トイレの歴史

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>>17,>>18
とんでもない誤解があるようなので書いてみたい。文化の退行どころかヴェルサイユ宮殿こそは
シスターン(貯水槽)を備えた本格的水洗式トイレが初めて設置された栄光の地なのである!!
いや、のみならず、汲み取り式からスタートしたヴェルサイユのトイレの歴史を語ることこそは
トイレの近代史を語ることでもあるのだ。以下でその黄金の歴史について語ることにしよう。

 まず最初の段階はルイ十四世の時代である。四分の一世紀をかけてヴェルサイユを大改修した
太陽王はその居住スペースに風呂と「穴の開いたイス」と呼ばれる汲み取り式トイレを設置した。
しかし、宮殿に住むことになった王一家以外の貴族たちや召使いのためのトイレはなく、彼らの
用をまかなっていたのは2000個に及ぶ「おまる」だった。だがそれが使用される以上、中身は
当然、庭にでも捨てるしかない。華麗なるヴェルサイユの影の歴史はここに始まるのである。

 1715年のルイ十四世の死後、摂政時代が始まり宮廷は暫くパリへ移るが、1722年ルイ十五世は
再びヴェルサイユに戻り、彼の積極的なイニシアチヴによって、このやや旧式化していた宮殿の
大改装が始まった。その際、真っ先に手を着けられたのが風呂とトイレで、清潔好きだった王は
従来の十四世型の汲み取り式便器を「イギリス式のイス」と呼ばれる水洗式に変えたのである。
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これは現在の水洗方式の元祖である1775年の英人アレグザンダー・カミングの特許に先行する、
1596年に英ハリントン卿が彼の著書:The Metamorphosis of Ajaxで提案した方式のものらしく、
便座の横のコックを引くと天井裏の水槽から鉛管を通して出てきた水が、ブツを地下の屎尿槽に
流し込むという装置だった。当時ヴェルサイユにはこのイギリス式のイス(Chaise anglaise)が
少なくとも五十ほどはあり、その部屋もイギリス式イスの部屋(Cabinets de Chaise anglaise)
と呼ばれていた。イスは背もたれのついた陶器製の腰掛式便器で使い心地の良いものだったが
残念ながらトイレットペーパーはまだ無く人々は刺繍をした柔らかい布を使用していたという。

 中でも王の寵姫デュ・バリー夫人の居室のトイレは特別製で、中庭に面した鏡張りの壁の
奥に作られた二畳ほどの小部屋は、床は大理石、また(まだ復元されていないものの)便器は
高価なセーブル焼きだった。またビデもこの時代の産物で、1750年代にはほぼ現代と同一の
ものが完成し、ロココの美女達のニーズに答えていたという。

 ただしこのイギリス式イスはもっぱら王族や、その取り巻きの大貴族たち専用の施設であり、
それ以外の中小貴族、その他使用人などは従来どおり、「おまる」生活を強いられていた。
従ってこの時代もヴェルサイユの庭は、あいも変わらぬ臭いに満ちていたのである。
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さてルイ十六世の登場と共にヴェルサイユのトイレはその技術的絶頂に到達する。それは
「清潔の噴水」(Jet de proprete)と呼ばれる装置の導入で、便器の中の二つのノズルが
それぞれ別々の角度で水を吹きだし、一方が便器を、もう一方がお尻を洗浄するという、
正に今日のウォシュレットの祖先と呼ばれるべきものであった。
 この改良は機械好きだったルイ十六世のイニシアティヴによって行われ、新式のトイレは
「イギリス式の場所」(Lieux a la anglaise)と呼ばれるようになった。だが革命期に入り
気落ちしたルイ十六世は、せっかくのこの施設を使用しなくなったらしい。無精になった
王は夜中などトイレまでいくのも面倒だったらしく、89年には「おまる」を作らせこれを
愛用するようになったのである。なおマリー・アントワネットのトイレも現在復元中だが、
写真をみるとイスというよりは何か背の低いステレオ・キャビネットのようなものである。

ではかくも長い間、ヴェルサイユにはトイレがなかった、という神話がまかり通っていたのは
何故だろう。実は、これら文明の粋とも言える施設は後に破壊され、その結果、当時の現状が
失われてしまったことが原因である。犯人は大革命時に宮殿に侵入した群衆の破壊行為と、
後にここを歴史博物館に改装しようとした際に内部を壊したルイ・フィリップだったらしい。
現在はこの破壊行為への反省に立って復元に向かった努力が着実に行われている最中だという。

以上の内容は専ら以下の書に拠る:「舗装と下水道の文化」岡 並木:論創社:1985