594 :
世界@名無史さん:
ここで聞くな厨房
保守
下賎な倭人が古代中国史を語るなんてテラワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
うっせぞー下等チョン。
漢族は「倭」なんて使わないぞ普通。
599 :
世界@名無史さん:2005/11/20(日) 22:10:01 0
漢帝国は存在したか否か
600 :
世界@名無史さん:2005/11/21(月) 22:48:37 0
最近荒れてるな
601 :
世界@名無史さん:2005/12/10(土) 10:46:13 0
>>1 そういえばその頃を題材にした小説や漫画ってすくないよな…
一番好きな時代なのに…orz
602 :
世界@名無史さん:2005/12/17(土) 11:16:54 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→
劉明→劉遠→劉陽→(十世)→ 魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→劉邦(漢高祖)→
劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉発(長沙定王)→ 劉買(春陵節侯)→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)
→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)→劉荘(明帝)→劉タツ(章帝)
603 :
世界@名無史さん:2005/12/17(土) 13:33:35 O
ただの後付けした嘘系図がどうした?
604 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 11:48:51 0
age
””史、な。
評価は別にしても、『光武帝』も書いてる。
607 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 13:10:31 0
608 :
煽り君:2006/01/06(金) 00:11:40 0
>>488 >雲台二十八将 東郡太守東光侯、耿純、字は伯山(?-37)
> 鋸鹿宋子の人なり。父の耿艾、定陶国の尹と為り、耿純は長安に学び、除せられて尚
>書となる。王莽が敗れて更始が立つや、耿艾も降り済南太守となる。耿純は舞陰王李軼
>に諫言することあり、李軼は耿純が素晴らしい人物と思い、鋸鹿の豪族の出であるので
>騎都尉と為し、以って趙、魏を帰順させんとす。劉秀が河北に渡り邯鄲に至るにあたり
>耿純は謁見し、劉秀は丁重に扱った。他の更始の将と異なり、劉秀の兵士の規律が整い
>たるを以って、耿純は劉秀と結びつかんとす。劉秀は耿純を邯鄲に残して中山に向うが、
>この時、王郎が立ちて、劉秀は騒乱する薊を南下し、苦難の末、ようやく迎え受けてく
>れる信都郡に入る。
後漢書から抜き出したものですが、この後漢書の記述、実は変です。というのは、
>耿純は舞陰王李軼に諫言することあり
更始が功臣を王に封じ始めたのは、関中に入ってからと、様々な列伝の記載で明らか。
更始が関中に入るのは更始二年二月(劉玄伝)で、漢書王莽伝下の記載も同じ時。
>この時、王郎が立ちて
王郎が挙兵したのは更始元年十二月。光武本紀・王昌伝とも同じ時。
こう書け分かるように時系列が狂っています。では時系列が合うことを前提に、どうす
れば正しくなるかと考えれば、
(1)五威中郎将李軼がまだ舞陰王となっていない頃の話が、舞陰王として書かれている、と考える。
しかし、これは逸話の中で、耿純が李軼を「大王」と呼んでいるので難しい。
(2)諫言したのは耿純の父の耿艾であるのが、それが耿純の逸話扱いになっている、と考える。
しかし、それでは太守の耿艾が騎都尉に任じられるのが妙。
(3)王郎戦の中、耿純が洛陽の李軼に会っている逸話が、前に書かれている、と考える。
邯鄲から北上した耿純が、更始に援軍を求めるため、南下して洛陽まで行くことになる。
それでは、劉秀に前将軍に任じられた後になるので、騎都尉では降格になる。
(4)耿純は舞陰王李軼に会ってはおらず、他の誰かと間違えられた。
これが一番妥当と思う。
609 :
世界@名無史さん:2006/01/14(土) 15:56:34 0
煽り君、あんた凄すぎ
誰かが光武帝を常識のある項羽、と評していたのですが、どう思われますか?
610 :
世界@名無史さん:2006/01/14(土) 19:16:02 0
常識があったら項羽にはなれんな。
611 :
世界@名無史さん:2006/01/14(土) 21:53:48 0
素朴な質問です。
王莽って正史に認められたちゃんとした皇帝なんですか?
一代限りだけど10年以上続いているし、禅定うけてるし。
でも新史ないよな。
612 :
煽り君:2006/01/15(日) 19:36:12 0
>>609 誰かがですか?「光武帝」「項羽」「常識」でググリました。すると
「曹操は1000年に一度の天才なのに」スレの620の人がそれらしく思えます。
小生、劉秀は常識のある項羽かと問われれば、方や剛直・頑固・天然戦
術家の覇王項籍、方や、柔よく剛を制し、政治家・文官でもある光武帝劉
秀、政治家としての性格がまるで違うので、そうは思わないとしか答えら
れないですね。
613 :
煽り君:2006/01/15(日) 22:34:17 0
>>611 小生は、こう思っています。
まず後に出来た王朝の時代に、前世代の歴史を編纂して、それが公に認めら
れれば、著名な史書となります。後漢の場合は、建前として漢は復興されたこ
とになるため、新・王莽は一時的な簒奪政権として描く必要があります。こう
いう時代を背景に『漢書』は、王莽の死までを扱う官撰による史書として、皇
帝らに認められて、成立しています。
よって『漢書』では、王莽は本紀ではなく列伝に描かれ、帝と記述されるこ
となく、莽、莽、莽と記され、漢兵・漢軍と記述されていても新軍・新兵とは
記述されていません。このように一旦『漢書』によって新・王莽はその王朝を
継ぐ正統性を拒絶され、漢王朝の時代、漢王朝の人物と扱われています。
次に歴代の王朝によって正当な歴史、つまり正史として扱われるようになる
と、『史記』『漢書』はその正史の代表作として扱われました。理由の一つは
『漢書』というのが、初めての一王朝史というスタイルを採用したためであり、
以後、王朝ごとの歴史は『漢書』を基本とすることになった訳です。
そうすると、新・王莽の正統性は無いというのが『漢書』によって、以降
自明扱いになる訳です。その『漢書』に新の時代が描かれている以上『新書』
が存在しても、正史とは認められないでしょう。仮に『新書』を認めるという
学者がいたとして『漢書』に逆らうほどの意味があるのか。
そういうことで王莽は実際には皇帝ですが、正史上では皇帝扱いされない。
正史に載るから正しいとか判断するのではなく、正史が名目で書かれている
が、実質は異なっていると、見抜くことが大事だと思います。特に後の王朝で
は、自王朝の正当性を強調する余り、倒した王朝の短所・欠陥をあげつらう傾
向があります。漢書王莽伝の幾つか逸話は、誇張されたものかも知れません。
王莽は桓玄や侯景に近い扱い?
いや、彼は間違いなく中国全土の皇帝だった。
隋の文帝と煬帝を合わせたようなものじゃないか?むしろ。
王莽も煬帝も高句麗に関与してる
高句麗息長いよな
保守しときます。
618 :
世界@名無史さん:2006/02/05(日) 00:49:08 0
あげ
619 :
世界@名無史さん:2006/02/05(日) 01:01:07 0
後漢書の訳本は現在2種類刊行されてるみたいですけど
どちらが使いやすいでしょうか?
620 :
世界@名無史さん:2006/02/07(火) 12:37:28 O
続漢書志も訳しているのが一番つかそれしか認められん
保守しときますよ〜
622 :
世界@名無史さん:2006/03/12(日) 15:07:47 0
月例保守にあがりました。
623 :
世界@名無史さん:2006/03/16(木) 12:46:16 0
>>10 馬援が公孫述を評して、井の中の蛙って表現したけど
元々は荘子の言葉でないの?
人は足ることを知らず…
も、劉秀が老子をアレンジしたんでしょ? 以前にそういう話を聞いたことがある。ヤフーの掲示板で。
人物評に使ったのが馬援でしょ。烏合の衆とかもそうだな。
矍鑠とした翁も光武帝が馬援に言った言葉だったりする。
>>624 三国志で曹操が言った、隴を得て蜀を望むの諺のことか?
626 :
世界@名無史さん:2006/03/16(木) 20:56:18 0
曹操は劉秀を凄く尊敬していたからね。
論拠がないから、詳しく突っ込まれると弱いのだけど…
「望蜀」ではなくて、「人は足ることを…云々」 の部分。
「望蜀」は、その老子を引用して、愚痴りつつも蜀を取ろうとした劉秀のひととなりというか、葛藤というか、そういった人間くささが見て取れると、勝手に思ってます。
628 :
世界@名無史さん:2006/03/17(金) 16:38:42 0
629 :
煽り君:2006/03/18(土) 01:47:50 0
>>627 岑彭伝ですね。光武帝が岑彭に指図した手紙に「(隗囂の居る西城・公孫述の将李育の守る上?の)両城が降れば、
兵を率いて、南の虜(公孫述)を撃て。人は満足することを知らないから苦しむ。既に隴を平らげ、また蜀を望む。兵
を進軍させる度に、頭髪はそのために白くなる」とあって、光武帝が岑彭に、心情を吐露しています。すごく人間味溢
れている。私は特に白髪の部分にそれを感じます。時に劉秀38歳、この歳にしては白髪が気になる状況だったんで
しょうね。何で白髪が増えたんだ、きっと軍を進めることに悩んでいたからだとか、思っていたのでしょう。で、手紙に
もそれを書いたと。
只、私は光武帝は闇雲に蜀を欲しがっていたわけではなく、蜀は西漢時代も漢の一部であったし、公孫述は皇帝を
僭称している以上、中国を統べる唯一の皇帝の立場としては、公孫述を倒さなければならないわけで、その自分を考
えて、足ることを知らないなと自嘲的に言っていると思います。それを部下への指図の中で、吐露気味に書く辺りが、
光武帝の光武帝らしいところ。
>629 そうですね。 で、その後の岑彭の戦いぶりがまた感動というか、かっこいいんですよね。
公孫述「神業としか思えん!」というやつ。
631 :
煽り君:2006/03/18(土) 18:13:36 0
>>630 誤解されそうな端折り方なので、もう少し補足しましょうよ。
建武八年、岑彭は天水を破り、呉漢と共に隗囂のいる西城を囲み、耿[合廾]・
蓋延は公孫述の将李育のいる上[圭β]を囲み、光武帝は東に戻る。ここで光武帝は
「望蜀」の手紙を岑彭に送った。ところが、隗囂の将の行巡・周宗は蜀の兵を率い
て現れ、隗囂は西城を脱出。一方、光武帝軍の糧食が尽きたため、岑彭・呉漢は兵
を退き、耿[合廾]・蓋延も撤退する。隗囂はその退く兵を追撃するが、岑彭は殿
(しんがり)としてこれを防ぐ。
建武九年、公孫述は長江(江水)を降って、荊州の夷陵・夷道を落とし、岑彭は、
この公孫述軍に対応するが、撃退できず。
建武十一年春、岑彭は呉漢らと、荊州の兵士・船頭を集めて、反攻に出る。呉漢
は、船頭には糧食が掛かるから止めようとするが、岑彭は必要欠くべからずと、光
武帝に上書し、光武帝は「大司馬(呉漢)は歩兵騎兵には巧みだが、水兵に通暁し
ているわけではない。征南(大将軍岑彭)公を一番に重視しよう」と岑彭に任せる。
この時の戦いで、公孫述に「これ何ぞ神なるや」と言わせる。
根が演出家なもので… 補足&詳細、乙です。
伴野朗の短編「皇帝を作った男」って王莽の話らしいけど、
どこの図書館にもない。
どんな話なのかおしえてほしい。
読みたいだけなら国会図書館が早いでしょう
636 :
634:2006/03/21(火) 17:56:18 0
良い天気なので遊びに出て、たまたま近くの図書館が開いていたので、
端末検索したら、貸し出せる状態だったので読んだ。
伴野朗「皇帝を作った男」(『なんぞそれ神速なる』講談社 収録)
確かに王莽の話で、儒学者・劉[音欠]が自分の儒家思想を実現
しようと、王莽の知恵袋となるのだけれど、王莽が暴走し、ついには…
という内容。
637 :
633:2006/03/21(火) 21:37:58 0
ありがとうございます。
じつは自分先日まで「ばんのあきら」だと間違えて探していました。
近所の図書館にあったので借りてきました。
638 :
世界@名無史さん:2006/03/25(土) 09:00:21 0
劉秀と愉快な仲間たちの活躍ぶりを一般人が楽しめる史書ってない?
牛に乗って登場とか大樹将軍とかいろんな伝説が紹介されてるのがいいんだけど
塚本「王莽」「光武帝」を借りてきた。
>638 そういうエピはなかったと思うけど、「十八史略」見てて、普通に笑ったところがあったのを覚えてる。
ほかの時代では、「かっこいいな〜」とか「ほぉお」なのに、そこだけはなぜか微笑んでしまうという…
640 :
世界@名無史さん:2006/04/03(月) 21:58:18 0
保守あげ
641 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 20:29:27 0
あげ
642 :
煽り君:2006/04/16(日) 11:15:20 0
>>507 王覇伝ですが、ここの記述は実は変。
> 王郎の劉秀に賞金をかけた檄書到るや、薊中は王郎に呼応した兵が立つ。王覇は劉秀
>のための兵を募るが叶わず。劉秀は南に逃げ、下曲陽に至る。辛うじて凍れる河を渡る。
何が変って、下曲陽という場所、凍てる河を渡る逸話の舞台・饒陽のかなり南西にあります。
一度、南に下って北上したのか? 更には
>>514で出てきた[丕β][丹彡]の統治下です。
>>514では
>[丕β][丹彡]、劉秀が軍を失い、薊から信都に向うと聞けば、郡の属官張万と尹綏に精騎二
>千余りを率いさせ、劉秀の道すがらを出迎えさせる。[丕β][丹彡]は信都で劉秀を出迎える。
つまり、劉秀らが下曲陽に至っておれば、[丕β][丹彡]は直接出迎えており、信都で出迎える
ことはない。
よって、王覇伝の「下曲陽に至る」は間違いで、おそらく「饒陽に至る」が正しい。
>>463、賈復の話、一年以上、ダウトが掛からなかったのですが、多分、小生の誤謬です。
何かと言えばこれ。
>手紙を持って王郎が立った直後の河北に渡り、ケ禹によって劉秀に引き合わせられるこ
>とになる。以降、猛将の働きを見せることになる。
後漢書の賈復伝によれば、賈復が劉秀陣営に加わったのは、柏人でのこと。小生は、柏
人にてケ禹・朱浮が王郎の将李育に惨敗するので、その時に賈復が劉秀陣営に加わった
と思い込んでました。
ところで賈復伝には、賈復が劉秀陣営に加わった時の逸話として、賈復の馬がやつれた
れば劉秀が左の添え馬を賈復に賜うとあります。このことは、劉秀が車駕に乗っていたと
を意味します。それがどうしたとか言われそうですが、劉秀が王郎と戦っていた時なら、
劉秀は車駕に乗っていないと思われます。劉秀は銅馬帝と呼ばれた時には陣営を軽騎で回
ったとか書かれていますし、深追いしすぎて逃げるために高い岸から飛び込んだという記
述もあれば、戦時には馬に直接乗っていたと考えるのが自然です。では、王郎と戦う前に
劉秀が柏人に居たことがあるのかと言えば、あるのです。劉秀は邯鄲から真定へ行くと本
紀には書かれています。柏人は邯鄲と真定の丁度中間点に位置します。
つまり、劉秀が邯鄲を出て真定に向けて車で進み、柏人にて、追いかけてきた賈復が
追いつく。賈復は陣営に加わり、更に劉秀は北上して、遂に王郎が邯鄲で兵を上げる、
と考えて良いと思います。
もう一つ、傍証になりますが、もし劉秀が王郎と戦っている時に賈復が、劉秀陣営に加
わろうとすれば、賈復は邯鄲(王郎)の支配域を潜り抜けて、北へ出ねばなりません。普
通に考えれば、少兵で劉秀陣営に加わろうとは思わず、更始帝の増援である尚書令謝躬や
馬武の軍と行動を共にするでしょう。というわけで、引用部、正しくは、次の通り。
手紙を持って王郎が立つ直前の河北に渡り、ケ禹によって劉秀に引き合わせられるこ
とになる。以降、猛将の働きを見せることになる。
644 :
世界@名無史さん:2006/05/03(水) 10:37:10 0
光武帝の小説読んで興味なくなってたけど、このスレ面白い
岩波からでてる後漢書高くて手が出ないから読んでても楽しい。
分かりやすい解説には感謝
1耿[合廾] 2[水育]陽 3[广龍]萌 4[炎β] 5[月句] 6[丕β][丹彡]、
7[業β] 8[夾β] 9子[イ及] 10[馬芻] 11[シ育]陽1 2[羽隹]義
13[音欠] 14耿[言斤] 15臨[シ隹 16[木旬]邑 17馮[小音]と宗[音欠]
18暴[己] 19韓[音欠] 20薫[言斤] 21[言羽]父子 22劉[音欠]、 23南[糸言糸]
24大[丹彡 ]25参[サ遽]侯 27董[言斤]2 8史[音欠] 29[山享]、
読み方が分からない(´・ω・`)
ご示唆ください
647 :
世界@名無史さん:2006/05/03(水) 14:23:20 0
漢和辞典引け。
1 かん 3龐 4郯 6邳彤
7鄴
眠いから最初の行だけ漢字にするとこんな字だよ
649 :
煽り君:2006/05/05(金) 01:28:18 0
>>646 筑摩の『漢書』岩波の『後漢書』の読みで、本によっては読みが異なる場合があります。
→はフォントが存在して使えるのが分かったので変換したものです。
私はIEを使わないと、うまく打ち込めません。
1耿[合廾]→耿弇(コウ・エン)2[水育]陽=11[シ育]陽→淯陽(イク・ヨウ)
3[广龍]萌→龐萌(ホウ・ボウ)4[炎β]→郯(タン)5[月句](ク)
6[丕β][丹彡]→邳彤(ヒ・トウ)7[業β]→鄴(ギョウ)8[夾β]→郟(キョウ)
9子[イ及]→子伋(シ・キュウ)10[馬芻](スウ)12[羽隹]義→翟義(テキ・ギ)
13[音欠]→歆(キン)14[言斤]→訢(キン)15臨[シ隹]→臨淮(リン・ワイ)
16[木旬]邑(ジュン・ユウ)
17馮[小音]と宗[音欠]→馮愔(フウ・イン)と宗歆(ソウ・キン)
18暴[シ巳]→暴(ボウ・シ) 19韓[音欠]→韓歆(カン・キン)
20=27董[言斤]→董訢(トウ・キン)21曹[言羽]→曹詡(ソウ・ク)
22劉[音欠]→劉歆(リュウ・キン)23南[糸言糸](ナン・レン)
24大[丹彡]→大彤(ダイ・トウ)25参[サ遽]侯→参蘧侯(サン・キョ・コウ)
28史[音欠]→(シ・キン)29[山享](カク)
21[言羽]父子という名前と誤解されていますね。曹竟・曹詡の父子の意味です。
以下、小生のミスです。
15淮ワイは問題なく使える漢字です。
18[シ己]でなく[シ巳]でした。
20と27、同一人物ですが、20が間違いでした。.
レス大変おそくなりました。
647がいう様に辞書で調べることなのに、わかりやすく教えてくれてありがとうございました。
651 :
世界@名無史さん:2006/05/11(木) 00:43:40 0
保守
しかし、この時代の本ってぜんぜん発売されないな。
最近では水滸伝も結構色々本でてるのに。
いまだに小説で印象に残ってるのって陳小説18史略ぐらいしかない
ちくま文庫あたりでだしてほしいな。
珍
654 :
世界@名無史さん:2006/06/07(水) 23:02:57 0
たまには保守でも・・・・・
655 :
世界@名無史さん:2006/06/10(土) 01:46:25 0
個人的に塚本さんの本は霍去病や白起よんだんだけど、小説としては続きが見たいというきにならないんだよね。
文庫になったら読んでみようとおもうんだけど。
でも王莽なんか結構本でてるのに、なんでだろ。
徳川二十八神将とかも元は劉秀からきてるのに、もう少し本でてもいいと思うのになぁ。
657 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 12:13:00 0
雲南省に古城がみつかって調査開始したとか。
時代的にこの辺らしいね。
658 :
世界@名無史さん:2006/06/19(月) 21:54:59 0
光武帝の敵はザコばっか。
故に小説にしても面白くない。
また光武帝自身は公務員タイプだし
あんまり面白みがない。
659 :
世界@名無史さん:2006/06/20(火) 00:00:07 0
>>658 たしかにライバルがぱっとしないが(というか、光武帝が強すぎたのだが)
光武帝自身はテラ面白い。
隣の幼女に萌えていたり、突如牛に乗って表れたり、「元気なジジイだな」等名言も多い。
660 :
世界@名無史さん:2006/06/20(火) 00:15:22 0
光武帝は強くないぞ。
優秀な参謀いないし。
武力で突出した武将もいない。
才能的には劉備とどっこいどっこいじゃないか?
>>660 二十八将軍や馬援も知らんヤシは消えたほうがいいと思うぞ。
塚本の光武帝、文庫版が出たね。
人物造形が相変わらずで微苦笑が抑えられない…。
氏の小説に出る人間って、青筋立てながらキンキン声でまくしたてる、
落ち着きのない奴ばかりなイメージがあるんだが。
語尾に「!」が大杉なせいなんだろうか。
>>660 光武帝は個人としての武芸の腕前は知らないけど、
戦術指揮官として前線で突っ込んでいくタイプだぞ。
戦功でのし上がって皇帝になったような人物。
確かに敵がショボかったってのはあるかもしれない。
ちなみに光武帝の参謀は
戦略:ケ禹
戦術:馮異
あたりかな?
664 :
世界@名無史さん:2006/06/20(火) 06:43:52 0
つーか、二十八将って単なる戦上手なだけじゃねーか?
鬼神の如き働きとかしたヤツいたっけ?
「朝飯前」の故事を知らんと言うのか、
>>664 は。
賈復、呉漢はとくに有名だぞ
667 :
世界@名無史さん:2006/06/20(火) 23:53:37 0
賈覆・呉漢は楚漢・三国の人物と比較するなら
誰の好敵手だ?
新のころに連弩ってあった?
>>668 連弩はあった。新兵器ということはない。戦国時代には既に存在した。
三国の人物って… 三国時代の人物のこと? 三国人のこと?
よくわからんが、賈覆なら関羽じゃまいかい
唯我独尊ぽいとこや威風あたりを払うところなど。
ただ、何が何でも前進し、いっとき重体にまでなったなど、後ろを顧みないところもあった。
呉漢は剛毅・冷徹で、騎兵を率いては戦場に恐怖をばら撒いていた… とかだから… 張遼かな?
張遼って略奪はしてない? 比較は難しい。
>>669 あったのか。知らなかった。
高城兵器は墨子で有名だから知ってたんだけど。
文庫になったから例の小説読んでるんだが、相変わらず読む気がうせるなー
なんでもかんでも説明口調なのがしんどい原因なのかなぁ〜。
672 :
世界@名無史さん:2006/06/22(木) 22:56:20 0
関羽はエピソードに事欠かないし、神にまでなってるのだが、
賈復なんて東洋史専攻でもほとんど知らないだろう。
その差はどこに?
そりゃ演義小説のデキの差だろ。
674 :
元帥:2006/06/22(木) 23:02:24 0
光武帝をYahoo!で検索していろんなサイトを見たら勉強になるよ
675 :
元帥:2006/06/22(木) 23:08:04 0
光武帝→りゅうしゅう【劉秀】
中国の後漢の時代の初代皇帝で、在任は25年から57年間。
676 :
世界@名無史さん:2006/06/23(金) 00:40:41 0
57年間って長いなオイ。
お〜い!! シムラー
678 :
世界@名無史さん:2006/06/24(土) 00:13:37 0
劉秀って俺の憧れ。だって陰麗華なんてスッゲー美人のダンナになる
んだから。うらやましーよ。
679 :
世界@名無史さん:2006/06/24(土) 00:28:36 0
今の美人の基準とは大分違うかも知れんぞ。
光武帝は幼女陰麗華にハァハァしてたロリコン男
全勢力と外交云々ではなく、力づくで叩きのめした素敵な光武帝に乾杯
>>675 >>676 釣りとは思うが、勉強しろよと、突っ込んでおく。
在位は建武元年(西暦25年)から建武中元二年(西暦57年)、
よって32年間在位していた。
>682 みんなわかってるでしょ。 それに>在任は25年から57年間。
は、別に間違ってはいない。「の」が入ればなお良いが。
>676はブラックにつっこんでるだけだと思う。
例の小説読み終わった。あまり期待してなかったけど、力子都とかの存在だけで後がいまいちわからん人物にスポット当てるより
他に何かあるだろ。28将馮異以外全然目立ってない。
後、[登β]禹たんなる嫉妬深い負けキャラというイメージしかないじゃん。もっとあるだろ。
河北の戦いで敗れて馮異が薪を集めケ禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さをしのいだりしたエピソードなんかも入れてもよかったと思う。
戦闘も連弩について描写が目立つし。
陰麗華についても違う書き方があたっと思う。
所で楊音って実際はどんな人物だったの?
後、兄劉エンとはそこまで対立してたの?部下を庇ってとか男気のある人だと思ってんたんだけど?
その辺について教えてほしい。
しょうがない、それが作者の持ち味だし>他に何かあるだろ。
例えば「王莽」での眼目は水蒸気爆発…。
作者は「後漢書」も「資治通鑑」も読んでないような気がする。
馮異と来れば「大樹将軍」だけど、その描写もないのは…。
新〜後漢初を描く場合、列伝六〜二九までは、目を通しておくべきかと
思うんだけど。
686 :
煽り君:2006/06/25(日) 13:53:22 0
>>684 楊音は目だっていないが、長安を襲った時に劉秀の叔父劉良を大事に扱った
とか、同僚が無体なことをすると「子供並か」と怒ったことが記載されてい
る。樊崇が下った後に謀反を働いたため殺されたのとは異なって、楊音は
晩節を全うした。
劉縯は劉秀を大人しい農業が好きな奴、任侠に欠ける奴と見ていたが、劉秀
は劉縯を慕っていた。それが証拠は、外見は喪を取らないように見せて、一
人で食するときは酒肉を取らず、寝所では礼として涕涙していた。それを知
った主簿の馮異がこれを諫めている(馮異伝)。計として喪を取らないこと
を示すが、それを徹底できなかったのが、劉秀が劉縯を慕いたる所と思う。
687 :
煽り君:2006/06/25(日) 13:57:22 0
>>685 そのデンで言えば、「光武帝」での眼目は鯉、蟹、蜻蛉・・・表紙そのままのいろものだ。
列伝一〜列伝五は当然として、と言う意味でしょうか。そう解釈させていただきます。
劉秀の即位までに限定しても、
列伝一の劉玄・劉盆子(赤眉)、列伝二の王郎・彭寵の記載は当然必要ですし、列伝三の
隗囂の場合もどう王莽と絡んだかという点や、王莽の政策批判の点で、王莽が何を間違
えたかというのが当時の人物の視点で見えるから必要でしょう。列伝四の劉縯は、高祖
劉邦のように劉縯が度量のある人物であるかを記述し、反乱軍の緒戦が記載されていて
必要ですね。同じく列伝四の劉興の所でここに母樊嫺都ほか劉秀の家族構成が記載され
ている。また劉賜・劉嘉の宗族がどう動いたかというのも反乱軍の戦略や時代背景とし
て重要だと思います。列伝五の李通・王常・ケ晨は反乱軍の緒戦が記載されていて必要
です。
・・・劉仲を劉伯升と共々殺害させるって、下調べもあったもんじゃない。情けないなあ
某小説。
う〜ん。 今読み始めたが…
下町剣客モノでも書いたほうがいいんじゃなかろうか、この作者。
初めて読むけど、読みにくいったらない。
劉秀以外の劉氏を全て無能という書き方が悪かったきがする。
確かに劉秀を侮ってるふうにとれるが、劉秀自体劉縯を慕ってるんだから、
こういう話こそ儒教の話に結び付けてるんだから兄弟の対立をする設定にしないほうがよかった。
劉秀は戦場では前線にでることもあったんだからそういう逸話もあってもよかった
大樹将軍というより、手柄を奢ってるとれる描写もおおかった。
そういや資治通鑑復刊サイトで100冊越えたみたいだが、復刊なるかな、
ちくまの漢書、一括購入以外は在庫ナシみたいですね。
「最近本屋から消えたな〜」とか思っていたら…。
>444
歴史作家は大抵ワンパターン
塚本史しかり北方謙三しかり
693 :
世界@名無史さん:2006/07/16(日) 23:01:40 0
劉仲って誰?
劉邦のお兄さん?