チンギス・ハンの墓(?)発見

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13世界@名無史さん
【HF通信7日】 「チンギス汗は源義経だった」と初めて言われたのは鎌倉時代初期である。この話が発生した当初から、源義経を慕う人々が作った創作であるとか、鎌倉幕府に対するけん制として流布された創作であるといった説がある。
どちらの説にせよ「創作」であると片づけているのだが、昨今の発見がこの噂を創作として捨て置けない状況を作り始め、「義経=チンギス」研究は変革期を迎えているのである。

かの噂を巡る研究は、現在の時点で次の通りである。
すなわち、源義経の血判はすでに平泉で発見されており、あとはチンギス汗のDNAを採取できれば噂の真偽がはっきりする段階まで来ているのである。
だが、チンギス汗の墓は未だに見つかっていない。伝承としてモンゴルに伝わる「オノン川の上流、ブルカン岳の山中」がどこかわからないないためだ。
多くの研究者達がチンギス汗の墓を探し求めているものの、装飾品を一緒に埋葬する習慣すらなかった遊牧民の墓はそう易々と見つからない。
しかし、千日手に見えた「義経=チンギス」研究に一筋の光明が差し始めた。
チンギス汗を看取ったオゴタイ汗の墓から、チンギス汗の出生に関する文章が発見されたのである。
「我がモンゴル帝国の各地に散らばらせた5つのワーグナー像の内の一つに、我らが太祖の出生の秘密が隠されている」
と記したその文章には別の場所で
「太祖とイエスゲイ・バアトルに血の繋がりがない」と記されている。
現在発見された像は4つ――オゴタイ汗国・チャガタイ汗国・キプチャク汗国・イル汗国のそれぞれの跡地で発見された。
しかしその4つには肝心の文章が入っていない。
つまり最後の1つに文章が入っている可能性が高いのである。
伝説によると、最後の一つはお守りとして元寇の際にモンゴルから持ち出されたという。
つまり、最後の一つは日本にある可能性が高いのである。