★難問★ SPHINXからの挑戦状 ★奇問★

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169_:02/11/24 19:11
SPHINXは屁垂れってことでいいっすか?
170男性差別反対:02/11/24 19:35
@13歳以下の男女による御互い合意の性交では、男子だけが罪に訪われる。
A顔に傷が残るような障害が残っても、男性は女性と同等な慰謝料が貰えない。3号下の補償になる。
B男性が裸を見られた時より女が裸を見られた場合の慰謝料は何と10倍 !
C女性の主観的なものまでセクハラとされる。逆は認められない。
D災害等が起こった時の救助は女性・子供が優先され、間に合わない場合、男性は見殺しにされる。
E同じ度合いの犯罪でも女性が死刑になることは殆どない。
F男性に対してのハゲ発言はセクハラとされないのに女性に対してハゲ発言は認められる。
G女の方が長い生きにもかかわらず5年も早く年金が受給できる。
H男が浮気をしたら責任は100%男、女が浮気をしたら男にも責任があるとされる。
I母子手当てはあるが、父子手当てはない。

このスレには男性差別がもっと挙げられています。
http://love.2ch.net/test/read.cgi/gender/1037181667/
171世界@名無史さん:02/12/07 18:00
age
172SPHINX:02/12/09 02:53
久々に書き込みます。m(__)m
今回はクリスマスを中心に出題します。リセットして1問目からになります。
問題文が長くなってすみませんがよろしく。

   
173SPHINX:02/12/09 03:18
【問題1】〜古代エジプト・マスタバに描かれたナマズの秘密〜
   古代エジプト王朝は神官マネトーの著書『古代エジプト史』によれば、
  紀元前3100年頃に始まったとされている。1897年から98年にかけてのアスワンの
  北に位置するヒエラコンポリスの発掘によって、2人のファラオの存在を示す
  ものが見つかった。1つはスコルピオン(サソリ王)のメイスヘッド〔儀式に
  使うホコの穂先〕と、もう1つがナルメルのパレット〔儀式で使う顔料を作る
  為の石板〕がそれだ。
   このナルメルという名前は「攻撃するナマズ」という意味を表しているのだが、
  このナルメルのナマズは電気を放電する電気ナマズと思われる。
   その他にも古代エジプトではさまざまなナマズが知られていた。
  例えば、第5王朝のカァ・ゲムニのマスタバ(カマボコ型の墓)にもいくつかの
  ナマズの絵がある。その中の1つに「ウハァ」と呼ばれていたナマズも描かれて
  いるのだが、このナマズ、変わった生態を持っていることで知られている。
  墓の絵もその生態がそのまま描かれているのだが、では、このナマズの変わった
  生態とは何?
174おいでやすぅ:02/12/09 07:51
こんな難問に答えて、マザーファッカーになり、目を粒されに逝くわけか…
ゴメン。あんたの気持ちは嬉しいが、漏れ帰るわ
韓国みたいな名前のヤシが、数千年後に来るから、

「さて、私(あんたのことね)は何歳でしょうか?」って問題出してやってくれ
「指紋!指紋!チョー古代!」って答えると思うけどね…

175SPHINX:02/12/09 10:07
【問題2】〜Xmas ミステリーズT・北欧のクリスマス“ユール”のおいしい謎〜
   12月25日はクリスマス、つまりキリストの降誕祭だ。この日にイエス・キリストは
  誕生したと思っている人もいるが、実は聖書には12月25日に生まれたとははっきり
  書かれていないのだ。今のクリスマスは、キリスト教の中に他の宗教的な慣習が
  組み込まれてできた産物なのだ。
   古代ローマでは、キリスト教以前にはペルシャで生まれた太陽を崇拝する
  ミトラ教が盛んに信仰されていた。冬至に重なる12月25日はミトラ教においては、
  ミトラの神が生まれた日とされ、信者にとっては大変重要な日であった。
  一方、キリスト教では1月6日がキリストの生まれた日とされていた。しかし、
  西暦325年のニケーア公会議で神の三位一体説が決まった他に、ミトラ教と
  融合して12月25日をイエスの生まれた日にするということも決まった。
   こうして、これから毎年12月25日になるとイエスの生誕を祝うクリスマスが
  行われるようになっていった。また、ミトラ教の他に農耕の神であったサトゥルヌス
  を祝う祭りの影響を受けてクリスマスも賑やかになっていった。
   記録では354年に12月25日にクリスマスを行ったというものが残っている。
  その一方で、聖地エルサレムの教会では厳格に594年まで1月6日をクリスマスと
  していたし、アルメニア地方では今でも旧暦の1月6日(現在の1月19日)に
  クリスマスを行っている。(下に続く・・・。)
   
176SPHINX:02/12/09 10:14
【問題2のつづき】
   そして、北欧では冬至の日にはキリスト教伝来以前は豊穣祈願と先祖の霊を敬う
  “ユール”という儀式が行われていた。北欧では、クリスマスのことを今でも
  ユールと呼んでいる。つまり、北欧でもキリスト教以前の文化とキリスト教の文化
  とが融合して独自のクリスマス文化が生まれたのだ。
   そのユールではあることをする習慣があった。それは、メソポタミアが起源とも
  いわれ元々は宗教的な意味が込められていたが、キリスト教が伝来してからは
  宗教的な意味がなくなり、キリスト教世界でも100年くらい前までその事自体が
  形だけ行われていた。そして、それを行う為に必要なものは、買って調達する事は
  禁忌されていて、フランス料理にもそのものの形が象られた料理がある。
  では、その習慣とは何?
177SPHINX:02/12/09 10:20
【問題3】〜Xmas ミステリーズU・世界に広まった神が授けたプレゼント!?〜
   クリスマスに欠かせないものの1つにツリーがある。モミの木や松、ヒイラギと
  いった一年中、葉が緑色をして枯れることのない常緑樹で作られる。これは、冬が
  深まり太陽の力が弱くなることを不安に思った古代の人々が、太陽を力づける為に
  火を灯し真冬でも緑があることを神に知らしめる為に家の中に飾る理由で常緑樹が
  選ばれたのだ。始まりはキリスト教よりも古く、古代ローマのサトゥルヌスの祭り
  などにすでにあったようで、永遠の生命のシンボルである常緑樹を飾ったり燃やし
  たりする事で太陽は蘇ることを信じていた人々は、毎年同じことをするように
  なった。キリスト教時代になっても常緑樹で家を飾るという異教の習慣は禁止され
  る事なく後の604年には、法王グレゴリウス1世はカンダベリーの聖アウグストゥス
  に常緑樹での装飾を許可するという書簡も出している。
   そして、それまでほとんど木のみであったが、今のようにきれいに飾りをつけた
  ツリーが登場するのはドイツからだという。1605年にモミの木が初めてドイツで
  使われたといい、また宗教改革でおなじみのマルティン・ルターは木に初めて
  星を表現するのにロウソクを装飾に利用したといわれている。
   イギリスでツリーが登場したのは1820年代、カロライン女王の側近の一人が
  子供のパーティー用にドイツからもたらしたのが始まりだそうで、1851年の
  万国博覧会では水晶宮の真ん中にツリーが立てられた。(下に続く・・・。)
   
178SPHINX:02/12/09 10:27
【問題3のつづき】
   もう1つ代表的な植物にヒイラギがある。ヒイラギに対する信仰も元々は
  サトゥルヌスの祭りからで、サトゥルヌスの持っていたこん棒はヒイラギであった
  ので、ロバをそのヒイラギで殺し犠牲に捧げたという。また、ヒイラギの葉の
  トゲはイエスの十字架の磔に処せられた時のイバラの冠のトゲ、そしてヒイラギの
  赤い実はイエスの血、つまり死に至る愛を連想させるものであったので、常緑樹の
  ヒイラギは再生と希望のシンボルになっていった。
   イギリスではトゲのあるヒイラギをクリスマスの時期、最初に家に持ってくると
  男が、逆にトゲのないヒイラギなら女が来年その家を支配すると信じられていた。
   さて、クリスマスの時期になるとよく見かけるある植物もキリスト教と深い
  かかわりをもつ。それは、メキシコでは少年が「お金がないのでイエスに贈り物が
  できない」と教会で神に祈っていた所、神からこの植物を授かったという伝説が
  あったことに始まる。その植物の名前は、メキシコでこの植物に出会った一人の
  外国人の名前から名付けられ、日本には明治9年に伝わった。
  では、その植物とは何?
179SPHINX:02/12/09 11:13
【問題4】〜Xmas ミステリーズV・ サンタクロースの素顔〜
   クリスマスに登場するサンタクロースの原型は聖ニコラウス(270年か280年〜
  342年12月6日)という聖職者だ。彼は今のトルコのデムニ(旧ミュラ)の司教で
  勝利を意味する Nicos と民衆を意味する Laos にその名前は由来しているという。
  また、別の説では光るような輝きを意味する Nitor に由来しているともいわれて
  いる。彼の死後その遺体はミュラに埋葬されたが、後にトルコ人によって墓は
  破壊された。しかし1087年、イタリアのバーリーから熱心な信者の騎士が墓を
  訪れ聖骨をバーリーに持ち帰った。今もサン・ニコーラ(聖ニコラウス)聖堂には
  聖骨を納めた墓がある。
   聖ニコラウスは子供や乙女、学生やパン職人などさまざまな人たちから守護聖者
  として人気があった。その中で、乙女の聖職者としての伝説からあるクリスマスの
  習慣が生まれたのだが、その習慣とは何?
180SPHINX:02/12/09 11:54
【問題5】〜Xmas ミステリーズW・歌舞伎のルーツ!? ジャポンクリスマス物語〜
   日本のクリスマスの歴史はフランシスコ・ザビエルに始まるとされる。
  薩摩に着いた1549年(天文18年)から2年3ヶ月ザビエルは日本にいたので、
  3回クリスマスをした計算になるが、残念ながらいずれもクリスマスを行った
  という記録は残っていない。しかし、ザビエルと共に日本へやってきたコスモデ・
  トルレス司祭の手によって、1552年12月24日深夜(天文21年12月10日)山口県で
  行われたクリスマスが日本最古の記録になっている。
   そこではザビエルの教えを受けた大内義隆の下、司祭館で行われ、同じく
  ザビエルと共にやってきたジョアン・フェルナンデス修道士とローマ字が読める
  日本人少年が一晩中交代で、ゼウスや創造主について日本語で信者に聞かせた。
  また歌によるミサも行われ、これが日本最古のヨーロッパ声楽となった。
   翌年53年のクリスマスでは、アダムの時代からこの世の終わりまで6つの時期に
  ついての聖書史話がイルマン達によって朗読されている。
   その後1560年(永禄3年)、九州の豊後(大分)で、朗読よりも劇で聖書の話を
  伝えた方が効果的であるという事から、トルレス司祭の下、日本で初めての
  日本人信徒による聖書劇が行われた。これは司祭が20日前に信徒に行うように
  指示し、一切の主導権を日本人信者に委ね行われたのだ。
   この聖書劇という習慣は、中世ヨーロッパ以来のミステリヨ劇(神秘劇)に
  倣うものであった。そして聖書劇を行うに当たり、ある植物が用意された。
  ヨーロッパでは、教会の内部や前庭にモミの木やこの植物を使い、劇の雰囲気を
  盛り上げた。この植物なしでは聖書劇は行う事ができないほどなのだ。
  日本語のその植物のいい方は、小鳥や小動物がその木に集まってくる様子から
  命名されたそうだが、ではその植物とは何?
181SPHINX:02/12/09 12:01
<おまけの問題> 〜七面鳥=ニワトリ+( ? )〜
   クリスマス料理に欠かせないのが七面鳥。英語名では「ターキー(turkey)」
  つまり「トルコ」という意味を表す。これは、中世ヨーロッパにトルコ経由で
  入ってきたホロホロチョウを元々は指していたが、それが七面鳥と混同されて
  しまったのだ。
   北アメリカ原産のこの七面鳥がヨーロッパに初めて登場したのは1519年の
  スペインといわれる。そして100年もしないうちにアメリカへ逆輸入されるほど
  ヨーロッパではポピュラーになっていった。日本へは江戸時代に既に入ってきたが、
  オランダ名からカラクンチョウと呼ばれていた。
   その七面鳥はヨーロッパに伝わった当初は、ニワトリとある生き物が混ざって
  できた鳥と考えられていた。その生き物、ギリシアの歴史家ディオドロス・
  シクロスによると、バビロニアでは既に紀元前8世紀には飼育されていて、
  アッシリアのティグラ・トピレセル4世(前745年〜前727年)も外国からの献上を
  受けていたという。古代ローマ時代、最初にこれを食べた人物はおなじみの
  ホルテンシウスで、その後この生き物の養殖法がローマでは完成された。
   キリスト教では復活の象徴とされ、アウグスティヌスはこの生き物の肉は
  決して腐る事はないと考えていた。また、この生き物が鳴くと雨が降ると
  ヨーロッパ人は信じていた。日本には実物が伝わる前に、工芸品の図案として
  知られていて、江戸時代にはこの生き物を鑑賞しながらお茶を飲む「(?)茶屋」
  までが登場した。では、その生き物とは何?
182世界@名無史さん:02/12/09 12:39
【問題2の答え】
ユール・ログですね。木を燃やす。
フランスだと、ブッシュ・ド・ノエルかな。
183世界@名無史さん:02/12/09 12:45
【問題3の答え】
ポインセチアかと。通称クリスマス・フラワー。
184SPHINX:02/12/09 18:33
>>182,>>183
問題2と問題3はそれぞれ正解です(^^)
185山犬:02/12/10 09:29
SHINXさま、復活おめでとうございます。これからもどうぞよろしく
お願い致します。

【問題5】ヤドリギ 
【おまけ問題】孔雀
最初はガチョウかなと思ったのですが、「工芸品の図案」になったと言うので、
こちらかな。
186トトメスV世:02/12/10 10:09
【問題1の答え】
上下逆さまに泳ぐ。
ナイル川に生息する、サカサナマズ(シノドンティス・ニグリタ)と言うナマズは腹を上にして泳ぐ習性があり、古代の壁画にもこの魚が描かれてますね。
187SPHINX:02/12/10 20:10
>>185
山犬さん、お久しぶりです。
おまけの問題は正解です!

>>186
トトメスV世さん、問題1は正解です。お見事でした。
これらは後日、補説しておきます。
188トトメスV世:02/12/11 12:57
【問題4の答え】
クリスマスプレゼント又はプレゼントを靴下の中に入れる習慣。
聖ニコラウスの説話の中に、破産した没落貴族の娘が身売りされるのをふせぐため、夜中に金の詰まった財布を窓から投げ込んだと言うものがあります。
これが後に娘の部屋の窓辺に干してあった靴下に入れておいたと言う説話に変わり、現在のクリスマスプレゼントの元になったと言われていますね。
189SPHINX:02/12/11 20:17
正解の出た順に補説します。

⊂正解2⊃ 丸太を燃やす……問題は>>175>>176
   古代メソポタミアでは冬至の時に、怪物と闘う神の手助けになれるようにと、
  人々は怪物の像を木で作り燃やしていたそうです。ユールで丸太が神聖視される
  のはこの話の影響とも言われています。
   ユールにおいて北欧の人々は、丸太は太陽がより明るく輝くのを助けるものと
  された為に魔力があると信じていました。そういう事から丸太を必ず燃やす習慣が
  生まれました。このとき燃やしてできた炎の影に頭が映らなかった場合には、
  その年に死ぬと信じられていました。燃やしてできた灰は病気を治し、雷から
  身を守ってくれるともされていました。炉が生活からなくなっていくと同時に
  この習慣も下火になっていきましたが、キリスト教世界でも受け継がれていき、
  100年程前まではヨーロッパ各地でも行なわれていたそうです。
   そして現在ではクリスマスのケーキとして知られているフランス料理
  「ブッシュ・ド・ノエル」にその名残を見ることができます。
190SPHINX:02/12/11 20:32
⊂正解3⊃ ポインセチア……問題は>>177>>178
   ポインセチアという名前は1825年から4年間、初代メキシコ大使として滞在した
  アメリカ人のジョエル・R・ポインセット(1779年〜1851年)に由来しています。
  彼は植物学にも興味があり、メキシコへ来た時にこの植物と少年の伝説に触れ、
  アメリカ(南カロライナ州チャールストン)へ持ち帰ったのでした。こうして、
  19世紀後半にはアメリカをはじめ世界中で見ることができる植物になったのでした。
  ヨーロッパには1934年か38年にエジンバラに送られたのが最初といいます。
   一方、日本では想像上の怪物「猩々(しょうじょう)」に似ているということで
  「猩々木(しょうじょうぎ)」と呼ばれていますが、入ってきたのは明治9年、
  東京の小石川植物園で既に栽培されていました。
   メキシコ原産でトウダイグサ科の植物です。  
191SPHINX:02/12/14 00:23
⊂おまけの問題の正解⊃ クジャク……問題は>>181
  セビリアのイシドールの著書『語源録』(6世紀)で‘パウォー’という鳴き声
 から属名がパウォになったクジャクは、俗にアレクサンダー大王がインドから西洋に
 もたらしたとされています。そしてそのあまりに美しい姿からアレキサンダーは、
 兵士にこの生き物を殺してはならないと禁止令を出したほどです。しかし、歴史家の
 ディオドロス・シクロスによれば、既にバビロニアでは紀元前8世紀ごろには飼育
 されていて、アッシリアのティグラ・トピレセル4世の時代(前745年〜前727年)も
 インドからクジャクを献上されていたと述べています。聖書の『列王記』にある
 ソロモン王の時代についての記述にもクジャクは登場しますが、ここで出てくる
 クジャクは翻訳の際にアフリカ産のダチョウと間違えたようです。
  古代ギリシャでは、珍鳥であった為に地方からわざわざ見物にくる旅人もいま
 したが、古代ローマの時代になると養殖法が確立し、食卓に上ることもありました。
 プリニウスの『博物誌』では、最初にクジャクを食べたのはホルテンシウスであった
 といいます。そして、紀元前1世紀にはマルクス・アウフィデス・ルルコが肥らせる
 飼育法を完成させ、事業化に到達できたのです。しかし、中世以降はクジャクの肉は
 固くてマズイと悪評の連続でした。さらに、16世紀にアメリカから入ってきた
 シチメンチョウにその重要性はとって代わられていったのでした。
  キリスト教世界において、クジャクは2つのイメージが持たれました。姿形が
 美しい割にはその鳴き声が醜いと嫌われる一方、その美しさからフェニックスと
 同一視されてもいました。
  そして、尾の羽根が抜け変るところから復活の象徴とされ、羽根の目玉模様が
 天の星を連想させる所から天空の象徴にもなったのです。(下につづく・・・。)
  
192SPHINX:02/12/14 00:26
⊂おまけの問題の正解のつづき⊃ >>191 
  日本にクジャクが伝わったのは西暦598年(推古6年)、新羅の王が1羽献上したと
 記録にあります。次いで、647年(大化3年)にはオウム1羽と共にクジャクも1羽が、
 847年(承和14年)には、遣唐使の彗雲がクジャク3羽とオウム3羽を持ち帰って
 います。江戸時代になって、寛永年間にはクジャクの見物が流行して、『天和笑委集』
 (貞永年間 1684年〜88年)には、江戸堺町見世物小屋にクジャクの曲舞があったと
 あります。寛政年間には浅草と両国にクジャクを鑑賞しながら茶を飲む「孔雀茶屋」
 なるものが登場し、これは後に「花鳥茶屋」と呼ばれ、動物園或いは遊園地のさきがけ
 になったのです。
193SPHINX:02/12/17 00:18
⊂正解1⊃ 逆さまになって泳ぐ……問題は>>173
  古代エジプト人はこのナマズの事を「ウハァ」と呼んでいました。一般的には
 シノドンティス・スカルと呼ばれています。第5王朝のカァ・ゲムニのマスタバには
 逆さまになって泳ぐナマズが生き生きと描かれています。その他には、エジプトの
 漁でよく獲られるカリアス・アムルートやムラプテリエス・ラアドと呼ばれていた
 ナマズなども描かれています。
  神官マネトーによれば、上下エジプトを統一して王朝を作ったのはメネス王という
 人物だそうです。この「メネス」という文字は、1973年以来のドイツ隊のナルメルの
 出身地であるアビュドスの王墓と思われた場所の発掘の結果発見された泥封(土器を
 フタする為のねん土)に記されています。しかし、それはナルメルからホル・アハ、
 ジェルの時代まで見つかっているので、「メネス」とは個人名ではなく、統一に関する
 事業に貢献したファラオたちの総称と考えられるようになりました。
  そしてスコルピオンがナルメルより古いファラオであると思われるその根拠は、
 メイスヘッドに描かれているスコルピオンと思われる人物の頭には、上エジプトの
 象徴である白冠しか被っていないのです。下エジプトの象徴である赤冠は被って
 いません。従って、スコルピオンは統一前のファラオであると考えられます。
 一方、ナルメルの方は白冠と赤冠の両方を被った姿で描かれているので、統一後の
 ファラオと分かります。
194SPHINX:02/12/21 23:22
⊂正解4⊃ (プレゼントをもらう為に)靴下を吊るす……問題は>>179
  サンタクロースからプレゼントをもらう為に靴下を吊るす習慣は、聖ニコラウスの
 伝説に由来するといわれています。その伝説では、3人の乙女を助けたことに始まる
 乙女の守護聖者としての話です。その話は……
  ≪3人の娘のいる貧しい貴族が、ニコラウスの隣人にいました。
   生活の苦しさのあまり、その貴族は娘たちを結婚させる事ができず、
   逆に夜に娘たちは男の人たちを相手に商売をさせて、その働きで
   暮らそうと貴族は考えていました。
   その事を知ったニコラウスは、貴族の罪のあまりの深さに驚いて、
   金貨を包んで夜、密かにその貴族の家の煙突から投げ込みました。
   その金貨は、暖炉に干してあった靴下に入っていきました。
   ニコラウスは同じ事を繰り返して二女、三女はそのおかげで
   無事に結婚できたそうです。≫
  また、ニコラウスは水夫や肉屋の人たちなどに対しても‘奇跡’を起こして
 崇められていき、これらの人たちにも尊ばれています。
  では、何故、聖ニコラウスがサンタクロースと結び付けられたのかといえば、
 それは「クリスト・キント」という考えが組み込まれたためと思われます。
 クリスト・キントとはドイツ語で、元々は「幼児のキリスト」を意味していました。
 そして、これがやがて御子に代わり贈り物をする天使になっていきました。
 このクリスト・キントのために窓を開けておくという習慣まであったほどです。
  この思想と聖ニコラウスが重なり、聖ニコラウスの命日である12月6日に
 子供たちにプレゼントをするという習慣になっていきました。
 そして、17世紀になってオランダからアメリカへ移住した人たちによって
 「シンタクラウス」と訛った呼び名で広まっていき、やがてサンタクロースと
 呼ばれるようになりました。12月25日にプレゼントを贈るという習慣が形作られた
 のはこの移住後のことです。(下につづく・・・・・・。)
  
195SPHINX:02/12/21 23:25
⊂正解4のつづき⊃ >>194
  因みにサンタクロースの家はフィンランドにあるそうです。コルバントントリに
 いつもはいるようですが、クリスマスが近づくとラップランドの首都ロバニミエの
 北、北緯66度30分の北極圏の標識がある大きな家へやってくるのだそうです。
 住所も分かっているので年間50万通もの手紙が宛てられてくるといいます。
  その住所は……Mr.Santa Claus
            Antie Cirecle,SF−96930 Rovaniemi,Finland
 だそうです。
196SPHINX:02/12/22 00:19
⊂正解5⊃ リンゴ……問題は>>180
  コーカサス・小アジア地方原産で、日本語では小鳥などの小動物(禽)が、
 その実を求めて木々に集まってくるので〔衆禽を林に来たらしめる、より〕「林檎」
 と書くようになったリンゴは、いつの間にか創世記3章、いわゆる‘エデンの園’に
 おけるアダムとイヴの話での「命の木」或いは「善悪を知る木」となっていますが、
 はっきりと「リンゴ」とは実は記述されていないのです。ひどくこの誤解を与えて
 しまったのがミルトン著の『失楽園』です。
 この中では≪その美しきリンゴを味はんとおもふ(藤井武 全集、8巻417頁:
 昭和46年)≫等と記載されていています。これに対応する個所は≪女が見るとその
 木は、いかにもおいしそうで、目を引きつけ賢くなるように唆していた。女は実を
 取って食べ、一緒にいた男にも渡したので彼も食べた≫とあり、どこにも‘リンゴ’
 とは書かれていません。
  更に、リンゴを今の私たちが食べているリンゴと考えるのにも疑問があります。
 例えばプリニウスは≪モモ、ザクロにリンゴという名前を与えている≫という記述を
 しています。また、原産地方であるパレスチナのリンゴは実際、日本のリンゴよりも
 小さくて甘味も少ないのです。(下につづく・・・・・・。)
  
197SPHINX:02/12/22 00:20
⊂正解5のつづき⊃ >>196
  しかし、中世ヨーロッパでは、教会の前庭にモミの木を植えてそこにリンゴの実を
 つけて天国や楽園を表現しました。これがクリスマスツリーの原型と思われます。
 日本で最初の聖書劇にも教会の中央にリンゴの木が置かれ、金色のリンゴが数個
 取り付けられました。そして、そこで劇が行なわれたのです。
 この聖書劇はやがて九州から近畿などにも広がり、フロイスの記録から古浄瑠璃の
 ような日本の音楽や舞踊も取り入れられたと思われます。研究家の中には、歌舞伎
 などの芸術文化にも少なからず影響を与えたと考える人もいるくらいです。
  聖書劇で大きなものは、日本で最初にキリシタン大名になった大村純忠の呼び
 かけで1568年(永禄11年)に長崎で行なわれたもので、信者でない人も見学し、
 2000人を動員したといいます。
  当時は、クリスマスの事をポルトガルの影響で「ナタル natal」と呼んで
 いましたが、1868年の遠近新聞でクリスマスという表記がなされるようになりました。
 また、クリスマスを「Xmas」や「X'mas」と表す場合がありますが、この「X」は
 もちろんイエス・キリストを表すギリシャ語に由来しています。12世紀にすでに
 記録に登場していますが、専ら「Xmas」という書き方が多いようです。
198トトメスV世:02/12/22 00:29
SPHINXさん、解説お疲れ様でした。
次の問題を楽しみにしてます。
199SPHINX:02/12/22 23:22
今回はおまけの問題も入れて5問出題します。

【問題6】〜度量衡王国バビロニア・184mの謎〜
  古代バビロニアでは度量衡が発達していた。その中でおよそ184mを1単位とする
 長さの単位が作られた。これは、自然界の何かを利用して作られた単位なのだが
 では、この単位を作った方法とは何!?

【問題7】〜ヒンドゥー教・クリシュナ神の笛は病気を治す?〜
  ヒンドゥー教の結婚式において重要な「マンダパ」と呼ばれる小屋や、葬式の時に
 遺体を載せて運ぶ「アルティー」と呼ばれる担架を作るのにある植物が使われる。
 その植物は、ヒンドゥー教においては他に、クリシュナ神が牛飼いの女性を魅了する
 のに使った笛の材料としても知られている。
 また、インドの部族の中には姓にこの植物の名前を用いているケースもある。
  そして、医学にも利用されていて、この植物の花の搾り汁は、難聴の為の耳の点薬
 になったり、種の実は毒ヘビに噛まれた時の解毒剤として、葉は煎じて馬などの
 家畜の風邪に効果があるという。
  では、現地ではカレーの具としても使われるその植物とは何!?

【問題8】〜仏教修行かスポーツか? ポリネシア エキサイトな儀式〜
  ポリネシア世界では、重要な儀式を行なう時にあるスポーツが行なわれていた。
 例えば、ハウヒネでは葬式の時に、トンガではヤムイモの収穫祭の時に、そして
 サモアでは子供が生まれて8日目に行なわれる髪切りの儀式の時、といった具合だ。
 また、ハワイでも行なわれていて、キャプテン・クックもそれを見た事を記録に
 残している。
  他方、アフリカ世界ではナイジェリアとニジェールにまたがる地域に暮らす
 ハウサ族やスーダンのヌバ族の行なっている。
 そして、東南アジアでは18世紀頃から盛んになって、仏教修行の1科目として
 行なわれていた。では、そのスポーツとは何!?
200SPHINX:02/12/22 23:23
【問題9】〜インカ帝国 ‘インカ'と初めて名乗った皇帝伝〜
  インカ帝国第6代皇帝インカ・ロカは、それまでの皇帝よりも強く自分自身に
 対する威厳さを人々に求めた。
 例えば、タワンチンスーユ国(インカ帝国)の支配者としては初めて「インカ=
 偉大な人、支配者」という肩書きを付けた。「インカ・ロカ」以前にインカと
 名の付く支配者(あるいは皇帝)はいない。また、神に対する尊厳さも初めて人々に
 要求した。それは、皇帝の前に臣下が出るときは腰をかがめるか、ひざまずき、
 そして裸足でなければならず、さらに静かに謙って(へりくだって)しゃべらなければ
 ならないと決めたことでもうかがえる。
  しかし、それだけでは飽き足らず、インカ・ロカはある制度を設けた。
 この制度を作ったことによって未来永劫、「インカ」、すなわち支配者としての
 威厳さは保たれると考えたのだ。インカ・ロカが作ったこの制度は、彼以降の
 歴代の皇帝も受け継ぎ、彼らの威厳さもまた消える事はなかった。
  この制度は一般庶民が対象ではなく、王族関係者に対するものだったのだが、
 では、インカ・ロカが作ったこの制度とは何!?

【おまけのQ2】〜推理! ノアの箱舟のスケールは?〜
  メソポタミアが起源といわれ、世界各地に存在する洪水物語の代表格が、創世記の
 もので、ノアの箱舟の物語として知られています。
 では、このノアの箱舟は現在の船の容積の単位である t (トン)で表すと、
 何トンの船でしょうか?
  ヒントというか条件として、1キュービットを500mmとして考えてください。 
201世界@名無史さん:02/12/26 23:27
答えが分からないage
202山犬 ◆R200hJA.tQ :02/12/27 00:06
【問題6】太陽が一定角度動く間に人間が歩いた距離。
【問題8】カヌー?
203SPHINX:02/12/27 20:47
>>202
【問題6】はほぼ正解です。
  太陽が見た目の直径分だけ移動するまでの間(2分間)に、人間が歩く距離で
 決まりました。
 詳しくは、後日また補説します。

 【問題8】は残念ですが違います。(>_<)
 ヒントを出しておきますね。
  ≪ヒント≫
    ★問題7は、サンスクリット語では「家系」や「氏族」という意味も
     表します。
    ★問題8は、古代メソポタミアやエジプトでも行われていたスポーツです。
     クレタ島の遺跡からもそれをしている絵が発見されています。
    ★問題9は、この制度はインカにしかない「パナカ」という制度を指して
     います。インカの生死観に絡んでいます。
204山崎渉:03/01/11 13:17
(^^)
205山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/15 19:55
【問題7】シナモン
【問題8】レスリング
わからないけど、とりあえず答えてみる。

それにしても、(-_-(-_-;)さんとか、ペイトンさんとか、じんさんとか、
このスレの常連だった方々、戻ってこないかなぁ…。
206世界の名無史さん:03/01/18 18:37
問題8は綱引きかな?
207世界@名無史さん:03/01/26 18:32
保守age
208SPHINX:03/02/02 18:06
遅れてすみません、正解です。

⊂正解6⊃ 太陽が見た目の直径分だけ移動する間に歩いた距離……問題は>>199
  古代に作られた単位は、腕から手までの長さなどの身体を元にしてできたものが
 多いですが、問題ででてきたこの単位は、一定の時間に歩いてできた単位です。
 作り方は、地平線から太陽が昇るときに光が出た瞬間から人が歩き始め、その太陽が
 地平線を離れる瞬間まで同じ速さで歩いてできた単位で、これを「スタディオン
 (複数形はスタディア)」といいました。
  このスタディオンとは水縄を張る距離、あるいは区間というような意味だそうで
 バビロニア地方が発祥の地とされています。何もない砂漠地帯で唯一あったのが
 地平線と太陽だけというこの地方だからこそ生まれた単位ともいえますね。
 因みに、この1スタディオンはバビロニアでは184mで、他の地域では距離が違い
 ます。例えばエジプトでは179m、ギリシャでは185mといった具合です。

  そして、スタディオンの作り方に話を戻せば、太陽が視直径分(0.5度)移動する
 のは、時間に直せば2分間です。この2分間に人が歩いてできたスタディオンは、
 主に旅行する際に用いられた単位でしたから、時間と距離の関係がよりはっきりと
 していました。
 古代バビロニアの時代は、地図や標識がまだしっかりとしていませんでしたから
 遠隔の地までの距離は旅行の日数や時間で示されました。古代バビロニアでは、
 現在の2時間を1時間と考えていました。そのバビロニアの1時間(現在の2時間)で
 行ける標準的な距離は60スタディア、つまり約11kmでした。これを元に遠隔地までの
 旅行日数が、距離を推定させる手助けになるのです。因みに、1日が24時間であっ
 ても、私たちが普段使っている時計の数字が12までしかないのは、このバビロニアの
 習慣に従っているからです。 <後につづく……>
         
                            
  
209SPHINX:03/02/02 18:08
⊂正解6⊃ のつづき……>>208
 歴史家のヘロドトスが、バビロンを訪れた時にはまだバベルの塔が残っていた
 ようで、次のように記録しています。
  【この神殿は、各辺が2スタディアである。聖域の中央に、縦横とも1スタディ
   オンある頑丈な塔が建てられている。この塔の上に第2の塔が立ち、さらに
   その上に、というふうにして八層におよんでいる。〜松平千秋 訳】
  残念ながら、塔の高さについての記録はないようですが、基底の一辺が約180m
 あり、8層になっていたとなればどんなに素晴らしいものだったでしょうね。
 また、この単位を科学に利用した人もいます。それはエラトステネスで、紀元前
 2世紀、地球の大きさを測った人として知られています。
 夏至の日において、正午の太陽の位置がエジプトの南では天頂にあるのに対して、
 北のアレクサンドリアでは少し南に寄っていた事を知っていた彼は、エジプトの南の
 シエネ(現在のアスワン地方)と北のアレクサンドリア間の距離を旅行者の所要日数
 から5000スタディアと見積もり、太陽の高度はどんぶりのような形をした器具で
 計測し、2点間の孤度を7度12分としました。
  そして、その結果、地球の周を25万スタディアとはじき出しました。これはおよそ
 4万5000Kmになり、現在の計測では約4万Kmですから、その誤差は約13%という事に
 なります。

  因みに、旧日本陸軍の1分間の標準的な歩行距離は75mでしたから、日本のスタ
 ディオンは150mという事になります。     
210SPHINX:03/02/02 23:19
⊂正解7⊃ 竹……問題は>>199
  私たち日本人にとってもなじみ深く、また神聖である竹は、ヒンドゥー世界に
 おいても尊ばれています。
  例えば、結婚式が行なわれるマンダパと呼ばれる舞台を造る材料も、竹やその葉が
 欠かせません。また、葬式の時に遺体を乗せるアルティーという担架も、青竹で
 作られています。結婚式と葬式に使われる竹の意味は、出会いや旅立ち、幸福と
 不幸、出現と消滅など相反する両極を、振り子のように揺れ動く人生の現実に根ざした
 ヒンドゥー哲学の本質を表しているとされています。
  因みに、葬式の時に古くなった乾燥した竹を使う事は、神聖さを奪う事と考えられて
 忌み嫌われるそうです。
  また、クリシュナ神が持っていた笛も青い竹でできていて、その笛の音によって
 たくさんの牛飼いの女性を魅了したそうですし、ヴァラモン階級の少年達には竹の
 棒が与えられます。

  さらにインドのマッディーヤ・プラデーシュ州のある部族には「ヴァシュクラ:
 vas'kla」または「ヴァンシュ:vams'」という姓を持つ人たちがいます。
 これらは竹を表す「ヴァンシャ:vams'a」から来ていて、竹が彼らの生活や歴史に
 深く関わっている事も証明しています。因みに、サンスクリット語では、この
 ヴァンシャは家系や氏族という意味もあります。それは竹の縦横無尽に広がる根から
 来ているのでしょう。

  イネ科の植物である竹は薬としても使われます。
 葉の汁には芳香があり、吐血に処方されます。また、葉の煎じ薬は、ギョウチュウの
 駆除に役立つそうです。さらに、竹の葉には人以外にも馬の風邪にも効果があると
 最近分かっています。
  また竹は、25〜50年に一度だけ開花する植物で、その花の搾り汁は難聴の耳腔内の
 点薬としても利用されます。
このように多面に渡る実用性は、その神聖さと絡み合って彼らの心の中に深く浸透して
永遠の影響力を持っているのです。
211SPHINX:03/02/09 00:48
【正解8】ボクシング……問題は>>199
  太平洋諸島の中でとりわけポリネシアでは、ボクシングは結構盛んに行なわれて
 いました。例えば、ソサエティのハウヒネでは葬式の時に行なわれ、トンガでは
 ヤムイモの収穫祭であるトウトウ祭や結婚式で、またサモアでは、子供が生まれて
 8日目に行なわれる髪切りの儀式の際になされました。 ハワイでも、新年の祭りで
 あるマカヒキにボクシングが行なわれていました。試合に出るのは男に限らず、
 女も出場しました。
  ルールは各地バラバラで、フツナでは最初に地面に倒れた人が負けになり、
 トンガでは脚を打ってもよかったという記録もあります。タヒチでは、専ら頭を
 中心に打って闘っていました。腕や手で相手のパンチを振り払うパーリングという
 技術はなく、故に、相手の攻撃をかわしたり応戦しなかった場合は負けになった
 のでした。
  
                              〜後につづく〜
212SPHINX:03/02/09 00:54
【正解8】ボクシング(のつづき)……>>211
  ハワイでのボクシングの様子は、キャプテン・クックが第3次の航海で記録に
 残しています(1779年1月)。そこには
  
  『われわれのテントの近くの平かな場所に、大勢の人たちが集まっているのが
   見えた。人々の真ん中は細長く開けられていて、遠い方の端には審判たちが
   座っていた。審判たちは、色とりどりの布切れと2羽のノガモ(野鴨)の皮と
   羽とをぶら下げた3本の旗の下に座っていた。
    試合の準備が整うと、審判が合図を出した。すぐさま2人の闘技者が現れた。
   2人はゆっくりと、足を後方に高く持ち上げ、手で足裏に触れながら歩み
   寄ってくる。歩み寄りながら、いくどかまるで小馬鹿にするかのように、
   相手の身体を頭の方から足先へと目で追う。そして、観客には、そのつど、
   いたずらっぽい視線を投げかけ、筋肉をこわばらせ、気取った仕草して見せる。
    打ち合える距離までくると、2人は両の腕を相手の顔の前にまっすぐに
   突き出す。顔は打撃が向かう唯一の対象なのである。2人は腕をフルスイング
   させて打ち合ったが、それは我々にはぎこちなく映った。何しろ身体を傾け
   たり、後ろに下がったりして相手の攻撃をよける事はあっても、パーリングの
   技術を知らないのである。
    勝負はすぐさま決まった。というのは、一方がパンチを受けて地に倒れるか、
   あるいは偶然に倒れるかを問わず、とにかく先にダウンした方が負けと判定
   されるからである。』

                            〜さらに後につづく〜

  
                            


  
 
  
                              
213SPHINX:03/02/09 00:58
【正解8】ボクシング(のつづき)……>>212
  ポリネシア以外でも当然、ボクシングは行なわれています。
 例えば、カナダのイヌイットの間でも行なわれています。これは、厳密には
 ボクシングとは言えないかもしれませんが、握り締めた拳を相手の裸の肩に叩き
 つける競技で、この攻撃は1回交代で、先に試合中止を宣誓した時点で勝敗が決まる
 というものです。
  東南アジアではタイが有名ですね。(それぞれ両方の)拳・肘・膝・足、つまり
 身体の8点を打・突・蹴に用いるこの競技は、一説には1560年にビルマ軍に捉えら
 れたタイのナレスエン王がこの競技によってビルマの勇者に勝って、解放された
 ことをきっかけに国技になったといいます。しかし、はっきりと記録に残っている
 のは第31代のプラチャオ・スーア(在位1703年〜09年)の時代です。そして、この
 競技を伝承したのは仏僧でした。
  それは、彼らの修行科目の一つにこのキックボクシングがあったからです。
 当然、近代ボクシングのルールはそこには存在せず、ラウンド制や体重制はなく
 行なわれていました。ただ、禁止されていた事もあって、それは1:相手をつかむ事、
 2:噛みつく事、3:指をつかう事、4:倒れた相手を蹴る事などでした。

                              〜下につづく〜

  

                            
214SPHINX:03/02/09 01:00
【正解8】ボクシング(のつづき)……>>213
  このキックボクシングに影響を与えたのは、中国の拳法といわれています。
 中国では後漢の時代に班固が著した『漢書』の「芸文志(第30巻目)」の中に
 「手摶六篇」という兵法に関する書がありますが、ここで拳法が戦闘武術と認識
 されていました。その後に、小林拳や太極拳などを経て技法は洗練されていきますが、
 他方、身体を気が通貫する小宇宙とみる宇宙論を背景とした独特の健康法、あるいは
 仏教や道教の修行法としても実践されました。
  ちなみに、この中国の拳法は日本にも影響を与えています。
 沖縄に中国から拳法の影響がおよぶと唐手として定着し、のちの空手につながって
 いきます。日本においてもしばらくは修行法、武術、健康法として行なわれていま
 した。
  つまり、東南アジアにおいてはボクシング(キックボクシング)は、スポーツとして
 ではなく、精神修養として行なわれていた特異な地域だったのです。

                            〜もう少しつづく〜

  
215SPHINX:03/02/09 01:01
【正解8】ボクシング(のつづき、これで最後です)……>>214
  四大文明レベルにまで遡ると、メソポタミアでは2人のボクサーがふんどしを
 まとって闘っている絵が描かれた石板がディヤレ川流域から発見されています。
 おそらく紀元前4000年頃と思われます。エジプトではシエク・アブデルクルナに
 建てられた高級官吏のクエルエフの墓(紀元前1370年頃)のレリーフに、12人の
 ボクサーが登場しています。
  さらにクレタ島からは、ハギア・トリアダ宮殿から出土した杯(紀元前1500年頃)
 に、ヘルメットをして右手にグローブをしたボクサーが描かれています。
 ギリシャ本土では、バルカン半島でも『イリアス』『オデュッセイア』などホメロス
 作品にも登場していて、古代オリンピアでも盛んに行なわれていました。
 また、このオリンピアにならって登場したピュティア、ネメア、イストミアの祭典
 競技会をはじめ、各ポリスが開催した大小さまざまな競技会で、ボクシングは花形
 種目になっていきました。
  当時は、手に牛皮を巻いてグローブにしていました。そして、右半身に構えて
 右手は後方に引いてノックアウトパンチを、左手は相手の攻撃を防ぐ為に前方に
 出るスタイルをとっていました。もちろん、右手を後方に引く事で、無防備になる
 相手の右顔面を狙って、前に出した防御用の左手でストレートを打ってダウンさせる
 事もありました。
 
216SPHINX:03/02/23 01:09
【正解9】 ミイラになった皇帝の世話をする……問題は>>200

 インカ帝国第5代皇帝カパク・ユパンキ(在位1226年〜1306年)は、今までの皇帝とは
違って2人の正妻がいたようです。1人目のチンボ・ママは、精神的に異常を来たした
為に、カパク・ユパンキによって宮殿から追い出されてしまいました。2人目のクリ・
イルパイは、戦略的に重要であったアヤマルカという町の首長の娘でした。彼女と皇帝
との間には何人もの子供が生まれましたが、その中の1人のインカ・ロカが皇太子として
選ばれました。
 どういう経緯で皇太子になったのかは不明で、宮廷革命によってとも言われています。
この時に、カパク・ユパンキの大勢の側女の1人が、やがて自分自身の愛人かつ夫人に
なったと伝えられます。彼女は、宮廷の陰謀の名人だったようです。研究者の多くは、
カパク・ユパンキは、自然死ではなく毒殺されたと考え、その犯人は皇室のメンバーの
一人であるクチ・チンボなる女性で、ロカ王子がインカの皇帝になるのに手を貸したと
信じています。しかし、いずれにせよ推測の域を出ません。確かなことは、インカ・
ロカが皇帝のイスに座った事なのです。

 インカ・ロカ(在位1306年〜1356年)は皇帝になると、今までの皇帝たち以上に、
自分に対する畏敬の念を臣下や国に住むあらゆる人たちに強く求めました。
 例えば、インカ帝国で初めて自分の名前に「インカ」という言葉を用いています。
近隣のネイティブ・アメリカンの種族や小国の長は、「シンチ」或いは「クラカ」
と呼ばれていましたが、彼は「偉大なる人」、「支配者」などという意味を持つ
「インカ」という語を用いて称したのです。つまり、ここからインカの歴史は、
首長の時代から皇帝の時代へと移っていったのです。
 また、インカ帝国の皇帝は太陽の神、インティの直接の子孫であるという考えから
インカ・ロカは、この考えを強く推し進めました。そのために、その昔からペルー
地方にあった神を創ったという創造神、ビラコチャ信仰を徹頭徹尾押さえつけました。

                                 〜後につづく〜

 
217SPHINX:03/02/23 01:11
【正解9】のつづき……>>216

 さらに、「パナカ」というインカにしかない制度を作りました。
これは、インカの皇帝が死ぬとその子孫たちは、インカ皇帝の皇族と見なされました。
死んだインカ皇帝のこの血縁関係者の系列は「パナカ」と呼ばれ、パナカはその始祖たる
インカ皇帝のミイラ(インカではミイラの事をマユキという)の面倒をいつまでもしな
ければならないというものでした。
 例えば、マユキが生き生きと見えるようにと、黄金でできた目をマユキの目に入れたり
毎日食事を差し出したり、マユキのための大農場もあり、そこではリャマが飼われて、
それを世話する牧童までいて、マユキのための畑もあり、それを管理する農民もいる、
といった具合だったのです。
 また、生前に使っていた王宮に安置されていたので、次の皇帝は新しく、クスコに
王宮を造らなければなりませんでした。
 そして、マユキが旅に出る事もありました。黄金の御輿(みこし)に乗って、何百人
もの共をつれてクスコを離れていったのです。

 スペイン人がペルーにやって来た時に住民はマユキを隠しました。それは、神聖な
マユキを外国の人たちによって冒涜されるのを恐れたからです。
 インカ族の過去を研究したファン・ポロ・デ・オルデガルドは、偶然にも3人の皇帝
と彼ら2人の妻のミイラを発見しました。その発見されたミイラは、スペイン人が副王に
就いていたペルーのリマの目抜き通りを練り歩きました。既にインカ帝国は滅亡してい
ましたが、ミイラの行列が近づくと現地の人たちは、ひざまずいて泣きじゃくり、
その皇帝の名を叫びました。その光景を見たリマに住んでいたヨーロッパ人も、帽子を
脱いで、今は無き帝国の支配者たちに畏敬と尊敬の念を表したそうです。
218SPHINX
【おまけのQ2の正解】 20000トン(t)……問題は>>200

 問題に出てきた単位「キュービット」は、年代や場所によってその長さが変わり
ますが、1キュービットを500mmと仮定した場合、ノアの箱舟の大きさ(容積)は、
約20000トンになります。
 箱舟は長さが150m、幅25m、高さが15mですから、船としてのバランスは取れて
います。現在の船の容積単位である「トン」の1トンは100立方フィート、計量法では
これを353分の1000立方メートルと定めているので、ここから計算しておおよそ20000
トンとはじき出されます。