952 :
世界@名無史さん:2007/01/07(日) 23:13:49 0
茅盾著「腐蝕」岩波文庫、1961年
茅盾は1940年5月延安に立ち寄って魯迅芸術学院で教え、
同年10月重慶に行く。11月に江蘇省北部で国共軍の武力衝突。
41年1月皖南事変が起きる。春に香港に移る。この年腐蝕は書かれ
10月に出版された。
茅盾の重慶滞在時期にほぼ一致した期間の若い女性の日記スタイルで
書かれているが、読み始めてびっくりジョンルカレを連想する、
エスピオナージ小説である。主人公は共産党スパイと同棲して
いた国府側の諜報組織に属しているが共産党シンパにもみえる。
汪兆銘側の組織の男女もいて、米軍からの軍事援助物資がどこに
かくしてあるのかさぐろうとしている。密輸もあるようだ。
ところが謎も解明されずに突然終わってしまい読者は投げ出される。
魯迅もそうなのだが、私の乏しい中国読書経験では中国の小説の
作者は全体の構成というものを最初に考えてあるのだろうか?
いきあたりばったりに書いているようにも思える。
探偵小説というものは、アリバイや密室の謎、トリックがあり、
最後にそれが解き明かされるのだが中国人にそれが、書けるの
だろうか?私の無知のためであることを願う。
(項英、こうえい、Xiang4 Ying1,1898-1941)
湖北省生まれ、12才工場労働者に
1922年、共産党に入党
23年、京漢鉄道ストを指導
中央委員に
26年、労働者を組織し北伐に参加
31年、中華ソヴィエト副主席
10月、主力部隊が長征に出た残軍を遊撃隊に組織
38年、正式に新四軍が成立、葉挺が軍長、項英が副軍長
>
http://www.asiatravel.to/chinatravel/sinsigun.html 41年、1月の皖南事件で新四軍は壊滅、3月に潜伏していた項英は
殺害された。
茅盾は共産シンパとしての活動が忙しくなると、すぐ作品を投げ出しちゃうんだよね。
『虹』(未訳)しかり、『腐蝕』しかり、『霜葉は二月の花に似て紅なり』しかり…
完結した長編小説は『子夜』『蝕』くらいか。
建国後は文部大臣になって(〜64年12月)創作活動停止しちゃうし。
一説によると、趙樹理が現れたので、自分の役割は終わったと思ったとか。
茅盾著「霜葉は二月の花に似て紅なり」岩波書店、1980年
舞台が江南の都市で中で海を見たことがないというので、何処
だろうと考えたが解らなかったが解説を読んで桂林だった。
日米戦開始により香港にいた茅盾は桂林に退却。重慶に移住
する資金のためにこの本を書いたらしい。
五四運動直後の時代に開明派の地主たちが農民のために運動し
失敗する話。題名の霜葉は秋の紅葉のカエデのことで、老人?
の開明派のことで、二月の花は春の花々のことで赤い若者の
ことだそうだ。
茅盾は単純な革命文芸に批判的だったようで、この小説は
その線の話のようにも見える。こんなものを書いてる人間が
中共で出世したのはよく解らない。
話の中で女子高生のスカートがどんどん短くなり、女教師の
スカートが薄く透けていくというのが出てきて、何処の国の
ことかとびっくりした。
松井博光著「薄明の文学」中国のリアリズム作家・茅盾、東方書店、1979年
著者は知識が豊富で茅盾辞典のような本。ただ79年の中国関係は
まだ言論の自由がないように、著者は自分の意見は一切出さない。
戦後については、小説を書いていないからと、言及がない。
「温故一九四二」は、このスレ的にはどう?
国民党が河南省だけで30万人自国民を殺害していたとは知らなかったよ。
劉震雲著「温故一九四二」中国書店、2006,4
竹内実監修とあり、後書きに竹内実の解説文の謝礼があるのだが、
見当たらない。「報告文学」というのだそうだ。
その年にいつものように飢饉があった。国民政府はあまり援助を
してくれなくて、蒋介石達は豪華な暮らしをしていたという。
日本軍が占領してたら、生活がやや安定したという話。
宋美齢は飢饉の最中にスティルウェルを招待して、贅沢にも
「コーヒー」を飲んでいたという。
私の最近読んでる中国文学は新中国成立以前のもの。
言論の自由の無い国の文学にもともと期待していない。
竹内実がからむとろくなことは無い。
うーん。竹内実さんも竹内A(文革まで)と竹内Bがあるからねえ。
961 :
世界@名無史さん:2007/01/18(木) 17:11:44 0
ここは人名辞典スレ?
(陳毅、ちんき、 Chen2 yi4,1901-1972)
四川省の生まれ。農家だったが読書人だった。小学生のころから
中国古典文学に興味をしめした。
1919年、勤工倹学でフランスに渡る。マルクス主義に接する。
22年、北京中法大学に入学。中国共産党に加入。
28年、湘南蜂起を指導。工農革命軍第一師団代表。井崗山に入る。
29年、紅軍第4軍を率いて江西省、福建省を転戦根拠地を造る。
34年、長征には残り、張雲逸、頂英等と遊撃隊を組織。
37年、8月日中戦争開始により、第2次国共合作により遊撃隊は
新四軍に編成され、陳毅は第1支隊司令員。栗裕、葉挺と
蘇南を転戦、南京南方に茅山根拠地を作る。
その後蘇北に移り転戦、黄橋戦役なだを指揮、
八路軍南下部隊と合流。
劉少奇政治委員と華中八路軍と新四軍を指導。
41年、皖南事変で新四軍崩壊。新四軍の軍長代理になって
華中抗日根拠地を指導。
43年、延安に行く。
45年、日中戦争終結。
劉伯承、ケ小平、栗裕等と華東野戦軍を率い淮海戦役、渡河戦役を
指揮。
49年、上海市長。
58年、外交部長。
963 :
世界@名無史さん:2007/01/22(月) 13:19:40 0
やはり国民政府を敗北に追いやったのは日本軍国主義ということかな
あと、終戦時のソ連が満州を取りそうで、それが心配で無理に
国府軍を遠い満州に送って、補給が続かなかったのが痛い。
>>958 竹内実が書いてるのは前書きだよ。
あと、国民党が河南省で殺したのは300万人だそうだ。
白髪三千丈って、すごいね。
>私の最近読んでる中国文学は新中国成立以前のもの。
残念。うまく乗せて残雪とか読ませてみたかったのにw
好みは分かれるだろうが劉賓雁とか戴厚英とかもね。
巴金著「家」岩波文庫、1956年、上下
巴金は1904−2004年。
あとがきを読んで著者の自伝と知った。
四川省成都の代々県知事の家に生まれ、祖父が絶対権力をふるう。
辛亥革命や五四運動の時の年令が解る。新青年などの新文化運動に
刺激され家を出るところで終わり。実際は南京にまず行き後に
上海、フランスに行ったようだ。中国では共産主義のはやる前に
トルストイや白樺派のアナーキズムがはやったのでそれに影響
されている。岩波本の出版の56年は微妙な年で、あとがきの
解説文をかいた人もアナーキストをほめていいのか、けなして
いいのか、ためらいがあるのは興味深い。
国防文学論争時代に魯迅のグループに属し桃文元などにアナー
キストと批判されたのを、文革で持ち出されたようだ。
969 :
世界@名無史さん:2007/01/26(金) 14:40:52 0
三好章著「摩擦と合作、新四軍1937−1941」創土社、2003年
この本は茅盾の「腐蝕」の背景として読み始めたが、500p近くで厚い
ためばかりでなく、特に地理が理解しにくく苦戦したが、抗日戦における
中共軍というものを考えるのに非常にいい材料で大変参考になった。
地理の例では;省が揚子江で分断されていること。その南側を安徽省では
ユ南、江蘇省では蘇南といい、当然蘇北がある。安徽省は大きいので、
中部はユ中だが、天津、哺口間の鉄道が南北に走りその東をひがユ東という。
安徽省北部のことを、東西に流れる淮河の北で淮北といっている。
第2次国共合作により、新四軍はユ中、蘇南、ユ南に限局し国府軍に
組み込まれた。また華北の解放軍と新四軍を切り離すよう誘導していた。
1938年早くも、中共中央は摩擦覚悟での根拠地拡大を指示していた。
38年10月には陳毅の部隊は揚子江を密かに北へ渡河し、蘇北に進出、
国府軍と戦闘した。主に40年。これを蘇北摩擦という。
41年1月ユ南にいた新四軍はユ中への移動の公表と異なり、東方へ移動。
国府軍に気付かれ壊滅された。ユ南事件。
旧「新四軍」は崩壊し、後に劉少奇、陳毅、馮雪峰を幹部に再建され
第三野戦軍となり、江沢民などの上海閥になる。
著者の三好先生は77年から97年ごろまでの開成高校の世界史の先生。
G.Benton著「New Fourth Army」1999
950pの大冊。孫引き的には、頂英と毛沢東の関係、劉少奇の役割、
新四軍の進出と郷神の関係が詳しいそうだ。
倍の厚さがある。日本文と英文では同じ1ページの情報量がどうなのだろう?
新四軍がNew Fourth Armyならパーロは8way Armyかな?
972 :
世界@名無史さん:2007/01/27(土) 02:48:38 0
延安時代から死ぬまで毛沢東の信頼を得てた康生ってのはバケモノだな
973 :
世界@名無史さん:2007/01/27(土) 03:52:24 0
八股軍
(饒漱石、じょうそうせき、Rao2 Shu4shi2,1903-1975)
江西省の生まれ。
1923年、社会主義青年団に加入。
35年、モスクワへ行く。王明、康生と共に中共留ソ派の指導者。
38年、華東、華中で活動。
41年7月、新編「新四軍」の政治部主任、政治委員代理に。
45年、中央委員に。内戦。
46年、中共中央華東局書記。第三野戦軍政治委員。
この時期に康生と争い勝利、華東地区の第一人者になる。
53年、東北地区の高崗と華東上海地区の饒漱石は地区を繁栄させ
権力を誇るが、毛沢東に眼を付けられケ小平も同調し二人は失脚。
高崗、饒漱石と劉少奇の権力争いの説もある。
ケ小平は高崗、饒漱石批判側にまわり命拾いをするわけだが、結果と
して地区の権力を譲り受けた形になり政策的には饒漱石的になっていく。
41年ユ南事件後、当時、陳毅との権力争いがあったらしい。
劉少奇、陳毅は華北の解放軍と華南の旧新四軍を無理やり結合させようと
して、壊滅させた失敗が関係しているのでないか?(書いてはないけれど)
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