まあ、いわゆる特権階級を「貴族」とみなすなら、士大夫階級もそうと言えるかも。
中国学的には、違うものとして扱ってるのにも理由があるんだけどね。
貴族というのは、六朝の頃から続いている、広大な土地を持った連中のこと。
これらは巨大な人的組織を持ち、歴代の王朝において、枢要な地位を占めてきた。
もちろん、世襲。山東などに大氏族が多かったらしい。唐代において、官僚制
が整い、隋の科挙制度を継承しても、まだまだ貴族制力は根強かった。ある意味、
時の皇室よりも名門で、唐の李氏は、最高クラスの名族とは婚姻を結べなかった
そうな。
これらの貴族の多くは、安史の乱で消耗し、唐末の黄巣の乱で決定的な打撃を蒙った
と言われている。とどめは後梁の朱全忠で、貴族出身とされる人間を片端から殺した。
世に言う「白馬の禍」ってやつです。
のちに後唐が建ったとき、名族の子孫を集めようとしたが、全然集まらなかったらしい。
そんだけ根こそぎやられたと言うことなんだろうね。ちなみに、多くの貴族が南方の
前・後蜀や、南唐に移り住み、後世に文化を伝達する役割を果たした。南唐などは
文献が比較的残っているので、当時の状況がある程度わかるそうです。
これに比し、士大夫というのは世襲貴族ではない。土地持ちではあっただろうけれども、
かつての貴族のように過半の地を手中に収めるほどの存在ではなかったようで、私兵
を養っているわけでもなかった。彼らは古典の教養を持ち、詩文に通じるかどうかこそ
が判断基準であり、それさえあれば、貴賤や出自はさして問題とはされなかったところが
前代の貴族とは異なっている。
何、戦後の概説書パクった物言いしてるですか
>>630は。
631=コンプレックスにまみれた浪人生
633 :
世界@名無史さん:04/04/16 00:40
岳飛について学びたいんですけど、
>>608の岳飛伝という本は適しているでしょうか?
まぁまぁ
>>633 学ぶ…ことの種類によるが、史実を学びたいんなら小説はやめとけ。
>633
史実は横に置き、日本語の小説として読むのなら適します
調べたいことがあるなら、webcat で検索しなさい。
いくらでも出てきます。
ちなみに田中センセの御本なら、岳飛伝より紅塵の方がよいと思いますが・・・
「わかりやすい中国の歴史―中国小学校社会教科書」という本を立ち読みしたのですが、
宋が完全にスルーされていて驚きました。
異民族に屈したのが気に入らないのかとも思いましたが、
「元の時代の中国は最強」みたいな事が書かれてるし…。
中国では宋ってあまり重要視されてないんですか?
単に弱かったからじゃないの
640 :
世界@名無史さん:04/05/03 22:37
>>638 中国は自分の国が世界最高という教育をしていますから、軍事的に
弱い宋帝国は置いておきたい時代なのでしょう。中国によるとチンギス
ハーンは中国人だそうですから、チンギスハーンを先祖とする強国の元は
最強帝国、すなわち中国は世界最強という論理となります。
641 :
世界@名無史さん:04/05/03 22:40
スレ違いだが、清朝は支那人にとって非常に微妙な時代だそうだね。
賢帝を何人も輩出し、最大の領土と権勢を誇ったが、漢民族の王朝ではない・・・
孟王共について調べたいのですが
日本語で書かれた史料はあるのでしょうか?
ググってみたんですが見受けられなかったので
>>641 でも、「康熙王朝」と「雍正王朝」は中国のTV番組では歴代視聴率1位というのが売りらしい。
「三国演義」より上だったのか?(こっちも視聴率70%越え)
百円ショップ・大宋age
>>642 「孟珙」って書くか、「孟[王共]」って書くか、
どっちかにしろよ。
「もうおうきょう」って誰だろう?って考えちまったじゃないか。
さておき日本語で書かれた史料なんて都合のいいものはないと思う。
ウェブ上で探したいなら、台湾中央研究院でもいって漁れ。
646 :
世界@名無史さん:04/05/30 10:20
楊家将の出てくるキャラってどれだけ史実にいるの?
647 :
世界@名無史さん:04/06/04 01:19
これほど善政を敷いて国が栄え、皇室が民に慕われた国は歴代他にないらしい。
この時代の中華思想ってオナニーに過ぎなくて可愛いもんだし。
ただ武力が弱かったのが決定的な問題だった。
あの頃の領土のまま国のまとまりができていたら今のような民族問題はなかったろう。
漢民族よりむしろ異民族でありながら中原を確保して武力を背景にした中華思想に染まったモンゴルや
満洲人が歴史を狂わせたとも言えるな。
武力が強ければやることは中国のどの時代もさしてかわらんような気がする。
649 :
世界@名無史さん:04/06/04 22:41
こんにちは。ちょっと質問させてください。
今マカオについて調べています。
そこで、Pau Kungという寺があって、このPau Kungというのが、
宋の宰相らしいのです。
で、いろいろ調べたのですが、英語表記しか分からず、誰なのか
全然わかりません。誰なんでしょうか。
すいません、自己解決しました。北宋の包公でした。超有名人でしたね。
この地域で、かつて疫病が流行ったさい、地域の住民が包公の肖像
(木像かなにか)を掲げ、町をまわったところ、疫病がおさまったという
ことで、この寺院が建てられたということです。
孟きょうのきょうの字ってどうやって出すの?
IMEパッドで出しても書き込むと“?”になってしまう。
出ない時はエディターかワープロを起動してそちらで確定し、
それを2チャンネルにコピーする。
それでも出ない時は諦める。
孟珙 さあ出るか?
常用漢字も漢字配当表にも外れてるから出しずらいのは諦めろ。
さもなくば単語登録してしまえ>?の字
試しに「孟珙」と打ってみろ。
孟珙
孟珙」
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/;;:::::::::::::::::::::::\
∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ__
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄ ..::::;;;ヽ
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/j/三三三三三三三三三三ヾ
l::||:::: |l
|::||:::::::.. (●) (●) || 孟珙?
|::||::::::::::::: \___/ ||
ヽ\:::::::::::::::. \/ ,ノ
 ̄`ー―---oo-――'"
ハ
陛下の御世に孟安と申す平民(?)がおりますが
その曾孫の事にございます。陛下の千秋万歳から
およそ百年の後の事でございます。
659 :
世界@名無史さん:04/06/15 02:01
/;;;;;;;;;;;;;\
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∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ__
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/j/三三三三三三三三三三ヾ
l::||:::: |l
|::||:::::::.. (●) (●) || 何したの?孟珙
|::||::::::::::::: \___/ ||
ヽ\:::::::::::::::. \/ ,ノ
 ̄`ー―---oo-――'"
ハ
660 :
世界@名無史さん:04/06/23 01:36
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∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ__
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/j/三三三三三三三三三三ヾ
l::||:::: |l
|::||:::::::.. (≧) (≦) || 何したヤツなのか答えろよ〜ぅ!
|::||::::::::::::: \___/ ||
ヽ\:::::::::::::::. \/ ,ノ
 ̄`ー―---oo-――'"
ハ ドスン!ドスン!
ジタン駄踏み踏みの道君皇帝陛下
道君皇帝陛下はご存じないのでよろしいのです。
ずいぶんと後の世のことですので。
662 :
世界@名無史さん:04/06/26 00:10
宋王朝の皇帝の冠を横に貫いている棒の様なものは何?
663 :
世界@名無史さん:04/06/26 00:12
664 :
世界@名無史さん:04/06/26 01:49
徽宗皇帝はいいね。名君ではないが好きだ。
665 :
世界@名無史さん:04/06/29 10:58
宋の太祖は、弟に斧で殺されたんだったかな?
>>> 宋王朝(いわゆる趙宋・あるいは北宋−南宋) <<<
は
日清戦争で廃止されるまで
の中国の官吏任用制度「科挙」を創始した王朝でもあります。
科挙は
儒家による天本思想(中華思想)・朱子学を教育の根本に
孔子の教えである四書五経の約57万語を暗記し
その約57万語から詩・論策という科目で
科目の詩の対句韻踏みの4・6ベンレイ体や
あるいは論策・裁判の判例の例文書きを
起承転結の八股文という小論文方式で回答する試験です。
地方の試験場(貢院)から朝廷・礼部の試験場や殿試という皇帝面前の試験まで
6段階ありました。
試験合格者を挙人(士大夫・郷紳)と言い、皇帝面前の試験合格は超エリートです。
科挙合格者は南人が多く、福建・浙江・江西が最も多く
試験合格者数が官吏に採用されるとは別に5百人〜5千人と他地方を圧倒し
山東・河南などは酷い時には一桁人員合格で最も少ない地方です。
河北の燕雲16州は遼国(契丹)に獲られ 漠北を金が遼に取って代って
さらに淮河以北の華北は金国(女直・女真・満洲)に獲られます。
>666 つづき
唐の2代目・太宗・李世民を助けた拳法家13僧侶の洛陽・崇山少林寺は
宋の時代から南宗禅の影響を受けて
元の時代(1225年ごろ)には
洛陽の寺々の儀式・様式が曹洞宗系統が多くなり多数派になっていきます。
一方で山西(五台山寺院)や熱河(承徳寺院)などの北方の仏教は
モンゴル族の影響でラマ教化・チベット密教化していきます。
宋の時代に浙江の天台山に留学した岡山出身の栄西禅師は
唐の時代に天台山に留学した日本天台宗の伝教大師・最澄と違い
同じ天台山が宗派が変わって臨済宗の系統の南宗禅が主流となっていました。
それゆえ
栄西の留学で持ち帰った仏教は、宗派名的には天台宗なのに内容が臨済宗となり
日本に天台宗とは別の禅宗を開く事になったのです。
臨済宗開祖の栄西が
達磨以来の中国禅宗を
南宗禅に分派した禅宗6祖・慧能の出身である広東・曹渓山の影響で
6祖の弟子達で臨済宗系・曹洞宗系の修行に
広東風の点心・喫茶養生・豆腐・味噌・醤油・僧侶でも武術・・・といった
宗教生活や宗教儀式を日本に持ち込む事となりました。
中国北方と南中国との生活感覚の隔絶は
その中華の周辺異民族のその後の歴史などにも影響し
北の朝鮮と南の日本の生活方式の隔絶を生む事になるわけです。
>667 つづき
宋王朝の「庶民」から異民族・官僚・皇帝を見るのには
「水滸伝(元末−明初・物語の設定は宋代・白話小説・萬暦版がポピュラー)」
宋王朝に限らず「科挙官僚」の実態とその試験勉強周りの生活を見るのには
「儒林外史(明半ば・中国古典文学大系・・・)」
纏足の始まっている「上流家庭の女性」の生活を見るのには
「紅楼夢(清初・曹 雪キン)」があります。
歴史概要と文献批判は「資治通鑑(宋代・司馬光)」
「綱資治通鑑目(宋代・朱子)」などが「指南」や「登竜門」のようです。
指南は磁石の針で必ず南(南磁極)を指します。
居場所行き場所を図る方位を見るのに欠かせません。
関係なく食は広東・南にあります。
科挙試験に上る門を登竜門と言います。
皇帝の面前(竜)のいる所まで登る門ですから。
>>666 高校で何を勉強してきた? え、おい。
>宋王朝(いわゆる趙宋・あるいは北宋−南宋) <<<
>は中国の官吏任用制度「科挙」を創始した王朝でもあります。
だと?
もう一度勉強しなおしてこい!
670 :
世界@名無史さん:04/06/29 13:47
>669
唐王朝に科挙の原型はあった。創始とはしない。
唐の後期は安録山のせいで全土が「節度使」体制だ。
科挙官僚で治めてはいない。
実際、趙宋の太祖も節度使の出身だ。
節度使を廃止して兵力を削減し、科挙官僚による中央集権国家を作った。
太祖は最初・科挙答案を上に放り上げて
一番最初に着地した答案を主席合格にする変竹林の珍竹林だった。
科挙登用の始まりとしてはお粗末過ぎた。
しかも唐王朝は九品官人法や貴族制度をもっても
胡族の反乱や漢族でも門閥以外の反感で
顔眞卿のような事(安録山の部下に天津だかの橋の柱に括り付けられ
骨まで切り削ぎの死刑(禍の刑)[十八史略]・
あるいは儒家の正史観で脚色の首吊り刑[旧唐書・新唐書])になっている。
科挙官僚の末路とは聞いていない。
671 :
世界@名無史さん:04/06/29 13:50
訂正
前 安録山
後 安禄山
なにコレ???
明王朝の創始者は洪武帝では無い!
北京に首都を移し王朝の基礎を築いた永楽帝だ!!
って類の話ですか?
制度としての「科挙の創始」は
選挙→科挙の変化があった時点にするのが普通じゃないの。
673 :
世界@名無史さん:04/06/29 14:36
>670
傾国の美女・楊貴妃に晩年狂う唐・玄宗皇帝の
安禄山の乱の頃の
顔眞卿(河北?)は「顔氏家廟碑」文に関係する「書」の有力氏族。
司馬炎の南北統一王朝の西晋の後に
司馬・帝家で八王の乱となり
五胡十六国から北朝(石窟・仏教擁護・華厳・三論・・・)になるまで
西晋から南に避難した南朝の東晋で儒学・道教・禅家が盛んになる。
東晋の王義之の「書」聖から宋代までは。。。
南中国が儒家(儒教)と四書五経(科挙の題材)の風を伝える。
清代に翁同和?の「書」もあるけど。
日本では書道のマニアでも無い限り、あまり有名でない。
魏晋南北朝・隋唐の
孔子を勉強しつつ「書」によって官吏任用がある事と
宋代から清代までの
「四6ベンレイ体?」「八股文?」による科挙制度とは話が違う。
674 :
世界@名無史さん:04/06/29 14:47
明王朝の例え話には恐れ入ります。。。
前レスを遡って気づいたのではありますが。。。
隋の官吏任用制度が科挙だとは知りませんでした。???です。
南北統一した煬帝が大運河の建設時期に科挙だったんですね。
唐が北魏以来の漢人の門閥貴族や胡族の節度使によって支えられている。
という程度が
高校の世界史の認識でした。
唐の李氏皇帝家が北魏以来の鮮卑族(胡族)とも知らなかったですし。
漢の郷挙里選(察挙?)・北魏の九品官人法・宋の科挙が
中国官制とは
大学レベルの勉強です。少なくとも私の学習程度ですと
高校では知りませんでした。
675 :
世界@名無史さん:04/06/29 15:03
>明王朝の創始者は洪武帝では無い!
>北京に首都を移し王朝の基礎を築いた永楽帝だ!!
明王朝の創始者は「紅巾党(明教)の洪武帝」では無い!
北京に首都を移し王朝の基礎を築いた永楽帝だ!!
と聞こえます。
明王朝の名称由来は、明教ですが。。。
紅巾党(明教)が、明王朝の創始とは言わないですよね。
明教を切り捨てて
儒者を受け入れて明王朝がなったのです。
ちなみに明教は
加持の火や香を焚きポエ(筮竹と木片の陰陽による占い)をする宗教ですよ。
ポエは横浜関帝廟で見る事が出来ます。
曲解もここまで酷いと手のつけようが無いな・・・
洪武帝と永楽帝を並べてるのに
いきなり「紅巾党」と永楽帝の話になってるし
話が全然通じない
高校レベル云々は俺が言ったんじゃないぞ
2ch初心者によくあることだが自分に対するレスが
世界@名無史さんだからといって
みんな同じ人間じゃないって理解してる?
「最高に頭の悪い・・・」スレと間違えたんだろう。
675=キチガイ
基地外かどうかは知らんが日本語は不自由そうだな。
680 :
世界@名無史さん:04/06/30 11:15
???
>洪武帝と永楽帝を並べてるのに
>いきなり「紅巾党」と永楽帝の話になってるし
明の創始 洪武帝と永楽帝
明の創始 「紅巾党」と「儒者」
明の創始 「紅巾党」と永楽帝
明の創始 「明教」と永楽帝
科挙の創始 唐と宋
科挙の創始 「選挙」と「科挙」
科挙の創始 「選挙」と宋
科挙の創始 「節度使」と趙匡胤(出身が科挙官僚でない)
漢____北魏・北朝〜初唐_北宋〜清
郷挙里選_九品官人法____科挙
仁・孝行_???______詩・論策
孔子___???______四書五経
儒家___門閥貴族・節度使_儒家・朱子学
郡県制__律令制度[辺境に鎮]節度使に変わり?道州制?行省制?
中央集権_中央集権_____中央集権
681 :
世界@名無史さん:04/06/30 11:30
>680
門閥貴族: 王族(北朝の皇帝の一族)が胡族(鮮卑族)出身である貴族
漢人(漢民族)の地来の有力氏族の師弟である貴族
節度使: 辺境の鎮や郡県制の国境に隣接する軍団配置の地方の軍人(胡族が多い)
↓
中唐〜晩唐にかけて漢人の儒学者の官僚採用方式が実験される。
(進士館?など。科挙の進士の言葉の由来)
しかし朝廷内部で安禄山のような辺境の胡族の節度使が反乱を起こし
予防措置で内国(郡県制の漢民族の国内)にも節度使を設けるようになる。
↓
後に唐王室が滅び、地方の節度使が自立し群雄割拠する分裂国家。
五代十国となる。
↓
五代は唐王室の帝位を受け継ぐ
昔の北朝地域の政権(特に陝西省・山西省・河北省)。
十国は内国の節度使が辛亥革命の省政府の自立のように
昔の南朝地域で独立王朝となる。
↓
五代の最後の「趙宋」が南北十国を統一する。
節度使の廃止と武装解除による
文民政権・中央集権国家としての
試験登用による科挙制度の成立。
間違い〜理解不足だらけだな。
683 :
世界@名無史さん:04/06/30 11:54
>中唐〜晩唐にかけて漢人の儒学者の官僚採用方式が実験される。
>(進士館?など。科挙の進士の言葉の由来)
これが貴方がたの言う科挙の創始なのでしょう。
わたしは科挙の前身の制度と見ている。
なぜなら節度使に国を潰された実験制度だ終わったから。
しかし北宋はモンゴルに攻められたって南宋まで科挙制度は維持している。
それどころかモンゴル人によって100年ほどさえぎられたが
明も異民族の満洲王朝の清ですら、漢人には科挙官僚の採用方式として
継承されてきた。
清朝末期に日清戦争で日本に負けると
朝廷が科挙試験の一時停止や中止をするも反対運動が起こり、
戊戌の政変や義和団の乱が起こるまで実質的な廃止もされず
継承されてきたの。
清王朝(満洲王朝)は一種の軍事政権で、
警察機構や軍事兵制が
清独特の八旗制度(満洲・蒙古)と漢人八旗と漢人緑営の合作。
しかし役人登用は科挙試験を継続させてきて
中国人と
満洲・蒙古人・西蔵人・ウイグル人の釣り合いを取ってきた王朝。
義和団の乱に参加の八カ国連合軍が
中国国内の漢人と満人ほかの均衡を破壊した。
684 :
世界@名無史さん:04/06/30 11:59
>683
宋王朝はその出発点であったし
日本の禅文化(水墨画・山水画・茶道・書道・味噌−醤油−豆腐の食文化・柔道など)
南宋と滅亡後の元寇の仕返しで起こる
倭寇・唐行(からゆき)サンによる
中国文化摂取(五島列島の手延ウドン・風俗画(唐行サンの春宮画)・剣道など)の
源流でもある。
宋時代は他に蘇軾の「前赤壁ブ」のような「唐宋八大家」の詩人・文人を生み
江戸時代の漢籍・禅籍読みの格好の研究材料になった。
茶道の陶器・磁器(白磁・青磁)・水墨画(山水画など)・書道もそう。
宦官による
宋の皇帝(たとえば徽宗)を
政務から気をそらすのに用いた芸術もこの頃の発明というか発展。
書道や陶磁器趣味だけでなく
奇怪な岩石を揚子江(長江)流域や(雲南・ビルマ)大理から石を運ぶような
庭造り(庭園造営)もそう。
岳飛などは元代・明代の白話小説である「水滸伝」のネタにもなった。
唐の李世民の代は少林寺13僧侶の拳法だけでなく
「西遊記(唐・玄奘・三蔵)」のネタになった時代。
685 :
世界@名無史さん:04/06/30 12:10
>明王朝の名称由来は、明教ですが。。。
明の由来は明州の王としての明と 俗説かもしれないが
文字の獄からして明教(紅巾党)が由来との諸説がある。
686 :
世界@名無史さん:04/06/30 12:12
俗説を底本とした十八史略と
正史としての決定版・旧唐書・新唐書の
説の違いほどにあるがな。
687 :
世界@名無史さん:04/06/30 12:19
>685−686
聖書だって
写本や底本が違うと聖書の翻訳も違って来るんだよ。
底本の写本は
バチカン(ローマ)・
シナイ(エジプト)・
アンテオケ(シリア・現在はトルコ領)と
大まかに三種類の内容の違う
分類があり、
写本も
レニングラード写本
シュトゥットガルト・ドイチェ写本?
ビザンチン写本(エラスムス校訂の写本?)
バチカン写本?(ベザ写本・バザエ写本?)
とかあるらしい。
旧約聖書だと
それに死海写本(イスラエル独立戦争や
中東戦争時の発見の死海文書)などがある。
全体的には同じ内容だが
詳細が違う。
単語とか表現とか喩えの人物や続柄が逆転しているとか
細々とした相違がある。
>中唐〜晩唐にかけて漢人の儒学者の官僚採用方式が実験される。
へぇーえ
「実験」ということは、唐の科挙担当官は、唐王朝では実験をするので
次の王朝ではその結果を踏まえて正式採用すべし、と思っていたということ?
それに科挙は儒学者限定で受験させたんだっけ?
689 :
世界@名無史さん:04/06/30 12:31
わたしは言葉尻で勝つの勝たないのは言いたくない。
「実験」という言葉が気に食わなかったのだと思う。
だから「前身」と補足した。
王朝は王室(皇帝家)が政治を行うのに
朝廷の家臣に差別があっても何だから
鮮卑族出身や漢人の地主的有力者を貴族として世襲で採用する方式と
漢人でも詩文や孔子の教え(つまり儒家であるから儒学者と言ってもいい)の
平民あるいは零落貴族から「官僚とか役人」を単発的に採用する方式とを併用し
その併用の片方を「前身」とか「実験」とか言っている。
>わたしは言葉尻で勝つの勝たないのは言いたくない。
勝った負けたというんじゃないよ。
根本的に科挙への理解が間違っている。
691 :
世界@名無史さん:04/06/30 12:50
だって
道教(道家・道士)や
仏教(禅家・仏家・僧侶・檀家・居士)の教養で試験はしないですよ。
題材が四書五経(詩文家・儒家・漢学者[漢人だから当たり前か。。。])なんだもん。
科挙に失敗し、拳法に失敗し、坊主にも成り損ねて
全真教という道教教団を建てた方(金代・南宋代)の漢人道士がいた。
科挙に失敗しているから四書五経は勉強した。
でもその段階では道家ではなかった。
こういう人物事例のゴリ押し解説はしたくないんだが。
そういう人も歴史上には居ると言う事。
門戸を開く思想信条の階層が無差別で云々が
科挙であるかないかの判断基準で無いと思っている。
なんか謝り方とか。
訂正の仕方の添削とか指導してくださるわけ。
かんべんしてよ。
こんなにコラムや薀蓄なのに、わかってくんない。
なんか電波文書みたいなカキコミだな。おまいは日本語の勉強のほうが先だ。
693 :
世界@名無史さん:04/06/30 13:06
じゃあ。
科挙の試験内容とか
合格した時の身分の保証。つまり役人としてどういうポストについたか。
唐代(あるいは隋代)と
宋代の違いを説明してくれないだろうか。
科挙の定義:
科目は詩と論策の2教科(あるいは区分が細かくあって4教科など)。
四書五経(約57万字)と時局・政局を題材とする。
詩は四6ベンレイ体(対句・韻踏みなど)で小論文試験提出
論策は例えば判決文の模擬回答などを八股文(起承転結の応用型)で小論文提出
朝廷の礼部で採用試験し
地方と京師(開封・南京・北京)の貢院(試験場)
あるいは皇帝面前(殿試)で行う。
役人のポストは試験合格後に試験献金や学閥人脈などにより
挙人(合格・資格者)へ地方や中央の官職の任命により就任する。
これだけの条件が揃うのは宋代ですよ。
唐代・五代十国以前にその例があるなら詳細を説明してください。
たんに反発しないで。
新書版や山川のリブレット?だかの小冊子に詳しいです。
スレッド趣旨に反しますが
明で揉めているのなら、明の朱元璋に関する本や明史・皇帝の実録などを読んで
出典引用を教えて下さい。
「20〜21世紀の現代、君主制、共和制、独裁制、貴族制などどの方式がよいか、実験段階にある。
世界各国がそれぞれ実験を重ね、次の22世紀には完成された政治体制が選択され、
本格的に政治制度として創始される。」
今の政治家がこんなことを思って政治をやっていると思ってるのか。
695 :
世界@名無史さん:04/06/30 13:18
ちなみに
科挙試験採用の役所のポストとは別個に
翰林学士?があり
翰林院?は、科挙とは別に歴代皇帝・朝廷の諮問機関になっていた。
僧侶・道士・科挙官僚・外国人学者などの人員により構成されていた。
>これだけの条件が揃うのは宋代ですよ。
隋王朝には隋の科挙制度があり、唐王朝には唐の科挙制度があり、
五代十国にはそれぞれの科挙制度があり、宋王朝には宋の科挙制度がある。
宋の科挙制度の定義を以て唐の制度を真の科挙ではなく、科挙の前身だ、実験だ、
などという認識そのものが間違っている。
697 :
世界@名無史さん:04/06/30 13:20
>694
創価だか創始だか。政治だか宗教だか。わかんな〜い。
意味不明。
698 :
世界@名無史さん:04/06/30 13:26
>696
だから隋とか唐だとかの科挙の基準だかの具体例を挙げて下さい。
翰林学士?とか進士館?の解説書からの引用なんじゃないの。
唐代から翰林院?とかはあったからね。
それが地方や中央の他の部局のポスト任命と何か関係があるんでしょうか。
翰林院?に入る試験があってそれが科挙の創始なんだよ。とでも???
唐代の論策の事例は実は知っている。
李白?の百判文?という題の作文だかが論策の判決文の模擬回答の例であるとか。
しかし
李白?が科挙官僚だったと言う生涯年表や解説本をトンと聞かないのも事実。
699 :
世界@名無史さん:04/06/30 13:31
普通。我々日本人の一般認識とか一般教養では
李白ってーのは、酒飲み詩人という共通認識ですよね。
700 :
世界@名無史さん:04/06/30 13:35
唐代の李白と違い
宋代の蘇軾は科挙官僚だったし。詩人でもあった。科挙や流刑の年表もある。
しかし三国志の赤壁の戦いがらみの
昔をしのぶの詩文の作家という認識も日本では濃いのも。わかる。
が。政治とか宗教は。わからんのだ。難しいし。危ないし。怪しいし。
701 :
世界@名無史さん:04/06/30 14:00
>>698 >だから隋とか唐だとかの科挙の基準だかの具体例を挙げて下さい。
あーたはなにかね、2CHの書き込みやコメントのために新唐書を毎日
持ち込んでいるとでも思っているのかね。
どうやらどこぞの学生が読み終えたばかりの宋代科挙制度の本の内容を
誰かに言いたくて誰にも相手にされなくてしょうがなくて
2chにレジュメと要点を書いたんじゃないかな。
666の登場の仕方が唐突で内容も間違いだらけで文章もへたくそ。
703 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:06
現代日本で進士に及第しようと頑張っている受験生ならここにいますぞ。
でも、及第しても半分しか採用されないのが日本の科挙(というより官庁訪問という殿死で落ちるのか)。
704 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:12
702
ご要望にこたえて
705 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:19
科挙(かきょ)中国の試験地獄 宮崎一定・著 中公新書 15
p2
序論
・・・・
これは実にすぐれたアイディアである。
そしてこの科挙制度が成立したのが、
いまから一四〇〇年ほど前の五八七年だということは、
驚くべき事実である。
・・・・
※註 587年:隋−文帝−即位581年・中国統一589年・煬帝−即位604年
p4
が、この官吏有資格者を製造するために科挙制を樹立したのである。
すなわち年々中央政府が全国から希望者を集めて試験を行ない、
種種の科目に及第した者に、
秀才・明経・進士などの肩書をあたえて有資格者と定め、
必要に応じて各地の官吏に任用するのである。
中国では官吏登用のことを選挙というが、
試験には種種の科目があるので、
科目による選挙、それを略して科挙という言葉が唐代になって成立した。
その後、宋代に入ってから科目は進士の一科だけに絞られたが、
依然として科挙という言葉を使って清朝の末年に及んでいる。
このように科挙なるものは、
がんらいは天子が貴族と戦うための武器として案出されたものであったが、
その任務はおおよそ次の唐代三百年ほどの間にほぼ果たされたと見てよい。
次の宋代になるともはや世上には天子に刃向かうほど強力な貴族はいなくなり、
科挙の全盛時代に入る。
天子は自分が思うまま自由にこき使える官吏を、
科挙によって十分に補給することができたのである。
宋一代、科挙出身の政治家が自由に手腕を揮うことができ、
中国史上はじめて見られる文治派の政治が完成されたのであった。
・・・・
706 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:20
世界史リブレット9 科挙と官僚制 平田茂樹 山川出版社
p005
@−科挙を理解するための視点
試験制度としての科挙
中国の歴代王朝は、「察挙」(漢代)「九品官人法」(魏晋南北朝時代)、
「任子」(唐代)、「科挙」(隋唐〜清代)といった官吏登用のための
さまざまな選挙制度を実施してきた。
漢代の「察挙」は、一般には「郷挙里選」としてしられている。
・・・・
p007
・・・・
唐代の科挙は、詩賦(作詩)に代表される文学の才を問う進士科と、
明経科に代表される経書の暗記能力を問う諸科に分かれるが、
受験時の待遇・合格後の出世などの面から進士科が尊重された。
進士科を受ける受験生は二つのタイプに分かれた。
州県から出願して考査を受けたのちに中央に推挙される郷貢進士と、
首都長安にある官僚の子弟が学ぶ各種の学校から推挙される学館進士である。
両者は首都に集まり、礼部による帖経・雑文・時務策の試験を受けた。
ところが・・・試験の成績よりも・・・合否は・・・
・・・だれから推挙されたかに大きく影響された。そして、合否の決定も・・・
・・・知人の有力高官に相談して決める「通傍」といった慣行にもとづいておこ
p008
なわれた。
つまり、有力高官との人脈の有無が合否を決めるうえでの大きな要因となった。
707 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:21
世界史リブレット9 科挙と官僚制 平田茂樹 山川出版社
p009
唐代の科挙制度
定科(定期的に実施される試験)−−−−−−−−−−→@
制科(皇帝が詔を下して臨時におこなわれる試験)−」
@−→明経等諸科(主として経書の暗記能力を問う)
L→進士科(詩賦に代表される文学の才を問う)→A
A−→郷貢進士(地方から推挙)−−−−→礼部試→吏部銓(身言書判)→官僚
L→学館進士(中央の学校からの推挙)」
※身言書判: 四6ベンレイ体の美辞麗句を書き上げる試験。
宋代の科挙試験
定科−−−−−−−−−−→@
制科−」
@−→諸科(王安石の改革により廃止)
L→進士科→経義進士科(経義・論・策)・詩賦進士科(詩賦・論・策)の両科並立A
A→解試→省試→殿試→合格B
合格B(授与される肩書き)進士及第→官僚
(授与される肩書き)進士出身→官僚
(授与される肩書き)同進士出身→銓試→官僚
試験場所[いわゆる貢院](試験内容・受験者数):
本籍の州(経義・論・策・数十万人)→C
C中央・礼部貢院(経義・論・策・一万人)→D
D皇帝の面前・集英殿(策・数百人)
明清時代の科挙制度
学校試[県試→府試→院試]→@
@郷試(省都の貢院)→会試(北京の礼部貢院)→殿試(皇帝の面前)−合格→官僚
(各試験すべて共通)試験科目:経義・詩賦・論策
708 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:22
世界史リブレット9 科挙と官僚制 平田茂樹 山川出版社
p035
●−宋代進士合格者分布図
宋代行政地名(現在省名)北宋での合格者数・南宋での合格者数
永興軍路・秦鳳路(陝西省)__129・9
河東路(山西省)________67・0
河北西路(河北省の西半)____32・1
河北東路(河北省の東半)____45・2
京東東路(山東省の東半)_____5・0
京東西路(山東省の西半)____35・0
京西北路(河南省の東半)____73・1
淮南東路(江蘇省の北半)___188・106
------------------------------------------(金と南宋の国境)
京西南路(河南省の西半)_____7・2
淮南西路(安徽省の長江北岸)_124・104
江南東路(安徽省の長江南岸)_958・1738
江南西路(江西省)_____1225・2636
両浙西路(江蘇省の南半)__1444・2202
両浙東路(浙江省)______911・3900
福建路(福建省)______2600・4525
四川3路(四川省の北東)___548・1396
成都府路(四川省の中央)___788・1133
荊湖北路(湖北省)_______81・80
荊湖南路(湖南省)______200・416
広南東路(広東省)______124・259
広南西路(広西省)_______71・175
※ 南宋での合格者数で国境北側は金国占領下で脱出受験者の数か?
709 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:30
唐代の名ばかりの科挙って、説明文の中身からして「八百長」だよね。
「任子」の説明や「節度使や門閥貴族」が「有力高官との人脈の有無」と
どう関係して来るかで、創始なんだ。というか
前身とか試験段階。といえるか。にかかっているよね。
710 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:33
表のように合格者数比較だと福建省って思ったよりお勉強家だろう。
湖北とか?間違え記憶でカキコだったが。スマソ。
711 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:34
>>698 > 李白?が科挙官僚だったと言う生涯年表や解説本をトンと聞かないのも事実。
大体どうして韓愈、白居易じゃなくて李白なの?韓愈は吏部侍郎、
白居易は刑部尚書にまでなっている。二人とも進士だよ。李白に
関しては、西域出身の胡人でそもそも入試資格を持っていなかった、
という説が有力。岩波文庫の『李白詩選』の松浦友久氏の解説に自
身その他の論文も引いての説明がある。
712 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:37
試験で決めてないのって名ばかりでしょ。
名前が出たから創始だ。といえば。謝りますけど。。。
ぼくが資料を出すべき事でないと。。。本来はね。
このカキコは昨日あたりからだしね。
学生・現役の方が時間があり、片暇にペラペラ調べられるハズだし。
専門課程ならゼミ生なら得意分野なハズで。
卒業してもう16年経つが記憶がアヤフヤは否めない。
耳学問で単語を思い出し、調べたのを引っ張ってくるのは結構大変なんだ。
713 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:46
役職なら。
漢代や三国時代だってある肩書きですよね。六部の役職は???
「進士」は確かに「科挙」の肩書き。
わたしは明・清時代(約1360−約1910ほど、約560年間)の
科挙が頭にあって専攻だったもんで。
阿Q正伝で・・・旦那が「科挙」に受かり「挙人」にまでなりなすった。から
宋代の「科挙」まで遡ったんですよ。
宋代は「進士」ですし、清時代も正式名?は「進士」なんでしょうけどもね。
唐代は明らかに「有力者」の一存ですよ。
試験で受からんのに「科挙」?って頭がよぎりましたので。
それで唐代で創始とはガン張って認めなかったです。
714 :
世界@名無史さん:04/06/30 16:50
すまん。
また恥をかいた。六部は唐代から清末までの行政担当であった。。。。
>卒業してもう16年経つが
ずいぶんいい年なのに日本語がおかしいね。外国人なの?
716 :
世界@名無史さん:04/06/30 17:05
>714 補足。
・・・
漢代以降、行政を総理する尚書省は
4ないし6の官署を特設して、政務を分掌していたが、
唐は尚書省を吏・戸・礼・兵・刑・工の六部とし・・・確立した。
六部の制が
このように永続したのは《周礼(しゅらい)》六官の伝統の影響であった。
しゅらい 周礼 中国の古典。《周官(しゅうかん)》ともいう。
経書の1.
古くは周王朝創設の功労者,周公の作で,周代の官制をしるしたものといわれたが,
・・・
実際は戦国時代に作られたと考えるのが最も妥当であろう。
・・・
天・地・春・夏・秋・冬の六官府によって構成される。
天官は大宰・小宰以下の諸官で,天子や宮中に関する庶務・・・つかさどる。
・・・土木工事,工業一般をつかさどる・・・
この六官府の構想は北周以来,実際の行政組織に多大に影響を与えている。
・・・
平凡社 世界大百科事典より。。。
>試験で決めてないのって名ばかりでしょ。
>名前が出たから創始だ。といえば。謝りますけど。。。
やっぱり、日本語が変だよ。この人。
718 :
世界@名無史さん:04/06/30 17:19
長恨歌は
白楽天だ。唐代の詩人。
進士・・・勉強を・・・28歳で地方試験・・・中央試験・・・
・・・制挙に応じ・・・官吏・・・親試・・・翰林学士左拾遺となった。
自ら香山居士と号し・・・白氏文集は70巻に達する・・・
李白。唐代の詩人。酒中の八仙。
よく読んでいなく申し訳ない。。。
で、何がしたいのこの人。
720 :
世界@名無史さん:04/06/30 17:20
蛍の光・窓の雪であった。。。かなり忘れていた。
721 :
世界@名無史さん:04/06/30 17:24
>・・・制挙に応じ・・・官吏・・・親試・・・翰林学士左拾遺となった。
制挙って??? 科挙の誤植なのかな??? 平凡社の。。。辞典で。。。
制挙 : 確か唐の科挙の種類の一つだったか。詳細忘。
723 :
世界@名無史さん:04/06/30 17:59
>721 つづき。
かんりんいん 翰林院 唐代以降の官署。唐初,天子の諮問に備えて,
文詞・経学の士から僧,道士,卜者,医家に至るまで
もろもろの士をそこに集めていた。
玄宗のとき翰林待詔(かんりん・たいしょう)をおいて上奏文に対する
天子の返答その他の文書を立案させ,また翰林学士と改称,
さらに翰林院のそばに学士院をおいて
宰相の任免その他重要な詔勅を管掌させた。
724 :
世界@名無史さん:04/06/30 18:00
かきょ 科挙
・・・隋の初めに九品官人法(三国の魏の九品中正)が廃止されると,
秀才制度が再び独立したので,普通にこれを科挙の開始とみなしている。
隋代には秀才のほかに,経明,進士などの科ができた。
漢代の秀才は地方からの推選に重点をおき,
隋以降のそれは中央で行う試験に重きをおくのが根本的な違いである。
唐は隋の制度をほとんどそのまま受けつぎ,
ただ秀才の科がすたれ,進士と明経の科が盛んで,
とくに進士からは有名な人物が多く出た。
進士は文学を主とするが,明経は経学を主とする。
ほかに法律専門の明法や書,算などの科があった。
・・・
【日本】奈良時代・・・養老令・・・
・・・貢人を出したが・・・廃れ・・・なくなった。
【朝鮮】宋と同じ時代の高麗の時に始まった。・・・続いた。
・・・
-------------------------------------
やはり
隋は秀才制度で
唐は進士の科で「制挙」に繋がったのですね。「選挙」とかね。
科挙の名称が出たから創始ではなかったわけです。
科挙の前身。
なぜ「創始」にこだわる?
726 :
世界@名無史さん:04/06/30 18:14
九品官人法・北魏(北朝)は間違い。三国の魏が始め。ごめんなさい。
---------------------------------------------------------------------
漢代: 秀才制度,別途に郷挙里選(察挙)
魏: 九品中正(九品官人法)
隋: 秀才制度
秀才科,経明科,進士科
唐: (任子・制挙[礼部試(地方試・中央試)→吏部銓(親試)])
秀才科(帖経・雑文・時務策),経明科(経学),進士科(文学・詩賦),
明法科(法律専門),書科,算科
宋: (科挙[解試→省試→殿試])
経義進士科(経義・論・策),詩賦進士科(詩賦・論・策)
---------------------------------------------------------------------
727 :
世界@名無史さん:04/06/30 18:20
創始。。。に。こだわったのは。。。
ゼミの先生が、科挙を唐代に出来たとは聞かなかったから。
宋代に太祖の趙匡胤が科挙によって部下の節度使の兵力を皇帝直轄にし
更に兵員の為に使う国の費用を浮かす為に削減した。
そのかわり天子が直に命じられる官僚を置き。
官僚を置かんが為に「科挙」を始めた。
という講義を。間違いない。と記憶していたからだ。
なにか有名先生でも間違いがある
かのような話を別の所でも聞いた後だったんで
科挙は唐代に無い。という記憶が鮮明であった。
それがこだわりの原因。。。
728 :
世界@名無史さん:04/06/30 18:25
日本語おかしい。自分でもわかる。
訂正。
宋代に太祖の趙匡胤が
科挙[官僚]によって[節度使をなくし]
部下の節度使の兵力を皇帝直轄[の兵力]にし
更に兵員の為に使う国の費用を[、]浮かす為に[兵員を]削減した。
[節度使]のかわり[に]天子が直に命じられる官僚を置き。
官僚を置かんが為に「科挙」を始めた。
という講義を。間違いない。と記憶していたからだ。
729 :
世界@名無史さん:04/06/30 18:29
長々と付き合ってくれて、申し訳ない。
さて宋代のお話に戻って下さい。。。。。。。