1 :
世界@名無史さん:
内藤湖南以来の通説、唐宋変革論の虚実を語れ!
なんでも最近の学会では否定的とか。
2 :
世界@名無史さん:02/07/31 13:38
2
3 :
世界@名無史さん:02/07/31 20:08
唐宋より、北宋・南宋が画期だという説を聞いたことあり。
というか、宮崎市定等の影響(?)で、宋代近世説が(少なくとも)世間には
広まっていると思うけど、最近ではどうも違うらしい、という話をきく。
今さら「唐末古代」とも言わないだろうが、せいぜい「帝制前期(唐まで)」
「帝制後期(宋から)」と言うべきなのか? 自分より詳しい方、教えて下さ
い。
良スレの予感。
すごく興味あり。
5 :
世界@名無史さん:02/07/31 20:22
中国では、
(1)春秋時代まで
(2)戦国時代〜アヘン戦争前まで
(3)アヘン戦争以降
という時代区分が主流だったかな?唐宋変革よりも、春秋戦国と
アヘン戦争での変革が重視されているらしい。
6 :
世界@名無史さん:02/07/31 20:46
>5
というか、
(1) 封建(春秋戦国まで)
(2) 帝制(秦〜アヘン戦争まで)
(3) 近代(アヘン戦争以降)
じゃなかったでしょうか?(言わんとするところは同じだと思いますが)
秦〜清末が1つでは長すぎるということで、もう少し細分化するのなら
どこかな?、ということで。
7 :
世界@名無史さん:02/07/31 21:02
>>1 内藤湖南がなんて言っているのかは知らないが、これって、
魏晋南北朝以来の支配階級の貴族が没落して、新興地主層が勃興したってあれでしょ?
貴族だって地主のような気がするのだが、そもそも宋代の地主の起源ってなんなんだ?
8 :
世界@名無史さん:02/07/31 21:08
>6
そうでしたっけ。私は中国史研究者ではなく、知識はいい加減な
ところがあるので、そうだったかもしれません。
(2)を細分化するとなると
三国〜五胡十六国(北方民族の流入による風俗・言語の変化)
唐宋間(文化史・東アジア史的視点)
明末清初(「伝統的」な中国社会の形成)
といったところでしょうか。私の乏しい知見では。
9 :
世界@名無史さん:02/07/31 21:18
>>7 唐代の、武氏(則天)が政権を握った時期に、新興の地主層や商人層が
経済力を背景に官界にどんどん進出してきたと聞きましたが。
10 :
世界@名無史さん:02/07/31 21:30
唐末五代の戦乱で旧貴族は没落して、血筋的には大幅に
入れ替わったのではないでしょうか?
11 :
世界@名無史さん :02/07/31 21:51
この時代は家系図の偽作とか流行ったらしいね。
旧貴族が宰相級の地位にいたのは後唐あたりまでか?
12 :
日本@名無史さん:02/07/31 23:34
>11
そうだと思う。朱全忠が黄河に投じたからかもしれないが
門閥貴族の子孫にろくな奴がいなかったので登用できなか
ったとかいう話も読んだよ。五代のどの王朝だったっけ。
(後唐?)
13 :
世界@名無史さん:02/08/01 00:07
>7
唐と宋で地主の血筋が大方入れ替わったということなのでしょうか?
だったら、「それだけ」のこと? それとも、「それだけ」でもすご
いこと?
14 :
世界@名無史さん:02/08/01 00:23
>8
その文化史的視点というのが怪しいんだって。
たとえば「清明上河図」の解釈とか、従来と違う説も出されているらしい。
開封は所詮、政治・軍事都市だとか。
15 :
世界@名無史さん:02/08/01 07:21
>14
そうなんですか。最近の研究動向にも目を向けねば。
16 :
世界@名無史さん:02/08/04 18:58
「清明上河図」について、
最近、早稲田の誰かの論文にあるとか。
17 :
世界@名無史さん:02/08/04 19:44
中国史は独特だからなあ。
世界史全部見渡して基本にもどって考えると
古代:帝国の時代(ローマ、バビロニア、ペルシア、エジプトなど)
中世:騎馬民族の帝国侵入〜宗教を基盤にした文化ブロック、土地統制
(神聖ローマ帝国、ビザンティン、イスラム帝国)
近世:世俗政権、資本主義の発生、大地主階級
近代:フランス革命以降、産業革命以降
と考えれば、漢までは古代、五胡十六国から隋唐(異民族と仏教〜律令)は中世、
五代以降は近世で良いと思います。
ただこの分け方だとモンゴルにやられたかどうかがでかいのがわかるな。
明はまたもとにもどっちゃうからね。
1戦国時代まで+秦漢三国...世界史的にいう古代
2五胡十六国隋唐..........世界史的にいう中世
3五代十国、宋(+元).....ヨーロッパでいう「近世」
4明清....................世界史的にいう「アジア的近世」?
5民国以降................近代
かな?
>>7の分け方も大方正しいと思う。
18 :
世界@名無史さん:02/08/04 19:51
漢は地主と租借人のバランスがすごかったんだよね。(古代的)
そんで隋唐は律令と言う国家が土地を統制するうまいシステムを考え付いた。(中世的)
でも歴史の宿命か私有化がどんどん進み、律令基盤の貴族は没落し
宋では新しい地主層が資本主義的な新しい時代をつくった。(近世的)
という考え方でよいのでは?
あとは遊牧民の侵入と反動との闘いですね。
19 :
世界@名無史さん:02/08/06 00:05
ところが宋代ではそんなに農業生産力が上がってないそうなんですよ。
どう解釈すればいいのかな?
20 :
世界@名無史さん:02/08/06 00:39
農業以外の分野で(商工業・金融など)大きな発展がみられた
…と、好意的にとらえていいのかな。
21 :
世界@名無史さん:02/08/06 00:47
>>18 >漢は地主と租借人のバランスがすごかったんだよね。(古代的)
どうやら違うらしい。
漢代は自作農が多く、しかも王朝が農民を個別人身的に把握するということが
非常にうまくいっていた。
生産物の余剰の6割が国家に吸い上げられていたともいわれている。
22 :
世界@名無史さん:02/08/06 05:52
節度使が貴族の没落の原因か、それとも逆に貴族が力を失ったから節度使が必要になったのか。
23 :
世界@名無史さん:02/08/07 22:02
藩鎮と新興地主と農民の関係なら岩波の「講座」にもあると思う。
24 :
世界@名無史さん:02/08/07 22:09
宋代まで生き延びた貴族とかはいないのかな?
没落していく貴族が新興の連中への侮蔑や憎悪を綴った文献とか
もしあれば面白いだろうに。
25 :
世界@名無史さん:02/08/08 18:19
門閥貴族は地方の地主クラスとなって生き延びたのでしょうか?
たとえば陸九淵は唐の宰相の子孫となってるけど、系図はあてになるの?
宋代以降の士大夫は流動性が激しいとか。
確かに王安石や司馬光の子孫の話はあまり聞かぬ。
近世は古代の否定。中世はいまだ古代が続いていると意識されていた時代。文化面でも
朱子学が興って儒教ルネサンスをもたらしたのである。
いわゆる歴研派(東大)の唐宋変革論は、唐代までの国家−人民間の個別人身支配体制を奴隷制
として把握し、宋代以降の地主−佃戸制を封建的農奴制と捉えるマルクス主義史観による。
だけど、これはもう理論的に破綻してるね。宋代以降の在地有力層を「地主」という観点からのみ
見るのはもはや視野狭窄。「在地有力層」の正体は、土地経営のみならず、オモテ・ウラの流通経済、
官僚機構末端など、至る所に触手を伸ばすアメーバ的存在であると同時に、一種自律的な郷村秩序の
担い手でもあったというのが、『清明集』研究などから導き出されて来た近年の見解かな。
アメリカ生まれの「両宋変革論」とは、つまり士人層がかかるローカルな秩序形成(はやりの言葉で
いうとネットワーク形成か)を志向し出したのを南宋以降と見、ここに明清の郷紳層の先駆形態を見
ようとするもの。これのお先棒を担いで、宋代史研究は「明清主義」の立場から行うへきだ、なんて
ことを揚言するヤツまで出て来たね。
現代に繋がる中国社会の原基形態を明清時代に求める観点から、いまや社会史・社経史研究は明清
一色といった状態。「唐宋変革」はもはや忘れられたテーゼか。
28 :
世界@名無史さん:02/08/08 19:20
俺はどうも意図的なものを感じてしょうがない。
宋〜南宋時代には革命的な発展があった中国。
カリフを中心に秩序に基づいた世界を形成していたイスラム世界。
そこへ現れたあのポンコツモンゴル。
なんなんだあいつらは?
難を逃れた西洋諸国は脈々と自分達の世界を形成していった。
意図的なものを感じずにはいられない俺なのであった。
29 :
世界@名無史さん:02/08/08 22:04
モンゴル族と満州族さえ来なかったら、中国史は大きく変わっていたであろ
う、と言ってみる
西洋と東洋では近世のありかたが幾分違うとされる。どちらも民族主義が
台頭したのは共通するというが、その際おそらく地形的な要因で西洋では
小国が乱立したのが、東洋ではモンゴル、満州族などが平原を統一すること
ができた。とはいえ早くは契丹、さらにチベット系の西夏、大理、ベトナム
、モンゴル、その他諸々の民族が陸続と台頭したのであるから西欧と共通
する。
31 :
世界@名無史さん:02/08/08 23:05
>28
「カリフを中心に秩序に基づいた世界」とは? コルドバ(後ウマイヤ朝)のカリフは既に
ないものの、バグダードの政治的実権を失ったアッバース朝のカリフと、カイロのイスマイ
リ派(シーア派)のカリフが併存、セルジューク朝には内紛が起こり、イランにはホラズム
朝、北インドではトルコ系奴隷王朝から同じくハルジー朝へ交替、といったあたりがモンゴル
擡頭期のイスラム世界の状況だったのでは?
それからモンゴルの支配は中国社会の基層部には入りこまなかった。モンゴルが来ても特に
江南の地域社会にはほとんど変動はなかったということ。杉山センセがいうように、モンゴル
支配期(パックス=タタリカ)には交通・商業ネットワークが整備され、「ユーラシアの一体
化」が実現していたというのも今じゃ常識に類する所説。イスラム文明と中国文明を摂取した
モンゴル支配地の文明は、もちろん当時の「後進地域」ヨーロッパより遙かな高みに位置して
いた。そろそろ「野蛮なモンゴル人」というステレオタイプな考えは捨てた方がよいのでは。
「満洲族」云々も同断。明〜清の政治・社会にはあらゆる意味で連続性が認められる。
宋って明るいイメージを持つけど。
それは、なんでだろ。その後の、モンゴルとの差を歴史書が描いたから?
33 :
世界@名無史さん:02/08/09 18:11
文治主義のイメージがあるでしょ。士大夫を「言論」を理由に処刑しないとか、
後周の帝室の末裔を保護したとか。「名臣言行録」の影響も強いそうだけど、
かなり理想化されているとか。
34 :
世界@名無史さん:02/08/09 18:51
>>32 私もこんな印象を持ってるんですが・・・
唐→「華麗」「国際的」「開放的」「軍閥」
宋→「文化大国」「経済大国」「軍事小国」「新法党・旧法党」
大明→「陰鬱」「皇帝独裁」「宦官政治」
歴史を事実をふまえない単なるイメージで語るほど危険でやってはならない
ことはない。
そうでなければ以上のようなことは書けないはずだ。
歴史を述べる際は気をつけなければならないことである。
36 :
世界@名無史さん:02/08/09 19:09
わかりました。先生様。
足立啓二「専制国家史論」は興味深かった。
中国の政治史はほぼ一貫して皇帝に権力が集中=皇帝独裁の方向に進んで行くのだが、
独裁が純化すればするほど、民を把握する能力が低下し、明・清期にはそれが頂点に達する。
低下した専制国家の社会把握能力を補完するために、中国式任意団体が形成されると。
38 :
世界@名無史さん:02/08/09 20:39
臨安の賑わいを描いた絵があるけど、
あれを見てると江戸の賑わいを思わせる感じがしたんだよね。
町人文化みたいな人間模様が展開されていたのではないかと。
中国近世の特徴の一つに秘密結社の出現がある。これは近世からの特徴
とされる。そして王朝の交替はほぼこうした秘密結社がからんでいるという。
農民は大人しいもので本当に窮乏したときにしか叛乱はおこさなんだようだ。
40 :
世界@名無史さん:02/08/11 03:05
え〜、痛説・俗説スレッドとはここですか?
41 :
世界@名無史さん:02/08/11 09:06
>39
それ、宮崎市定大先生がどこかで仰っていたような。
42 :
世界@名無史さん:02/08/15 07:02
宮崎市定がすごいことは認めるけど……
宋代は農業経済史的にはたいして唐代と変わらないという説が出ている。歴史
学者ではなく、農学者の視点から。
だとしたら文化史的にはどうなのか、ということを考えたい。
43 :
世界@名無史さん:02/08/15 09:40
唐末五代から十王信仰(閻魔王を含めて十人の地獄の王が、初七日、四十九日、
一周忌など合計10回死者を審判するが、裁判日にあわせて供養すれば、死者の
罰は軽くなるかもしれない)というのが盛んになりますが、
これは社会の変動と何か関係するのでしょうか?
44 :
世界@名無史さん:02/08/15 11:48
45 :
世界@名無史さん:02/08/15 16:09
唐変木についてかと思った
ドッカン
m ドッカン
=====) )) ☆
∧_∧ | | / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( )| |_____ ∧_∧ < おらっ!今から名古屋オフ最下位だ!でて来い!
「 ⌒ ̄ | | || (´Д` ) \___________
| /  ̄ | |/ 「 \
| | | | || || /\\
| | | | | へ//| | | |
| | | ロ|ロ |/,へ \| | | |
| * | | | |/ \● / ( )
| | | |〈 | | | |
/ / / / | / | 〈| | |
/ / / / | | || | |
47 :
世界@名無史さん:02/08/31 01:49
age。
48 :
世界@名無史さん:02/09/13 22:30
age
49 :
世界@名無史さん:02/09/13 22:59
この変革の専門家っているの?
50 :
世界@名無史さん:02/09/25 08:35
唐宋変革というより、唐が遼と宋に分裂した感じだがな。
51 :
世界@名無史さん:02/09/25 09:03
唐って正統な漢民族の王朝の流れとちょっと違うからね。
>50-51
なるほど、分かり易い見取り図だ。
53 :
世界@名無史さん:02/09/25 19:26
耶律阿保機が可汗に即位したのは唐の滅亡と同年。
遼は唐の継承国家のつもりでいた。
実際、経済や文化だけみて宋マンセーばかりいうのは歴史的に正しくない。
宋の繁栄は遼の政治的軍事的優位とセットでの現象。
┌遼─金─元
唐─┤ ↑
└五代─宋┘
54 :
世界@名無史さん:02/09/27 12:11
宋と遼がセットっていうのはわかりやすくてイイ!ね。
┌遼─金─元(巨大化)→明→清→そのあと
唐─┤ ↑
└五代─宋┘
明は漢民族なのにどさくさででかくなったんだよな。
そう考えると今の人民共和国は明に近いのか。
┌北元───清
│ ↑
モンゴル帝国┼明────┘
│
└チムール─ムガール
│
├─サファービー朝
├─オスマントルコ
└───ロシア帝国
>>54 元が明になったというより、元はそのまま北元で、
属領(漢人居住区)が勝手に独立しただけ。
北元ははじめのころ「明」という朝号を認めず「領民のウルス」と呼んでいた。
後に相互に認めあったけど、元の正統は清に継承されたので
継承関係でいうと明は前も後も途切れて孤立した感じ。
モンゴル厨が大移動してきたスレはココでつか?
遊牧民だけに大移動は特異ですぜ
60 :
世界@名無史さん:02/09/29 18:11
ゲルマン系とラテン系やトルコ系とアラブ系みたいに
イスラムもヨーロッパも遊牧民の侵入のあと
先住民と並びつつも融合して
むしろ唐的な社会が成熟していくのにくらべて、
またもや旧態の漢民族の社会が新しい形で出てくるのが宋は面白いね。
61 :
世界@名無史さん:02/09/29 18:17
古代文明からずっと同民族(ってことになってる)なのは中国くらいだしな。
62 :
世界@名無史さん:02/09/30 15:44
63 :
世界@名無史さん:02/09/30 16:09
>>61 五胡十六国時代で分ける説がありますよ。
この時代、華北の人口は殺されたり、長江流域に逃げたりで十分の一に減り、
代わって南下した遊牧民族が定住した。その民族が北朝、隋唐を築く。
唐末・五代の動乱期に人民が流動化し、南北の民族の混交が否応なく進む。
どういう民族名とするかは一定していない。
「秦民族」「漢民族」→「唐民族」「唐宋民族」
「旧漢民族」→「新漢民族」
先漢族=古漢族(夏人)先史時代〜秦
↓
第一次漢族(漢人) 漢帝国〜西晋
↓
第二次漢族(唐人)1 五胡十六国〜北宋
↓
第三次漢族(唐人)2 金/南宋〜清末
↓
漢民族(華人) 辛亥革命〜現在
65 :
世界@名無史さん:02/10/09 14:36
古代から同じ「中国」といっても、血統(?)はかなり変化している?
そういえば、戦国期の斉の遺跡から出た人骨は白人のに似てたというし。
素人の意見なんだけど、秦〜清朝までの同じ帝政でも、
唐までは軍閥・門閥政治があり、地方が独立・半独立することがあったが、
宋以降は科挙制度の全面採用で皇帝(中央)独裁が完成し、
内乱で王朝が交代することがなくなった、と区別できないかい?
>>56 ┌遼─金─ 元(モンゴル帝国)→明─→清─→その後
唐─┤ ↑│ ↑
└五代─宋┘├→北元┬→タタール─┤
│ └→オイラート ┘
│
└チムール─ムガール
│
├─サファービー朝
├─オスマントルコ
└───ロシア帝国
55,56が正しく67は間違い。
69 :
世界@名無史さん:02/10/10 16:07
唐宋変革期の農業技術進展、生産力の増大はどの程度のもの?
そのへんの話題に詳しい方、御教示を乞う。
ちなみに占城米は、実のところそんなに収穫できないとか。
70 :
世界@名無史さん:02/10/10 16:10
技術の進歩+貧しい中原から豊かな江南に農業の中心が移った
二つの要因の複合で農業生産はかなり増えただろうね。
71 :
世界@名無史さん:02/10/13 13:45
「江南」の生産力というが、宋代ではまだ江南デルタの生産力は低いはず。
チャンパ米はそんなに収穫量多くないし。
「農業生産」といっても、具体的に考えるとつっこむところはいっぱいあり
そうだよ。
72 :
世界@名無史さん:02/10/29 00:03
age
73 :
世界@名無史さん:02/10/29 06:17
>>71 それでも砂漠一歩手前みたいな中原と比べたら江南は豊かだったのではないか?
74 :
世界@名無史さん:02/10/29 11:33
伝わっている六朝や南唐、南宋の繁栄ぶりをみると、江南地方には
充分な、あるいは有り余るほどの生産があったと思われるが・・・
75 :
世界@名無史さん:02/11/11 00:31
age
76 :
世界@名無史さん:02/11/13 01:39
中世とか近世とかレッテルはどうでもいいけど、
大きな区切りを入れるとしたらどこか?
ってのはやはり気になるなあ。
77 :
世界@名無史さん:02/11/13 02:02
言語や生活習慣の面でも唐までは胡風、つまり西方からの文化流入が多かった。
しかし、宋以後は北方からの影響が強くなった。
言語も北方化して入声が消滅し現代の北京語に近づいて行く。
生物を食べる習慣も消滅して現代の中華料理が作られて行く。
そして都は中原から北京に移り清代にはついに胡服弁髪するに至る。
78 :
世界@名無史さん:
>>76 唐宋のあいだとモンゴル以前以降じゃないのやっぱり。
唐代は文化的にイスラムのほうが影響強くて、宋代からは77みたいな状況になってくよね。
宋というより遼の出現もでかい。