異端もいたんだ

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1三位三体
キリスト教では、神学論争に敗れたり、偏見で見られたりして
亡んでいった宗派がいろいろありますね。
彼等をしのんで、おせんこ一本。かしわ手一回しましょう。
2世界@名無史さん:02/07/19 14:40
2ゲト
3世界@名無史さん:02/07/19 14:48
で?
4世界@名無史さん:02/07/19 15:13
三交社の『異端事典』(C・S・クリフトン)という本1冊だけでザッと180前後の項目がありますが。
どこからはじめますか?
5エクソシスト:02/07/19 17:00
現在三位一体を認めてない宗派もあるんでしょうね。
あんなものは車の通行が右か、左かみたいな会議の決め事ですよね。
6世界@名無史さん:02/07/19 17:35
>>5
>現在三位一体を認めてない宗派もあるんでしょうね。
アッシリア教会がそうですね

>あんなものは車の通行が右か、左かみたいな会議の決め事ですよね。
違います。
神の性格付け、というか理解の仕方がまったく違って来てしまいます。
例えば現存はしないはずですが、古代単位説のように、三位一体の内人性と聖霊の位階を認めなければ、その神理解はユダヤ教やイスラム教のそれに近似のものとなります。
7神山&林田:02/07/19 17:36
ひょっとしてそれはギャグで言っているのか?
8世界@名無史さん:02/07/19 17:40
異端か。
ぱっと思いつくだけでも、アリウス派、ネストリウス派、単性論
アルビ派、ロラード派、フス派なんて言葉が出てくる。どれが
どういう異端なのかはよく知らないが。
9世界@名無史さん:02/07/19 17:55
アリウス派:
古代アレクサンドリアの司祭アリウス(250?〜336年)の教説に基づく。

イエスは神の子であるが、イエスが示した救世主(メシア)としての本性は天地創造以前から神と共にあった、と説く。
後のモナルキア説(父なる神が第一であり子なるイエスと聖霊は神に従属)に近い教義を編む。
が、アリウス自身の教説は、同じアレクサンドリアで彼に対立した聖職者の著作を通じてのみ知られるので評価が困難。

アリウス説に基づくアリウス主義は、325年のニカイア公会議で断罪された。
ニカイア信条の承認を拒んだアリウスは異端者と宣告され追放された。
10世界@名無史さん:02/07/19 18:01
ネストリウス派:
コンスタンティノープルで発生した5世紀の異端。
428〜431年コンスタンティノープル総主教を務めたネストリウスの名による。

イエス・キリストの神性と人性を別個の性質とみなす古代両性説を踏まえた上で、
イエスの人性は母マリアに、キリストとしての神性は父なる神に由来する、と説く。

神性と人性は歴史上のイエス・キリストの人格内で結合されたとも説くが、
マリアを「神の母」とみなす事を非認。

431年エフェソス公会議で断罪され、ネストリウス自身はコンスタンティノープル総主教の地位を解かれ追放された。

国境を越えペルシアに逃れたネストリウスを慕った信奉者達がペルシアで結成したのが今のアッシリア教会につながるネストリウス派教会。
中国史で景教としられる教派。
11世界@名無史さん:02/07/19 18:07
単性論:
単性論は主に翻訳語の問題で曖昧に用いられる事が多い用語。
曖昧に単性論に含められる異端教説には、
イエス・キリストの言動には神の意志の反映しか認めない単意論(単一神論≒モナルキア主義)
イエス・キリストの言動に、神性と人性の区別をそもそも認めない単性説(原始単性説)
イエス・キリストの背後に、神性と人性の区別を認めたうえで神性の優位を解くネストリウス的単性説(ただし、これはネストリウス自身の教説とは異なる)

などが含まれてしまっている。本来これらは区別されるべき思想である。
12世界@名無史さん:02/07/19 18:12
アルビ派:アルビジョワ派
アルビジョワ一帯に広まった中世西欧最大の異端派と呼ばれる。

中世東ローマの異端ポゴミル派の内、より過激に旧約神を否定したマケドニア派ポゴミルの影響で生まれた、とするのが有力説。

新約のイエス・キリストとその父なる絶対神を、旧約の世界創造神と対立的に捉えた。
アルビジョア派によれば、旧約の創造神は悪神であり、それゆえ現世は悪の世界であるとされる。現世非認的教派。
13金と権力こそ我が神:02/07/19 18:19
でもさ、キリストの神性を認めないって見解(アリウス派だっけか)には
賛同するけどね。マリアから生まれた「人間」なわけでしょ? 「人間」に
神性を付与したら、唯一にして絶対の神に匹敵する存在になり得るわけで、
神が唯一じゃなくなっちゃうじゃん、と思うんだな。むしろ唯一神への絶対的な
信仰を強化したいなら、イスラム的な「神と、その神が遣わした預言者」という
図式の方が分かりやすいと思う。預言者なら神と親しく交わりはしても、神との
同一性はないわな。
なんか、正統派の三位一体の主張は「奇跡を起こした人気者のキリストを、なんとか
教義の中に内包して教勢の拡大に使えないか」という戦略的見地が生んだこじつけ、
なんじゃないかなーと思う。
そんなわけで、エフェソス公会議(でしたかね)の決定には承服できぬ。
14世界@名無史さん:02/07/19 18:20
ロラード派:
14世紀イギリスの異端派。
ロラードとは「つぶやく人」を意味し、「しじゅう祈りをあげる人」が含意された。

当時異端と呼ばれた早期の宗教改革者イギリス人ウィクリフがロラード達を任命した。

ウィクリフは、古典後ではなく世俗語で聖書を読むべきである、と唱えた。
1360年代、イギリス国王とバチカンとの政治的対立に際し、国王側についた。
後ロンドン司教に避難されたことをきっかけに、バチカンの教説を否認する論説を展開。

ロラードとは、ウィクリフ派の遍歴説教師の事で、1380年頃から組織された。
1381年ロラード達が農民反乱に加わった事でも知られる。
この件とウィクリフ自身の教義思想、政治思想の関係は不明。

1399年国王となったヘンリー4世はロラード主義者は発覚次第死刑とする法を承認。以降ロラード主義者は公式に異端者犯罪者とされる事が確定事項となった。
15世界@名無史さん:02/07/19 18:23
江夏豊
16世界@名無史さん:02/07/19 18:27
フス派:
イギリスの神学者、ジョン・ウィクリフ(ロラード派の端緒をもたらした人)の影響をう受けたボヘミアの神学者、ヤン・フスの教説に基づく諸派の総称。

プラハ大学で神学を講じると共に、チェコ語での説教が人気を博した。
15世紀はじめ、プラハ大学の神学部が民族的主張を強めると、ドイツ人グループとの緊張が高まった。
1410年、プラハ大司教がウィクリフの著作を焚書にし、ウィクリフ支持者を破門。これをきっかけに、ボヘミアの学生及び市民の蜂起が起きる。
再編されたプラハ大学の総長に選ばれたフスはバチカンの教説を非難する説を展開。
ボヘミアのウィクリフ支持者達の指導者となる。

以降のボヘミア一帯の非正統的教派の総称がフス派と呼ばれ、
その内には、タボル派、アダム派などの様々な集団が含まれる。
17世界@名無史さん:02/07/19 18:31
8>9、10、11、12、14、16
詳しい説明、どうもです。
18世界@名無史さん:02/07/19 19:03
キリスト教異端の有名なもの、と言うと、後、
ドナティスト主義
グノーシス諸派
ワルド派
カタリ諸派
が挙げられると思います。

が、アリウス派〜フス派を書いたのでちょい息切れ(w)
できれば明日〜明後日くらいの内に。
19世界@名無史さん:02/07/20 01:05
age
20世界@名無史さん:02/07/21 19:35
ドナトゥス主義:ドナティスト、(ドナトゥス派)
キリスト教がローマ帝国に公認され、国教化に至る以前。
一番最初にローマ当局から弾圧を受けた教派として知られる。

属州アフリカ、カルタゴの司教ドナトゥスの名にちなんで名づけられた。

ドナティストは、キリスト教聖職者に厳格さと清廉さを要求した。
帝国による公認以前、ローマ帝国からの宗教弾圧に屈した経験のある聖職者を糾弾する勢力が集まったのがドナトゥス主義者。
後の異端のように明確な教義を唱えたがゆえに異端とされたわけではない。
が、属州アフリカの傾向として、原始単性説または原始単位論のような主張を持つ人々が多かった。

311年、非公認時代に当局に聖書を渡し廃棄させたカエキリアヌスがカルタゴの司教として選出された。
これに反発したドナトゥス他、数十人の司教が会し、カエキリアヌスの司教位無効、破門を宣告。別の人物を司教に選出した。ドナトゥスがこの司教位を継承したのは4年後の315年。

314年コンスタンティヌス1世の招集した教会会議で、カエキリアヌスの司教位は有効、ドナトゥス主義者が選出した司教の司教位が無効」と評決されたが、ドナトゥス主義者側はこの決定を承認しなかった。
以降、ドナトゥス主義者はコンスタンティヌス帝に弾圧を受ける。
が、同派は、属州アフリカ、属領エジプトに根強かった単性説、単異論的な主張のため弾圧を受けても根強く残存。6世紀まで続いたことが確認されている。

また、ドナティストが唱えた、「非公認時代に廃教行為をおこなった者の聖職位叙任は無効、誤って叙任された聖職者の秘蹟も無効」の主張は、帝国各地で激しい議論や信徒のパニックをもたらした。
21世界@名無史さん:02/07/21 19:38
グノーシス諸派:
現在の歴史学的整理では、「グノーシス」とは紀元前3世紀〜紀元3世紀、ローマ帝国領及びペルシア帝国領の一帯で、多宗教横断的に探求された宗教思想、と整理される。

キリスト教公認後〜現行の聖書正典が確立する時期にかけて、正統教義論者の方からは様々な教派がグノーシスと呼ばれた。
古代のキリスト教において「グノーシス」は「異端」の代名詞だったとすら言われる。
このため「グノーシス思想がキリスト教異端であるのか、本来はキリスト教以外の宗教の思想であったのか」は、長い間議論の的となった。

1945年のナグ・ハマディ文書の発見が契機となり、グノーシスの研究は進展。
現在では、キリスト教の内外で同時代的に進展した宗教思想の総体がグノーシス運動と呼ばれる。

グノーシス思想の特徴は、
霊/肉の二元論。現実世界を悪の世界とみなす現世非認的教義。
肉は物質に由来する物だが、個人の霊の内には霊的な記憶が眠るとする教説。
神智と訳されるグノーシス(神聖な智識)を認識する事で、人間は霊的な記憶を呼び覚まされるとする教説。
物質世界の創造神や星辰界を支配する劣位の神々は悪神であり、善なる絶対神は物質世界の外部にある、とする宇宙観。
幾重かの球体が同心円状に配列された宇宙観(この球体世界の内に星辰界も含まれる)
、などが挙げられる。

キリスト教異端のグノーシス教派も、キリスト教以外の宗教のグノーシス的な集団も多数あって列挙は煩雑となる。
宗教実態も、極めて禁欲的な教団から性的放縦を推賞容認した教団まで幅広い。

キリスト教ではなく異教のグノーシスで最大の物がマニ教と言われる。
22世界@名無史さん:02/07/21 20:43
宗教改革以降は異端というものに対する考え方はどのように変わったんでしょうか。
また宗教改革が始まって、それまで異端とされてきた諸宗派は何らかのアクションを起こしたんでしょうか。
23世界@名無史さん:02/07/21 22:50
>>22
>宗教改革が始まって、それまで異端とされてきた諸宗派は何らかのアクションを起こしたんでしょうか。

宗教改革諸派がバチカンからは異端と裁定されていたので、
宗教改革自体「異端とされてきた諸宗派が起したアクション」です。

だいたいは、
聖職者か神学者がバチカンを批判した論説を公にする→バチカンに破門される→教派を作る→異端裁定される、
みたいな経緯が多かったですが。

>宗教改革以降は異端というものに対する考え方はどのように変わったんでしょうか。
バチカンの考えは変わりませんでした。
かえって異端派にへたな批判を受けないようにと、対抗宗教改革というのを行いました。
これは教会組織の綱紀を粛正した反面、よりいっそうの異端審問を招きました。

バチカンの異端に対する態度が変わったのはずっと後、政教分離が普通になる頃からと思います。(これは調べて直してみないと少し自信がありませんが)

一般社会の方では、宗教戦争を経て、とりあえず信教の自由が確立すると、聖書を世俗語で読んでもいいんだ、という考えが広く行き渡りました。

この辺の経緯は、地域によって多少前後もしますが、大きな流れとしてはこういう感じです。
ぶっちゃけた話、現代のキリスト教系宗教団体の内には、昔だったら異端だよね、みたいに思える物、結構あります。
24世界@名無史さん:02/07/21 23:13
イスラム教、ユダヤ教を含めて安息日の違いを
お願いします。
25世界@名無史さん:02/07/21 23:22
ワルド派:ヴァルド派
ローヌ川沿岸の都市リヨンの富裕商人、ピエール・ワルドが1170年頃はじめた宗教運動。
俗人が都市部ではじめた宗教運動なのが特色。これは中世のこの時期の宗教運動ではめずらしい。

2人の司祭に金を払って依頼し、聖書を当時の俗語に翻訳させ、これを元に説教を開始。
リヨンの大司教は説教の禁止を通達したが、ワルドは従わなかった。
他の中世異端運動の多くと同様、清貧な「使徒的生活」の実践を説いた。
自分の財産を処分し、貧者に分け与えた。
信徒に貧者が多いため、別名「リヨンの貧者たち」と呼ばれる。

後、教皇アレクサンデル3世に説教の許可を願い出たが拒否される(ただし自発的清貧生活は賞揚された)。何人かの代表者が1179年の公会議を訪れ、自分達の口語訳聖書の承認を求めたが却下された。
その後も活動を続けたワルド派は、遍歴職人を装った説教師の活動で、短期間に南仏〜北イタリアに広範に広まった。
ワルド派が異端として断罪されたのは1180年代のこと。
アルビ派に対するアルビジョワ十字軍とその後の異端審問で弾圧を受け、南仏の山岳部やアルプスの渓谷部にひきこもった、
26カタリ派:02/07/21 23:24
もうおらん。
27世界@名無史さん:02/07/21 23:30
ネストリウス派とフス派は健在ですね。
28世界@名無史さん:02/07/21 23:36
>>1
>>1
お前、異端もいたんだ って
言いたいだけちゃうんかと。

29世界@名無史さん:02/07/21 23:55
カタリ諸派:
「カタリ」とは、中世期に、バチカン及び正統教義の方が様々な異端派を指して読んだ多称であり総称である。
3世紀〜13世紀にかけて教義的にも、系譜的にも様々な教派・教団が「カタリ」の名で呼ばれた。
代表的なところでパウロ派、ノアティヌス派、ポゴミール派、パタリ派、アルビ派、ワルド派、などなどが「カタリ」と呼ばれている。

これらの全ての教団・教派に系譜関係や組織的関連がある、と考えるのは妄想的な陰謀史観であり、無理がある。
ただし、近年、12〜13世紀のカタリ諸派の代表者が異端派の宗教会議を持っていたという説が提出されている。

「カタリ」とは、「純粋」を意味するギリシア語を語源にする、とするのが有力説。
中世期の異端派には、清貧な「使徒的生活」を推賞する教派が大変多かった。
3022:02/07/22 00:00
>>23
ということは上で述べられている中世からの異端が
宗教改革で始められた宗派に吸収されたということでしょうか?
それともそれまでの宗派が公然と自分達の主義主張を言い始めたということなんでしょうか?
それと異端についての考えですが、新教の側にとっての異端についての考えも気になるんですが・・・。
31世界@名無史さん:02/07/22 13:29
私は23じゃないけど、ケースバイケースなんじゃないの?
たとえばアルビジョワ派なんて、十字軍まで起こされて弾圧されたから
宗教改革の時代まで存続できなかったんじゃない?
32世界@名無史さん:02/07/22 19:39
>>24 :世界@名無史さん :02/07/21 23:13
>イスラム教、ユダヤ教を含めて安息日の違いをお願いします。

イスラムについては私はわかりかねます。

伝統ユダヤ教の安息日は「週の最後の日」土曜日です。
ユダヤ教では、日没から次の日没までを一日としますので、
今の時制で言うと、金曜日の日没から翌土曜の日没までが安息日です。

キリスト教の安息日は一応「週の最初の日」日曜日です。
これは、イエスの復活が日曜日の出来事という信仰に基づくといわれ、
広義に原始キリスト教といわれる、聖書が現在の正典に編纂される以前の古い時代に定着していた信仰、と言われます。

が、近・現代に産れた聖書ファンダメンタルなキリスト教系宗教団の一部には、
旧約の記述に基づき、安息日を土曜日にしているところもあるそうです。

イスラムの安息日については、「イスラーム史総合スレ」あたりで聞いてみてはいかがでしょうか?
もしかしたら「心と宗教板へどうぞ」と言われるかもしれませんが(?)。

http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1007890822/
33世界@名無史さん:02/07/22 22:08
ネストリウス派の立場が微妙だな。
人と神はわけるけど、ネストリウスは人の部分にこだわり、
後年のネストリウス派は神を重視したってことかな。
34世界@名無史さん:02/07/22 22:56
映画「薔薇の名前」は異端がテーマの映画でした。
あの中でアリストテレスについて考えるということが問題に
なってましたが、全く理解できませんでした。
神の存在について前提条件なしで考えるというようなことが
ローマ教会として認められないということだったんですかね。
35世界@名無史さん:02/07/22 23:02
今年の夏厨はなかなかセンスがよい。
せめて
映画「薔薇の名前」−>小説「薔薇の名前」
であればもうちょっとよかったのだが。
36=23:02/07/23 01:24
>>30 :22 :02/07/22 00:00
>上で述べられている中世からの異端が
>宗教改革で始められた宗派に吸収されたということでしょうか?

>>31の方が書かれているように、そこは時代や地域によっていろいろです。
特に、カソリック教会、異端派教団、双方の俗権力との関係、各教団の組織形態などが関連します。

アルビ派(>>12)とワルド派(>>25)の経緯に興味深い物があるので整理してみましょう。

アルビ派の発生時期は未だによくわからないようですが、
1140年代には、南仏の異端運動は教皇庁に注目され警戒されていたようです。
アルビ派の教説が公式に断罪されたのは1163〜65年の宗教会議でのこと。

1199年、前98年に教皇位についたインノケンティウス3世は、南仏の異端説の調査、正統教会聖職者の引き締め、異端派信徒に対する説教をシトー派修道士に命じる。
かえってこれがきっかけになり、アルビ派の結束が固まったとも言います。
が、アルビ派を支援していた南仏の世俗領主(貴族)の間には、動揺もあったようです。

1207年、アルビ派を庇護していたトゥールズ伯レーモンが破門される。
1208年、教皇使節の修道士が暗殺される(多くの場合、暗殺を命じたのはレーモン伯だろう、と言われています)
同、1208年インノケンティウス3世はフランス国王や北仏の貴族に、南仏の異端討伐軍出征を要請、十字軍として認定。

以降16年間に渡る、断続的な戦役を含んだ軍事行動がアルビジョワ十字軍と呼ばれる。
1243年、アルビ派最後の組織的抵抗拠点、モンセギュールはフランス国王軍に攻囲され陥落。一説には降伏とも。
十字軍終了後、北仏の南仏に対する政治的影響力の優位が確定した、と言われます。

十字軍終了後も、正統教会側の異端審問、隠れ異端者狩りは継続。
以降アルビ派が、12世紀〜13世紀初頭にかけての勢いを盛り返す事はありませんでした。小規模ながら14世紀まで存続した、とも言われます。
1310年に、南仏出身のピエール・オーティエという人物が異端のかどで火刑に処されたそうですが。彼が北イタリアの異端派と連絡した運動で、短期間多数の信奉者を集めた事件を、最後のアルビ派活動とする説もあるようです。

ワルド派はもともと、ソーヌ川沿いの都市リヨンで発生しました。
彼らは遍歴職人として説教活動をしたので南仏一帯も行動圏でした。
そのため、アルビジョワ十字軍の時期からはじまっていた南仏の異端審問ではワルド派も弾圧されました。

その後、イタリアのロンバルディアとフランスにワルド派は残存したそうですが。両者の間には徐々に亀裂が生じたと言います。
フランス系ワルドが旧来の遍歴生活を固持したのに対し、ロンバルディア派ワルドは、定着した教会組織を作ったそうです。
このため、宗教改革の時代になると、彼らはカソリック教会から再び弾圧されました。
ある物はカソリックに改宗しましたが、宗教改革時代を通じて改宗しなかった人々は、後に小規模な改革派教会を作ったそうです。
この教会は、20世紀も後半までロンバルディアに存続したそうですが、今どうなっているかは、調べられませんでした。

フランス系ワルドの方はどうか?と言うと、よくわからないようです。
遍歴生活を固持したまま、徐々に離散し衰滅したのだろう、と推測するしかありません。
37=36の続き:02/07/23 01:25
>上で述べられている中世からの異端が
>宗教改革で始められた宗派に吸収されたということでしょうか?
>それともそれまでの宗派が公然と自分達の主義主張を言い始めたということなんでしょうか?

えーと、中世の異端派教団の多くは、同時代のカソリック教団の唱えた「二重道徳説」という教説に類似の原理で組織を整備しました。
「二重道徳説」とは、一口に言えば「聖職者は俗人よりも道徳的に優れている」という説です。

アルビ派が典型的なのですが、信徒の間から選ばれた「完徳者」(訳語としては「完全者」とも)が聖職者のような役割を果たしました。
もちろん、「現存する世界最古の官僚機構」とも言われるバチカンと比較すれば、一般信徒と完徳者の間の垣根は随分低かったようですが。
アルビ派では、特に優れた完徳者は断食をして、日本流に言えば即身成仏を求めたと言います。

で、多くの異端運動で、一般信徒というのは、キリスト教信仰を持ってはいても、社会的不満とカソリック教会への不審が結合すると、異端派に身を投じる、と言えます。
ワルド派のように、少し熱心な信徒はどんどん遍歴生活に身を投じ、遍歴説教師になってしまう、という運動形態は、やはりどちらかと言えば珍しいものと思います。

ですから、>中世からの異端が宗教改革で始められた宗派に吸収された

と言うより「中世なら異端派運動に身を投じたような多数の人が改革諸派の運動に参加した」と言う事は言えます。
参加するにあたっては、世俗権力と、改革派運動の関係が大きく作用したはず、と推定する事は許されるでしょう。


>それと異端についての考えですが、新教の側にとっての異端についての考えも気になるんですが・・・。
これも、改革派教会個別と世俗権力の関係で考えた方が分かり易いでしょう。
イギリスのピューリタンのように、国政に関るようになると、対立派を迫害、弾圧するような事例もあったわけです。

こうした事は、欧米社会で基本的人権が確立される以前のことですから、
現在では、バチカンもルーテル派のような、宗教改革時代のいわゆる新教を「異端と呼ぶ事はしない」という裁決はしている、と記憶しています。
いつ頃のどんな裁決かは、ちょっと調べないとわかりませんが。

新教諸派にせよ、バチカンにせよ、聖書ファンダメンタルな運動などに対し「異端的である」といったコメントを出す事は今では、よほどの事が無いと避けると思います。
教会内での規定はいろいろ調べないとわかりませんが。
多くの場合公式コメントでは「危険な信仰だ」とか、具体的な行動を非難する
――例えば「いくら堕胎に反対でも病院にテロを仕掛けるのはキリスト教徒の成すべき事ではない」とかそう言ったコメントが主だと思います。これは私の印象論ですが。
38世界@名無史さん:02/07/23 01:42
ギー(F.マーリー=エイブラハム)によって処刑されたあのせむし男はドルチーノ派
だったんだよね。
39世界@名無史さん:02/07/23 01:56
>>11



原始単性説 (人性と神性を区別しない。イエスは渾然一体たるもの。)
 ↑
単位論   (人性と神性を区別するが、神性に人性が飲み込まれた存在。)
 ↑
ネストリウス的単性説 (人性と神性の区別をし、神性の優位を認める。)



こんな感じかな。
40=11:02/07/23 03:01
>>39
いや、えーと。キリスト教文化なりキリスト教社会なり、etcを歴史的に理解してく場合は、そういう整理は考えない方がよいだろうと思います。(もし、キリスト教信仰を持つかどうか悩んでる、と言うなら話は別でしょうが)

「異端」と言うのは「パラドクス」の訳語にあてられてるわけですが。
これに対照されるのが「オーソドクス」(≒正統教義)です。
「ドクサ」というのは今だと哲学用語で「憶測」と訳される事がありますが、
古代の、特に知識人の語彙としては「推測・推定(論)」とか「思弁」とでも言ったニュアンスで理解するとよいと思います。

語源的には、オーソドクスというのは「正しい思弁」と言った意味合で「パラドクス」というのは「(オーソドクスに)並列される思弁」と言った意味合いとなります(あくまで語源的には、です)。

何についての推測・思弁か、と言うと“聖書”についてのそれです。
原始単性説〜ネストリウス説の頃は、キリスト教聖書の正典も定まっていず、各地の教会で用いる啓典、重視する啓典や伝承にバラつきがあって、いろんな教説が唱えられました。
ですから、非公認時代から公認後にかけての教義論争と言うのは、正統教義の確立、聖書正典の編纂と並行した歴史事象と考えた方がよいはずです。

例えば、まず次のように考えてみてはどうか、と思います。
原始単性説、原始単意論=イエス・とキリスト、神の関係にあまり細かい議論を要さなかった地域、時代の説

結局、非公認時代のキリスト教聖職者と言うのは、a)ユダヤ教との差違、b)ローマ帝国の皇帝崇拝や、国家太陽神崇拝との差違、c)ローマ帝国知識人の新プラトニズムとの差違、
などなどを言わなければならない状況にあった。
こうした事情から様々なグノーシス的キリスト教説も言い出される訳ですが。そうするとグノーシス教説との議論も必要になってしまう。

で、地域ごとに聖職者に要請される課題には異なる傾向があったため、いろいろな説が唱えられた。それと並行して重視される啓典や伝承にも差違が出た、歴史的にはこう考えた方がよいでしょう。

学者の人達はなかなか断定的な事は言わないのですが。
私の個人的意見としては、例えば、単意論(≒モナルキア主義)と言うのは、皇帝崇拝と張り合うには良くても、ユダヤ教と近くなってしまうと同時に、イエスをメシアとは認めないユダヤ教からの突っ込みには弱い、ように思います。
実際この辺の難点をついて、古代には「イエスは産れたときは人間だったが、後に神に見出されたのだ」と説く「養子説」なんてのが唱えられてます。

また、ネストリウス的単性説と言うのは、ユダヤ教からの突っ込みには強いと思いますが、大衆的な聖母信仰とは折り合いが悪いです。

また、単意論にしろネストリウス説にしろ「十字架上の贖罪」に対する信仰とは、やや折り合いが悪いだろうと思います。
こちらの難点をついただろう古代説としては、「十字架上で処刑されたイエスは実は奇跡によってもたらされた幻影だったのだ」と説く「仮現説」なんてのが唱えられてます。
41>>11の捕捉:02/07/23 03:50
>>40を書いているときにいろいろ調べ直してて気づいたのですが、

>>11の「単性説」に大事な事を書き落していました。

捕捉:
単性説(キリスト単性説)=5世紀に東ローマで生じた。
古代両性説(神性と人性の区別)を踏まえた上でなおかつ、人性と神性を区別していてはイエス・キリストの言動は理解できない、と主張。
451年のカルケドン公会議でローマ教皇レオ1世に反対された。
が、以降の東ローマ皇帝は、概ねこのキリスト単性説を支持。
東方教会と西方教会の亀裂の一因となったと言われる。
エジプトのコプト教会の「単性説」は今でもこの系譜。
42世界@名無史さん:02/07/23 06:20
ギリシア正教ってカソリックから見たら異端だったの?
一応両方とも3位1体説だよね?
43個人的には:02/07/23 07:03
アダム派に関心がある。どっかにアダム派のサイトないかな……。
44世界@名無史さん:02/07/23 09:25
>>43
まず実践しろ。
話はそれからだ。
45世界@名無史さん:02/07/23 11:17
>>42
>ギリシア正教ってカソリックから見たら異端だったの?

いや最初は一緒にやってましたけど、
後で相互破門してるじゃないですか、

あの時に互いに互いを異端と認め合ったも同然なわけですよ。
現代になって歩み寄ったわけですが。

>一応両方とも3位1体説だよね?
バチカンは、三位は別個の位階だがイエス・キリストにおいては同一と唱えた。
ビザンツは、三位は別個の位階だがイエス・キリストにおいては区別できないと唱えた。

私だって、キリスト教信仰もってるわけでなく、歴史的興味でアレコレ調べてるんですから、この辺になるとさすがに理解力も想像力も追いつかなくなってくるんですが(苦笑)。

ビザンツ>三位は別個の位階だがイエス・キリストにおいては区別できない
これは、「人間には区別などできようか」的なニュアンスでとればいいのかなぁ、と。
46世界@名無史さん:02/07/23 12:42
1は駄洒落をしたかったんだとおもってました。申し訳ない。
47世界@名無史さん:02/07/23 13:24
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1027057229/24
イスラムでは「安息日」とは言わず、「集会の日(ヤウム・アル・ジュムア)」
といいます。金曜日にあたります。
この「集会」とは、モスクでの集団礼拝のことで、礼拝が
済んだら、商売するなりなんなり自由にせい、とコーランにありますから、
労働禁止のユダヤ教の安息日とはかなり趣がことなります。
この点だけじゃないけど、コーラン読んでると
「アッラーってずいぶんさばけた神様だなあ」と驚くな。
48世界@名無史さん:02/07/23 14:51
中世には、聖書を読めるのはラテン語を学んだ坊主たちだけ。
だから、カトリックの僧は、自分たちの教会に都合のいいこ
とをいくらでも主張できた。
で、たまに聖書を真面目かつ厳密に解釈した僧が現れたり、
ラテン語以外の地元住民に読める言語に聖書を訳したりする
者がいたりすると、「今の教会の教えは、おかしいじゃない
か。だって聖書にはこう書いてあるぞ……」というような
ことになってくる。
批判された教会側は、そういう連中を異端扱いして弾圧する。
多くの異端は、皮肉にも、より正しい信仰を求めた結果生まれ
たと言えるだろう。
49世界@名無史さん:02/07/23 16:22
キリスト教自身がユダヤ教の異端なんだから、
両者の大論争がありそうなものだが、聞いたことがないですね。
50世界@名無史さん:02/07/23 20:15
>>33 :世界@名無史さん :02/07/22 22:08
>人と神はわけるけど、ネストリウスは人の部分にこだわり、
>後年のネストリウス派は神を重視したってことかな。

いや、ちょっと違うようです。
431年のエフェソス公会議で異端断罪されたネストリウス説は、マリアを「神の母」と呼ばずに「救世主の母」と呼ぶべきだと主張したわけですが。

エフェソス公会議に先立つ、紀元4世紀末には、ラテン語「ウルガータ聖書」が一応は成立してます。
「一応は」と言うのは、まず、正典と第二正典の区別などについての議論が、なおしばらく正統教義確立の議論と並行されたため。
それから、ウルガタ聖書は正典文書の定位ではあったけど、各文書の標準テキストの確定は成されなかったから、です。

こういう状況下で、ネストリウス説と言うのは、マリア崇拝を含んだ、単意論的主張に対する論戦、という意味があった。

ネストリウス説への一番の反対意見はアレクサンドリアのキュリロスという司祭から出された「イエス・キリストは神性と人性が完全に一致した神人だから、マリアは『神の母』なのだ」と言ったそうです。
ところがこのキュリロスと言う人も、言いすぎがあったようで(単意論にすごく近いと思います)、聖職位を罷免されています。
後に、キュリロスをとりなすように、一部訂正されたアレクサンドリアの信仰箇条表明が文書によって皇帝に送られた(431年)のですが、このときの信仰箇条がコプト教会の主流となっていくキリスト単性説(>>41)の画期になるようです。

で、後のネストリウス派のアッシリア教会は、
「イエス・キリストの人性と神性の結合は、イエス生誕時からのものではなく、人間イエスの道徳的成長に伴って実現された」とまで言ったそうです。

これはこれで現代人にも納得し易いように思えるのですが、
要約だけ読むと、まるで「キリスト養子説」のようにも思えます。
おそらくは、細かな理屈をみていけば、きっとキリスト養子説とは違うし、無信仰な現代人に納得し易いような論理でもないだろう、とは思いますです。
51世界@名無史さん:02/07/23 20:28
>>49 :世界@名無史さん :02/07/23 16:22
>キリスト教自身がユダヤ教の異端なんだから、
>両者の大論争がありそうなものだが、聞いたことがないですね。

いろいろあっただろう、と言われています。
聖書や、古代末期のユダヤ教の研究者に言わせると、
まず新約にみられる、「ヘブライ語と使うユダヤ人(ヘブライスト)とギリシヤ語を使うユダヤ人(ヘレニスト)の対立」「石撃ちにされて死んだステパノについての記述」の背景に、ユダヤ教とキリスト教の論争があったと言われます。

また、真筆性が一応認定されているパウロ書簡で、各地の教会に当てられた注意と、少し後の周辺教会状況を重ねあわせると、やはりユダヤ教徒と初期キリスト教徒の対立が推定される、と言われています。
初期のキリスト教は、まず、地中海沿岸都市のユダヤ教会堂を拠点に教線を伸ばしたため、と推定されています。

一方、ユダヤ教の研究者によると、新約文書でのパリサイ派についての記述には変更が見られ、当時のパリサイ派に想定される実態と比較すると、偏見に貫かれている、とも言われます。
この意見は、私は説得力を感じるのですが。仮にそうだとすると、やはり、ユダヤ教とキリスト教の対立・論戦が想定されます。
52世界@名無史さん:02/07/23 20:50
>>48
>中世には、聖書を読めるのはラテン語を学んだ坊主たちだけ。
>だから、カトリックの僧は、自分たちの教会に都合のいいことをいくらでも主張できた。

まぁ、そういう面は否定できないのですが。
東ローマに対抗する意味で、ラテン語を貫くという意図もあったわけです。
その割りには、学芸は後退した時期がありましたが、これはゲルマン大侵入のせいで、バチカンのせいではない。

>で、たまに聖書を真面目かつ厳密に解釈した僧が現れたり、ラテン語以外の地元住民に読める言語に聖書を訳したりする
>者がいたりすると、「今の教会の教えは、おかしいじゃない>か。だって聖書にはこう書いてあるぞ……」というような
>ことになってくる。

これも多かったのですが。
中には、アダム派みたいに「エデンの園に帰れ!ヌーディスト運動!!」とか
ペギン派みたいに「自由心霊!私達は聖霊のお告げを受けました!!チャネリング運動」
みたいな、
ちょっとこれはバチカンや中世領主でなくても困るだろ(w)みたいなのもあったわけで。
まぁ、現代のセンスだと、だからって火刑に処すのはやりすぎ、ってのはあるんですが。
そういう事、歴史に持ち込むと話混乱するから。

>批判された教会側は、そういう連中を異端扱いして弾圧する。

ここは、保留が必要と思います。
バチカンと言うのは、歴史を見てると一旦方針を定めると果敢ですが、
基本的には中道保守路線で、意外と間口の広い宗教団体です。

もちろん、時の教皇の個性や、教皇庁内外の状況に左右されもしますが。

ワルド派(>>25)やアルビ派(>>36)の事例のように、基本的には異端派に対しても
まず、調査、正統教義の説教、勧告などで、妥協点を探ります。
特に中世では、そうでもしないと、多発した「使徒的清貧」運動をとても捌けなかったでしょう。

托鉢修道のフランシスコ会もイエズス会ほどではないですが、異端審問に手を染めています。が、聖フランシスコが托鉢修道の運動をはじめたとき、一部では異端として断罪しよう、と言う動きもあったそうです。
アルビジョワ十字軍を認可した教皇インノケンティウス3世が聖フランシスコと謁見した後、修道会則を定める事などを条件に認定してます。

>多くの異端は、皮肉にも、より正しい信仰を求めた結果生まれたと言えるだろう。
「多くの」という留保がつけられていますので、この点も異存はないです。
確かにそうだっただろう、と思えます。
53世界@名無史さん:02/07/23 21:13

>で、後のネストリウス派のアッシリア教会は、
>「イエス・キリストの人性と神性の結合は、イエス生誕時からのものではな
>人間イエスの道徳的成長に伴って実現された」とまで言ったそうです。

うーむ、これは養子論に近いものですかね。
それとも、勢力的モナルキア論ってやつかな?
54世界@名無史さん:02/07/23 21:13
>>52
フランチェスコ会やドミニコ会のように修道会として認められる派と、
異端として迫害される派の違いはどこにあったのでしょうか。
やっぱりその時代の教皇の考え方、とかですか?
55>>51の一部訂正:02/07/23 21:22
>>51
×>一方、ユダヤ教の研究者によると、新約文書でのパリサイ派についての記述には変更が見られ、当時のパリサイ派に想定される実態と比較すると、偏見に貫かれている、とも言われます。

訂正>一方、ユダヤ教の研究者によると、新約文書でのパリサイ派についての記述には偏向が見られ、当時のパリサイ派に想定される実態と比較すると、偏見に貫かれている、とも言われます。
56=52:02/07/23 23:06
>>54 :世界@名無史さん :02/07/23 21:13
>フランチェスコ会やドミニコ会のように修道会として認められる派と、
>異端として迫害される派の違いはどこにあったのでしょうか。

この問いは、私には確信持ったお答えできないです。
キリスト教修道会と正統教義との歴史はそれだけで、正統と異端に匹敵するテーマなので。

あくまで個人的意見と言う事で所感をお返事しますと−−、
結論から言うと、まず
時の教皇の考え方、と言うのは、私は副要因にすぎないと思います。

乱暴でしょうが、「分派団体の方がバチカンの権威に服するか、バチカンが提示する妥協に応じるかどうか」が重要で。

これを「分派団体の方からみると、バチカンの権威に服したくない」と思った場合は、
では「どこか世俗権力なり、大衆運動なり民族運動なりに拠り所を求められるか?
それとも、
そうした選択自体潔しとせず別の路線を探求するか?」という路線選択が運動の帰趨を大きく左右すると思います。

この意見だけだと、バチカンに対して一面的なので、補正しておくと
バチカンの側にすれば、古代末期からの教義論争の伝統というのを踏まえています。
いくら、ゲルマン大侵入以降、西欧聖職者の教養が衰えた(時期があった)とは言っても、
やはりバチカンは古代以来の蓄積を持っていました。
ですから、自分たちの権威というのに自負心を持っていた、
多分、「過度に自負心を持ちすぎた」とは言えるかとは思います。

この自負心は東ローマとの反目、特にバチカン側に言わせると「皇帝司祭主義」と呼ばれたような側面に対する対抗心の現われ、でもあったと思います。
これも一面的に是非は論じられない。東ローマにも東ローマで都合も言い分もあったし、
バチカンにもバチカンでいろいろな都合もあった。
だからと言ってバチカンが主導した異端迫害などが免罪されるわけではありませんが。
歴史評価は難しいと思います、という話です。

57世界@名無史さん:02/07/23 23:07
アダム派:
アダム派という言葉にも混乱がある。
主に、古代末期、中世、近世にそれぞれ別個のアダム派が知られている。
古代=古代末期のアダム派は、2世紀頃一群の異端的集団に対して用いられた。
この古代アダム派についての記録は、現代では正統的な教会の聖職者によるものが知られている。そのため、実態については古代記録をある程度補整しながら評価する必要がある。
おそらくは、非主流のグノーシス的ユダヤ教分派と関係したグノーシスの幾つかの教団の事を指した、と思われる。
中世の西欧・東欧では、アダムが記したとされる偽典典外書が流布した。
このアダムは、グノーシス的ユダヤ教分派が唱えた、アダムとイブが分割される以前の両性具有の原初アダムの事。
古代末期のアダム派がこれら偽典を作製した、と言うのは、今のところ根拠の示されていないオカルト史観だが、
古代末期のアダム派の啓典を写本が写本で伝播されたという推測には蓋然性が認められる。
イギリスの詩人ミルトンの『失楽園』には、これら中世アダム偽典の影響が見られるという。
中世=中世のアダム派とは、聖霊による霊験を信じた自由心霊運動、友愛団の一派を指す。
神秘主義的な神との合一を賞揚し、汎神論的主張を唱えた。
自由心霊団の多くは、聖霊に与えられた権威を根拠に、無律法主義を唱え、教会儀礼は形式だと唱えたと言う。
正統協会側の偏見を差し引いても、一部に性的放縦などを実践した集団があった事も事実らしい。
アダム派は、自由心霊運動の内でも、特に「エデンの園」の無原罪状態を理想化し、裸体で過ごすなどを実践したと一派と言われる。
近世=近世のアダム派とは、フス派の内から主張が急進化した分派集団。
中世アダム派同様、「エデンの園」の無原罪状態を理想化し、無律法主義を唱え、組織的宗教をすべて非難した。裸体で過ごすなどを実践したとも言われる。
また、チェコ国内での地方分権も主張した。

フス派に対し神聖ローマ皇帝が主導した十字軍渦中の1421年、アダム派は他の主流派フス派によって撃退された。
58質問です:02/07/23 23:12
>>38 :世界@名無史さん :02/07/23 01:42
>ギー(F.マーリー=エイブラハム)によって処刑されたあのせむし男はドルチーノ派だったんだよね。

ドルチーノ派と言うのをちょこちょこ調べてみましたが、よくわかりませんでした。
もしできたら簡単な解説キボンヌ。

59世界@名無史さん:02/07/24 00:35
>>58
ドルチーノ修道士(ノヴァーラの)

異端的な使徒兄弟団(Apostolici)のリーダー。はじめは正統なキリスト教的教育を
受けるが1291年そこを飛び出して、ゲラルド・セガッリによって創設された使徒兄弟
団(偽使徒たち)一派の一員となった。セガッリが1300年に処刑されると、ドルチー
ノがセクトの新リーダーとなり間もなく、約4000名の信奉者たちが彼のもとに集まった。
この使徒兄弟団は絶対の清貧を実践したが、生き残るために略奪も行った。彼らの活動
に終止符をうつため教皇クレメンス5世はノヴァーラの市民を援助することに同意した。
ドルチーノはついに1307年3月27日に逮捕され処刑された。その際生き延びた信奉者た
ちのことをドルチーノ派と呼ぶ。使徒兄弟団および彼の一派が服従したのは神に対して
のみで、彼らは教会に対しては、聖職者たちの腐敗のゆえに、その権威を完全に拒否し
た。シトー会修道士であったカラブリア(フィオーレ)のヨアキムを起源とする「千年
王国説」信じたドルチーノは、腐敗した階層組織をもつ現存の教会が黙示録的な破壊を
蒙ってから、神自身によって任命された至高の僧がやってくると予言した。徳と福音伝道
者の清貧に専念するこの新しい教会は、ドルチーノの信奉者たちによって治められること
になる、と。

→カラブリア(フィオーレ)のヨアキム
→スピリツアル修道士
60世界@名無史さん:02/07/24 00:54
安息日の解説していただいた、最後にでてくる、ファンダメンタリスト
も関係する問題で、これもキリスト教、ユダヤ教、イスラム教にまたがり
ますが、何を食べちゃいけない話をお願いします。
6159:02/07/24 01:11
>>54
>フランチェスコ会やドミニコ会のように修道会として認められる派と、
>異端として迫害される派の違いはどこにあったのでしょうか。
>やっぱりその時代の教皇の考え方、とかですか?

フランシスコ会を例にあげて解説しましょう。フランシスコ会は元来清貧を旨とする
アッシジのフランシスコの教えを実践する一派でありました。しかしその解釈によっ
て内部でも意見がわれることがしばしばありました。「薔薇の名前」に見られる清貧
問題に関してはよく論争になり、比較的穏健な「コンベンツアリ修道士たち」と過激
的な「スピリツアル修道士たち」の間で私有財産の問題に関して論争がおこりました。
この両派は互いに譲ることなく、やがていずれの派閥が権力の座につき、修道会総長
を立てても、対立派は迫害されて異端審問に引き渡されることがしばしばありました。
特に極端に清貧を重んずる後者は劣勢にまわることがしばしばあり、清貧を重視する
ことがあまりないドミニコ会の異端審問官から目をつけられることがよくありました。
しかし、14世紀初頭にはこのスピリツアル修道士たちの中から「小さい兄弟修道士たち」
(フラティチェリ)が完全に分離独立し、この最左派は福音書に示された清貧を迫害す
る教会をば、反キリスト者と見做し、自分たちこそ真の精神的教会だと主張した。もう
ここまでいきつくと流石に異端となり、この一派は「キリストも使徒もいかなる財産を
所有していなかったという」主張により教皇ヨハネス22世により異端であると宣言され
た。これはローマ教会において体制派と目されるフランシスコ会でも極端な主張を施せ
ばそれはやがて異端になるという好例であり、一方、清貧(私有財産)の問題にあまり
関心がなかったドミニコ会ではそのような事例はあり得なかった、むしろ体制派として
異端審問官としてそれらを迫害したのであった。
62=58:02/07/24 01:58
>>59
ドルチーノ修道士(ノヴァーラの)解説ありがとうございました。
勉強になりました。

重ねて恐縮ですが。もしよければ、教えていただきたい事があります。
ちょっとこれまでの話題の流れ(?)からは唐突なのですが、
スレテーマからはそう外れないと思います。

昔からどうしてもわからなくて、今でも調べてるんですが、
キリスト教でセックスを罪悪視してましたよね。

ああいう考え方ってユダヤ教に見当たらないと思っています。
「姦淫するなかれ」と言うのも、個人的にはセックス自体の罪悪視とはどうしても思えないでいます。

上が正しいとして、いつ頃からどんな経緯でセックス罪悪視の考えがキリスト教に入ったと思われるでしょうか?
何か手がかりになるようなお話だけでもお聞きできればありがたい、と思います。

63:02/07/26 18:29
>>62
聖職者にシモネタふっちゃだめだよ。
ざんげして許しをこいなさい。
聖職者の文字変換をまちがえないように。
64世界@名無史さん:02/07/26 18:32
「異端も異端だ」って面白いか?
65:02/07/26 18:42
20世紀がマルクス主義の時代だったとすれば
21世紀は宗教の時代だ。(昔からかもしれないが)
バルカン、パレスチナ、インドーパキスタン
宗教の知識なしに対応できない。
66世界@名無史さん:02/07/26 20:06
異端の典型(自称新カトリック)
http://homepage1.nifty.com/charbeljapan/index.htm
67世界@名無史さん:02/07/26 20:43
68世界@名無史さん:02/07/26 23:44
>>65
それに民族の時代というのも加わるね。
21世紀はナショナリズムと宗教の時代だ。
69カタリ派:02/08/05 00:43
もうおらん
70世界@名無史さん:02/09/07 12:12
age
71世界@名無史さん:02/09/25 01:02
age
72世界@名無史さん:02/09/25 01:58
検索したけど、再洗礼派は出てないですか?
幼児洗礼の無効を説き、成人になってから再び洗礼を受けるべきだ、
とした一派。宗教改革期に登場した新教の一つで、
カソリックからもルター派からもカルヴァン派からも弾圧されて壊滅、
わずかな生き残りが新大陸に移民し、アーミッシュと呼ばれる
中世の生活習慣を今も守って暮らす独特な集団を形成し今も残っている。
このへんはハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック」でも見られる。
73世界@名無史さん:02/09/25 09:17
>>72
メノー派(メノナイト)ともいって、カナダにもいますね。
74世界@名無史さん:02/09/25 09:20
ttp://www.geocities.co.jp/HeartLand/3853/chaco.html
メノニータについて書きます。
御存知だと思いますが、メノニータ(メノー派)はヨーロッパに起源を持つ
プロテスタントの一派です。ヨーロッパおよびロシアの宗教弾圧、政治情勢等の
理由により、北米、中米そして南米に移民してきました。米国のアーミッシュも
メノー派から分かれた一派です。
メノー派にもいろいろなグループがあり、パラグアイもコロニアによって、
様々なグループが存在します。外見上でわかる違いは伝統派と開明派です。
伝統派はよく知られているオーバーオールのズボンをはいた派で、開明派は
普通の格好をしており話をしなければ他のヨーロッパ移民と区別はつきません。
伝統派の中にもグループにより戒律の違いがあり、聖書の教えを忠実に守り、
電気や車など文明の器具をいっさい使わないものから電気やトラクターを用い、
大規模かつ合理的な農業を営むグループもいます。

75世界@名無史さん:02/09/25 12:13
幼女に萌えちゃう漏れは異端ですか?
76世界@名無史さん:02/09/25 12:16
>>75
石をくくりつけて川に飛び込めばわかるんじゃない?
77世界@名無史さん:02/09/25 13:19
>>75
氏ねよ馬鹿
78世界@名無史さん:02/09/25 15:25
死ななくてもいいけど実行行為にはおよばないようにしなさい。
79:02/09/26 23:47
ローマ教会という権威が出来てからの異端の話が多いようです。
もっと初期の段階で、そのころのちょっとした勢力争いが逆に
動いたらキリスト教が今とぜんぜん違うようなものになっていた
可能性はなかったのでしょうか?
宗教会議では圧倒的に今様が主流だったのでしょうか?
80世界@名無史さん:02/09/27 00:08
「反キリスト教の激烈な論客ケルススは、新宗教が分派に分れ、
 個々の信者は好みに応じていずれかの派に加わっていると証言している。
 イレネウスはその分派を20ほど数え上げた。こいいうわけで、
 正しい教えと偽りの教えとを区別する中央の権威が必要となっていた」

モンタネリ「ローマの歴史」
81世界@名無史さん:02/10/12 02:32
age
82世界@名無史さん:02/10/12 08:30
79>>ローマ教会という権威が出来てからの異端の話が多いようです。

異端は正統の対概念だから、正統の内容がはっきりしないと異端の内容もはっきりしないね。
83世界@名無史さん:02/10/17 22:39
>>82
異端は正統=カソリックとの違いによって炙り出されたとか堀米庸三が言ってたような。
カタリ派を例外にしてったような気もするけど
84世界@名無史さん:02/10/27 09:23
age
85世界@名無史さん:02/11/10 00:07
>>83
>異端は正統=カソリックとの違いによって炙り出されたとか堀米庸三が言ってたような。

名著『正統と異端』なんかそうだよね。
カタリ派については、堀米氏逝去以降、いろいろ研究も進んだみたいだから堀米氏説のままともいかないかもしれないけど。
『正統と異端』の読みどころは1つはドナティスト運動についてのくだりだと思うし。
86世界@名無史さん:02/11/10 00:23
異端もいたんだ?
ドイツにいたんだけどどいつの事
オランダにはオランだよね
87世界@名無史さん:02/11/27 01:17
age
88世界@名無史さん:02/12/08 14:32
age
89世界@名無史さん:02/12/18 14:11
バチカンはバカチン
90世界@名無史さん:02/12/25 16:57
タイトルで反射的に笑った自分が許せないのでage
91世界@名無史さん:02/12/25 17:23
カタリ派は失敗し、ルター派は成功した。

やはり当該地域の自立志向に左右されるのかな・・
92世界@名無史さん:02/12/25 17:34
>>91
アルビジョワ派の清浄志向も極端だったそうだから、そういう関係もあるんじゃない?
当該地域の政治勢力と両方って意味だけどさ。

ルター派から出た、召命思想なんてやっぱ政治的に強いよね。
いやアルビジョワ派の欣求浄土的思想も、個々人にとっては強烈だと思うけどさ、やっぱ政治的パワーへの結集力は違うでは?
93世界@名無史さん:02/12/25 17:39
レバノンのマロン派(栗?)なんかは
周り全部イスラム教徒だから
カトリックからは或る意味守られているようなもんだね。
イスラム教徒も、キリスト教には寛容だったし。
94世界@名無史さん:02/12/25 17:47
>>93
マロン派の件は、そうは言えるかもね。
このスレは異端派スレだしね。

ただ、イスラム教のキリスト教に対する寛容ってのは、「大勢としては」って話であってさ。
イスラムの問題は、宗教指導者が世俗指導者も兼ねるときに、指導者個人の恣意性で大きく施策が左右される点なんだよ。

例えば、シリアがファティマ朝に服属した時期なんかは、キリスト教もユダヤ教も凄い迫害を受けてる。
これ十字軍以前の話、ってか十字軍の誘因の一つとも言われる。

キリスト教だって、指導者個人の恣意性に左右される面はあるが、ほら一応、公会議なんてものもあれば、教会法なんてものもそれなりにあった。
その分、ユダヤ人迫害みたいなネガティブな問題は、構造的になっちゃうけど。
95世界@名無史さん:02/12/25 17:53
>>92
一向宗なんかを見ていると、
フランスがまだ戦国時代状態でフランス王権の南仏進出がなければ、
アルビ派はそれなりに長持ちできたかなあと思うこともある。
>>93
コプトもなー
96世界@名無史さん:02/12/25 23:03
そもそもキリスト教がユダヤ教の異端だった罠。
97おそいそら:02/12/27 00:10
神殿なくなっちゃたから、
異端でなきゃユダヤ教は存続しなかっただろ。
ファイリサイ派も十分すぎるほど異端的。
98世界@名無史さん:03/01/09 00:12
age
99山崎渉:03/01/11 12:57
(^^)
100世界@名無史さん:03/01/12 05:51
トホホの気分で100ゲット
101世界@名無史さん:03/02/06 04:04
ほしゅしゅ
102世界@名無史さん
>>75=異端
>>76-78=差別主義者