中国の王朝名の由来

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211世界@名無史さん:02/09/09 00:01
世界史板の通りすがりなんじゃない?
212世界@名無史さん:02/09/09 00:11
>世界史板の通りすがりなんじゃない?
210が!
213中華@名無史さん:02/09/09 00:12
次は

なるほどね。

で宜しいですか?
214世界@名無史さん:02/09/09 00:14
デジャブが…
215世界@名無史さん:02/09/09 00:15
オチが甘いうえにケコーン
216世界@名無史さん:02/09/09 00:40
>>210
なにか問題でもあるのですか?
マジレス希望。
217210:02/09/09 01:00
日本だと字+名ってのは一般的?だけど(例:織田三郎信長)、
中国では名+字の組み合わせ(例:劉備玄徳)は絶対に使わないよ。
その人に対し名で呼ぶか字で呼ぶか決まってるから。

あと名の継承(例:信秀→信長→信忠)も中国ではタブー。
218世界@名無史さん:02/09/09 01:43
>>217
> あと名の継承(例:信秀→信長→信忠)も中国ではタブー。
確かに、日本と中国ではまるで逆だな。中国はむしろ同世代の人間が同じ文字を使っている(溥儀と溥傑とか)。
しかし、唐の太宗が即位したときは迷惑だっただろうなあ。「世」と「民」が使えなくなって、役所の名前まで変わるとは。
219世界@名無史さん:02/09/09 02:21
>>218
その不便回避のために欠画という方法がある
それでも不便には違いないが欠画で一応その字は使える。
220世界@名無史さん:02/09/09 07:23
>>218
>役所の名前まで変わるとは。

民部尚書が戸部尚書になったこと?
でも中国では王朝がかわっても民部にもどさなかったのはなんでだろ?
221民部少輔石田三成:02/09/09 09:05
>220 それが定着してしまって、元に戻すなんて今更・・・
例えば、「自治省」「総務省」を「内務省」に戻せなんて言われても。

世代が進むに従って皇帝の名前には難しい字を使う傾向があるのは、
それで民百姓に迷惑をかけないためというのも一つの理由ではないか。
222221:02/09/09 09:45
石田三成は治部少輔だった・・・・・
223世界@名無史さん:02/09/09 10:26
224日本@名無史さん:02/09/09 21:42
徐ボウ功だな。「隋唐演義」で大活躍!唐の太宗李成民から
1字もらったんだよね。
225世界@名無史さん:02/09/09 22:17
楊国忠とか朱全忠とか唐には改名した人多いね。
彼らは李勣ほど唐王朝には貢献してないけど。
226世界@名無史さん:02/09/10 06:00
>>217-222
まじレスありがとうございます。

親子間の名前の継承や、
皇帝や王朝の創業者の名前を使うことがタブーなのは
聞いたことがありますし実例も見たことがあります

で、名前と字を併記することも当時の中国においては
前述の親子間の名前の継承などとおなじく
タブーの一つだったのでしょうか。

それとも「織田信長」を当時の日本では「信長織田」とは表記しないように、
当時の中国においては「諸葛亮字孔明」としか文献に記述された例がなく
「諸葛亮孔明」とは記述されたためしがないから
現代においてタブーとされているのでしょうか。

もし当時の中国においても絶対的にタブーだとされるのなら、
信憑性のあるソースとなぜいけなかったのかもご存知ないでしょうか。

もちろん名前と字は使用法が異なるために
同時に使われることはなかったというのはわかりますが
あとスレ違いっぽいので質問スレに移ったほうがいいいでしょうか
227210:02/09/10 11:10
>>226
「名前と字は使用法が異なるため」と言うより、その人の本名【諱】を呼ぶ事
がタブーだったから態々別名【字】を付けたのであって、同時に使うのは本
来の(別名をつけたと言う)目的に反するって事じゃないでしょうか?

例えば、私の手元にある赤い果実に「りんご」と命名し、別名を「アップル」
とした場合、それは単に「りんご」若しくは「アップル」と呼べば良い訳で、
「りんごアップル」と呼ぶのはおかしいと。
228世界@名無史さん:02/09/10 11:56
恒山という山があるが、漢の文帝だったかの諱も恒であるために、似た意味である
常山に改名したとか聞いたが。
229世界@名無史さん:02/09/10 12:06
曹丕の『典論』・論文編では、名・字を続けて表記している。『文選』を参照のこと。
230世界@名無史さん:02/09/10 12:11
『春秋左氏伝』に、命名には五つの決まりがある、という記述がある。

信「はじめからもって生まれる名」
義「徳を慮ってつける名」
象「相貌に似たものよりつける名」
仮「誕生にちなむものよりつける名」
類「父親に関わるものからつける名」

…と、ある。
さらに「国名」「官名」「山川名」「病いや患い」「家畜名」「儀礼用品名」を
用いてはならないとある。

有名なところでは、宋の武公の名が司空であったために、以降、宋では司城となった。

無論、全時代を通じてではないが…。
231世界@名無史さん:02/09/10 14:21
さて、そろそろ本題の中国の王朝名の由来に話をもどして、と


232世界@名無史さん:02/09/10 15:37
そういえば、漢の皇帝の名前が恒だから、月の女神の恒蛾は嫦蛾と名を改めささえられたとか
233世界@名無史さん:02/09/10 15:39
さて、なんとしても本題の中国の王朝名の由来に話をもどして、と





234世界@名無史さん:02/09/10 15:56
235世界@名無史さん:02/09/10 16:09
既出のように明は火を崇拝する宗教からきている。
五行説によると火に克つのは水。
だから女真族は、崇拝している文殊菩薩の「文殊」の音に「満洲」という
どっちにもサンズイのついた字を当てて、自らの民族名とし、それまでの
国号「金」を同音でサンズイのついている「清」に変え、「水徳の王朝」
を名乗り、明に取って代わる正当性を主張した。
だから「満洲」を「満州」と表記するのは、誤り。サンズイなくなっちゃ
意味がない。時々「福州」や「泉州」などのような、地名を表す「州」
だと思ってる人もいるけど、これも誤り(さすがに、世界史板にはいない
かな?)。漢字制限で「洲」が使えない、というのも誤りです。漢字制限
は地名には適用されません。だって、みんな平気で「八重洲口」とか、
表記してるじゃん。
日本人が中国の東北地方のことを「満洲」と呼ぶのを、中国人がとっても
いやがる理由としては、例の建国の一件もさることながら、そもそも満洲
とは部族名、しかも女真族の自称で、漢人はかの地を満洲と呼んだ事が
一度もなかったからでしょう。
五行説にもとづく国号の命名って、ほかにもあるはずです。(私は知らん)。
時代をぐっとさかのぼりまして。漢の高祖が白い大蛇を退治する話が史記に
出てくるそうですが(司馬遼太郎で読んだ。トホホ)、これなんか、陰陽
五行っぽい話のような。
236世界@名無史さん:02/09/10 22:33
「国号」じゃなくて「王朝名」の方がよい。
237世界@名無史さん:02/09/10 22:43
>>235 当て嵌めてみたけど、これでいいのかな。
三皇#1=土=黄
三皇#2=木=青
三皇#3=金=白
伏羲=火=赤
神農=水=黒
黄帝=土=黄
堯=木=青
舜=金=白
夏=火=赤
殷=水=黒
周=土=黄
秦=木=青
楚=金=白
漢=火=赤
晋=水=黒
宋=土=黄
斉=木=青
梁=金=白
陳=火=赤
隋=水=黒
唐=土=黄
後梁=木=青
後唐=金=白
後晋=火=赤
後漢=水=黒
後周=土=黄
宋=木=青
大元=金=白
大明=火=赤
大清=水=黒
238世界@名無史さん:02/09/11 00:07
>>197
趙と秦って同姓なの?
239世界@名無史さん:02/09/11 00:40
>>238
『史記・趙世家』
趙氏之先,與秦共祖。至中衍,為帝大戊御。其後世蜚廉有子二人,而命其
一子曰惡來,事紂,為周所殺,其後為秦。惡來弟曰季勝,其後為趙。
240世界@名無史さん:02/09/11 12:57
>>229
今之文人,魯國孔融文舉,廣陵陳琳孔璋,山陽王粲仲宣,
北海徐幹偉長,陳留阮?元瑜,汝南應?コl,東平劉骭幹
ですね。

たしかにスレ違いなので、これ以上は三国志スレか、
三国志板か、世界史板の質問スレへ移ったほうが
混乱しなくてよろしいかと。

>>240
では王朝名の由来についてのお話をどうぞ、と。
241世界@名無史さん:02/09/11 13:01
240は俺だった・・・
Σ(´Д`ズガーン
242世界@名無史さん:02/09/11 13:05
しかも文字化けしてる・・・氏ね俺。
243世界@名無史さん:02/09/11 21:51
>>237
黄巾賊の標語が「蒼天すでに死す」だから、漢は青なんじゃ・・・。
なんて『三国志演義』の記述を史実扱いしてどうする>俺。
244世界@名無史さん:02/09/11 22:24
>>243
王朝の継承順の数え方と対応する五行の配当は
時代によって変化してたんじゃないの?
245世界@名無史さん:02/09/11 23:31
漢が火徳で赤というのも、確か武帝のころに決まったはず。
ソースは講談社学術文庫の「秦漢帝国」でも、部屋のどこかに埋まっていて
確認できない。
>229
三国志(正史)でもそういう例はあったなあ。リアル工房のとき漢文の参考書で
みて、田中某の底の浅さに気づいたもんだ。
246世界@名無史さん:02/09/12 00:17
満州国
まんじゅうが怖いので国名に
247世界@名無史さん:02/09/12 11:17
後は、熱いお茶一杯が怖い。
248あやめ:02/09/14 15:18
王朝カラーの変遷については「世界史何でも質問箱」に書いたものを再録しときます。

532 名前:あやめ投稿日:2001/01/24(水) 18:02
>526,527
五行交代理論には相勝説と相生説があることは御存じかと思います。前
者は戦国末の鄒衍が唱えたもので木金火水土の排列で、後者は漢の劉向・
劉キン(音+欠)の父子が唱えたもので木火土金水の順序です。配色の対応
は木青・火赤・土黄・金白・水黒となっています。
五行を歴史上の王朝に配当するようになったのは鄒衍が五帝に五行を割り
当てたのから始まったようです。この際に彼が基準としたのは同時代の周
を火徳とした点です。これについて京大儒学の開祖というべき狩野君山は
当時においては周が火徳であることは当時の通念となっていたので、鄒衍
もこれを原点とせざるを得なかったものであろうと論じています。そして
前代の殷は金徳で夏は木徳で虞(舜の国家)としたもののようです。
249あやめ:02/09/14 15:29
(前レスの続き)

周が火徳ということであればこれを打倒した秦は自ずから相勝説により水
徳ということになります。「史記」にもそう書いてありますし大方の学者
もこれを支持しています。ただ栗原朋信さんは始皇帝は周を継承したとの
意識は持っておらず、水徳の採用は疑わしいと主張していますが少数説た
るを免れません。
漢になってから文帝の時に賈誼は上書して土徳の採用を提案していますが、
当時はまだ秦の制度の変革に着手できずに経過していました。武帝の時代
になると丞相の張蒼は秦を無視して直接に周を継承して水徳を採用すべし
と提議し、民間人の公孫臣はやはり土徳を採用すべしと主張し対立しまし
た。結局は武帝により土徳説に従い服色を黄とすることに決定を見ました。
250あやめ:02/09/14 15:31
(前レスの続き)

前漢の末になると劉向は相生説を提唱し始め漢は火徳となるべきものと説
きました。この説の背景として考えられるのは漢の高祖の先祖は堯である
とする情報が一般化したことです。高祖の先祖については下記のスレッド
「春秋戦国を語ろう」のあやめのレス34を参照してください。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=whis&key=978123589&ls=50
「禮記」の「月令」は古書中では相生説の順序に対応しているので、これ
により周木徳・殷水徳・夏金徳・舜土徳と遡っていくと堯は火徳となり、漢と
徳運が一致することとなり、高祖を白帝の子である大蛇を斬った赤帝の子
とする伝説とも照応し好都合であったのです。
251あやめ:02/09/14 15:38
上レスに引用されている「春秋戦国を語ろう」のレスを再録しときます。
末尾が省略されちゃうかも....

34 名前: あやめ 投稿日: 2001/01/18(木) 12:46
>31
士會は春秋時代の活躍より漢の高祖の先祖ということで後世では知られていました。
唐の林寶が編纂した系譜書の集大成「元和姓纂」の「劉」の項に「帝堯陶唐の後、封
を劉に受く、裔孫劉累は夏后孔甲に事ふ、夏に在りては御龍氏と為り、商に在りては
豕韋氏と為り、周に在りては唐杜氏と為る、杜伯の子の隰叔は晋に奔り士氏と為る、
孫の士會は秦に適き後に晋に帰る、其の(秦に)處る者は劉氏と為る、…士會の後は周
末に魏に家し、又た豊・沛に徙る、豊公に至りてズイ(フォントなし、瑞の玉偏を火偏
に替える)を生む、字は執嘉、漢の高祖を生む」とあります。
しかしこの所伝をそのまま史実と信ずべき根拠は薄弱です。「史記」にも「漢書」に
も高祖の出自については父の本名すら記載していません。「姓纂」の載せている父の
名の由来は、漢が火徳の瑞により天下を治めたという五行思想に基づいて作為された
ものでしょう。
なお高祖の劉氏は祁姓ですが別系統に姫姓の劉氏も存在します。周の成王が王季の子
孫を劉邑に封じ劉氏を称することとなり、周室の大夫として春秋にもしばしば顕れて
おり、漢の皇室よりも由緒ある家系でした。
252あやめ:02/09/14 15:45
「世界史何でも質問箱」のレスの再録に戻ります。

533 名前:あやめ投稿日:2001/01/24(水) 19:21
こうして漢は火徳とするアイデアが提唱されることになりましたが、この
説を推進したのは劉向の子で王莽のブレインとして活躍した劉キン(音+欠)
です。王莽はかねてから舜の子孫という系図をひけらかしていた人で、舜
が土徳ということであれば漢の天下を簒奪するのに好都合なわけです。彼
は万事こういった迷信じみた理念が好きな人物で、意識的に利用したのか
本気の思い込みか政権の獲得維持に積極的に持ち込んでいました。これに
対し王莽打倒に反乱を起こした勢力が眉を赤く塗っていたのは、漢の復興
を表向きのスローガンにしていたためでしょう。相生説は急速に定着して
いった言えるでしょう。
253あやめ:02/09/14 15:49
(前レスの続き)

後漢末になると今度は反乱勢力が土徳説を利用するようになりました。言
うまでもなく「黄巾の乱」です。また漢に代わって皇帝になろうとした袁
術も黄帝の子孫と称し、その国号を「仲家」としたのも土徳に属する方位
が「中」であったからかと想像されます。漢に代わって建国した魏が「黄
初」呉が「黄武」の元号を用いたのも土徳を意識したためです。一方で蜀
では「炎興」の元号を採用しているのは火徳の再興を祈念したものです。
王莽や曹丕が武力による政権の奪取ではなく、古の聖帝のように平和裏に
易姓を実現したかのように偽装する禅譲プロセスのためには、相生説は絶
大な効用を発揮しました。そして相勝説は政治手段としては顧みられなく
なってしまったのです。
254あやめ:02/09/14 15:50
(前レスの続き)

以下の各王朝の徳運と服色を摘記しておきます。
魏・呉=土黄、晋=金白、後趙・北魏・宋=水黒、前燕・南斉・北斉・北周=木青、
前秦・梁・隋=火赤、陳・唐=土黄
なお北魏は当初は黄帝の後裔と称していたため土徳を採用していましたが、
孝文帝の時に前秦を継承して土徳とすべしという説と晋を継承して水徳と
すべしという、両説が対立しましたがやはり統一政権である晋の金徳を継
承することに落着しました。
また唐でも玄宗の時に当初は漢の火徳を継承したものとしていましたが、
5年後にはやはり隋を継承したものと決定しました。
255あやめ:02/09/14 15:54
(前レスの続き)

534 名前:あやめ投稿日:2001/01/24(水) 19:46
五代になると後梁は金徳ですが次の後唐はこれを無視して唐の土徳を維
持することとし、後晋が金徳で後漢は水徳となり後周は木徳で宋は火徳
という徳運となっています。
以後の王朝では五行の徳運については全く廃棄されてしまったようです。
その事情としては禅譲という手続きが顧みられなくなり、剥き出しの武
力で天下の奪権が実行されるようになったという歴史の様相の変化から
かと思われます。
王朝の称号もそれまでは政権獲得の前段階の封号に由来するものであっ
たのが、「大元」からは易経から取義することになり「大明」「大清」
も古典籍から嘉字を選ぶようになりました。国家の観念も天子の家族の
私産という意識から脱却したものへと変化していったように見えます。

以上で再録を終わります。
256245:02/09/15 03:44
あやめさん
こういった事をまとめて系統的に読んでみたいと思ったら、
素人でも手に入るいい書籍があれば教えていただけないでしょうか。



257世界@名無史さん:02/09/16 07:43
国民党は木徳(青) 共産党は火徳(赤)
258世界@名無史さん:02/09/17 11:51
高句麗は黄、百済は白、新羅と任那と倭国はどれも青。
259あやめ:02/09/17 14:29
>256
そういう便利な本があるといいんですけどね、日本では勿論あちらでも見かけませんね
いろんな文献を漁っては纏めてレポートしてるんです
いずれ(いつのことだー)ホームページ作って、こういう基本情報をコンテンツにしたいと思ってます
謚号の知識なんかあちこちの歴史サイトにありますけど、内容にはたいへん不満に感じてます
260245
>259
なるほど、是非作ってください。