはいいけど、自治権を変な風に使ってるもんだから
外国からの投資が難しくなっているという罠。

南マルク(アンポン)にはアル・カイダも関与してるらしい。
61世界@名無史さん:02/09/30 13:18
>>58

スターリンは乗り気でないだけで、一応支援はしてるよ。
あとアメリカの援助物資も裏切りで共産党にいってるし、一応補給は出来てる。
裏切りで補給が出来なくなり、アメリカがあまり介入しなくなってしまった国民党は徐々に兵力落ちていく。
あと共産党はインドネシアとは比較にならないくらい大量の日本軍の兵器を手に入れてる。
それに対してインドネシアはやっぱり補給が出来ていたという話は聞かない。

あなたの言う通りオランダ軍は気候の変化に耐えられず士気が途中で低下してしまったのかもしれない。
62世界@名無史さん:02/10/02 20:35
ここらへんで、インドネシアがオランダによって植民地化されるプロセス
について語ってみませんか?
もっとも、当時「インドネシア」という統一体はなかったわけなんだけど。
631:02/10/02 23:30
おお、少し盛り上がっている!(感動
>>46
いつも魅力的な内容のレスをありがとうございます。
>同じ「強権的」でも、スハルトは九月三十日事件で50万、
>東ティモール併合で15万、裏で色々やっていた部隊の始末で数千、
>その他の独立運動&民主化運動の弾圧で合わせて数万、と一方的な虐殺を
>展開してるからな。
>50万というのは、多分共産党弾圧に伴う虐殺としては最多。
>流石にやりすぎだろう。
まあ、たしかにやりすぎですが、スハルト経済政策については
どのような評価をお持ちですか?上記サイトの方はわりと評価
してらっしゃるようですが・・。
>東南アジアの華僑に関しては別スレがあるので、そこも見て欲しい。
みましたが、どうも感情的な内容がおおいですね。
>幾つか書いておくと、同郷者としての個々のつながりを除けば、
>明・清時代の中国と華僑とはほとんど接点がなかった。
>移民自体、当時の中国は表向き禁止していたし。
ということは、華僑はほぼ独立して経済活動を行ってたいた
わけですよね。う〜ん。ここまでくると論文などを読まないと
厳しいな。
>なお、98年の暴動は軍の一部による扇動が直接の原因、という説が最有力。
>華人はスケープゴートにされたわけだ。
なるほど。
64世界@名無史さん:02/10/02 23:32
バンドン会議
651:02/10/02 23:40
>>62
賛成です。インドネシアという領域は、
皮肉にもオランダ統治領が元になってるようですね。 

まずは、この時代の王国を確認しましょう。
スマトラ西北端のアチェ王国
中部・東部ジャワのマタラーム王国
西ジャワのバンテン王国
他にもありますが、オランダ人の到来期における
この三つの王国の状態が問題になりそうです。 
66世界@名無史さん:02/10/03 00:37
>>63
スハルトの経済政策は、80年代後半まではまともだった。
他の開発独裁国家と同じように、テクノクラートが
引き締めるべき時は引き締めていたから。
民族主義的経済政策(現地人資本家の育成を優先する立場)との争いも
あったようだけれど、それ自体は別に悪いことではない。

ただしその後は・・・ファミリービジネスが跳梁するようになったからな。
スハルトの子供たちのは特に目に余った。
親の威光を笠に着て、独占販売から不正な土地の取得による開発、
WTOに持ち込まれた「国民車」計画まで。
詳しくは触れないが、不正なビジネスが地方の末端にまで横行していた。
上がやるから下も真似する、この繰り返し。

十年分くらいの経済成長がアジア通貨危機によって失われた、その主要な
要因の一つがこのファミリービジネス。
IMFとの合意がスハルトの子供たちによって反故にされることで、
通貨ルピアの一層の下落を招いた。

最大の長所は教育、特に初等教育を重視したこと。これは
スハルト自身が貧しい農民だったことに由来するのかも知れない。
多分、今のインドネシア人の圧倒的多数は字が読めるはず。
67世界@名無史さん:02/10/03 00:55
>>65
オランダ人はまずジャワ島に拠点を築く。
町の名前が「バタヴィア(現ジャカルタ)」。
これは、現在オランダがある地域に住んでいた先住民の名前から。
「バタヴィ族」といってガリア戦記にも出てくる。

でもってアンボイナ事件でイギリスをジャワから閉め出し、
その後ジャワ王家の内紛に干渉しつつ勢力を拡大。
これが約二世紀に渡って続く。

スマトラに進出するのはかなり後。
当時のスマトラはむしろ対岸のマレー半島との繋がりの方が深く、
1820年代にイギリスと「マラッカ海峡を両者の勢力の境界線とする」
という条約を結んでから、オランダによる本格的な植民地化が始まる。
68世界@名無史さん:02/10/06 10:12
インドネシア語を話す人間は実は少数派と聞いたことがあるが
ジャワ人ははインドネシア語をどの程度解するのだろうか。
そもそもインドネシア語はどのように形成されたのか。
知っている方はいませんか。
69世界@名無史さん:02/10/06 21:30
>>68
インドネシアには400以上の異なる言語があります。
人種もマレー系・メラネシア系・パプア系にまたがる多様な構成です。
70世界@名無史さん:02/10/06 21:37
>>68
最大の話者を持つのはジャワ語ですが、各地でリンガ・フランカ(共通言語)
として使用されていたマレー語を採用しました。
71YP:02/10/06 21:56
この前、会社にゼ×ッ××のインドネシア人が来た。
向こうではエリートなんだろうな。
裸足で地べたに座るような育ちはしてない(つまらん)感じだった。
もう来る用事はないみたいだそうだけど。
甘い料理屋でも教えてもらえば良かった。
72世界@名無史さん:02/10/06 21:57
オランダ東インド会社で有名なのがヤン=ピーテルスゾーン=クーン
という人物。
イギリス嫌いで、総督に就任後、ジャカルタのチリウン河をはさんで
相対していたイギリス商館を焼き払ったこともある。
この後、バンテン王国の軍とイギリス船隊がオランダ商館を攻撃して、
クーンはモルッカに赴いて救援軍をつれてきた。
バンテン王国軍とイギリス軍の間に利害の対立が生じたこともあって、
ジャカルタはジャワにおけるオランダの最初の占領地となった。

73世界@名無史さん:02/10/06 22:24
>>68
インドネシア語ってのは元々はマレー語です。
商業語として、東南アジア島嶋部(広義のインドネシア・マレー世界)で
利用されていたました。(アラビア文字系のマレー文字で表記)
イスラムの普及と共に普及したと考えるのが一般的ですが(15C〜)
もっと早く考える(11C〜)や遅く考える(17C〜)方もいらっしゃるそうです。
独立後、旧公用語としてのオランダ語の代替として
「国語」として採用されました。( アルファベット表記 )

>ジャワ人ははインドネシア語をどの程度解するのだろうか。
えっと、初等教育以上を「ちゃんと」受けた人やジャワ島外に出る商人とか
ジャワ人以外が結構いる街の人とか、ケースバイケースだそうです。

((大学時代の受け売りのウロ覚えなんで間違いあったら、スマソ))
74世界@名無史さん:02/10/07 00:22
インドネシア語の普及の時期は微妙。
あの辺は交通路で、船も発達していなかったから(モンスーンを
利用した形での貿易だった)、各地の港に
いろんな国や地域の人が集まって、長期間滞在もしたらしい。
例えば英語やフランス語のように、各港に通訳みたいな形で
マレー語を話せる人が幾人かは(早い時期から)いたと思うが、
それが「普及」と言いうるかどうかはまた別。

植民地時代にオランダ人が建てた学校でもマレー語(現地名ではムラユ語)
が必須科目で、これも「末端への普及」には貢献した。

ちなみに「独立後のインドネシア語の採用」は独立前の1920年代後半
(27年か28年)に「青年の誓い」で決められたもの。
あと、テレビやラジオは基本的にインドネシア語。
初等教育が確か八割は超えてるんで、日本に来るような人なら
インドネシア語は話せるはず。

ちなみに、現在永積昭氏の「オランダ東インド会社」読んでますが、
オススメです。講談社学術文庫に入ってます。
75世界@名無史さん:02/10/07 01:12
簡単なインドネシア語講座
皿…マンコウ
食器…ティンティン
76世界@名無史さん:02/10/08 10:33
古都らしいジョクジャカルタでだけはスルタンが統治しているのですか?
77世界@名無史さん:02/10/08 11:03
統治、と言っても現行法の枠内でだよ。
「共和国」なんで、スルタンっても特権は(法律上)多分ない。
確か公的な立場は州知事だったと思う。
ただ、時折国政上の重要な問題で顔を出す辺りから考えて、
潜在的な社会的影響はかなり大きいと言える。
78世界@名無史さん:02/10/08 21:31
マレーシアもスルタンがほとんどの州で統治
(インドネシアと違って共和国にならなかったのは、
中国系に対してマレー系が対抗心を持っているため)
791:02/10/08 23:42
>>66(いつもありがとうございます。)
>ただしその後は・・・ファミリービジネスが跳梁するようになったからな。
>スハルトの子供たちのは特に目に余った。
>親の威光を笠に着て、独占販売から不正な土地の取得による開発、
>WTOに持ち込まれた「国民車」計画まで。
>詳しくは触れないが、不正なビジネスが地方の末端にまで横行していた。
>上がやるから下も真似する、この繰り返し。
この辺は、下手な欧米系の歴史家から「アジア的」とかいわれそうですねー。
801:02/10/08 23:45
>>72上記サイトではこの部分ですね。(以下引用)

『オランダ優位の確立

オランダ東インド会社(VOC)は1609年、東インド総督という役職を置き、
翌年ジャカトラ(現在のジャカルタ)に土地を借りて商館を設けました。
第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(任1619〜1623)は
VOCの地歩を固めた人物で、就任早々イギリスとバンテン王国の連合軍を
打ち破ってジャカトラ全域を獲得し、この町を「バタヴィア」と名付けま
した(1619年)。これはオランダ民族の古名「バタウィ」(古代ローマ
時代にオランダ方面にいたゲルマン系部族名)にちなむ命名です。
 1623年にはアンボン島でオランダ人がイギリス商館員や日本人職員ら
名を拷問にかけて処刑した、いわゆる「アンボイナ事件」が起きています。
イギリス側は猛烈に抗議したものの、結局これを機会に東南アジアからは
撤退し、インド経営に総力を注ぐことになります。
 こうしてインドネシアにおけるオランダの優位が次第に確立してゆくの
です。
 しかし、忘れてならないのは、優位とは言ってもあくまでヨーロッパ勢力
同士での話であって、ジャワ島の政治勢力としてはまだ弱小だったという
ことです。この時ジャワで最も強大だったのは、中部・東部ジャワ全域を
支配下に置いていたマタラーム王国です。時のスルタン、アグンは西ジャワ
の大国バンテン征服を決意し、その前にVOCが領有する良港バタヴィアを
奪っておこうと考えました。マタラーム軍は1628年と1629年の2回、2年
続けてバタヴィアを包囲攻撃しました。しかし、オランダ軍の艦砲射撃と
コレラの流行の前に敗走を余儀なくされたのでした。
但しオランダ側の犠牲も大きく、再び総督として赴任していたクーンは
防戦中の1629年、コレラにかかって死にました。』
811:02/10/08 23:47
コレラというのは、この時代における細菌兵器みたいなものですね。
まったく。
82世界@名無史さん:02/10/21 15:27
>>80
現地の博物館で聞いたが、クーンは打首だそうです。ジャカルタ歴史博物館に
彼の首を切断したエクゼキューターソードが展示されている。また、隣の人形
博物館に彼の墓と彼の首が鎮座した場所がある。
83世界@名無史さん:02/11/05 07:07
age
84山川あたりに:02/11/08 02:04
ここらでインドネシアの通史を出版して頂きたいものですね。
(日本の)第一線の研究者達を総出にしてね。

でも大量には売れないだろうからお値段はある程度覚悟しないと、かも。

御希望の方は、山川か岩波かめこんに要望を出して下さい。
すでに僕は問い合わせていますけど、、、です。
85それから:02/11/08 02:23
1さんの言ってるサイトは僕も拝見しましたけど、
ちょっと、間違い(というか”言い過ぎ”)が多いですね。
たぶん参照しているテキストが(やや)古いんですよ。
説明が足りなかったり、伝説と史実をごちゃまぜにしたり、
新しい説を知らずに断定的に書いてしまったりとかが特に目につきます。

しかし面白おかしく書こうとしているのと、素人さんが書いている
ことを考慮に入れれば、間違いを割り引いてもその労力は大変評価
できます。間違いは指摘してくれと丁寧に断っているし、画像も多いし
、本当に御苦労さまですという感じです。
ここは見ている人も少なからずいるだろうから、いちおう指摘してるだけですよ。

レスがあったら、もちろん2次文献の範囲ですけど、お答えします。
86世界@名無史さん:02/11/08 03:52
ではさっそく
間違い(言い過ぎ)の例を教えてください。

>85みたいなカキコはいじわるですよ
8785ではないけど:02/11/08 17:25
>>1のサイト、改めて読み直してみたけど、
確かに誤解というか食い違いが目につくな。

個人的には、80年代以降のベニー・ムルダニ関連のところが
気になった。
アリ・ムルトポの指揮していた「やくざ」を処分したのは
実はスハルトの指示だし(本人がそう認めている)、
94年の戦略情報庁解体も、単純にメガワティ対策の失敗のせいとは
言い切れない。
むしろ、ムルダニが軍の情報組織を一手に握ることで
スハルトの意に反することをするようになり、93年の
副大統領選出時にそれが表面化したらしい。

で、その直後の内閣改造後、ムルダニ派に対するスハルトの対応策として
なされた一連の国軍機構改革・人事異動の総仕上げという説が
有力なんだが・・・。
88たしかにいじわるかも。:02/11/09 03:20
もし本人が読んでいたらいい気はしないですね。すみません。
ただ、僕の意図は一度もインドネシアの歴史書を読んだことのない方に
注意を促しただけなんですよ。

それでもせめて参考文献くらいは紹介しておくべきでした。
まずは『世界各国史6 東南アジア史 島嶼部』(池端雪浦 編,山川出版社,1999)を読んで下さい。
言い過ぎている部分がどの箇所かすぐに分ります。
歴史学は日進月歩の世界ですからね。サイトの筆者の責任では一切ありませんよ。

それと、僕も研究者じゃないから、(インドネシア語やオランダ語や各種族の言語の)
1次資料を読めるわけじゃないんですよ。あくまでも2次文献というか研究書の類い。
研究者はオランダのライデン大学やインドネシアの文書資料館で1次資料に直接
当たって史実を確定していくそうです。
古代史ならもちろん碑文解釈と漢籍の読解が基本でしょう。

しかし、2次文献をすこし読んでいる程度で、(趣味人が作られた通史の)
間違いの指摘をする(しかも2チャンで)というのはいかがなものか?とも思います。
それで85で間違いのパターンを抽象的に指摘したので止めさせて頂きます。
ご理解を。

でも、87さんのようにお詳しい方が指摘して下さるのは正直勉強になります。
現代史も、もうすこしつっこんで勉強してみます。
89コピペ:02/11/11 12:16
124 名前:名無しさん@引く手あまた 投稿日:2002/11/08(金) 17:00 ID:WHjldNhE
本名 根本七保子

この二、三面を通して組み込んだ、「上越市長セクハラ裁判」で、選挙を控えた白川勝彦
参議院議員が、記者会見を開き、「この裁判の原告側の取下げには、ヤクザが絡んでい
た」として、その二人の名刺を発表した。

その二人とは、「日本青年社・副会長」と「住吉一家小林会・理事長」である。この日本青
年社というのは、児玉誉士夫直系の小林楠男(故人)が創立した右翼団体である。むかし
話だが、スカルノ大統領が来日して、赤坂のホステス、根本七保子(のちのデビ)と帝国
ホテルで情事にふけっている時、若き日の小林が、張り番の警備をしていたものだ。

ttp://www.ishiikazumasa.com/cc/messages/1103200001.html

125 名前:名無しさん@引く手あまた 投稿日:2002/11/08(金) 17:24 ID:WHjldNhE
1940/02/06/デヴィスカルノ/この日に生まれる。
日本名/根本七保子。東京生まれ、都立三田高校定時制中退、赤坂の高級ナイトクラブ
「コパカバーナノホステスをしていた1959年帝国ホテル旧館の一室でスカルノと会った。
一説には東日貿易社長の久保正雄の紹介で来日中のスカルノ大統領と知り合い、同年9月
インドネシアに渡り/1962年日本籍を捨てて第3夫人「ラトナ・サリ・デヴィ」となる。噂が多
いが、文芸春秋の1976年1月ー4月号の記事が真実に近い。

ttp://www.ne.jp/asahi/kingkong/asys/dbase/data/nendaifu.htm
90世界@名無史さん:02/11/11 21:07
126 名前:名無しさん@引く手あまた 投稿日:2002/11/09(土) 17:00 ID:qv2InOkw
スカルノを失脚させたスハルトの影に米国あり

まったく違うと思います。スカルノは、スハルト将軍やそのほかの将軍たちの手で
陥とされたわけですから。外国の後押しもあって。
あなたは外国の支援があったと確信しているのですね?
 ありましたとも。近日中にその証拠をお見せできると思います。米国大使がワシン
トンに送った証拠書類を私は持っています。それとスカルノが私に宛てた手紙類も
あります。確かな根拠のあるものですが、検証はまだです。

ttp://homepage2.nifty.com/selera/bi_wartaberita.html
91世界@名無史さん:02/11/11 21:15
メガワティ大統領ってヘンじゃない?
ttp://academy.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1002785530/
92世界@名無史さん:02/11/13 00:23
>>53
人の軍隊指導する暇あったなら、自国の軍隊指導しようね!!
93  :02/11/13 23:17
>>75
それ飽きたよ。それにcincin(チンチン)は指輪。
94世界@名無史さん:02/11/17 01:44
インドネシアは崩壊するのでしょうか?
ttp://academy.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/983236478/
95世界@名無史さん:02/11/30 22:29
age
96世界@名無史さん:02/12/11 08:17
age
97世界@名無史さん:02/12/11 08:58
ガジャ・マダ
98世界@名無史さん:02/12/25 07:04
age
99世界@名無史さん:03/01/08 07:28
age
100世界@名無史さん:03/01/09 22:23
age
101山崎渉:03/01/11 12:54
(^^)
102お邪魔します :03/01/12 02:34
みにふろ掲示板、亜細亜板からお邪魔します 。
アジア地域に関わる話題ならなんでもどうぞ。
http://www.soutokuhu.com/bbs/asia/
新スレ作成歓迎
103世界@名無史さん:03/02/01 22:04
さるべ
104世界@名無史さん:03/02/05 16:06
『ムルデカ』という映画をご覧になった方はいらっしゃいますか?
中野学校出身の軍人が「解放者」としてインドネシアに上陸して婆さんが感謝の
印に額を軍靴にくっつけるのがオープニングで、最後はその軍人が撃ち殺されて
その死を悼んだインドネシア人たちが「インドネシア・ラヤ」を合唱。なんだかなあ。
一応、日本兵の横暴さや日本軍による占領行政の高圧(民族旗掲揚不許可とか)
も描かれてます。三八式歩兵銃が平然と連発するのでミリヲタの方には
お薦めできませんが。
あと、インドネシア独立宣言に皇紀を用いたことを、この映画のビデオパッケージ
の「解説」では「日本への感謝を表すため」とあったがどんなものでしょう?
行政当局から正統な権力を委譲されたのだと示すためだと思うんだが。
105世界@名無史さん:03/02/06 12:03
その映画は見ていないけれど、両方だろうね。
行政当局といっても「日本の」行政当局、だから。
要するにオランダ植民地政府ではない。
オランダから日本へ支配権が移り、日本から(約束通り)独立した。
そういう解釈で行くと、確かに正統な権力の移譲だと
主張したかった面もあるだろうが、それなら別に(本文に)
そう書けばいい。
「皇紀を使わなければならない」理由はないわけで。

というか、何しろスカルノとハッタは過激派の青年たちに誘拐されて、
脅されて独立宣言出してるから、その辺のことは好きに解釈していいと思う。
ただ、法的解釈云々を考えたとしたら発案者は多分ハッタの方。
日本への感謝〜で、日本兵に協力を呼びかけるレトリックにしたのは
スカルノの方だと思う。
あの二人の性格的に、そういう気がする。
106104
>>105
あ〜、いろいろな情景が眼に浮かびます。