「T子(十一歳・武蔵野市小学校五年生)R子(同)A子(同)の三人は、十月(中略)武蔵野の林の
なかを仲良く手をつないで歩いていた。」<キャンプ・トウゴウの近くで夢中でスケッチしていると、
まずR子がおそわれ、次々に米軍の餌食になってしまったのだ。彼女達のスカートは切られ、
何が起こったのか全然わからなかった。R子とA子は気絶し、T子はまた泣き叫ぶと、アメリカ兵
は彼女の顔を蹴り、ジープで去った。
このような事件が全国で続発している中で、1946年4月東京・大森で恐ろしい事件が勃発した。
<N病院(=中村病院。その後廃業し、跡はビルと道路になった。)は三台のトラックに分乗した
米兵によって、およそ一時間近くも病院じゅうを荒らされた。彼らの総数は二百人とか三百人とか
いう説もある。婦人患者のうち重症患者を除く四十数人と看護婦十七人、ほかに十五ないし二十人
の付添婦・雑役婦などが陵辱された>
「彼等は大病院に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人たちの布団をはぎとり、その上にのりかかった」
「二日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、一人の兵隊にユカに蹴落とされて死んだ」
「M子などは続けざまに七人の兵隊に犯され、気絶した。」そして、「裸で転がっているあいだを
通って、侵入してきたときと同様、彼等は表玄関と裏口から引き上げていった」
− 慄然とする内容である。
(中略)
慰安婦非難決議の第4項にこうある。
「現在と未来の世代にわたり、このようなおぞましい犯罪があったことを教育せよ」
この言葉、そっくりそのまま米国にお返しする。
SAPIO 4/11号 (封印されていた占領下の米兵「日本婦女子陵辱事件」ファイル・水間政憲より一部抜粋)
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