西欧における個人主義と公共性の成立

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1世界@名無史さん
について語りましょう。
個人主義や公共性というのはそもそもどういうものか。
ついでに、アジアではなぜ西欧型の個人主義・公共性というものが
発達しなかったのかも。
2世界@名無史さん:02/06/05 16:08
俺のものは俺のもの。
人のものは俺のものといった
ニダー主義が敷衍したから。
3世界@名無史さん:02/06/05 18:12
石で建物を作る文化だったから。
4世界・名無史発見!:02/06/05 18:18
西洋で庭園や公園が発達したのも関係あるのでしょうか?
5世界@名無史さん:02/06/05 18:38
・・・な ん で だ ろ。誰か教せーて。
6世界@名無史さん:02/06/05 18:39
>>4
西洋の公園というのは、もともと王侯貴族の狩猟のための森だった
ところを後に公園にしたところが多いんじゃないかな。
それから、都市を囲んでいた城壁の跡地とか。
7世界@名無史さん:02/06/05 19:00
公共性については、中世に自治都市があって、そこで市議会などが
いろんな取り決めをしていた伝統からきてるんじゃないかな。
8コピペ:02/06/05 19:35
「キリスト教総合スレ」から。

425 :世界@名無史さん :02/05/13 22:09
>>424
>西欧の個人主義の原点にキリスト教がある

複数の観点から検討できるとよい話題だと思います。
西欧人は「原点」と言いたがるでしょうが。
日本人など、文化も歴史も異なる人間がそう考える必要もないと思います。
私は、密接に関係すると思いますが。「原点」と呼んでよいかどうかは保留したいです。

私の考えとしては、次のような要因が関連付けられて検討されるのがよいかと思います。
用語は仮の物とみなしていただきたいです。

●西欧の個人主義とキリスト教が関係するはずである要因
A)聖書主義
(特に新教で顕著だがキリスト教全般で概ね観察されるものとして)
B)キリスト教的契約思想
(旧約的契約思想と新約の思想が二重構造を持ったものとして)
C)ユダヤ教以来の預言者の伝統と終末思想の結合態
(大衆自生的な蜂起のバックボーンとして)

●西欧の個人主義と関係するはずであるキリスト教以外の要因
D)公共性の理念:教皇権と皇帝権の緊張関係の下で成された国家形成との関連
E)市民の理念:社会的共同体のルールは構成員が自己決定すべきという理念
F)自由の理念:現代的資本市場を開発した歴史経緯と個人の自己責任の観念
(信用市場、金融市場、労働市場、株式市場を暫時開発した社会史的メカニズム)
G)人権思想:特に思想、表現の自由と信教の自由の定式化

大風呂敷にならざるを得ませんが、
西欧の個人主義と言っても、それは親族関係-個人と公共関係-個人の二重の関係性を西欧的整理した思想であるはずです。

キリスト教の影響も、原点とみなすのは一端保留事項にして、a「親族関係-個人の関係性」
b「公共関係-個人の関係性」に、一旦解きほぐしてみるのがよいように思っています。
a、bそれぞれの歴史的変遷にキリスト教がどう関ってきたのかを考えたうえで、再統合がはかれるとよいと思います。
そうした検討の結果として、原点とみなせるかどうか、それは私にはわかりません。判断保留です。
9人間灯台:02/06/05 21:40
>アジアではなぜ西欧型の個人主義・公共性というものが
 発達しなかった

狩猟民族と農耕民族の差異ってのは、やっぱり安易に過ぎる?
10世界@名無史さん:02/06/05 21:48
>>9
それもあるだろうけど、
やっぱ東洋、というより中国近辺の国には
儒教にすごく影響されてると思うぞ。
家族と他人の扱いに
違いがありすぎるように感じたよ俺は。
11世界@名無史さん:02/06/05 22:08
>アジアではなぜ西欧型の個人主義が育たなかったか

>>9>狩猟民族と農耕民族の差異ってのは、やっぱり安易に過ぎる?

日本については、単に農耕民族ってだけでなく、
共同作業が多くて集約性の高い米作を緯度の高い地方まで広げたのが、
東南アジアの米作ともまた違う、みたいに言われることあるよね。。

家族主義とか、滅私奉公助長と言う感じで。

公共性にあたるものは、西欧と違うルールが日本にもあったような気がする。
他のアジア諸国のことはよくわからない。

西欧は狩猟民族ってわけでもないんでしょ?
大侵入のころのゲルマンは、牧畜主の農耕従って感じだったとか。
12世界@名無史さん:02/06/05 22:35
>公共性にあたるものは、西欧と違うルールが日本にもあったような気がする。

少なくとも、「他人に迷惑をかけない」という考え方はあったかもね。

アジアでは、地縁・血縁が崩壊しなかったからとか、
西欧のようなギルドがなくて、「契約の精神」が発達しなかったとか、
一神教ではないので、神と自己との対話、という考え方がなかったこととか。
13世界@名無史さん:02/06/05 22:47
問題がでかすぎて印象論なんだけど、
17〜18世紀までのヨーロッパの政治社会はある意味、
(新聞等によって戯画化されているような)今の日本のそれと似ている。
言論が、というよりはコネと根回し・裏取引がものを言う辺りですが。

ハーバーマスの説だったかに
公共性(公共圏)は18世紀の教養市民層の間で文芸的公共性として生じ、
フランス革命後の出版・言論の自由の確立と共に政治的領域として意識されるようになった、
という話があるけど。

内在化された文化的規範(罪の文化?)がヨーロッパ人にはあるというのではなくて、
外から見られてないと、というか監視・制裁のための制度的保障がないと
平気で理不尽なことをするという点では案外彼らも我々に近いのではないか?
FIFAとかIOCのやり方見てるとそう思うけど。
14世界@名無史さん:02/06/06 00:57
>>13
>>1が言ってる公共性って言うのは、ハーバーマスの言う公共性(公共圏)より、もう少し平たい意味だろうと思うが。

ハーバーマスの公共圏って、公権力に対しての政治的影響力を自覚した世論の形成みたいな意味だったと思う。
論拠を伴った議論・対話による合意の追求ってイメージが伴われる。
ハーバーマス流じゃないだろうが、利害が異なる立場間での最適解の検討、みたいな線とする。

FIFAとかIOCってのは、プロジェクトに関しては、かなりの権力が集中するわけだし。
イベントの性質上、国家権力に対してもそれなりのイニシアティブを持てそうじゃないか(よくは知らん)。
「監視・制裁のための制度的保障がないと平気で理不尽なことをする」って言うのは、ある意味当然なんじゃないかな。
公権力に「対するため」に、最適解を理想にした議論をするようなものではないだろうから。

ハーバーマスの言う公共圏については、
マスメディアの発達、大衆社会の進展と並行して、サロンとか、カフェのような対面コミュニケーションを経ての世論形成過程ではなくなってきた、
と書いとかないと、なんか突っ込まれそうだから、一応書いとく。
15世界@名無史さん:02/06/06 02:48
キリスト教ではなく、ギリシア起源という御仁はいらっしゃらない?
16名無しさん:02/06/06 08:58
タナトスとエトス
17世界@名無史さん:02/06/06 09:11
成田空港は何故拡張できないか?
18世界@名無史さん:02/06/06 09:40
>>15
古代ギリシアの公共性と、西欧近代の公共概念とは直結していない
ように思えますが。
(思想的影響はあるけど)
19世界@名無史さん:02/06/06 21:39
ハーバーマスの公共圏は「公権力に対しての政治的影響力を自覚した世論の形成」って話が出てます。(>>14

>中世に自治都市があって、そこで市議会などがいろんな取り決めをしていた伝統(>>7
って話も出てます。
こっちは、領主の統治権に対してって事だと思います。

この辺が西欧の公共性概念の特徴(の1つ)で、西欧式の個人主義とも関係してる、と予想します。

こうした面を、古代ギリシアの公共性概念と比較・対照すると、どんなことが言えるでしょうか?・


20世界@名無史さん:02/06/07 02:15
っていうか、レポートのネタ探し?
21世界@名無史さん:02/06/07 15:28
>>19
西欧中世の場合、領主の統治権に対してということなら、
古代ギリシアの場合は、貴族層の政権独占に対して、ということかな?
市民はデーモス(区)に登録されていて、民会・評議会に出席し、
さまざまな公共の経費(劇の上演・三段櫂船の艤装・祭儀の経費など)は
富裕な市民が負担し、その役目を立派に果たせば、市民にとって大きな名誉であり、
社会的信用も高まる。
陪審員は手当てを支給され、貧しい市民でも陪審員として市民の権利が行使できる。
22世界@名無史さん:02/06/07 15:57
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23世界@名無史さん:02/06/07 16:00
観光旅行でヨーロッパに行くと、道にいっぱい犬の糞が落ちてるんだけど、
こういうのは公共性とは関係がないのか?
24世界@名無史さん:02/06/07 18:06
>>23
どのような経緯で西欧流のものが形成されたか?
とは、たいして関係しないと思われ。
25世界@名無史さん:02/06/07 19:59
まず、宗教改革を経て、信教の自由が認められると、「信仰」はプライベートな
ものになり、一方、教会組織は公的組織のひとつになる。
その後の絶対君主制の時代には、国家のための費用と、君主の私的な財産が
分離される。
市民層が政治集団となり、最終的には市民革命で君主から権力を奪取する。
中世以降の流れをおおまかにいうと、これでいいのかな?
26世界@名無史さん:02/06/07 20:51
>>25
宗教改革直後の「信教の自由」は、旧教と新教の選択の自由にすぎなかったから。
>「信仰」がプライベートなものになる
のには、もう少し紆余曲折があった。
その後の、絶対君主制時代に王権神授説なんてのが編まれるわけだから。

>市民層が政治集団となり、最終的には市民革命で君主から権力を奪取する
と同時に、教会からも国家からも思想の自由、良心の自由を獲得したわけで
これが西欧式の個人主義と公共性の絡みになってく。

そう整理しないと、例えば「良心的徴兵拒否」なんてコンセプトが易々と成り立つとは思えない。
27世界@名無史さん:02/06/08 10:38
西欧での、個人と親族の関係だけど、古ゲルマン人の社会では、
個人が親族の中に埋没してたんですよね。
中世に入っても、しばらくはそういう考え方が続いている。
西欧人が個人と親族を別のものと考えるようになったのはいつごろからなんだろ。
28世界@名無史さん:02/06/08 19:38
>>27
>西欧人が個人と親族を別のものと考えるようになったのはいつごろからなんだろ。

そこよくわからないとこですよね。

エマニュエル・トッドの『新ヨーロッパ大全』が参考になりそうな気がしてるんですが。
なにせ分厚いもんで、困ってしまいます。

昔は、啓蒙専制君主が個人の先駆形態として理想化されましたけど。
今はアリエスの研究とか無視できないと思います。
「子供の発見」には批判がたくさんあるようですが、
批判的に取り扱っても、西欧近世の都市部で、家族の生活形態が近代のそれとは違っていた、という発見は無視し難いと思います。

親族関係から核家族的な生活形態が恒常的に分離する過程と、西欧型個人の理念像の普及が並行してるだろう、って見通しは持ってもよいと思うのですが。
どうでしょうか?
29世界@名無史さん:02/06/08 21:59
>>28
むずかしいですよね。
私は、少なくとも農耕社会においては、個人主義というのはそれほど育たないと
思うんです。
ただ、都市化したからといって、すぐに個人主義が生まれてくるわけでは
ないんですよね。
それは、アジア諸国における都市化の例を見ても分かると思います。
30世界@名無史さん:02/06/08 23:44
>27
>西欧人が個人と親族を別のものと考えるようになったのはいつごろからなんだろ。

余談なんだけど、ハスキンズの「12世紀ルネサンス」だったかで、
個を現すような肖像画なり胸像なりが欧州中世史上初めて登場したのは表題のその時期だ、
という話があるんだけど。

イングランド王家だと、14世紀末以降、ランカスター朝以降は
はっきりとその君主の独特の風貌を描いた同時代の肖像画が残っているが、
それ以前、例えばエドワード1世だと「〜をモデルにとったらしい」というような
あやふやなものしか残っていない。
31世界@名無史さん:02/06/08 23:51
個人主義と公共性というものは、矛盾対立項、つまり二元論的概念。
この二元論的概念を意識化したのが近代哲学だろう。
デカルト以降ではないのか。
と、言ってみたりするが…
32世界@名無史さん:02/06/09 00:05
今日NHKでミスタービーンやってたよ。
その中でミスタービーンが海水浴場に行くシーンがあったんだけど,
車で海水浴場って看板をなぎ倒して駐車してた。

ただのギャグとしてでなくていかにもイギリス的だなーって感じで思わず笑ったよ。
人から強制されるのが大嫌い。だから公共の看板さえ車で倒しちゃう。(笑)

ミスタービーンが流行したのって個人主義と公共性ってゆう矛盾を痛快に笑い飛ばしてくれるから,
大衆にウケたのかもしんないね。
33世界@名無史さん:02/06/09 13:59
>>32
ヨーロッパは、日本と違って一元化された社会、という印象を受けますが、
これは単にキリスト教の影響だけではないような気がします。
社会的な規範というものが強くて、わがままが押し通せないようになっている
社会。(少なくとも最近まではそういう考え方が生きていたように思います)
34世界@名無史さん:02/06/09 18:26
>>32
>個人主義と公共性の間でうまくバランスをとるのが理想なんでしょうけどね。
個人主義のほうに傾きすぎると、単なるエゴばかりの社会になってしまうし、
逆に公共性のほうに傾きすぎると、全体主義とあまり変わらない社会になるし。


35世界@名無史さん:02/06/11 16:29
>>10
確かに中国や韓国、日本にはそういう傾向が強いな。
ところでフィリピンとか、東南アジアの国の人間関係はどうなんだろう。
やっぱり身内と他人とでは扱いに差があるんだろうか。
36世界@名無史さん:02/06/16 21:04
>>35
華人(中国人)社会にはあんまり公共概念がなさそう。
シンガポールはゴミをポイ捨てすると罰金。
それで国の清潔さが保たれてる。
高層住宅の窓から使った後のタンポンを捨てたり、果ては壊れた家電製品を捨てて、
それが下を歩いている人に当たって死んだことまであるらしい。
37世界@名無史さん:02/07/21 01:33
良スレage
38世界@名無史さん:02/07/21 02:41
西欧的な公共性とは、市民社会内部に形成され国家と対峙する
というイメージが強いが、日本の場合は国家領域内に取り込ま
れているという印象が強い。
個人の自由・権利を国家の側が「公共の福祉」を掲げて抑圧する
場合もある(成田の土地収容問題もこれが発端)
公共性とは、「お上」が保持・体現すべきものという発想。

日本社会が伝統的に共同体的性格をもち、共同体の首長(代表者)
がその成員たちの利益・安全を保障するという在り方の裡に
公共性的内容も含まれてしまっているように思われる。

なお、公共性は公と私の問題とも密接に関係すると思われ。
39世界@名無史さん:02/07/31 16:32
日本に近代個人主義は未だ定着していない?
40世界@名無史さん:02/07/31 16:54
>>39
>日本に近代個人主義は未だ定着していない?

定着云々というより、西欧的個人主義と日本型個人主義とでは性格
が違うのではという問題。
西欧型個人主義では、対等な自立的個人という単位モデルを前提に、
それらが契約関係を通じて社会を形成するという形態。
日本では共同体(集団)という単位モデルが前提となり、その首長
も含めた成員たちがそれぞれの役割分担を通して社会を形成すると
いう形態。
共同体(集団)内の個人は必ずしも平等・自立的ではないが、他方で
首長も含めその構成員が共同体の維持に責任をもつという意味では
ある種の平等性があるのではないかと。

41世界@名無史さん:02/07/31 17:12
>40
しかし近代個人主義はそうゆう共同体主義的中間集団を
超克の対象とみなすんじゃないの?
42世界@名無史さん:02/07/31 18:16
>>共同体(集団)内の個人は必ずしも平等・自立的ではないが、他方で
首長も含めその構成員が共同体の維持に責任をもつという意味では
ある種の平等性があるのではないかと。

こういうのって、要するに「ムラ社会」というやつかな。
いい例が相撲茶屋の世界だけど。
一旦そのなかにはいってしまえば、あとはその共同体がそこに所属する
人間を守ってくれ、利益もそこそこに分配してくれると。
4340:02/07/31 19:09
>>41
>近代個人主義はそうゆう共同体主義的中間集団を
>超克の対象とみなすんじゃないの?
理念的にはそうだし、西欧社会は実際に中間集団を排除したが、
日本にとって西欧化は外来的であったため、(西欧を基準とすれば)
やや変形した形態となったのでは。ただ、これは日本の伝統社会の
西欧化という問題で、必ずしも後進性や前近代性とばかりは言えない
かと。

>>42
簡単に云うと「ムラ社会」(あまりプラスイメージではないけど)
だた、共同体構成員の間でも契約的関係とは違ったかたちでの
相互を律するルールはあると思われ。
例:西欧だと契約違反→訴訟による処罰か賠償 
  日本だと共同体秩序の破壊者→調停的和解(あるいはムラ八分など
                の制裁も含む)
44世界@名無史さん:02/08/03 18:48
>>38
確かに英語の辞書でpublicityという言葉を引くと、「人民」が原義と
書かれてますね。
ドイツ語のOffentlichkeitは「開かれている」という意味らしいけど。
45世界@名無史さん:02/08/07 21:39
>43
けど日本のインテリ層はそれを一貫して
後進性や前近代性とみなしてきたよなぁ(マズー
46世界@名無史さん:02/08/07 22:26
>>45
今まで日本社会のこういう特質は近代化を阻害してきたといわれていたけど、
それほど足を引っ張ってきたわけではないかもしれない。
ただ、これからもこのやり方でずっと行けるかはまた別の問題だと思うけど。
4740:02/08/07 22:40
>>45>>46
先の指摘は、必ずしも日本の近代社会の美化を意図しているわけで
はないので御注意を。
要は、西欧のみを基準としてしまうと、西欧以外の社会との比較検
討が偏ったものになり、その社会の特質が見えなくなってしまうの
ではという点を強調したかったので。
例えば中国などは歴史的に公共性は存在しないといったような誤解。
溝口雄三『公と私』(一語の辞典 三省堂)は、中国の公私と日本
の公私との歴史的比較を行っており、非常に参考となりました。
48世界@名無史さん:02/08/07 22:55
中国には「家」(チア)という概念があるけど、その範囲は必ずしも
一定していないみたい。
同じ家に住む集団を指すこともあれば、広く宗族全体を指す場合もある。
また、「家」には特定の生業というものもない。

さまざまな姓の人々が住む村で、「街坊の輩」といって家族と同様の
世代秩序を想定し、伯父・甥などの呼称で呼び合うこともある。
中国では人民を「皇上の赤子」といったり、知県を「父母官」というように、
同族の人に対するような一体的な愛情を天下国家に拡大してゆくことが
理想だったらしい。
4940:02/08/08 00:10
>>48
日本の「家」の場合は、家名・家業・家産の三位一体ですね。
家産は中国のように分割相続ではなく、「家」の当主が代々受け継いでい
くというかたち。
また中国のように血縁関係(異姓不養・同姓不婚の原則)は重視されず、
当主は(血縁関係の全くない)養子でも構わないわけです。要するに、「家」
という組織が連綿と続いていくことが重要(万世一系!?)という考え方(当主
機関説とでも云うべきかと)。
だから中国(儒教)の徳目である長幼の序という点も、日本では家督を次の当
主に譲渡した父親(隠居)は、「家」の中での実権を失うことになります。
また中国の宗族に相当する同族団の内には、商家の場合など元奉公人などの
「家来筋」の者も存在し、擬制的な血縁団体と云うことになります。
50世界@名無史さん:02/08/08 00:55
>>49
江戸期の大家の当主なんかは、引退に際して跡取りと
かなり詳細な契約書を残していますよね

また、大正・昭和期には、完成された西欧型の株主資本主義の元
富の社会的還元も結構あった(倉敷の大原美術館など)

西欧とまったく同じというわけではないけど、日本にも契約に基づく
人間関係や社会的貢献の概念はあったと思う

私は、日本から個人主義や公共性がないのは、

 民族性ゆえそもそもそういう概念がなく、さらに近代を無理やり
 導入したために虻蜂取らずで滅茶苦茶になっているというよりは

 日本にも契約を基盤にした社会生活やコミュニティーへの還元と
 いう概念はあったが
 1930-の総動員体制と、それを引き継いだ高度成長が、それらを
 スポイルしてしまい
 後には、親方日の丸の無責任体制(ムラ社会)だけがのこった

と思う。
5140:02/08/08 01:54
>>50
>西欧とまったく同じというわけではないけど、日本にも契約に基づく
>人間関係や社会的貢献の概念はあったと思う
御指摘の点は同感です。

>1930-の総動員体制と、それを引き継いだ高度成長が、それらを
>スポイルしてしまい
>後には、親方日の丸の無責任体制(ムラ社会)だけがのこった
前半についてはある程度当たっているかと。
確かに1930年代は大きな分岐点で、それまであった伝統と近代化
の均衡が大きく崩れたと言えます(政治・思想的には極端な復古
主義を唱えながら、経済・社会制度は著しく国家的に集中。戦後は
前者は自由・民主主義に転換したが、後者は戦前・戦中の体制を引
き継ぎながら高度成長へ突入)。
ただ、伝統性というのは一見雲散霧消したように見えながら、他方
で意外とシブトイ復元力もありますから、案外思いもよらないよう
なかたちで再結晶する場合もあるのではと考えていますが。
52世界@名無史さん:02/08/08 11:07
明末の社会について書かれた本に、中国における市民について書かれた箇所があるので
引用してみます。
中国では、16世紀後半から「民変」とよばれる都市民衆暴動がしばしば
起こっているんですよね。
で、当時の資料の中では民変に参加した都市住民のことを「市民」「市人」
などと呼んでいて、現代の研究者の中にもこうした民変を「市民運動」
「市民闘争」と呼ぶ人もいます。
確かに出版業の隆盛による情報化、広範な人々の間での政治的関心の高まり、
「世論」の重視といった点では17〜18世紀西欧の市民社会に似ていると
いえなくもないです。
ただ、ハーバーマスなど描く西欧市民社会の理念的モデルとの違いは、
明末地方社会の政治的高揚を支えたものが「論議する公衆」の「批判的理性」
というより、勧善懲悪的なドラマへの熱狂的参与であったという点です。
カントのいう「未成年状態からの脱却」としての啓蒙の代わりに、「無知無学」の
赤ん坊のごとき庶民のイメージが肯定的に強調されたことは、一種の逆説とも見えます。
純真無垢な正義感にあふれた者たちが「天に代わって道を行い」悪者たちをやっつける、
こういう政治スタイルの質は、現代中国における「大衆路線」や「個人崇拝」といったもの
のなかに引き継がれているのかもしれません。
53世界@名無史さん:02/08/08 20:57
>>50
江戸時代というのは、意外に合理的な面がありますよね。
たとえば田舎では、本宅と隠居があって、老夫婦が息子に家督を譲った後、
家も分けて一緒に住むということがあったらしいです。
ただし養鶏だけは隠居料として保留するとか、田圃の何枚分かは隠居に収める
という契約とか。

>>49
中国や朝鮮半島の社会について、よく「中間団体の自立性の弱さ」ということを
指摘する人がいますが、わたしは西欧のように多数の独立した自由人や中小の
権力(中間団体)が存在し、かつそれらが自立的であるという社会のほうが
世界的にみれば特殊であるような気がします。
54世界@名無史さん:02/08/19 13:34
個人や公共性と関係あるかどうか分かりませんが・・・
日本、あるいはアジアの国における市民運動と、西欧の市民運動との間に
ちがいはありますか?
日本で市民運動というと、「現実離れしている」「偽善者」「輸入モノ」
といったいかがわしいイメージがありますが。
55世界@名無史さん :02/08/19 14:37
>>54
日本の市民運動には、左翼政党や労組などによる組織や動員とい
う色彩がついてまわり、これが一部にマイナスイメージを与えて
いる。
西欧などでは、あくまで自発的な組織化と普通の市民の自発的な
参加というイメージ。
両者の違いは、やはり民主主義(デモクラシー)の伝統の厚さの
違いがあるのでは。
尤も最近の若者・主婦たちの市民運動への参加状況を見ると、次第
に西欧的な自らの主張や要求に根ざした自由なかたちの参加も増加
しているように思われる。やがては西欧の市民運動的な形態へと接
近していくのではないかと思われますが。
56世界@名無史さん:02/08/19 15:15
>>55
市民社会の政治学について研究している人というと、
千葉眞、大嶽秀夫、加藤節、最上敏樹、加藤哲郎などかな?
57世界@名無史さん:02/08/19 15:31
40の「西欧型個人主義では、対等な自立的個人という単位モデルを前提に、
それらが契約関係を通じて社会を形成するという形態」
 というのが、個人主義と公共性の両立を支えていると思う。
この考え方を支えるのが「フリーライダー」を忌み嫌う価値観だろう。
 ただ、いつそれが発生したのかがわからない。
58世界@名無史さん:02/08/29 08:21
>>57
個人主義と公共性というのは、タライとその中の水みたいな関係なのかな?
水(個人)も、タライ(公共性)がなければ成立しないという関係。
権利と義務の観念については、アメリカ独立戦争のときに
「代表なければ課税なし」
ということをいって本国イギリスに抗議してたから、このころには成立
してたんだろうけど。
59世界@名無史さん:02/08/29 10:41
>>54>日本、あるいはアジアの国における市民運動と、西欧の市民運動との間に
>ちがいはありますか?

思想史(?)それも印象論的な話になるのが恐縮だが。

キリスト教社会におけるボランティア、
あるいは、
イスラム教社会におけるザカート、
にあたるような伝統が希薄、と言った印象がある。
仮にこの印象が妥当だとしたら「市民運動の違い」や「公共性」にも関係して来ないだろうか?

どうも日本の公共活動は、「弱者に対する施し」と位置づけられがちで、
ボランティアやザカートのように、行なう者の益(功徳)という捉え方は
希薄なように思えるのだが。

印象論なので、批判は甘んじて受けるが、
批判よりは補整意見を教えてもらえるとありがたい。
60世界@名無史さん:02/08/29 17:18

 中世のキリスト教社会では「貧者への施しが現世における最大の功徳」と
されていましたが、現在の西洋のボランティアも基本的にはこの精神を基礎にし
ていると思います。>>59さんがおっしゃったように、行なう者の益(功徳)
が人と人を結び付ける媒介になり、公共性を作っているのが西洋の社会で、
その根底にはキリスト教があります。では日本の場合はどうかと言うと(私
自身が日本人でありながら)その実は良く分からないんです。「功徳」という
発想も多少はあるとは思いますが・・・私の印象では「情」というものが持つ
力も結構大きいような気がしますが、どうなのでしょう。
61世界@名無史さん:02/08/29 18:56
>>60
仏教の布施は布施行といって、行の一つであり、布施を施したほうが合掌することに
なってるそうです。
つまり、お礼は布施をあげた人が言うと。
インドなんかでは物乞いにお金を上げても、もらった相手はお礼をいわないらしいです。
日本でも昔はそういう感覚があったのかもしれないけど、現代の日本社会を
みる限り、そういう感覚は確かに希薄になってますね。
62世界@名無史さん:02/08/30 05:58
>>59
日本でも前近代社会では、一定の集団に「勧進」(無償の喜捨)行為の権
利が認められ、農村や都市の共同体がこれに応じるのは、いわば(義務と
は云えないまでも)社会慣行としてあった。

明治以降、建前上は個人を単位とする社会が生まれて、共同体的関係が弛
緩すると、社会から脱落した部分は、救貧院などに強制収容(隔離)され、
国家や社会(篤志家)の恩恵により保護される対象となる。
この辺から、
>日本の公共活動は、「弱者に対する施し」と位置づけられがち
という傾向性が強よまったのではないか。
いわば、伝統社会がそれなりに保持してきた公共性というものが、
西洋席近代化の中で、解体していき、利己主義的な個人(集団)が
登場してくると、それが国家領域の裡に包摂されていくという図式。
63世界@名無史さん:02/09/03 23:39
アジア人は、面子をつぶされたり、人前で恥をかかされたりするとひどく
恨みに思うけど、これも個人が確立せず、集団の中で生きていることと
何か関係があるのかなあ。
面子をつぶされて腹を立てるのは西洋人も同じだろうけど、アジア人は
特にそういう傾向が強いような気がする。
64世界@名無史さん:02/09/05 10:35
>>62
欧米では、孤児を引き取って、養子にして育てるということも多いけど、
これもやっぱりキリスト教からきている?
それとも西洋人はアジア人ほど血のつながりということに重きをおかないから?
65世界@名無史さん:02/09/12 06:48
今回の同時テロ事件で強く疑問に感じるんだけど
個人主義であるはずの欧米人がいざという時「わが身を国家に捧ぐ」ていう心情、
これの由来は一体何処に求められるでしょうか
狩猟民族?アングロサクソン?キリスト教?市民社会?
66世界@名無史さん:02/09/12 06:52
>>63
アメリカ人ならぶちきれますけど何か?
ちなみにアジア人ってなに人?
67世界@名無史さん:02/09/12 06:58
>>66
アジア人(西洋人以外)はその場でブチキレないってことでしょ
68世界@名無史さん:02/09/12 07:38
>>67
西洋人も恨みに思いますよ。
69世界@名無史さん:02/09/12 14:03
>>65
それだと、個人主義じゃなくて単なる利己主義になってしまうような・・・
欧米人の場合、「義務を果たしてこそ、権利も与えられる」という考えが
あるからじゃないかな。
70世界@名無史さん:02/09/12 18:45
>>69
なるほど。となると近代市民社会に求められそうですね
彼ら=成熟した市民の政治への積極性が見て取れます
71世界@名無史さん:02/09/21 20:15
よく、「個性を伸ばす教育」ということが言われますが、そもそも個性というのは
学校教育によって簡単に身につけられるようなものなのでしょうか?
そりゃ、「自己主張を強くする教育」はできるかもしれないけど。
72世界@名無史さん:02/10/01 19:48
>>63
>>67
東南アジアに「アモック」という言葉があるけど、アジア人の場合、
普段のおとなしい態度と、キレたときの激情のギャップが大きいような気がする。
73:02/10/01 20:21
欧米人ほど他人との間に壁を作りたがるってことなのじゃないの?
74:02/10/01 20:22
欧米人ほど他人との間に壁を作りたがるってことなんじゃないの?
75世界@名無史さん:02/10/16 07:41
age
76世界@名無史さん:02/10/16 08:22
>>71
個性を極力潰さないことを努力目標とする教育 ならありうると思われ。
77世界@名無史さん:02/10/30 23:28
age
78世界@名無史さん:02/10/31 00:16
>>76
その教育で、どうやっておとなしく働く人間を大量生産するのかね
79世界@名無史さん:02/11/12 23:04
age
80