おおー。質問ありがとうございます。早速答えてみます。
>>77 「花の戦争」とは、戦争の永続化を目的としたシステム(制度)のことです。
大量の生贄を得るには、戦争を続けるしかありません。そのため、アステカ族は
定期的に戦争を繰り返していました。また、南方は豊かな地域であり、難民の
受け入れ地域が必要であったり、貴金属品や装飾品を得るためにも戦争は欠かせませんでした。
また、それだけではなく、わざと制圧せずに常に戦争状態を保たせていた地域もありました。
「トラスカラ」などの地域が有名です。わざと敵対関係を維持しているので簡単に戦争ができたので、
定期的な戦争が繰り返されました。ここでは生贄の確保はもちろんのこと、兵士の訓練にも利用されました。
ただ、モクテスマ2世の治世にトラスカラ制圧のため大規模な遠征を行い、失敗したというのもアステカ敗北の一因となっています。
「花の戦争」は神のための生贄を得る戦争であったため、儀礼化されていたというのも特徴です。
>>78 せっかくなんで、sageないで逝きます。
>>79 コルテスによるアステカ征服を短期間で済ますことができたのは、マリンチェの功績も大きいです。
ヘロニモ・アギラールを通じて、ほぼ正確にナワトル語を翻訳できたため、常にコルテスの側にいました。
形としては、現地人→マリンチェ→アギラール→コルテスとリレーしていました。
マリンチェが貴族出身だったのも大きいと思います。アステカの内部事情に詳しかったので、
よく助言を求められたとも言います。容姿が美しく非常に頭が良かったらしいので、コルテスもかなり気に入っていたようです。
マリンチェはアステカとの戦争で敗れた国の出身でありアステカを恨んでいたため、コルテスには非常に協力的でした。
スペイン人のコルテスは現地語を使えないため、はじめは捕らえた現地人にスペイン語を教えて通訳させていました。
しかし、精度が悪く大した役には立たなかったといいます。もし通訳が育つまで現地人との交渉もできないようでは
征服がうまくいくかどうかも解りませんし、うまくいってもかなりの時間が必要になると思います。
交渉のとき現地人と直接話すのはマリンチェであり、影響力の大きさは無視できません。
一説には、コルテスによるチョルーラでの虐殺はマリンチェの嘘の報告が原因とも言われています。
インカとの交流については↓を参照してください。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1005453594/7 ただ、アステカの時代には交流は無くなっていたというだけです。
マヤについては、密ではありませんが、交流はあったようです。
アステカの時代は、マヤは衰退していたので、ユカタンに残っていた人々との物資の流通が主だったようです。
しかし、主に交流があったのは、トルテカの頃です。両者の建造物などには交流があったことを示す特徴が多いです。
テオティワカンやトルテカの時代は、ユカタン地域との戦争などもあり非常に密な交流がありました。