世界史は、さまざまな国の栄枯盛衰の歴史。
都市は、その繁栄と没落の歴史を映し出す鏡。
国とともに、都市は栄え、そして没落する
その繁栄にはわけがあり、その没落にもまたわけがある。
なぜ、ローマは、長安は、ヴェネチアは、サマルカンドは、バグダードは・・・その他
数え切れない都市たちは栄え、そして没落したのか・・・
都市という視点から、世界史を語ろう。
私にこうした構想を着想させたのは、栄光のビザンツ帝国とオスマン・トルコの首都、イ
スタンブール(旧コンスタンチノープル)を訪れた体験だった。
無知ゆえに、広大な平野に設計され計画都市を想像していた私は、その地を訪れて面食ら
った。そこは、傾斜の急な丘が連なり、歩きにくく、広大さを感じさせない街だったのだ。
いにしえの戦車競技場も、丘の上にかろうじて存在する小広い平地に廃墟を残していた。
なぜ・・・こんな地に都が・・・?
都市が栄える理由は何なのか?そして滅びる理由は何なのか?
この問いが都市の性格を浮かび上がらせ、その都市を選んだ民族の性格を物語る。
兄サマ、チェキよ!チェキチェキ!!
都市機能が衰退すると、市民は都市の西側に流れる。
逆に、権力者の思い切った移転(遷都など)は東の遠くへ。
という、こんな説は成り立ちますでしょうか?
なんかそんな気がしる。
コンスタンチノープルの都市としての優勢は、
(1)後背地に黒海沿岸という穀倉地帯を控える
(2)東西交易、地中海内交易のハブとなる位置に存在している
(3)金角湾内が名港
@ボスフォラス海峡と向きが直交しており、潮流が遅くなる
A大地が山がちであるため海が深く、大きな船でも問題なく入船出来る
(3)Aは、陸上交通の難点が、そのまま海上交通の利点になっている。
この地に都がおかれたということは、
海上交易の利便性>>陸上交通の利便性
と考えられたからだ。
コンスタンチノープルは、とことん海洋型の都市なのだと分かる。
海に依存した都市なのだから、制海権を失えば攻め取られてしまう。
(第四回十字軍、メフメト2世のコンスタンチノープル包囲)
また、海上交易に依存した都市なのだから、主要な交易ルートが移って
しまえば、アドバンテージが失われる・・・
なーんつって!
こんな程度のことは、旅行ガイドブックにも載ってる話よね(w
でも、こういう角度から、世界中の繁栄した都市をばっさばっさと分析
したい!
いまよく分からないのが、ローマ。
訪れてみたら、こっちもせまっこい感じの街なのよね。
まだ、平城京跡の方が都の趣がある。
ローマって、都市として何が優れていたんだろう
都市が優れていたわけではない・・・人間が優れていたのだ・・・
ついでに、モスクワの興隆は未だにロシア史の謎の一つだそうで。
10 :
世界@名無史さん:02/06/20 08:50
中国の戦国斉の首都臨シ、当時で人口50万以上だっけ?
戦国以後はあまり聞かないな
どういう経緯で発展し、その後衰退したか詳しい人いない?
11 :
世界@名無史さん:02/06/20 18:17
>4
平安京は東部に中心が移り、西部は荒廃しました。
12 :
世界@名無史さん:02/06/20 18:51
江戸は一時期は世界最大の人口を擁した大都市だが
没落はまだか?いつだ?
江戸は永遠に続くなり。
14 :
世界@名無史さん:02/06/20 19:31
バビロンは何時衰退したのでしょうか?
15 :
世界@名無史さん:02/06/20 22:50
>>8 >都市が優れていたわけではない・・・人間が優れていたのだ・・・
ローマの発展は、都市ローマの地政学的な有利さよりも、ローマ人の社会システムに
依存していたということかな?
ローマ人たちがいかにして、ローマの欠点を補っていったおんか、という切り口も生
まれるね。
>>14 >都市が優れていたわけではない・・・人間が優れていたのだ・・・
いつだろね。
でも、衰退した理由は、塩害と思われ。
ヘロドトスの「歴史」を読んだけれど、バビロンの驚異的な繁栄とともに、豊富な
麦の収穫量や、それを可能にした灌漑と、チグリス・ユーフラテス川の治水の話が
たくさん出てくる。ヘロドトスは1粒の麦が200-300倍にまでなると報告し
ている。誇張しすぎだろうが、他の地域よりを収穫量で圧倒していたのは事実だから
こその誇張だろう。
バビロンは、膨大な農業生産量に支えられた都市なのだと分かる。
あの地域が塩害で砂漠化してから衰退したのだろうね。
>>17 (誤)>都市が優れていたわけではない・・・人間が優れていたのだ・・・
(正)>バビロンは何時衰退したのでしょうか?
鬱だ。
19 :
世界@名無史さん:02/06/21 01:19
>バビロンは何時衰退したのでしょうか?
場所が、今のイラクだからまだよくわかってないみたいだよね。
旅行ガイドなんかみると、アケメネス朝ペルシアに破壊されたとか書いてあることあるけど、
これは多分嘘。
だってその後、バビロン補囚があったし、
アレクサンダーが東征したときにはバビロンに寄ったって記録あるもんね。
ユダヤ教にもバビロニア・タルムードってのがあるし、都市としては結構後まで続いたと思われる。
>>19 >アレクサンダーが東征したときにはバビロンに寄ったって記録あるもんね。
これはその通りだが、
>旅行ガイドなんかみると、アケメネス朝ペルシアに破壊されたとか書いてあることあるけど、
>これは多分嘘。
>だってその後、バビロン補囚があったし、
こっちは中身に間違いが。
アケメネス朝ペルシアのキュロス王が、新バビロニアの首都バビロンを陥落させた時に、
バビロン捕囚されていたユダヤ人をパレスチナに帰還させたのよ。
順番が逆。
黄砂って日本じゃ空が黄色に染まる程度だけど、本場は洒落
にならない程凄まじいらしいですね。
北京も秋以外はあまり風光明美とは云えない都市だそうで。
只、北京は中国がモンゴル民族により始めて国際化するに至る
役割を担ったとか、なんとか杉山正明さんは書いてましたね。
ヘロドトスを再度チェックしてみた。
アケメネス朝ぺルシアがバビロンを陥落させたのは、実は2回。
1度目はキュロス王による征服。
新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人も解放した。しかし、バビロニアの歴史に
敬意を払って、街は一切破壊しなかった。
2度目は、ギリシアに遠征したあのダレイオス1世による再征服。
ペルシアに服従させられたバビロニア人が反乱を起こしたのを鎮圧。
その際、有名なバビロンの城壁に苦しめられたダレイオスは、バビロンが再度
反乱の拠点にならないように、城壁、城門を破壊している。
これでバビロンが滅亡したわけではないだろうけれど、影響は大きかったろう
なあ。
(ヘロドトスを信じていいならば、だが)
現存するハンザ都市ハンブルクとブレーメンは、一都市で一州を構成しており、
都市国家の伝統を残している。
厳密にはブレーメンはブレーマーハーフェンという外港を飛び地として
持っているが。
>>21 中国の歴代の大都市って、宋代以前は内陸ばかり、というイメージあるね。
25 :
世界@名無史さん:02/06/22 01:59
サマルカンドはモンゴルに徹底的に破壊され、ティムールによって
再建されたんだったかな。珍しい経緯で復活している都市かもしれないな。
26 :
リトルグレティアヌス:02/06/22 02:47
ハンザ都市
中世で栄えたが、近世に入り衰退。
諸国家が重商主義を取って市場から締め出されたのが
最大の原因だが、ほかにも
ドル箱のニシン漁が、ニシンの魚床が北海に移動して
パアになったことも一因だそうです。
27 :
世界@名無史さん:02/06/22 10:28
>>24 建康(現南京)とかは海沿いの方に入るかな?
28 :
世界@名無史さん:02/06/22 16:01
北京だって海からそう遠くないとはいえ内陸都市だ。
天津は北京の外港と言えるほど近くはない。
北京天津は東京横浜やソウル仁川のような関係ではない。
>>28 北京(大都)は元の時代、ローマみたく、川(運河)で海と繋がっ
てたんじゃなかったっけ?
それを明が埋めたかなんかで、杉山さんが明をボロカスに書いてた
覚えも・・
(つか、本を見返す事の無い半端な書き込みですが)
30 :
世界@名無史さん :02/06/22 16:54
30ゲット2だ!!!
中国って、水軍って言っても、海軍でなくて、河軍だったりする国よね。
元以前の各王朝も、海上輸送「も」したけど、運河を使った内陸輸送がメイン
だよね。
内陸の懐が広すぎるからかな?
長安もさ、シルクロードの入り口っていうくらい内陸なんだよね。
バビロン続報。
アレクサンドルがバビロンで死んだあたりをさかいに、衰退が始まった
らしいね。
後1〜2世紀にローマ帝国の版図の東端がバビロン周辺に差し掛かった
時には、かつての繁栄は失われていたらしい。
都市としては残っていたみたいだけど。
フランドル諸都市
34 :
世界@名無史さん:02/06/23 00:06
バグダードも当初は東岸に建設されましたが、後に西岸へと移っていきましたな。
他スレでラヴェンナの繁栄と没落のことを教えてもらったので、
少し自分でも調べてみた
ラヴェンナ(1)
ラヴェンナは、かつて海上沖数百メートルの地帯に点在する、無数の干潟から
なる、ヴェネチアと似た土地だった。
猟師や塩田職人しか住まない辺境の都市であったのだが、紀元前89年に共和
制ローマの勢力下に入った後は、制海権さえ握れば、陸からの攻撃は難しい要
害の地であることが着目されるようになった。
オクタビアヌスは、ラヴェンナをさらに沖のクラッセと共に巨大な軍港として
再開発した。最盛期には250隻の船を収容できたと伝えられている。
パックスロマーナの時代には、軍港というよりはむしろ商港として繁栄した。
トラヤヌス帝が、真水が欠乏しがちなこの都市のために70kmに及ぶ水道橋を
作らせたことが、この商港の重要性を証明している。
ローマ帝国黄金期、ラヴェンナは、東に向いた商港として健全な繁栄を続けた。
ラヴェンナには多くのギリシア人、シリア人の商人が訪れていた記録が残され
ている。
ラヴェンナ(2)
ラヴェンナの運命は、ローマ帝国の衰退とともに急変する。
ゲルマン民族の大移動とともに、ローマ帝国の北の防衛がアルプス付近まで
押し下げられた時代、ローマ皇帝たちは防衛に向かないローマを捨て、要害の
地を転々とすることになった。
402年、皇帝ホノリウスは、西ローマ帝国の首都をミラノからラヴェンナに
移した。海上に出る力のないゲルマン民族に対抗するには、四方を海と、川と
湿地に囲まれたラヴェンナが最適だと考えたためだ。
402年から476年まで、ラヴェンナは西ローマ帝国最後の首都として機能
することになったのだ。
首都となること。それは、都市にとっては最大の名誉かもしれない。
しかし、西ローマの首都となったことが、その後、ラヴェンナを血の抗争の中
心にと変えていった。
ラヴェンナ(3)
首都となったラヴェンナには多くの初期キリスト教会が築かれた。
その中には皇族が立てたものも多かったが、巨大な商港であったこともあり、
ギリシア人、シリア人商人たちの出資で築かれた教会もあった。
この時代、ラヴェンナにはまだ多くの"東方人"たちが訪れていた。
西ローマ帝国は、ゲルマン人たちの侵攻を海と川で凌ぎながら、海から東ロー
マへの救援を求めた。しかし、東ローマ帝国軍の介入にはいたらず、476年
ついにゲルマン人傭兵隊長オドアケルの手によって陥落し、西ローマ帝国は地
上から消滅した。
だが、ラヴェンナの歴史はそこでは終わらなかった。
東ローマ皇帝は、オドアケルのラヴェンナ占拠の事態にいたり、行動を開始
した。彼のとっ方法は、捕虜として手元に置いていた東ゴート族の王、テオド
リックにオドアケルを討たせることであった。
夷をもって夷を制す、のこの作戦は、3年間の壮絶な包囲戦の後、テオドリッ
ク側の勝利に終わる。しかし、抗争の地としてのラヴェンナの歴史は、終わら
なかった。
テオドリックが、東ローマからの独立傾向を見せ、ラヴェンナを首都とする王
国を築き始めたからであった。
テオドリックの時代から、ラヴェンナは川からの堆積物が蓄積したため、次第
に海から陸に取り込まれ始めていたという。
ラヴェンナ(4)
テオドリックは、もはや要害の地ではなくなったラヴェンナに拘った。
東ゴート人による西ローマ帝国の再興を目指したテオドリックにとって、西ロー
マの最後の首都であったこの都市は、特別な重要性を持ったのだ。
しかし、要害の地ゆえに都に選ばれた都市が、その天然の防御力を失ったこと
は悲劇であった。
テオドリックが魚の顔を見て狂死した後、東ローマ皇帝ユスティニアヌスは、
東ゴート追討を将軍ベリサリオスに命じた。
旧西ローマ帝国の版図を回復することを夢見たユスティニアヌスにとっても、
西ローマの最後の首都ラヴェンナは、ある意味でローマ以上に重要な都市だった
のだ。
天然の防衛力を失ったラヴェンナは、容易に陥落し、この都市は東ローマ帝国
のイタリア支配の中心地となることになった。
サン・ヴィターレ聖堂などの初期ビザンツ芸術の傑作はこの時代に製作された。
要害の地ではなくなったラヴェンナであったが、西ローマ最後の首都であった
ことから東ローマ帝国の寵愛を受け、その経済力支援のもとに、大いに栄えた。
ラヴェンナ第二の繁栄期である。
ラヴェンナ(5)
東ローマ帝国の衰退は、要害の地で無くなったラヴェンナには致命的であった。
ユスティニアヌス帝の死後、東ローマ帝国はイタリア支配を続ける財政力を失っ
た。
ラヴェンナにはランゴバルド族が侵入し、再度ゲルマン人の支配下に陥った。
その後200年間、東ローマ帝国は威信をかけてラヴェンナ奪回を試み、ランゴ
バルド族と戦うが、ついには敗北する。
ランゴバルド族はラヴェンナを拠点に勢力を伸ばし、ローマ教皇をも脅かすよう
になった。
フランク王国小ピピンによるランゴバルド族追討は、まさにこの時に行われた。
ローマ教皇と結ぶ利を重く見た小ピピンは、ランゴバルド族を倒し、この地を
教皇に寄進した。
西ローマ帝国最後の首都を教皇に献上したことは、カール戴冠の先駆けとなる
象徴的出来事だった。
フランク王国は小ピピンの息子カールの時代にさらに栄え、ローマ教皇の支援
勢力としての色彩を鮮明にしていった。
教皇ハドリアヌス2世は、カールの歓心を買うために、ラヴェンナにある古代
からの遺産を(キリスト教関連物以外)好きなだけ略奪していい、との許可を
出した。
これが、求心力を持つ都市としてのラヴェンナにとどめをさした。
カールは容赦なくラヴェンナを略奪し、西ローマ最後の首都としての輝きを奪
い去った。
ラヴェンナ(6)
海から陸に取り込まれて、もはや要害の地でなくなったラヴェンナは、商港とし
ても二流に転落していった。
カールによる略奪と時を同じくして、同じく海と川に囲まれた海上都市ラヴェン
ナが交易都市として勃興し始める。
東に開かれた港としての機能は、完全にラヴェンナからヴェネチアに移っていっ
た。
要害の地、優れた商港、西ローマ帝国最後の首都としての権威、これら全てを
失った、ラヴェンナは、その後、イタリアのありふれた1都市となっていく。
今日、ビザンツ時代の建築物やモザイクが観光客を集めるラヴェンナだが、イタ
リア主要都市を結ぶ幹線鉄道ユーロスターの路線からも外れていることからも
分かるように、小さな地方都市として存在している。
参考資料「ラヴェンナ 歴史ある芸術の案内書」(ジャンフランコ・ブスタキーニ)
江戸が当時100万の人口を抱え、世界最大の都市として繁栄した理由は、
「街が清潔だったから」に尽きるそうな。
42 :
世界@名無史さん:02/06/23 03:00
ローマとか長安とか杭州とかバグダードとか
それ以前にも百万都市はあったはずだが
江戸時代には江戸の他に百万都市は無かったのか?
当時は江戸だけ>42
糞尿を近郊の農村の肥料として循環させる方法で、江戸が糞尿問題を解決して巨大
都市になることが出来た、とか、中世ヨーロッパの都市はこうした循環を形成する
ことができず、道路が糞尿にまみれていた、とかよく読むけど、
ローマやら、長安は、糞尿をどう始末していたんだろう?
ローマは下水を整備して河に垂れ流してたと思う・・・
>>45 >ローマは下水を整備して河に垂れ流してたと思う・・・
それじゃあ、ティベル川は糞尿まみれ?!
海外の物資をローマに運ぶための運河的な役割を果たした川が糞尿まみれ
だったら嫌だな・・・
47 :
世界@名無史さん:02/06/27 00:29
ローマ人は下水道くらい余裕で作ってそうだな
公衆浴場もあったことだし
冷静に考えて、下水整備しても、せいぜいティベル川に流すくらいしか出来ないよね。
やはりティベル川は糞尿の川か?
>>48 米好きさん
塩婆はとにかく大量の水量により、上水道→下水道
『流しっ放し』=『清潔』で片付けてますね。
でも、思うに屍体も投げ入れてた程のテヴェレ川くらいの中級な河川
なら、下水口がいくつもにきちんと分散してれば糞尿はさほど目立た
ずに紛れたと思いますが。
下水道内部にも固体を解体、ろ過する工夫や、それらを運営する下
水道職等は全盛期のローマであれば想像するのも簡単な気がします。
川に注ぎ口あたりの水は濁りがキツかったりでしょうが糞尿まみれ
は考え過ぎでは?
,,..--―-、 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/, -----、.ヽ, / 世界 |
| i_,,,,_ __゙l | | 糞スレ、 発見! |
,!、i'゙-‐-: '-、|/ / _______/
/'') ..., '‐-‐、.j  ̄ ̄
/ ,‐!::...`'''''''`ノ
_,,,l ;! ::|ヽ、二 イ
, -‐'゙゛ i::.. | .ヽ/;ヽj!`‐-、_
l ノ::. .:|、 .ヽ,:ヽ| <゛~ヽ、
,:''`` ''"゙.|;;:‐''゙|.ヽ、 ヽ;::| / .|゙l
,: ヽ::il;;! ヽ、ヽ| / | :|
i o゚ :`;''゙ ヽ| / | .|
i ..:::::,:::'::::: . |゚ |,,;:->、
`.、__;;/:::::::::: : | !''" |
i ::.:::: : | | .|
| |゚ / |
................::i :| .i::、: .,,...、_|....
.::| ::| .::; ゙i゙.、, 、`、
52 :
世界@名無史さん:02/06/27 03:44
ていうか、普通は垂れ流しだろ、近代以前。
今でも中国の江南なんかの水郷地帯じゃ
こっちでアヒルが泳いでて、あっちで洗濯してて、
そっちで野菜を洗ってて、そこを舟が通ってる。
船頭が小便したって垂れ流し。
日本にも三尺流れて水清しとか、ことわざがあるよ。
現在のローマはイタリアの首府だけど経済、文化の中心では無い。ミラノ、トリノとか北の方が中心だ。
今のローマは観光都市と宗教都市に過ぎない。古代ローマがそのまま続いてる訳では無い。
日本の奈良と同じようなものじゃないかな。
ローマの場合、
川に垂れ流しと言っても、下水が整備され、街中に糞尿があふれるわけではなかった
ということが、驚異的と言えるということか。
しかし、下水が整備されたわけではないのに、糞尿で苦しんだ都市とそうでない都市
があるのはどうしてなんだろうね。
>>54 社会的条件でいうと、江戸は古今東西でも最高のリサイクルシステムのおかげで、
糞尿にはまったく苦しまず、世界有数の清潔な都市だったね。
地理的条件だと、湿度や水はけのよさが大きいんじゃないかな?
>>55 なるほどね。
たとえば中東の都市だったら、糞尿もすぐ乾燥してあまり問題にならなさそうだ(w
粘土をこねて乾かせばすぐに日干し煉瓦になってしまう気候だからなあ。
食生活のレパートリーから云っても、同じ10万人都市でも
現代人の糞尿のボリュームと、現代以前までの10万人都市
の出す糞尿のボリューム、悪臭の差異は当然あると思う。
ウンコは放っとけば乾涸びるし、そもそも、臭い、汚いもの
なんて、臭い、汚いと教えられなければ別に気にならない部
分は大いに有ると思う。
欧米人が屁よりゲップを嫌う習慣があるのは、ウンコの臭い
が生活に定着しているからなのかも。
繁栄した都市には当然、焼却場もあったのでしょうね。
いわゆる高い煙突っていつごろからあるモノなんだろ。
>>57 >繁栄した都市には当然、焼却場もあったのでしょうね。
>いわゆる高い煙突っていつごろからあるモノなんだろ
廃棄物のワンウェイ処理の王道、焼却。
大規模で計画的な都市の維持政策として焼却が採用されるようになった
のはいつか?
というのは、面白いテーマだね。
興味ひかれる。
しかし、高い煙突が必要なほどに、大量の廃棄物が排出され、さらに
行政側がそれを一箇所に回収して集中処理していた、という風景は
近代以前の都市ではイメージが湧かない。
ヨーロッパだとキリスト教会の権威が没落してからですかねえ。
地域にもよるだろうけど19世紀ぐらい?
確かに興味深い。
その辺の先進国ドイツなんか人口湿地を造りだしてますね。
>>60 略奪オベリスクに替わって、煙突という図式も有りですか?
煙突と云えば、
ウランバートルの中央に聳え立つ火力発電所の煙突はイイ!です。
これぞ単細胞社会主義!ってな感じで。
もう少しソ連がモンゴルに力入れてたら、都市の真ん中に原発だっ
たんだよね。
62 :
世界@名無史さん:02/07/22 21:04
エリドゥは何時?
63 :
世界@名無史さん:02/07/22 21:12
この板に今史学専攻者はおるかの?
64 :
世界@名無史さん:02/07/22 21:29
ふーん、下水も完備してたんだ。
やっぱローマはすごいね。中世ヨーロッパから見たら
まさに失われた超古代文明ってやつだな。
65 :
世界@名無史さん:02/07/22 21:31
下水道に訂正ね。
インダスの諸都市も下水道の設備があったというからローマにあっても不思議でない。
でも江戸では糞尿は貴重な肥料で大家の大切な収入源だったらしいから垂れ流しなどもったなくてあり得ない。
死人の着ていたものでも立派に古着屋が買い取っていた位だからリサイクルは徹底してた。