真の名将とは?
皆の考えを語ってくれ。
2 :
世界@名無史さん:02/05/29 08:54
弓聖 李広利。
3 :
世界@名無史さん:02/05/29 09:40
楽毅 as No,1
4 :
世界@名無史さん:02/05/29 10:23
5 :
世界@名無史さん:02/05/29 10:24
>>1 時代区分を明確にしたほうがいいぞ。
春秋期と戦国期では、ひとくちに戦争といっても、様式から仕来りまで
大きく異なる。
細かくいえば、春秋期、戦国期ともに前(中)後期に分けた方がいい。
そのあたりは、
>>1にお任せする。
もうひとついわせてもらうなら、名将の定義も明確にしたほうがいい。
白起は、戦術家・前線指揮官としては最高水準の名将だが、企画・構想力や
戦略面での能力を考慮すれば二線級になる。
6 :
世界@名無史さん:02/05/29 10:31
廉破さん。
あぽな王がいなけりゃあの蓁もなんのその!
>>5 適切なスレ有難うございます。
それではお言葉に甘えて戦国中期〜蓁とさせていただきます。
8 :
世界@名無史さん:02/05/29 10:42
>>7 重ねての意見でもうしわけないが、中期とは、厳密にどのあたりからで?
個人で、認識や解釈が異なるかと。
9 :
世界@名無史さん:02/05/29 11:59
学歴板風に
呉起>白起>楽毅>王セン=田単>・・・
なんてしてみたり
>>8 あえて‘ここ’とは限定(個々の感覚に任せます)
しないでおきたく思います。
11 :
世界@名無史さん:02/05/29 12:28
名宰相(参謀)も名将に入れてもよいのでは?
孫武がそうであったように、、、、、。
12 :
世界@名無史さん:02/05/29 13:07
>>1 逸脱するけど許して。
>>11 孫武ってどーよ?孫賓の方が優れ物でしょ?
>>12 確かに逸話は孫賓の方が多いけど、孫武の兵法を発展させて
成功したんでは?
>>1スマソ。
14 :
12(孫武):02/05/29 13:18
>>1 再度許して。
>>11-13 そういう話になっちゃうと‘呂尚が最高’ってなことになんないか?
>>14 管仲が最高になると思う
呂尚は半ば伝説だからなあ
呉起みたいなオールラウンダーはどうなのよ?
16 :
世界@名無史さん:02/05/29 13:34
太公望は春秋時代の人間ですらないよ
17 :
世界@名無史さん:02/05/29 13:35
将軍としては白起が最強でないかな、最後が良くないがそこが
また武辺物。
その白起を破った趙奢もすてがたいが、、、、
18 :
世界@名無史さん:02/05/29 13:38
>>13 孫賓兵法は戦略を重視する孫武と違って
陣形や地勢など実戦的な戦術重視の兵法なので、
孫子の単なる発展形では無いよ。
19 :
12(孫武):02/05/29 13:46
>>15 管仲は宰相としては抜群とは思うが、桓公とセット
で考えたいなー。
斉を一大強国にした功績は大きいですね。
呉起については最後のエピソードしか知らないので、、、
どなたか教えてほしい。
20 :
世界@名無史さん:02/05/29 13:57
>>19 >桓公とセットで考えたいなー。
確かに言える。
名将も名宰相も権力者や実力者の引き立てが
なければ成功しないね。
21 :
世界@名無史さん:02/05/29 14:08
項羽は?おじさんが生きていれば・・・・。
>>17 「将軍として」では判断基準にはならないと思う。
戦術家として、ということでよろしいか?
初耳なのだが、趙奢って、白起を破っていたか?
>>19 管仲は、系列でいうと呉起と近いかもしれない。
法制を重視、軍事力の強化、生産力の増大化…など、合理性に重点をおいている。
管仲自身、政治は無論、外交、軍事、人事等々、ほぼ万能だったと思う。
>>22 たしか’あつ与?’(漢字忘れた)で、白起は一敗地に
まみれてるはず。
24 :
世界@名無史さん:02/05/29 14:30
李牧とかイイ線いくと思うんだが
25 :
世界@名無史さん:02/05/29 14:40
>>21 項羽?武将としては門外不出とは思うが、
名将とは言いがたいね。
26 :
世界@名無史さん:02/05/29 14:44
春秋戦国時代って何でこんなにわんさか名将名相が出まくったんだろう。
27 :
世界@名無史さん:02/05/29 14:45
白起に名前がよく出ますが、秦の国力と当時の他の国々
とを比べると、戦う前からアドバンテージがないですか?
相互互角の条件で対峙した場合と想定するとどうかな、、、
ナンセンス?
29 :
世界@名無史さん:02/05/29 14:48
>>23 閼与で大敗を喫したのは、胡陽だと思われる。
>>25 それ以前に、項羽は春秋・戦国期に該当しないが…。
30 :
世界@名無史さん:02/05/29 14:50
>>28 ナンセンスかと。
それが適わないからこそ、名将たりうるわけで。
31 :
世界@名無史さん:02/05/29 14:51
>>29 やや!私の読んだ書物が違っていましたか!
ありがとうございます。
あと、蓁朝成立までであるなら項羽は良いのでは。
33 :
世界@名無史さん:02/05/29 15:00
>>32 白起自身が前線指揮した訳ではないが、あながち
間違いではないですぜ!
34 :
世界@名無史さん:02/05/29 15:01
>>32 スレのタイトルを、よく読んでください。
ついでに、秦帝国成立までに、項羽の事績は皆無といっていいのでは?
>>34 漢と勘違いしておりました。
真に申し訳ない。
36 :
世界@名無史さん:02/05/29 15:25
>>31 中夏は時代を経るごとにダメになってきたんだね。
37 :
世界@名無史さん:02/05/29 15:26
廉破、廉破、廉破。
38 :
世界@名無史さん:02/05/29 15:29
39 :
世界@名無史さん:02/05/29 15:33
>>1
脱線するけどごめん。
>>36 んー清の乾隆帝までが華だったのね、、まーそんでも
ながーい間すごかった。
40 :
世界@名無史さん:02/05/29 15:37
廉頗、廉頗、廉頗、廉頗、、、ププッ。
41 :
世界@名無史さん:02/05/29 16:01
れんぱっ、れんぱっ、れんぱ、れんぱ、れんぱっ!!
42 :
世界@名無史さん:02/05/29 16:05
李広とかどうよ
敵からも高い評価うけてたらしいけど
43 :
世界@名無史さん:02/05/29 16:09
>>42 あのさ、春秋戦国の有名武将で李広
っているの?漢の李広じゃなくて。
44 :
世界@名無史さん:02/05/29 16:30
45 :
世界@名無史さん:02/05/29 16:59
>>44 李広利もちと違うぞ。
李広は李陵の祖父で、弓の名手だ。
大分脱線したが、とりあえず
>>42は勘違いで決定か?
46 :
世界@名無史さん:02/05/29 17:11
文侯と呉起はふたりで最強!
桓公と管仲はふたりで最強!
昭王と白起はふたりで最強だったのに・・・。
孝成王と廉頗かわいそう!
47 :
世界@名無史さん:02/05/29 17:22
あのー長平の戦いで白起が趙兵20万?40万?を生き埋め
にしたってなっているよね?
そんなに人多くないよね?ほんとのところはどのくらい
なんでしょうか、2〜3千人くらいなのでは。
あ!一応スレに沿っておきますので平原君でよろしく。
50 :
世界@名無史さん:02/05/29 17:25
51 :
世界@名無史さん:02/05/29 17:29
>>46 孝成王はそんなに暗愚ではなかったと思うけど
手練手管に疎かったんでは?
52 :
世界@名無史さん:02/05/29 17:32
>>51 弱肉強食の戦国では手練手管に疎い君主は暗愚と
表現してよい。
53 :
世界@名無史さん:02/05/29 17:41
平原君って・・・孟嘗君や信陵君ならともかく。
54 :
世界@名無史さん:02/05/29 17:45
奇貨おくべし。
55 :
世界@名無史さん:02/05/29 17:48
>>47 春秋戦国の頃の中華の総人口は2000万人くらいだったらしい。
それにしても、前3世紀前半だけをとってみても
白起やら楽毅やら孟嘗君やらが
同じ時に並存してたんだから春秋戦国時代ってすごい時代だなあと思う。
他にも趙の武霊王とかもいたし。
めっちゃバラエティに富んでると言うか面白い。
57 :
世界@名無史さん:02/05/29 20:46
趙括「シミュレーションなら俺が最強だぜ!ガハハ!!」
58 :
世界@名無史さん:02/05/29 21:07
密かに信陵君が最強という説はある。
そういえば白起は局地戦は強いが大局的な視野にかけると宮城谷に批判されてたな。
ハンショの口を借りてだが・・・
59 :
世界@名無史さん:02/05/29 21:27
范蠡はどうよ
60 :
世界@名無史さん:02/05/30 08:30
猛将タイプって最後が良くないのが多いような・・・
その点考えると‘オウセン’さんが最高と思えてならん。
61 :
世界@名無史さん:02/05/30 08:31
62 :
世界@名無史さん:02/05/30 08:59
趙括=馬ショク
63 :
世界@名無史さん:02/05/30 09:03
>>60 将ではないがハンショの処世術もたいしたもんだと思われ。
犬猿の仲の白起とは対照的に。
64 :
世界@名無史さん:02/05/30 09:58
戦術で語れば白起がいいと思うが、戦略となると、、、ん〜
長平の戦いの謀略は誰が立案したの?
あほだが、宋の襄公が漢です。
65 :
世界@名無史さん:02/05/30 10:38
>>64 春秋時代でしょ?
そんなら晋の文侯の方がロマンがあるよー。
66 :
世界@名無史さん:02/05/30 10:57
>>65 文公は劉備とよく似てる。
よく言えば人徳の人、悪く言えば優柔不断。
配下に有能な人物がいたのもラッキー!
斉や楚や蓁が協力してくれたのもラッキー!
(この時期、大国の君主は器がデカカッタ)
晋が混乱してたおかげで帰国できたわけでこれまたラッキー!!
68 :
世界@名無史さん:02/05/30 11:21
蘇蓁や張儀って出てこないんですが・・・。
彼らの評価は?遊説家ということでダメ?
69 :
世界@名無史さん:02/05/30 11:29
いいかげん、スレの主旨に沿った展開に戻ってもらいたいが…。
>>68 厳密には、縦横家かと。
70 :
世界@名無史さん:02/05/30 11:29
>>1 真の名将となると・・・リンショウ如(これ名宰相?)
これで完璧。
>>68 ダメじゃないが、、、名将ではない。
71 :
世界@名無史さん:02/05/30 11:37
>>70 藺相如は軍事面での功績もあるが、名将ではなく名相かと。
>ダメじゃないが、、、名将ではない。
はっきりいってダメだと思うが…。
>>69 私が襄公の名前を出したせいで・・スマソ。
73 :
世界@名無史さん:02/05/30 11:44
>>70 それを言うなら趙奢や廉頗のほうがずーっと名将。
この2人が蓁にいれば、昭王の時代に蓁の統一が可能。
74 :
世界@名無史さん:02/05/30 12:02
>>73 ほんの少々、極論だと思う。
昭襄王の治世期は魏冉による軍事力の私的濫用が多く、事実、宋攻略や
魏、韓との戦争では、割譲させた城邑を私物化している例がみられる。
つまり、この時期の秦には、確固とした統一国家としての具体的な
構想を確立しきれていなかった、と考える方が妥当。
単純に中華全土を秦の版図とする、ということであれば、可能性は幾分かは
あったかもしれない。
75 :
世界@名無史さん:02/05/30 12:02
楚って名将は居ね〜んですか?だれかおしえてくれ。
あと項燕は名将なんでしょうかね、、あまり文献に出てこんが・・・・・。
76 :
世界@名無史さん:02/05/30 12:02
>>73 つーか廉破と趙奢がいたから趙は秦の侵略に持ちこたえていられたって感じだな。
まあリン相如の働きが一番大きいと思うが。
でもリン相如はたしかに名将というより名相だね。
前出の二人とは質が違うと思われ。
77 :
世界@名無史さん:02/05/30 12:04
78 :
世界@名無史さん:02/05/30 12:13
>>75 懐王〜頃襄王の治世期に、昭雎という名将がいる。
楚は呉起の国政改革が消滅してからは、また以前の、能力よりも門閥偏重
とでもいうべき政体に戻っている。
春申君は対象外かもしれないが、やはり退嬰的な国体が、新進気鋭な人材を
育てる土壌成形を拒んでいると思われる。
79 :
世界@名無史さん:02/05/30 12:27
>>1 ちょっと脱線します。
>>74 統一国家としての・・・・とありますが、それが確立されたのは
蓁王政の時代と考えて良いでしょうか?法家思想も関連ありますか?
法家思想が絡んでいるとなれば、商オウも無関係でないと思いますが。
80 :
世界@名無史さん:02/05/30 12:40
名将といっても他国に移って成功する人もいれば
ダメになる人もいる。 運の良し悪しで名将っていわれる人事多くない?。
81 :
世界@名無史さん:02/05/30 12:41
ここではスレ違いな話ではあろうが…。
>>79 商鞅が孝公に説いたのは、単に強国化への案だったと思う。
始皇帝による統一後の構想を企画したのは、始皇帝の代(秦王期)だと
思われる。
韓非子の影響が濃厚なのは、疑いないはず。
82 :
世界@名無史さん:02/05/30 12:51
>>80 そういった意味では廉頗は尻すぼみ・・・趙奢が1番!ずーっと
下がって趙括は500番くらいと言うことで。
李牧だろ
確固たる後ろ盾も無く、孤軍奮闘で趙の北方経営支えてたんだぞ
しかも趙の滅亡が李牧の謀殺からわずか数ヵ月後だなんて
対北方民族との戦い方を完成させたという点で最強
84 :
世界@名無史さん:02/05/30 13:35
>>83 李牧は局地戦での守将では最強だろうね。
ただ、全軍の総指揮官としての業績は全く無いからなぁ。
85 :
世界@名無史さん:02/05/30 13:52
>>80 つーか歴史上の物事・人物に対する評価自体「運」の占めるパーセンテージがかなりでかいよ。
86 :
世界@名無史さん:02/05/30 14:56
周王室にとどめをさした人物は?その人こそ名将にふさわしい!
88 :
世界@名無史さん:02/05/30 15:33
89 :
世界@名無史さん:02/05/30 15:36
誰かたのむ・・・名将の定義をかたっちくれ〜。
その定義に沿って話さないとまとまらんよーな気がする。
お願い!!!
90 :
世界@名無史さん:02/05/30 15:51
>>89 定義?そんなもん無い!逸話が多く名の知れたものが名将でちゅう事で
ひとつ宜しく。
んで、ホウケン殿に決まり、最後がなかなかよろしい。
91 :
世界@名無史さん:02/05/30 15:52
時代設定上韓信を推挙できないのが悲しいな。
名将の定義も軍事力もなしで語れとはちと乱暴のような気もするが
>>90 はぁ??
あなた日本脳炎にかかってない?
レス返すのも馬鹿らしーが悪いことは言わない保健所へ逝け。
93 :
世界@名無史さん:02/05/30 16:07
>>89 91さんが言うように定義ずけは難しいな。
できる方おられますか?
そうなると90さんの言う>逸話・・・名の知れた・・・が
基準になるのも仕方ないようにも思われ・・・・。
でも>ホウケン殿・・・は逝ってもらいたい。
94 :
世界@名無史さん:02/05/30 16:16
>>88 とりあえず、史記の李将軍伝には
「其 先 曰 李 信 , 秦 時 為 將」
としか書いてないので違うと思われ。
95 :
世界@名無史さん:02/05/30 16:17
将軍−白起
軍師−孫賓
宰相−管仲
君主−文公(桓公はダメ) これで最強まちがいなしNO.1!
>>95 君主は孟嘗君か信陵君、あるいは楚の荘王がいいなあ
始皇帝のヒステリックぶりにはついていけない
守将−李牧
遠征軍大将−楽毅
副将−白起(これならシビリアンコントロールが効くはず)
軍師−呉起
宰相−孟嘗君
君主−信陵君
これなら負けねえな
97 :
世界@名無史さん:02/05/30 16:46
表題にある<真の名将とは>と、ありますがそうなると戦国時代の性質上、
戦争について考えなければいけませんよね。
戦争はいかに味方の損害を抑えて、敵に多くの損害を出さすかと思いますが
(攻城戦の場合は異なるが)そういった意味では白起がいい!
斉を滅亡寸前に追い込んだ燕の○○さん(名前わすれた、楽毅さん?)もいい!
素人レスですごめんなさい。
>>96 李牧ですか・・・んー私は廉頗のほうが適任かと。
呉起ですか・・・んー孫賓と甲乙つけがたいですな、、、
私もちと悩みました。
99 :
世界@名無史さん:02/05/30 17:02
>>97 白起はいわゆる”猛将タイプ”で名将ではあるでしょうが
‘真の名将’という事ではどうでしょうかね?
長平の大勝も趙王の人選ミスのおかげもあるし、、、
将器として同世代であれば廉頗や趙奢のほうが上と感じます。
100 :
世界@名無史さん:02/05/30 17:03
101 :
世界@名無史さん:02/05/30 17:04
>>70 >これで完璧。
について誰もつっこんでくれなくてさぞ悲しかろう・・・
103 :
世界@名無史さん:02/05/30 17:07
李牧と廉頗…
戦術的には李牧に軍配があがるんだけどね。
総合的には廉頗のほうが適任なきが漏れもする。
104 :
世界@名無史さん:02/05/30 17:10
>趙王の人選ミス
これって白起が仕組んだ謀略のせいじゃなかったっけ?
初めは廉パ相手で、手ごわかったから敵の将をしょぼい奴に挿げ替えようって事で
趙奢の息子の趙括(評判だけは高い)を誉め殺しでおびきだしたんだよ。
たしかに白起は分類すれば猛将タイプではあるが、智謀の方も水準レベルを余裕で越えてると思う。
105 :
世界@名無史さん:02/05/30 17:10
>>104 そうでしたっけ??そーなると話が変わっちゃうんで・・・
真実はどうなんでしょ?だれか〜教えてください。
>>106 話は別にかわらないと思うが・・・説明ベタでスマソ。
白起の謀略で趙王に人選ミスさせたということ。
白起がわざと自分達は趙括を恐れてるという情報を趙側に流布させて、
それを聞いた単純な趙王が「趙括なら勝てる!」って思って廉パを大将から外して
趙活を任命したんだよ。
白起のもくろみは大成功、やる気だけ先走りな趙活は見事白起の軍に壊乱させられましたとさ。
結局全部白起の手の内にあったということです。
108 :
世界@名無史さん:02/05/30 17:27
>>106 一応史記では白起の発案で内通大臣を使ったと言うことになっていたはず。
でも白起は処世術が下手だからな・・・韓信に近いかもしれん。
109 :
世界@名無史さん:02/05/30 17:32
そこが韓信のいいところ
>>97 スマソ!そういうことでしたので白起は10点アップ!!
でも、廉頗が↑ですので。
111 :
世界@名無史さん:02/05/30 17:45
趙人の話がよく出てるが武霊王はどうよ?
「楽毅」って小説でカコよかったが。
秦を侵略する気満々なのが良かった(実現性の問題はおいといて)
将じゃないからダメなのか・・・
112 :
世界@名無史さん:02/05/30 18:49
そういえば、ハンショは引退したんじゃじゃなくって殺されたって説があるそうな。
ウンボウスイコチで発掘された木簡にそう書いてあるらしい。
秦が強国、強国と言われているが実際はそうだったのだろうか?
秦の国力が飛躍的に伸びたのって、蜀を制覇してからと聞いたが
それ以前なら斉や魏、趙にも統一のチャンスはあったと思う
楚は国体的に絶望だが
と言うか統一って気運がなぜ高まったんでしょう?
誰か詳しく説明できる人いる?
114 :
世界@名無史さん:02/05/30 19:40
正義の女子高生より
今、日本は本当にとんでもないことになろうとしているの。
手遅れにならないうちに、何とかしなきゃいけないんだから。
あたし自身、多少無茶だって事は覚悟している。
だけども手段を選んでいられるほどの、時間が残されていないから。
みんなが日本の未来を考えることができるようにならないといけないの。
有事法案が成立する前にみんなお願い、あたしに力を貸して欲しいの!
みんなが理解しなきゃいけないことをここに残します。
今度、有事法案が成立するようであれば、きっと日本経済の景気回復はおろか、
国家全体が、奈落の底に落ちることになりかねないの。
そもそも有事法案というのであれば、いかにして敵国と戦うか明確に示されるべきもの のに国民にたいする協力ばかりが定められるという。不可解な法案なの。
太平洋戦争の沖縄での地上戦での惨状を考えれば、逃げ場のない島国において地上戦を行うことが敗北を意味することを防衛庁は知らないのでしょうか。
国防のことを考えるならば、いかに爆撃機と戦艦を沈めるかを考えなければならないはず、
この思考ですら大陸間弾道ミサイルのまえでは前時代的なんだけど。
防衛庁は、防衛白書ではやばやと「庁」から「省」への格上げを提言しています。
目的は予算の獲得にあることは明白です。
今の小泉政権は旧来の抵抗勢力の建設、農水のラインにかわって政治と自衛隊(軍隊)を
結びつけることにより権力を維持しようとしているのではないでしょうか。
軍事政権なんて後進国の形態よ。
ただでさえ財政難だというのに、生産性のない防衛費に予算がつぎ込まれるようであれば、
日本の景気の悪化は必至、私たちの生活の死活問題にもなってくるというのに、今の新聞、
テレビといったメディアは国会の中身のない過程と結果ばかりをとりあげて、日本の未来
の姿をとりあげようとはしない。
本来、国民全体に今の日本が抱えているこの危機が伝わるまで、
マスメディアは伝える努力をしなきゃいけないし、伝える使命があるはずなの。
だけど、そのことがなされていないから
今、あたしは2CHに書き込んでいるの。
みんなが日本の未来のことを考えることができるようにならなきゃいけないの。
本当は、スレッドたてたかったんだけど、IT苦手でごめんなさい。
そこでお願い。ここまでのメッセージをあらゆる掲示板に貼り付けて欲しいの。
みんなの力でひろめて欲しいの。
下手をすればいまの国会で成立しかねないから、 時間がないの。
本当にみんなの力を貸して。
正義の女子高生.
115 :
世界@名無史さん:02/05/30 19:57
晋の士会は?
宮城谷ベタ誉めだけど。
116 :
世界@名無史さん:02/05/30 20:11
>>115 劉邦の祖先か?いいかも。晋の正卿の家の中でも范氏はいい味だしてると思ふ。
117 :
世界@名無史さん:02/05/30 21:07
墨テキ(漢字出ない)ってどう?
墨家集団は鉄壁の守りで有名だが、開祖はどうなんだろ。
119 :
世界@名無史さん:02/05/30 22:36
>>118 高 祖 , 劉 累 之 後 , 別 食 邑 於 范 , 士 會 之 裔 , 留 秦 不 反 , 更 為 劉 氏 . 劉 氏 隨 魏 徙 大 梁 , 後 居 豐 ,
今 言 「 姓 劉 氏 」 者 是 . 左 傳 「 天 子 建 コ , 因 生 以 賜 姓 , 胙 之 土 , 命 之 氏 . 諸 侯 以 字 為 謚 , 因 以 為 族 」
史記高祖本紀の注より
120 :
世界@名無史さん:02/05/30 23:54
呉起に1票で。
理由は呉起と一緒に戦った1兵卒の親と子が戦死したエピソードと
自前の兵法書も作成しているところです。
将軍でもあり、軍師(兵法家)、宰相とオールラウンダーがいいです〜。
121 :
世界@名無史さん:02/05/31 00:32
春秋って、これだけの政治家や軍人を輩出した、中華の一番輝いて
いたときだなあ とこれまでのスレを見て思った。
俺は李牧に1票ね。しかし呉起も白起もだけど、悲劇的な最期がかなしー
122 :
世界@名無史さん:02/05/31 00:48
>>95-96 両雄並び立たず、という言葉もありまして…
関係ないが、項燕将軍って聞いた感じではユダヤ人みたいだよな。
楽毅と田単どっちにしよう・・・
楽毅は田単のおかげで今一歩の所で更迭されちゃったし・・
田単に軍配上げたいが、楽毅も捨てがたい・・・・・・。
楽毅が更迭されなけりゃ、斉は滅亡してたんでは?
長平の廉頗と白起がダブっちまう。
しかしそうなると、君主の力量、宰相の力量によってずいぶん
変わってくるなー。
そんなこんなを考えると、呉起is一番に落ち着いちゃう・・・ちと不満。
124 :
世界@名無史さん:02/05/31 09:43
伍子ショはどーなの!?
根性じゃ一番だと思うが。
>>124 復讐の人ってイメージが邪魔してどーも、、、、
126 :
世界@名無史さん:02/05/31 09:52
>>125 漏れの中ではそこがイイ!んだが・・・
ハンショも好きなタイプ。
>>126 ‘費ムキ’の讒言もあったけど、なんか呉王に諫言するごとに
距離が開いていったような・・・最後は墓穴をほってしまった
格好で、、、。
直言タイプが呉王と合わなかったんでしょう。
128 :
世界@名無史さん:02/05/31 10:52
129 :
世界@名無史さん:02/05/31 10:59
>>125 その点、孫賓は違うね!
特にホウケンをやっちゃう話を見ると、戦いの途中で
”あ!そーだ・・・ついでにホウケンを始末しとくか”って感じ
で、どろどろしたものが無い。
>>129 孫賓も充分どろどろしているかと思われ、、、。
131 :
世界@名無史さん:02/05/31 11:59
名将と呼ばれるお歴々はだいたい最後が悪いんだが、しょうがない
面も多いよな〜。
本国にいる時間が宰相とかに比べて少ないんだから、宰相がちくちく
讒言すれば、よほどしっかりした君主で無い限り疑っちまうよ。
名将が天寿をまっとうする条件は、
<君主及び宰相が代わらない事!>では無いだろうか。
132 :
世界@名無史さん:02/05/31 14:12
>>132 スレ違いです、ってか板違い。
素直に三戦板に帰りましょう。
>>133 はい・・・帰ります。
あんまり良く知らんが、孫武を押しときます。
理由はありません。
>>134 孫武押すなら留まって良し
ってかおれも三戦板の住人だから仲良くしようぜ
そういえばモウショウ君を語るスレ沈んだままだな。
136 :
世界@名無史さん:02/05/31 21:17
申を滅ぼしたのは楚らしいが、誰がやったの?
申ってかなりの強国だったらしいが。
>>89 「名将の定義」
あくまで「春秋戦国時代」における定義だが・・・、
1.その軍事的功績によって、所属する国の勢力を著しく増大させたor減退を阻んだ。(必須)
2.複数の国家に所属した閲歴があり、その少なくとも二つの国で功績を上げた。
3.その時代における強勢国の軍、あるいはその時代において「名将」の呼び声が
高かった人物に率いられていた軍を戦場で破った事がある。
私が思いついたのはこんなもん。誰か訂正or補強して。
ごめん、sageにしてた。ageとくね。
139 :
世界@名無史さん:02/06/01 00:22
140 :
世界@名無史さん:02/06/01 00:52
>>137 俺も2はいらんと思う。別にあっちこっちふらふらしてた人でなくても、名将と呼ばれている人物はいるでしょ。
3は前半部分だけでよいのでは?名将VS名将なんてそんなに多かったシチュエーションとも思えないし。
なので
1.戦場で兵を率いて、功績をあげた。
2.その功績によって国家の威信を高めた。
3.劣勢にもかかわらず、戦術によって勝利を収めた。
これでいいんじゃないの。
141 :
世界@名無史さん:02/06/01 02:30
名将の条件
ごく単純に
1.勝つべくして勝つ戦略
2.劣勢を覆す戦術
3.その結果による名声
で十分だろ。3.は余計かもしれんが
やはり有名なのはポイント。
142 :
世界@名無史さん:02/06/01 13:11
結局、後世の評価では、楽毅や呉起は当然だが、白起や李牧も名将になる。
であれば、該当する定義も局限されるのではなかろうか?
1-大局的視野に基づく戦略構築
2-軍事的功績による国威の伸張・領土の飛躍的拡大、もしくは対象国の衰退化
3-他国の侵攻により招いた危機的状況下における、侵攻軍の駆逐・局面の打開
4-軍事的功績による名声
5-局限された戦場下における、戦術による劣勢の挽回
6-野戦攻城での妥当ないし多大な戦果、翻って相手国の軍事力の損失
…では、多少でも上記の各条件に該当する人物を挙げてみる。
1には、呉起や楽毅、孫臏、武霊王などが該当するはず。魏冉も及第点かと。
とにかくも、1が最も名将の条件にふさわしいかもしれない。
2は、最も判別に迷うと思われる。1の候補は該当するかと。他には、蜀の平定や
義渠の討伐に功績のある司馬錯が挙げられる。楚を蹂躙した白起も該当。
王翦や蒙敖も、挙げられると思われる。この2では政治的効果も含まれるため、
とにかく判断に個人差がつきやすいのではないだろうか。
3では、田単や李牧、廉頗や楽乗、他に信陵君、項燕などが挙げられるはず。
この3では、戦略的効果は皆無の場合も多く、李牧や項燕など、戦術面のみに
限定される前線指揮官が、候補に上がりやすい。国家の衰亡が生んだ名将かも。
逆に、常時攻勢国側の白起などは、該当しないといえる。
4では、大半の人物が挙がるだろうが、白起が該当しないと思われる。
ただし、始皇帝によって名誉が回復されているので、幾分微妙ではある。
5は、最もこのスレの住民の意識化に濃厚にある条件かもしれない。
ここでは今更の観があるが、挙がっていないところで、趙奢など。
6は、一見、2の条件と重複するようにも思えるが、国威の伸張という条件が
あるために、人選に制約がかかる。
たとえば、魏の芒卯は外交を併用して領土を拡大させたが、国家の威信には全く
かかわりない結果になっているため、6のみの該当になる。
ここでの有力候補は、白起、蒙敖、王翦あたりかも。匈奴を駆逐した李牧も、該当
するかもしれない。
ひとくちに名将といっても大きく異なり、特定もできないだろう。
スレのタイトルに「最も」とか、「最強」とかの条件が無かったのが、幸いにも
多くの考察を生んだ気がする。
長くなってしまい、非常にもうしわけない。
思いつきで書いたため、異論や訂正は、謹んでうける。
>>142 お見事、素晴らしい。
春秋戦国だけでなく、他の全時代・全地域における名将の定義としてもよいと思う。
自分の書いた定義がアホみたいに思えてきた(w
146 :
世界@名無史さん:02/06/01 18:51
>141
逆に名将の定義付けは第一に「名声」が来るのでは?
敵将僚将を問わず戦場にこの人有りと認知される将が
名将といわれるものかと思われ。
147 :
世界@名無史さん:02/06/01 23:42
途中から読んでる人にちょっと一言。ここのタイトルは
<<<中国 春秋戦国時代の名将は誰?>>> になってっけど、実は
>>7 で改めて
戦国中期〜秦
と限定されてんのでヨロシコ。
紛れがないように、春秋時代には別スレ立てたほうがよくねぇ?
>>1 ちなみに漏れは、王翦をageる。2、4、5、6に該当(楚を滅ぼした)。
148 :
世界@名無史さん:02/06/02 01:44
っていうか、春秋戦国でやればいいじゃん。
>147
反対!
スレの要旨を変えるくらいなら、初めから立てるな!
あるいは、削除依頼を出せ!
俺たちは、スレ題を見て書き込むんだよ。
>>147 まぁ、でもスレのはじめの方から
その縛りはほとんど有効じゃないぞ。
151 :
世界@名無史さん:02/06/02 02:53
そういや楽毅は、なんで斉を攻め滅ぼさなかったのだろう?
燕に帰りたくなかっただけなのだろうか?
>>151 楽毅論を読むべし!
東洋文庫化何かにあるでしょう
153 :
世界@名無史さん:02/06/02 04:03
>>151-152 (余り信憑性はないが)小説で良ければ。
宮城谷昌光の「楽毅」では、田単のレジスタンスが手強かったことと、燕が代替わりして楽毅を嫌っている王が即位したから、ということになっている。
全軍あげて町を一つ、二つ陥落させることができるかできないかという
のが当時の軍事常識でしょう。なぜ滅ぼさなかったかという問いの方が
不自然とおぼゆ。
155 :
世界@名無史さん:02/06/02 09:40
魯の曹バツは?管仲と桓公の斉相手に良く頑張った方だと思うけど。
156 :
世界@名無史さん:02/06/02 10:04
>>154の言うとおりだと思う。
規模に違いはあるが、韓の、副都・宜陽や成皋、榮陽など、攻略に半年も費やす
例もある。
157 :
世界@名無史さん:02/06/02 10:59
っていうか、何で斉はあそこまで惨敗したのか良く分からん。
弱小国でしょっちゅう他国から攻められていた韓なんぞと比べると、
斉の都市は脆すぎ。やっぱ防御が甘かったんだろうか。
158 :
世界@名無史さん:02/06/02 11:48
>>154 151だけど、宮城谷昌光の孟嘗君に、最後の1城を残し、包囲したまま
仕掛けなかった。 とあったのよ。あれが斉の最後の砦だったはずで、
あれを落としていれば、斉は滅んでいたのではないかな と思ったわけで。
159 :
世界@名無史さん:02/06/02 12:25
>>157 都市国家の連合体は、ハマるとオセロゲームのように一気にひっくり
返ることがある
今回もそれが起きたんじゃないの?
敵と抗戦 敵に降伏
敵軍が勝った場合 破壊される 既得権は保護
自軍が勝った場合 既得権は保護 処刑される
で、どうやら自軍のほうが旗色が悪いとみんなが思えば一気に崩れる。
敵軍:自軍=51:49
の状態で自分の都市が寝返れば少なくとも
敵軍:自軍=52:48
みんながそう考えれば・・・
#アレクサンダーの東方遠征もこのパターンですね
160 :
世界@名無史さん:02/06/02 21:59
>>157 危機意識の欠如もあるのではないだろうか?
宋領の大半を併呑し、尚且つ魏や韓、趙、燕らの軍事力を凌駕していたわけで。
「帝」の称号を東西で…の話もあることからも、国威の絶頂期だったのだろう。
なにしろ、君主が湣王でもあったわけで、驕慢・増長といった意識が、段階的に
下層階級にも染みていったのかもしれない。
精神論で語っても、結論にはならないのは承知してる。
161 :
世界史@ななし住人:02/06/03 00:51
>158
楽毅が抜けなかった城(街)は?と即墨の二つです。
>157・159・160
主力軍が破れ、王が他国に逃げたので戦意を無くしたと
いうのもあるかと。
宮城谷昌光の「楽毅」を読むと 楽毅は中山の出になってますけど
史記には趙の武官になってますよね 捏造ですかね?
162 :
世界史@ななし住人:02/06/03 00:57
げ、「きょ」の字が?に成ってる 因みに草冠に呂です
ついでに
最後に負けちゃったんで名将とは云えないかも知れませんが
晋の「智搖」はドウでしょう
難攻不落の晋陽城水攻めの発想は凄いです。
之を真似たのが秀吉の高松城水攻め(規模が違うけど)
163 :
世界@名無史さん:02/06/03 01:02
>>161 捏造ではないはず。
「史記」と「戦国策」、両方を検証してみると、こういった間違いが散見できる。
ほとんどが司馬遷の手違いらしい。
楽毅が中山の遺臣というのは、事実。
165 :
世界@名無史さん:02/06/03 01:09
>>162 城の水攻めであれば、秦の蒙恬と王賁による、魏の国都・大梁の水攻めの
方が、先だと思われる。
これにより、魏は滅亡するわけで。
166 :
世界@名無史さん:02/06/03 02:07
167 :
世界@名無史さん:02/06/03 02:43
>>162>>165-166 ちなみにこれは春秋末期の話。実際は晋陽は陥落しなかった。
知瑶、韓虎、魏曼多の連合軍が趙無恤を攻めたのだが
「知伯が自分を滅ぼした後に狙いをつけるのは貴方方だ」と言っての
趙氏による韓・魏両氏の切り崩しが成功、知伯を裏切らせて
水攻めのための堤防を決壊させて水を知軍の陣に流し込ませてもらい
逆転勝利を収める。
その直後、晋は趙・韓・魏3氏によって分割され、戦国時代到来。
この時、超襄子の下で作戦を考えたのって誰だっけ?
168 :
世界@名無史さん:02/06/03 03:37
>>168 御教示ありがトン。
という訳で、趙孟談も名将の一人。
170 :
世界@名無史さん:02/06/03 06:10
そう。晋陽水攻めは春秋末期、大梁の水攻めは戦国末期。
末期っていうか、終わる寸前だな。
>>165はなんか勘違いをしとる。
171 :
世界@名無史さん:02/06/03 10:00
韓の国、ここって可哀想なくらい影薄いのだけど
名将っていたの? 教えて。
なんか七雄といわれる中で悲惨なほど弱いような。
成立時だけ強国だったとか、、、
172 :
世界@名無史さん:02/06/03 11:13
>>171 燕でも一度は見せ場があったのにな・・・
173 :
世界@名無史さん:02/06/03 12:09
春秋期の中国って感心しちゃうなー。
どんなに強国になっても君臣の一線は越えなかったんだね〜。
周王室が名前だけとはいえ権威が長期にわたって保たれて、、、、、
すばらしい!!!
スレちがいスマソ。
174 :
世界@名無史さん:02/06/03 12:15
175 :
世界@名無史さん:02/06/03 12:17
>>171 確かに韓はかわいそうだね。
立地条件も最悪だし、、、あるときは魏にあるときは趙に寄り添う
国だったもんな。 わしも韓の名将は知らん。
三晋の内のひとつだから七雄に入れられただけって感じ。
176 :
世界@名無史さん:02/06/03 12:21
韓・・・一応「申不害」という法家系統の逸材がいた。
彼が宰相の時に韓は瞬間風速的に七雄の頂点に。
178 :
世界@名無史さん:02/06/03 13:04
>>171 韓ほどじゃーないけれど、楚の国もたいした事ないよ。
何人か名将とよばれた人はいたのに、、、。廻りの国は一目おいてた
みたいだけど、潜在能力が花開かずに散っていったなー。
晋の重耳との話や宋の襄侯との話くらいしか出てこん。
179 :
世界@名無史さん:02/06/03 13:16
"司馬穣且”はどーなの!
いっぺんも名前が出てこないけれど。
楚って有名な将軍誰よ?
項燕?
養由基?
全然出てこないよ…どうすんべ
楚の人材は秦で使われる?とか言う諺があったな
181 :
世界@名無史さん:02/06/03 14:16
張良は韓出身だよ!
あと楚漢戦争の主役達はほとんどが楚人だよ!
項羽も劉邦もハン増も韓信もね!
溜めてたエネルギーを一気に解き放ったのでせうか。
182 :
世界@名無史さん:02/06/03 14:39
楚って他の国があまり攻めてこん(攻めにくい)から呑気だったのか?
国難っても他の国に比べるとすくないよーな?
項燕って蓁に負けてるしね。
名将がいても活躍の場がすくない?
>>181 楚人?
楚王を旗頭にした以上、
‘私は楚人ですー’って名乗っただけの人も多いよ。
183 :
世界@名無史さん:02/06/03 14:42
>>178 韓の名将といえば、暴鳶が真っ先に挙がる。
垂沙の役や五国が斉に侵攻した折に少なからず活躍している。
もっとも、魏冉や白起には全く適わず、ほとんど連敗していたようだが…。
>>180 養由基は荘王、共王、康王の時代の人物だが、将とまではいえない。
戦国期の楚の名将といえば昭雎が有名だが、他は他国との戦争で敗死した
唐末、屈丐、淖歯といった程度しか、自分もしらない。
楚は戦国期にいたっても、門閥偏重・封建の政治体系から脱却できていないため
抜擢人事が行われず、それだけに名将を生まなかったのかもしれない。
184 :
世界@名無史さん:02/06/03 14:50
呉起は楚で活躍したろ
185 :
世界@名無史さん:02/06/03 15:02
186 :
世界@名無史さん:02/06/03 15:04
>>184 さんざん既出だから、あえて挙げなかった。
187 :
世界@名無史さん:02/06/03 15:35
劉邦は魏の人間だーっ。とか漢書ヨタ位にしか通じないようなこといってみるテスト。
188 :
世界@名無史さん:02/06/03 15:56
呉起って文侯が死んだ後に楚にいったんだよね?
楚に逝った呉起ってどんな活躍したんだっけ?
呉起最後の場面しか浮かんできませぬ。
板からはずれるけどごめん。
ぞくに言う‘兵法’の開祖となるとどなたになるのでしょうか・・。
呂尚になりますかね?それとも殷や夏におられたのでしょうか?。
どなたかご教示願う。
190 :
世界@名無史さん:02/06/03 16:11
>>189 うーん。わかる範囲でいいですか?
多分に黄帝でしょうね。六韜にも黄帝の事柄が引用されてますしね。
ちょっとうるおぼえのクイックレスなんで。
↓以下の人補足できたらヨロシク。
>>189 わたしも知りたいが、
‘兵法’となると孫武さまでは?
兵法といっても戦略を説いたものもあれば戦術を
説いたものもあるしなー。
192 :
世界@名無史さん:02/06/03 16:17
>>190 三皇五帝は完璧に伝説じゃねーの?
確かに六韜にはあることはあるが・・・・・・・。
193 :
世界@名無史さん:02/06/03 16:20
兵法としての分野を確立したのは私も
>>191に同じ。
194 :
世界@名無史さん:02/06/03 17:02
>>188 秦の商オウみたいなことを商オウより先にやろうとした。
楚は自ら最強国になるチャンスを手放したね。
>>194 レスどうも!
法家的思想ですか、、んで既得権を犯された貴族階級に
復讐されたと言うことでよろしいか?
196 :
世界@名無史さん:02/06/03 17:13
197 :
世界@名無史さん:02/06/03 18:00
で例の死に様へと繋がるわけだね
198 :
世界@名無史さん:02/06/03 18:14
>>188 最後に悼王の棺まで逃げたのも、意図的だったりするらしい。
おかげで、棺に矢を射掛けた連中の家は総じて潰されているし。
199 :
世界@名無史さん:02/06/03 21:15
自分を重用してくれた主君まで利用してしまうとはな。
いや、素晴らしい。でも何故矢を射掛けたんだろう??
遺骸から引き離して切り捨てればよかったのに。
呉起って強かったのだろうか。
そういえば、若い頃派手に殺人犯してなかったっけか?
201 :
世界@名無史さん:02/06/03 21:34
>>200 嫁さん、殺したってやつですか。
宮城谷によると、嫁さんが言うこと聞かないから、離縁して、
2度とけこーんしなかった。殺したというのは、嘘となっていたけど。
202 :
世界@名無史さん:02/06/03 23:08
あれ、嫁さんのエピソードって、確か、嫁さんが敵国出身で、周りから
疑いかけられたから、ばっさりやったような?。
あと母親のエピソードもあるね〜。
危篤状態になっても、帰らず、そのまま勉強してたのが。
>199 全半生ではバリバリの前線将軍だから、強かったと思うよ。
203 :
世界史@ななし住人:02/06/03 23:13
>200・201
「呉起」
衛の富豪の家に生まれ出世欲が強く、派手な仕官運動で家産を食いつぶし
その事を同郷の人に笑われ、怒りに任せて切り殺す
その後、兵法家として名が通るようになる、その時、斉が魯を攻める。
魯では呉起を登用したいが、呉起の妻が斉人である事に躊躇
それを聴いた呉起は妻を殺し将軍職に着く、見事斉軍を撃退したが
その非常さを恐れた魯は体よく呉起を追放 可哀想
その後、魏の文候に仕官する。
魏の李克の呉起評「好色で貪欲なるも、清廉であり、愛情深いが
冷酷で野心家 その才は秀でている」
魏では優秀な将軍として韓を抑え秦の十余城を抜く
「兵の腫れ物を啜る」逸話は有名ですね。
204 :
世界@名無史さん:02/06/04 00:00
201ですけど、呉起って若いときやんちゃだったんですねえ。
205 :
世界@名無史さん:02/06/04 10:14
>>「好色で貪欲なるも、清廉であり、愛情深いが
>>冷酷で野心家 その才は秀でている」
もんのすげー評だね。
206 :
世界@名無史さん:02/06/04 12:08
司馬穣且がいいのに・・・・。
207 :
世界@名無史さん:02/06/04 12:47
>>204 やんちゃと言うより悪逆非道ということで。
やっぱり呉起より孫賓に軍配あげ!
208 :
世界@名無史さん:02/06/04 13:02
>>206 司馬穣且って本当の名前じゃないんじゃないの?
209 :
世界@名無史さん:02/06/04 13:09
>>207 たしかに出処進退においては、孫臏にやや軍配が挙がるかもしれない。
でも中国では「功成り名遂げ身を退く」…とかいうから、司馬遷はどちらも
「惜しい」という評を下している。
戦歴でいうなら、文句無しに呉起だろう。
なにせ、踏んだ場数とそれに伴う不敗の実績が、それを証明してる。
>>206 司馬穣苴には、司馬遷は「大国ゆえに通用する兵法」、ともいっているね。
法令の厳守と人心掌握は、たしかに素晴らしい。
210 :
世界@名無史さん:02/06/04 13:11
>>208 司馬穣苴は、田氏の人間らしい。晏嬰が推挙したのは有名かと。
211 :
世界@名無史さん:02/06/04 14:54
司馬穣苴ってどんな戦功があんの?主君の寵臣を切ったことしか知らん。
212 :
世界@名無史さん:02/06/04 15:08
>>211 侵攻してきた晋や燕を撃退している。
後に讒言にあって罷免され、失意の末に病死したらしい。
やはり、田氏の人間だけに警戒されていたのだと思う。
213 :
世界@名無史さん:02/06/04 15:15
>>211 正午に待ち合わせしましょうって話だね!
孫武の話とよく似てるよね。
214 :
世界@名無史さん:02/06/04 15:28
215 :
世界@名無史さん:02/06/05 15:11
>>214 いかにも、そう。
知ってるだろうけど、いちおう補足…
陳の公室から斉(桓公)に亡命した公子(名は完)から発してる。
陳公室は嬀姓なのだが、斉に亡命して後は桓公より工正(技術分野の長)に
任じられ、田を氏として田完と名乗るようになった…はず。
無論、戦国期の斉王室へ至る家系。
216 :
世界@名無史さん:02/06/05 17:23
>>215 斉と陳は同族の国でしたっけ?
斉の開祖(武王より封じられた)は呂尚でしたよね?
217 :
世界@名無史さん:02/06/05 18:09
春秋の斉はキョウ姓(変換できん)。
218 :
世界@名無史さん:02/06/05 22:34
孫賓とホウケンの名がでてるのなら、その先生の鬼谷子なんかはどう。
はっきりいって伝説上の人物だけどw。
219 :
世界@名無史さん:02/06/05 23:19
220 :
世界@名無史さん:02/06/06 02:08
え、鬼谷子って伝説上の人物だったの?知らなかった。
>>218>>220 時代の違う孫【月賓】・【广龍】涓と蘇秦・張義が共に鬼谷子の弟子ということに
なっていたりする。一説には「鬼谷」という土地に住む思想家集団の長を示す
一般名詞だとも。
>>214-217 陳→戦国の斉の姓は【女為】(帝舜の子孫と称する)、春秋の斉の姓は姜。
同族ではない。
222 :
世界@名無史さん:02/06/06 08:47
>>221 あの〜、1つ教えて頂きたいんですが。
春秋 戦国の勢力図をみていたら、周室と同姓とか書いてある
勢力がいくつもあるんですけど、親戚なんですか?
素人なのでよろしくおねがいします。
223 :
世界@名無史さん:02/06/06 09:05
強い王権と法家による思想統一そして”名将 王セン”これで
蓁の統一完成。
でも、始皇帝がいなくなってからの崩壊は信じられん位早かった、
2代目って大変だね〜。
春秋戦国時も大体優れた君主って2人続かないんだよね、
君主交替と宰相交替時が、等しく名将の危機みたいで・・・・。
そこを乗り切ってこそ本当の名将と言えるのでは?
>>222 鄭や随、衛などは周と同姓
晋や呉も姫姓と言っていたがこれは怪しい
驪戎もなぜか姫姓と言ってたりする
他に多かったのは姜姓、斉や許、申など
225 :
世界@名無史さん:02/06/06 11:29
>>223 扶蘇が継いだらうまくやった可能性もあったろうになぁ・・・
息子の子嬰も優れてるし。
226 :
世界@名無史さん:02/06/06 12:12
>>222 各国が興った折の経緯や系図などを確認すれば、よくわかるはず。
おおよそのところ、殷が滅んで周が興った時期から調べれば、いいと思う。
>>224 たしかに、晋は同姓を滅ぼしまくってるからね…。
戦国期へ至る魏氏や韓氏も、姫姓でよかっただろうか?
ちなみに韓氏は、晋が姫姓であるという前提での話だが。
趙氏が、秦と同姓の贏であるというのは、よく知られているところだろう。
227 :
世界@名無史さん:02/06/06 12:33
>>225 ダメ皇帝(胡外)+ダメ宦官(趙高)=滅亡
これって多いな。
春秋戦国期には宦官が専横ってありえないからな〜。
228 :
世界@名無史さん:02/06/06 12:40
>>222 名前が分かるもので
管、祭、蔡、霍、魯、衛、毛、雍、曹、騰、
畢、原、晋、応、韓、凡、蒋、茅、胙、など
26国が文王の子や孫の姫姓で、周の初期に封じられた国。
漢字が出ないのは全部省略!!
>>223 >君主交替と宰相交替時が、等しく名将の危機みたいで・・・・。
その通りだね。
特に宰相と名将の関係って難しいよね。
あの廉頗でさえ一悶着あったもんな〜〜もし変な宰相であったら
趙はもっと早く衰退してたんだろうな。
230 :
世界@名無史さん:02/06/06 12:59
まー、早い話が・・・
孫武>伍子胥>孫臏>>楽毅>管仲>斉・桓公>武霊王>>>>>>>>>>>>斉・ビン王>中山王
スマソ。
楽毅の後ろに田単も入れといて。
232 :
世界@名無史さん:02/06/06 13:02
中山王って「楽毅」に出てくる最初の中山王のことか?
>>232 うん、小説の最初に出てくるドキュソ王のこと。
234 :
世界@名無史さん:02/06/06 13:09
>>230 伍子ショはどーなの?
何を基準にしたんで?
孫武が頭なので許すけど、、、呉起はどこ???
>>234 はっきり言って、漏れの独断と偏見・・・。
根拠も無しにこんなこと言ってスマソ。
伍子胥に関しては孫武と同時期の人物で、共に策戦を練ることもあったから。
それにあの復讐心は只者ではないかと思われ。
あと、呉起はいまいち漏れの中では記憶に薄い。
つーか、春秋戦国っつったって、時代背景が大きすぎるから単純比較できません。
236 :
世界@名無史さん:02/06/06 13:20
237 :
世界@名無史さん:02/06/06 13:25
>>230 何の序列?
名君、名将、名相、名臣、暗君、暴君入り混じってるが、
春秋・戦国期の人物への個人的な評価、ってところか?
238 :
世界@名無史さん:02/06/06 13:29
重耳=劉備
>>235 そーゆー事でしたか。
いや、独断と偏見が混入するのは問題ないと思う。
みんなが同じ文献を読んでいるわけ無いし、個々に
思い入れもあるし。
240 :
世界@名無史さん:02/06/06 13:57
>>239 独断と偏見は構わんが、なにを基準にしたかが無いと、
ただの人物羅列になるでしょうーが!
241 :
世界@名無史さん:02/06/06 14:03
だんだんと名将云々は語られずに、名君・名臣論に移行してきた観がある。
242 :
世界@名無史さん:02/06/06 14:10
孟嘗君 信陵君 春申君 平原君 鈴木君 佐藤君。
馬服君・・・趙奢。
>>241 それはいかん!!
皆!今一度、名将について語ってくれー。
244 :
世界@名無史さん:02/06/06 14:28
孟嘗君について語れる人いないか?
良く知らんので、何をどーして有名なのか簡単に教えてくだされ。
245 :
世界@名無史さん:02/06/06 14:32
>>244 鶏の鳴声がうまい食客がいたことで有名です(w
ついでにいえば秦・斉・魏の宰相をやっていた
246 :
世界@名無史さん:02/06/06 14:35
>>242 趙奢が多分に田単に勝るであろうことを示す面白い記述が、「戦国策」にある。
趙恵文王の30年の項に、同年、趙の宰相(置相)となった田単が趙奢に、近年の
動員兵力の過剰さへの不満と疑問をぶつけるくだりがある。
要するに、十万単位の兵力による物量戦が盛んな戦国期の軍事(戦争)に対する、
認識の格差を表した話。
おそらく田氏の傍流で大規模な戦争の経験が無く、寡兵で勝利した田単ならではの問いかも。
>>245 鶏鳴狗盗の故事はこの人でしたか!!!。
でも三カ国の宰相とは・・・・どッかの国の公子じゃ
ないんですか・・・・。
でもなんでまた渡り鳥生活を送ったんでしょか?
それぞれの国で功績はあったんでしょうか?
教えててほしいですじゃ。
>>246 ごめん、趙奢が↑?田単が↑?どっちなの?
249 :
世界@名無史さん:02/06/06 14:54
>>247 自分の中では孟嘗君って、実力よりも存在感や名声が幾分か先行しすぎて
いたような気がする。
斉と秦、異説もあるが魏の宰相も務めたわけだが、どうも当時の力学構造
とでもいうのか、秦の野心や将来的な展望を見通しきれていなかったように
感じる。
楚を討伐したのはわかるとしても、秦を攻めきらないあたり、隣国の三晋が
餌食になる未来を予想できなかったのか、かなり疑問。
共存共栄が叶う時勢でもなかったと思うのだが…。
趙が隆盛をほこるようになったのは‘胡服騎射’を導入して
軍事先進国になった為って本に書いてあったけど誰が導入したの?
どなたかご教示を。
251 :
世界@名無史さん:02/06/06 15:02
孟嘗君は秦の侵略に対する当時の圧迫されてた国々の人たちの希望みたいなもんだったんでしょ。
春秋戦国時代はそういう、人々の「精神」が大きな力を持った非常に面白い時代だったと思う。
252 :
世界@名無史さん:02/06/06 15:03
松尾芭蕉の代表作の
夏草や 兵どもが 夢の後
という俳句は
国破れて山河あり
と言う中国の古典の一節を,パクったものだったのです!(驚いた?)
日本の古い文化の大半は中国の真似だYOOO。
それと、みなしゃん方丈記とか好きでしゅか?
行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
というアレでしゅ。アレも元々は中国の孫子の兵法の中に「水に定形なし〜」だっけ?そんな激似と思える文章があるでしゅよ。
やっぱり中国は偉大でしゅね♪
253 :
世界@名無史さん:02/06/06 15:11
>>250 このスレでもちょくちょく名前が出てきてる武霊王。
これにより趙は中山などを攻め滅ぼして一大大国になり、
楽毅に滅亡寸前に追いこまれた斉が衰退してからは
秦に唯一単独で対抗できうる国と言われるようになった。
後に長平の戦いで壊滅させられるわけだがね。
254 :
世界@名無史さん:02/06/06 15:18
それだけに、武霊王の次代の恵文王は、もう少し評価されてもいい君主だと思う。
果敢さに欠けるものの、有能な臣が揃っていたのも、間違いなくこの時期であろうし。
幾分か早死にだったのが、痛いところ。
255 :
世界@名無史さん:02/06/06 15:26
>>254 「楽毅」じゃ評価されてるね。
なんか前漢の恵帝と似てる気がする。
恵帝は、自分をあまり可愛がらない
父親に溺愛されてる&政敵な異母弟まで
必死にかばうような究極的に好い奴だが。
>>253>>254 孝成王がしっかりしてれば、その後の様相もかわって
いただろーに。
せっかく名将、名宰相がそろっていたのに・・・・・・
趙マンセーの私は非常に残念。
>>247 >>249の補足をすると、斉の公子だったよ、孟嘗君は。
ただ、桓公の頃と家系は違うからね、戦国期の斉は。
孟嘗君に関しては漏れも
>>249に禿同。
>>254 そだね。最終的には望諸君をゲトーできたんだし。
平原君よか名君に思えるけどな、漏れは。
宮城谷・楽毅を読んだからそう思うだけかもしれんが。
松尾芭蕉の代表作の
夏草や 兵どもが 夢の後
という俳句は
国破れて山河あり
と言う中国の古典の一節を,パクったものだったのです!(驚いた?)
日本の古い文化の大半は中国の真似だYOOO。
それと、みなしゃん方丈記とか好きでしゅか?
行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
というアレでしゅ。アレも元々は中国の孫子の兵法の中に「水に定形なし〜」だっけ?そんな激似と思える文章があるでしゅよ。
やっぱり中国は偉大でしゅね♪
>256
嘆くな、俺がいるじゃないか「完璧の使者」のこの俺が
昭襄王だって脅してみせるぜ!
261 :
世界@名無史さん:02/06/07 09:46
趙に関していえば、君主の交代(恵文王→孝成王)もそうだが、将や卿の交代にも
問題を感じる。
孝成王の代になると宰相に平原君が据えられ、後任の虞卿もそうだが、秦に対しての
警戒心や危機感が薄れているように思う。
上党の割譲を、半ば楽観的な観測のうえで賛同したり、昭襄王に招きに応じて秦に
赴いて拘束されかけたり、どうも平原君は軽薄な面が多い。
恵文王期の藺相如は、秦との積極的な交戦を望んでなかった。
将の扱いにも、問題がある。
孝成王の次代は悼襄王だが、廉頗の魏領の繁陽攻略のさなかに、またもや更迭して
楽乗に交代させようとしている。
この件で結局、廉頗は魏へ亡命してしまい、趙は有能な名将を失っている。
極めつけの、後年の李牧の刑死に関しては、述べるまでもないと思う。
衰亡する国家というのは、自ら運や好機を手放している…という端的な例かも。
262 :
世界@名無史さん:02/06/07 09:52
まー、要するに、だ。
チュンは頭が悪いんだよ。「歴史は繰り返される」とかっこいいこと言うが
単なる学習能力がないドキュソの集まりなんだよ。
だから過去にも同様の事例があるにもかかわらず、自ら運気を逃している。
今のチュンどもを見ろよ。未だに南京大虐殺とか言ってるぜ。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
全ての日本人が南京で大虐殺をしたと思ってやがる。筋違いもはなただしい。
ま、これはチョンにも言える事なんだけどな。
263 :
世界@名無史さん:02/06/07 09:59
>>262 かくいうあなたはチュン以下に感じますが、なにか?
264 :
世界@名無史さん:02/06/07 10:18
まあたしかに漢地ほど歴史を繰り返しまくってる地域は他に無かろうな。
265 :
世界@名無史さん:02/06/07 23:22
中国人が一番輝いていたのは、春秋戦国期と思う。
このカオスが、彼らを洗練せしめた。その後の漢人は
実質、緩やかに衰退。、と思う罠。
266 :
世界@名無史さん:02/06/09 01:02
春秋戦国期ってなんでもありって感じだもんね。いい意味で。
一国の重臣が簡単に他国の宰相になったりするし、面白いエピソードも多いし。
覇権とか食客いう概念が堂々とまかり通ってた所もいい。
三国時代よりもはるかに面白いと思う(三国時代がつまらんというわけではない)。
何かきっかけがあれば超・大ブレイクしても不思議じゃない時代と思うんだがなあ。
>>266 普通にブレイクしていると思いますが
覇者って存在が、そのまま現代でも応用効きそうだものね
268 :
世界@名無史さん:02/06/09 01:52
>>267 いや、だから「超」とつけてみた。
三国志をはるかに超えるくらいメジャーになるってこと。
269 :
世界@名無史さん:02/06/09 02:00
あと数のスケールが大きいのもいい。
30万や40万の軍勢がザラだったらしいし。誇張無しで。
斉の臨シって人口が80万人もいたらしいじゃん。あの時代で、、すげえ。
270 :
世界@名無史さん:02/06/09 23:53
戦国期も後期から末期にいたると、秦のあげる首級の数も凄まじいな。
斬首十万なんてザラだからなぁ…。
水増しであろうのも、また事実だろが。
271 :
世界@名無史さん:02/06/09 23:58
春秋戦国の遺産で食ってる国だよね。
272 :
世界@名無史さん:02/06/10 10:13
>>269 趙の邯鄲も30万人くらいいた。当時は「お洒落で最先端の街」と認識されていた。
巴里みたいなもんか。
>>271 同意。
いままでの中国の歴史の中で一番開放的な社会で華やかな時代だったな。
274 :
世界@名無史さん:02/06/10 11:59
周王室って封建制の国家の割には、ひじょーに長い間存続してたよね
まー名前だけにはなっていたが・・・。
その気になれば取って代われる状況は多々あったのに、太古中華の
倫理感、道徳感には感心しる。
西洋文化、文明には有り得ん話じゃないか?
275 :
世界@名無史さん:02/06/10 12:19
>>274 取って代わった途端に他の国々が敵に回りボッコボコ!
大義名分がないと苦しいでしょ?
276 :
世界@名無史さん:02/06/10 16:03
>>275 いや、戦国期ならば意外に斉や趙なんかが主導権争いを起こして
くれて、どちらか味方に引き込めばうまくいくかもヨ。
周室と言う建前がなくなると、三国時代みたいに2〜4カ国位に
淘汰されたような気がしる。
蓁が周室を滅ぼした時は、周りの国は順番に滅ぼされるのを待つ
状態だったし。
277 :
世界@名無史さん:02/06/11 11:18
で、名将談議はどうなったの?
んじゃーココで1つ’田単Vs楽毅‘でどう?
279 :
世界@名無史さん:02/06/11 12:59
>>278 比較のしようがないと思う。
更迭させたのはわかるが、直接対決したというわけでもないし、だいいち
双方とも、将といっても「畑違い」みたいなところがある。
>>246でも書いたが、田単の出自から鑑みるに、大兵力による大規模野戦や、
時代の変遷に伴い高難度化する攻城戦には、もしかしたら不向きかもしれない。
んー、名将同士が直接対決って多くないしね〜。
だれか良いネタは無いかね?
281 :
世界@名無史さん:02/06/11 13:36
斉攻めの五ヶ国連合の揃い踏みは超豪華だな
燕:楽毅
秦:白起
趙:廉頗
魏:晋ピ
韓:暴鳶
282 :
世界@名無史さん:02/06/11 13:46
283 :
世界@名無史さん:02/06/11 14:02
>>281 その面子に呉起を加えないと、、、、、
それに、総大将がいないので意外に脆そう。
284 :
世界@名無史さん:02/06/11 14:09
285 :
世界@名無史さん:02/06/11 14:31
>>284 楽毅に、
白起や廉頗が従うとは思えんが・・・。
286 :
世界@名無史さん:02/06/11 14:38
>>283 たしかにいずれ劣らぬ将帥ばかりなので、軍議が
紛糾しそう。
この将帥をまとめるのは文公しかいない。
287 :
世界@名無史さん:02/06/11 14:51
>
>>283>>284>>285 孫子にもあることでいまさらいうまでもないが、統帥権の確立と、前線での状況に
応じた任意の判断は、切り離して考えた方がいいかもしれない。
>>287 上の人材は皆、前線指揮に適した将軍であるために
個々の戦いでは能力を発揮するとは思うが・・・・
そういう意味では、彼らの上位に文公や呉起となる
のも良いのでは?
個人的には呉起より孫賓の方がいいんだが。
>>288 自分としては、ここではいちおう五国各々から将帥が派遣されている、という方向で
述べていたので…。
上記の五人が一国に属するというのなら、わからないでもない。
>>281 どーなの?派遣?にしても誰が仕切るの?
いや、漏れが書いたのは燕が中心になって284年に斉に攻め込んだ時の
れっきとした事実なんだけど・・・
ちなみに総帥は楽毅だよ。
BC284年だスマソ。
>>281 確かにオールスターだよね。
で、総大将が楽毅で、合ってると思うyo1
やっぱ孫武でしょ。孫氏の兵法書を書いた。今でも孫子の兵法書は高く評価されている
その疾きこと風の如く
その徐かなること林の如く
侵略すること火の如く
動かざること山の如し
痛きこと処女の如く
かわゆきこと脱兎の如し
っていうか、なんで陰と雷テイは無視されるんだろう??
単に語呂が悪いからか?
297 :
世界@名無史さん:02/06/12 08:32
>>281 遅レスだが、それって楚も入っていたんでは?
298 :
世界@名無史さん:02/06/12 09:47
知彼知己百戰不殆 不知彼而知己一勝一負 不知彼不知己年戰必殆
299 :
世界@名無史さん:02/06/12 10:18
孫武はどっちかと言うと野戦に主眼があるし、、、
孫賓はどっちかと言うと攻城戦に主眼があるし、、、
‘囲魏救趙’の孫賓のほうが良い。
>>297 >遅レスだが、それって楚も入っていたんでは?
入ってない。楚は斉の救援軍の立場。
燕+三晋+秦の5カ国だろ。
301 :
世界@名無史さん:02/06/12 10:58
楚は斉を弱らせたらますます秦の独壇場になって
まずいからって斉を助けようとしたんだよな。
確かにそうだよな〜
燕の昭王の気持ちもわかるけど、大きな視点で見たらまずいよな。
302 :
西楚の覇王:02/06/12 12:18
>>楽毅マンセーの皆様。
301からも判るように、楽毅と昭王には大略なし。
よって楽毅は小粒。
303 :
世界@名無史さん:02/06/12 12:29
>>302 そうかな?楽毅が完全に斉を征服して、燕に併合できていたら
東に秦に対抗できる一大勢力ができていたという考え方もできるけど。
304 :
西楚の覇王:02/06/12 12:47
>>303 仮に斉を滅亡させても分割争いがおこるでしょ?
燕が多くを領有すれば、他国が不満を持つし、そう
なれば、狼の蓁が黙っていない。
直接に燕と国境を接していない蓁は他の国が争い疲弊
するのをまてばよくなる。
従って根本的に向ける矛先を間違ってる、、、我が楚
だけはそれを感じていたようだが。
305 :
世界@名無史さん:02/06/12 12:50
>>304 でも最終的には燕軍だけが残留して斉を占領していったんだから
他国は文句は言えないと思うが。
貴国=楚だけは割り込んで分割させようとしたみたいだが。
たしかに矛先を間違ってる、と言うのは同意だが
昭王の気持ちになってみるとどうにも彼を責められなくなる・・・
あ、分割させようとしたのは楚の総意じゃなかったかな。
ドウシとか言う将軍の暴走だ。スマ楚>304
308 :
西楚の覇王:02/06/12 13:03
バレバレですか!
本音を言うと、我が楚に名将と思える人物がいない、
ので、漁夫の利でも狙わないとジリ貧なの・・・・。
でも、蓁が背後で画策すれば、趙、魏、韓、燕が
入り乱れた争いはおこりますぜ。
当然そうなれば、楚も参加しますが。
309 :
世界@名無史さん:02/06/12 13:39
>>307 淖歯のことで、あってるよね。
>>308 名将云々では、抜本的な解決など望めない。
楚の根本的な問題は、政体と外交の稚拙さにこそある。
戦国期にいたっても、いまだに封建貴族が幅を利かせているようでは程度が
知れている。国体も古いおかげで、ろくな人材が育たない。
極めつけは、懐王の愚鈍で気まぐれな外交転換によって国際間で孤立した挙句、
秦や斉らに連戦連敗。
「杜陵」や「垂沙」の大敗なんぞ、端的な例。
猫の目外交に終始し、漁夫の利を漁るのは、いかにもまずい。
大国だけに、秦に対する対抗馬となってほしかったんだけどね…。
310 :
世界@名無史さん:02/06/12 13:47
まあ最後の最後に秦を攻めつぶしたのは楚だったんだがな。
311 :
西楚の覇王:02/06/12 14:06
>>309 呉起がいた時がチャンスだったんだがね・・・。
確かに我が楚は生え抜きの逸材は育たん!
312 :
世界@名無史さん:02/06/12 14:13
各国の国力の変遷ってどーなのよ?
かなりてきとーだが
戦国時代初め(呉起が魏にいたころ)
魏>楚>斉>>秦>趙>>>燕>>>>>韓
こんな感じか?
ここから先は入り組みまくっててわけわからん
だれか先頼む
>>312 等比記号はあまり意味が無いと思う。
三戦版ではないんだから、論理的に語ろう。
えらそうに、すまない。
314 :
世界@名無史さん:02/06/12 14:41
>>312 韓が常に最後尾には間違いないと思うが。
315 :
西楚の覇王:02/06/12 14:46
>>312 なにを基準に比較されたのか明確に願う。
国力の定義を何処に置いたの?
じゃあ、趙が胡服騎射を採用した頃
斉>>趙(英主武霊王)≧秦(昭襄王)≧魏(襄王)>楚(アホ懐王)>>>韓≧燕
武霊王マンセー!
彼がもうちょっと生きてたら秦の膨張も少しは抑制されたのでは(昭襄王を王位につけたのは武霊王だったから)
魏って最盛期はどのくらいの領土獲得してたんだろ?
上党とか取りやすそうなんだが
317 :
世界@名無史さん:02/06/12 15:01
>>313 そうか。各国の国力差を示すには不等号しか思いつかなかったもんで。
>>314 それは不変の真理だな(w
>>315 う〜ん、むずかしい。各国の外交・戦略上においてに重きをなしてる順、みたいな。ほんと適当ですまん。
>>316 漏れもマンセーだ。ああ、ほんとにもうちょっと生きてもらって秦に噛み付くとこを見たかったよ。
まあ死んだ原因も主父自身にあるからしょうがないんだけどな。
俺の中じゃその頃は
秦>趙≧斉>>楚>>>魏>燕>>>>>韓
て感じに思ってた。
>>317 えーと、燕は斉に攻め込まれて壊滅しちまってたし
秦>>魏≧楚でもいいかも
斉はこの頃ぶっちぎりじゃない?
だから他の五国に足引っ張られたりしたわけで
秦はまだ蜀取って日が浅いから微妙
そんな簡単に征服した地域を経営することできたら斉や燕みたいなことはおこらないと思うし
まあお家騒動とかもあったんでちょっとマイナス
319 :
世界@名無史さん:02/06/12 15:14
どーでもいいが、楚は伍子胥を取り逃した時点で終わってる(w
>>318 確かにそうかもね。あのころの斉は勢いがものすごかったからね。
秦はこの頃昇り竜みたいに急激にパワーアップしてたころだし
いろいろと計りにくいよな。
燕が斉に滅亡寸前に追い込まれてたのは計算に入れてなかった。すまん。
321 :
西楚の覇王:02/06/12 15:49
>>319 そーなんだよ!呉は殺したところで終わったしね。
322 :
西楚の覇王:02/06/12 16:50
ところで春秋五覇って諸説あるが、わしは呉王夫差
を入れるのはどうかと思うが、皆様はいかがかな?
晋の文公 斉の桓公 魏の文侯ははずせんが・・・。
323 :
世界@名無史さん:02/06/12 16:56
>>322 魏文侯は対象外。
孟子の挙げる候補より、荀子の挙げる候補の方が、自分としては好き。
孟子自身、あまり好きではないせいかもしれないが。
324 :
西楚の覇王:02/06/12 17:23
魏の文侯は勘違いでしたスマソ。
325 :
世界@名無史さん:02/06/13 08:39
晋の文公 斉の桓公 楚の荘王 呉のコウリョ 越の勾践
で五覇は決まり。
>>322 わしも夫差は要らんと思うのに賛成。
326 :
世界@名無史さん:02/06/13 08:42
夫差よりも、たまに宋の襄公が入ってる場合があるけどそっちの方が大きな謎だ。
327 :
世界@名無史さん:02/06/13 09:08
秦穆と宋襄は入れて欲しい
というかコウリョと勾践は覇者の時代が終わってしまった後に出てきた
っぽいイメージがあるんだが
相変わらず大国は晋楚のままだったわけだし
宋は馬鹿にされるほど弱国では無いと思うが評価は低い
ゴルァ!司馬遷、史記の世家建てろや!
329 :
世界@名無史さん:02/06/13 09:35
襄公はヴァカだけど憎めないよな・・・
悪いヤシじゃないんだ
330 :
世界@名無史さん:02/06/13 09:47
宋襄の仁という言葉が残っている以上、覇者の資格充分!
斉も世話になったし、晋の文公も世話になったし。
コウリョは伍シショと孫武がいたからよかった、この2人
のおかげです。
331 :
世界@名無史さん:02/06/13 10:06
宋襄公を貶めるのには、あまり賛成できない。
「春秋公洋伝」を読んでみるといい。
「古代の聖王(周の武王など)にも劣らない…」といった評価がされてる。
個人的にも、宋襄公には好感がもてる。
君主としては二流だろうが、君子としてなら一級だと思える。
ついでにどなたかにお訊きしたいが、孫武が呉で挙げた功績って、史書に
明記されてる?
妃妾で練兵を行った挿話しか、自分は知らないのだが…。
332 :
世界@名無史さん:02/06/13 10:18
楚を今一歩のとこまで追い詰めたんじゃが。
ぷっつりと消息不明になった私?
何処へいったんでしょーね。
334 :
世界@名無史さん:02/06/13 10:33
>>332 それについての明確な史書その他を教えていただきたくて…。
「呉越春秋」は読んだことないので、もしかして、それかもと思ったわけで。
>>334 孫武について私が読んだ文献は史書でないので・・・スマソ。
15年位前のもので、恐らくはもう絶版になっていると思う。
呉越春秋は私も読んでない。
336 :
世界@名無史さん:02/06/13 11:50
>>335 なるほど…ありがとう。
>>326 宋襄公は、孟子などの儒家の評価がいいからだと思う。
王道こそ第一という理想が念頭にあるから、呉越の三人は除外の対象に
なったのだと思う。
言い方をかえると、儒家は非現実的で理想的、そのくせ具体的で現実的な
実務能力は低い。
荀子の場合、王道に次ぐ覇道にも理解をしめし、現実性も重視している。
やっぱり儒家って、叩かれやすいな…。
宋襄公は好きなんだけどねぇ。
さて、本題にたち帰って、NO1は私、ではなく、呉起だと思う人
手を挙げて!
338 :
世界@名無史さん:02/06/13 12:17
>>327 将才(厳密には戦場指揮官)に限るならば、戦国期をとおして三指に入ると思う。
339 :
世界@名無史さん:02/06/13 12:18
春秋五覇ってどっちかと言えば覇道より王道に近い
と思われ、、、。
私も襄侯をいれてもいいと考える。
341 :
世界@名無史さん:02/06/13 12:23
>>338 戦場指揮官と限定すると、李牧君が最良。
343 :
世界@名無史さん:02/06/13 12:40
>>340 でも実際、田単は、そこまで評価はできないよな…。
救国の英雄で、処世術にもまあまあ長けてはいるが、いかんせん趙奢との
問答が、けっこうマイナス要員かと。
魏の芒卯なんか、数多いる将のなかでも奇抜な一面をもってる。
344 :
世界@名無史さん:02/06/13 13:02
かなり遅レスだが、
済西の戦いって楚の国も斉攻撃に参加したよ!
厳密には斉Vs燕 趙 蓁 魏 韓 楚。
345 :
世界@名無史さん:02/06/13 13:05
楽毅もあこがれた、管仲こそ名将にふさわしい。
346 :
世界@名無史さん:02/06/13 13:07
[中国の戦国七雄]
燕・斉・秦・趙・魏・韓・楚
[日本の戦国七雄]
武田信玄・上杉謙信・毛利元就・今川義元
北条氏康・織田信長・豊臣秀吉
347 :
世界@名無史さん:02/06/13 13:18
>>346 ?
戦国の七雄とか言いながら
宋・中山・衛(実は最後に滅亡した諸侯)・越(いつの間にかひっそり滅亡)
とか抜けてて辛い
魯?周?そんな前時代の残滓なんか知らねーよ
春秋入れると間違いなく管仲がトップになるのが・・・
パイオニアは評価が高い
348 :
世界@名無史さん:02/06/13 13:18
まぁ、呉起は不敗だからなぁ〜。
将才としてはトップじゃないの? 管仲の頃はまだ
役割が細分化されてないので、名将云々はどうかな?
名宰相ではあるのは間違いないが・・・・。
わし、パイオニア。
350 :
世界@名無史さん:02/06/13 13:39
>>346 日本の戦国七雄に、なぜ徳川家康が入ってないの?
>>338 呉起はオールラウンダーだからね。
ところで、三指のほかの2人って、誰よ?
私なら、白起、楽毅、李牧…三本じゃおさまらないな。
>>350 相手にしないほうが良いのでは?
言わせてもらうと、信長と秀吉を一緒にしてる
所にレベルが覗える。
353 :
世界@名無史さん:02/06/13 14:04
354 :
世界@名無史さん:02/06/13 15:08
>>351 つまりは、その四人のうちのいずれか、ということ。
戦国期の名将は多けれども、掛け値なしに評を下せるのは、その四人かと。
たまには、他の将についても語ってみたいと思いますが…皆様いかがで?
>>354 私も入れてくれ、って、ちょっと無理かな…
356 :
世界@名無史さん:02/06/13 15:27
>>355 何度も述べてもうしわけないが、上記四人とは、多分に隔たりが大きい。
田単が相手にしたのは、楽毅更迭後の騎劫という凡将。
諜報工作を用いたのは大いに評価できるが、その後の実績が少ない。
燕が陥れた斉全土の七十余城を奪還した際も、有能な将を相手にしたわけでは
ないので、評価に迷う。
私の中では、魏の芒卯や晋鄙、韓の暴鳶らには勝るだろうという評価。
低くはないが、格別高いとも感じない。
357 :
世界@名無史さん:02/06/13 15:32
<<名将>>
呉起、白起、楽毅、孫武、孫賓、李牧、王セン
<<良将>>
田単、廉頗、趙奢、信陵君、孟嘗君
ってところじゃなかろか。
358 :
世界@名無史さん:02/06/13 15:46
>>357 蒙驁を忘れてはならないかと。
韓攻略では、重要拠点である成皋、榮陽を奪取して三川郡を設置。
趙の37城、韓の13城、魏の20城あまりを攻略。
魏領の高都、汲を攻略し、魏領内に東郡を設置。これにより、秦と斉が
地続きになる。
趙の太原なども攻略してる。
信陵君には敗れたようだが、白起没後の軍事面での功績はかなり大きい。
359 :
世界@名無史さん:02/06/13 16:01
燕の亜卿として他国を味方に引き入れた楽毅だが
済西の戦い他の輝く戦功も、諸侯が参画したおかげ
でも有りどうなんでしょ?
>>357さんの<<名将>>を個々に考えると、
呉起 王セン
孫武 → 李牧 → 楽毅 → 白起
孫賓
と感じる。
トップの三人に敵するものは無い。
360 :
世界@名無史さん:02/06/13 16:14
都市国家の連合体は、ハマるとオセロゲームのように一気にひっくり
返ることがある
敵と抗戦 敵に降伏
敵軍が勝った場合 処刑される 既得権は保護
自軍が勝った場合 既得権は保護 処刑される
で、どうやら自軍のほうが旗色が悪いとみんなが思えば一気に崩れる。
敵軍:自軍=51:49
の状態で自分の都市が寝返れば少なくとも
敵軍:自軍=52:48
みんながそう考えれば・・・
#アレクサンダーの東方遠征もこのパターンですね
361 :
世界@名無史さん:02/06/13 16:18
>>360 > 敵と抗戦 敵に降伏
>敵軍が勝った場合 処刑される 既得権は保護
>自軍が勝った場合 既得権は保護 処刑される
敵に降伏したのに自軍が勝つなんてパターンはありえるの?
ちょっと、普通じゃ考えられないけど・・・?
362 :
世界@名無史さん:02/06/13 16:25
>>361 コピペに反応しても意味無いと思われ。
まぁ>敵に降伏したのに自軍が勝つなんてパターンはありえるの?
というのは、都市国家の連合体という前提があるので、ありえるな。
必ずしも処刑されるとは限らないと思うが。
363 :
世界@名無史さん:02/06/13 16:36
>>362 べつに、敵に降伏したのに自軍が勝ったなら再降伏するだけのことだよ。
八百長戦争で大もうけ
365 :
世界@名無史さん:02/06/13 22:52
すまん戦国・春秋にはテンで関係ないのだが、質問。隋代以降皇帝の尊号が〜帝
ではなく〜宗皇帝と大きく変化していると思うのですが、何で?教えてくり。
366 :
世界@名無史さん:02/06/14 00:48
そうか?隋・唐・宋・元・明・清・・・。
367 :
プラト-ン:02/06/14 00:57
秦の白起がすごい なにせ常勝将軍。なのに政治対立であっさり殺されて…
>>367 ガイシュツだが、白起は目前の敵を打ち破る能力は
抜群だけどねぇ・・・・・・。
仮にだけど、わしと白起が戦うと仮定するとどー考えても
わしが勝つよ!
>>孫武殿
パイオニアはわたしだヨ。
>呂尚
貴方は、伝説の人です。
それにここは貴方の出る幕ではありません。
武王のもとに帰りなさい。
372 :
世界@名無史さん:02/06/14 09:54
楽毅って元々魏の人だったんだね、、知らなかった。
魏って公孫オウ、孫賓、楽毅とか優秀なのが出ていっ
ちまうね・・・・・・もったいない。
373 :
世界@名無史さん:02/06/14 10:08
>>372 簡単に書くとね、、、、、
逸材というのは、自らほいほい出て行って仕官する
のでは無くて、その国の君主や有力者が掘り起こす
ものである・・・てな感じだったわけ。
商オウは引き立てが有ったのに、若く無名という事で
用いられなく蓁にいったし。
わしは、伍シショがどーしても来てくれと言うもんで
しかたなく出てやったし。
要するに権力者との相性が大事なのよ。
375 :
世界@名無史さん:02/06/14 10:25
376 :
世界@名無史さん:02/06/14 11:02
>>372 楽毅自体は魏の出身じゃないよ
先祖ね、先祖。
ちなみにその先祖は息子の体肉を羹にして食らったとか。
377 :
世界@名無史さん:02/06/14 11:46
済西の戦い時点の国力:斉>秦>楚>魏>燕>趙>韓
378 :
世界@名無史さん:02/06/14 12:01
国力といわれても・・・
斉より蓁のほうが上と思うし、魏 燕 趙の位置も
どうでしょうか。
燕が斉にボコボコにされてから済西の戦いまでに、そんなに
国力が回復(伸長)したとも思えんし・・・
記号を使うのは好かんが、、、
蓁>斉>楚>趙>燕>魏>>>韓でひとつ。
379 :
世界@名無史さん:02/06/14 12:10
済西の戦いは、なぜ・・・
斉 VS 燕・秦・趙・魏・韓・楚
・・・の戦いになったの?
むしろ・・・
秦 VS 燕・斉・趙・魏・韓・楚
・・・の戦いにした方が良かったと思うけど?
380 :
世界@名無史さん:02/06/14 12:25
>>379 斉が周りにチョッカイだし過ぎ。
周りの国が、宋をめぐってにらみ合ってる時に
斉はさっさと併合したからもう大変。
燕は積年の恨みをはらす絶好の機会とばかりに
諸侯に”斉を懲らしめましょう”と提案。
そして斉VS諸侯の図式が・・・・・
一番喜んだのは、蓁であることは間違いない。
381 :
世界@名無史さん:02/06/14 12:29
>>380 先に秦VS諸侯の図式にしていれば・・・
秦の天下統一を阻止できたかもしれないのに・・・?<疑>
>>381 そう言う構図は何度か有ったんですが・・・。
最大のチャンスは、楚が同盟国だった斉を攻撃して
台無しにしちゃうし、、、。
まぁこれも、蓁(張儀)の画策だけどね。
結局は中原諸侯には統一は出来んかったんじゃないかな。
蓁もしくは、楚(国体を大幅に改革できたらの話)が
統一したと感じるのです。
383 :
世界@名無史さん:02/06/14 12:57
蘇蓁の春は短く終わった。
384 :
世界@名無史さん:02/06/14 13:02
>>382 なんとなくわかる。
中原諸国には武力統一なんて概念、はっきりあったとは思えない。
超大国に周辺諸国が入朝…くらいだったのかもしれない。
魏の恵王の頃をみてると、多分にそんな気がする。
秦も武王〜昭襄王の頃は、まだそれに近いんだろうと思う。
>>382 周王室が大前提にあるからね、、、わしも中原諸国では
統一は出来んに賛同。
諸氏、待たれよ。
まるで秦の天下統一が悪いことのようなご意見が多いではないか。
ここはアカデミックな板ではないのか。
それなら、そのような感情的な意見ばかりではイカンぞ。
387 :
380-382:02/06/14 14:00
>>386 これは申し訳ない。
済西の戦いから話が脱線したようです。
蓁の批判するつもりはありませんのでご容赦を。
388 :
世界@名無史さん:02/06/14 14:07
これまでのレスを見ていると、
将軍タイプと軍師タイプに好みが分かれているな。
知勇兼備となるとやはり呉起で落ち着いちゃうの?
389 :
世界@名無史さん:02/06/14 14:40
済西の戦いは、なぜ・・・
秦 VS 燕・斉・趙・魏・韓・楚
・・・の戦いにならなかったの?
390 :
世界@名無史さん:02/06/14 14:44
ぶっちゃけ、三晋分割以前、六卿最大の知氏を三晋が屠った時点で秦の将来にわたる絶対的優勢は固まった。
唯一楚(一時期は呉)は秦の圧迫を支える可能性を有したがやはり呉起(また伍子)に自由な手腕を振るわせなかったために内部を強化できなかった。
姜姓の国は三晋にさえ及ばなかったと思う。むしろ宋に一時期可能性があったと見る。
武霊王の騎兵は秦にむしろ強化のキッカケを与えた。長平はすでに武霊王の捕縛から始まっていた。
391 :
世界@名無史さん:02/06/14 15:50
>>389 380に書いてあるでねーの?よーく見てみれ。
392 :
世界@名無史さん:02/06/14 15:56
>>390 宋の可能性があったの? 初耳なので教えて。
393 :
世界@名無史さん:02/06/14 16:08
華元や向戌の提唱した、南北和平案とかのこと?
宋襄公でも、ないか…。
無論、桀宋では…ないよな。
>>390 そ〜かの〜?
商オウ変法以降に蓁が頭角をあらわしたように思うが?
それ以前は、辺境の蛮族くらいにしか他の諸侯も感じ
ていなかったんではないかね?
395 :
世界@名無史さん:02/06/14 17:45
>>380 >斉が周りにチョッカイだし過ぎ。
>周りの国が、宋をめぐってにらみ合ってる時に
>斉はさっさと併合したからもう大変。
>燕は積年の恨みをはらす絶好の機会とばかりに
>諸侯に”斉を懲らしめましょう”と提案。
>そして斉VS諸侯の図式が・・・・・
>一番喜んだのは、蓁であることは間違いない。
つまり、済西の戦いのとき諸侯は秦より斉を問題視したのか?
396 :
世界@名無史さん:02/06/14 18:11
>>395 そうだよ〜
あの頃は斉は暴れまくってたからね
397 :
世界@名無史さん:02/06/14 18:18
>>396 でも、結果論だが・・・
後世から考えてみれば、やはり斉より秦を先に叩くべきだったと思うよ
398 :
世界@名無史さん:02/06/14 18:27
>>397 激しく同意!
つまり・・・
斉 VS 燕・秦・趙・魏・韓・楚
・・・ではなくて・・・
秦 VS 燕・斉・趙・魏・韓・楚
・・・で戦うべきだった!
399 :
世界@名無史さん:02/06/14 18:44
あの頃の斉なら秦相手でもいい勝負したんじゃなかろーか。
やっぱ合従してほしかったな〜
400 :
世界@名無史さん:02/06/14 18:49
>>399 そうすれば、たぶん秦の天下統一は阻止できたよ!
401 :
世界@名無史さん:02/06/14 22:46
とりあえず秦と孫{月賓}の漢字を統一してください。
402 :
世界@名無史さん:02/06/14 22:47
激しく結果論。
403 :
世界@名無史さん:02/06/15 00:26
404 :
世界@名無史さん:02/06/15 11:20
みなさま
孫臏 ← 御随意に使用なされ。
>>400 秦による統一がなかったら、中国はヨーロッパのようになっていたかも
しれませんね。
文化的背景を同じくする国が合従連衡を繰り返す世界。
当然、科学技術や政治学(主に戦争につかうテクノロジー)なんかもその
まま進歩して、近現代の欧州の独走はなかったかもしれない
#ただ「紙」の発明やシルクロードの開設といった、人類史上の
#重要なマイルストーンががどうなるかは・・・
>>362 >コピペに反応しても意味無いと思われ。
コピペではありませんが・・・
406 :
世界@名無史さん:02/06/15 13:17
宋の強化の可能性は、やはり襄公期にまがりなりにも諸侯を集めよう、という発想を持ち得た条件を、とくに商邑の商業集積(鄭を継ぐ政治的位置)を適切に国力・名望の強化に寄与せしめていたら、という事です。
西北の馬産だって輸入等によってカバー出来たかと。
まあ、斉の商丘についても言えたかも知れませんが、かなり東に寄ってますし。
407 :
世界@名無史さん:02/06/15 15:07
済西の戦い時点の国力:斉>秦>楚>魏>燕>趙>韓
408 :
世界@名無史さん:02/06/15 15:48
随分と久しく、スレの主旨に反してるな…。
>>407 斉≧秦>楚>趙>魏>燕>韓
くらいだろうと思う。
っていうか、いい加減、済西ネタはいいだろ?
409 :
世界@名無史さん:02/06/15 19:23
[中国の戦国七雄]
燕・斉・秦・趙・魏・韓・楚
[日本の戦国七雄]
武田信玄・上杉謙信・毛利元就・今川義元
北条氏康・織田信長・豊臣秀吉
[現在日本の七雄]
自民党・公明党・保守党・民主党・自由党・社民党・共産党
独断・偏見で選ぶ、戦国期の名君五人。
魏文侯・秦孝公・斉威王・趙恵文王・燕昭王
他のご意見を求む。
>>410 趙だったら武霊王、かな。
ま、死に方がアレなのはなんだが。
少々スレ違いな罠。
名将ねえ…経世の大略から兵卒の鼓舞までなんでもありの呉起、が一番好き。
軍事的才能でいうなら、楽毅が輝かしく見えるなあ。
↑宮城谷に影響されすぎなのは否定しない>楽毅
412 :
世界@名無史さん:02/06/17 08:29
経世の大略をというなら管仲でしょ。
けして堅君とはいえない桓公を覇者にしたてた才能と
人心掌握能力。
>>400他
あいもかわらぬ秦嫌いの論調。三戦板へでも逝きなされ。
しかし、その嫌いようは、儒学の徒のような(w
>>412 このスレのタイトルが名将であるかぎり、やはり呉起ではないか?
タイトルが「名将・名相」となっていれば管仲だろうが…
414 :
世界@名無史さん:02/06/17 12:31
>>413 判官びいきになるのはある程度はしかたないね・・・。
わしは白起を推す。
でも仮に白起と野戦となると白起に軍配をあげるけどね
白起が敵兵にあたえる恐怖は凄まじく、呉起では抗しき
れないと思うが。
知略を云々となると呉起か孫武か孫賓でしょう。
415 :
世界@名無史さん:02/06/17 12:39
有能な軍師だけではダメだし、勇猛な将軍でけでも
だめだよ!
スレちがいだけど、
呉起って三国志でいう孔明とだぶるんだよな〜
名将ってなると趙雲とだぶる李牧ということで。
416 :
世界@名無史さん:02/06/17 12:48
>>415 趙雲は名将というよりも、むしろ豪傑。
なにしろめだった事績どころか、将帥としての経験がほとんどない。
寡兵で大軍に抗した…なんて、ほとんど演義の影響では?
呉起と諸葛亮は、いち分野にとどまらない才能を有している点では共通するが、
仮に兵家としてくらべれば、まったく畑違いだと思う。
自分の中では、二つとも、まったくかぶりはしないのだが。
417 :
世界@名無史さん:02/06/17 13:01
>>414 白起も呉起も、軍中にあって兵卒の心を掴むことには非常に長けている。
春秋期の司馬穣苴も、かなり有名。
外敵に対しての恐怖感となると、時代背景に差があり同時代に並存している
わけではないので、一概には比較できないかも。
ただ、戦争というのは消費一辺倒ではないので、占領後の人心掌握や行政と
なると、白起は悪影響や弊害を招きかねない気がする。
名将は多けれど第一を挙げるとなると、候補は極少数だな…。
418 :
世界@名無史さん:02/06/17 13:10
やはり”オウセン”が一番です。
ご褒美頂戴!!!
>>415 三戦板へ逝かれい!
私は諸葛亮マンセーともいえる状態だが(子供の名前に「亮」の字を
使った)、それでも彼は「名相」であって、決して「名将」ではない
のでは?と思っているが…
420 :
世界@名無史さん:02/06/17 15:16
>>418 かなり賛成。
先を読む処世術・・・・見事!
少々出来すぎた話だがね。
ちなみに、私の子供の名前は‘舜’です。
趙奢が大勝した閼与の戦いの秦将ってはっきりしないよね。
時代的に白起の可能性ってないかな。
422 :
世界@名無史さん:02/06/17 16:23
>>421 胡陽が主将。
白起は無関係ではないが、、、、、。
423 :
世界@名無史さん:02/06/17 16:29
>>412 >>7で、対象範囲を
>戦国中期〜蓁とさせていただきます
とあるから管仲は対象外では?
まあそれほど厳密に考えなくてもいいかもしれないが。
>>419 同意。
孔明は名政治家ではあったが名将ではなかったと思う。
ところで、
>>415も一応呉起の名前を挙げてるのだから、
無下に「三戦板へ逝かれい!」というのも酷ではなかろうか。
微妙にスレ違いsage
425 :
世界@名無史さん:02/06/18 08:28
周って800年も続いたんだね!
単純にすげぇー。
ところで東周と西周に分かれてるが、一回滅亡してるの?
426 :
世界@名無史さん:02/06/18 10:23
427 :
世界@名無史さん:02/06/18 12:06
>>425 春秋期以前の事を言っているのだと思うが、戦国期(前367年)にいたっても、
東周は東西に分かれてる。
完全に滅亡したのは、西周が前256年、東周が前249年のはず。
>>424 確かにおっしゃるとおりじゃ。
>>415殿、許されよ。
最近、王がすぐに「単を呼べ!」「短を呼べ!」と軽んずる風が
あるので、むしゃくしゃしておったのじゃ。
せめて「安平君をこれへ」ぐらい言えんか?って腹を立てておった
もんで、八つ当たりしてしまった。ご無礼つかまつった。
>>426 「滅亡」でいいんじゃないの?
例の狼煙マニアの幽王のときって、実質滅亡でしょ?
>>田単殿
別に気にしてませんのでご心配なく。
三戦版よりも居心地よさそうなので此処に
留まります。
ありゃ?
孫賓て最後はどうなってたっけ?
どなたかご教示願う。
兵法書を書いていました。
432 :
世界@名無史さん:02/06/18 16:35
日本対トルコって言うなれば・・・
日本(衛)でトルコが(韓)みたいなもんです。
どっちにしても、次で消える。
すまん、、、どーしても書きたかった。
>>432 なかなか良いたとえですな。
秦はどこ?ブラジル?イタリア?スペイン?
旧ユーゴスラヴィアは晋ですか?
蓁ってなかなか老獪なので私のなかでは
ドイツかと・・・・。
436 :
世界@名無史さん:02/06/19 08:51
よもや韓国(宋)がイタリア(楚)を破るとは!!!!
川を渡ってる途中で攻撃したからか?
楚の名将、トッティーが更迭さるたからか?
え、まじで韓国勝ったの・・・!?
たしかに強いけどまさかイタリアに勝つとは・・・
いかんな・・・
この板にまでサッカーが侵入してる。
まぁ、国名を色々とたとえてあるから、なんとか
なってるが・・・。
しかし、韓国は次はスペイン(斉)だね、、、、
いかん、私までこのような・・・・・・・・・・。
しかし、日本が負けたら、ニュースの主役は
ムネヲになってしまったね(w
このような政治家は、孫武殿ならどのように処分されるかな?
>>田単殿
門で正午に会いましょうと、約束しておいて
わざと”やまりん”に接待させる。
遅れてきたところを軍規により斬罪にする。
441 :
世界@名無史さん:02/06/20 14:34
司馬穣苴のお話ですね。
>>440 私なら、尻に火をつけて、追い立てる、ってとこですね。
白起さんなら、やはり生き埋めにしちゃうんでしょうかねぇ。
しかし、春秋戦国の時は自分を売り込むのに有力者に
賂を贈るってことは多かったしな〜。
アノ〜、チョトイイデスカ?
このスレ読んでたら興味出てきたんで、
春秋戦国のことを知りたいんですがどんな本を読めばいいのでしょうか?
教えて君ですみません。
445 :
世界@名無史さん:02/06/20 23:14
>>444 まずは「史記」という書物を読め。
司馬遷という人が著者だ。
かなり有名な著者だからすぐに見つけられるだろう。
そして春秋戦国期を肌で感じ取れ。
446 :
世界@名無史さん:02/06/20 23:34
史記なら岩波文庫から『世家』と『列伝』が出てる。
448 :
世界@名無史さん:02/06/21 00:20
俺は まずは安能務著の「春秋戦国史」(講談社文庫) を推薦するが。
私は、まず史記の「列伝」で、ここに名前の上がっておられる
方々の部分から入ることをおすすめする。そのあと「戦国策」と
史記の「世家」→「本紀」。
安能務著の「春秋戦国史」(講談社文庫)も大変おもしろいが、
通俗と別解釈ということで、まずはイパーン的な方を先にしたらどうか?
春秋戦国は奥が深いので、いきなり戦国策や史記から
入るのはどうかの?
よく書店に形式張らない書物が売っているので、その辺
から攻略したほうが良いと思うの〜。
>>444さんの知りたい内容によるが、、、、、
その中で、興味の出た人物、事柄より広げていかれては
如何かな?
「史記を読め」っていうのは、半分、ネタで書いたつもりだったのだが。(w
まー、要は原文を読めって言いたかっただけ。
452 :
世界@名無史さん:02/06/21 11:50
ひとくちに春秋・戦国時代といっても、ざっと550年もある。
とおして読んでも、あまり頭には入りにくいと思う。
まずは、少しでも気になる人物の事績を追ってみるのもいいかも。
管仲や楽毅などは、三国志を知ってる人間なら、名前くらいは聞いたことがあるはず。
安能務の「春秋戦国志」は入門として悪くはないが、少しばかり偏った固定概念を
植えつけられるかもしれない。
453 :
世界@名無史さん:02/06/21 12:26
原文を読むのが一番いいのは明らかなんだが、
思いっきり入門編としてなら、「小説十八史略」(陳舜臣)の
春秋戦国の部分(1巻の後半、だったかな)を読んでみるのもいいのでは。
有名なエピソードをそれなりに採録してるし、
分量も軽く読める程度。
そこから「春秋戦国志」&気にいった人物の列伝、と進んでいくとか。
ちゅーか単に自分がたどった道を勧めてるだけだったりする(w
私が厨房だったころ、徳間書店から「戦国策」や「孫子・呉子」
「史記」なんかが出てて、抜粋だけど、翻訳文の後ろに原文と
読み下し文が載ってて、けっこうためになった気がする。
まだあるのかな? 箱に入ってて、結構高かったけどね。
中山王って、沖縄を支配していたんですよね?
457 :
( ´_ゝ`):02/06/21 14:36
孫武
458 :
世界@名無史さん:02/06/21 15:45
459 :
世界@名無史さん:02/06/21 16:06
中山というと、七雄に匹敵する強国とある本に
書いてあったが、名の売れた人って居たの?
460 :
世界@名無史さん:02/06/21 16:47
>>459 (゚д゚)ハァ?
それはどんなDQN本ですか?
中山が強国がどうかは知らんが、楽毅がいたおかげで粘着し続けた
国ということだけは確かだな。
462 :
世界@名無史さん:02/06/24 08:29
>>460 楽毅の中山における影響力は、あくまでも小説内の脚色された虚構のようなものと
思うが…。
うむ、確かに漏れは宮城谷厨だ。
しかし、このスレでも楽毅は相応の評価をうけているが、何か?
むしろ、貴殿は中山があれだけ粘着気味に延命できた要因はどこにあると推察されるか?
ヘボぞろいで暗君がいる中山国なぞ、武霊王が望見した次の年には滅んでおろう。
464 :
世界@名無史さん:02/06/24 10:32
>>463 べつに、完全に否定するわけではなかったものの、誤解を生んだ模様。
楽毅は、もちろん自分もかなり評価してる。
ただ、中山をそこまで下等に評価するのは、どうかと思う。
たしかに「世家」にも無く、「戦国策」に幾分かの記述がある程度なのだが、
天然の険阻な地形を有し、国土も衛や魯よりも大きく、しかも人口がけっこう
多かったらしい。
もちろん、完全な農耕定住型の民族ではないから、狩猟もおこなっていた跡が
見つかってる。
いくら武霊王が稀代の戦略家であっても、一国を一年程度で滅ぼせる方がおかしい。
統一間近の秦と他国ほどの開きもないし、一局面に主眼を注ぎ続けられるほど、
趙が強国でもないわけで。
横レスすまんが、
中山については、正確な記述が少ないので判然と
せんが、版図で言うとかなりな国であったと思う。
わしは
>>464に賛同する。
466 :
世界@名無史さん:02/06/24 12:22
>>459 司馬熹は、「戦国策」にも名がある有名な人物。
467 :
世界@名無史さん:02/06/24 12:25
なるほどなるほど。納得できました。
確かに中山国は胡族の流れを汲む土着民が多いため、潜在的な戦闘能力は
三晋の流れを組む趙に比べれば、それなりのものであったでしょうし。
武霊王の軍制改革、胡服騎射にしても家臣の反対が多く、また、そのような
戦略が慣れていないという点もあった故、中山国を今すぐに・・・という
わけにはいかなかったのでしょうな。
やはり宮城谷厨ではだめだな。勉強し直そう・・・。
468 :
世界@名無史さん:02/06/24 12:37
司馬熹は魅力あるな。やっぱ人間追い詰められた時に本性本質を表すわけで。
司馬遷の先祖の1人。
469 :
世界@名無史さん:02/06/24 12:49
>>468 「司馬」を姓(氏)とする人物には、なかなか興味深い人物が多い。
秦・恵文王〜昭襄王期の司馬錯もそうだろうし、春秋期の司馬穣苴もそう。
>>468 直接の先祖って司馬錯でいいの、遷ちゃん?
>>467 自らを宮城谷厨と貶める必要はないよ。
かくいう自分も全作品読んでるし。
そこから興味や探究心が芽生えれば、史書を読むのもいいし、自論や考察が
生まれもするから。
472 :
世界@名無史さん:02/06/24 13:05
南山・北山・中山王、だに。
473 :
世界@名無史さん:02/06/24 13:11
あの〜教えてほしいのですが。
私、まともな物は史記しか読んでいません、
できれば、幅広く(色んな人物や事象)
記述してある本ってなにかないですか?
お願いします。
宮城谷小説
475 :
世界@名無史さん:02/06/24 13:22
宮城谷って史書?フィクション有り?
476 :
世界@名無史さん:02/06/24 13:24
フィクションだらけっぽい
フィクションが多いのはちょっと・・・。
史書で何か良いものはありませんか?
たびたび、申しわけ有りません、、、どなたか
教えてください。
>>473 かなり簡潔にいくと…
小説‐「十八史略」(陳 舜臣)、「宮城谷作品全般(脚色・虚構有)」
史書‐春秋期 「春秋左氏伝」「史記」」
戦国期 「史記」、「戦国策」
他には、「竹書紀年」、「国語」、「礼記」、「資治通鑑」あたり。
「論語」と「孫子」あたりは、好みになるかもしれない。
個人的に、「韓非子」は好きになれない。
忘れてたけど、「晏子春秋」や「呂氏春秋」もあった…
「戦国縦横家書」が、今世紀になって見つかったらしいが、自分には、
詳細はほとんどわからない。
480 :
世界@名無史さん:02/06/24 13:32
宮城谷氏は孟嘗君マンセーっぽいな。
作品は面白いから良いのだが、それがたまに鼻につく。
>>478 有難うございます。
「春秋左氏伝」と「戦国策」を買いにいきます。
あと、陳 舜臣は個人的に好きなので「十八史略」
も買います!
「春秋左氏伝」と「戦国策」なら、手軽に書店で買うなら「明治書院」の
ものを薦める。
全文掲載されているし、全訳もされてる。
他は抜粋か、せいぜい全訳(抄訳)。
ただし…お値段に、驚かれないでね…
483 :
世界@名無史さん:02/06/24 13:41
>>480 自分もそう思う。
やや御都合的で、好意的な解釈がされてる。
晩年なんか、自領の薛に戻るために、蘇代を使ってたりもしたんだけどね。
魏の宰相にはなっていない、という説もあるし。
>>482 え?
そ、そんなに値が張るのですか?
給料日は明日だし今の財布の中身は・・・・。
ネット通販にするのも、ひとつの手。
発送後、引き落としやコンビニでの支払いなんかも選択できる。
史書の類が値を張るのは、しかたがないわけで。
半端な値段のものは、あまりよくない。
自分の中では、許容範囲の境目が「平凡社」。
これなら、抄訳でも、概ね全訳されてる。
宮城谷氏の小説は初心者の漏れにもわかりやすかったんだが、
夏のボーナスが出た事だし、左伝でも買って読み耽ってみるかな。
どっかにあったけど宮城谷氏の小説の主人公はなぜか剣の達人が多い(w
太公望までそうだったんで、おもいきりワラタ
漫画家で誰か李牧の描いてた人がいた気がしたけど・・・・
誰か情報求む
>>487 「始皇」(シーファン)とかいう漫画のことかも。
自分も読んでた。
たしか「ういーくりぃ朝」で、ときおり掲載されてた気が。
489 :
世界@名無史さん:02/06/24 14:04
思いっきり好青年で純粋な呂不韋が、どうやったらあんな野心家になるんだろうと
楽しみに読み進んだら、最後までいいヤシだったので、なんか違うだろ!
と突っ込まずにはいられなかった・・・>奇貨居くべし
490 :
世界@名無史さん:02/06/24 16:34
>>489 最後は父親(蓁王政の?)と、臣下のはざまで
苦しんだような・・・・。
政も自分の出生の秘密は判っていたろうに、さ
すがに非情の帝王。
政はいわば仲父の残した遺産で統一出来たようなもの
だと感じる。
李斯や蒙天他、多数の人材を見出しているからの〜。
492 :
世界@名無史さん:02/06/24 16:57
仲父が発掘した蒙驚爺さんって隠れた名将だよね〜
扶蘇と蒙天チームってなんで辺境にいったん
だったかの?
わし、その辺詳しくなくての・・・どなたか
教えて下され。
494 :
世界@名無史さん:02/06/24 17:17
>>493
「秦を滅するものは胡ならん」が蒙天の方の理由。
扶蘇は焚書坑儒をいさめたのが理由。
だったと思う。
もうてんの自が違った・・・
496 :
世界@名無史さん:02/06/24 17:20
焚書坑儒とかを扶蘇が諌めたからじゃなかったかな。
497 :
世界@名無史さん:02/06/24 17:47
>>492 白起、王翦と並んで、秦の名将に数えていいと思う。
魏、韓、趙の攻略では、白起よりも深々と侵略してるし。
当時の国家間の力学構造や対外情勢を抜きに語るのも変だけど、
なにせ趙の太原まで進出してるし、秦と斉の領土を繋げてもいる。
政という父親から、どうやったら扶蘇のような有徳の孝子が生まれるのか
かなり疑問…。
499 :
世界@名無史さん:02/06/24 18:02
劉邦と呂后から、どうやったら恵帝のような有徳の孝子が生まれるのか
かなり疑問・・・
500 :
世界@名無史さん:02/06/24 18:03
>>498 滅ぼされた国に対する「判官びいき」の方が多ござるな。
前にも書いてたしなめられたが、そういう向きは、この板よりも、
「三戦板」の方が向いていると思うが(w
始皇帝って、そんなに悪人だったのだろうか?
始皇帝=悪人説は、後世の儒家の悪意から生じた発想ではないか?
ただ、扶蘇が二世皇帝になっていれば、その後の漢帝国の成立は
なかった、なんて妄想を小一時間(以下略
>>499 そりゃあ父親に馬車から投げ落とされれば思うところもあるってもんよ(w
個人的には張良の巧妙なイメージ戦略説がお気に入り。
>>501 >始皇帝=悪人説は、後世の儒家の悪意から生じた発想ではないか?
その通りだと思う。そもそも焚書坑儒以外に目立った悪行はしてないし、
(多かれ少なかれ他の皇帝もやってのけたことばかり)
焚書も坑儒も一般庶民への影響は皆無と言ってもいい。
更に、坑儒の「坑」は生き埋めではなく、単に禁固を指すという説もある。
(安能説に限ったことでなく)
申し訳程度にスレ違いでない話もしとこうか。
名将ではないが、名相ということなら
>>500の韓非子も有力候補だと思われ<まだ微妙に違う
分裂した国をまとめるには道義悪も仕方ないからの〜
儒家思想の理想、いわゆる”徳で国を治める”でなく、
”武で国を治める”を中華史上最初に行なった人物と
言うことと中央集権制度!、わしは高く買う。
扶蘇については、実は少し残念で有ったが、
あの、崩壊の仕方は仮に扶蘇が帝位に就いていても
難しかったかもしれんの。
書き忘れたが、上に書いた”仲父の遺産で云々”は
間違いないということで頼む。
505 :
西楚の覇王:02/06/25 09:48
えらくスレが伸びていると思ったら、私の仇敵の
事象で有ったとは、、、、。
ひとつ聞きたい、「有徳」とは何をもって表すの
ですか?人間的魅力?公明正大?
春秋戦国期だと宋襄公が「有徳?」
>>505 宋襄公の場合は、故事が示すように、「仁」。
「有徳」…つまりは、大きな徳を持っていることで、古代においての
理想像は周の文王や武王、周公旦であり、孔子の理想でもある。
春秋期で言うと、秦の百里奚の徳治は有名。
彼の徳望によって、秦は版図を千里も拡げたといわれている。
扶蘇の場合は、「彼が死んだとき、蒙恬以下の全兵士が涙を流した…」
とかいった話で、おおよその察しはつくと思う。
端的に言うと、法治とは真っ向から反するものかもしれない。
なんか<<春秋戦国総合スレ>>になってきたな。
まあ名将話も出尽くしてきた感があるし、このままいきますかね?
横槍スマソ。
>>506 徳治と法治は対立する概念かもしれん。
しかし理想を言えば相互補完的に運用すべきものではないかとも思うが如何。
>>507 その通りだと思う。
楚の呉起、秦の商鞅は、いずれもそれがないために破滅したと思う。
管仲や子産の場合とは、やはり異なるんだと感じている。
名将…まだまだ名の挙がってない人物は結構いるのだが、いかんせん、
一級ではないだろうね…。
そうだ、ここは名将スレでござったな。
どなたか、お時間のある方、今までに上がった名前で、集計して
下さらんか?
「>」で順番がついている場合は、例えば1位10点、2位8点…
てな感じで如何でござろうか?
ところで、いいだしっぺの白起さんが、最近お見えでないのだが…
ご自分の名前より上に来そうな名前があるので、へそを曲げられたか?
いえ、へそを曲げた訳ではありません、、、
感心しっぱなしで私の出る幕がないだけです。
ただ、廉頗さんには負けたくないだけです。
>>白起殿
廉頗君より上じゃと思うぞ。
正直、漏れが一番だろ?
…僭越なれど、孫(武)子の提唱に応え、独断も交えておおよその集計結果を出してみた。
※集計基準‐レス内にてはっきりと「断定」したものや、「1票」というものなどの
ほか、「対比の末に勝者」となったもの等々…。 明らかな「荒らし」や、「戯れ」に
関しては、除外させていただいた。
また、「コテハン」での書き込みに関しては、レス内にそのコテハン(人物)名が
挙がっていない限り、やはり除外。
時代考証や戦争様式の変遷などを考慮し、選定範囲を戦国期のみとした。
恐縮だが、
>>142>>143>>144も一読いただけると幸甚。
※集計結果(人物名の後ろの数字が集計数)
1位・白起(10) 2位・呉起(9) 3位・李牧(8)
4位・楽毅(6) 5位・廉頗(5) 5位・趙奢(5)
7位・王翦(3) 7位・蒙驁(3) 9位・田単(2)
10位・項燕(1)10位・暴鳶(1)10位・芒卯(1)
番外…趙括(2)
…以上だが、以外なのか、はたまた順当なのか、白起が首位となった。
(へそ曲げスレ主、強し!)
個人的な考察だが、やはり「白起最強説」は、妥当であり現実的かもしれない。
白起が司令官としてはっきり現れるのは、韓の新城攻略からだが、以降約40年の
あいだ、戦場で勝ち続けている。その間に破った敵将を挙げれば、主なものでも
韓の公孫喜、暴鳶、魏の芒卯、晋鄙、犀武、趙の賈偃、趙括など、かなりいる。
同時代、これほどの相手を、しかも時には兵力的に劣勢な状況下を含んでいながら
破った将は、他にいない。あえて挙げれば李牧だろうか。
長々となったが、いちおうこのあたりで。
異論、訂正、良案など、よろしければ伺いたし。
>孫(武)子の提唱に応え
失礼…田氏の誤り…
>>142子
乙彼!
いやーっ、呉起が1位かと思ったら、やはり白起殿であったか!
白起殿。おめでとう!
呉起か楽毅が上位と思っていたので、自分自身意外
な気がする。
わしが範囲外というのが気に入らん!
しかし、
>>142殿の考察範囲であれば、孫賓など
の名は入って然るべきと思うが?
結構な数の推奨があったんじゃないかな?
>>孫武殿
「名将」って感じじゃない、というのが多くの方の実感なのじゃ
ないですか。
「名軍師」というほうがぴったりくるんですよ。
お気を悪くなさらずに…ね。
>>518 選定基準は、あくまでも「将」。
孫臏は軍師としての色合いが濃いので、あえて除外させていただいた。
いちおう集計していたが、4位の楽毅あたりと同率だったと記憶。
ちなみに、武霊王が3票ほどあったと思うが、これも君主ゆえ除外。
孫(武)子は将でもあるが、兵家(兵書)として確立してもおり、判断は微妙。
春秋期で、どこまでも理でおしきる「孫子」では、初めから1位は見えてる。
>>田単殿
ん〜・・・・・そォーかぁ・・・・。
わしとか孫賓は名前もメジャーで、後々に伝わる
功績?ならば中華といわず世界一じゃが・・・・。
「将に将たる器」という事にしとこう。
孫臏の場合、戦場では常に主将田忌とセットだったため、
単独で「名将」としていいものかどうか、微妙な線だと思う。
個人的には、二人合わせて「名将チーム」でエントリーさせたいところ。
孫(武)子ならば文句無しに「名将」だが、残念なことに
春秋期は対象範囲に含まれてない罠。
スレタイトルが「春秋戦国」であるから、
戦国期とは別に春秋期のランキングもしてみてはいかがかと。
525 :
世界@名無史さん:02/06/25 16:31
趙括が2票(欄外とはいえ)とは、、、、いかにアホ将
でも後世に名を残すのは悪くない、、、なぁバショク!!
>>524 管仲は名宰相だけど名将ではないっしょ。
527 :
世界@名無史さん:02/06/25 17:30
不思議なんだけど、
趙括って蓁の国内にまで名前が知れ渡っていたの?
相如が、王の決定に意義を唱えて退けられている
けど、、、
趙括が将帥としてどんな物かまでは判らんのでは?
それとも、とにかく廉頗を更迭させたかっただけかな?
>>527 生兵法ってことで聞こえてたんじゃないの?
目的は、廉頗を更迭させたかっただけなんだから。
529 :
世界@名無史さん:02/06/26 02:09
>田(単)子、孫(武)子
なんか、武将コテの人が普通に喋ってると違和感あるな。
いや、やめろって言いたいわけじゃないよ。
個人的にはちょっと仰々しく喋ってくれると雰囲気が出て楽しい、ってだけ。
しかしやりすぎると「なりきりスレでやれ!」と言われてしまう諸刃の剣w
>>527 秦の国内に名が知れてる必要は別にないのでは?
「秦は趙括を恐れている」と相手に思わせればそれで充分。
別段趙括である必要も無いが、丁度いい当て馬だったのでしょう。
>>528にあるとおり、廉頗を更迭させたかっただけ、に一票。
530 :
世界@名無史さん:02/06/26 02:22
531 :
世界@名無史さん:02/06/26 09:56
532 :
世界@名無史さん:02/06/26 11:31
トップテンのメンバーを見ると、
趙がんがれー!って人と、蓁がんがれーって人が多いこと
になる。
管仲は確かに名宰相だが名将の一面も多と思うがどうかな?
意見求む。
533 :
世界@名無史さん:02/06/26 11:47
>>532 秦は人材が多いからでしょう。
オウセンなんか業績の割には票少ないと思うし。
>>532 戦は無難に勝っている(魯に敗れたときは率いていたかはわからん)
それ以上に、敵方の戦略を先手を打って潰すのが上手いと思う
特に魯や楚に対して必要最低限の兵員で膠着させたあたりは名将と
言って差し支えないと思う
そういう意味では呉起よりも戦の本質を知っていたのでは
>>527>>528>>529 趙括の声名に関しては、「兵学、議論を能くし、国内においてかなう者は
いなかった…」とかいった記述を、何かで見かけた気がする。
親が趙奢でもあり、内外に名が知れ渡っていたとしても、あまり不自然さは
感じないわけだけど。
しかし、李牧が3位であるな(リクエストにお答えた口調で…)
彼については、あのまま生きてれば…という期待票が多く入って
おるのであろうな。
私もその1人であるが…。
趙が元気な頃に、一軍の将として前面に押し立てたかったという
気持ちはあるからのう。
>>537 李牧は中原での戦線に起用される時期が遅かった気もする。
雁門で匈奴十万を大破したり、燕を攻めたりと主に北部戦線で活躍してるのも、
まだ廉頗や楽乗が趙にいたためかもしれないし、中原諸国と異なり、趙は北方の
異民族の脅威にも曝されていたためかもしれないけれど。
そのくせ廉頗の亡命後は、扈輙なんていう凡将を起用して秦の桓騎に大敗し、
斬首十万なんていう損害をだしてる。
もっとも、その直後に李牧が登場して、桓騎を痛撃して逆襲しているわけだけど。
名将を多く輩出したくせに、趙はどうにもその用い方が悪い。
趙の将軍って、手柄を立てても粛正されるっていうイメージ強いしね…。
540 :
世界@名無史さん :02/06/26 17:30
趙では、さすがに天下統一は無理だろうね
541 :
世界@名無史さん:02/06/26 18:32
>>540 やっぱ、武霊王の非業な死が効いているのでは、ないだろうか?
542 :
世界@名無史さん:02/06/26 18:55
主父・・・まだ若かったのに・・・
543 :
世界@名無史さん:02/06/26 19:50
話は変わるが、樂乗と廉頗が仲悪かったって「十八史略」に書いてあったが
マジですか?
秦以外に天下統一可能というとやっぱり斉しかないかな?
楚は国力はあってもあの体制じゃどうにもならないし。
ってことで楽毅がいなかったらどうなっていたんだろ?
>>543 悼襄王の時代、繁陽攻略中に廉頗が更迭され、後任が楽乗だったからかも?
気局、廉頗が楽乗を攻撃して、魏に亡命する。
もっともこのふたり、燕が侵攻してきた際には、数倍する敵を二人で撃退してる
わけだが…。
他に理由って、あったのだろうか。
546 :
世界@名無史さん:02/06/26 21:43
>>544 おそらく斉楚の同盟に対して、秦が他国を誘って攻勢かけてたんじゃない?
その場合趙の動きを秦は警戒しなければいけないので、楚を攻めるのはキツイと思われ
やはり魏を切り崩して、燕を秦サイドに引き込むのが肝要かと
そうしてから斉を直接叩く
ああ、樂毅いなくても一緒だ!
でも何気に昭襄王って優柔不断で偏屈っぽい気も
547 :
世界@名無史さん:02/06/26 21:44
>>545 ああ、サンクス
郭開氏ね、と
斉ファン?にとっては蘇子氏ねなのかな?
548 :
世界@名無史さん:02/06/26 21:56
>>542 えっ?無礼王って、そんなに若かったんですか?
あー、でも即位したときはガキだったから、そうかもなぁー・・・。
>>546 燕を秦サイドに引き込む…とかやっている間に斉が燕を滅ぼして、
後世戦国七雄じゃなくて戦国六雄 (もしくは七雄のままだけど燕
じゃなくて中山などの国) といわれるようになっていたとかいう
可能性のほうが高くない?
>>544 中央集権という概念が無かったからの〜・・・
当時の考えとしては、「他の諸侯を下風につける
事ができればよし」だった事を考えれば、、、、。
551 :
世界@名無史さん:02/06/27 10:14
>>544 統一という概念を持ち出したのは、韓非子ではないだろうか?
それが秦王 政に伝授されるまでは、
>>550に書いてあるとおりかと。
552 :
世界@名無史さん:02/06/27 13:13
>>550中央集権制と、封建制ってどっちがいいのかな?
>>552 ん〜・・・・
詳しい事は判らんがね・・・、中央集権って、兵権を中央が握り
地方の長には大きな兵権を与えないので、後世で言う「軍閥」
みたいな物は出来にくいじゃろーな。
ただ周辺有事には弱いんじゃなかろーか?
いい例が、宋の取った「文治主義」じゃな、宋はおかげで遼に
えらい目にあっとるし、、、。
封建制は↑のような心配はないが、諸侯が大きな兵権をもって
いるんで、ひとたび乱れると収集がつかん。
どっちがいいかは、
現在、封建制が無いので、、、、、、あぁーよく判らん!!
どなたか頼む。
554 :
世界@名無史さん:02/06/27 13:32
中央集権の方が人も、資源も大量に集めれると思うけど
封建制って与えた土地には殆ど宗主の権威が及ばないでしょ
しかし中央集権は一旦中央の求心力が衰えると、各地に空白地帯が生まれちまうし
他には大国病とかあるし
封建制は国力の拡大時期には結構使える気がする
モンゴルとかはそんな感じでしょう
無論しばらくすると独立されちゃうけど
555 :
世界@名無史さん:02/06/27 13:56
国力の拡大時期には封建制を認めて、安定期に入れば中央集権制に移行すれば良いと思う。
>>555 確かに、そうできれば良いが、ちょいと虫が好すぎるのではないか?
実際そのようなことが可能と思われるか?
前漢ではそのように移行しようとして、呉楚七国の乱が起きたしのう。
>>552 中華史上、双方の制度は諸王朝の基本的な国政として採用されたが、
漢王朝のような中央集権国家は内部から脆くも崩れ去ってしまったり、
支配層の末端が内乱を起こしやすいものである。
※宦官の台頭による政治腐敗や黄巾の乱など
一方、封建制度は周王朝や晋王朝等が該当するが、諸侯が力を保持して
いるため、皇帝に忠誠を尽くしているうちは救われるが、諸侯間で権力
闘争が勃発すると、皇帝は為す術がなくなりがち。
※春秋戦国における時代背景や八王の乱など
要するにどっちもどっちだな。
チュンはバカだから、何度も国を興しては滅ぼしを繰り返しているから。
封建制度に限って言えば、まともに成功しているのは日本の武家社会くらいなものか。
558 :
世界@名無史さん:02/06/27 14:21
一応は封建制を認めて、常に仮想敵を置いておけば良いと思う。
>>557 >チュンはバカだから、何度も国を興しては滅ぼしを繰り返しているから。
このスレで、さようなことを申すでないっ!
>>558 でも、その仮想敵と諸侯が結びついちゃう場合はどうよ。
神聖ローマ帝国なんかがいい例だと思うけど。もちろん、結びつきよう
がないほど文化的に異っていればいいんだろうけど。
561 :
世界@名無史さん:02/06/27 16:03
一応は封建制を認めて、常に仮想悪を指定しておけば良いと思う。
562 :
世界@名無史さん:02/06/27 17:01
>>559 「歴史は繰り返される」とはよく言ったものだが、
中国人ほど歴史を繰り返しまくっている民族も
非常に珍しいサンプルであると言えよう。
特にいつの時代にも宦官がウィークポイントとなって
国の興亡が繰り広げられていることに着目すれば、
如何に中国人が学習能力に乏しいか伺える。
563 :
世界@名無史さん:02/06/27 17:05
>>562 禿同!
あと、君主の寵姫が国を滅ぼす原因を作ったことも多く目立つよね。
>>562 中国は王朝の交替があるから目立つだけで、その側に
張り付いている島国だって、「天皇」は残っていても、
政権はどんどん交代している訳だから、偉そうに言えた
立場じゃない、と思うが…如何?
565 :
世界@名無史さん:02/06/27 17:47
楽毅 白起 呉起
>>562 繰り返すのは、全世界同じじゃぞ!
古代中国のすばらしい所は、新しい概念を生み出す優れた
思想、文化にあると思うが?
学習能力というより、学習停滞は確かにずーーっと後世の
清代(同治帝以後)以降に有ったとは思うがの。
どうかな?
>>565 その3人はみんな名将だが、みんな日本語読みの語尾が「き」
なんだね。
つまらんことかいて、失礼致した。
568 :
世界@名無史さん:02/06/27 18:27
チュン厨必死だな(w
>>564 >>566 すみません。別に煽りを入れるつもりは毛頭ございませんでした。
ただ、
>>564さんの「天皇は残って云々」について、論理のすり替えが
されているようで、私の発言に対する何の反論にもなっていないのが
気になりますが。如何でしょう?
570 :
世界@名無史さん:02/06/27 18:37
君主 : 燕昭王
宰相 : 管仲
右相 : 藺相如
左相 : 商鞅
軍師(国家戦略担当):韓非子
軍師(軍事戦略担当):孫武
大将軍 : 孟嘗君
右将軍 : 楽毅
左将軍 : 呉起
将軍 : 白起
将軍 : 廉顱
将軍 : 賓須無(管仲の信頼した武将)
将軍 : 李広
将軍 : 趙奢
*料理長 : 易牙
>>568 退れ、下郎!
>>569 例えば、3幕府とも、封建制→地方の豪族の力増大→討幕という
流れを繰り返しておるのではないか?
天皇制は継続しても、幕府の元、お飾りであったろう?
>>570 そうそうたる顔ぶれでござるな。私の名前など入らぬくらいの(w
ところで、李広で良いの?
李広って、前漢の武将ではござらぬか?
572 :
世界@名無史さん:02/06/27 19:04
田タンも入れてよ〜
信陵君も
>>571 いや、ですからね、私が言いたかったことは、国が滅んだのかどうか
っていうことであって、政権交代について言っている訳ではないです。
確かに中国における国の存亡=政権交代と考えれば何ら違いはないですが、
日本においては国そのものが滅ぶということはなかったでしょう。
例え天皇がお飾りであったとしても、中国のように皇室そのものが滅んだ
わけではありませんから。
それに日本の場合、あくまでも幕府は武家社会を封建する最上級機関であって、
国家の権威を全て朝廷から奪い取ったわけではありません。
国家における重大な案件は、最終的には朝廷に決定権がありました。
そこから考察しても、中国における国の興亡と日本の国家体質をイコールで
考えるのは非常に危い考察となってしまいます。
574 :
世界@名無史さん:02/06/27 20:38
>>570 孟嘗君って将軍との実績あったっけ? 彼は外務担当の方が
あってる思う。
んで楽毅を大将軍に格上げし、空位の右将軍は李牧を推挙。
575 :
世界@名無史さん:02/06/27 20:39
>570
・・・・・・・・・仲悪そう。
日本は血筋云々以前に”神様”だった訳だから、奪うも奪わないも無い罠
578 :
世界@名無史さん:02/06/28 00:05
楽毅!楽毅!楽毅!(・∀・)
579 :
世界@名無史さん:02/06/28 00:29
国家なんて定期的に滅んだほうが風通しが良くて健全っぽい
580 :
世界@名無史さん:02/06/28 01:10
581 :
世界@名無史さん:02/06/28 02:58
誰がなんと言おうと孫武だ。
当時の時代背景を考ると、孫武のするどい洞察力と
着眼点には脱帽だね。まさに天才!!!!!!!!
徹底した合理主義がた、たまらん。。。
死んでお会いしたいくらいだ。
>>581 別に死なんでも、このスレに降臨してるじゃないか(w
廉顱!廉顱!廉顱!(・∀・)
・・・いや、なんとなく楽しそうだったんで。
>>581 いや〜、あなたはよく判って居られるようで!
>>573 確かに、日本は「天下人」=「天子」で無い時代はあったの〜・・・
春秋期の周王室と覇者の関係に似とるな。
ただ、他から見れば日本の体系(万世一系)の方が異様かもしれんが
これもまぁ島国のおかげかの〜、、、、、。
すまん、書き忘れた。
>>570 戦略担当は、わししかおらんじゃろ?
戦術担当は、孫賓が適任じゃ。
585 :
世界@名無史さん:02/06/28 09:00
すまない修正させて下さい。
君主 : 燕昭王
宰相 : 管仲
右相 : 藺相如
左相 : 商鞅
軍師(国家戦略担当):韓非子
軍師(軍事戦略担当):孫武
大将軍 : 孟嘗君
右将軍 : 楽毅
左将軍 : 呉起
将軍 : 白起
将軍 : 廉顱
将軍 : 賓須無(管仲の信頼した武将)
将軍 : 李牧(李広じゃなくて、間違えたすまん)
将軍 : 趙奢
*料理長 : 易牙
で、主旨が変わる変わるかもしれんが、
上に対抗できる後漢末から三国時代のメンバーを誰か
作ってくれ。
586 :
世界@名無史さん:02/06/28 09:17
>>585 横槍すまん、国家戦略は”相”の任務じゃねーか?
”軍師”という職務はどちらかと言うと、軍事”戦術”が
メインになる。
あと、三国時代云々はスレ違いなんで。
587 :
世界@名無史さん:02/06/28 09:25
>>583 >ただ、他から見れば日本の体系(万世一系)の方が異様かもしれんが
>これもまぁ島国のおかげかの〜、、、、、。
島国のおかげを否定するつもりはないが、西晋末期以降の中国は異民族に
国土を蹂躙され、唐代まで漢民族は異民族に支配され続けたわけであるが、
日本は元の襲来をも迎撃したぞ。(神風のおかげとかいうのは無しの方向で)
実質的に勝利したとは言いきれない感があるが、それでも中国とは異なり、
日本は異民族による支配を経験したことがない。
島国のおかげだなんて、ちょっとバカげてるぞ。それを理論のすり替えという。
あんた、孫子を名乗るわりには随分と頭が冴えない発言が多いよ。
全然理論的じゃない。話にもならない。
これだからなりきりコテハン厨はろくなヤシがいないんだよ。
なりきりさんは三戦板にでも逝って勝手に騙ってろってこった。
>>562さん
スレの本筋からずれてるので、もうやめません?
>>585 修正版だね。
で、どこと戦われるのか?
2チームに分けた方が、おもしろいのではあるまいかと愚考するが。
私の出番も出てきそうだし…
ついでに言えば、イングランドも異民族の襲来を経験している。
そういう意味では島国のおかげという論理は不毛だね。
>>587 何を議論したいのか整理するように。
異民族による支配を受けた事が無いからいわゆる
万世一系がなしえたのじゃろーが!。
異民族支配を受けなかった要因の1つとして”島国”
を上げたわけじゃが、君は来襲と支配を混同しておるぞ。
それでは、訊くが君は日本が異民族支配から免れた要因は
どう考えておるのかな?
>>570>>585 そもそも人材は、人格・主義・思想を有した人間であり駒ではない。
各々、属する国において傑出していた人材だが、それを「組織」で括っても
現実性に欠ける画餅に過ぎない。
管仲や商鞅、韓非子を一国家が抱えていたとしても、では、衝突するであろう
施策や方針、極めつけは国家の統治理念の点で、どうやって折り合いをつける?
つけられるわけがない。
彼等が名をなさしめた一因には、比肩する能力で強大な反対勢力を統べる人間が
存在しなかったからともいえないか? (あくまで一因)
ひとつ個人的な疑問だが、韓非子と、藺相如や孟嘗君が、対立せずに国家運営など
できるのだろうか?
592 :
世界@名無史さん:02/06/28 10:15
>>587-589 孫武さんでは無いですが。
周辺国家事情が関係してる事を無視している模様。
イングランドと日本を同じ土俵で論じることこそ、理論的では
ないのでは?
593 :
世界@名無史さん:02/06/28 10:23
チュン厨、弁解に必死だな(w
594 :
世界@名無史さん:02/06/28 10:24
>>591 現実的にはあなたの言う通り。
”韓非子と、藺相如や孟嘗君が、対立せずに国家運営など できるのだろうか?” ほぼ
間違いなく対立すると思います。 でも現実的に考えれば言われる通りであっても
過去を語ること自体、非現実的な語り合いであると思う。 それであれば多少の遊びも許されのでは??
許して欲しい。。。。
595 :
世界@名無史さん:02/06/28 10:25
中国マンセー(孫武)Vs日本マンセー(587)の戦い!
現在は孫武攻撃中か!?。
596 :
世界@名無史さん:02/06/28 10:51
というか
>>587が言いたいのは日本>中国ってことでしょ?
しかし唐を漢族王朝に入れてるなんて何百年前の人だ?
普通に鮮卑系というのが昨今の常識だろ
それと、異民族の襲来とか侵入とか支配とか言うのもステレオタイプだな
基本的に漢匈奴の南北並立時代から両国には多くの異民族が存在した
そして両国の支配力が衰えたゆえに異民族たちが支配者になるという状況が生まれてきた
・・・わけではなくてかつての北の支配者匈奴の末裔劉淵が中華の地で匈奴を再興したというのが実情
そもそも漢でも匈奴でも異民族は登用されていた
匈奴人が漢に仕えることもあれば漢人が匈奴の諸侯になりこともあった
つまり漢族のみが支配階級というのは幻想なのだよ
匈奴の宗室である劉淵(ちなみに漢との義理の血縁関係も持つ)には当然ながら支配者になる資格を有しているのだ
鮮卑系の王朝は従来は匈奴の支配化の一諸侯であったものもいたことだろう
同時に中華でも曹操などという宦官の孫が政権を奪取しているのだから、ハッキリ言って格が違う
異民族の王朝が乱立したというよりは隣接する巨大帝国が相次いで斃れたことから、
その支配下の諸侯による下克上が始まったというのが正直な感想
魏や晋、慕容氏や段氏などに民族間の貴賎など存在しない
乱世や貧困が不幸なのであって異民族支配が不幸なのではないっちゅーことよ
597 :
世界@名無史さん:02/06/28 11:45
おろ?チュン厨の勝ちかよ。面白くねーじゃん。
>>587どーしたんだよ、ほれ反撃しろよ!
孫武さんも田単さんも他の皆さんも、変な電波は無視
しましょう。
このスレは中国の誹謗中傷するとこではありませんので
放置の方向でおねがいいたします。
>>585さん
2つの陣営に分けようよ。
そしたら、またみんなAの勝ちだ、Bの勝ちだって、
盛り上がるよ。
600 :
世界@名無史さん:02/06/28 12:06
>>596 糞レスする前にちゃんと読めよ(w
>島国のおかげを否定するつもりはないが、西晋末期以降の中国は異民族に
>国土を蹂躙され、唐代まで漢民族は異民族に支配され続けたわけであるが、
唐代まで漢民族は異民族に支配され・・・って、ちゃんと書いてあるぞ。
あんた、日本語も読めないのか?(www
601 :
世界@名無史さん:02/06/28 12:08
正直、チュン厨は中国板に(・∀・)カエレ!
602 :
世界@名無史さん:02/06/28 12:12
>>587 おいおい!どーしたんだよ!
なさけねーヤシだな・・・・盛り上げよ−ぜ。
>>587の太傅でございます。
それがし、
>>587の太傅の任を陛下より承っておりましたが、
それがしの教育不行届きのせいで、
>>587がこんなデムパな
発言をして皆様方に大変御迷惑をお掛け致しました事を、
>>587に代わって御詫び申し上げます。
>>585さん
2つに分けるとすると、君主をもう1人選ばないといけないね。
私は、戦国期にしぼって、魏の文侯を押そう。
605 :
世界@名無史さん:02/06/28 12:22
藺相如と韓非子は喧嘩はしないのでは?
藺相如は廉顱との争いを避けたし、刎頸の交わりのくだりを読むと
藺相如なら白起を抑えられるか、むしろその方が興味深かったりして。
韓非子も自分の意見が理解されれば、権力に興味はなさそうだな。
管仲、呉起もまー法家だし韓非子の言うことは、理解できそう。
ただ管仲が死ぬ時の後継者選びを見ると、呉起を出世欲強すぎって評価しそうな
気もするな。
人格のある藺相如、管仲が先に死んだら白起と呉起が争って大混乱とか。
585の中では孟嘗君が将軍では使え無さそうな気がする。
考えると面白い。
僕、役立たずかな?
607 :
世界@名無史さん:02/06/28 12:26
>>600 おめー562の発言で「中国人という民族は」って言ってごちゃ
まぜで話してるじゃねーか!?
言ってることが発言のたびにバラバラなんだよ!
「島国は否定しませんが」って言っておいてその後の発言は
おもいっきり否定してるし・・・・どっちなんだ!
白起くんスマソ、どーしても我慢できんかったもので。
君主か・・・宋襄公なんか面白いと思うがどうじゃ?
手堅い線では魏の文侯あたりは如何かな?
>>田単殿
すまん、かぶったようじゃ、、、、。
610 :
世界@名無史さん:02/06/28 12:41
それだけのメンバーを統率するには、やはり徳の高い
人でないと無理だな。
おそらく2代目で崩壊しそう。
611 :
世界@名無史さん:02/06/28 12:52
>>610 徳ですか?そーなると桓公あたりはどう?
包容力大きいし。
以後名前を名乗らせて頂きます。
約1名変なお人がこの神聖な場を荒らしておる様だが
取り敢えず皆の集、無視することにしましょう。
さて、二つに独断で分けました。
仮にAグループは秦、楚、斉を基盤に、Bグループは
趙、魏、韓、燕を基盤にして、10年間戦ったとします。
さて最終的に勝利を収めるのは何れでしょうか?
Aグループ Bグループ
君主 魏文候 燕昭王
宰相 管仲 商鞅
外交 藺相如 孟嘗君(田文)
軍師 孫武 呉起
大将軍 白起 楽毅
将軍 賓須無 廉顱
将軍 李牧 趙奢
顧問 韓非子 墨子
顧問 祭足 晏嬰
以上でまず如何ですか?
実権のないNo2(ご意見番)として屈原なんてどうですか?
614 :
世界@名無史さん:02/06/28 13:05
Aグループに乗る。
理由;孫武と白起が組むと無敵に思える。
>>612 A のほうが上だろうなぁ。春秋戦国期において宰相として管仲は最高なのは
誰もが認めるだろうし、軍士に孫武、外交に藺相如、将軍には白起と李牧と
きたら…。
わし、Aグループじゃが・・・素直に感じるところを
述べると、Bの将領は呉起〜趙奢いずれも知勇兼備の
名将ぞろい、、、いや、勘違いされては困るが、Aグ
ループも相当なものではあるが・・・・僅差でBとし
たい。
Bグループの軍師が孫賓ならば、Bが優勢と思うがの、、
これはあくまで、軍師と将領についてだけの浅い考え
じゃ。
617 :
世界@名無史さん:02/06/28 13:26
>>白起さん
屈原は面白いですね!
頑固じーさんだし、ご意見番としてはもー最高。
なんか、暴れん坊将軍が頭に浮かぶよ。
>>616(孫武さん)に賛同。
一同に会した大会戦てな事だと孫武のいるAだね。
でも、各方面でバラバラに戦うとBに軍配上げちゃう。
理由:一会戦で雌雄を決するという条件でないので、
後は独断と偏見です。
追伸:素人ですがスレに参加していいですか?
Aグループが多少有利のようじゃが、Bグループを少し
弄ってみた。 味噌は伍子胥と氾蠡を加えて尚且つ
宰相を晏嬰に変えてみました。 如何でしょうか?
Aグループ Bグループ
君主 魏文候 燕昭王
宰相 管仲 晏嬰
外交 藺相如 氾蠡
軍師 孫武 呉起
大将軍 白起 楽毅
将軍 賓須無 廉顱
将軍 李牧 趙奢
顧問 韓非子 商鞅
顧問 祭足 伍子胥
特別顧問 屈原 蔚僚子
手を加えても、私は入らんようだな(苦笑
ま、そのメンバーを見ると、自薦する勇気も起こらんが…
>>618の単于さん、いらっしゃい。一緒に楽しみましょう。
621 :
世界@名無史さん:02/06/28 14:37
管仲と屈原に意見されると、どんな君主もたじろぎそう
管仲と屈原て気のせいかものすごく仲良しだったりして。
あと、将軍たちをまとめるのに、孫武は最良だな・・・。
孫武なら、将軍たちに指示をあたえてあとは任せちゃう
だろうけど、呉起は帷幄で策をめぐらすタイプとは思え
ないので(オールマイティーすぎる?)、将軍と衝突
しそう、、、、。
あのメンバーなら、適切な指示さえ与えておけば間違い
無いしね。
と言うことでAが勝つ。
>>620(田単さん)
ありがとうございます。
>>皆さん
宜しくおねがいします。
最近興味をもったものでご迷惑をおかけする
かも知れませんがご指導ねがいます。
623 :
世界@名無史さん:02/06/28 15:28
>>587の日本マンセー野郎どーしたんだよ!
このスレの住人にぶちのめされて終わりかよ!!
ただの、チンカスヤシだったのか・・・。ププッ。
氾蠡の字が間違っていましたので修正しました。
廉顱の字も間違えているような気がします。 どなたか
訂正してください。
単于さん私も素人です。一緒に楽しみましょう。
Aグループ Bグループ
君主 魏文候 燕昭王
宰相 管仲 晏嬰
外交 藺相如 范蠡
軍師 孫武 呉起
大将軍 白起 楽毅
将軍 賓須無 廉顱
将軍 李牧 趙奢
顧問 韓非子 商鞅
顧問 祭足 伍子胥
特別顧問 屈原 蔚僚子
625 :
世界@名無史さん:02/06/28 15:31
どーでもいいけど日本マンセーとか中国マンセーとかしつこく言ってる奴出てってくれない?
そんなこと興味ないから。ここでは春秋戦国時代の話をしたいんだよね。
626 :
世界@名無史さん:02/06/28 15:35
正直、宰相が管仲、晏嬰 だったら、君主は少しくらい暗愚でも、
戦力は変わらない気がする。
>>単于殿
なにで興味を持たれたのかな?
ちなみにわしは、非常にはずかしいが司馬遼太郎氏の
「項羽と劉邦」が最初じゃった、、、、、。
>>孫武さん
とんでもない!わたしはもっとはずかしいです。
じつは、故事成語辞典のなかの「完璧」について
調べていたら興味が湧いてきたんです・・・。
笑わないでくださいね。
629 :
世界@名無史さん:02/06/28 16:10
相如 李牧と廉頗 趙奢が分かれてるところが公平で
いいと思う。
>>626の言うようにわがままでなけりゃ凡君でも問題ない
面子だね。
>>628 なるほど、、、きっかけは色々とあるもんじゃの〜。
実はわしも、この時代はそんなに詳しくなくての・・・
少々聞きかじった程度じゃが、ここの住人はみんな
よい人なので定住してるんじゃ。
さてと・・・Aが人気じゃがBを推す人はおらんか?
631 :
世界@名無史さん:02/06/28 16:36
宰相が管仲てところが決定的だよ、彼に対抗できる
人材っていうと・・・・・・・あ!
管仲の対抗馬としては司馬ジョウショ(漢字判らん)
なんかどう? 宰相に向いてない?
633 :
世界@名無史さん:02/06/28 17:19
国力が互角だったら、その中の誰かが死なないと
決着つかないような気がしる。
どっちも手出しできない模様。両方とも攻勢型の将軍
守勢型の将軍てそろっているし・・・・・。
俺にまかせろ!
歴史に残る大敗北をみせる自身あり!!!!!!
おやじ(B所属)が死んで俺が兵権握ればAの勝ち。
でも俺に兵権はくれないかも!?
その時は、Bにも望みあり!
少しまじレスの趙括でした。
636 :
世界@名無史さん:02/06/28 17:31
>>634 あの面子の前じゃ君はただの「パシリ」。
確かに”管仲”は宰相としては殆ど理想的だと思う。
でもその管仲でも”鮑叔”がいなければどうなっていたか
分からない。 それは管仲が桓公の仲父になるまでは勿論
実際に宰相として治世に乗り出してからも鮑叔の援護は大きかった
と推察される。 従ってAグループに 鮑叔がいない場合は
管仲の能力は半減とまでは行かなくてもかなり減ぜられるのでは
ないかと思う。 であればBグループでも十分な勝機があるように
思われる。 特に長期展望・戦略ではピカ一の范蠡、粘りと恨みでは
中国史上一の伍子胥 、人物は兎も角有能な商鞅、呉起は侮りがたいと
思う。 夫々のグループを背景に孫武と呉起が戦場でガチンコしたら
どんな戦いになるだろうか?
>>太上老君殿
いや、すばらしい考察で軍師と将領だけで論じた自分が
情けない・・・。
>粘りと恨みでは・・・・
微妙な表現じゃが面白いの〜!
わしと呉起が正面きってぶつかると、長期戦は必至だし
運の要素が重きを占めるように思えるがどうかの。
孫武殿
正直、戦略、戦術などでは孫武殿が数段呉起より勝っていると
思います。ただ唯一呉起が孫武殿に勝っている点は、”悪人”カード
を簡単にチョイスできるところではないかと思います。 孫武殿は
仙人のような悟りを啓いたような人柄を感じますが、呉起はギトギト
した人間臭さ、悪人臭さ、ヤクザな感じを感じます。
これがガチンコでぶつかれば、アクの強い方が勝つ可能性が高い様な
気がします。 孫武殿も呉王に初めて見えた際の逸話(愛妾を殺して
しまう)を見れば一概に人の良い方という訳ではないでしょうが、
ただ自分の妻すら簡単?に殺せる呉起とは格段に違うように思います。
何でもアリの戦場では、道徳観念の低い呉起に僅かながら”利”ありと
見ます。
私は、戦国期の名将を3名、というと、呉起、楽毅、白起を
挙げる。したがって、そのうち2名を擁するBの勝ち!と
言いたいが、他に賛同者はおられんか?
それと、宰相を春秋期からとってくるのなら、子産も入れたい
ところだが…
ありゃ、半日見ない間にえらく面白い展開になっとる。
廉顱!廉顱!とかアホなこと言ってる場合じゃないなこりゃ(w
>>640 一部同意。
戦場での実績を元に考慮するとBがやや優位に思える。
多方面で同時にぶつかり合う時の、前線の将帥の層が厚い。
ただし、内政外交も含めた戦略レベルでは、天下を制した管仲韓非子を擁し、
(韓非子に関しては、秦の統一の基盤となった、ということで)
さらに孫子がいることで政軍のバランスも取りやすいであろうAが強いと思われ。
総合的には互角、では面白くないので、無理やり結論付ける。ずばりA。
理由は…燕昭王と晏嬰ってなんか相性悪そうだと思ったから←ヲイ
ごめん、ただの妄想なのは分ってます。お願いだから石は投げないで下さい。
Aの方が、軍事面での人材統制がBよりは楽かもしれない。
白起や李牧は国家戦略を軍事面で具現化するには、最適の人材。
人事に容喙する可能性も低いと思われるが、白起のやや過度な戦果を抑制し、
占領後の行政面を補佐する人物を必要と感じる。
ただし、多局面での戦争が継続された場合、前線指揮官の不足を懸念。
Bの軍事面での将軍連をみると、自我が強いあまり、企画・構想の統一化や
人事に悪影響を生む可能性を感じる。
呉起や廉頗は顕揚欲・自尊心が旺盛に感じるため、迂闊な起用はできないだろう。
趙奢や楽毅を同列以上にはできないかもしれない。
呉起は軍師ではなく、せめて将軍の最上位に置くべき。
軍師では、能力の活用にも制限を生む。
軍事面のみの考察になってしまっているが、戦争領域を局限した場合ならば、
A有利と考える。
Bに関しては、多方面に戦争が拡大した場合、特に廉頗など、単独での軍事行動を
一任しやすい。(層の厚さ…ともいえる)
無論、政策や外交などの戦略構想あって…のことであろうから、軍事面のみでの
考察では、現実性を欠いた結論といえるのは事実なのだろうけど…。
行政や外交政策、長期的な展望の構想に関してでは、宰相に管仲を擁する
Aの方が、明確な方針を確立しやすい。
晏嬰では割合と現状維持を図る可能性を感じるため、軍事色濃厚な国家に
あっては、存在を奇異に感じる。
むしろ范蠡を宰相に据え、晏嬰の能力を外交面のみに制限させる人事の
方が、戦争行為(版図拡大)を念頭におく国家では妥当かもしれない。
ただし、商鞅や呉起が宰相では抑止力の必要性があるとは思う。
良くも悪くも、Aの人事は概ねBよりは良くまとまっている。
上意下達の形態をとり易くは思う。
どう考えても、悩む存在は韓非子と商鞅。
商鞅の関しては、秦での改革以外の方途というのか、どこか未知数な部分を
想像するため、若干ながら評定に迷う。
どうにも明確な結論がでてこないのは、甚だもっともなことなのだろうが。
長々と失礼。
644 :
世界@名無史さん:02/06/28 20:47
>仮にAグループは秦、楚、斉を基盤に、Bグループは
>趙、魏、韓、燕を基盤にして、10年間戦ったとします。
地理的条件を考えた場合、Bグループは異民族の脅威も計算に
いれないといけないね。それとAグループは、防衛要塞がカンコクカン
(字が分からん)が、秦にあり、経済都市が臨畄にあり とハード的に
有利だと思う。
トコロデ、ケンカンチュウガイルネ。オレ、ハンイタデハ、コテハンダケド、コマッタモンダ。。
645 :
世界@名無史さん:02/06/28 21:07
仮にAグループは秦、楚、韓を基盤に、Bグループは
趙、魏、斉、燕を基盤にして、10年間戦ったとします。
さて最終的に勝利を収めるのは何れでしょうか?
646 :
世界@名無史さん:02/06/29 01:50
白起が強かったというより、一首一級で気合入りまくり、秦兵の強さが
大きかったのでは?
647 :
世界@名無史さん:02/06/29 05:25
>>646 じゃあ、 商鞅が兵を強くしたわけだ。しかしあれも水増しが
多かったらしいが。少なくとも、戦場で逃げたら、連帯責任というのは、
かなり効いていたよね。
皆様のご意見を見ればやはり”管仲”の存在が大きく
また"孫武”も評価高くAグループが有利です。 しからば
更にBグループを改造して見ました。 君主を燕昭王から
楚荘王へ、宰相を范蠡へ、范蠡外交は申不害へ孫臏、そして孫臏も
顧問に加えました。 この改造の目玉、個人的には”馮驩”です。
この人は孟嘗君の食客の一人ですが、中々すごい人物のように思って
おります。 特に劣勢にまわった時、この様な人物がいると起死回生
の策がでるのではと思います。
Aグループ Bグループ
君主 魏文候 楚荘王
宰相 管仲 范蠡
外交 藺相如 申不害
軍師 孫武 呉起
大将軍 白起 楽毅
将軍 賓須無 廉頗(廉顱は誤字でした)
将軍 李牧 趙奢
顧問 韓非子 商鞅
顧問 祭足 孫臏
特別顧問 屈原 馮驩
改悪と言われるかもしれませんが、個人的にはBグループは
気に入っています。 ご意見を!!!!
名将というのは、単に戦場で戦に強いだけではなく
戦場に向かうまでに政治、外交、戦略において勝てる
素地を作り上げて、戦場に臨むものだと思います。
また100戦して100勝ではなく、負けても総崩れしない
軍隊を作り上げて、最終的な勝利を部下にも君主にも信じて
もらえるような人格、能力を持った人ではないかと思います。
(連戦連勝する軍隊は、往々にしてたった一度の敗戦で
総崩れすることが歴史上よくありますよね。)
さてそう言う名将論(あくまで個人的な見解ですが。。)は
おいて、限られた同等の条件でもし争えば如何になるかを
考えてみるのも面白いのではないかと!!!!そこで
下記のような展開を考えて見ました。
城は趙の邯鄲、住民5万人余
備蓄食料 5年分 水も十分(井戸多数)
兵力1万5000余(士気旺盛)
守将 : 廉頗 (守りに強い将軍と思う)
軍師 : 墨擢(墨子) 墨子の弟子50人が従う
邯鄲の北西10里のところに楽毅が約1万人の部隊を
率いて城を外から援護している。 また孫臏が南から呉起が
東から各々1万の軍を率いて邯鄲の救援に向かっている。
邯鄲に到着するのは孫臏が1ヵ月後、 呉起が1ヶ月半後を
予定する。
攻める方の軍勢は邯鄲周辺に約5万兵(騎兵5千、弓兵5千含む)
さてあなたが攻める方の君主ならばこの邯鄲攻めをどのような陣容(誰を総大将、
将軍、軍師など)を考えるか(春秋戦国時代に限る)教えて下さい。
>>649 やぶさかではあり失礼は承知の上で、少しばかり質問。
一日の行軍距離を一舎(30里)としてよろしいので?
となると、孫臏の移動距離は900里、呉起が1300里余りとなる。
できれば、上記二将の出発地の邑名を記載してほしかった。
直線距離では、孫臏は大梁から、呉起は臨淄からの出発になる。
寄せ手の進軍方位は、援軍の出発地と楽毅の布陣位置からみて、
邯鄲の南西(上党郡あたり)からが妥当と思われるが、如何?
(邯鄲の住民が極度に少ないのは、意図的?)
651 :
世界@名無史さん:02/06/29 12:41
>>649 >名将というのは、単に戦場で戦に強いだけではなく
>戦場に向かうまでに政治、外交、戦略において勝てる
>素地を作り上げて、戦場に臨むものだと思います。
正論といえば正論だが、そこまで大きな権限の与えられてる武将は
あんまおらんような。このスレで人気の白起なんか外れるだろうし。
っていうか、それ宰相じゃん。
142さん
>一日の行軍距離を一舎(30里)としてよろしいので?
結構です。 ここで言う里は4kmではなく400mです。
但し孫臏と呉起の援軍については”距離”ではなくあくまで
”時間”として認識お願いします。 例えば既に行軍して
いるのであれば距離だけが問題になりますが、行軍するまでの
準備期間や、山越えや遠回りなども想像し、あくまで距離ではなく
邯鄲に到着するまでの時間として認識お願いします。
また142さんは大変詳しい方のようですので知ったかぶりをしても
意味がないので率直に言いますが、実際の地理的なことをあまり
考えずに書いています。すみません。
>寄せ手の進軍方位は、援軍の出発地と楽毅の布陣位置からみて、
>邯鄲の南西(上党郡あたり)からが妥当と思われるが、如何?
その通りと言いたいところですが、これもそこまで考えて
作っていません。 度々すまない事です。
>(邯鄲の住民が極度に少ないのは、意図的?)
これは意図的です。 邯鄲はあくまで象徴的な意味で
使っています。 実際の邯鄲とはあまり関係していません。
邯鄲的なイメージを描いていただければ幸いです。
(実際にこの時代の邯鄲を見た人はいないでしょうが。。。)
色々不手際申し訳ありません。
653 :
世界@名無史さん:02/06/29 13:01
>>649 歴代仮面ライダー大集合みたいなキャスティングだな
アクの強い面々だからほっとても内輪揉め起こすからそれまで放置
654 :
世界@名無史さん:02/06/29 13:11
>>649 ドンブリで計算すると備蓄食糧は最低でも12万トン程度必要ですね。
ちょっと無理があるのでは?
それに城から僅か5キロ程度の地点に展開している楽毅の戦術的意義が不明です。
もっと離したほうがよいのではないでしょうか?
色々ご指摘有難う。 どうも無理があるようです。
649は無しということにしてください。
>>648 あれ、燕昭王変えちゃったのか。
たしかそこに文句つけてるの俺だけで、しかも妄想だから、
無視してくれても良かったのに。
でも楚荘王もいいね。
Bグループ改善の効果は出てると思う。
>>642や
>>653で指摘されてるように、内輪もめの危険性はあるが、
そこで特別顧問の馮驩が生きてくると思われ。
これまた印象論で悪いけど、范蠡(超現実主義)申不害(やや理想主義)馮驩(皮肉屋)
の組合せは意外に有効なのではなかろうか。
最大のポイントは宰相范蠡と軍師呉起の関係だろうなあ。
というわけで結論:まったくの互角。予想できません。
つーかみんな凄すぎ。もはや適当イメージ比較ではついていけないので
しばらく観戦しときま〜す。
どうも、始めまして。
楽しそうですね。高校の頃から中国史好きで読んでいます。
ところで、あまり信陵君の名が見えないんですけど、彼どうなんでしょう。
史記を見る限り、二度ほどしか戦っていないんですけど、兵士の心をつかみ、
国際情勢に明るく、魏公子兵法をまとめるなど名将というふうに思います。
その二度の戦いも相手は強兵の秦兵ですし、趙を救いに行ったときは自国の兵を
奪い(汚点か?)、将を切ったのに混乱も起こらず目的を果たします。奪った兵で
ここまでできるのは用兵、人心収攬に上手い証拠ではないでしょうか。
人格という点でも多少奢ることもありましたが他人の言葉に耳を傾け訂正してい
るし、汚い手を使うときも悲しみながら必要と思えば決断しています。
人を動かす魅力が大きかった。総合的に見て一番のように思えます。
個人的には、魏無忌か楽毅の部下だったら命を賭けられるような気がします。
楽毅は何といっても燕王への手紙がよかったです。名将の条件の中には個人的
に魅力的な人格がほしいと思うのです。強く、用兵が巧みでも兵に愛されるこ
とが無ければ、大業成しえず、攻略した土地の民も心休まらず不安定な情勢が
続き反乱起きかねません。その点で、白起は殺しすぎと思うのです。殺すより
生かし活かすことができればNO.1でした。(戦国策を読むと白起はなかなかの
知将ですね)
あと、田単。
彼は斉を救ったあと斉や趙の宰相になってしまったので、将として活躍する場
がなかったと思われます。残念です。
宰相としても戦国策を読むと管仲や安嬰には及びませんが大過無く過ごしたよ
うなので、将軍のままでいた方が良かったのかなぁとおもいます。(人材がいな
かったからしょうがないか・・)
伯約殿
信陵君は何名かの方々推薦されております。
ただ孫武、呉起、楽毅、白起 廉頗 李牧 趙奢
孫臏 と並べたときに信陵君はメンバーに入らないのでは
ないかと。 もし信陵君は秦と戦った時の相手が白起で
あり、それを撃破していれば文句無くいれますが。。。。
田単も結構多くの方が指示されているように思います。 でも
もし田単が楽毅を打ち破っていれば間違いなく名将でしょうが。。どうも
あの戦いは燕側の問題で勝ちを拾ったというイメージです。
あくまでも私見で恐縮ですが伯約殿へお伝えします。
すでに、私程度が入り込めないレベルで話が推移してる。
くやしいけど、しばらく様子をみます。
横山光輝「史記」から入ったから、顔のイメージは全部固まってる(;´Д`)
662 :
世界@名無史さん:02/06/30 03:15
>>647まあ、そうなるね。
実際水増しはかなりあったみたいだね、趙兵の生き埋めも記録ほどじゃなかったのでは?
あと民間人も首チョンパされたんじゃない?
余談だけど、一首一級は後の蒋介石の国民党も対共産党の為にやったそうだね。それも「授田票」なる
手形まで発行したそうな。でも、台湾に逝っちゃったもんだから、功のあった人みんなに土地与えてた
ら台湾以上の広さになっちゃうみたいだよ。
663 :
世界@名無史さん:02/06/30 03:20
何を言われようと、孫武が名将軍である。
彼が戦争までに至る用意周到さ。
謀攻篇に見られる、軍事的脅威を無くせば戦争など二の次の発想。
また形篇で見られる攻撃より守備を固めよの考え方
虚実篇、九地篇、どれを見ても当時の中国の戦い方、考え方
よりはるかに近代的だ。どれだけ国家に負担を無くすかの着眼点
、または人をみる、戦争をみる洞察力が素晴らしいかよくわかるだろう。
いやぁ、、、天才だぁぁぁぁぁぁ!
664 :
世界@名無史さん:02/06/30 03:22
>>662 いや、余談の方なんだけど、あれも水増しが凄くて、その功が本当
なら、中共軍に負けるはずがない と安能氏が書いていたような。
665 :
世界@名無史さん:02/06/30 03:27
>>663 問題は孫武がそれらのことを実際に出来たかどうかじゃないか?
孫武の事跡は曖昧すぎてよく分からん。
666 :
世界@名無史さん:02/06/30 03:50
>665
ああ!?なるほど。。。確かに。
まあ実績はあるとしたら史記の中からしかねぇからな。
孫子の書いた兵法書には、実績というか
経験から書かれた部分がおおいので、それと史記を見て考えると
実績はあると思われる。
667 :
世界@名無史さん:02/06/30 05:08
つーか、孫子の兵法は戦争に勝つためにマニュアルというより
むしろ戦争をネタにした哲学書だから
孫子の書いた兵法書って・・・実質我々が読んでるのは、
曹操が書いた兵法書の気がする。
以前にも書いたが、わしの13編は戦術より戦略に重き
を置いたもので(以下略
上意下達がしっかりしておるときは問題ないが、混沌
とした状況になると、Aグループのわしが言うのもな
んじゃが、Bグループの将領のほうが優れているよう
に感じる。(個々の判断力etc)
AとBが争えば、ほぼ間違いなく多岐にわたる方面で
戦いが起こる事になり、将領の裁量にゆだねられるこ
とになる。
楽毅、廉頗、趙奢はいずれも攻守に優れた将領であり
>>660(単于)殿が申されるように、一会戦で白黒を
つける条件でないならBが良い。
付け加えると、白起が守勢にまわった時にどうなるかの?
670 :
世界@名無史さん:02/06/30 11:58
AとBが対峙してるような拮抗した状況なら戦争を避けるのが孫子の教えじゃなかったっけ?
672 :
世界@名無史さん:02/06/30 14:24
久しぶりに来てみたら、こんなに面白いスレがあったとは。
私も信陵君の評価が低すぎると感じるんですが。
>>659 での太上老君さんのレスですが、白起にとらわれすぎなのではないかと。
当時の秦の軍は春秋戦国を通じても最も整備されていましたし、白起以外の
将軍もそれほど無能だった訳ではなさそうです。たとえば挙げられている
廉頗にしても長平の序戦で白起のいない秦軍に破れて守勢に回っていますし、
白起死後の秦軍に対しても、信陵君以外で互角以上に戦ったのは李牧くらいしか
いません。しかも李牧の場合、あくまでも撃退に過ぎなかったのに対し、
信陵君は逆に秦の勢力を一時押し戻すほどです。
また信陵君自身には直属の軍がなく、寄せ集めの連合軍でそれだけの成果を
収めたことは特筆すべき点ではないでしょうか。
673 :
世界@名無史さん:02/06/30 14:28
>>672 俺も信陵君は戦国随一の将帥だと思っている。なにしろ欠点さえ見当たらない。
674 :
世界@名無史さん:02/06/30 16:23
>>670 あんた、鋭い。このメンツじゃ、確かに全面対決して、
消耗戦を行うような愚は犯さない罠。そういや孫子も、消耗戦
は一番の愚だとあったな。
675 :
世界@名無史さん:02/07/01 01:03
>668
注訳をしただけだ。
曹操がしたのは。注訳なんて他の人もしてるよ。
676 :
世界@名無史さん:02/07/01 01:50
将器は信陵君>孟嘗君だと思うよ。
自分も信陵君がメンバーに入ってないのに違和感を感じていた。
>670さん
中々核心をつかれたお言葉。 ただ”それを言っちゃおしまい”
のような気がします。 何かで読んだ話ですが(原典はわすれました)
徳川家康が重臣2名と名物のうまい物談義をしていた時の話
”どこどこの何々がうまい”などと盛り上がっていたところ
傍で聞いていた家康の愛妾お梶の方(多分)が、割って入り
一番美味しいものは”塩”です。 塩が無ければどんな料理でも
美味しくはなりません。 そして一番まずいものも"塩”です。
量の加減を誤るとどんな物でもまずくする。。。と断言します。
家臣2人はさすがお梶の方と阿諛追従しますが、家康は喜ばず
”確かに塩は大事なものだが、今は山海の珍味を夫々皆、思い描いて
あれが美味しい、いやこれが美味しいと、まさに目前に在るように
それぞれが楽しむ場である、それを塩と言ってしまえばあまりに
現実的すぎて、話の楽しみがなくなるではないか”。。。。。と
長々つまらぬ話で恐縮ですが、出来ればあまり”核心”をつかれぬように
お願いします。 現実世界にもどればこの種の話は所詮ありえぬことですから。
ただ気分を害さないで下さいね。 これもあくまで一個人の意見にしか
過ぎませんから。。。。
、、、、、で話を夢に戻しますと
如何に孫武が"戦わざる事を至上と考えても”戦いたい、戦好きな
楚荘王あたりが范蠡あたりに駄々をこね呉起と商鞅あたりが悪知恵(失礼)
をめぐらせば、如何な孫武でも戦わずを得なくなるのでは。。。。。
信陵君の評価については低く評価し過ぎかもしれません。
確かに戦国末期の秦と一戦して勝利したのは評価される
べきと思います。 そこでAグループの賓須無の代わりに
信陵君で如何でしょうか? 少しバランスは悪いような
感じがしますが、でもいくらなんでも白起、楽毅の大将軍に
代わるほどではないと思います。
新しいラインナップは下記で如何ですか?
Aグループ Bグループ
君主 魏文候 楚荘王
宰相 管仲 范蠡
外交 藺相如 申不害
軍師 孫武 呉起
大将軍 白起 楽毅
将軍 信陵君(賓須無に代わり)廉頗
将軍 李牧 趙奢
顧問 韓非子 商鞅
顧問 祭足 孫臏
特別顧問 屈原 馮驩
分かりやすくするために下記にコピーしました。
信陵君の評価については低く評価し過ぎかもしれません。
確かに戦国末期の秦と一戦して勝利したのは評価される
べきと思います。 そこでAグループの賓須無の代わりに
信陵君で如何でしょうか? 少しバランスは悪いような
感じがしますが、でもいくらなんでも白起、楽毅の大将軍に
代わるほどではないと思います。
新しいラインナップは下記で如何ですか?
Aグループ Bグループ
君主 魏文候 楚荘王
宰相 管仲 范蠡
外交 藺相如 申不害
軍師 孫武 呉起
大将軍 白起 楽毅
将軍 信陵君(賓須無に代わり)廉頗
将軍 李牧 趙奢
顧問 韓非子 商鞅
顧問 祭足 孫臏
特別顧問 屈原 馮驩
個人的に信陵君は好きだけど、「名将」なのかなぁ、と
ちょいと首をひねったりして…
むしろ「君主」タイプじゃないのかな?
「お前に全部任せる!責任は俺がとるから、思いっきりやれ!」
ってな感じで、部下を発奮させて成果を引き出す、というような…
681 :
世界@名無史さん:02/07/01 13:11
>>680 烏合の衆の各国連合軍を率いて兵制の整った秦の強兵を函谷関以西に追い払
ったのを名将と言わずしてなんとしよう?
これを白起にできたとは思えないけどなぁ・・・むしろ信陵君が大将軍で白
起が将軍の方が分相応かと思う。
>>675 曹操は注釈付けただけじゃないぞ。
孫武以後その弟子達によって書き足され続けた兵書の中から必要なものだけ
を抽出して今の魏武注孫子の形に編纂している点が非凡なんだよ。
運
すみません682は手違いです。
>659のこと
誤解の無いよう書きますと、私も田単は将軍としてはあまり評価していません。
宰相として評価すべきでは?と思ったので書きました。(他国に招かれている
くらいなので)
>678
人選については妥当だと思います。個人的には君主に晋文公、斉威王などでも
面白いとおもいます。外交では戦国時代の奇才、蘇秦と張儀もクセはあります
が能力的には入ってもおかしくなく、管仲などなら使いこなせるでしょう。
(特別)顧問ではあの善人な老人の百里渓(漢字は自信なし)をいれて法家全盛
のなかで、「徳の力」で人心や人気を得てもいいのでは?(戦争は占領した後が
難しいと思います。)
さて、こうしてみると宰相は春秋からですね。その上二人とも軍事、外交、内政
すべてこなせる傑物。改めて戦国時代に入ると文武が分かれていったなぁと思い
ます。別の見方をすると春秋時代に軍事専門であった孫武は珍しい人だったので
しょうか。
>>684 たしかに田単への評価は難しい。
燕軍を駆逐して斉を救った以外、これといって目立った事績が無いのが理由かも。
ひとつ気になったのが、「戦国策」では田単の話によく趙奢の名が登場する点。
有名な趙恵文王30年の項や、燕軍の侵攻を趙相として迎撃する田単の話。
どれも趙奢以下を思わせる話であるし、趙奢との対談にいたっては
「戦術はおろか時勢にも通じていない…」などと酷評される始末…。
田単がいかに斉襄王との関係に苦慮し腐心していたかは有名。
田単はあくまでも斉王室から遠い傍流であったわけで、一国の相は無論のこと
一軍を率いる経験も無かったわけであろうから、世故にも長けていなかったのは
当然かもしれない。(そこを助けている貂勃や魯仲連の話は、非常に興味深い)
ただし、
>>684で姜(維)子が仰るように、宰相として評価できるか、といえば
甚だ疑問。自分は、将として評価している。
趙の置相となったのは、あくまでも当時の情勢の推移や変遷に則った結果、という
ものでしかない。(斉に田単に比肩できる人材が皆無だったのは、間違いない事実)
>>684 顧問に、羊舌肸(叔向)、范雎、蔡沢、虞卿といった名が挙がらないのに疑問。
彼らの掲げる言論とその論旨には合理性を感じ、時勢や現実に沿った献言を期待
できると思う。
少なくとも激動期においては、中途で現実を脇に追いやった屈原は無理がある。
(個人的には、屈原も「楚辞」も大好きなのだが…)
他に、田子方や段干木、李悝が挙がっていないのは以外。
魏文侯期は、呉起の他にも逸材は多い。
>>687 祭足は、春秋初期、鄭荘公期の名臣。
蔡沢は、戦国期、秦昭襄王期の宰相・范雎の後任。
いちおう、別人だと思われる。
690 :
世界@名無史さん:02/07/02 00:17
>馮驩
この人は誰ですか?
全然知らないです。
691 :
世界@名無史さん:02/07/02 09:18
>>686-142 言われることはよく判るが、あまり多くの人材を入れてしまうと
ややこしくなりすぎるのでは?
屈原が脇に現実を追いやったとおっしゃるが、原因の多くは
楚王と取り巻きにある訳であり顧問としては良い人材と感じる。
どっかに有ったが、「実権の無いNo2」が適任。
>686
確かに叔向は忘れてました。
晋の臣では六卿外ではやたら存在感のあった人でしたね。真面目で合理的な
人のように思われるのですが、押しが弱いような感は否めません。まわりが
個性が強く強引な人が多いので活躍できるかどうか・・・
>690
田文の食客のひとりです。剣をたたき唄をうたって良い待遇を得たり、借金
取りにいったり、田文を斉の宰相に戻すのに活躍したり、いろいろ面白いこ
とをやっている人です。史記の孟嘗君列伝や戦国策の斉のところに出でます。
機知のある人と思われます。
693 :
世界@名無史さん:02/07/02 11:37
694 :
世界@名無史さん:02/07/02 12:18
>>690 私は漢文の時間に習ったぞ。
剣を叩いて
「長剣よ、帰ろうか。食に魚なし」
「長剣よ、帰ろうか。出ずるに車なし」
って唄って、待遇を改善してもらって、そのままのうのうと
暮らしていたんだね。
孟嘗君が領地で貸し付けていたお金の証文を焼いてしまったり…
ところがそれが効いて、孟嘗君が罷免されて領地へ帰ると、領民が
打ち揃って出迎えていた…
さらに、その後秦へ赴き、孟嘗君を宰相に迎えさせる交渉をした上で
斉へとって返し、孟嘗君を秦の宰相にすることの不利を説き、みごと
孟嘗君を斉の宰相に復位させた…
ってとこだよね?
ちなみに、宮城谷本では、孟嘗君の行方しれずになっていた息子、という
設定でござったな。
696 :
世界@名無史さん:02/07/02 14:57
今更ながら思い出しました。
ころって忘れてた。
ただ食客まで含むともう限りない気が・・・
>>696 まあ、それも言えるけど、鶏の鳴き真似がうまいとか、盗みが上手、
という食客よりは、ここに入れるにふさわしいかと…
698 :
世界@名無史さん:02/07/02 16:33
王道と覇道を説いた貴重な話。
699 :
世界@名無史さん:02/07/02 16:38
「わたしは臣下として王に君を用いない場合は殺すよう
に申しあげた、、、つぎは君のことを考えてあげよう
すぐに逃げなさい」
「はっはっはっ・・・王が私を用いないのであれば殺さ
れることは有りません」
700 :
世界@名無史さん:02/07/02 16:39
700頂きー。
702 :
世界@名無史さん:02/07/02 21:52
士会は選択肢にはいらん?
(名将)としての強さに限定するなら、十分に資格ありと思われ。
703 :
世界@名無史さん:02/07/03 08:50
age
初心に返り「名将」について書こうかと・・(名臣書いたらきりないので・・)
以前、信陵君を押したのですけど、>659で敵将のことについて少し書いてあったので
そのことについて、
邯鄲救出のときの相手は王齕で、魏救出のときは蒙驁です。
王齕について
秦昭王の46年に韓の上党を奪い、趙を攻める。47年長平の戦いに白起の副将として
従軍。48年、皮牢を伐つ。魏を攻め寧新中(邑名)を打つ。荘襄王の4年、上党を打つ。
などが戦歴と挙げられます。(ちなみに邯鄲は昭王47年)
秦本記や白起王剪列伝などを読むと王齕は当時、白起に次ぐ秦将で邯鄲で信陵君に敗れた
ことを除いて負けていないようです。
蒙驁について
秦荘襄王元年に韓を攻め成皋、他一つを割譲させる。2年、趙を攻め大原平定。3年、魏
の高都と汲を取り、趙の37城をとる。4年に対信陵君となり敗れる。始皇帝元年、秦内
の晋陽の反乱平定。3年、韓の13城を攻め取り、魏の畼、有詭を攻める。5年、魏の酸
棗、虚などを攻め、20城を平定。7年死亡。
蒙恬の祖父で白起の死後、秦将の中心となり帝国統一に力を注いだ人です。将としての能
力、経験は孫の蒙恬よりも高いと推測できます。唯一の敗戦は信陵君との対決でした。し
かし、明らかに敗戦しているのにもかかわらず、敗戦必罰の感のある秦で荘襄王の死後、
幼少の政を輔弼する人物として、また、秦の統一の先鋒として活躍しています。それだけ、
荘襄王や始皇帝に能力を認められていたのでしょう。白起、王剪に比肩する将軍として秦
内では評価されているのではないでしょうか。
ただ、列伝では蒙恬のほうが目立っていたので主役の座を奪われてしまったのでしょうか。
秦の将といわれると白起、王剪、蒙恬が真っ先に挙げられますが、実力的には蒙恬より蒙
驁であったと私は言い切ります。列伝や本記のなかに埋もれた名将のひとりです。
まぁ、何がいいたいかというと、信陵君の戦った相手は二人とも結構有能で、特に蒙驁は
ここで推薦される名将と比べても遜色は無く、相手が凡将だから勝てたのではないという
ことです。(秦将は兵自体がやたら強く、秦王は無能な人物はすぐ首切っちゃうのであま
り趙括のような理論倒れの傲慢な若造はいませんね。)
正直に言いまして白起、楽毅、李牧、趙奢などの相手はここまで強く無いと私は思うので
す。やっぱり、信陵君が一番かなぁ。
>702の人へ
個人的には「名将」って強さだけじゃだめだと思う。でも、宮城谷さんの「沙中の回廊」の
士会は人格的にも好き。
長々とすみませんが、皆さんはどんな資料を読んでいるんですか。
あと、夏休みに読みたいので、手に入れやすい資治通鑑と竹書紀年と呂氏春秋の和訳を知っ
ている人教えてください。
705 :
世界@名無史さん:02/07/03 16:31
706 :
世界@名無史さん:02/07/03 16:31
白起じゃなくても蒙驁に勝ったんだから信陵君は文句無しにトップレベルだと思うのだが。
707 :
世界@名無史さん:02/07/03 17:49
蒙恬って匈奴に対して楔を打った、という点では名将じゃないのだろうか?
蒙恬が死ななかったら冒頓単于もあそこまで勢力を拡大できたか疑問
人柄は文句なしだしね
>>704殿
私、以前信陵君=名将に否定的な意見をレスしたのだが、
個人的には彼は大好きなんですよ。
ただ、彼の強さというのが、作戦によるものではなく、
彼に心酔する者が命を顧みず、猛烈な勢いで秦軍に激突
して勝つ、という感じがするんですよ(実際に見てきた訳
ではなく、あくまで「感じ」なんだけど…)
で、「名将」ではなく「君主」的…といったわけで。
水さすようなレスで申し訳ない!
匈奴も東胡と月氏に圧迫されて弱っていたの時期だったというから
蓁が匈奴を追いやったのも時勢が蓁にかなっていたといえる。
710 :
世界@名無史さん:02/07/03 18:33
范雎が士会の末裔というのはほんとですか?
711 :
世界@名無史さん:02/07/04 08:52
定期age
>>704 ネット通販が無難ではないかと。
「夏休み…」ということは、学生?
であれば、図書館が確実とも考えられる。
どちらにしても良質の史書や資料となると、安価では難しいかも。
713 :
世界@名無史さん:02/07/04 10:22
このスレで教えてもらい、書店(大きな店)に戦国策を
買いにいったが、高くてその場では躊躇しちゃったヨ。
今は、古本屋めぐり中の毎日・・・・。
ボーナス出たから、新品を買おうかな?
>707さん
対匈奴の戦法はすでに李牧がとりあえず守って、機動力を奪っておいてから退却
する匈奴を後ろからたたくという、わかりやすく決定的なものおこなっています。
蒙恬がどのような戦術をとったか、わかりませんが長城を作っていたということ、
他国のいえど李牧の戦術はすこしでも真面目な将なら聞いていたはずだ、という
ことから積極的な戦術はないでしょう。個人的な感想なんですが冒頓以前の匈奴
は防衛するだけなら、李牧の戦術を使えば名将でなくともどうにかなるんじゃな
いかと。
>708の田単さん
戦国時代の君主って自分で軍隊を率いることはまず無いし、前にも書いたのです
けど魏公子兵法の編纂に携わってたくらいだから、作戦も研究していたと思うの
ですが。
でも確かに二度の戦いとも記述が少なすぎるきらいがありますが、秦統一後、秦
以外各国の史書はほとんど焼かれたらしいのでしかたがない。別な視点で考える
と、秦は史書に残せない(残したくない)ほど、みごとに叩かれたのでは。
蒙驁という、当時最高の将軍を出したのに敗れた。しかし、蒙驁はまだ殺すには
惜しい。故に詳しくは史書に書かない、と秦の史官は結論をだしたのでは?と邪
推したりしているんですが・・
>712
ありがとうございます。図書館の書庫あたってみます。
学生です。
まったく根拠も無いかもしれないし推測の域をでないものの…
信陵君が秦に勝利した二度の戦いについて、一度目の邯鄲救出戦では、長期攻囲
の末で秦軍の疲労が大きかったのも勝因ではないかと愚考する。
加えて、攻囲軍が腹背ないし複数の方面より攻撃を受ければ、劣勢に陥るのが
自然なのでは?
二度目の河外での戦いでは、五カ国の合従軍で構成されていた以上、兵力的には
かなり優勢だったようにも考えられる。
無論、複数国による混成軍は統制が困難なため、それを統率した信陵君の手腕が
そうとうなものであろうことは、想像に難くない。
(春秋・戦国期を通して、混成軍の敗戦・醜態というのはあまりに多い)
思うに、信陵君の秀でた才能は統率力であって、傑出した戦術眼というほどの
ものではなかったのかもしれない。
>>714で仰っているように、たしかに自分も詳細な記述を見たことが無いので。
確かに邯鄲救出のときについて、史記の秦本記などを読むと、最初は(たぶん)五
大夫の王陵というひとが指揮をとっていて結構失敗をしていて、ごたごたした挙句
王齕に交代させたらしい。故にある程度兵力、士気の低下していたことは推測でき
るが、普通、将の交代時には兵力の補充がされたということを何かの本で読んだ覚
えがあります。(あいまいですみません)
平原君が楚や魏に助けを出していることは、よほどの愚将でなければ推測はつくし、
平原君の婦が信陵君の姉ということは周知だから、何らかの対策(兵力を分割など)
はとっていたと考えてもよいのでは。
そして、信陵君は兵を奪った後、10万の兵の中から2万ほどを兵の家族のことを
考えて返しています。「情」によると考えるのが普通ですが、兵を減らしても勝算
を見出したとも考えられます。さらに秦が邯鄲を開放した後深追いはしなかったと
いうこともあり、まぁ、都合のよい推測なんですけど、ここから戦術眼の一端を垣
間見ることも。
二度目の方は複雑なので少し家で考えをまとめて、勉強しなおしてきます。
>>717 主将の交代時における兵力・物資の填充というのは、軍事における常識とも
思えるので、王陵から王齕への主将の交代に伴う兵力の増強は、仰るとおりと
思う。
(「戦国策」にも、昭襄王が兵(民)を休ませて戦力の増強を図ったことが
記されているので、的外れな想像ではないはず)
ただし、攻囲が八、九ヶ月ほども経ち、その頃には趙の勁兵が進軍の後背を
脅かしていたらしく、やはりかなりの疲労は募っていたとも思われる。
ちなみに、信陵君が晋鄙より奪った十万の兵のうち二万を残して帰還させた
理由について、”情け”のほかに、少数であるほうが予想外の帥将の交代で
生じた動揺を鎮めやすく掌握が容易である、と自分は推測。
(後年、秦王政が遠征軍の少数精鋭化を図った事実があるため…でも根拠薄)
自分も信陵君は好きで、貶める気は全くないのは御理解いただきたく。
若干、軍事的才能への評価が過大すぎる気がしたまでなので…。
河外の戦いの検討、是非よろしく。
>>710 もうしわけないものの、自分にはわからずじまい…。
ただし、「范」という邑を士会が領有していたことで、范会とも呼ばれて
おり、後世では「范武子」で呼ばれる以上、どこかで繋がりがあるのかも。
士会の他にも枝族は存在するはずなので、もう、想像にお任せするしか…。
もしかしたら、范の出身というだけの理由かも…。
720 :
世界@名無史さん:02/07/04 13:55
>>719 んでもって「范」氏の末裔が劉姓を名乗ったんだっけ?
確か劉邦は士会の子孫とかって言ってなかった?
そろそろ匡章とか1.5流の武将についても語らないか
匡章は田単よりは凄い気もするが
>>720 匡章に関して、「戦国策」では大まかにして三つほどしか記述がない。
おそらく最も有名なのが、秦が斉に侵攻してきた際の、威王との信頼関係を
記した話だと思う。
もうひとつは、宣王の時代、燕の「子之の乱」につけこんだ際に帥将となる話。
…で、彼が名将なのか否か迷わせてくれる話が、威王の時代、濮水での戦いで
魏に大敗した際の将のひとりである、といった記述(将の片割れは戦死)
おそらく、まだ魏は恵王の時代と思われ、また燕への出征の20年ほど前だと思われる
ので、将器が成長していなかったのかもしれない。
はっきりとはわからないものの、田単よりも優れているということは考えられない。
詳しくは語れず、非常にもうしわけない。
722 :
世界@名無史さん:02/07/04 14:46
士会って魏武士っていう記述もなかったっけ?
>>720 呉起、白起、楽毅ならいざしらず、匡章が私より優れている、
なんて、そんな、あんた、無茶苦茶な…
>>722 魏武子は、晋文公に仕えた魏犨のことかと。
(「春秋左氏伝」に記述有)
725 :
世界@名無史さん:02/07/04 16:55
>>724 あー、あの人ん家に火つけたDQNのことか
誰だっけ、被害者?
age
春秋戦国時代名将(名臣、名宰相などは除く)10傑
第一位 孫武
第二位 楽毅
第三位 呉起
第四位 白起
第五位 孫臏
第六位 信陵君
第七位 廉頗
第八位 士会
第九位 李牧
第十位 趙奢
>>727 その順位は、何できめたのでござろうか?
別に不満はないんだけどね。
>>728 順位はここで議論されたり、推薦されたりした方々
を比較的、私的に順位付けしたものです。
もっと端的いえば、勝手に順位付けを致しました。
順位をつけた限りは、一応優劣をつけたことにもなります。
久しぶりに帰ってきた。
おお、孫子、お久しぶりじゃ。
李老人の順位で、1位になってござるぞ。
私は番外じゃが(w
732 :
世界@名無史さん:02/07/05 14:32
名スレ
迷スレ
>>田単殿いかがお過ごしでしたかの?
あれまぁ・・・ほんとに一位に輝いておる!。
居ない間のレスを一読させてもろーたが、貴君に対する
評価は意外に厳しいの〜、、、、。
わしは素直に斉を亡国から救った将帥と思うが・・・。
735 :
世界@名無史さん:02/07/06 09:25
定期age
スレ主の白起殿
順位が4位に下がっておられるぞ!
何か政治家と軍政家と戦略家と戦術家がごっちゃになってるような気がするんですが・・・・
それらを全部ひっくるめた総合評価ということでよろしいのでしょうか?
>>729 個人的には、孫(武、臏)子は別格扱いと思っている。
士会を入れるのは、戦争様式の変化を考慮すれば無理がある。
春秋期は、また別に設けた方が妥当かと。
あまり順位付けには意義を感じないが、単に将才という点であれば…
第一位 呉起
第二位 白起
第三位 楽毅
第四位 李牧
第五位 趙奢
第六位 信陵君
第七位 廉頗
第八位 蒙驁
第九位 王翦
第十位 田単
…精々、こんなところでは?
家で考えていた間にもう順位がついてる・・・
遅きに失してるようだけども、717の続き。
二回目の戦闘の記述は史記の秦本記、各国の世家、その他列伝では明確な記述は無く
戦国策でも信陵君関係のところを読んでもまったく、ヴィヴィットに書いてあるどこ
ろか関連記述もない。ほかの二次資料などを本屋で立ち読みしても書かれていること
は「強い秦の軍を破って函谷関以西に押し込めた」という意味の記述のみで役に立た
ないものばかりで信陵君の戦跡をたどる事はできませんでした。
なので、推測を少々。
まず、当時秦は記述を観る限り西周、東周を併呑し、魏の大梁あたりまで国境を伸ば
していたようです。そうすると、信陵君が率いた5カ国の連合国のうち韓、魏は兵力
がほとんどないと思われます。その上、魏以外の五カ国の世家には出兵したという記
述すらありません。そのことから類推するに五カ国の兵力は名前の割に少数であった
んじゃないかと。対して秦は記述による国力、情勢、魏公子列伝での食客の信陵君に
対する助言を勘案すると、国力を削るのでなく魏を潰しにかかっているようなので少
なく見積もっても10万以上だと思うのです。将についても記述はなく、実質信陵君
ひとりだと思います。戦地は黄河の南ということで大梁辺りとすると、函谷関までの
距離は韓一国以上を回復したといえます。秦が占領した領地を取られること自体めず
らしく稀なことで、統治不完全といえど小国一国分をとったということは相手国を考
えると楽毅と同等かなぁと。攻め取るということは戦術を深く知り、応変に対処しえ
ないとできないことなので、将器は名将として高いのでは。きっと魏公子兵法にはそ
のあたりを書いていたんじゃないかなぁと思うので、今に残っていないのが悔やまれ
ます。以上、憶測で・・
仮に常識的に考えて、五ヶ国の連合軍が多いとしても私の評価は下がりません。司馬
遼太郎さんの「坂の上の雲」での一文です。
『戦術の要諦は、手練手管ではない。(中略)織田信長やナポレオンがそうであるよ
うに、敵に倍する兵力と火力を予定戦場にあつめて敵を圧倒することが戦術の大原則
であり、名将というのはかぎられた兵力と火力をそのように主決戦場にあつめるとい
う困難な課題について、内や外に対しあらゆる駆けひきをやり、いわば大奇術を演じ
てそれを実現しうるものをいうのである。』
小説の引用で恐縮ですが、信陵君はこれに当てはまるのです。孫子の兵法にあるよう
に兵は国の大事なり、と。たった二度の戦いで秦の動きを止めた信陵君はそれに忠実
だったのだろうと思うのです。
これ以上は、もうお手上げなので信陵君にこだわるのはやめておきます。
>722は魏文子では?
>>739 重箱の隅をつつく様で、失礼は承知なれど…
>>722は魏文子では?
士会が范武子で、後嗣の士燮が范文子であるかと。
岩波文庫の史記の晋世家に士会だと思われる人物が魏文子って書いてあった
ような気がしたので書いたんですけど・・・
後で確認してきます。
岩波文庫の「史記」晋世家を確認したところ、たしかに士会を魏文子と表記して
あるものの、完全な誤記ではないかと。
だいいち、士会は食邑名から「随会」「随季」「范会」という呼称であって、
諡号を用いれば、「范武子」となる。
そもそも、魏文子とは何者?
魏氏は畢万から魏犨(武子)…魏絳(荘子)…魏舒(献子)…とは続いていた
ようだけれど(かなり曖昧)、諡が「文」の人物は…。
ageときます。
私も確認はしましたが、どうも司馬遷のいつもの間違いのひとつのようです。
あいまいなことを書いて要らぬ手間をかかせてしまいました。142さんすみま
せんでした。
745 :
世界@名無史さん:02/07/08 12:32
素朴なギモーン。
なんで20万とか30万とか言われる大軍が編成でけたのですか?
>745
まぁ、春秋時代とくらべて人口の飛躍的増加があります。戦国時代になると
鉄などの増加、商業の発展、農業の効率化など、いろいろな技術革新なんぞ
がありまして、食料の調達などが容易になったのではと思われます。史書な
どにチョコチョコと遊説家が「あなたの国の国力は・・」と当時の国情を語
ってくれています。あとほかには、戦争が合理的になって兵士の数が重要に
なってきますので、多少無理をしても国内から人員を調達するのでしょう。
戦国になりますと各国の利害が複雑になるんで、連合軍が組織されることも
ありそれも一軍の増加につながります。
でも、10万以上の大軍は国家の存亡、威信を賭けた戦争だけだと思います。
昔でも国家が変わるときは相当な大軍でした。
戦国時代の名将についてはほぼ煮詰まったようなので、
士会の名前も出てることだし、春秋時代の名将に移行しませうか?
>>744 いえ、あまりお気遣いなく。
>>745 春秋期までは、周代の軍制を記した『周禮』が有名かと思われるが、5人
を最小単位として編成されており、「軍」といえば12500(人)で構成された
兵団を指し、以下、「師」‐2500(つまり五師で一軍)「旅」‐500…
といった具合で組織化されていた。
これは、若干は内実に変化はあっても、秦代まで継承されていた模様。
ちなみに、小国は一軍、中国は二軍、大国は三軍で、周王のみ六軍を
許されていた(ところが晋では、景公12年(前588年)に六軍を設けている)
また春秋期は、主に封建制による各地方領主の私兵を中心に構成されていた。
「氏族制社会」であることが、大きな原因。
戦国期に至ると、農業生産力の増大から「氏族制社会」の崩壊…各国の
集権化…が進み、遍く徴兵制度が布かれることで戦争の大規模化を誘発して
いったものと思われる。
それにより春秋期までの扶庸国という存在が姿を消していったことで、
「攻伐…訂盟(扶庸・属国化)」といった図式がなくなり、少数の強国を
残して淘汰されていく、国家間の総力戦が盛んになっていったためと思われる。
もちろん、春秋期と戦国期の明確な境界は無いので、上記にあることが必ずしも
時代を跨がないでいたわけではないのは、どうか御了承のほどを。
よく判らないので、、、、。
晋が分裂寸前に「智氏?」が最も力が有ったと何かで読んだ
記憶があるんですが、晋の分裂時の状況どなたかご教示希望。
あと、「戦国時代は晋の分裂時を始まりとする」と書いた書物
が多いのですが、分裂時?それとも三晋が諸侯と認められた時?
どっちが正しいのですか?
751 :
世界@名無史さん:02/07/08 15:06
>>750 晋の滅亡をもって春秋時代が終了じゃないの。
>>750>>751 基本的には、晋が分裂した前453年か、周(威烈王)より正式に承認された
前403年のいずれかかと。
といっても、厳密な時代区分はありえないし、他の年代をもって春秋期の
終わりとする説もあるわけで、拘る必要はないと感じる。
ちなみに、晋が滅んだのは前376年(晋静公2年)。
>>750 分裂時の状況というと、知氏を含めた各氏の勢力図のようなもの?
>>142さん
>分裂時の状況というと、知氏を含めた各氏の勢力図のようなもの?
そんな感じで良いのでは?
知氏滅亡と、予譲なんかも混ぜて説明してあげると、喜ばれるのでは
あるまいか?
>>753 田(単)子
あまり無理を仰られても、最も資料の少ない時期でもあるわけでもあり、
自分では手に余る気が…。
スレ主は、何処へいかれたのか…。
>>142子
鄭の子産や呉の季子を思わせる、このスレ一の該博さを誇る142子が
そのように謙遜されてもいけませんぞ。
ざっとで良いのではございませんかな。
六卿から2氏の滅亡→知氏の専横→知氏の趙攻め→
韓、魏の裏切りによる知氏の滅亡ってとこをざーっつと
説明してあげれば…
>>755 田(単)子
畏れ入ります。浅学なれど善処し尽力する所存。
>>142さん 田単さん
六卿から2氏滅んで四卿ですね・・・
知氏(字が違ってました)ってやはり強かったという事なんですね。
>>142 しばし仕事の関係で不在でした、、、
レベルの高いスレに成長した事は大変喜ばしいのですが、
私ごときの出る幕が無くなったような気がして少しくやし
いです、、、もっと勉強しなくては。
晋の分裂については私も興味があります。
759 :
世界@名無史さん:02/07/09 10:03
>>757 知氏は、「智」と「知」のどちらでも誤りではないかと。
「戦国策」と「史記」では「智」、「春秋左氏伝」では「知」とあるので。
三晋の祖…六卿時代…四卿時代…晋分裂…に至る過程と勢力状況を、現在、
乏しい資料と拙い考察を交えて調べているものの、いささか時間が…。
話をふられて、かえって自分としても深く興味を抱いてしまったためかも。
>>142さん
お手数をおかけしてる様で申し訳ありません・・・。
>>758スレ主殿
そのようにおっしゃられることはございません。
私なんぞも、聞きかじり、読みかじりの浅はかさを
省みず、レスしてるのですから。
でも、600前後で少々荒れた以外、あとはまっとうに
成長しておりますな。スレ主殿の仁徳の賜物でしょう。
結構なことです。
ところで、質問。
春秋時代って職業軍人みたいな人は孫武と司馬穣苴(漢字は不正確かも)
くらいしかいないように思うんですが。
史書読んでも、文官や君主が兵を率いてることが多いようで。軍事的能力
が高い人ということでよいのでしょうか?
正直に言って「左伝」は断片的にしか読んでいないので辛そうです・・
142さん頑張って引っ張って行ってください。
>>763姜子
春秋時代の卿=大臣は、平時は大臣、火急の場合は将軍という風に
両方の役目を担っておったのだと私は認識しておるのだが…
だから、文官が軍を率いていたわけではないと思われる。
>>田単殿に同意。
専門職が出来て細分化されたのは戦国期にはいってから
でしょうね。
>>763姜子
春秋期の政・軍事両面を卿が担うのは、氏族制度が浸透しているためでも
あるかと。
>>765にてスレ主が仰られているように、封建制の国家である以上、勢力を
もった領主≒政治の中枢を握る、という図式が成立するため、組織形態の
細分化がなされないのではないかと。
(不勉強ゆえにこのあたりは自信が無く、もうしわけないものの…)
僭越ながら…
もうひとつ重要なのは、この時代(春秋期は特に)公族が主に政権を握る
のが自然であり、「魯の三桓」や「鄭の七穆」、他にも、楚の王族より派生した
屈、昭、景氏による「三閭大夫(でいいはず…)」あたりが有名かと。
晋では晋文公以降、君主以外の公族を国内に置かなかったため、自然と
卿の勢威を助長させ、君主の傀儡・形骸化に至ったものと思われる。
長々となってしまったため、このあたりで。
767 :
世界@名無史さん:02/07/10 10:28
定期age
皆さんどうも。
戦国ではかなり厳密に分けいていて、趙の武霊王とか宋の王偃とかを君主と
いうことで除外していたので確認しました。
それじゃあ、軍事的能力が高い人全般ということですな。
そうすると、楚壮王とか管仲とかになるんですけど当時の戦争の作法みたい
のがよくわからないので、どう評価すべきかわからないし、五覇以前の晋の
文候、曲翼の武公、鄭の壮公などになるとさらにわからなくなるので、どな
たか、わかりやすく説明してくれませんか。
>>768 どなたかって、142子しかいないじゃないですか!
春秋戦国時代特に戦国時代中盤から後半にかけては
剣や弓は勿論のこと、鎧、兜、盾などの防御武具
更には輜重を運ぶ運搬機器など色々なものが急激に
発達した時期ではないかと思います。(詳しいことは
142子にお任せします。 無責任ですが、とても知識では
142子にはかないません) 秦始皇帝の兵馬俑で発見された
青銅剣は20世紀にドイツで開発されたクロムメッキと同様の
加工がなされていたとも聞いています。
しからば名将の資質の中に、新しい技術を戦いに如何にとり
いれることが出来るかは、大事なポイントではないかと
思います。 いままでお名前が上がった名将の中で
技術革新を最も有効的に、かつ具体的に戦いに使って勝利を
あげそうな将はどなたであろうか??
>>768 春秋期の戦争は、周代から続いて兵(戦)車が中核を成し、その軍制に関しては
主に『周禮』に詳しい。
おおよそ上士以上が戦車を保有できたらしく、戦車一乗に乗員を含んで100人が
従う(内訳は戦闘員72名、後方支援25名、戦車乗員3名)
春秋期の戦力の度合をあらわすひとつの目安であり、晋の最盛期には4〜5000乗
もの戦車を保有していたらしい。
春秋期の有名な大戦が中原の平野部に多いのも、おそらくそのためかと。
そのために、歩兵や騎兵を主体とする北方や西方の異民族(狄や戎)相手には、
苦戦も多かった模様。
また春秋期の戦争は占卜が万機を決していた観もあり、出師の可否とその時期、
勝敗の吉凶、果ては陣の設営地や会戦の良否までに至っていたものと思われる。
>>772の続き
春秋期の比較的有名な大戦をみていくと、中軍、右(上)軍、左(下)軍の三軍で
構成されているのは御承知と思われる。
たとえば鄭荘公34年(前707年)の繻葛の戦いでの鄭の陣形は、通常は戦車の前後と
左右に配する歩兵を後方にし戦車を並列させるという、戦車の打撃力を有効に機能
させ歩兵が間隙を補充する、という変わった陣形を用いている。
『春秋左氏伝』には魚麗の陣とあり、魚群のような密集陣を組んだものらしい。
晋の場合は、多少、色合いが異なる。
晋は武公37年(前679年)に本家を滅ぼして統一されたが、次代の献公の代になると
驪戎や東山の狄といった異民族との戦いが多くなる。
晋は、献公15年(前661年)に二軍を、文公の時代に三軍を設け、これとは別に、
前631年に、中行、右行、左行の歩兵部隊を創設しており、山岳戦となりやすい
異民族との戦いには有効に機能したものと思われる。
楚においては、春秋初期の武王の代に「荊尸」という陣を設けたらしく、荘王の
時代の令尹・孫叔敖が兵典を整えた程度しか…というより調べきれなかった…。
時間が無く、時代を追って書き綴った程度になってしまい、あまりお役には立って
ないのは、何卒ご容赦を…。
142さんには感服します!
そろそろ御名前をお聞かせ願いたい。
>>774レス主の意見に同意!
というか、ここでは私を含めて、みな、お気に入りの名前を
名乗っているので、142子も適切な名を名乗られたらどうか、と。
142ではあまりにそっけないというか、味気ないというか…
776 :
世界@名無史さん:02/07/10 18:02
あのさ・・・・。
どんな名前名乗ろうがあんたらの勝手だが、姜子だの田子だのと呼び合って
なりきり君になるのはキモすぎ。すんごい近寄りがたい。
おかげでこのスレあんたらしかいなくなっちゃたじゃん。
さてはて、白起の口車に乗って142もなりきり君になるのだろうか・・・。
>>776 >どんな名前名乗ろうがあんたらの勝手だが、姜子だの田子だのと呼び合って
>なりきり君になるのはキモすぎ。すんごい近寄りがたい。
キモすぎと言われれば、誠に申し訳ないが
”なりきる”のも中々良いものですよ。
白起殿、田単殿、孫武殿、伯約殿などとのやり取り
楽しんでおります。 142子殿も是非とも名乗りを
あげて頂ければ幸甚です。
>>776 そうか、気持ちわりーか…
ま、みんな多分軽い気持ちでの名乗りだから、そんなに
気持ちわるがらずに、スレへおいでよ。
142子の解説も、非常に役に立つんだし…
多分、他の板のなりきり君よりは、まっとうな人たちだと思うよ。
779 :
世界@名無史さん:02/07/10 22:26
初めまして。名高い諸将の方々に拝謁して、恐縮しております。
亀レスしますが……
晋の滅亡→三晋の建国って、単独スレッド作ってもいいくらい深遠な
テーマだと思います。
元々世襲でなかった六卿がどういう過程で六家の世襲になっていったか?
どうして荀氏一門からだけ、中行・知の二氏が六卿になれたか?
唯一韓氏だけが公族の中で没落しなかったのは何故か?
等々、色々な論点がありそう。
蒸し返し超亀レスします。
信陵君も、リストに記す場合は他の人に合わせて
魏無忌 と氏名で表記すべきではないでしょうか。
封号のある名将は四君以外にもいるのですから。
ageときます。
>>779 はじめまして。
六卿時代前後や三晋に関しては自分なりに調べてもいますが、たしかに深いものが
あるかと思います。
畢竟、始祖から調べなくてはならず、また支配地域の変遷や家格の相互的変位など、
人間一人の手には余るのが実情。
「信陵君」とは表記せずに「魏無忌」とする案には、まったくもって賛同。
別スレ作成の件は、衆議に諮ってもよいかと。
>>774>>777>>778の御三方
久しくお見知りいただいて恐縮ですが、特定の名前に関しては、深く考えては
おらず、なんとなく、誰彼へレスをつけるにしても責任はいるだろう…といった
感じだったので(補足や訂正はあると思われるので)
>>776の仰ることにも、一理あるのは事実。
たしかに住民の少数化をきたしてもおり、どこか第三者には排他的に感じたのかも
しれず、いささか反省…。
多少の問題はあっても、自分ではこの上ない良スレと感じているのも事実ゆえ、
新規住民が参加に躊躇しないスレであればよいのではと。
くどくど2chでのたまう事ではないと意識してもいるので、sage
すみません>768の曲翼は曲沃でした。
142さん解説どうもありがとうございます。
信陵君については私が一番書いていたので779さんの指摘ごもっともなんですが
魏無忌と書くより信陵君とするほうが、なじみのない人でもわかりやすいかな
と・・それにコピペしてましたし・・すみません。
気持ち悪い、キモいと指摘があった名前ですけれど、誰がどういう考えをもって
いるかわかりやすく実用的だと思うんですが・・なりきりというより私は姜維へ
の敬意を表してつけていたのですが、少数化の原因となっていたのなら遺憾です。
>>771 一部分のみへのレスなれど、青銅製の剣に関しては、自分も興味が。
当時の鉄は『国語』にも「悪金」とあるように、銅よりも一段格下という認識が
あったのかもしれない。
くわえて、鉄器の加工は青銅器よりも難度が高かったらしく、精々が鋳鉄製の衝撃
に脆いもの(鋳型に流して硬化させる製法)が多かった模様。
日本刀が強固なのは、叩くことで炭素を抜きさっているわけだが、この鍛鉄製の
武器が主流になるのは、戦国後期〜末期だったらしい。
春秋期までは鉄器製品は農具が主だったというのは、自分には興味深かった。
ついでながら、「菅子」によると銅の産出量は鉄よりもはるかに少なかったらしく、
おそらく当時の名剣の類は、青銅製だったのだと推測。
銅は鉄よりも加工が安易で、良質品は強度も劣らないのではなかったかと。
鉱物資源の産出量では、楚が他国を圧していたように思われる。
うろ覚えにつき、訂正や批判は甘んじて…。
資料を調べをしていたのですが、左伝、穀梁伝、公羊伝、呉越春秋、国語、
などかなりあり、白川氏や駒田氏の本を読んで自分には少々荷が重いよう
なのでテストで時間もないし金もないのでとりあえずこれからは傍観者に
まわります。
なので、まぁ史記にあった春秋時代について少々最後に。(長いですが別
に害意はありません。何かの参考になれば。無視していただいても結構です。)
142さんの春秋時代の氏族制度についていろいろ勉強になったのですが周
本記に管仲が上卿になることを断った理由が、斉には周王の任命した上卿
が二人いるというものでした。注をみると大国には卿が三人いて内二人は
天子が任命するとある。国氏と高氏なんですけど斉には公族より異姓の人
が高位にいるようで、秦も他国からの人物のほうが優遇されている。例外
なのだろうか。(斉は太公望が有能な人物を用いているといっているから
?)秦に関しては早いうちから文、武が分かれているように思う。越も范
蠡は軍事外交専門っぽいし・・野蛮の国だからと言われればそれまでなん
ですけど・・
司馬遷は『律書』で春秋時代の優れた兵法家として晋の咎犯、呉の孫武、
斉の王子成父を挙げている。咎犯は良いとしても、孫武はよく実態がつか
めない。海音寺氏はいないんじゃないかとも言っている。確かに史書には
具体的なことは女兵のことしかない。いたとしても孫臏のように伍子胥の
軍師になって動いていたのだろう。斉の王子成父については誰だかわから
ない。だれだろう?
春秋時代の名将という本旨に帰ると、楚壮王だと思う。引くところと進む
ところをよくわきまえている。用兵も良い。ただ瀆武というところが欠点。
領土の増加という面で見ると句践らしいが范蠡の賜物だろう。次点は秦繆
公。血気盛んな老人で、なさけない失敗もあるが蹇叔、百里傒、由余など
の献策にしたがっているときは素晴らしかった。自ら軍を率いて西方を支
配した。戎夷の覇者の名に相応しい。
だらだら長くてすみませんでした。
786 :
世界@名無史さん:02/07/11 12:56
春秋期は戦争にいくら強くても、他国を完全に支配下に置くことは難しかった
だから晋楚間の小国は二重外交とか日和見を続けていたわけだが
となると、そういう状況では名将の定義って異なると思う
個人的には子産
無論、将軍オンリーだった人物ではないので反論多そうだけど
あの状況で晋楚間に絶妙な存在の重きを為したってのは素晴らしい
百戦百勝する武将がいたとしても、あの状況を作り上げるのは難しい
伍子胥を見ていると本当にそう痛感する
>>776 再度だが、確かに気持ち悪く感じて、訪問者が減少してるなら、
名乗りをあげてるわれわれの責任も軽くはないと感じる。
ただし、142子も申しておられるように、「世界@名無史さん」では、
自分の発言に対する責任も取れないし、一貫した発言がし難くなるのも
事実。ま、対した責任をとれる訳でもないが…
142子も書かれているとおり、内容としては十分「良スレ」と称することが
できるとは思われるので、この周辺のレスを読まれた方は是非ご容赦を…
>>786 子産については、私も興味あり。私の手元には平凡社の「史記」のみなので、
142子他詳しい方、解説乞う!
ageときます
789 :
世界@名無史さん:02/07/12 10:01
重耳の小説を読んだよー。
よく判らんのでもう一回読もう、、、、。
楚王とのやり取りが面白かった!
790 :
世界@名無史さん:02/07/12 11:05
>>789 「楚と対峙することになった際には三舎だけ退く」っていうヤツだっけ?
>>787 三戦板のなりきりに比べれば全然マシではあるが、白起だの田単だの孫武だのって、
先人の遺徳を恐れずに軽々しく名乗るのもどうかと思われ。
あんたらにそこまでなりきる才能や風格がお有りとでも?
身の程を知れとはこのことですな。
>>790 そうです!
楚王の器の大きさに感心したよ。
>>791 べつにいいんじゃないの?
それぞれ親しみや思い入れがあるんでしょう。
どんな名前を名乗ろうがその人の勝手だが、なりきり的な口調は
いかがなものかと。
ついでに言うと、ここは春秋戦国に興味を持つ人間が集まるところだ。
で、白起や田単、孫武といった面々はこの時代では結構メジャーな武将で、
彼らを好きな人も結構多いんじゃないかと。自分の好きな武将の
なりきりがいたら・・・。俺だったら引きまくるな。
まあ、マイナーな武将や人気のなさそうなアクの強い武将なら
いいのかもしれんが。
っていうか、思い入れがあるんならこの際だから一人一人そのフェチぶりを
大いに語ってみたら?いちおう上のほうで語ってるのかも知れんが、
全然その思い入れとやらは伝わってこんぞ。
スレ違いにはなるけど、伯約もどうぞ。どうせ人が少ないんだから、
ちょっとくらい私物化してもかまわんだろ。
>>792 漏れは楚王の性器の大きさに感心したよ。
>>793 >濡れは楚王の性器の大きさに感心したよ。
あなたは
>>790さんか?
違うんだったら無礼でしょ?
795 :
世界@名無史さん:02/07/12 14:57
>>793 そーですか・・・私も「単于」などと名乗っていたんですが
名乗った理由は、皆さんに質問(素人なので、、)する事が
多くて名無しでは失礼かと感じたまでです。
名乗りの問題で幾人かお方から厳しいご指摘を
頂き、段々春秋戦国時代の真の名将とは誰かとい主題から
遠く離れた議論になって参りました。 私も老子様の道教での
御名を僭越ながら名乗らせていただき、汗顔の至りです。
勿論、人格知識など老子様の爪の垢ほども持ち合わせておりません。
ただ孫武殿、伯約殿、田単殿、白起殿、などは中々皆様人品卑しからぬ
お方ばかりでその知識見識も見事な方ばかりとお見受けしております。
故にこの板も中々よい板になっているのではないかと思っております。
世の中、如何にしても、何かしら反対意見を言われる方、何かしら反発
される方はいらしゃるので、皆々様方、ご意見はご意見としてお聞きし
その上で、自ら省みて、一点の曇りも無ければ、決然と無視を決めて
春秋戦国の時代に思いを馳せて、真の名将とは?を語り尽くしましょう。
>>794 漏れは
>>793じゃないぞ。
基本的には貴殿と同じように楚王の器の大きさを感じ取ったものですが、
後世の平王を見ると、所詮、楚は中央から見て蛮族に思われても仕方ない
と思ったものですね。
>>796 有難うございます。
私などは、皆様に教えられる事ばかりで791の言われることが身に
しみています。
私のような中途半端な知識の物でも、対等に扱って頂ける事を皆様
に感謝しております。
>>797 別人で有ると思いましたが、、、失礼しました。
>>797−ALL
平王って後世から見るとたいした事なかったんですか?・・・教えて。
暴君ですな。秦から迎えた姫を本当は太子の嫁とするはずだったんだけど、
自分が見初めちゃって自身の側室にしちゃったんだよ。
太子にはそんな気はさらさらなかったのに謀反の意思有りとして自殺に追い込むわ、
太子の教育係である大傅とその息子を処刑しちゃうわで、もうねアホかと馬鹿かと。
ちなみにこの大傅の次男は伍子胥のことで、後に呉に仕えて復讐の鬼と化すのは
超有名な話でもあるわけで。
侃諤の観あった一連のコテハンの問題も、発端が自分のコテハン(142)に
あったような気もし、近隣からの一見の方々より喚起いただいてからの
指摘・意見等には、甚だ恐惶する次第。
>>796や
>>795>>798で仰られることで、一応の折目となればよいかとも。
鑑みるに、
>>789や
>>790のような新たな住民の方が増えたのは、怪我の功名
といえるのかも…。
>>799>>800 楚平王は晩年の愚行ばかりが目立っているものの、即位当初は名君とも
思わせるものがある。
平王は、先代の悪名高い霊王の横死に伴う国内の混乱を抑え、国内の人心を
鎮め、なにより陳と蔡を復興させている。
また法の緩和をはかり、罪人の特赦を行ない、官を整えるなど、それなりの
施策をおこなっている。
晩年の失策が無ければ、呉の侵攻で滅亡の危機を招くことも無かったかも
しれない。
>>802 謚号が「幽王」や「霊王」じゃないですな、国を滅ぼしかけたのに。
「平王」って、そう悪い響きはしないのだが…
名乗りについての数々の指摘、身に染みます。
至らぬ者ではありますが、田単のごとく、少しでも世の役に立つ
人物となるよう、今後も研鑚に努める所存。
不行き届きの折には、何卒厳しいご指摘を乞う。
>>790 伍子ショ???超有名なんですか、、、そーいえばずーと上の方に
復讐の人ってレスがあったな〜。
有難うございます。意外でした、暴君だったとは・・・
奥が深いですね。
>>802 重耳が訪れた頃ってまだ堅君(変な表現スマソ)だったんですか?
>>802 勉強になります。晩年の愚行が目立つほど、そういう功績が目立たないのは
悲しいものがありますね。ただ、
>>803が言うように、国が衰弱する発端を
作ったわりには謚号が良謚ですね。平王の代では国が衰弱していなかったから、
生前の功績をもとに良謚である「平」が謚されたんでしょうか?
>>804 伍子胥は、かの孫武とともに呉の拡大政策に貢献した逸材ですよ。
平王の屍に鞭を打つほど憎んでいたのでしょう。
その事件の後に楚にいる友人が手紙を送ってきて、天をも恐れぬ行為を批判されたとき、
復讐の思いから焦って非常識なことをしてしまったと返書を出しています。
言い忘れますた
>>805 文公が楚に滞在していた時の王とは時代が違いますよ。
その時代から100年くらい(だったっけ?失念スマソ)あとの時期に
平王が時の王となったわけです。
>>803 「逸周書諡法解」によると、「平」は美諡に該当する模様。
「平」が諡号である君主の所以をいくつか挙げると…
「疫病や災害によって民を損なわない」
「法制に従い私意を通さず」
「綱領の公布で条目を整える」
…などがあり、明らかに名君におくられる諡号。
当時の諡号の選定には、明らかに生前の行ないにそぐわない諡号を
おくられている君主も存在するため、かなり複雑かと。
810 :
世界@名無史さん:02/07/13 01:54
重耳の頃の楚は成王
成王は名君だったが、後に息子に攻められ自殺
後を継いだ息子が穆王
穆王の後継者が春秋五覇のひとり、荘王(五覇というよりも南方世界の王者のイメージが)
共王を経て(この間後継者争いが勃発)暴君霊王が即位
まあその後も順調に発展していきましたとさ
>>790-810-142
もう一度よく読んだら成王って書いて有りました。
いろいろとどうも!
伍子ショの事も調べましたが、ちょっとかわいそうですね。
呉王扶差ってよく聞いた名前だったんですが、越王勾践と比べる
と、本当に五覇にいれていいの?ってかんじですね。
ん〜「疾病や災害によって民を損なわない」というのがいかにも
という感があります。
あさはかながら、君主の「徳」に該当していると私は理解してま
すが誤りが有りましたら、ご指摘ねがいます。
春秋期の名君を語る流れのようなので、差し出がましくも少しばかり…
楚成王は荘王に次ぐ名君かもしれないが、やはり驕慢さは目につくものが
あったらしい。
春秋期は予言がとにかく多いが、成王の末路を予言した人物が、割と有名な
鄭の賢臣・叔・だったりする。
晋文公の礼遇を君主に勧めるも、容れられないのなら殺す様に献言したのは
よく知られている。
有名な泓水の戦いで宋(襄公)を破り鄭を救った後、鄭にて接待をうけた際に
「九献」という不相応な最上級の礼を要求し、更に始末の悪いことに、帰国の
間際に鄭のふたりの公女を連れ去っている。
成王の末路を思えば、やはり春秋期の出処進退は礼が全てと痛感させられる。
あ…
>>812で仰られている「徳」もそうか、とも。
「礼」は理解し易いですが「徳」って難しいですね、白起さんの言う
ように疫病や災害が起こると「有徳」と見なされないのだと、運の要
素が物をいいますね。
>>812 質問してばかりで申し訳ありませんが・・・。
ズバリ徳ってなんなんでしょうか?
>>815-789 えっ?
徳ですか、、、、私のような薄学者ではなんとなく肌で感じる物は有っ
ても活字(言葉)にするのは困難を極めます。
手元に資料もなく、いい加減な事を申しあげる訳にはまりませんが、
私観でご容赦頂くならば「魅力」に近い概念でないでしょうか。
ごめんなさい、、、この程度の認識しか有りません。
住人の皆様にてお判りになられる方、居られましたらご教示下さい。
>>814 「礼」がはたして理解しやすいかといえば、少々難しい気もする。
「礼」の本質を真に理解していたのは、孔子と精々が子産だと思われる。
一般的に現代人の理解のなかにある「礼」は、「儀礼」もしくは「礼儀」
の範疇にすぎないと思う。
要するに、冠婚葬祭などの儀式における、単なる礼儀作法ではないかと。
前517年の黄父の会同において、鄭の子大叔に晋の趙鞅が、揖譲周旋の
礼(挨拶・立居振舞など)を尋ねると、それは「儀」であって「礼」では
ないと言われ、趙鞅は、では「礼」とは何か、と問い返している。
そのあとに続く子大叔が語る礼の本義があまりに長く深いものの…
(…『春秋左氏伝』を読まれた方が早いかと…)
簡潔にいうと、「社会的地位や身分に応じた区別により調和をはかる、
いうなれば社会全体の規範」なのだと思われる。
はっきりいって難しすぎ、とても自分の手には負えない…。
>>815>>816 「徳」というと、『論語』や『礼記』を読んだ方が早いと思う。
確固とした定義はないものの、人としてあるうえで最も望ましい行ないや人格
…とか、そういった意味合いだと自分のなかでは認識。
暴君や驕慢な人物は徳が薄い、という事実を鑑みれば、自ずから悟るものが
あるのでは?
>>142さん
礼を履き違えてました・・・感謝いたします。
>>白起さん
即レス有難うございました。
本当にアカデミックな良スレになって参りましたなぁ。
かねてからの疑問ですが、142子が説明をしてくださっていた
周代の軍制の言葉が日本にも伝わって、名前を借用されている
のですが、なぜ規模が変わってしまったんでしょうね。
周の帥が日本の旅団相当、軍が日本の師団相当、というように。
他にも、里のスケールが約10倍になってたり、後代の名称だけど
郡と県の大きさがひっくり返ってたり…
詳細にご存知の方、解説乞う!
>>821 戦略的、戦術的な意義によるカテゴライズだから
数に拘る意義は低い
>>821 それって不思議ですね。
なぜでしょーか?
全く同じにするのは、当時の日本指導者や知識層の人たちが
好まなかったのかな?・・・。
大学一段落したんで戻ってきました。不在の間にますます難しくなったようですな。
>>821 個人的推測なんですが、近代の戦争単位が大きすぎるからじゃないですか。一万二
千五百人の兵士が最大単位じゃ近代戦やるときに不合理すぎます。それに、明治初
期、日本軍の中で軍は何人、師団何人、旅団何人って厳密に決まってないようで、戦
時中では軍という名ばかりで、その実兵士が少ないときもあったらしいですよ。
>>822さんの言うように、戦術、戦略的な単位ですから、一番多いのが軍、次は師、
次は旅と近代戦術に合うように翻訳しってたんじゃないですか。
>>822〜824
レスさんくすです。
軍の単位については、おっしゃることはよく分かります。
じゃ「里」についてはどう思われます?
これは、明治とかじゃなくって、はるか昔に伝わっているものと
推測できますが、どこかで取り違えた、なんてことも(w
スレの主題とはズレてますなぁ。
826 :
世界@名無史さん:02/07/16 12:17
明治初期は鎮台が各方面で組織されて、それが後の師団の
基だったんだが、、。
古代の師と現在我々が思い浮かべる師とはまったく異質な
ものと思うが。
多くても「軍」と称した事もあれば少なくても「軍」と称
する事もあるし、、軍の定義ほど曖昧なものは無いね。
>>786>>787で子産について書いてあったので、そのことを少々。
私が思うに子産は鄭においては最高の文官です。そして、人格的にも論語公冶長第五
や憲問第十四にあるように素晴らしかったのでしょう。
しかし、その政治手腕ということになると、他国の名宰相と比べると見劣りします。
まず、子産の業績については馮簡子、子大叔、公孫揮、裨ェの補佐が大きく、彼自身
の力より、四人を見つけ、適所で使いこなせたという点で評価したい。
その次は、子産自身も言っているのだが、彼は個々の問題に対処する能力は大きかっ
たが、大局的に物事を見て判断していない。春秋戦国時代の名宰相を見ると、管仲は
富国強兵。百里傒は徳による西方の覇者になる道。商鞅は法律による国家統制と農業。
李克も「法経」による法治。など、皆国家の道しるべを示した。子産も成文法を発布
したり、当時めずらしく民意を意識しているのだが、どうも貫徹しているように思え
ない。上手く楚と晋の間をすり抜けてきたが一時的な解決で、根本的な解決になって
いなかったと思う。その点では和平に持ち込んで小国争いの紛争を止めさせた華元や
向じゅつ(漢字がでない)のほうを評価したい。鄭は交通の要所で商人の力が強かっ
たのだから、貿易国として関税を取っ払って、法人税のみにして増収をはかり、富国
強兵を行えたのでは?と思ったりもする。情報収集も容易であると思われるので、中
華の真中もやりようによっては強国にできる可能性もあったんじゃないかと。どんな
大国もそうやって大きくなってきた。なぜ子産はしない(できなかった)のか?
このへんが子産の限界であり、大局的政治方針の欠如の表れだと私は思う。
子産を弁護するとしたならば、彼は子皮のもと政治を委任されていたとはいえ、二番手
だったこと、彼自身が七穆の一人であり改革が難しかったことがあげられる。
ということで、子産は最高の「官僚」という評価が妥当じゃないかと。「史記」でも
官僚の列伝に入ってるし。
本旨である武将としての能力はわかりません。先にあげた華元の武将としての能力に
ついては宮城谷さんの本では好意的にかかれているけど、自分の御者の信頼、人心も
つかめないようでは駄目だったんじゃないかと。
(長い+武将でない)=すみません。
春秋期の名将といえば、巫臣なんていかがかな?
例の夏姫と駆け落ちした楚の臣です。
晋へ移ってから異民族対策に成果をあげ、また楚を牽制するために
呉へ乗り込んで富国強兵を実現させ、と、なかなかのように思いますが。
ぜんぜん判らん人がいっぱい・・・・・・。
>>829 789さん、重耳の小説を読んだってレスされてましたが、
宮城谷昌光の「重耳」ですか?
もしそうなら、
>>828の私のレスについては、同氏の{夏姫春秋」を
お読みになると、分かりますよ。
この春秋戦国って時代は、なんでこんなに、って思うくらい
魅力的な人物が輩出してますねぇ。
>>828 私はどうも巫臣については荘王の陰に隠れて印象が薄い。
晋移住についても、裏切り者っぽいし・・
巫臣が楚の臣だったときはどう評価しますか?
>>829 789さん、とりあえず史書でなく簡単な概説書を読めばこのスレに登場してる
人物が(とりあえず)わかります。その後興味を持った人に関して史書の記
述を確認するとわかりやすいですよ。お勧めは中公文庫の「中国文明の歴史2
春秋戦国」基本的なことは文化面を含めすべて載ってます(少々内容が古いが)
>>828 巫臣は名将というよりは、名臣、賢臣の類に該当する気が。
軍司令官というわけではないので、現代でいうなら、「幕僚」といった
あたりなのかも。
同時代の楚の名将といえば、蔿賈と若敖氏の闘椒(子越)のふたりが
挙げられると思う。
闘椒は、成王の時代の名宰相として有名な子文(闘殻於莵)の甥であり、
荘王の即位間もない時期、侵入してきた戎や叛乱した国々の征伐のほか、
中原諸国との戦いでも戦功が多い。
蔿賈は成王の時代の令尹・子玉を酷評したことでも有名な人物で、楚が不作
であった時、国内の餓えにつけいった戎への対処に適切な見解を示しており、
晋に攻められた鄭を救った際にも、晋(加えて宋、陳、衛、曹)軍を撃退
している。
司馬であった以上、軍事面での才能はあるはずなのだが、如何せん讒言で
若敖氏を刺激しすぎたため、闘椒に殺されている。
このふたりの死後、どうも荘王の親征が多くなっていることを鑑みると、
軍事面での人材が不足がちになったのは間違いないと思われる。
>>831 巫臣への評価は、彼が晋に亡命して後、令尹・子反が彼を害そうとするのを
共王が止めた言葉が『春秋左氏伝』にあり、それなりに的を得ていると思う。
皆様のやり取りを見ているだけで勉強になります。
本当に素晴らしいスレになりました。
白起殿良かったですね。
でも本当に皆さん良く知っていますね。
142さんはご専門家ですか?
どなたかご存知の方、お教え頂きたい。
「戦国策」を読みたいのだが、完訳で、手頃なお値段のもの、
ご存知ではございませんか?できれば文庫が良いのだけれど、
岩波にはなかったように思うのだが…
明治書院あたりになると、しがないリーマンにはちょっと
苦しいもので。
古本屋で、朝日文庫の「史記」がセット売りされていたが、
これって完訳だろうか?くれまれているもんで、中を見る
ことができない。
なお、私の情報源は
1.史記…平凡社版
2.宮城谷の小説各種→宮城谷厨!
3.安能務の作品
4.陳先生の「中国の歴史」「小説十八史略」
その他…
というレベルで、142子や姜子とは雲泥の差、月とスッポンの、
極めて貧相なもの。
「この知ったかぶり!」と罵って下さい。
>>834 『戦国策』の完訳となると、さすがに安価というわけにはいかない
かもしれないものの、いちおう…
・『戦国策(中国古典新書)』
著者:劉 向編他 明徳出版社 \1,800
(上下二巻で構成されている模様 サイズは四六判で200項強程
価格、内容共に、最も平均的 おそらく要注文)
・『漢文大系 第19巻 増補版第19巻 戦国策正解』
富山房編輯部編輯 富山房 \9,223
(サイズが菊判で1冊 高価に感じもするが1冊で良質を求めるなら、
購うも良し)
・『新釈漢文大系 47、48、49 戦国策』
林 秀一著 明治書院 上巻のみ\6,600 中、下巻\6,000
(サイズはA5判で540項程 完訳で価格、質ともに最良 全原文、
書下し文を掲載 各原文に対し、通釈、語釈を沿え、要所には余説有)
…自分の紹介できる範囲は、精々このあたりかと。
>>833 拙いレスからお察しと思うが、趣味が昂じただけの一庶民かと…。
>>835 142子、即レス有り難うございます。
現在の懐具合からすると、『戦国策(中国古典新書)』が適当かと。
早速探し、なければ発注しようと思います。
>>827の補足
>「彼は子皮のもと政治を委任されていたとはいえ、二番手 だったこと」
もちろん子産は鄭の宰相になってますが、彼の地位は七穆では下のほうで
トップに立ちにくく、子皮らその他の貴族に憚りがあったんじゃないかと。
あとついでに、もうひとつ子産の弁護をすると、かれの交友関係がどうも
保守的な聖人君子ばかりなのも入ると思う。
>>834 私の参考にしている戦国策は平凡社の中国古典文学体系ののやつです。
最近復刻版がでたのですが、6000円もします。昔のは1500円くらいです。
(わたしは古本屋で500円で買ったんですが)内容は完訳で読みやすいです。
ちょこっと「国語」も入っててお得な感じ。大きい本屋さんではまだあると
思います。古本屋には最近でまわらないねぇ。と行き付けの古本屋の親父
がいってました。
>>837 姜子、レス有り難うございます。
平凡社であったんですか。以前出てたやつって、黄色い表紙のやつ
でしょう?四大奇書シリーズとかのある。
ちゃんと見とけばよかったなぁ。安くで手にいれられたのに(泣
gyu
昨日、会社帰りに早速旭屋書店へ出向き、142子、姜子ご教示の
「戦国策」を探してみましたが、店頭には当然ありません。
店内設置の検索マシンを使って探ったところ、142子ご教示の
明徳出版社版もすでに絶版の模様。明治書院分は発注可能だが、
なにせお値段が…(泣
気長に古本屋街を探すことに方針を変更しました。
ご両所には、即レスによるご教示、有り難うございました。
古本探しの参考にさせていただきます。
皆さんのおかげで、「読書の夏」になりそうです・・・・。
なんと!私の父上が↑の明治書院の戦国策を持っておりました!!!
早速、横取りしました(w
あぁ・・・・また寝不足の日々が始まる。
>>841 789さん、良い父上をお持ちのようで。
戦国策を読んだら、次は史記ですな。
>>842 史記も有ったんですが、全て漢字で書かれておりまして解読不能
でした(字体も昔の模様)。
>>840 『戦国策(中国古典新書)』(明徳出版社)なれど、ネット通販であれば
望みはあるかも。
他にも良質なものがないとも限らないため、いちど献策なされては?
>>844 142子、有り難うございます。一度試みてみましょう。
>>843 789子、岩波文庫に、史記の世家と列伝があります。
また、ちくま学芸文庫に史記完訳版がありましたよ。もっとも、
こちらは文庫のくせに、1冊1500円ぐらいしてましたな。
あと、正史三国志もありましたね。
今から呉起、楽毅、白起…等に触れるんですね。楽しいですよ〜。
>>827>>837 子産への評にたいして、少しばかり述べさせていただくと…
子皮より鄭の執政を依嘱された当時の時代背景を念頭におく必要性があるように
思われる。
向戌の提唱で宋の東門で盟が行われ、晋楚の和平に至ったのが前546年で、子産が
鄭の政治を執るようになったのが前543年。
この時期、晋よりは幾分か楚(康王)は好戦的ではあったものの、楚の令尹である
子木(屈完)と向戌、趙武は交誼が深く、また子木が叔向(ひいては晋)を高く評価
していることも(『春秋左氏伝』より)あって、前579年の晋楚間の和平よりは、
晋楚間での大戦に発展する危険性は少なかったと思われる。
もうひとつ、この時代の諸国の内情も顧慮する必要がある。
楚では、康王が宋での盟の翌年に薨じ、さらにその4年後には悪名高い霊王(囲)が
郟敖を殺して即位するわけで、楚は国外に対しての意識が希薄ともいえる。
斉では、崔杼が破滅して慶封へ政権が移行する過渡期であり(実情は概ね内乱)、
戦争には至り難いと思われる。
秦は穆公の時代のような覇気は無く、呉も季札が中原への聘問を専らにしており、
この時期に鄭が軍事強国を目指すことは諸国を刺激することでしかないようにも
思え、必要性は薄いのではないだろうか。
ついでにいうと、この時期の鄭は内乱と不作でやや危機的な状況下にある。
おそらく内政を安定させることで限界であり、富国強兵どころではなかったのかも
しれない。
子産については、政治力よりは外交、殊に辞を評価したい。
纏まりの悪い解説となり、お叱りはいくらでも…。
>>846 見識の高いご批判、有難うございます。
確かに子産が執政の可能な地位についたのは、向戌による和平の後で彼自身、和平
の斡旋、その他をする必要はない時代です。小国にとって戦争ほど国力、国民の減
少を惹起するものはありません。世界史の教授に聞いたことですが春秋戦国当時の
国力、資源は「人と木」だそうです。鉱業、商工業が始まっていたことは確かなん
ですが、製鉄、鋳鉄などには大量に木が必要で、労働力もまだまだ人力に依存して
いました。
鄭は戦場になることしばしばで、戦車戦では土地の木も伐られ、働き盛りの人も兵
士として駆り出されていたことでしょう。戦に勝っても何も得るものはなく、失う
ばかり。つまり戦争しても何の益もない。そんなことは馬鹿でもわかるので子産に
とっては周知です。そこでもし、和平がなってなかったら子産は和平の斡旋に動く
かと考えると、(個人的推測ですが)彼の言動からみるとしなかったのでは?と思
うのです。彼の政策はどうも後手後手で起きた問題に対し適格な対応をする観があ
り、鄭を存続させようとする受動的なもののように感じるんです。もしも、管仲な
どの名宰相なら国を他国から攻めさせないようにあらかじめ富国を図るんじゃない
かと。
>>847の続き
彼自身交友関係に叔向がいて、あとは楚に物分りのいい知己を作れば、和平
の足がかりはできたように思う。(推測ばっかですみません。)
さて、諸国の内情を簡潔、的確に示していただきましての批判についてですが
和平の後、大国は内部争いを始めている。仮想敵国が無いとあほのように個人
の利益に走りたがる「だめ貴族」の縮図だなぁ。そんなことは置いといて、
こんな時こそ、小国は将来に向け準備するべきでしょう。大国が内輪揉めで
目先が利益にいっているときこそ「隠れて」富国です。戦争に至らぬ時こそ
戦時の時を考える。衆人に先立ちて憂えてこそ執政の真価が問われる。
平和に安住できる時は無いという小国の悲哀を肌で感じているはずで、国民
が安穏を人生を過ごすにはある程度の国力がいるのは自明でしょう。
軍事強国でなくともよいのです。身を守るための軍事力と外交をあらかじめ
しておくべきだと思うのです。老荘の小国寡民は現実にそぐわない。
>>848の続き
最後に鄭の国情についての批判について。
>この時期の鄭は内乱と不作でやや危機的な状況下にある。
ごもっともです。内乱については子産にとっては大変だったでしょう。
このことはもっと考慮すべきでした。
不作についてなんですが、鄭は中華の真ん中で昔から耕作されていたと
思われます。昔の農業は焼畑農業で土地がやせるのが早かったと聞いて
います。中国で農業が始まったのはBC6000頃で、黄河流域がBC5500、
揚子江がBC5000だったと思います。とすると鄭の付近の農地はもう秦、
楚の土地に比べ不作が日常茶飯事だったんでしょう。
>>827で書いたように貿易で何とかならなかったんでしょうか?
別に子産が嫌いってわけではないんですけど、というより博学ですごいなぁ
と思うことが常です。礼については学者っぽいとも思う。春秋の賢人の一人
ですが私の子産観ということで
>>827を書いただけです。
長々とスレ違いで内容薄弱なものを三回にわたり、恥さらしの感は否めませ
んがご容赦ください。本題の名将で楽しみましょう。
鄭子産についてですが、名将論議とは離れて行きますが一言。
申不害が子産を批判していたと思うのですが、
詳しい内容は忘れましたが、子産が法鼎を公開したことは
非常に高く評価していましたが、例えば、夫の葬儀で泣いている
妻の泣き声を聞いて、その声に真実の悲しみがないことを
聞き分け、妻が夫を殺したと見抜いた。(恐らく作り話でしょうが
このような作り話は、その作り話の主人公のイメージを現すものです)
この様なことは宰相の仕事ではなく、また宰相がこの様なことをやれば
刑吏が宰相のお言葉を真実にするために無理やり拷問でその妻の罪を
でっち上げることも起こり得る場合もあると危惧しています。
子産の話を聞いていると一種の全能感を持った人であると思います。
何でも自分が正しく、自分でやってしますタイプ。 これでは
人が育たないのではないかと思います。 国家の大計は人を育てる
ことにあると思います。 子産はその面では有能な宰相ではあっても
名宰相ではないと私個人として思います。
春秋戦国の名将ですが、趙武霊王(候)は如何でしょうか?
胡服令など中々素晴らしいのではないかと。
ただ最後が哀れであったのはマイナスでしょうが。。。
でも使節に紛れて秦王に謁見するなど、度胸も良いと思います。
能吏と名宰相は似て非なる物でして、私も子産は能吏(宰相色濃いが)
タイプではないかと・・・
>>850にほぼ賛成。
確かに胡服騎射はすばらしいです。
武霊王はこの事だけでも賞賛に値する人物と思いますが、趙の立地条件
を考えると必然と感じるのも否定できず・・・又、最後の状況も併せて
手放しで賞賛はできません。(あくまで私観です)
852 :
世界@名無史さん:02/07/19 10:00
このスレ、すごい
世界史好きってかにじ
>>850>>851 話を蒸し返すようで恐縮なため、sageで…
子産の生国である鄭というのは、その立地条件や政体、国民性や君臣間の
力学構造、建国から滅亡までの過程などを鑑みるに、現状維持という状態
から脱却することが難しいのではないかと思う。
同様な国家に魯が挙げられるが、どちらも公族より派生した貴族が政権を
握るといういわば門閥政治、それも極度のものではないだろうか。
寡頭政治といってもいい気もする。
子産も「七穆」の一人であるが、およそ公族は国益には寄与しない存在が
多く、魯の「三桓」にいたっては君主を形骸化させたといえるほどである。
こういった政体をもった国に通じることは、とにかく抜擢人事を嫌う、と
いうことではないだろうか。
俗にいうところの新進気鋭という人材が育ちにくい環境下だと感じられる。
現代風にいうなら、年功序列に近いともいえ、くわえて、鄭の困窮した国情
である。
子産が鄭において全能者であった事実は、それを裏付けているように思えて
ならない。
他国からの流入者が政権の中枢を担う事実をもつ斉や秦とは、まったく異なる
国情であり、さらに挙げれば、地勢にも原因があるのかもしれない。
>>849 『韓非子』において、国家が富国強兵を行うに際しての留意点…
貴族の過剰な既得権益の剥奪や法の整備、農業と軍備の充実、さらに生産力
の向上への必要性を挙げ、商業への投機を否定しており、商人を不要とさえ
いっている(商鞅の変法も然り)
子産の行った政治は、いずれも中途半端の観が否めないものの、時代の風潮に
そぐわないものであったのかもと考える。
推測や見当が多く論点も曖昧なのは、たいへんもうしわけない。
斉の桓公と管仲のやりとりだったと思うんですが、かなり回りくどい言い回し
が多いような気がします。
春秋時代って全体にこんな感じなのですか?思想の影響?
>>853 商業は富国強兵には要りませんか・・まあ確かに商人は何の生産もしないで金を稼
いでる。資本主義社会における各国間の価値の差に利益を求めて儲けるのが商人な
んで春秋時代の人には難しかったんでしょうな。でも、学者の研究によると当時す
でに関税を取っていたらしいです。門外漢ですけど、韓非子の言っている富国強兵
は肥沃な土地にある国しかできないようで、鄭や宋の方法は商業じゃないかと高校
のときに考えていたんです。実家が商人なんで、こんなことを考えてただけですけ
ど。
>>854 うん、春秋戦国、特に春秋は回りくどいですよ。
当時の知識人はダイレクトな言い方を嫌い、詩経の詩を引用したり、故事を
出したり、先祖の言動を引くなどややこしいです。特に詩に関しては意味が
わからんときもありきついです。
あと、桓公ってそんなに名君じゃないと個人的に思っていたりするんです。
彼は短気で快楽主義くさい言動があり、管仲も信頼されているとはいえ、慎
重になっていたんじゃないですか。君主ってなんだかんだいって生殺与奪の
権をもってますから。
>>856 レスありがとうございます。
中国って三度諌めて聞かざれば即ち引く(不正確かもしれません)と
言う言葉もありますよね、これって、三度諌めて聞かないような主君
には見切り(保身)をつけなさいって意味に取れるし、日本の考えと
はかなり異質ですね・・・この様な思想が基本となって色んな人材が
自由に他国に移って行ったと考えても良いのでしょうか?
>>850 武霊王については結構いいと思いますが、前に君主ってことで除外されてま
せんでした?
能力的には胡服騎射の導入、中山をはじめ北方の攻略など良いんですけど、
死後に胡服騎射は趙に根付かずに終わってしまった。でももしかしたら秦を
つぶせた可能性もあり面白い人物ですな。
そろそろ、本命にもかかわらず春秋ということで排除された士会について再
評価しませんか。
個人的には敗戦が最も自分の名を成させたという不幸な人という感がなきに
しもあらず。左伝でも邲の戦いの描写は白眉で、まだ中軍の将として統率力
ができていない荀林父と向こう見ずな下軍に挟まれ何とか被害をなくそうと
説得する姿もよく、伏兵や殿の的確さをみるとやはり名将でしょう。
晋の兵制は危険が分散されるけど個人の力量が発揮されないような気がす
るので個人的には秦にいたほうが、もっとはなばなしい戦績を残せたように思
います。(秦で目立ったのは一回だけですけど)
その他の戦いもそつなくこなし、晋では狐偃とこの二人が並んでいる気がす
る。人格的にも慎重で将として良いように思う。兵法理論的にも邲の戦いを
見る限りではしっかりしたものを持っているんだろうと推測できる。
以前挙げられたときはあまり言及しなかったですが春秋ということとなると
はずせないような気がします。
>>857 中国の忠義は「二君に仕えず」と「己を知るものに仕える」の二種類あるん
でしょうな。日本は前者で馬鹿君主と心中することのほうが美談ですけど
中国では後者のほうも多いです。
前者の例だと私(藁)、後者だと樂穀などでしょう。
>>858 確かに、春秋、となれば、士会は一、二を争う、という感じですね。
無論、このスレの重鎮である孫子もはずせませんが。
ところで、平凡社の黄表紙(安価版)の「春秋」を見つけたんですが、
これって「買い」でしょうか?
なるほど、士会ですか・・・今晩調べてみよう。
>>859>>860>>スレ主さん
有難うございます、、、日々勉強になります。
昨晩、読んでいる途中で不覚にも寝てしまったんですが、介子推や
先シン(変換出来ません)も優れ物に思えるのですが如何でしょう。
胡服騎射は実はたいしたことなかったから普及しなかった可能性がある
農耕民族においては弓騎兵という兵種は基幹兵力とはなり得ない
864 :
世界@名無史さん:02/07/22 09:15
>>863 胡服騎射は差別意識なく徹底的に取り組めば
十分基幹兵力になたと思われ。
春秋期といえば、基本的に晋と楚の対決、という構図が描けるが、
晋の士会、とくれば、楚は誰だろうか?
このスレの住人は、私と同じく会社のPCを利用している仁が
多いのだろうか。
土・日にはレスが減少する傾向が見られるのう(w
867 :
世界@名無史さん:02/07/22 11:24
hosyu
>>858>>860>>861 春秋期の名将ということであれば、晋では士会が出色といってもいい
のは間違いないが、『春秋左氏伝』を見ると、狐偃よりは先軫の方が名将
といえる気がする。
狐偃はどちらかといえば戦略家であって、先軫は軍略家のように思える。
士会の戦績については、邲の戦いの2年前にも、鄭の国内で楚軍を破って
おり、また邲の敗戦の4年後には赤狄の諸部族を滅ぼしている。
晋と狄との戦いが長い年月にわたる事実からも、士会の軍事面での評価は
肯けるとは思う。
また士会は、邲での戦いに際して晋の不利を説いているが、『春秋左氏伝』
を見る限り、非常に現実を冷静にかつ的確に分析・把握している。
自分としては、こういった局面における見識の方をこそ、高く評価する。
もうひとつ、楚の康王の時代と記憶しているのだが、蔡の某貴族が楚の令尹
である子木に、苗賁皇の高い軍事的才能を説く一節があったような気がする。
おそらく、鄢陵の戦いにおける作戦を述べたのだと思うが、やや曖昧。
春秋期の戦争をみると、個人の能力に依存しきらない部分があり、評価を下す
のは難しいと感じる。
>>868 >個人の能力に依存しきらない部分があり・・・
教えて頂きたいのですが、
どう解釈したらよいか判りません、何か良い事例はありませんか?
>>862 介子推って具体的にどんな事やってたかわからないんで、評価しずらいと思います。
目立ったのは重耳のもとを去るときですし・・人格ということではすばらしいので
すけど。先軫は賭けねなく名将でしょうな。
>>863 個人的に胡服騎射はすごいと思います。中原は平原が多いですが、ちょっと北部へ
行くと自然が残ってて戦車じゃどうにもならないところも多いですから。最近の研
究ですと殷から周の初めにかけては、中原ですら湿地帯であったという説もありま
すので春秋戦国でもけっこう森林が残ってたと思います。それに戦国時代になると
戦争の合理化から、機動力が大切になってきて騎兵の重要性が高くなるんで理にか
なっていると思います。
>>865 晋は名将に該当する人物を幾人かは輩出したが、楚においてとなると、少々
限られるように思う。
春秋初期の楚武王の時代には、闘伯比という優れた人物がいるが、王族である
若敖から生まれた氏族であり、彼の子が成王の時代の名宰相である子文である
ことは有名。
闘伯比は軍事のみならず政略面でも非常に優れた見解を示し、単なる名将の枠
には納まらない優秀な人物である。
武王の時期は、中原では鄭荘公の晩年頃であり、晋も絳と曲沃に分かれたまま
争い続けている時代。
楚はこの頃、周辺の小国をひたすらに攻め潰して肥大化を続けており、大国と
なる地盤を築いていたものと思われる。
成王の時代では令尹・子玉(成得臣)が猛将として有名であり、城僕での敗戦
では、両翼(左軍、右軍)が潰走したにもかかわらず本陣は動揺しなかった為
に助かったと『春秋左氏伝』にもあることから、名将といえると思う。
>>869 スレ主殿
142子は、たとえば、戦いを占いで決めたりすることを、
言っておられるのではなかろうか?
>>872田単さん
そこなんですよ・・・
確かに朴占で戦いを決めたのは判るんですが、戦術に対しても
(布陣意外)朴占が入り込んでいたんでしょうか?
>>865>>866 楚はやっぱり荘王。
>会社のPCを利用している仁が多いのだろうか。
家に電話線ないので学校でやってます。夏休みはつらい。
>>868 大局的な戦略眼を持つという点で狐偃を押したので、ご意見もっともです。
尊王による覇者の道などがいい例でしょう。私の名将の観念だと、大局的な
戦略眼も要素の一つに入っていたので・・でも狐偃も兄と一緒にそつなく上軍
(だと思う)を指揮していますので、その点でも悪くなかったと推測。
>>874 なにも占朴に限ったことではないと思う。
春秋期の戦いでは、総大将は開戦となれば鼓を打ち続けなければならないが、
前689年の鞍の戦いでは、晋の帥将である郤克は開戦間もなく矢傷を負って
鼓の音を絶やしかけたものの、辛うじて踏みとどまったことが勝利の一因を
になっているのは間違いないと思う。
また、鞍の戦いでの韓蕨や鄢陵の戦いでの郤至は、相手の君主を捕獲ないし
討ち取れる状況下にありながら敢えて後難を考慮して見逃していることから、
戦場においても暗黙の了解事に似た通念が存在するのかもしれない。
あまり自信や根拠が希薄なのは、御容赦を…。
>>875 城僕での戦いにおける狐毛、狐偃の用兵は、そちらの仰るとおりかと。
謹んで御詫びを。
>>874>>876 春秋の戦争の個人的見解なんですが、当時は占いに限ったことでなく形而上なこと
を重視していたように考えられる。春秋時代の初期の戦争はどうも覇者やその他の
大国が小国の不義を正すために行うという名目が多く、また、国力の差が激しく
「いじめ」に近いようなこともしばしば行われていた。しかし、初期の中原では国
を滅ぼすまでは叩いていない。どうやら、国を滅ぼすことでの「怨み」や亡国の社
稷の霊の怨念らしきことを受けることをひどく禁忌したらしい。君主を捕らえるこ
とはそれに準じて考えることもできるし、周王の権威が残ってましたから周王に認
められた君主を捕られると、全国敵にまわして他国から袋叩きにされてもよいとい
う大義名分を与えてしまいます。
兵法についても孫武が作るまでは、太公望の兵法が有ったらしいが、合理的な戦術
の思想が少なかったんじゃないかと。史書を見ても勝った理由、負けた理由が「徳」
とか「礼」とかに適っていたからという記述も多々ある。
それに、大国同士の派遣争いの大きな戦いが4、5回くらいしかない。如何せん資料
が少なすぎる。だから春秋時代の評価は困難なんでしょう。
860 :田単 :02/07/19 16:35
>ところで、平凡社の黄表紙(安価版)の「春秋」を見つけたんですが、
>これって「買い」でしょうか?
以上の自分のレスに対する自分なりの回答としては「買い」ですな。
>>868、
>>871に、資料として記述が出ておりますからなぁ。
>>ALL
>>877についてですが、ちなみにその考え方に変化が現れたのは
何時頃なんでしょうか?
>>881 『春秋』ではなく『春秋左氏伝』のことだったとは…。
平凡社版は、たしか抄訳にすぎなかったと思われ、質はそれほどでもないかと。
>>881 その「春秋」って左伝ですか?左伝なら持っていて損はなし。でも「春秋経」(孔子
の書いたとされる純粋な春秋)なら、理解に苦しむと思います。
あと、値段ですな。左伝は岩波文庫で全3巻で出ているのでそっちのほうが安上がりかも。
穀梁伝、公羊伝は左伝の補足程度に参考にすればよいでしょう。(私は図書館でたまに
読むくらいですけど)
>>882 その兆しが見え始めたのは春秋の後期ごろから戦国のはじめあたりでしょう。
尊王は戦国になっても魏文侯や秦考公が周王から覇者にされてるから、完全に
払拭されたわけでなく、徐々にといったとこでしょう。
兵法については877に書いたように「孫子」の完成頃じゃないですか。
形而上の払拭についてはやはり戦国時代でないでしょうか。戦国になると怨霊
などよりも領土拡大、人員増員のほうが優先になってきますから。
それに、春秋末から戦国は思想などもいろいろ増えて、合理的な判断や人間像
を確立したんじゃないですか。(想像ですけど)
>>882 春秋期の初まりには数百の国家が存立していたものの、極々小さな国家が
初期から姿を消していった事実は、中原も江南も違いはあまりないと思う。
時代の過渡期における国家の代替といった見地からみるなら…
前386年−姜斉から田斉へ
前376年−三晋により晋滅亡
前375年−韓により鄭滅亡
…といったあたりになるかも。
>>883、
>>884 私の書き方が中途半端で誤解を招き、申し訳ない。
私の中で「春秋」=「春秋左氏伝」だったもんで(汗
平凡社の黄表紙は、結構分厚い本で、2,800円でしたが、
これって抄訳かな、今度また自分で確認致します。
なお、岩波書店ホームページで検索したが、同書は出て
来なかった。
888 :
冷やかしですがね:02/07/22 17:32
このスレってすごいレベルだね。
ここは2Chなのか??
>>888 そんなに他のスレと差があります?
あるとしたら、142子、姜子のおかげでしょうな。
>>870 春秋戦国時代の戦争は邑や防塞を巡る攻城戦が主であって、
野戦は基本的に攻城戦に付随して行われている
このような戦争では騎兵よりも歩兵戦力を基盤に置いた軍制が整備される
春秋戦国時代の軍隊は量的に言えば歩兵を主力に編成されている
そして、弓騎兵は緊密に隊形を組んだ歩兵を撃破できるだけの衝撃力はない
また、弓騎兵の騎射時の有効射程は弩兵や弓兵に劣る
弓騎兵の利点は、攻城戦や会戦よりも小規模な遊撃戦や機動的な防御にこそ発揮される
更に、弓騎兵は戦力化が難しい
疾走する騎馬から弓を射てるだけの乗馬術と弓術を修得するための労力は
歩兵や弩兵、弓兵を養成するよりも格段に大きい
このため、春秋戦国時代には弓騎兵の供給を狄族等の狩猟民族に頼るしかなかった
そして、狩猟民族の人口は農耕民族に対して非常に少ないため、
農耕民族の戦争において戦闘の帰趨を制する程の弓騎兵を継続的に供給することは難しい
結局、質量において弓騎兵が春秋戦国時代の戦闘で支配的な威力を発揮したとは思えない
武霊王逝去後、趙において弓騎兵が徐々に衰退していったのも、
まとまった量の供給が困難になっていったことが原因でないだろうか?
勿論胡服に対して偏見はあっただろうが、それが弓騎兵放棄の決定的な要因になったとは考えにくい
真に戦術的に有効性を証明できていたならば、そのような偏見は何の力も持たなかっただろう
って、これ名将論と全く関係ないな、すまんかった
891 :
世界@名無史さん:02/07/22 19:23
っていうかさあ、このスレって誰かが一人で自作自演してないか?
レスの時間が近すぎて不自然。
892 :
世界@名無史さん:02/07/22 19:34
>>891 だいぶ昔から漏れも臭いと思ってた
コテハンはみんな同一人物だったりして(w
893 :
世界@名無史さん:02/07/22 19:41
一人でジサクジエンならそれはそれでたいしたもんだ。
もしそうならレスを控えてROMったほうがやりやすかろうな。
コテハンのレスがほとんどのこのスレでは
>>891−
>>893が
自作自演に見えてしまう危険な罠(w
内容自体は名スレなので
たとえ自作自演だったとしても続けてほしいと俺は思うが
>>891〜
マジレスの必要もないと思うが…
私(田単)は142子や、姜子(=伯約)、その他の諸氏ではないぞ。
残念ながら、それだけの見識は持ちあわせておらん(w
昨日の私のレスで記したように、My PCもってなくって、会社で(学校で)
レスしてる仁が多いから、時間が近接するのではあるまいか?
白起の事をメインに記述した文庫だったと思うが、その中に昭王が
未だ無名の白起に戦術論を問うた所、白起が騎馬中心の軍制を説い
て、昭王以下を驚かせた、、、と言う所があった事を覚えています
蓁にあっても歩兵中心主義から脱していないと考えられる記述と感
じられ
>>890さんの仰せられる事は納得です。
昨日、旭屋書店で、平凡社中国の古典シリーズ「春秋左氏伝」を
購入。隣に明治書院版があり、そちらは4分冊、こちらは1冊で
あったが、確認したところどうも完訳のよう。白文等が掲載され、
1段書きの明治書院版は、どうしても膨大になる模様。
同書は平凡社HPではすでに在庫切れになっているようなので、
高い箱入りを買わされることを思えば、ラッキーといえようか。
かねてご教示いただいた「戦国策」は、私の住処である大阪では、
「かっぱ横丁」が大きな古書街なのだが、そこではまったく姿を
見かけず。
やはり、東京の神田あたりへ出向かないと無理かも…
騎兵については、馬の室の問題もあるのでは?
漢の武帝が、大月氏との交易を望んだのも、良い馬を手に入れる
ため。翻っていえば、中原では良い馬は手に入らず、よって騎兵
というものがなりたたなかったのでは(推測)
898 :
世界@名無史さん:02/07/23 15:13
馬は質よりも数だと思う
確か、どっかのサイトで汗血馬についてのお話を見たことあるが
あれって病気か寄生虫とかって話だった
でも遊牧民たちも「血噴出して、元気な馬だなあ」と思ってるみたい
基本的に騎馬民族って馬は複数戦場に連れてくからねえ
899 :
コギャル&中高生:02/07/23 15:19
ありゃりゃ、春秋戦国時代にコギャルがいたとは…
ということで900GETさせていただきます。
蓁は立地条件上、馬の入手が比較的容易で大規模な騎馬編成が可能
であったのも国力(軍事力)伸長の要因であったのでしょう。
しかし、上の方でも述べたと思うが単に馬の入手という点について
は、趙も蓁と同様と感じられるし、、、騎馬が戦場における帰趨を
にぎるように考えられ始めたのは、
>>896氏の辺りにあったのか!?
とも考えますし、蓁と趙の差はその取り入れる規模も無関係で無かっ
たように考えてます。(当然ほかにも要因も多々あります)
ひょっとして、騎馬戦力は戦闘の帰趨と決めるものと考えられたことは
無く、あくまでも補助戦力として扱われていたのでしょうか?
皆さん・・・如何でしょう。
スレテーマから逸脱してますが、ご容赦ねがいます。
騎馬については、
>>898氏のおっしゃるとおり、数がまず第一の問題で
あったと思われるが、春秋期の戦争が「戦車」戦であった以上、そこに
登場する馬は「道産子」のような使役馬の形状であったのでは?
従って、騎乗するよりも、物を引かせる方が合理的だったのではないかと
妄想するのだが…
武霊王は胡服騎射を断行して後、胡地である原陽を手に入れて騎邑(騎射の訓練場
および俸邑)とした、と『戦国策』にある。
また当時の趙の保有する戦車と軍馬の数は、先代の粛侯の時代においてでも
戦車一千乗、軍馬一万匹とある。
武霊王の時代の軍備は更に拡張したのは間違いなく、推測すると、戦車に用いて
いた軍馬も転用したのかもしれない。
つまり一国の保有する軍馬としての数だけは、概ね及第点に達していると思われる。
問題はいうまでもなく質なのだが、中華において鞍が登場したのもどうやら
この時期らしく、鐙にいたっては、その萌芽といえる程度の代物が生まれた
のさえ、西晋時代までかかったらしい。
当然ながら騎兵の運用方法も、打撃力よりも機動性と騎射を生かした遊撃戦や
機動防御、迂回機動のような類の、軽騎兵としての運用が専らだろうと思う。
このあたりは
>>890で仰られている方が詳しいが、異民族との戦いでは、やはり
歩騎を併用しなければ練度においてはるかに劣る事実は明らかだといえる。
春秋期においてでも特に半ばを過ぎた頃は、晋と狄との戦いでの歩兵の有効性が
実証されており、質の面での劣勢を歩兵の活用で補っていくのは戦国期も変わりは
無いような気がする。
結局、中原においては依然として歩兵が戦場の勝敗を左右していたろうし、騎兵の
存在意義も「騎射 ≦ 機動性、戦争領域の拡大化」といったあたりへの影響の方が
大きかったと思う。
武霊王の胡服騎射も、対異民族戦においてはその有効性を実証はしたものの、中原
に与えた影響がそれに比較して大きかったとは思えない。
武霊王の評価は戦略家としてみるからこそ大きく、胡服騎射の一事をもって偉大と
することには疑問の余地がある。
かえすがえすも
>>890には共感できる面が多い。
名将に戻るが…いや、妄想に突入するが、
孔丘って、そういう職に就ければ、案外名将と称されるように
なったりはしなかっただろうか?
小説をベースにして申し訳ないが、中島敦の名作短編「弟子」では、
あの、遊侠の徒上がりの子路よりも剣術が上、という設定だった。
例えば、魯の卿となっていれば、斉軍と戦う、などという状況も
あり得たろうな…と。
度胸は座っていたようだからね。
、
剣術の才能と指揮官の才能は違うのでは
>>905 ごもっとも!
あくまで妄想ですから、ご容赦を…
ageておきます。
>>890 合理的指摘どうも。私自身、細かく考えたことはなく、無知をさらけ出してしまった
ようでお恥ずかしい限りです。騎射の短所は皆さんのレスからうかがえるのですが、
胡服はなんで、消えてったのでしょう。服装に関しては、当時の中国はスカートのよ
うなものらしく戦闘には不向きだったの思われ、また、資料で見た胡服は結構実用性
のありそうなものだったと記憶しています。それとも、すでに別の戦闘服みたいなも
のが存在していたのでしょうかねぇ。
>>904 孔丘の父親が結構な豪傑だったから、子供もそれなりに素質は持っていたんでしょう。
でも、それは個人としての能力ですから、用兵、戦術となるとどうかな・・
それに、戦術に関しては知らないとか何とかいってませんでした?(論語か何かで)
思想家の将器でいったら墨子の方が上でしょうな。防戦の戦いに関しては確立しまし
たから。(扱いづらそうですが)
ところで、900も超えて春秋戦国の名将も出揃ってきましたねぇ。
すいません。
いい歳して、下らない妄想して(泣
皆唖然として、レスするのやめちゃったと思いましたよ。
罰として三戦板へ逝ってきます…
名将が際立つのは、君主がボンクラ(余りにもひどいのは無し、、)の場合と
名君の場合のどっちでしょうかね?
重耳って晋の君主になるまでは、どう見てもボンクラだし・・・。
蟷螂の斧をふるって142子にもの申します。
142子の”武霊王の胡服騎射”への評価ですが、歩兵との比較など
広範囲な面でご指摘される通りと思います。 しかし胡服騎射の評価
は、蛮夷の風習(例え戦闘的なものでも)を一切峻拒していた中原諸国
の中で、常識を覆して、機能的な理由で取り入れよとし、それを時間を掛けて
取り入れ、戦力化したことは、コペルニックス的な事ではないだろうか?
武霊王なに後、定着化しなかった理由は戦力的な面より、心情的な面で
蛮夷の風習を、後を継いだ君主以下に拒否反応があった為ではないでしょうか?
”発想”変えるということは後世の私たちが考える以上に凄い事のように
思います。(こんなことは142子は分かっていらhさると思います)
名将の重要な条件に常人とは違った発想が出来ること、そしてそれを実行し
実績として残せることがあるのではないかと。。。そして武霊王はまさしく
その条件に適応するのではと思います。 ただ何度も言うようですが最後が
哀れであったことは口惜しいですが。。。
912 :
世界@名無史さん:02/07/24 18:52
>>390以来ですけれど、聞きたい内容にレスの傾向がなってきたのでココでお願いを…
どなたでも結構です、くわしい説明が聞きたいです。つまり、、
「知氏政権」「武霊王の着眼の実戦面での効用〜続き」「伍子胥」「秦の力の源泉、人材交流、経済面から」「未完に終わった諸侯改革の指向性とif論」
等について……
レスの充実ぶりに感嘆致しました。多少脱線気味かつ厚かましくももし機会が許すならお願いします。
913 :
世界@名無史さん:02/07/25 08:29
夏休みなので・・・・・・・・・・age
>>911 胡服騎射に対して情理、通俗、風習などの見地からの考察は自分も除外して
いたので、たいへん感謝します。
武霊王が胡服騎射の採用を公言した際、群臣から挙がった批判と反対の意見が
凄まじかったのは『戦国策』などからも明らかであり、それら反対意見を論破
ないし説諭していった経緯からも、武霊王の非凡さははっきりと感じられる。
軍事的才能と相まった結果、趙の国威が飛躍的に向上じた事実は揺るがなく、
>>911にて述べられているように、一見は常軌を逸した発想や着眼とみなされ
ながらも断行し、(一代限りながらも)浸透させ定着させていった事績には、
評価される価値があるのは納得しています(…というか、気づかせられた)
「蟷螂の斧」とはまた、ここのスレに似合う言葉と思います。
斉荘公の故事が基になったものかと記憶しているものの、太上老君さんは謙遜が
過ぎるかと。
>>912 提起なされた諸々の題材に関して、「知氏政権」に類似する話が
>>750で
挙がっており、その後、田単、単于両氏や自分も興味があったこともあり、
「三晋の祖…六卿時代…四卿時代…晋分裂…に至る過程と勢力状況に加え、
各卿の支配地域の変遷や家格の相互的変位」
…といったあたりを、自分なりに、その頃より無謀にも調べていたりはする。
なにぶんにも少ない余暇を割いてのことで、進捗状況ははかばかしくはない
のが実情だったりはするものの…。
>>910 根拠はないんですけど、ぼんくら君主のときは名臣(文官)のほうが目立ち
名君のときは武官のほうだと思います。ぼんくらの時は、戦争より内政重視
だから。でも本当に名将なら「嚢中の錐」でしょうから、どっちでもよいん
じゃないですか。
重耳は放浪して名君の素質を開花させたのでしょう。
>>911 胡服騎射については王国維が「胡服考」という論文を書いているらしいです。
(どこにもないので私は見たことないですが)探してみたらいかがでしょう。
蟷螂の斧をぶんぶん振り回してください。斉荘公曰く、素晴らしい勇者にな
れます。
>>916 君主に能力が無い時は、対外政策が消極的になりやすいと言う
事ですか。
「嚢中の錐」を見抜いて用い、聞く耳を持った文侯、、、
「蟷螂の斧」を「嚢中の錐」と勘違いして、趙括を用いて
周りの言う事を聞かない孝成王、、、えらい違いだな・・・。
なんか孝成王って中途半端なんですよね、もうちょっと
間抜けで、重臣にお任せ的な人だったら良かったのに。
>>912に伍子胥とあったので、とりあえず楚攻めを孫武と絡めて。
伍子胥は楚に対する攻め方は三分した兵力で攻めて、相手が疲れた所
を大軍でたたくというもので、理にかなっていると思う。現に予章や巣邑で
戦果をあげ、結局は漢水で子常の軍を破り、郢を落とした。ここまでは十分
に名将だったと思うが、申包胥の行動を読みきれなかったことが汚点として
残る。伍子胥は呉では行人(外交)をやっていて、各国の動向にもっとも明
るいはずであり、楚時代に申包胥の決意を聞いたのだから彼の動向に注意を
もっと払うべきであったと私は思う。父と兄の復讐に視野が狭く、感情的に
なって冷静に判断できなくなっていたのならば、完全に欠点として考慮する
しかなくなる。また、越の動向、王弟夫概の心理を把握していなかったとも
考えることができる。これも行人として欠点に入るだろう。
軍事に関しては孫武が責任者になっていたと思うが、左伝や呉の世家には出
てこない。むしろ伍子胥が軍を率いていることのほうが多いような気もする。
孫武は将軍となったと列伝にはあるが、個人的には軍政家のようなものにな
ったんではと愚考したりもする。それか、以前書いたように、伍子胥の帷幄
の中で、戦術の立案のみに携わっていたとすることも考えられる。いくら司
馬遷でも実在が確定していない人物を列伝に入れたりすることはないだろう
から、こんなところだろうと思う。(国語と呉越春秋はまだ、未確認のため
もしかしたらそちらに将軍として働く孫武裏付ける証拠があるかもしれない)
まだまだ、呉越は勉強不足(特に孫武について)なので皆様のご高察を期待し
ています。
>>918 伍子胥に対する姜子の説は、論理的にはもっともと思われるが、心情的に
「父と兄の復讐に視野が狭く、感情的になって冷静に判断できなくなって
いたのならば、完全に欠点として考慮するしかなくなる。」という辺り
少々引っかかるものが。
かの地の発想として「父祖の仇」は不倶戴天の敵であり、その恨みを雪ぐ
ことが人として存在する上での第一義であったような面がある以上、この
論は少々峻厳に過ぎるのではなかろうか?
「公」の立場に立てば、無論姜子の説が正しいことは、否定しようのない
ことではあるが…
>>918 対越については、かなり夫差に進言していたが、受け居られなかった
まぁ進言の仕方が問題で、勾践の優秀性を説くもんだから夫差としては
面白く無く、まともに取り合わなかったようで・・・夫差の性質を読み
きれなかった模様。
夫差が王位に就けたのは、自分のおかげだと自負する所が有り、慢心
した様に思う。
142子殿 格段の配慮を頂いた御返事感謝します。
また伯約殿もご高配感謝します。
さて伍子胥について前々から不思議なことがひとつ。
伍子胥は知恵も勇気も、戦闘力も、人を疑う事も
また人を惹きつける魅力も、先見の明もあり、
実行力も抜群でした。 にも関わらず何故
”伯ヒ”を取り除けなっかたのでしょうか?
会稽の時も、伍子胥であれば、伯ヒの暗躍は
分かっていたと思います。また仮にその時分からずとも
あとでわかったと思います。 さらに”伯ヒ”は賄賂を
常とし、呉の国政を壟断していたことも分かっていたのではないでしょうか?
伍子胥は決してその足跡からみれば甘い男ではありません。
同じ楚からの亡命者だから油断したなんてことで”伯ヒ”を
取り除かなかったわけではないと思うのですが。。。。。
それとも既に”伯ヒ”は伍子胥では、手の出しようのない
王の寵臣になっていたのですかね。
>>921 ひょっとして同じく復讐の人と言う事で・・・盲目になったと言う感じ
を受けます。
>>921>>922 御存知のように、伯嚭は晋から楚へ亡命した伯州犂の孫であり、呉へ亡命
してからも大夫となっていることから、伯氏のもつ政治的な重要性、殊に
当面において最も警戒度の高い敵対国へ亡命している事実からも、亡命先
では亡命元の国情に詳しいであろう伯氏を軽視することはなかったと思う。
もっとも、伯嚭が呉へ亡命してより闔廬のもとでは大きな事績はあまり無く、
闔廬も伍子胥を信任していることから、推測ではあるものの、伯嚭はすでに
次代にむけての算段を謀っていたのかもしれない。
というのも、闔廬の没後、太子・夫差が王位に即くに伴い宰相となっており、
また伍子胥の献言を夫差が度々退けることからも、闔廬という最大の後援者を
失った亡命貴族には、世代交代後の環境が厳しかったのかもと考える。
伯嚭の讒言や収賄が表面化するのも夫差の時代からのようで、宰相であり王の
信用を得た伯嚭を除くのは、大きな派閥や徒党を組まねば難しいといえる。
伯嚭の讒言により、伍子胥は国内で孤立していたように思われる。
後嗣を斉の鮑氏へ預けた一因かもしれず、結局はそれが決定打となり死ぬわけ
ではあるが…。
『呉越春秋』が無いため推測が多くかなり見当違いかもしれず、訂正や批判は
覚悟のうえです。
>>伯嚭は晋から楚へ亡命した伯州犂の孫であり
伯嚭の祖父は晋からの亡命者だったのですか。全くしりませんでした。
142子の言われるとおり、伍子胥はかなり早い時期から呉王夫差から
疎んじられていたように思います。 また楚を壊滅的な状況にした前後あたりで
呉国内でも、孤立していったのでしょうかね。
あの孫武はその時、まだ呉国内にいたのでしょうか?
小説などでは、孫武が伍子胥に、伯嚭を抹殺するか、呉から脱出
するかを迫る場面を読んだことがありますが、、、、、
でも実際は、伍子胥の晩年には孫武はもう呉国内に居なかったのでしょうね。
孫武の晩年はどこで、どのように過ごしたのでしょうか?
何も問題なく過ごしたから、歴史上特筆することがなっかたのでしょうか?
ちょっと前に出張先で「呉越」と言う小冊子を読んだ。
なかなかに面白い内容だった。
その中に伍子・と伯・の事が書かれており、伯・がいかに伍子・と夫差の
間に入り込んだ手法が記されていた。
根本は
>>920の仰せの内容だが、伯・は名君を気取りたがる夫差のプライド
をちょっと擽り、直言する伍子・と正反対のことをすればよかったと記して
有った・・・なにを如何したという細かい事は入っていなかったのが残念だ
が最後に伯・が夫差に行なった讒言が有ったので蛇足とは思いますが、記載
します、曰く「親や弟を見殺しにした物が、どうして王の事を大切に思うで
しょうか、王にはご注意を、、、」
この内容の括りとして、讒言のポイントは長所を短所として行なうと最も効
果的であるとしてあった。
それ程レベルの高い内容で無いので、諸氏にはお目ざわりかもしれませんが
書き込んでしまいました・・・稚拙な文面ご容赦を。
訂正
>入り込んだ手法が記されていた。
>入り込んだか、その手法が記されていた。
昔、呉越の戦いで最初の伍子胥を知った時は
楚平王の墓を暴き、その屍を鞭打つ記述が、鮮烈過ぎて
こいつは好きになれぬなと思ったものでした。
しかしその後色々な書物を読み、伍子胥の違う面を知るにつれて
なんともいえぬ彼の魅力を感じるようになりました。 何だか
人として良し悪しは別として、凛として一本筋が通っている
ところが良いなと思えるようになりました。 逆にその一本気さが
呉王にも嫌われ、伯嚭につけいる隙をあたえたように感じます。
また彼の最後もその一本気故の悲劇であったように思いますが
それ故、伍子胥らしい死に様であったように思います。
逸話に夫差が自害する際に子胥にあわせる顔がないと言って
顔を覆って死ぬところがありますが、この逸話が史実であれ
作り話であれ、実に夫差と子胥の本来の人間関係を現すもので
あると思います。 名将とは誰か。。。からは程遠い内容に
なりました。 すみません。
伍子胥は良くも悪くも感情が豊かだったんでしょう。友人曰く、そこが彼の
魅力だろ。と。
でも、将軍となると戦場でどこまでそこを抑えられるかが結構重要なポイント
だと思うので・・何かの哲学の教科書で読んだことでは、感情は内面的な強さ
の判断基準になることもあるらしい。しかし、それを理性でコントロールでき
ないと社会的な欠陥者となるそうです。
確かに、歴史を振り返ると名君、名将と暴君、猪武者の違いは自己のコントロ
ールにあることも多いようです。
>>918の訂正
>呉の世家には出てこない。
出てきます。しかし軍を率いる等ではなく、簡単なアドバイス程度。
近頃、呂氏春秋を読書中。そこで、呂氏春秋に見る智伯評。
仲春紀では智伯は智国や張武に染まり滅びの道をまっしぐらしていたらしい。
智国は智氏の一人で張武は淮南子で智伯を扇動して韓、魏を取ることを薦めた
人と書かれている。孟秋紀では、夫差と並ぶ侵略者であり、自身の未来を見え
なかった人。慎行論では趙無恤のことを張武という佞臣の情報のみに頼り、趙
氏が侮りがたいことをしることができなかったので、国は滅び自身は死んだと。
つまり、張武の言葉の真偽を見極められず、張武の人格の善し悪しを確かめな
いで使っていたということでしょう。
呂氏春秋では智伯は夫差と同列に評されていることが多い。どちらも個人の能力
家柄の力は大きいが人物眼がなく、傲慢で、独善ということでしょうな。
続いて、呂氏春秋に見る趙無恤
孝行覧では智伯の晋陽包囲を脱出後、高赦という人を趙氏が滅びかけた中、
君臣の礼を行ったということで首位で賞したこと、それを孔子が誉めたとい
う事実を挙げ、六軍を統率し代を取り、斉に迫り、張孟談の力により智伯に
勝てた理由は賞罰が上手く臣下をうまく使えたからとしている。また、代を
取った時、姉を利用し代君を詐術にかけた事を道理に反するとしながらも功
績をあげているから賞賛されていると評している。
慎大覧では無恤が新穉穆子に命じ翟を攻めさせ二城を落としたという報告を
聞くと、趙氏の積徳がないのに城を取れることは滅亡の前触れだと心配して
いたことを、孔子が聞いて「趙氏は栄えるだろう」と評したことから、憂え
ることは国を栄えさせ、勝ちを維持する道であるとしている。
審分覧では無恤が為政の任にあるとき自分が人事した任登の推薦した人を面
接もしないで中大夫にしたことを挙げ、すべてを臣下に委ね賢者が彼に尽く
したと評する。
無恤は趙氏の中では将器が大きさは武霊王に次ぐ人物のように思う。上記が
それを示しているようである。
呂氏春秋は三帝、五王などの古い言伝えが多いが、春秋戦国の人物だと、孫叔
驁を軍政家として、子産を外交、内政家としてよく出され、孟嘗君もよく出て
きます。
この伸びなら、そろそろ次スレ立てていいんじゃない?<All
>>931に賛同
軽い気持ちでスレ立てましたが、次スレは荷が重くどなたか然るべき
スレ立てを願う。
>>932 ご謙遜をなさるな。
スレ主殿がまっとうに運営して来られたからこそ、良い常連が
ついたのではあるまいか。次スレも白子が建てられたら宜しいと
思われ。
950を越えたら、名将については一旦まとめられたら如何であろうか?
そうしておかないと、1000取りだけの方が来襲される可能性も
あるだろうし。
そして次のスレは「中国 春秋戦国時代の賢臣、名相は誰?」で如何で
あろうか。これはこのスレにお越しの皆様のご意見もお伺いしないと
いけないが…
田単殿、次スレ案ですが、”賢臣、名相”では少し
真っ当すぎではございませんか?
賢臣と名相ではなく、良臣と悪臣では如何でございましょう。
(これでは話題が盛り上がらぬようにも思いますが ひとつの
意見として、ご検討賜りたく。。。。)
>>934 李耳殿のご意見の方が、盛り上がるかもしれませんなぁ。
スレ主殿や、他の皆様方は如何でございましょうか?
このスレ、内容は濃いが住民がキモすぎ。
937 :
世界@名無史さん:02/07/27 08:14
…内容がキモイかどうかの言及はよしておくが
みんな主観バリバリだな
伍子胥と申包胥のエピソードは、確か伍子胥の亡命のタイミング的に
不自然だって聞いたことがある
兄貴がこっそり逃がしてくれた後にどうやって申包胥に会いに行くヒマが
あったのか、ということ
しかもあからさまに申包胥の言ってることが後日実現するという事後予言
どうもこれは真実ではないようだってヤツ
伍子胥名将説?があるけれど、むしろ呉国の国力の方に楚を完膚なき
までに叩き潰した要因があると思う
塩や鉄は当然として歩兵の精悍さとかもあったのだろう
>>ALL
時代設定は今のままで良いですね?
検討する内容ですが、一本の筋は通しつつも幅広く語れるもの
が最良ですね・・・考えてみます。
しかし、余り自身が無いのでご意見を求む。
>>937 仰せのとおりみなさん主観バリバリです。
でも、私のような薄学の者でも対等に扱ってくれますので
品格優れた方ばかりですよ。
939 :
世界@名無史さん:02/07/27 10:04
>>936 内容が濃い=住民きもい
しかたないのでは
>>937 史書の内容が不自然なのはかなり多く、研究者も常識にそぐわない部分が史記、左伝
ともにあるのは周知でそこを指摘する人も多いです。しかし、そこを厳密に詮索して
いくと無味乾燥なつまらない結果となります。たとえば、呉越のところは、史記と左
伝の記述のくい違いもあり、どちらが本当か悩むこともあります。左伝に関しては所
々その後に起こる事の伏線と思われる記述があり、研究者も作為的に創作されたので
はと考えている人もいます。
最近の歴史学の傾向では歴史の移り変わりを気候や環境から演繹して、当時の為政者
の功績を相対的に減少させているようです。
それが歴史だといえばそれまでですが、史書を疑えばきりがなく、何を信頼すればよ
いのかわからなくなります。(私自身も結構疑ってますが・・)
呉の国力が高いのは指摘の通りですが、楚を圧倒するかといえば疑問です。鉄に関して
は楚も相当な産地で南方は全体的に製鉄の盛んな所らしいです。さらに楚は越と同盟して
呉の国力をちくちく削っていたという形跡もあります。兵制に関しては孫武が集団的な歩
兵を重視していたから強かったでしょうな。
>>918に書いた伍子胥の戦術は史書を元にし
たもので、蔡、唐を引き込んだのも行人である伍子胥の意向が考慮されうるので十分名
将に値すると思いますが・・・
智伯・趙子の闘争、またとりわけ伍子胥の史書等中の事績と人物についてのみなさんの御返答に感謝致します。
さて、私的には、ここの「住人」は2ちゃんでも屈指に平衡の取れた人たちだと思います。
古今、あらゆる外交家・帥に必須なのは、語学力や冷徹さ以前にむしろ洞察力ではないでしょうか。
それもスピノザが述べたような類の洞察力、すなわち「他の人やその努力を見下げぬよう、バカにせぬよう、ただそのことを学ぶためにわたしは生きてきた」という言葉に現われるような、洞察力です。
このスレでは諸兄はこの態度を示しておられます。
>>940 伍子胥に関して、名将か否かという点でやや議論が紛糾してきているものの、
前線指揮官としての軍事的才能、主に局限下での戦術面での能力など、限定
した狭義に捉われず、名将の定義を考察するなら、伍子胥は十分に名将たる
資格があると思われる。
呉と楚の国力の対比についても同意します。
楚の国力基盤には、多くの銅・鉄山や雲夢沢を所有していた事実が影響している
のは間違いなく、鉱物資源や良好な資材を長期にわたり産出しており、さらには
交易をおこなっていたということらしい。
また国土の広大なことから、方々で挙がる物産が国庫を潤していたであろう事は、
『史記』の「貨殖列伝」からも明らかである。
失礼ながらひとつ指摘させていただくなら、
>>918における伍子胥の事績は戦術と
いうよりはむしろ戦略かと。
思うに、行人という立場に捉われず、国家戦略の特に軍事面での企画・立案なども
広く担当していたのではないかと。
>>941 そういう面では、私は失格ですな。
「三戦板へ逝かれい」なんて言ってましたもん。
深く反省する次第。
今後も増長の発言があれば、どうぞお叱りを
懐かしみながらも纏めるべく読み下って参りました、、、
>>田単さんのご意見に従いまして、僭越ながら総括させて
頂きます。
最も名前が挙がっていましたのは孫武でした、が、しかし
スレテーマである「名将」に照らすと、反対のご意見も多々
見られ総合的には、楽毅と白起と呉起の三巴でした・・・。
三者とも甲乙つけ難く思いましたが、これはスレ主である私
の責任でも有りますので、、、、
「名将No1は、楽毅と認定」します。
>>ALL
本日、色々と考えましたが、情けない事によきテーマが浮かび
ません。
やはり、どなたかにお願い致したく思います。
>>912 秦については史記の秦始皇本記の最後に司馬遷が”かぎ”(漢字忘れ)の
評論を引用しています。漢臣の評論なので始皇帝の統一後は差し引いて読
むほうが良いですが、それ以前はよく纏まっています。国の位置が良いなど
と書いています。ほかに「書」の中に司馬遷自身の秦評が少しありますが、
こっちは儒教に毒されている感があり、天命みたいなことを言っております。
>>944 集計ご苦労様でした。楽毅ですか。
感想としては、個人的にちょっと意外な感じもします。
でも、一回の戦いであれだけの成果を残せたとすると妥当なのかも。私の知る
かぎりではあれだけですから、瀆武を嫌う人からはよい評価を受けるのでしょ
うな。人格的にも愛されてますし。
テーマは春秋戦国の名将・名臣を基本に総合的に発展して行けばよいのでは?
>>名将No1は、楽毅と認定
異論、意見は多々あろうかと思いますが、
でも、まずまず妥当な選定かと思います。
このスレも毀誉褒貶色々ございましたが
非難、批判は真摯に受け止めるとして
中々楽しく、有意義なスレでございましたな。
白起殿はじめ、田単殿、孫武殿、伯約殿、趙括殿
そして142子殿など多くの方々に心より感謝申し上げます。
947 :
世界@名無史さん:02/07/29 07:49
ご存知の方にお尋ねします?
世界史板に諸子百家のスレッドはありませんか?
また、これら(九家)の大半をこれから新たに読もうとする場合、
はじめにどういったものから手をつければ良いでしょうか?
判りやすく解説した図書などはありますか?
ご存知の方、いらっしゃいましたらご教授願います?
948 :
世界@名無史さん:02/07/29 07:57
どうも、句点を?と混同してしまったようで
>>947 自分も詳しくはないので、知っている範囲でのみ、ささやかな紹介を。
・『諸子百家 春秋・戦国を生きた情熱と構想力』
【備考】浅野 裕一著 講談社 \2,000 四六判 260項弱
※近年発掘された竹簡資料を解説し、11人の思想家を紹介。価格・内容共に
及第点。
・『諸子百家(地球人ライブラリー 023)』
【備考】渡辺 精一著 小学館 \1,550 四六判 300項程度
※可もなく不可もなし、といった程度。価格と項目の量のつりあいを思えば、
悪くもなし、というあたり。
・『中国古典の名言録』
【備考】守屋 洋著 東洋経済新報社 \4,800 A五判 800項弱
※60冊程の漢籍をもとに、2000余りの名言・名句を解説。
高価格ではあるが、800項という事実を鑑みれば概ね妥当とも。
諸子百家に関しては、後世になって集約・編集された『淮南子』をはじめとして、
数多いかと。
『孫子』は兵書ではあるが、内実は題材が戦争の哲学書で、至極難解とも。
他に、四書(論語、孟子、中庸、大学)と五経(易経、書経、詩経、礼記、左伝)は
比較的、手に入れやすいと思う。
なんにしろ手軽に読むならば、『論語』を薦める。
>>947 2CH初心者なので諸子百家スレの存在は知りませんが、はじめは儒家が解説書や
訳本が多くてわかりやすい。(論語や孟子自体もわかりやすいし)道家、墨家もそ
れについで多いので、大きな本屋で自分に合ったものを探すのがよいと思う。法家
は結構雑多なのですがとりあえず、韓非子からだと。その他の陰陽家、農家、雑家
などは代表的な人物は高校の世界史資料集程度にも載っていますが、解説書となる
と私の知るかぎりではないと思う。これらは史書・古典に断片的に載っていること
しか私は知りません。ゆえに春秋戦国時代を扱った概説書の思想の部分を読んで、
興味があったものを史書・古典の中から抜き出そう。としか言えないです。とりあえず、
雑家に分類されているものとしては「呂氏春秋」があるので、それなら明治書院のも
のが3冊で出ているのでお勧めですが値段が問題です。
薄学のため、こんなことしか言えません。すみません。
たぶん、世界史板より思想哲学を扱った板のほうが博学の方が多いと思うので、そちらで
質問してみてはいかがでしょう。
>>947 忘れていてすみません。
諸子百家スレは、おそらく無いかと。
>>950 自分のいい加減な紹介よりも、はるかに適切かと思います。
自分の出る幕ではなかった…。
このスレって質問に対して親切丁寧に対応するね、、、キモイくらい・・・
でもある意味すげぇよ。
>>951 謙遜しすぎですよ。私も思想(というか中国史全般)は門外漢ですから
ところで、名将に戻ってみます。
時代がぎりぎりなんですけど、個人的に興味があるので鄭の(再)建国について。
左伝以前で史記の記述が中心なんですけど、西周の滅亡時に鄭の桓公が太史伯の
助言を信じて中原の国に人と物をばら撒いて息子の武公がそれをもとに周辺国を
切り取って鄭を新しく建国したというもの。
初めて読んだときには3人ともすごいなと感心するばかりだったが、よく考えて
みると言葉は悪いが3人はバカなことをやったもんだと。
もし、失敗してたら太史伯は桓公を詐術にはめたバカで、桓公は騙され国を滅ぼした
バカで、武公は現実性のない計画を信じて兵を起こしたバカとなる。
個人的な感想ではこの計画は成功する確率は相当低いのではなかったか。相当な運任
せと思う。太史伯は相当な自身を持っていたようだが、冷静に考えると各国に散った
鄭国民が何の通謀もなく武公に従う可能性は低いのでは?(もしかしたら通謀があったのかも)
相手は「かく」(漢字忘れ)で、当時は周王朝ないでも屈指の諸侯でいくら傲慢でもそ
の国力は相当なものだったと思う。そこにばら撒けなどと考えるだけでも危なっかしい。
それに相手は10カ国位だったと思うので桓公は勝算が会ってやったのだろうか。武公
も親にこんなことを押し付けられて困るのでは。
鄭はすでに桓公の善政で落ち着いていたと考えられるので普通に領土を守っていても良か
ったんじゃと思えなくはない。
武公の行動については鄭世家にはほとんど詳しく載っていないのでわからないが、きっと
とんでもない戦上手だったのであろう。散らばった鄭国民などに周の混乱の中、檄文を触
れ回り挙兵し、速攻で勝利したんじゃないかと想像できる。
後世に与えた影響は相当大きいと考えられ、これなくして荘公の覇道はなく、それによりできた
権威と権力の分裂という覇者の春秋時代は無く、周王が中興したか、申、「かく」そのほか
の有力諸侯が一気に戦国時代へと進めたかもと思うこともある。
また、主観や想像だけで長々と書いてしまいました。批判は覚悟の上です。
どなたか詳しい鄭武公の記述が載っている資料を知りませんか?
954 :
世界@名無史さん:02/07/29 20:36
>>949 >>950 ご丁寧なご教授に感謝します。
早速プリントアウトしてみましたが、図書館に行きそびれてしまいましたので
明日検索してみます。
ところで、上記のような文献が手に入りやすい古書店とはありますか。
もし、ご存知でしたら店名を実名でお願いできないでしょうか。
再三の教えて君ですみませんが、宜しければ、お教え願います。
age
>諸子百家スレは、おそらく無いかと
白起殿 次すれ案として”諸子百家”でいかがでしょうか?
947さんの質問を勝手に提案として失礼ですが、
142子殿や孫武殿、田単殿、伯約殿など諸子百家論が見たいです。
恐らく”百家争鳴”するのでは。。。。
出すぎた提案ですが、如何でございますか???
>>953 訂正
>史記の記述が中心なんですけど
国語の鄭語の記述が中心。
史記の記述はもっと簡略化されていて、武公は10邑をもらったとある。
訂正ばっかりでご容赦くださいまし。夏休みなので当分、頭冷やしに逝ってきます。
>>954 私の行きつけの古本屋はあらかた私が買ってしまっているので、「日本の古書店」
というサイトがあるのでそこで検索するのが早いです。あと、古本屋のことは古本屋
に聞くのが早いので、行きつけがあるならそこで聞いたほうが早いです。
スレ主殿
そろそろ次のスレを立てて下されんか?
テーマについては、
>>932辺りの私の提案や、
>>956の李耳殿の提案を
他の住人の皆さんに諮られても良いし、スレ主殿の独断でも構いません。
142子や姜子がスレを立てられると、いささかジサクジエーンくさくなって
しまうから、やはりスレ主殿が継続して立てられるのが良いと思われるが、
如何でしょうか?
>>957 姜子
「日本の古書店」ですか。良い情報を有り難うございます。
ところで、先日中国で発見された秦代の竹簡の解読はどんな様子なのでしょうね。
ここに登場する人物についての記述など、あれば楽しいのですが…
>>957 ×「日本の古書店」
○「日本の古本屋」
また懲りずに訂正。暑いとホントにだめだ・・
>>958 暫時お待ちを・・・もうじき立てますほどに。
>>959 姜子
「日本の古本屋」とは、本当に良い情報を載せていただきました。
試しに、先日来探していた「戦国策」を検索したら、まあ、古いの新しいの
高いの安いの、ぞろぞろ出てきましたよ。
これできっと手に入れられると思います。本当に有り難うございます!
どうやら、新スレ立ちましたな。
私は夏休みであまり書き込みできませんが、活発なスレになってほしいもの
です。
どーでもいーは、ちゃんとスレを使い切れYO!
>>963 そりゃもっともだ。
ここまでみんなで意見を出した総括をしませんか?
スレ主殿がNO.1として確定させた楽毅は固定として、各人のBEST5か
BEST10を出してみませんか?
私は
1位…楽毅
2位…呉起
3位…白起
4位…趙奢
5位…王翦
と致しましょう。
>>964 仰せのままに・・・
一位:楽毅(スレ主さんに従います)
二位:孫武
三位:呉起
四位:趙奢
五位:廉頗
>>965 5子、私の提案に応えていただき、有り難うございます。
967 :
コテハン止めました:02/08/20 14:48
新スレが立ったのね・・・
>>967 もう、だいぶ前から立ってます(100行ってる)
そちらへもどうぞ。
わたし、まだコテハンやってます(失礼!)
つ
かい
きる。
孫子に勝るものなし
>>972 久々に見るコテハンですね〜。
私がこのスレに参加した頃はもう居られなかったんですが、
同一のおかたですか?
>>973 ご本人じゃないですか。
ねぇ、孫武さん!
975 :
世界@名無史さん:02/08/21 16:47
>>975 でも、後の世に与えた影響は、計り知れないんじゃないですか?
隣の島国の武将が、はるか後の世に旗印に使ったりしてるぐらいだし…
>>976 レスありがと・・・
でも、信玄公は置いといて、日本ではそんなに影響受けていない様に
思えてならんのです・・・江戸期の朱子学なんかを見ると。
むしろ、西洋圏の方が取り込んでいるような気がする。
>>977 しかし、いまだに「孫子・呉子」を解説した本は売れるし、
「プレジデント」辺りでは、無理矢理経営に結び付けた特集を
組んだりもするし…
二千数百年後の異国でこのように愛読されているというのは
やはりすごいことではありますまいか?
>>978 確かに色んな事象に応用はききますね、、、しかし応用できる人物は
稀有の存在でしょうな。
余談ですが、このスレを使用しているのは、我々2人だけのようですね。
ま、「プレジデント」なんて、まともな本を書けないニッチ作家が
出鱈目記事を書いてるだけの雑誌ですからねぇ。
私も、新スレが立ったので、放置してたんですよ。
そしたら「無礼王」さんが「使い切れ!」って怒っておられたので、
こちらにも来てるんです。新スレでもレスしたんだけど、皆さん
来られなくって…
ホントに2人だけですね(w
まぁ、使い切るまでマターリと逝きましょうか。
実は私、楽毅をNo1とした事にやや不満があるのです。
理由は色々と有るんですが、挙げるとキリがないので・・・
ベスト5以内の人物であるとは考えますがね〜。
あくまでも、個人の思いですのでご容赦願う。
私はずっと呉起を推してましたので(w
まぁ、楽毅が1番でも特に不満はないんですけれど…
呉起、楽毅、白起あたりは、誰が1番になってもおかしくないと思うので。
ただ、白起は「殺しすぎ」の感があります。
長平の40万は「生き埋め」じゃなくて「閉じ込め」だったとしても、
それまでの戦いで「斬首10万」とかってよく出てきますから。
983 :
世界@名無史さん:02/08/28 16:09
ん〜なる程白起は殺しすぎの感は否めませんね、、、
でも白起は味方から見ればこんなに頼もしい将帥はいなかった
んじゃないでしょうか?
反対に敵はと言うと、それはそれは恐ろしかったでしょうね。
『戦国策』を読むと、白起は心理戦に長けているのがよくわかる。
范雎との問答のくだりが最も有名かもしれないが、戦場においての白起は、
将卒の扱いに対して細かい心配りができる人物だったようである。
「殺しすぎ」ではあっても、秦の軍功授爵を鑑みれば、白起麾下の将卒は
その恩恵を受けていたとも考えられる。
985 :
世界@名無史さん:02/08/28 16:33
「戦場を彩る血は敵の物」とか
「味方の兵はなるべく損なわずに使いまくる」てな所です。
後者の場合、兵を大事にする将軍と呼ばれから複雑。
986 :
世界@名無史さん:02/08/28 16:35
ただ、当時の国力=人口の多寡、という面があることを考えると、
殺さずに連れて帰ってきて使役する方が、有効だったのでは?と
考えてしまうんですよね、白起の場合。
988 :
世界@名無史さん:02/08/28 16:59
>>987 そうですね。
でも、長平の場合は半分死人でしょ?
使役できるまで回復させるには、とんでもない穀物が必要
だろうし・・・
死線をさまよった事で、将来趙軍の精鋭となって復活する
のを恐れたって話もあるし。
>>988 そうか、長平は包囲して糧道を断ったんでしたね。
降伏した趙兵は、使い物にならなかった可能性はありますね。
マターリしてたのが、急に活発なスレになりましたね。
「無礼王」さんに叱られないですみそうだ(w
しかし、1000はスレ主殿にGETしてもらいたいな〜。
その前にそれだけ多くの不安要素を国に持ち帰って
治安維持が可能とは思えないのですが……
>>988 実戦が部隊を鍛えるというのはフィクションの世界だけです
実戦に投入された部隊や兵士は、有形無形の戦闘力を消耗していきます
兵士の練度を向上させる最も効率的で合理的な方法は、彼らを実戦に放り込むことではなく、
そのような事態を避けて訓練を蓄積していくことです
実戦経験自体は無意味ではありませんが、経験はフィードバックできるため、
全ての兵士が実戦経験を積まなければならない意味は全然ありません
ましてや全滅したり大損害を受けたりした部隊の兵士は、
よほどの事情がない限りまず間違いなく第一線の戦闘要員としては復帰できません
物理的のみならず精神的な衝撃が大き過ぎるからです
もし第一線に復帰させても、戦術的な信頼性に欠ける脆弱な部隊が最前線に並ぶだけです
もし、そのような部隊を以前の状態まで戻そうとするならば、
新兵よりも長い時間をかけて丁寧に訓練と再編成を行わなければなりません
それならば未経験の新兵を召集したほうが遙かに安上がりで手っ取り早い
ましてや精鋭となって復活するのはファンタジーの世界だけです
>>991ふーん、そんなもんですか。
でも、少し前からはやりだした「トラウマ」ってやつかも知れませんね。
そうなると、やはり捕虜は連行して奴隷、ってことなんでしょうかねぇ。
秦は農業を重視していましたから、殺さないで連れて帰って、荒蕪地を
開墾させる、とかいう方法も合ったのではないかと。
993 :
世界@名無史さん:02/08/29 09:27
>>991 実戦が兵士(部隊)を鍛えないとのお話ですが、そんな事はないと
考えます。
歴戦の部隊と新参の部隊が双方とも装備、条件が同等で戦えば結果
は明らかです。
太平洋戦のアメリカ第一海兵隊の例が顕著です。
確かに精神的ダメージにて「士気}は大きく低下するかも知れない
が、総合戦闘力は実戦を積めば大きく向上します。
士気の回復には時間がかかりますが、戦線に復帰すれば強力な部隊
に変わります。
994 :
世界@名無史さん:02/08/29 09:43
>>993に追加
実戦と訓練において決定的に違う所は、「命のやり取り」が前者は
有り、後者は無いことです。
乱戦状態になると兵士は恍惚となり、なにをどうすればいいのかを
理性的に判断できなくなるそうで、ある意味本能のままに体が動く
ようです、その場合、経験に培われた「堪」が物を言います。
野球で練習時はすごいのに、試合になるとまるでダメといった所です。
995 :
世界@名無史さん:02/08/29 09:57
孫武
996 :
世界@名無史さん:02/08/29 09:58
伍子しょ
997 :
世界@名無史さん:02/08/29 09:58
あと少し
998 :
1000get:02/08/29 10:00
管仲
999 :
1000get:02/08/29 10:01
まだ1000じゃなったか
1000 :
世界@名無史さん:02/08/29 10:01
きたー
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。