クイズじゃ。「ナポレオンを語り尽くす」で怒られてしまったのでこちらに移動した。
2 :
世界@名無史さん:02/03/08 22:20
(労)
3 :
世界@名無史さん:02/03/08 22:31
楽しみにしてるのでがんばってー。
俺はとけないけどw
自分も楽しみにしてるっす。
けどヒントの方が本問よりムズイことがあるゾ。
6 :
世界@名無史さん:02/03/08 23:55
ふむ。クイズマン氏が主催していた「歴史クイズ」スレがしばらく停滞してしまって
いたから、新スレを立てるのもまたよかろうて。で、出題のほうはまだかの。
≫1
スレたててもらってすみません。自分が本物です〜(^^ゞ
他のスレでまだ答えが出ていない問題を挙げておきます。
【問題1】古代エジプトで太陽神ラーの落とした涙から生まれたとされ
当時の医療や食事などに役立った生き物とは何!?
【問題2】インカ帝国おいて極めて重要で 帝国の最高の称号をもらえる事もできた職業
がある。逆にその分、怠けていた場合は厳罰に処せられたもので18歳から20歳
までの男にしか就けないものだった。ではスペイン人たちも注目した
彼らがする仕事とは何!?
8 :
世界@名無史さん:02/03/09 19:00
>>7 問題1
蛭では?
(形が涙に似ていて、血を吸うから医療にも役立つ。
食べようと思えば食べれるだろう)
問題2
糊作り(18〜20歳の男性限定)
新スレおめでとうビーム (ノ ^ ▽ ^ )ノ‥‥━━━━━☆ピーー
≫8
【ヒント】問題1の答えはその生き物を直接食べると言うわけではありません。
医療としては傷のくすりとして使っていました。
問題2の答えはこの仕事のおかげで、帝国の占領地の反乱が抑えられました。
大きく言えば、国の国防に関わるものとして重用されました。
問一
アリ。縫合するときだったかにアリの首をちぎって使う地域があったと読んだことがある。
エジプトだったかどうかは忘れた。
問二
飛脚みたいなものじゃないですか?
山の中のインカ王道を駆けるのには、馬がいないから若くて生きのいい人力に頼るとか?
【正解2】飛 脚
インカでは他の国よりもまして飛脚を重んじていました。それは、インカの言葉のケチュア語を
使わない占領地の代官は、帝国の安定の為に反乱や征服された民族の不満などを首都に報告
しなければなりませんでした。それ故、重用されたのです。
口頭、あるいは結縄で記録された情報を飛脚は運んでいきました。インカでは飛脚のことを
「チャスキ」と呼んでいました。そして、帝国の街道を約2〜3km毎にチュクラと呼ばれる駅が
作られていました。白い鳥の羽根で作った鉢巻を頭にしたチャスキは次の駅までひたすら走り
次の飛脚に情報を伝えたのです。口頭の情報の場合は何度も丁寧に繰り返し報告していました。
駅にはいつも2人の飛脚がいます。1人の飛脚が次の駅まで走るともう1人は駅を守っているのでした。
スピードは首都のクスコから第二の都市キトーまで2000kmもあるのに5日で伝わったといいます。
飛脚の仕事はひどく体を使うので18歳から20歳の男に限定されていました。普通、インカでは国の
為に1年間に3ヶ月労働奉仕しなければなりませんでした。この奉仕のことを「ミタ」といいますが
飛脚の仕事は1年間に1ヶ月という時間でよかったのです。また、優秀な飛脚にはインカ皇帝自ら
称号を与えました。「アヤ・ワマン」「アヤ・ポーマ」と呼ばれます。ワマンは鷹(タカ)、ポーマは
ピュ−マの事です。しかし、仕事をまじめにやらなかった場合は、頭を50発こん棒で殴られました。
そして、死体の両足はたたき折られたのです。
スペイン人はこの飛脚に注目し、イエズス会の宣教師はスペイン人のペルー副王がいる首都リマからクスコまで
3日で通信できました。
≫11
ちなみに、問1はアリではありませんが、このアリの話はインカでも登場します。
大した事のない傷を縫い合わせる為に、大きなアリを2匹傷の上に置いて、アリ同士を押付けます。するとアリ同士は
噛み合い、その頭だけを残して体を引きちぎり傷を縫った事にするそうです。
このような治療や手術をする時には、全身麻酔・局所麻酔をしていました。「アンピカマヨク」と呼ばれていた
インカの医者は麻酔薬として学名ダトゥーラ・ストラモニウム(朝鮮朝顔の1種)を使っていました。今の医学でも
この朝鮮朝顔からアトロピンと呼ばれる中枢神経を麻痺させる薬を作っています。
また、アヤ・ワカクというアマゾン盆地で採ることができる植物からは3種類のアルカロイドが取れます。
アヤ・ワカクの種を細かくして嗅ぎタバコのように使うそうです。
ラムセス(労)
【ヒント】問題1については、この生き物がもたらす何かを医療や食事に使うという事です。
古代エジプトでは既に飼う技術があり、「ビト」と呼ばれたその生き物は神聖である
為に、ファラオの名前を記したものにも象徴的に使われます。
16 :
世界@名無史さん:02/03/10 01:46
んじゃ、蜂でどうかな?
蜂蜜とかロイヤルゼリーなんてクスリになりそうな感じだけど。
【正解3】みつばち
みつばちは古代エジプトでは神聖なものとされてきました。下エジプト王を象徴するもの
とされ、上エジプト王を象徴する菅(すげ)と対照されています。ファラオは最終的には5つの
名前を持つようになりましたがその中のひとつである、上下両国の支配者である事を示す
上下エジプト王名のカルトゥーシュの前に菅と必ずペアで描かれました。
また、みつばちがもたらすハチミツは食料としてだけではなく、切り傷の軟膏としても使われ
ていました。これで雑菌の繁殖を防ごうとしたのです。
古代エジプト末期王朝時代(前712〜後332年)の第31代王朝のファラオでもあるアレキサンダー
大王(ファラオ名ではメリィアメン=セテプエンラー)は死後、死体が腐りにくくなるために
体中にハチミツをかけられたといいます。
ハチミツはみつばちに細長い筒の中に巣を作らせてそこで飼って、蜜が溜まったところで煙を
いぶしてはちを外に出して、壺の中にハチミツを入れていたようです。また、花を求めて
場所を移動するという転地養蜂も実施されていました。養蜂の様子は例えば、テーベにある
パバザという名の貴族の墓(末期王朝時代、第26王朝 前650年頃)の壁面に彫刻されています。
【問題3】カナダのプリンスエドワード島。ここはあの『赤毛のアン』のモデルになったところだ。
この島に1866年あるものが使われ始めた。それはカナダ全体でも最初のできごとだった。
しかし、多くの島民はそれを喜ばず 遂に政府は1908年にそれを使う事を禁止した。アンの
著者であるルーシー・モード・モンゴメリーは「世界で一ヶ所くらいはこれを使わないような
場所があってもいいのでは」と憤慨していた。では、当初かなり不評だったその物とは何!?
【問題4】ヴィクトリア女王はナポレオン3世とユジューヌ妃との結婚を祝して1853年、フランスへ
ピアノを贈った。そのピアノは、ナポレオン・ボナパルトに ちなんだ特徴を持ったもの
だった。では、その特徴とは何!?
19 :
世界@名無史さん:02/03/10 14:00
→3 電気では? あるいは電球?
→4 英雄交響曲の自動演奏装置
【ヒント】●問題3については、政府は1913年には月・水・木曜日に限って使用を認めました。カナダでは
1921年のこれの価格は900ドル(当時)でしたが5年後にはインフレーションにも関わらず、
700ドルに下がっています。当初は相当珍しい為に、この物と一緒に写真を撮る時も10セント
お金を払ってまでしていました。
●問題4については、日本でそれを見る事ができます。見てすぐ分かる特徴です。
21 :
世界@名無史さん:02/03/10 18:20
Q3;電話かな?
Q4;椅子の足がナポチャンカスタムで短いとか。
≫21
残念ながら違います〜(^^ゞ
問3
自動車か?
20年代に値下がりってのがヒントの気がするな。
フォードシステムが市場を席巻した時期じゃないの?
問4
わからん。贈り物だからお追従が入っているんだよね。
ナポレオンのポジティブなイメージ・・・「ナポレオン=鷲」か?
なんかフタの上に鷲の飾りがのっかってるとか?
≫23
問題3が正解です〜(^O^)
【正解3】自動車
プリンスエドワード島で最初に自動車に乗った人は、ジョルジュ=アントワーヌ・ベルクール
神父でした。1866年の事でカナダ史上でも最初です。しかし島民は、馬で生活をしていました。
馬が車を見て怖がったり、交通事故を恐れ教会へ行かなくなる農民が出てきた為に政府は
1908年、自動車の使用を禁止しました。違反者には6ヶ月の投獄または500ドルの罰金が科せ
られたのです。しかし、1913年には月・水・木曜日に限り使用を認めました。曜日が限られて
いた為に、木曜日に遠くの場所で故障したら、それを家まで運転して帰るには月曜日まで
待たなければなりませんでした。車の使用自由化は1918年に実施されました。1924年までは
車は左側通行で、島での最初の舗装道路が完成したのは1934年の事です。
1920年代後半から急速に島の自動車の保有台数が伸び始めました。これは、答えて頂いた
アメリカのヘンリー・フォードの影響があるかもしれません。フォードは、それまで自動車
業界の常識であった「自動車=高級」というものに従っていました。A型、B型、K型、
N型・・・と販売しましたがB型が2000ドル、K型が2500ドルと当時としてはかなりな値段で
とても普通の人には入りませんでした。しかし、低価格を目的に遂に20番目のモデルとして
T型を販売しました。1908年10月の事で販売価格は850ドルでした。そして、翌年には
690ドル、そして1920年代は275ドルにまで下がりました。
その秘密は、‘生産過程の作業の徹底した専門化と細分化’(車ができるまでの過程作業を
細かくして担当の人がする仕事を単純にして作業を慣れさせ効率をUPさせた)と
‘完全な互換性’(同じ部品を作るときには完全に同じ物にして他のT型にでも合うように
した、つまり部品の標準化)でした。このために今まで自動車ができるのに12時間28分平均
かかったのに対し、このシステムを取り入れたために1時間33分で完成されるようになった
のです。こうして大量生産の象徴となった時速56qのこの自動車は、やがて世界を駆け
抜ける事になったのです。
【ヒント】問題4については、ナポレオンの身の回りの何かに関わるものです。
月曜日は仕事の都合で書き込めないと思いますので、何問か書いておきます。
【問題5】清の雍正帝が紫禁城の乾清宮の「正大光明」と書かれた額の後ろに、何かを
入れた木の箱を収めた。そしてそれは、皇帝の死後見るようにとされたもので
清という国が未来永劫 安定するようにと行ったものだった。
では箱の中に入れたものとは一体何!?
【問題6】フランス革命前まで小麦粉を使ったある職業が王侯貴族を対象に持てはやされた。
しかし、あまりにも小麦粉を使うので一般庶民はパンが満足に食べれなくなってしまった。
では、革命の原因の一つとされるこの小麦粉をたくさん使う人たちの職業とは何!?
【問題7】草食恐竜は他の生き物とは違って、あるものが2つある。普通の生き物は1つだけ持って
いる体の部分とはどこ!?
【問題8】フランシスコ・ザビエルは日本へ来る前にインドに寄っている。そこで文字が読めない現地の
人たちに対して、信仰箇条などを覚えてもらう為に30人から多い時で50人くらいの子供を
使ってある事をした。では、多くの子供たちを使って覚えさせた方法とは何!?
27 :
(自称)世界史板総督:02/03/11 01:57
「世界不思議発見!」みたいだねw
28 :
(自称)世界史板総督:02/03/11 02:02
29 :
棄教者 ◆witdLTi2 :02/03/11 15:59
>>26 エジプトスレでお会いしました棄教者ですよろしく
ところで問題7は脳味噌ですか?
問題5は次の皇帝の名前を書いた文書だったような気がする.
CSで「雍正王朝」という中国の歴史物ドラマをやっていてそれで見た.
問5
オレも26氏に同意。
たしか「太子密建の法」とか言うんじゃなかったか。
問6
白粉(おしろい)屋?
貴族の髪などに振りかけたりする。
【正解4】ピアノの形がナポレオンの帽子の形になっている
このピアノは現在、日本でも見る事ができます。(武蔵野音大楽器博物館蔵)
音域はG2〜g4、つまり7オクターブ出るアップライト・ピアノです。
この他、19世紀の前半には裁縫箱とピアノがくっついた「裁縫箱ピアノ」やギターのように
ベルトで背負って演奏する「オルフィカ」と呼ばれる変ったピアノが登場しました。
【正解5】次の皇帝になる人物の名前が記された紙
問題のような皇位継承法を「(太子)密建法」といいました。
中国では相続は男に限られ、女は系図に乗る事はありませんでした。皇子として生まれた子は
生まれた順番から、第一皇子、第二子皇子・・・、と呼ばれたのです。清朝は満州族なので
満州語で「アゴ」とも呼ばれました。彼らは平等に扱われました。
満州族のルールでは氏族制の為、そもそも皇帝が予め子供の中から皇太子となる人物を決める
習慣はありませんでした。しかし康熙帝はこのルールを破り、初めて皇太子の制度を取り入れ
ました。康熙帝は皇后の子である第二アゴを皇太子として指名しました。ですが、満州社会は
合議制の為に兄弟や血縁者、家臣たちがある程度発言力があったために、皇太子も政治的に力を
持つようになり、老いた家臣が後押しをする事もあり遂には皇帝の狙う陰謀説も出ました。
この為、康熙帝は皇太子を幽閉し、以後このような皇太子を指名するという習慣はなくなりまし
た。
その後、帝は35人の皇子のうち第十四皇子を有望視しました。しかし実際、帝位に就いたのは
第四皇子だったのです。これは、康熙帝の詔勅に書かれていた「伝位十四太子」を
「伝位于四太子」と改ざんされたなどさまざまな説が流れてます。
このような、バックグラウンドがある為に、皇帝の座に就いた雍正帝はことさら皇位継承に
こだわったのです。この密建法は満州の古くからの習慣を上手く取り入れたともいえます。
つまり、満州では英雄を意味する「バツール」の称号を持った者の中からカーンの位に就いて
いました。密建法では、皇子達が勉強する内書房での成績の順番で皇太子になるものを
決めました。そしてその名(番号)を記した紙を木箱に入れ、順治帝が書いた「正大光明」と
書いた額の裏に入れたのです。
ここで注目すべきは組閣に携わるほかの家臣の名前は一切書いていない事です。
この習慣で雍正帝が書いた皇子は「第四子宝親王(ほうしんのう)」つまり、後の乾隆帝だったのです。
ラムセスXさん、面白いんだけどちょっと読みにくい。
何とかなりませんか?
≫33
すみません。あまり慣れていないもので・・・(^^ゞ。
どのヘンが読みにくいか教えて頂ければありがたいです。
【正解6】理髪師
≫30さん、ほぼ正解です〜(^o^)
革命前までイギリスやフランスでは王侯貴族を中心に髪型をさまざまな形にする流行が生まれ
ました。あまりに大きな髪型の為にイスに座っている貴婦人の髪を作る理髪師はハシゴに登って
髪を整えているという絵まで残っています。その髪のアレンジに使われる髪粉に小麦粉が
最適だったのです。一日に2回髪粉をまぶして髪をいじっていたこの習慣は、マリー・アント
ワネットもしていて、レオナール・オーティエが担当していました。針金で型を作って髪を巻い
て髪粉をまぶしていたのです。この習慣では年間200万ポンドもの小麦粉が消費されました。
このために、庶民が食べるパンの値段が上がったり、おいしくないパンが売られるように
なったのです。ルソーは「髪粉に小麦粉が使われるので貧民は食べられない」と訴えています。
そして、幾多の戦争などによる増税などで不満が一気に爆発し、革命につながりました。
イギリスでは革命後の1795年から1869年までこの習慣をする人は、年に1ギニー
(21シリング)の税を払わなければなりませんでした。またフランスでは革命後はショート
ヘアが流行出しました。ちなみに、ナポレオンもショートヘアです。
>>34 いやいや、ワガママ言ってすいません。
あまりお気になさらずに。
すみません、正解6に補足です。
髪粉とカツラの流行で理髪師はかなりの利益を上げましたが、革命後はお客さんがかなり減ったので
国民公会に請願し、2200万フランの救済金をもらっています。
【正解7】 脳
≫29 棄教者さんお久しぶりです、正解です〜(^O^)
草食恐竜の脳はかなり小さいようでした。例えば、ステゴザウルスなんかは象とほぼ同じ
大きさですが脳の重さは象の30分の1に過ぎません。しかし、脳の構造はワニよりも進んで
いて、腰のあたりに‘第2の脳’があったといわれます。しかしこの脳は、頭の脳からの
信号を伝える神経が束になったもの程度なので、思考能力はほとんどありませんでしたが、
後ろ足やシッポの運動をコントロールしていたと考えられます。
これに対し、肉食恐竜は獲物を捕らえるための目や鼻などの感覚機能や、素早く行動するため
の運動機能を高めるためにかなり大きな脳を持っていました。
動物の体重に対する脳の重さの割合の事を「脳重量比」といいます。これによると、草食恐竜の
中では竜脚類の脳重量比が10万分の1で最も小さいです。次いで、剣竜類や曲竜類、次が
角竜類、そしてカモノハシ竜と順次大きさが増します。肉食恐竜ではこの比がさらに高くなり、
小型肉食恐竜のステノニコサウルスは1000分の1でした。
8問
一晩考えました。
「子供」と「50人」がポイント?
人数集めたのはコミュニケーションの効率化のためやろなあ。
つまり「子供→家族」という経路を考えると、n人家族の場合、
子供に伝道する場合、二次的には50n人に伝わるわけやから。
ポルトガル語?が当時インドの当該地域で流通してたかどうか。
「子供」選んだのは難しい説教するためやないやろ。
紙芝居見たいなもの使おたか、歌を歌わせたか?
けど二次的な、家族への伝達を考えると歌の方がええやろ。
ということで、ズバリ、信仰箇条を歌にして憶えさせた。
「エスピリトゥス・サント〜」とか。
そんで「家に帰ってお父ちゃんお母ちゃんにも歌おたりい」と言って聞かせた。
(イエズス会は、意味をよく知らなくても「三位一体」とか口走ることが出来れば
キリスト教徒と見なす、というヒジョーに柔軟な布教姿勢を取っていたのと違う?)
【問題9】ポリネシア各地のタコを採る漁は変った方法で行われている。それは、伝説では大昔に
ある生き物がココヤシで作った船で旅をしていると、嵐がきて溺れかけたその生き物を
タコが頭に乗せて助けてくれた。しかしその生き物はタコの頭にフンをした為にタコを
怒らせてしまった。以来、漁師が海にこの生き物の形をした漁具を投げ込むと仕返しを
しようと思い、タコが飛びついて来るのだという。
一体、タコを怒らせたその生き物とは何!?
【問題10】ロシアのロマノフ家のアンナ・イワノーブナは許可なくガリチン公爵がローマ・カトリック
教徒の女性と結婚した事に怒り、公爵の身分を宮廷道化師にまで下げた他、あき足らず
氷で何かを作りそれを公爵に使わせるという罰を科した。では、氷で作ったものとは何!?
【問題11】1947年にベドウィンの少年によって偶然発見された『死海文書』。この文書があった洞窟に
いたクムランの教団はユダヤ教の一派と考えられている。主な仕事は、礼拝と会議それに共同食事
であった。入団を希望して入った者には厳しい戒律や規則が待っていた。
罰則も厳しく、他の団員を中傷したら1年間の追放などがあった。
では、罰として30日間謹慎されてしまう禁止の規則とは何!?
【正解8】一人一人に単語を一つづつ覚えさせて、文章通りの順に並べさせて暗唱させた
≫37さん、ほぼ正解です〜!!
1534年8月15日に誕生したイエズス会の使徒ザビエルは1542年5月6日、ポルトガル領の首府ゴアに
到着しました。リスボンを出発して1年1ヶ月後のことです。しかし、ここでだらしのないポルトガル
の役人を多数見たり、文字の読めない現地の人たちの布教に対する反応の薄さから寂しさを感じて
いたザビエルはマラッカで現地の人の結婚式を司式していた時ある日本人に会います。それがヤジロー
でした。ザビエルはポルトガル人の不道徳な官吏がいない、かつヤジローのような好奇心が強い
民族がいる日本へ行きたいと志しました。こうして1549年8月15日、ザビエルは鹿児島に着きました。
日本のキリスト教の歴史が始まりました。ちなみに、ザビエルが乗った船は「海賊船」でした。
日本での布教にも苦労したようで、例えば、ザビエルが「世界の原理は何と言いますか」とヤジローに
聞くとすぐさま「大日」と答えたのです。「神」と言う答えが欲しかったザビエルは神に相当する言葉を
大日としました。また、「私のような服装をしている人を何というか」と聞くと「仏僧」と返ってきたので
鹿児島に着いた時に人々に「私は大日の教えを皆さんに伝えるためにここへ来た仏僧である」と言ったの
で最初の頃は人々はキリスト教を仏教の新しい宗派だと勘違いしていました。
しかし、この勘違いの為にすんなり受け入れられましたが、1年ほど経ってザビエルが大日は
キリスト教の神とは全然違う事を知ると、慌てて取り消しの説教をしました。それからはラテン語の
「ゼウス」を使いました。
>>39 ラムセス陛下、楽しいスレ進行ありがとうございます。
ところで、レス番号の前につける記号は > を2回重ねたものに
してください。一字の≫では、レスへのリンクが貼られません。
>40
すみません、こんなカンジでしょうか?(^^ゞ
補足ですが、正解8で載せた「イエス・キリストの伴侶」という意味を持つイエズス会の誕生年は
1534年としましたが、これはロヨラなどの仲間がフランスのモンマルトルの丘に登って、
聖デオニソス小聖堂の地下室で、清貧と童貞と聖地巡礼の誓いを立てた年で、
法王から認可状をもらった年は1540年の事です。すみません。
問題10は帽子か靴? 道化師用の。
問題11は私語。中傷で禁固1年だからねえ。
あとタコや恐竜は世界史じゃないんじゃないの? 面白いからいいけど。
>>43 どちらとも違います(^o^)
自分としてはただ年号、戦争や革命、政治の形態やその変化、人名をただクイズにすると
その知識がない人は必ず解けない問題になってしまうので、それらを知らなくてもなるべく
解ける問題を考えています。また、世界の多くの人たちは昔ながらの伝統や習慣を大切にして
生活しているので民俗学みたいですが、彼らの生活スタイルを見る事で他の国々との関係や
その国の過去のできごとにリンクできる思い出題しています。
例えば、問題9に出てくるタコの敵討ちの話はポリネシアだけでなくミクロネシア、
東南アジア、インド、果てはマダガスカルにまで及んでいます。どうして広がったかを考えてみると
何かが見えてくるかもしれません。自分としてはその手伝いができればと思い出題しています。
更に、過去のできごとがあって現在があるように、大きく見れば恐竜や昔の生き物があって
今のヒトの原型ができたのではと思います。人類が手に入れた火の使用や直立歩行などは他の生き物
(あるいは外敵といっていいかもしれません)があって手に入れられたようなもの思います。
人間だけでなく自然も歴史には関わりがあると考え出題しています。
よかったらこれからもお付き合い下さい。
問9
ネズミの模型に糸をつけて、水面でボチャボチャやります。
するとなぜだか、蛸が絡み付いてくるのです。
>>44 その意気や、よし!
がんばりませう(^o^)/
【正解9】 ネズミ
>>45さん正解です〜(^○^)
トンガではマカ・フェケ(タコ石)と呼ばれるこの漁のやり方は、ネズミの胴の部分を
コマ型に加工した玄武岩にタカラガイの貝殻を取付けて、ココヤシで作った紐で結んで
作ります。そして、バナナの葉などでネズミのシッポを作ります。胴の部分に付けた
釣り糸を水面で上下に動かすと音がしてこれに反応してタコが飛びつくというものです。
この漁に関しては問題にも載せましたが次のような伝説があります。
【昔、ヤドカリ・クイナ(鳥の一種)・ネズミがココヤシの実を半分に割って海で旅をして
いた。しかしある時、嵐に会いココヤシが沈んでしまった。ヤドカリは海に沈み、
クイナは空へ飛んだがネズミは泳げず困っていた。そんな時にタコが来て頭に乗せて
くれたがその途中、ネズミはタコの頭にフンをしてしまった。気づかないタコは浜まで
送ったがネズミが馬鹿にしたのでタコは怒った。しかし、浜までタコは上がって来れず
それ以来何とかネズミに仕返ししようと思い続けることになった。】
これはサモア諸島の話で場所によっては中身が少し異なります。西ポリネシアでは
このタコの話と漁が両方ありますが東ポリネシアに行くと話は存在せずただこの漁法が
行われています。また、タコの話は遠く、東南アジア、インド、マダガスカルにまで
届いています。
47 :
世界@名無史さん:02/03/14 20:38
問10
いす?
これはけっこうキクのではないか。ぢの人とか。
前にERで氷の上にすわりっぱなしになって死ぬ思いした患者が出てきた。
正解にしてはちょっとひどすぎるかな。
>>47 違います〜。もう少し大きなものを考えてみて下さい。
49 :
世界@名無史さん:02/03/14 21:59
んじゃ、ベッド。
>49
違いますもっと大きなものです。
51 :
世界@名無史さん:02/03/15 00:33
52 :
世界@名無史さん:02/03/15 01:08
【正解10】 宮殿
ヨーロッパでは30年近く寒波に襲われていた1740年、アンナはペテルスブルクの改造計画を
完成したばかりの建築家のペーター・エロプキンにその建築を委ねました。幅25m、高さ10m、
奥行きは7mというスケールで完成しました。また、外には宮殿と同じくらいの高さの氷の木も
あり、そこには氷の鳥が止まり色が塗られていました。そして、寝室にあった、ベッドや枕も
氷でできていたといいます。また、氷で作った大砲は6門あり、壊れない程度の火薬が使われ
発砲されました。
これは公爵のミハイル・アレクシュビッチ・ガリチンが許可なくカトリック教徒の娘と結婚した
事に対する罰だったのです。娘は結婚直後に亡くなりましたが、アンナは公爵を身分格下げに
するほか、アンナ自ら選んだモンゴル系のカルムック族の女性と結婚させられました。そして、
この氷の宮殿は彼らのハネムーンのための宮殿になったのです。
この新婚夫婦はゾウが背負う檻(おり)の中に入れられ、世間の見物にされ檻の後ろには
クマやブタがお供についていたために余計に注目される事になりました。そして最後に彼らは
宮殿の寝室に運ばれていきました。
ですがこの罰も長くは続かず、春が来ると跡形もなく宮殿は無くなってしまい、アンナも
その年の暮れに亡くなりました。一方、公爵とその花嫁は末永く仲良く暮らしたといいます。
53 :
世界@名無史さん:02/03/15 02:08
【問題12】明治24年(1891年)2月、東京の駿河台にニコライ堂という教会ができた。当時は高い建物が
あまりなく、地上38mのこの建物から皇居が見下ろせたので「けしからん!」という話に
なった。そこで辰巳小次郎はニコライ堂から皇居が見えなくなるようにと、二つの間に
あるものを作ろうと案を出した。
それは本来は自然界の物なので、人工的に作っても違和感はないだろうという考えであった。
では人工的に作ろうとしたそのものとは何!?
【問題13】古代フェニキアの首都チレ(現在のレバノンのスール)から多数の貝殻を見つける事ができる。
これは、食べるためではなく何かを作る為にたくさん使っていたからだ。フェニキアのそれは
あまりにも有名になり、産業化したほどであった。
では、フェニキア人が大量の貝で作っていた物とは何!?
【問題14】1919年8月シャルル・ゴドフロアは7月に行われた第一次世界大戦の戦勝パレードであまり
いいあつかいを受けなかった事に対して、抗議の意味を込め凱旋門で何かをした。周りの
人たちは ビックリしたり拍手したりした。では、凱旋門でした「抗議」とは一体何!?
問い13。
これは知っているような気がする。(変な日本語だが)
紫色の染料をとるためではなかったか。
紫色は帝王の色ということで云々、という話を聞いたことがある。
【正解13】紫色の染料
>>54さん、お見事です〜(^o^)
フェニキア人は紀元前16、ないし15世紀頃から貝から紫色を得る事を行っていたようです。
この貝はアッキ貝(悪鬼貝)別名Murexと呼ばれる貝で、チレの人たちがこの貝を得た方法としては
まず、アッキ貝はイガイという貝をエサにしている事に気づいたので、大きなカゴに生きた
イガイをたくさん入れて船でアッキ貝がいるところまで行きます。そして、綱でつなげたカゴを
海へ投げ込みます。イガイはエサを取ろうとして二枚の貝を素早くパクパクさせるのですが
アッキ貝はイガイが口を開けた瞬間に自分の舌を突っ込みます。ビックリしたイガイは
あわてて口を閉じてしまいます。こうして、アッキ貝は採る事ができるのです。
このアッキ貝は独特な液を分泌し、ここから取った液に塩を混ぜ数日放置しておくと無色の
液が徐々に紫色に染まってくるのです。わずか1gの染料を得るのに2000個の貝が必要になります。
チレだけではなくシドンのような都市でも盛んに行われました。ちなみに、「フェニキア人」とは
「緋紫の人々」という意味です。
一方、日本でも吉野ヶ里遺跡から出土した絹の布片から貝で作った紫の染料が使われて
いた事が化学分析(色素の分子構造を分析)で明らかになっています。布片は弥生時代の中期
(紀元前1世紀)のもので貝輪に付着していました。当初は草木染めと思われていましたが、
貝から得た物だと分かったので、動物性の染料がかなり前からあったことを裏付ける証拠に
なりました。しかし、日本では独特のにおいなどからあまり普及はしなかったようです。
>38
【ヒント】問題11は会議中に何かをすると罰せられました。
すみません。
>>38ですね。
【ヒント】
>>53の問題12は、既に江戸時代にも作られていましたがそれよりも大きな
物を作ろうとしました。
問12
>>57 ということは・・・富士山?
(江戸中期には富士講といって、富士山そのものを信仰する教団がいくつかあり
御神体として人工の物が、江戸市中にいくつか作られた)
【正解12】 富士山
>>58、正解です〜☆
江戸時代に富士講という「講」が結成されました。講とは、民間の信仰の一つで宗教上の
目的を達成するために同じ信仰の考えを持つ人たちが集まって結成されるグループの事
で、村や町ごとに結成される為に地域性が強く出ます。一般的には、戦国時代の末期から
江戸時代の初めにかけて修行をした長谷川角行を祖と仰ぐ富士講の事を指しますが江戸時代
にはかなり広まり、江戸八百講とまで言われました。幕府はあまりのスピードで広がることを
恐れ、行衣を着て鈴を鳴らして祈祷をして護符を配る事を禁止するなど手を打ちました。
その為に、富士山へ直接行く事ができなくなった富士講の人たちは、江戸末期頃から各地に
富士山に似せた富士塚を作りここへ行けば本物の富士山へ行った事と同じご利益があると
考えたのです。この富士塚の流れを受けて、何と明治30年(1897年)には、浅草公園に木で
できた富士山が登場しました。高さ約45mでしかもロクロで回転できたといいます。
文学士の辰巳小次郎は当時できたニコライ堂が皇居を見下ろせる高さだったのでけしからん
とし大きな富士山を作ろうと提案しました。ニコライ堂に反発していたのは他にも理由があり
ます。一つは、建設者ニコライがロシア人であった事。これは明治の初めから日露戦争にかけ
て帝政ロシアの脅威が常にありました。もう一つはキリスト教は江戸時代に禁止になった為に
仏教や神道に慣れていた一般の人たちは新しいこの宗教を何か恐ろしい邪教として見る人が
まだいて不安を招く恐れがあるという事だったのです。
しかし、富士山は結局できず、今は当時50万円の工費でできたニコライ堂だけがその歴史を
語っています。
【正解11】 会議中に居眠りをする事 《問題レス
>>38》
1947年に少年が飼っていたヤギをさがしている時に偶然、大きな穴を発見しました。
そこにあった壺の中から七巻の巻物が見つかり、うち三巻をエルサレム大学のスケニク
教授が研究した結果、紀元前2〜前1世紀のヘブライ語の写本である事を突き止めました。
内容は『旧約聖書』の「イザヤ書」の第四十章以下の大部分や『光の子らと闇の子らとの戦い』
と名付けられた黙示文学書、『感謝の詩篇』でした。一方、残りの四巻はエルサレム市の
ギリシャ正教のサムエル司教が手にしていました。「イザヤ書」『ハバクク書註解』『教団戒律
提要』『創世記外伝』が書かれていました。その後の調査の結果、本来は200あまりの巻物が
あったと思われ1956年までに11以上の洞窟が見つかったのです。
その中の‘クムランの廃墟’と呼ばれる穴を調査すると、約30の部屋と13の貯水池、1000を
数える墓が見つかりました。ここの調査の結果、(1)紀元前700年頃の古イスラエル時代、
(2)紀元前136年〜前37年頃、(3)紀元前4年頃つまりヘロデ王の子アラケオの時代から後70年、
(4)第二ユダヤ戦争時代(132年〜135年)の4期に分けることができました。クムラン教団は
(2)(3)の時期にここにいたと思われます。
教団は祭司とレビ人と一般の団員の3階層から構成されます。入団希望者は厳しい試験を
受け入っても年に1度知識と行状についてテストされ、2年後に会議の出席を許されます。
ここでの規律は厳しく、団員が罪を犯せばまず個人的に戒め、最後には幹部の決裁に運ばれ
ます。例えば、会議中の居眠りは30日の謹慎、不必要な自己宣伝は6ヶ月の謹慎などで
他の罰としては身分の格下げ、減食、除名などがありました。そして、教団が全財産を
共同で管理し、独身を守り、武器を造らず、奴隷がいないという形を守りました。
【問題15】大航海時代などで活躍したの大型帆船のマスト(帆桁の部分)が19世紀ある事を
するためにドイツを中心に盛んに使われた。ドイツが近代的なそれの発祥地で
マストの一部を地中に埋めて使われていた。ではドイツ発祥のその文化とは何!?
【問題16】イースター島のモアイ像の中に一体だけ、島から運ばれたモアイがいる。
では、そのモアイが運ばれた場所とはどこ!?(都市名で答えて下さい)
【問題17】古代エジプトで神やファラオにだけ‘ウアス杖’という杖(つえ)を持つことができた。
この杖は地面に突く部分が二股に割れている形をしている。これにはある理由がある。
では、ウアス杖が二股に割れている目的とは一体何!?
【問題18】18世紀以前スペインのある物は国王以外に輸出することは許されなかった。
他の国々にもそれはあったがスペインのは大変上等なものだったからだ。
イギリスのジョージ3世はスペインのものが欲しくこの話を聞いたバンクスは
スペインから密輸する事に成功した。では、バンクスがイギリスに持ち帰った
密輸品とは何!?
【問題19】アンドレ・マルロウの著書『王道』にも登場するカンボジア周辺に暮らすモイ族は
古くから神明裁判で白黒をつけてきた。例えば、告訴した者とされた者が同時に水の
中に入り、先に上がったほうが負け、というような具合であった。
では、卵を使って村のリーダーが罪を犯した犯人を見つけ出す方法とは何!?
【問題20】紫色は王や皇帝などの権力やにしか使えない特権だった。(
>>55)
ビサンツ皇帝のバシリウス1世は宮殿の部屋の一つを紫色のカーテンがある
特別な部屋を作った。では、この部屋を作った目的とは何!?
すみません。書き直しです〜m(__)m。。。
【問題20】紫色を使う事は王や皇帝など権力者にしか使えなかった一つの特権だった。(
>>55)
ビサンツ皇帝のバシリウス1世は自分の宮殿の部屋の一つを紫色のカーテンが
ある特別な部屋を作った。では その目的とは何!?
63 :
世界@名無史さん:02/03/18 01:16
15:電信柱
18:葉巻
20:寝室
>>63 残念、違います〜(>_<)。
問題14もまだ残っているのでよかったら考えてみて下さい。(
>>53)
問題17のanswer
上エジプトと下エジプトの統一の象徴かなあ?
>>65 違います〜(>_<)
実は、神やファラオが使う物であってもエジプトという土地では役立つ実用的な理由
というか目的です。
67 :
世界@名無史さん:02/03/18 09:44
17... コブラおさえつける為とか
20... 裁判室みたいなもの
【正解17】 毒ヘビ(コブラ)の頭を押さえつけてからみ取る為
>>67さん、問題17は正解です〜(^o^)
ファラオになるとさまざまな王権、あるいは神権の象徴とされるものを身に付けました。
ウアス杖もその一つです。この杖は頭の部分がオシリスを殺したセト神の顔がデザインされる
ことがあります。そして反対の地面に突く部分は二股に分かれています。これは太古からある
ヘビ除けの名残とされます。二股の部分でヘビの頭を押さえつけると、ヘビの体は自然と杖に
巻きついてきます。
古代エジプトの人たちにとってヘビは太陽神ラーの航行あるいは死者が来世へ航行するのを邪魔する
魔物と考えていました。ウアス杖はその魔物から神やファラオを守る聖なる杖だったのです。
「アアペプ」当時呼ばれたヘビは一方、下エジプトでは聖なる物と考えられました。先王朝時代から
下エジプトの守護神として、赤い冠を被っている聖なる蛇として見られています。
ツタンカーメンの黄金のマスクにもコブラがデザインされています。
ちなみに、「ヘビ」という言い方には何通りかあって意味も広がります。例えば、
「ジェデフィト」はヘビでありミミズという意味もあります。また、「フェネチュ」には
ヘビのほかに腸のミミズ、つまり寄生虫という意味もあるのです。
69 :
世界@名無史さん:02/03/18 10:53
回答15
テント?サーカスとか?
【問題16】
回答 大阪(万博)の時に(^^v
【問題20】
医療用の部屋? それも淋病用かな?
【問い18】
回答 メリノ羊(細い羊毛を持つ羊)
【正解16】 大阪(問題・・・
>>61)
>>70さん、正解です〜(^○^)
アフ トンガリキの近くにあるホツイティの丘に立っているモアイ像が大阪にやって来ました。
理由は、1970年に行われた万国博覧会に出展するためでした。このモアイは研究者達による
運搬の実験にも使われました。このモアイ像は海を見つめていますが他のモアイ像は全て
同じ方向を見ています。モアイ像を切り出す、言わばモアイ像の生誕地ラノ・ラナク山です。
島の伝説によると、16世紀に耳の長いグループ(以下、長耳族)と耳の短いグループ
(以下、短耳族)がこの島にたどり着きました。最初は仲良くしていましたが、17世紀に入って
両者が争いになり、長耳族は滅ばされてしまいました。勝った短耳族は部族の誇りとして
モアイ像の建設に取り掛かりますが18世紀の後半に今度は短耳族の内部で争いが起こり、
このときに多くのモアイ像が地面に倒されてしまいました。実は、建設当初はモアイには
‘目’があったのですがこのと時にくり抜かれてしまったのです。
ちなみに、この「モアイの目」をその後、発見した人物は島の考古学者の
セルジオ・ラブ氏で1978年にアキビィのモアイ像から発見したのです。モアイの目には
魔力(マナ)があると思われていたので真っ先に壊されてしまいました。
現存するモアイの目は一つしかありません。これは、島の博物館にあり復元された目は
アフ コテリクのモアイ像の1体しか目をはめていないのです。
学問的には島に来た人達のルートとしては、(1)アジア系の人たちがまだベーリング
海峡が陸続きであった1万年以上前に渡ってアメリカ大陸に来てやがて南米でインカなど
の文明を築き、更に太平洋に乗って島に来た(2)オーストラリアやニュージーランドの
ポリネシアの人たちが新しい場所を求めて東へ向かった、という考えが挙げられます。
そして、オランダ人ヤコブ・ロッゲフェーン達がこの島にたどり着いたときに丁度
イースターの日曜日であったのでこの島を「イースター島」と命名しました。
1722年の事です。
そして、現在では南緯27度9分、西経109度26分に位置しNASAのスペースシャトル
の緊急着陸用の滑走路が3000mある未来的な島でもあるのです。
【正解18】 ヒツジ (問題・・・
>>61)
イギリスにもヒツジはいましたが、毛が荒いあまり上等な物ではありませんでした。
そこで、12世紀頃からスペインから輸入をしていましたがどうしても欲しい品種がありました。
それがメリノ種のヒツジでした。メリノ種は王侯貴族や僧院の院長などの限られた人しか手にする
ことができないもので、彼らは「メスタ」と呼ばれる組合を作っていましたがこの組合には
いくつかの特権がありました。まず、ヒツジが草を食べるために山から山へ歩き回る時に
通る道は84ヤードと法で決められ、道がある土地の地主はヒツジのために道をきれいにしなければ
ならず、またどんな牧場の草でも食べる事ができたのです。
基本的に1万頭の群れで構成されていたこのメリノのヒツジはスペインから持ち出すことは
禁止されていましたが、1765年に王はいとこのハノーブァー選帝候に300頭プレゼントした事が
ありました。またフランスにも入り、フランスのヒツジと掛け合わされ大成功したニュースは
ジョージ3世をくすぐりました。これを聞いた当時、王立協会の会長だったジョセフ・バンクスは
スペインから密輸する事を考えました。
そこでスペインとポルトガルの国境を利用して、ポルトガルの役人に協力を依頼しました。
国境付近のスペイン側は人口があまりなく好都合でした。さらにヒツジの群れを1万頭に程度に
抑えなければならない為にある程度年を取ったヒツジは殺されるのですが、殺さず密かに売り
さばいて儲ける羊飼いもいたので計画は運びやすかったのです。ポルトガルに来たヒツジは
船で運ばれ1788年3月国王の前にその姿を見せました。しかしその後、ジョージ3世はスペイン
側に正式にメリノ種の輸入の許可をもらい、メリノの中でもハイグレードな「ネグレデ」と
呼ばれる品種を手にする事ができたのです。
そしてその後は、産業革命に羊毛が深く与えた影響はよく知られていますね。
【ヒント】・問題14(
>>53)は、何かを使って「抗議」しました。まったく同じ事を1988年8月、
アルベール・マントレが実行しています
・問題15(以下
>>61)は、青少年の民族意識の高揚の為に元々始まったといいます。
・問題19は使う卵は生卵です。
・問題20は皇帝が使うのではなく、ある特定の人しか使う事は許されませんでした。
問い19
生卵は壊れやすいというのがポイント?
容疑者全員に卵握らせといて
例えば「真犯人には天罰が下る」と脅したりすると、
心に疚しさのある犯人は思わず力が入ってしまい卵は壊れる、と。
>>75 惜しい〜(>_<)!!
使う卵は一つで、村長などのリーダーしか持ちません。
問い15
>青少年の民族意識の高揚の為
体操とか、ワンダーフォーゲルってドイツ発祥のコレ目的のソレでしょう。
(体を鍛えてお国の役に立ちましょう、というイデオロギー)
だからスポーツ関係だろう。
>>69氏のサーカスじゃないとすると、何だろう?
平均台とか? 登り棒? ブランコ?
>>77 ほとんど正解ですが、体操は体操でも何体操ですか(^o^)?
79 :
世界@名無史さん:02/03/19 03:28
19の回答
卵が羽化したら。
15。
器械体操。吊り輪とか。
≫【問題14】1919年8月シャルル・ゴドフロアは7月に行われた第一次世界大戦の戦勝パレードであまり
いいあつかいを受けなかった事に対して、抗議の意味を込め凱旋門で何かをした。周りの
人たちは ビックリしたり拍手したりした。では、凱旋門でした「抗議」とは一体何!?
死者/行方不明者の名を連呼して歩いた。では無いでしょうか?
** 1920年に死者の名簿が凱旋門の下に埋められた事から類推しました。
≫【問題20】紫色を使う事は王や皇帝など権力者にしか使えなかった一つの特権だった。(
>>55)
ビサンツ皇帝のバシリウス1世は自分の宮殿の部屋の一つを紫色のカーテンが
ある特別な部屋を作った。では その目的とは何!?
色々調べたがコレもヨク解りません。しかし*神聖な物*でしょうから、
【聖書】の保管場所では無いでしょうか?。
>>82 そんなシリアスな事ではありません。他の人からはまさかこれが抗議だなんて思われていなかったようです。
陸・海・空のどの部隊にいたかを考えると答えにつながるかもしれませんよ〜!
>>83 おっしゃる通り、‘神聖な場所’であるが故にこういう事はこの部屋で行ないたかったのでしょう。
帝国を左右する重要なことが行われていました。医療に目を向けたのは素晴らしいです!!
>>81 器械体操、正解です〜!!
解説は明日カキコします。お見事でしたー(^o^)
86 :
世界@名無史さん:02/03/20 19:01
問い14回答。
凱旋門から、パラシュートで飛び降りた。 でどう
>>86 かなり正解に近づきました。彼は空の部隊です。
88 :
世界@名無史さん:02/03/20 20:40
【正解15】器械体操・・・・・・問題は
>>61 皇帝ナポレオンはフランスだけでなくヨーロッパ全体にその影響を及ぼし、プロイセンも
その一例になりました。1806年のライン同盟の結成で神聖ローマ帝国が崩壊し、フランスは
ドイツに進駐しました。その影響でそれまで対仏大同盟に中立だったプロイセンは遂に、
第四回の同盟に参加し(1806年)、フランスと戦いました。これがイエナの戦いでした。
しかし、フランスに負けたプロイセンは国土の大半を占領されてしまいました。また、フランスは
逃亡したプロイセンのフリードリッヒ=ヴェルヘルム3世を追いかけ、プロシアと同盟国だった
ロシアと共に1807年ティルジット条約を結ばせました。これにより国土の大半を失った
プロイセンはその祖国を取り戻す感情が強くなっていきました。
それは、政治だけでなく文化の面でも強くなり、詩人たちは祖国の夢を詩にしたり
していました。同じくフリードリッヒ・ヤーンも祖国解放の担い手である青少年達の民族的な
意識と団結心を高めてもらおうと、1811年フランスに占領されていたベルリンの
ハーゼンハイデに体操場を作りました。体操でこの考えを養おうとしたのです。
「ツルネン」と呼ばれた器械体操は、学生だけでなく一般の人たちも参加できました。
ですから1811年には200人だった参加者が翌年には500人にもなりました。
器械体操は当初は、大型帆船のマストを地面に埋めて、吊り輪や鉄棒などの競技の元が生まれた
と思われます。鉄棒は19世紀にドイツで開発された物で、鉄の加工技術や生産性の向上がそれを実現させました。
ですが元々は木で行っていたので鉄棒ではなく「水平棒」と呼ばれていました。日本には鉄棒になってから
入ってきたので鉄棒という名称で親しまれています。また、競技だけでなく船に関わる言葉なども
影響を受けました。例えば、「キャプテン」「チーム・ワーク」などの言葉はスポーツでよく使いますが
これは元は帆船が体操競技に影響を与えた名残です。
【正解15】の続きです・・・。
>>88 ヤーンの目指す祖国の統一は、単に祖国を外国から守るだけではなく、封建的な政府の
支配から市民を解放し、自由な市民による民主政治であったのです。それは1815年には
それまで地方地方で個別的に作られていた団体を止め、祖国の統一の為に、統一的な
学生団体を作ったイェナ大学は、ヤーンの運動と結びついた事でもわかります。
団体の規約は「自由と名誉は学生生活の基本的な性質である」とし、学問の自由と
精神的統一を唱いました。またアルントの「全ドイツは全ドイツ人の祖国なり」
が綱領になったほどです。
しかし、その為に最初は協力的であったプロイセン政府から「ツルネン」は
危険な思想と思われました。また、ウィーン会議でおなじみのタレーランは
ルイ18世に「彼らの行動はファナティスムにまで高められた‘宗教’になって
いるので注意が必要だ」と警告しています。そして遂に1820年に体操場は閉鎖
させられツルネンをする事を禁止させられてしまったのです。
その後21年間も投獄させられたヤーンは1840年にウェルへレム4世の即位で
やっと体操を再開できました。1842年のことです。
長々とすみませんでした・・・m(__)m
まだ答えが出ていない問題14(
>>53)、問題19、20(
>>61)については、
明日の夜11時過ぎに答えを発表します。
そして、また何問か出題しますのでよろしくお願いします(^o^)
91 :
世界@名無史さん:02/03/20 23:54
リトライ!問題14
飛行機で凱旋門をくぐった。でどだ!
【問題14】凱旋門でした「抗議」とは一体何!?
おれもパラシュートだと思ったんだけどな〜
そういえばプロペラ機で赤の広場に着陸してゴルビーに怒られたドイツ人青年がいたな〜
などと考えていた時点でひらめいた。
ズバリ、複葉機に乗って飛んだまま凱旋門をくぐり抜けた。
こりゃけっこう難しいと思うよ。失敗したら「抗議の自殺」に早変わりだし。
>>91 あら〜先越された。
でも同士がいてよかったヨ。
94 :
世界@名無史さん:02/03/21 02:47
問題20
トイレ?(当てずっぽう)
正解がでたものから解答します。
【正解14】 凱旋門を飛行機でくぐり抜けた・・・・・・・問題は
>>53 第一次世界大戦で空軍将校を勤めたシャルル・ゴドフロアは1919年7月14日に
行われた戦勝パレードで自分の乗った「ニューポール27世号」があまりいい
扱いを受けなかった事に‘抗議’する為に、そのおよそ1ヵ月後の8月7日、
凱旋門の中央アーチをくぐり抜けたのでした。飛行機の幅は約8.2m、これに
対して凱旋門のアーチの幅は14.5mほどのものでしたから、かなり覚悟のいった
‘抗議’だったに違いありません。
また、同じ年の1月19日には大戦中、「ラ・ヴァシュ号」で活躍していた
ジュール・ヴェドリーヌは、当時はまだ6階しかなかったギャラリー・
ラファイエットの屋上に飛行機で着陸したのです。店のテラスは1948年7月4日に
ヘリコプター用の着陸場として使われるようになりました。
ちなみに、1988年の8月にはアルベール・マントレがゴドフロアと同じく
凱旋門を飛行機でくぐり抜けて地元の話題を呼びました。
【正解19】 (リーダーが)生卵を持って、犯人と思われる人の名前を呼び生卵を握る
・・・・・・問題は
>>61 村のリーダーが容疑をかけられた人たちを集めて、リーダーはこの時に生卵を
持ちます。そして、一人一人名前を言うたびに生卵を握り締めます。もし、その時に
卵が割れてしまえばその名前を呼ばれた人が犯人という事になるのです。
このようにモイ族では神明裁判で決着を着けることにしています。また、
カンボジアのアンコール時代には他にも、ワニなどの猛獣の前に容疑を
かけられた人を突き出し、もし猛獣が喰らいつけば有罪、襲わなければ
無罪という残酷な方法も取られていました。日本や中国でも昔から
探湯の法などとして知られ、日本史の時間にも出てきましたね。
更に、アンコール王朝を伝説上つくったとされるカウンディンヤ王は、
それまでの国の人たちの裸で生活する習慣を改め、貫頭衣をまとうよう
にと教えました。この貫頭衣も古代の日本では使われていたもので、
日本人のルーツを探る手がかりとなりそうです。
【正解20】 正妻が子供を出産する為(の部屋)・・・・・・問題は
>>61 紫色は古代において、作ることが大変でまた紫色に染めたものは色があせない事から
時の権力者しか使う事を許されませんでした。例えば、アレクサンダー大王は紫の服を
着る事は王の特権とし、更に旧約聖書の中には、ソロモン王はレバノンの木で戦車を
作らせそれに紫色のおおいをつけた、とあります。
ビサンツ帝国でもこの例に漏れず、ユスティニアヌス帝とバシリウス1世も紫を
「王の色」としましたが、バシリウス1世は更に紫に関してある習慣を作りました。
それは当時、皇帝は好きなだけ妻を持つ事が許されましたが、そのうち2人が正妻
となり彼女たちが生んだ男の子だけが王位に就けたのです。皇帝は、どの子が
正妻が産んだ子かが分かるようにと正妻は、紫のカーテンのある特別な部屋で
出産しなければならない、と決めたのです。
更に、生まれてきた男の子には「ポルフィロ・ゲニツス」つまり、
「紫の中に生まれた」という意味の称号を付けよと命じました。実際、この
布告の後で正妻が最初に産んだ男の子は「コンスタンティヌス・
ポルフィロ・ゲニツス」と名付けられました。
ちなみに、この「紫の中に生まれて」という言葉は「王侯の家に生まれて」
という意味で今でも熟語として辞書に載っているそうです。
【問題21】1915年にウェゲナーが「大陸移動説」を発表した。大陸はかつては一つで、
これが集合や分裂、接合など行い現在のような大陸の形になった、という考えは
キリスト教の影響もあり、一般の人のみならず、当時のほとんどの科学者も
信じる事ができなかった。しかし、1950年代に何万年も前にできた岩石を調べると
当時のある情報が岩石に存在する事が分かり、これが彼の説を裏付ける証拠になった。
では、大陸移動説を裏付ける、溶岩が冷えて固まってできた岩石が残してくれる
情報とは何!?
【問題22】天正少年使節団の伊東マンショと千々石ミゲルがポルトガルの教会で行い
大司教達を驚かせたこととは何!?
【問題23】ジェームズ1世は中国や日本で行われていたある物をゲーム感覚で楽しんでいた。
ヨーロッパには16世紀の末にオランダに、その後フランス、イギリス、イタリアへと
広まっていった。しかし、この「ゲーム」は市民革命後、急激に下火になっていった。
では、ジェームズ1世が楽しんだ「ゲーム」とは何!?
【問題24】アフリカのクシュ王国は古代エジプトと政治や戦争、交易などで関わりを持っていた。
そのクシュ王国は他の国や民族と戦争をし、彼らを捕虜として自分の国に連れて行く
ときにある格好をさせた。それは簡単に抵抗できないようにする為で、一つは
後ろ手に縛る事。そして、もう一つある事をさせた。このような格好にさせるのは
古代エジプトでも同じであった。
では、捕虜にさせていたもう一つの格好とは何!?
【問題25】さらにクシュ王国はアラビアやインドの影響を受けていたと思われる。
アラビア人が岩をくり抜いて造る貯水池のようなものが王国で見つかっている。
一方、インド人が崇拝する3つの顔を持つライオンの神‘アペデマク’がある。
エジプトにはこのようなライオンの神はいない。そして、象の絵が見つかったが
これもインドの影響を受けたと研究者は考えている。何故ならば、あまり
アフリカでは見ることができない特徴をもった絵だからなのだが、
ではインドの影響を受けたと考えられるその根拠とは何!?
【問題25】ミクロネシアやメラネシアでは真珠貝は貨幣として使われていた。
そしてオーストラリアでは、何百kmも奥に入った内陸部のアボリジニの
部族までもが真珠貝を利用している。しかし、彼らはお金として使う
のではなく違う事に使っている。では、その利用法とは何!?
【問題26】米西戦争で太平洋と大西洋の覇者となったアメリカは、両者を結ぶ運河を
中米に造る事にした。場所はパナマかニカラグァか意見が分かれたが、
ニカラグァには火山があり、この火山が1902年に噴火してしまった。
そこでパナマ支持者がアメリカ議員にパナマに決定してもらおうと、
ニカラグァには恐ろしい火山があるということを知ってもらう為に
ある方法をとった。では、その方法とは何!?
【問題27】ピタゴラスは人が死ぬとその魂は死体から抜けてある食べ物に一度入っていく。
そして次の新しい人か動物がその魂を受け入れる準備ができると、魂は食べ物
から抜け出て入っていくと考えていた。そのある物は、アテネの市長選挙では
投票する時に使ったものだった。では その食べ物とは何!?
すんません、番号がズレてましたm(__)m
※訂 正
問題25(オーストラリアの問題)→問題26へ
問題26(パナマ運河の問題)→問題27へ
問題27(ピタゴラスの問題)→問題28へ
【問題22】の回答
オルガン演奏かな?
【問題27】の回答
そら豆ですか?
102 :
ラムセスX:02/03/22 19:45
【正解22】 オルガンを演奏した・・・・・・問題は
>>98 1582年(天正10年)、4人の少年が長崎を出発しました。正使、伊東マンショ
(14歳)と千々石〔ちぢわ〕ミゲル(13歳)・副使、中浦ジュリアン(14歳)と
原マルチノ(13歳)の4人です。彼らは九州の大友義鎮〔よししげ〕つまり
後の宗麟らのキリシタン大名の名代として、発ったのですが、これは実際は
イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが推進したのでした。
派遣の目的は[1]1580年代前から日本ではキリシタン大名に対する
反キリシタンの風当たりが強く、ヨーロッパ諸国に日本の関心を高めてもらい、
さまざまな援助をしてもらう為[2]反キリスト教の人たちにキリスト教や
ヨーロッパの素晴らしさを教えるべく、日本人に直接見てもらいたかった為
[3]当時、キリスト教や宣教師達に誤解を持っていた日本人の為に宣教師や
キリスト教がヨーロッパ本国でどんなに力を持っているかを目のあたりに見せ、
なぜ本国の‘栄光’を捨ててまで日本にやって来るのかという布教精神を
日本人に伝えたい為に都合がいい為・・・が挙げられます。
使節団は日本を発ち、インド(ゴアやコチン)に滞在後インド洋を横断、
喜望峰を廻りポルトガル(リスボン)に着きました。1584年(天正12年)のこと
です。ポルトガルのエボラの町に来た時、教会で伊東と千々石がオルガンを
演奏したのを見て、ブラガンサ大司教は大変驚き拍手したといいます。次いで
その年の秋にはスペインに入りました。時の国王フェリペ2世は彼らの格好に
大変興味を持ったらしく刀を差し、足袋と袴とういでたちに対し、自ら彼らの
草履を手に取ったほどです。
そして1585年(天正13年)、一行はいよいよローマに来ました。しかし
この時に、中浦は激しい熱病にかかりました。歩く事も難しく法王と会う
ために馬車に乗ろうとしますが、苦しくて乗る事ができませんでした。
しかし、貴族の一人が自分の馬車に乗せてくれて、特別に彼だけが時の
法王であったグレゴリウス13世に謁見できたのです。また、イタリアの
トスカーナ大公国に行った時は、フランシスコ1世の舞踏会で伊東は
大公妃の求めに応じてダンスを生まれて初めて踊りました。ガンバって
踊ったと思いますが辛い気持ちもあったかも知れません。
(記録に彼の気持ちが書かれていないので分かりませんが・・・。)そして
彼らは帰国することになり、1588年(天正16年)この時にスペインの
エスコリアル宮殿に泊まったのですがそこで大きなニュースを聞きました。
それは、スペイン無敵艦隊がイギリス軍に破れたという知らせです。
国王もこの宮殿にいたので耳にできたのです。
しかし、日本帰国後大きく彼らの運命は変っていきました。それは
キリシタンに対する風当たりが増す増す強くなっていく中、一行の一人
中浦が3、4年経たないうちに「キリスト教国家は、日本の侵略計画を
持っている」今風に言い換えれば、「キリスト教を広めると同時に
植民地化しようとする」と木村喜前[きぜん]に進言しています。つまり
キリスト教を棄教したのでした。これは、派遣でヨーロッパへ行った
時に感じた、キリスト教を信じないものは人間ではないというような
キリスト教中心主義について行けなかったと思われます。
しかし、他の3人はキリスト教を深く信仰しましたが1633年(寛永10年)、
一人の年老いた日本人神父が殉教しました。それは中浦ジュリアンでした。
こうして、日本最初のヨーロッパ使節団は幕を閉じました。
中浦は刑場に引き出された時に叫びました。
「われこそは、ローマを見た中浦ジュリアンである!」
103 :
ラムセスX:02/03/22 20:48
【正解28】 豆・・・・・・問題は
>>98 古代エジプトでは豆は汚らわしい物という考えがあり、これがギリシャにも
伝わりました。ピタゴラスは或る時に、エジプトの僧侶の元で勉強していた
ので感化されました。ピタゴラスはギリシャに戻ると、学校を開きさまざまな
学問を勉強しました。彼は数学(幾何学)で名前を残しました。その一つは
“直角三角形の斜辺(一番長い辺)を辺とする正方形は、他の二辺でできた
正方形の和に等しい”そして、“三角形の内角(内側の角)の和はニ直角
(180度)に等しい”という事です。古代の一部の記録では彼はこの2つの定理を
ひどく自慢し、神からもらった「力」に感謝する為に〔ヘカトンプ〕つまり、
100頭のオスの牛を捧げたといいますが、キケロはこれを否定しています。
なぜなら彼や学校の弟子はみな菜食主義者だったからだと記しています。
肉を食べない理由は、亡くなった人の魂は次の新しい人なり動物に入る
つまり魂はいつまでも生きているので魂の存在を強く信じていた彼らは
肉を食べなかったのです。またその時に、魂は死体から一度、豆に入り、
次の人か動物に入る準備ができたら豆から抜けて、そこへ入ると信じて
いたために豆も食べなかったといいます。
ルキアノスの『命の競売』という戯曲の中でこの事に触れています。
この中で、「どうして豆を食べないの?」と聞かれたときに、
ピタゴラスは「豆の本質は摩訶不思議だ。そればかりではなく、アテネの
役人は豆で選ばれる―。」と言っています。実際、アテネの役人を選ぶ
際には選挙人は立候補した人の投票箱のイエスとノーで仕切られたどちら
かの中に豆を入れどっちが多いかで決まったそうです。
問21
溶岩が凝固する際の地磁気の方向が残ります。
ですから、溶岩に記録されている地磁気と現在の地磁気の方向が
ずれていた場合、そのズレの分だけ溶岩が(地面ごと)向きを変えた
事がわかります。
105 :
ラムセスX:02/03/22 20:56
単純に計算したら7.875年じゃないの?
問21は、どちらかというと高校地学の問題ですね。
109 :
ラムセスX:02/03/23 17:07
【正解21】 地磁気(磁極)、あるいは自然残留磁気・・・・・問題は
>>98 天文学者を夢見てハイデルベルクの大学に入ったウェゲナーは当初、天体観測を
していましたがやがて、自分の知らないところへ行きたいという思いが強くなり
気象観測に思いが移りました。気象観測は、その為に世界の各地に行く事ができるから
です。その後、ベルリンの天文台の助手として就職したウェゲナーは気球に乗って
気象を観測しました。兄と気球に乗ってその乗った時間が世界最長記録を打ち立たせる
ほど気球好きでした。そんなある時に、南アメリカ大陸とアフリカ大陸は大西洋に
挟まれてはいますが、この両者がかつてくっついていたのではと思い、そこからある仮説
を唱えました。『大昔、世界の大陸は一つであり、それが分裂や集合、あるいは接合など
を繰り返し現在に至った―。』この説は〔大陸移動説〕として1915年[大陸と海洋の起源]
という論文で発表されました。根拠は上の直感から科学的に考え(1)西ヨーロッパと
北アメリカ東部に泳げないはずの、同じ種類のカタツムリ(ガーデンスネール)やミミズ
が人間の手を借りずにいる事(2)インドやアフリカの地層から氷河の痕跡が見つかり、
また北半球には熱帯生息の生物の化石が見つかっている事(3)白亜紀(約1億4300万年前
〜6500万年前)以前のアフリカ・南アメリカ両大陸の地質の構造が似ている事・・・などを
列挙しました。しかし、ほとんどの学者は大陸を動かすなんて無理だと考え彼の説を
真っ向から否定しました。また神によって世界は造られたと考えるキリスト教信者も
否定的でした。
そんな中でも一人の学者が大陸移動説を支持しました。ミヒャエルセンという
この生物学者は、ミミズの分布から支持しました。それは、彼はこの説によって
できた前ジュラ紀(約2億1000万年より前)の頃の大陸の地図に、陸生5種、水生
3種のミミズの分布を描き込んで、アメリカ大陸はヨーロッパ・アフリアカ大陸から
離れて西へ移動したと考えました。反対に言えば、大西洋をはさんで数千km離れている
アメリカ大陸とヨーロッパ・アフリカ大陸を接合させれば大陸の形もほとんど合うし、
ミミズの分布も合うという事なのです。また、始新世〈約5350万年前〜約3750万年前〉
の大陸移動説に基づいたミミズ科の分布にしても再現し、この説を支持しました。
しかし、ウェゲナーはこの説が支持される事なく1930年、気象観測の為に出かけた
グリーンランドで消息を絶ちました。
110 :
ラムセスX:02/03/23 17:12
【正解21】の続き・・・・・・
>>109 ですがその約20年後、大陸移動説に強い根拠が生まれました。地磁気の発見です。
地磁気とは、簡単に言えば方位磁石が指す北と南の方角です。北極点とこの北の
地磁気は一致していません。また地磁気自体も毎年あるいは毎日、あるいは長い
年月をかけ位置が移動しています。これを永年変化といいます。
地球はそれ自体が磁石の性質をもっています。ですが長い年月が経ってもそのパワー
がなくならない理由がよく分かっていません。現在最も有力視されているのは「ダイナ
モ説」です。地球内部には鉄などの電気を帯びたり流れたりし易い誘電物質というもの
が外殻に液体で存在します。ここでは高温の為に熱によって生じる対流や地球の自転に
よる運動でこの誘電物質にも運動が加わり、地球磁場を保つような磁場を発生させるので
いつまでも地磁気はなくならないと考えられています。さらに、この地磁気は北と南が
逆転する事が分かりました。1968年ごろまでに大西洋の海洋底を中心に観測した結果、
過去8000万年に約170回も北と南が逆転していました。
当然、徐々に位置が逆転すると考えられます。溶岩の中には鉄分を多く含んでいます。
この溶岩が噴出し冷えて固まった時に、その時の地磁気の影響を受け北の地磁気(北磁極)
がコピーされます。人為的にその岩をいじらない限り、その岩がどれくらい前の物かが
分かればその頃の磁極が分かる事になるのです。そして、世界中からほぼ同じ頃の溶岩に
よって造られた岩石の磁極を分析し、更にその頃の大陸の形を想定すると、当時の北磁極
の軌跡がほぼ線で結ぶ事ができたのです。つまり今は、違う場所で発見された昔の同時代
の岩石の磁極がバラバラに見えるのは大陸が移動したからだ、という事になるのです。
そして現在、大陸が動くのは大陸の下のプレートが動くのに乗っているからだという
「プレート・テクトニクス」理論により説明されています。プレートは1:収束境界
[しゅうそくしょうかい]と呼ばれる2つのプレートが近づく所、2:発散境界
[はっさんきょうかい]と呼ばれる2つのプレートが離れていくところ3:トランス
フォーム境界と呼ばれる2つのプレートがすれ違うところからなります。
ちなみに、ウェゲナーが大陸移動説を最初に教えたのは好きな女性で、ラブレターに
その事を書いています。
初めまして、数日前にこのスレを見つけました。
とても面白いですね、好きですよ、こういうの。
できれば最初から参加したかったです。
今まで見てきてわかったのが、問21だけでした。
難しくていいですね、簡単だったらすぐ正解出そうですから。
ラムセスX世さんこれからも期待してますよ。
では一番古い問題から
問23 鷹狩
問24 一本の縄に大勢の手を結んだ
問25 象の鼻が上に曲がっている
問26 コップ
どれも自信ありません。
不正解ならどうぞみなさんで笑ってください。
問27
>ニカラグァには恐ろしい火山があるということを知ってもらう為にある方法をとった。では、その方法とは何!?
今でもそうだけど大勢の人間に一遍に物事を理解してもらうには、視覚に頼るのがいちばん。
ということで、火山の記録映画を撮った。
当時、映画の技術が普及し始めて間もないし、画期的だったんじゃないの?
114 :
世界@名無史さん:02/03/24 01:43
問題25:象が白かったor牙が片方なかった…?
問題28:オリーブじゃないかな。
うわっ、28答え出てましたね。
恥ずかしい…間違ってるし…。
すんませんでした。
116 :
ラムセスX:02/03/24 14:21
ベイトンさんや他の皆さんも 答えてもらってありがとうございますm(__)m
ヒントを載せるので参考にして下さい(^^)
【ヒント】・問題23については、ヨーロッパにも鷹狩りの技術があったおかげで
わずかの間ですが 流行することができました
・問題24については、僕のエジプトの問題ではおなじみの
ツタンカーメンの遺品にも残っています
・問題25については、インドゾウがアフリカゾウに比べ性格上、比較的こういう事を
する事がし易いと思われるので、研究者はそう考えています
・問題26については、オーストラリアの内陸部に住むアボリジニの人たちにとっては
大変重要な事をする時に使います
・問題27については、当時、この火山をモデルにあるものができていたので
それを利用しました
【問題26】の回答
すりつぶして、化粧に使う。
日本でも昔真珠をすりつぶして白粉として使っていたので。
118 :
ラムセスX:02/03/24 18:44
>>117 山犬さん、残念です〜。
問題26についてですが、彼らは、真珠貝のあの輝きはヘビの腹側の方の光沢に似ていると
考えています。そして、更にその光沢を持ったヘビは何かに似ていると考えています。
119 :
世界@名無史さん:02/03/25 22:01
問題25の答え
象が前足を宙に浮かせ、後足だけで立っていた。
違うかな。
120 :
ラムセスX:02/03/25 22:17
>>119 キバや鼻、足などのゾウの身体的な特徴ではありません。、専門家はアフリカゾウよりも
インドゾウが人間に対する順応性がある(人の言う事を早く利く)と考えているようです。
なので、こういう絵を見たときにそのように判断しましたし、実際、インドや東南アジア
の方がこういう絵を見る機会がエジプトより多いようです。
121 :
世界@名無史さん:02/03/26 05:58
122 :
ラムセスX:02/03/26 09:08
>>121 問題24については、‘捕虜’を表すヒエログリフにも、その格好が描かれています。
縛るのは手だけです。
問題26 切手やね。噴火した火山が印刷されていた。
125 :
アマノウヅメ:02/03/26 09:56
中学1年生を買って自家用車に乗せたら、あまりにサド道具が揃っているので
その女の子が怯えて車から飛び出して、他の車から轢かれて死に、轢いたらしい
トラックの運転手は警察の事情聴取のあと、自殺した。
その原因の元教師(事件の時は現役)の裁判があったが、たったの懲役6年。
援助交際やる女の子に責任があるんだそうだ。
そのサド教師を殺しておけば何の問題にもならなかったのに。
加害者ばかり守る少年法はとにかく変だ。
私の知人に17歳の子がいますが「右手に牛刀、左手に少年法。これは
最高の備えだと思うんだが、矛盾みたいなかっこいい言い方ない?」
といってます。
矛盾しないのが怖い。
126 :
世界@名無史さん:02/03/26 12:28
>125
お前、本物?
マルチポストが御法度なのは知っててやってるのか?
こういうことを書いて良いのは雑談スレだけだろ。
荒らしはやめれ。
【問題23】の回答
わかった。鵜飼だ。
確か、長江流域でも鵜飼って行われてるんですよね。
それではヒントを参考にして
問25 象が背中に人を乗せている
問26 勘合符
どうでしょう
129 :
ラムセスX:02/03/26 20:54
130 :
ラムセスX:02/03/27 11:16
【正解27】 郵便切手を(上院議員に)速達した・・・・・・問題は
>>98 ヨーロッパやアメリカはそれぞれ中米に目を向けていました。イギリスが18世紀の
産業革命によって近代的な資本主義の基礎を作り上げると、それを更に成長させる為
には、ヨーロッパやアメリカの各国が自国で作った工業製品を世界の国々へ売りさば
かねばなりませんでした。その為にオーストラリアやアジア諸国、南アメリカなどに
商品を運ぶ時にはそれまで、南米の南端であるマゼラン海峡を通過しなければなりま
せんでした。しかし、中米に運河がもしもできたら、経費や輸送時間がどれだけ少なく
て済む事かを考え、その実現へ動こうとヨーロッパ各国はしていました。例えば、
イギリス(リバプール港)を出発して、サンフランシスコへ輸出するとした場合、
マゼラン海峡を経由するのなら約13500マイルかかるのに対し、パナマに運河を掛ける
としたら、約7800マイルで済むのです。
元々、中米に運河を建設したいとの考えはこれ以前にもありました。エルナンド・
コルテスが1523年にチャールズ5世に対し、提言したのが始まりです。続いて、
コルテスのいとこのアルバロ・デ・サアベドラ・セロンがこの考えを継承しました。
彼は、運河の考えを更に具体化し、4つのルートを考えています。そして、
アレクサンダー・フォン・フンボルトは1799年から1804年の間に中南米を探索して
その顛末を33冊の本で報告していますが、この中で彼は、5つの運河ルートを
考えています。その中の一つにある、チョコのアトラト川とサン・フアン川を
利用した運河のルートの案は、既に、サン・フアン川上流のノビタ村の宣教師の
指導の下、ネイティブ・アメリカン達によって1788年に造られています。
この運河は「ラスパドゥラ運河」と呼ばれていて、スペインがエクアドルで
取れたココアを運搬するのに使われていました。ちなみに、デビット・ハワーズ
は、あまり表だって使われていない事から密輸をする際に用いられていた
のではないか、と考えています。
一方、アメリカ人ではフランクリンが最初に中米の運河について意見を持った
人とされています。そのアメリカは1866年のアラスカの買収、1898年のハワイの併合、
1899年のサモアの一部獲得などと徐々に勢力を拡大し更に、スペインの圧政に苦しむ
キューバの人たちの独立の声を利用して1898年に始まった米西戦争は、スペインから
グァム諸島やフィリピン諸島などを獲得する結果になりました。そして、キューバが
独立を達成した1902年、フィリピンの人たちのアメリカに対する独立反乱をアメリカが
鎮圧した後、フィリピンを属領としました。この事はアメリカにとって、太平洋と
大西洋を結ぶ運河の建設に本腰を入れる事につながりました。
後に続く・・・・・・・。
131 :
ラムセスX:02/03/27 11:18
【正解27】の続き
まず、クレイトン・ブルワー条約の改定後、1901年、ヘイ・ポンスフォード条約に
よってイギリスが関わることなく、独自に建設する権利を取得しました。そして、
運河の建設場所については、パナマとニカラグァとに大きく分かれていました。
そんな中、1902年6月のアメリカ上院本会議を前に大きな事が起こりました。
5月2日、カリブ海のマルティニック島のマウント・ペレーが大噴火したのです。
続いて8日にも、大噴火を起こし、3万人以上もの命が奪われる結果になりました。
そして、14日にはニカラグァのマナグア湖にあるモモトンボ山が、遂に噴火した
という噂が広がり、その真偽を探る事になりアメリカ議会が火山情報で揺れ動き
ました。そして20日には、マウント・ペレーが3回目の大噴火を起こしました。
一方、パナマの方は、既にスエズ運河に携わったレセップスがパナマの運河
建設で失敗していた事で、これを引き継ぐにはフランスの運河建設会社から建設に
関する権利を譲渡してもらわなければなりませんでした。また、ニカラグァ派は、
パナマに比べて太平洋・大西洋間は距離はあるが、ニカラグァの真ん中の湖とそこ
から流れる川を利用すれば費用は安く済むと主張していました。
遂に、6月の本会議で両派が対決する事になり、ニカラグァ派のモルガンはその
日におよそ2時間半演説をして、パナマの政治的な不安定さを基にニカラグァの
優位を主張しました。一方、パナマ派のハンナは翌日、上院会議史上初めて
スピーチ台のそばに地図や図表を持ち込んで、分かりやすくニカラグァ及びその
周辺の火山などによる自然的な不安定さを力説したのです。更に、ハンナは、
パナマの運河はニカラグァのそれよりも134マイル短くて済む、発掘すべき
土砂の量が少なくて済む、既にパナマには鉄道が開通している、などと付け
加え演説を終えました。演説後、ニカラグァ派は上院やよそで反論しましたが、
パナマ派の一人、ビュノオはワシントン中の切手屋を走りまわって90枚の
同じ切手を買い求めました。この切手はニカラグァの象徴でもある
モモトンボ火山が描かれている1セントの切手でこれを1枚づつ紙に貼り
付けて、‘これ(切手)が火山活動の何よりの証拠だ’と書き添えて上院議員
一人一人に速達で配りました。この手紙は、表決の3日前の6月16日の
朝に全上院議員に送る事ができました。
これが効を奏したのか、結果は42:34でパナマ派の勝利に終わりました。
一方、下院でも同じ法案(スプーナ法案)が259:8の圧倒的多数で通過し、
28日には大統領のサインを得て発効したのです。
こうして、1914年8月15日開通の日を迎えました。
132 :
ラムセスX:02/03/27 20:05
【正解23】 鵜飼い・・・・・・・問題は
>>98 鵜飼いの歴史については過去のスレで紹介した事があります。
http://mentai.2ch.net/whis/kako/987/987692322.html その中で問題は
>>572、解答は
>>587、594、595、597にあります。(あやめさんなど
にも補説してもらいました。)
一応、簡単に紹介しておくと世界最古の鵜飼いの記録は『隋書』(巻81、列伝第46の
東夷伝、倭国の条)です。また、記紀にも登場していて、【彦火々出見尊〈ひこほでみ
のみこと〉が妻神である豊玉姫の為に、海辺に産殿を造りウの羽根で屋根を葺(ふ)き
かけたが、全部葺きかけないうちに姫は産殿で子神を産んだ】とあります。この子供が
盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)です。『古事記』では神武の父に当たり
ます。
一方、中国の後漢の時代にはウが魚を呑んで吐き出す習性から、安産の神とされまし
た。安産の為に、ウそのものを抱いて妊婦は出産に臨んだといいます。また後漢から
12世紀頃まで中国ではウは、胎生動物(卵ではなくヒトのようにそのままの形で産まれ
る動物)と考えられ、子供は口から吐き出されると思われていました。
律令国家の日本では宮内省が管理するほど〔承和元年:834年に施行された「令義解
(りょうのぎげ)」より〕神聖であった鵜飼いは、ヨーロッパには、話としては14世紀に
オドリックの旅行記で知られていましたが、実際の技術が導入されたのが16世紀の末の
オランダが始まりです。ヨーロッパでは野生のウのヒナを巣から取って飼育していまし
た。そして、10年もしないうちにフランス(フォンテンブロー)に伝わっています。
しかし、ヨーロッパで最も鵜飼いが楽しまれたのは、イングランドでした。
ジェームズ1世が1610年、ノーフォーク州のテッドフォードで行ったのがイングランド
の鵜飼いの歴史の始まりです。そして、ウの飼育を担当する王室の鵜匠が作られまし
た。また、1618年にはテムズの河畔ウエストミンスターの通称「葡萄樹園」に286
ポンドで王室の鵜匠所(飼育所)が建てられました。さらに、ウを訓練する為の池が
9つもありました。
後に続く・・・・・。
133 :
ラムセスX:02/03/27 20:07
【正解23】の続き・・・・・・
>>132 どうして、そんなにヨーロッパで親しむ事ができたのかというとそれは
「鷹狩り」の影響がありました。イングランドを中心に行われていた鷹狩りは、
狩猟鳥である鷹を飼育・訓練して、その鳥の自立的な行動によって目的の獲物を
得るという事で、それは鵜飼いにも通じるからです。例えば、多くのヨーロッ
パの鵜飼いの担い手が専門的な鷹匠であり、愛鷹家だったのです。また、東洋
ではウを運ぶ時に静かにさせる為に、ウの目を潰す事がありますが、ヨーロッ
パでは革でできたフード(遮眼革)をウにしていました。これは鷹狩りの習慣
から来ています。
そして、従者がウを運ぶ時には、日本ではよく野球場の観客席でジュース
やお菓子を売り歩く時に、肩からヒモを吊るし抱えている光景を見ますが
そんなような道具にウを止まらせて運んでいました。まさしく、行商人に
似ていたので、‘行商人=cadger’と呼ばれていました。現代英語の‘cad’は
これの短縮形ですが、今では英語圏では馬鹿にする意味が含まれています。
人気を博した鵜飼いは残念な事に、ヨーロッパでは1625年のジェームズ
1世の退位後、王室鵜飼は大きな庇護者を失いチャールズ2世に始まるイギリスの
市民革命の時代に入ると王室の鵜匠制度は事実上、廃絶になりました。記録局
(ロンドン)の鵜飼文書には鵜匠達の鵜飼いの復活嘆願書が残っていますが、
実現しませんでした。
134 :
ラムセスX:02/03/27 20:53
【正解25】 ゾウの背中に人(王)が乗っている・・・・・・問題は
>>98 クシュ王国はエジプトの南の現在のスーダンの大方が重なるように位置して、
紀元前700年頃にエジプトから独立し、そのエジプトを一時、支配するまでにも
なりました。そして、エジプトとさまざまな面でつながりがありました。
(具体的には正解24でカキコします。)王国の都はナパタでしたが、紀元前
540年頃にはメロエに遷都しました。
そんなクシュ王国は、エジプトだけでなくほかの国々や地域、民族の影響を
受けています。例えば、古代エジプトを支配下にしたギリシャやローマです。
プトレマイオス4世と親しかったというクシュのエルガメネス王は、2つの神殿を
造っています。フェラエにある神殿は、奥の間をプトレマイオスが、玄関の間を
エルガメネスが建て、ダッカにある神殿は逆の割り振りになっています。
そしてローマは、メロエの陶器の一つである、陶器の外側に粘土のかたまりを
貼り付けた「バルボティン陶器」が人気を呼び、メロエからたくさん輸入して
います。また、逆に外国のものがクシュに持ち込まれた場合、発掘されたほとん
どが主に死者と共に埋められた副葬品として見つかっています。
さらに、紅海の向こうのアラビアやインドもクシュに影響を残したとされます。
アラビア人は水を貯える為に、よく岩をくり抜いて貯水池を造る習慣があり
ました。例えば、南アラビアのマーリブのダムは、紀元前750年頃サバー王朝の
王によって造られたと言われ、その高さは15mに達しイェメンでは長い間、
灌漑農業が行われ、乳香貿易と共にその繁栄を支えてきたといいます。
一方、インドの影響としては、3つの頭を持ったライオン神‘アペデマク’
が挙げられます。インドでは一般的ですが、エジプトではその姿を見る事は
できません。このアペデマクは、メロエ付近の神殿にのみ見る事ができる
ので、メロエの遷都後に入ってきたと考えられます。また、メロエの別の
町には更に4つの神殿がありますが、その中の3つの中にはアペデマクが壁面
に彫刻されています。
そしてもう一つが、人が乗っているゾウの絵です。インドゾウはアフリカ
ゾウに比べて人の言う事を利きやすいと考えられ、東南アジアなどでも戦争の
ためなどで使われてきました。ゾウに乗っている人は、その人の頭の冠や
コブラの装飾からメロエ時代の王と考えられます。なぜなら、遷都の前に
エジプトの支配は終わっていますが、クシュ王国の王はその後もファラオを
名乗っているのでその名残りと思われるからです。
改行がおかしい
すげー見にくい
136 :
ラムセスX:02/03/28 00:22
>>135 すんません(^^ゞ、いつも自分でも「こいつ、へたくそだな〜」って思ってるんです。
慣れるのに相当、時間かかるんでゴメンなさいm(__)m
残った問題は、問題24と問題26です。解いてみてくださいー。
>>98
137 :
世界@名無史さん:02/03/28 00:52
問題24 仮面をつけさせた、 とか・・・?
138 :
ラムセスX:02/03/28 01:11
>>137 残念ですが違います〜。
自由に行動できないように、こういう事をさせました。
問い26。
>彼らは、真珠貝のあの輝きはヘビの腹側の方の光沢に似ていると
>考えています。そして、更にその光沢を持ったヘビは何かに似ていると考えています。
こういうヒントがあったけど。
「ヘビ」というのは普通、水の神だろう。だから水に関連がある?
内陸部だから水は貴重品だし。ただ、実利的というよりは象徴的な話でしょう。
1.水源を探すときの占いに使った。
あるいは
2.蛇神のご神体の代わりに、雨乞いに用いた。
140 :
ラムセスX:02/03/28 02:05
【正解26】 雨乞いの儀式に使った・・・・・・
>>98 太平洋の島々では金属は手に入れにくいので、違ったものが貨幣として
使われてきました。例えば、中央カロリン諸島やフィジー島では貝
(タカラガイ)が使われていました。また、ヤップ島では大きな石の貨幣
(ストーン・マネー)があります。石だけでなく、上の島々のように貝も
使われていました。特に真珠貝の貝貨は、「ヤール」と呼ばれ日用品など
と交換されてきました。
しかし、太平洋地域の中で貨幣が使われていないところがあります。
それがオーストラリアとポリネシアです。オーストラリアにはポリネシア
の人たちがたどり着く前に既に住み着いていました。そして、このオース
トラリアの広い大陸の中で広大な交易のネットワークが存在しました。
例えば、ブーメランや槍、ミツロウ、粘土、真珠貝などその地域にない
ものが交換の対象になったのです。では、彼らはこの真珠貝をどうして
いたのでしょうか?
先ず、オーストラリア近辺で真珠貝が手に入れられた場所は、主に、
北端のアーネムランドやヨーク半島の海岸部でした。それを何百qも内陸
の人たちがわざわざ手に入れていたのは、雨乞いの儀式をする為だったの
です。真珠貝の輝きは例えば、内陸に住むワルビリ族の信仰によると、
‘雷・ヘビ・虹・真珠・雲・雨’などはイメージとして結びついていまし
た。彼らに特徴的なイコノグラフィー(図像学)によると、にょろにょろ
曲がった線が雷、ヘビ、煙などを表しています。更にこれにダッシュ記号
のようなものを付けると雨をもたらす雲を、弧(アーク)をつけると虹ヘビ
という架空の生き物を表すのです。
この場合、更にダッシュ記号は雲を、弧は真珠を意味し雨雲とヘビが
撒き散らした「小さなもの」あるいは「子供」とみなされます。そして、
ヘビの体は虹色をしていて真珠の輝きに似ています。それは、雨を
もたらす虹ともつながってくるのです。このために、彼らは真珠貝を
削ったり貝のままで雨乞いの儀式に使うのです。
それはつまり、彼らの生活にはなくてはならないものである事を
意味します。
141 :
ラムセスX:02/03/29 22:58
【正解24】 かかとを付けさせず 爪先で立たせた・・・・・・
>>98 クシュ王国は、今のスーダンに大方重なるように位置していました。この「クシュ」という
名前が、初めて史料に登場するのが古代エジプトの中王国時代のセソストリス1世(在位
紀元前1971年〜1930年)の時です。このようにエジプトと関係があったクシュは、元々、
エジプトが占領していた地域でしたが、カシュタというクシュの王が前700年頃にエジプト
から独立し、テーベ辺りまで支配に置きました。ちなみに、旧約聖書においてはハムの子孫が
クシ(クシュの事)でクシの子供がニムロデ王であり、世界最初の権力者とあります。
独立したクシュの首都は、古代エジプトの南部で神聖な場所であったジャバル・バルカルに
近いナパタでした。
2代目の息子、ピアンキが前725年頃にエジプトを完全に支配し始めてヌビア人による
エジプト支配が本格化しました。エジプトでいう第25王朝が始まったのです。そして、前683年に
王位に就いた3代目のタハルカは、この年のナイルの大氾濫を見て、大地が潤う様子からこれを
吉兆と考え、碑文に遺しています。しかし、前671年にアッシリアのアッサルハッドンに攻撃
されてメンフィスまで追われました。反撃にも関わらず、4代目のタンマウェンの時代に
アッシュールバニパル王によってエジプトから完全に追い出されました。以後、エジプト支配は
夢に終わりましたが、王のことを「ファラオ」と呼ぶ習慣は止めませんでした。
更に、前540年頃にクシュの王家は、ナパタからメロエに移り遷都を行いました。理由は
(1)メロエは、ナイルと支流に挟まれて雨にも恵まれていたので、‘メロエの島’とその
地域は呼ばれていたほどだった。この為に、遊牧民が家畜に必要としていた牧草があった事、
(2)メロエの地域は、隊商〈キャラバン〉の人たちがインド洋へ行くためにこの付近へ来る
機会が多い事から、交易する時に適していた事、(3)メロエが鉄の採鉱業の中心地になり
得た事、が考えられます。鉄は少なくても、前1500年前には小アジアでは知られていました。
一方、クシュにおいてはハルシオテフ王(在位 前370年〜前360年)以前の墓の副葬品には
鉄製品が今のところ見つかっていません。恐らく、メロエの遷都後に鉄は一般化したものと
考えられます。鉄は、時に武器として、時に農耕道具として使われていたのです。考古学者の
セイスは「メロエは中央アフリカのバーミンガムだ」と言っています。《後に続く・・・・・・。》
142 :
ラムセスX:02/03/29 23:00
【正解24】の続き(
>>141)
エジプトの影響としては、宗教がまず挙げられます。ナパタに近いジャバル・バルカルは
クシュ独立後には、アモン神の為にできたアモン神殿ができましたがこれはカルナク神殿に
次ぐ大きさのアモン神の為の神殿でした。この地に住んでいたエジプトの僧侶がクシュの
神殿を管理して、クシュの僧侶にかなり影響を与えました。
また、ギザのピラミッドよりは小規模ではありますが、ピラミッドも造られました。
そこには石でできた「シャワブディ」という死後の世界での生活を世話するための人形も
納められました。また、ピラミッドの東側の壁を背にしてできた礼拝堂の壁には、
オシリス神の前で裁きを受ける為に、死者の魂がボート(舟)によって運ばれている
場面が描かれています。
また、前に紹介したメロエの別の町に造られた4つの神殿のうちの一つは、
休憩所として知られ「キオスク」と呼ばれています。(残りの神殿などは
>>134)
そして、文字については当初、エジプトのヒエログリフがそのまま使われていましたが、
その後いくらか形が変り、‘メロエのヒエログリフ’が使われました。そして最後には
完全なメロエの文字とも言える‘メロエ風の続け字’が生まれました。これらは何と書かれ
ているのか読む事はできても、意味はまだ分かりません。
さらに、多くの戦争を経験しクシュの王や女王が捕虜を連れて帰っている絵が見つかり
ましたがここでもエジプトの影響が見れます。それは、捕虜が後ろ手に縛られていて
爪先立ちをさせられているからです。エジプトでも同様にそれが行われていました。
そして王の前に、ひざまずかされました。故に、この捕虜の格好がそのまま「ケセル・アンク
=捕虜」というヒエログリフになったのです。
そんなクシュ王国もアエザネス率いるアクスム王国によって、前350年頃に征服され、
砂の中に消えていきました。歴史家のA.J.アーケルは「クシュのこの敗北によって、サハラ
周辺のサバンナ地帯は中世の歴史の幕を開けることができた」と述べ、また前嶋信次は
「ヌビア系の王朝はナイル上流のナパタ、メロエ地方に退き、なお数百年の命脈を
保つのである。しかし、象形文字を棄てメロエ文字という特別なものを使用し、エジプト史
からは逸脱してしまった」と結んでいます。
143 :
ラムセスX:02/03/29 23:44
【問題29】台湾のカラバイ族の伝説で、親からひどく叱られた娘がその後に変身した生き物で、
中国ではアワビを煮るときにこれに関わる物をいっしょに入れると、アワビが
柔らかくなると考えられていた。また、イギリスでは限られたところにこの生き物の
種が1種類しかいない事から18世紀、アメリカへ渡った開拓民は鳴き声を聞いて
違う生き物と勘違いしてしまった。では、その生き物とは何!?
【問題30】7世紀の末に大祚栄が「震」として建国したことに始まった渤海では、上層社会の
文化として植物を栽培して楽しむ事が流行した。中でも、ボタンとある植物が
人気を呼んでいた。その植物は、アジア東北部では渤海の建国後にボタンと共に
栽培する習慣が始まったのだが、ではその植物とは何!?
【問題31】1672年 ロシアのロマノフ王朝のアレクセイ帝が、息子の後のピョートル1世が
生まれたことを記念して、ロシアで初めてつくらせたものとは何!?
【問題32】メディチ家のロレンツォとジュリアーノ兄弟の暗殺事件を受けて、コジモ1世は
自宅の宮殿から他の宮殿へ移動する時が最も危ないと考えた。そこで、
彼が実行した暗殺防止策とは一体何!?
【問題33】明の万暦帝の時代、明の商人がルソン(フィリピン)で当時、国外に持ち出す事が
禁止されていたサツマイモを持ち出すことに成功した。では、その方法とは何!?
【問題34】1942年頃からベルリンが連合軍による爆撃が本格化した。そこでドイツのある
グループがあることをする為に、フランスのエッフェル塔を選んだ。ここなら
連合軍の爆撃はまずないと考えたからだ。しかし彼らは、塔だけでは不十分と
判断し、そこに近いすでに閉鎖されていたままになっていた遊園地の建物を
使って何かをしていた。
1944年のパリ解放の時に占領軍は引き上げたが、フランスはこの建物をその後
そのままその目的で利用した。では、ナチスドイツのこの建物の利用法とは何!?
【問題35】古代バビロニアでは暦を作るために、度量衡が発達した。当時は、太陽が地平線から
顔を出し始めた瞬間から、地平線を離れる瞬間までの2分が彼らにとっての「1分」
だった。1日は24時間だが、時計の表示が12までしかないのはここからきている。
そして1分(私たちにとっては2分)を何かを使って、さらに60秒に分けていたのだが
ではその「秒」を計り出していた方法とは何!?
【問題30】の回答
バラ。(自信なし)
【問題32】の回答
宮殿どうしをつなぐ回廊を作った。(画廊)
【問題35】
水滴をたらして測る。(全く自信なし)
よし、じゃあ、まず手がかりを検討してみよう。
>親からひどく叱られた娘がその後に変身した生き物
グリム童話にこういうのがあったな。台湾の話でも何か関係あるだろ。
>アワビ
これは・・・「娘」の象徴だな。重要な手がかりだ。
よ〜し、わかった!
カエルだな。
>イギリスでは限られたところにこの生き物の種が1種類しかいない
イギリスは寒いからな。
>鳴き声を聞いて違う生き物と勘違いしてしまった。
ゲロゲロ→ゲーゲー→ベーベー→メーメー
羊と間違えたんだな。
146 :
ラムセスX:02/03/31 03:21
【正解32】 回廊を造った・・・・・・・
>>143 >>144、山犬さん正解です〜(^○^)
15世紀のイタリアは、ジェノバ共和国、サボイア公国、ナポリ王国、ベネチア共和国、
フィレンツェ共和国などと分立していました。そのフィレンツェで、金融業で市中の
実権を握っていたのがメディチ家でした。しかし、1487年4月26日、メディチ家に
ピンチがやってきます。当時、メディチ家のライバルであったパッツィ家の
フランチェスコ・デ・パッツィがマリア大聖堂で事件を起こしました。その事件とは、
メディチ家のロレンツォとジュリアーノ兄弟が、大聖堂の鐘が鳴って人々が礼拝の
為に頭を垂らした瞬間に、兄弟の後ろにいたパッツィはこの時ばかりと、2人に
刃を向けたのでした。ジュリアーノは背中を刺され殺害されましたが、ロレンツォは
命を取り留め、首にかすり傷を負う程度でした。やがて、暗殺に加わった約80人
達は、ベッキオ宮の北の窓に吊るされ処刑されました。また、主犯であるベルナルド・
バロンツェリもコンスタンティノープルで捕まりました。そして、パルジェロの館の
窓から吊るされ処刑されました。レオナルド・ダ・ビンチはこの処刑の様子をデッサン
しています。しかし、暗殺事件はこの後も絶える事はありませんでした。コジモ1世も
悩んだ一人です。
1540年、エレオノーラと前年、結婚したコジモはメディチ宮殿からドゥカーレ
(旧シニョリーア)宮殿に住まいを移しました。この宮殿は、共和制時代の政庁舎
であったのでこの時をもって完全に‘フィレンツェの君主’になったのでした。
その後、1549年にはエレオノーラがあまりに暗くて、冷たい宮殿だと不満を
こぼした為にアルノ川南の宮殿に引越しをしました。それがピッティ宮でした。
この宮殿の設計者は、ミケランジェロの弟子であるヴァザーリ等がしています。
一方、ベッキオ宮と名前を変えたドゥカーレ宮殿は来客を迎えるための宮殿に
なりました。この宮殿には、賓客の為にコジモの自画像やさまざまな絵画が
飾られました。
そしてそれと並行して、ベッキオ宮の隣にヴァザーリの設計で新しい宮殿が
造られました。名前はイタリア語で「オフィス」を意味するウフィーツィ宮殿が
建てられたのです。その名の通りに、市内に点在していた裁判所や役所などを
一ヶ所に集めたものでした。
この宮殿の設計中の1565年、コジモは暗殺防止策を実行しました。
それは、ベッキオ宮〜ウフィツィ宮〜ピッティ宮を結ぶ高架式の回廊を造るという
ものだったのです。こういう回廊は今でも日本でも見る事ができますね。(例えば、
銀座のプランタン等)この回廊は、設計者の名を取って「ヴァザーリの回廊」と
呼ばれます。距離は約1kmで、ピッティ宮とウフィツィ宮の間にはアルノ川が
流れています。そのアルノ川に架かるベッキオ橋も一般の人が歩く通路の上に
メディチ家の人専用の通路が造られました。
ベッキオ橋のベッキオ(Vecchio)とは「古い」を意味するように、1345年に
造られたアルノ川に架かる今では最も古い橋です。建設当初は、肉屋、
なめし屋、鍛冶屋などが橋の上で商売をしていましたが、1550年、コジモの
命令で貴金属店や宝石商も加わりましたが、1593年には騒音と悪臭の為に
フェルディナント1世によって貴金属や宝石商以外の店は撤去させれれてしまい
ました。20世紀にはドイツ軍が連合軍の前進を阻むためにアルノ川に架かる
すべての橋を壊そうとしましたが、歴史的遺産としてこの橋だけ壊さなかった
という歴史があります。
また、回廊の途中にはサンタ・フェリチタ教会があり、ミサもこの回廊から
メディチ家は出席して暗殺者から身を守ったのです。ちなみに、このヴァザーリ
の回廊はコジモの息子のフランチェスコ1世とオーストリア皇女のジョヴァンナ
の結婚式に間に合うように、5ヶ月で完成されています。
こうして、ピッティ宮の自宅からベッキオ宮の職場まで安心して仕事をしたコジモ
でしたが、晩年は妻を亡くした2年後の45歳に政治の実権を長男のフランチェスコに
半ば譲った後には多くの女性スキャンダルを起こし、1574年4月21日に55歳で
亡くなりました。
147 :
ラムセスX:02/03/31 03:37
>>144 他に答えてもらった問題のヒントを・・・・・・。
【ヒント】・問題30については、植物学上 地球に最初に出現した開花植物とされ、
食べる事もできます。食用部分の栄養としては100gあたり、鉄分が約0.6mg
(たまねぎは0.4mg)、食物繊維が2.5g(キャベツは1.9g)、また珍しく肝臓の
働きを助けるビタミンB12がある食品です。
また、1950年代に千葉県で約3000年前のこの植物の種が発見され、
栽培に成功し、それが今では全国に広がっています。
・問題35については、西洋ではかなり後になって歴史上有名な人物が
ある発見をしています。そのことを利用して、既にバビロニアの人たちは
行っていました。
【問題35】
振り子を使った。これで良いのかな?
(この説は以前聞いたことがありますが、トンデモ説だと思ってました。)
【問題30】
菊。(食べられる花と言う事で)
問24で質問があります。
つま先立ちは何か特別な方法をとったんですか?
命令しただけですか?
【問題30】
蓮ですか?
【問題30】は百合でしょうか。
>150
あ、こっちか・・・。成る程、確かに古い。中生代からあったのでは。
問29 牛 ミルクを入れて煮るというのはどうでしょう
問30 最初「朝顔」と思ったんですが、ヒントを聞いてわからなくなりました
問31 劇場 根拠なし
問32 わかってました
問33 ルソンといえば壷、さつまいもを埋めた壷を作って運び出した
問34 美術館
問35 何かを落とした しかし山犬さんが正解だろうな
154 :
ラムセスX:02/03/31 19:49
【正解29】 蓮(ハス)
蓮は果実が入っている花床がハチの巣に似ているので「ハチス」と元々呼ばれて
いました。歴史的には古く、中生代(約9000万年前)に生まれたといいます。
柳やクルミ、カエデ等もこの頃に生まれました。また愛媛ではネルンボ
ニッポニクスと呼ばれる古い型の蓮の葉の化石やレンコンの化石も見つかって
います。原産地はインドや中国、オーストラリア北部やマレーシアなどとたくさん
考えられるほど古くからあるのです。蓮と睡蓮(スイレン)は英語では同じ
「ロータス」ですが、実はこれらは別のものです。最近では、蓮がハス科ハス属
となり、睡蓮がスイレン科ハス属と分類されるようになりました。
古代エジプトで最も古く蓮を神聖化していたと考えられていましたが、
エジプトでは蓮はないので、睡蓮がその対象になっていたのです。エジプトの
睡蓮は青い花を咲かせるもので、ナイル河沿いに生育している事から
‘ナイルの花嫁’とまで言われました。上エジプトの象徴になっていた
睡蓮は、オシリス神に捧げられた花でもあり、オシリスの雄弁さから「雄弁」
という花言葉も生まれました。睡蓮は、夜明けに咲き始めて昼を過ぎると
花が閉じる事から、太陽の象徴とまでなり神殿の柱などにもデザインされて
います。ちなみに、古代エジプトに蓮が伝わったのは末期王朝時代で
ペルシャから伝来したと考えられています。
そんな、エジプトの「ロータス信仰」がギリシャ・ローマにも伝わりました。
神話の中で、海神ネプチューンの娘が淫らな神プリアポリスから逃れるために
蓮に変身したといいます。やがて、インドにも入って来ました。インダス文明では、
蓮は生産を表す母性の象徴でしたが仏教の信仰を広めるために、その教えの
例えとして蓮がより強く神聖化していきました。紀元前3世紀には仏像の蓮座が
登場しています。仏教の中では『仏陀本生伝』において、シャカが生まれたときに
十方に七歩歩きましたが、その歩みに連れ蓮の花が咲き、天女が散花したとあり、
またアショカ王の時代に作られた世界の始まりを説く仏典の『起世経』によれば
たくさんの山々から流れている川に蓮の花が満ちていたとあります。
また、蓮が泥の中から美しく咲かせる花は純粋の象徴であり、君子の花である
という中国の思想は『妙法蓮華経』の「妙蓮華在水」というところから来ています。
蓮は仏教だけではなく、ヒンズー教にも影響を与えています。
ちなみに、カンボジアのアンコール・ワットの塔の形は蓮の花のつぼみを表して
いると考えている研究者もいます。
【後に続く・・・・・・。】
155 :
ラムセスX:02/03/31 19:50
【正解29】の続き(
>>154)
中国にも古くは蓮があり、恋の象徴とされていましたが、仏教の信仰や装飾
などに取り入れられ、唐の玄宗が長寿を願い重用したと言います。そして、
やがて蓮は中国東北部の渤海にも入って来る事になります。渤海は、唐の
律令国家体制を研究すべく何度か唐に使いを出していますが、そこで彼らは
蓮を大事に育てている唐の人たちを見て、政治体制だけでなく蓮の種を持ち帰り
ました。渤海でも仏教が信仰されていたので、蓮と同じく唐から持ち帰った
牡丹(ボタン)と共に盛んに建築の装飾や仏教彫刻に取り入れています。
『松漠紀聞』によると、「(渤海では)富室は〔東京に:東京は渤海の都市の名前〕
安居すること二百年を逾え(こえ)、往往にして園池を為し、牡丹を植う、
多くはニ、三百本に至り、数十の幹の叢生(そうせい)する者有り。皆、
燕の地に無き所なり」であったといいます。
また、寧安県鏡泊湖付近の小水湖には蓮の花を栽培した遺跡が残っていて、
村々の地名にもなりました。牡丹で言えば、渤海鎮という首都があったのは
黒龍江省牡丹江寧安市です。この牡丹江は、清朝発祥の地で満蒙開拓義勇軍の
入植が多かった土地です。
日本にもかなり古くからあったようですが、中国からの仏教伝来以降
「ロータス信仰」が強くなり、仏教と共に蓮が香・浄・柔軟・可愛の四徳がある
最も優れた花であるという考えも入ってきました。元々、日本では食用と観賞用の
区別はありませんでしたが、仏花になると食用にはあまり用いられず、江戸時代
半ば頃に食用として復活します。
今や日本全国に広がる蓮の多くは、大賀蓮という種ですがこれは、1951年(昭和26年)
に千葉県の検見川の遺跡で東大農学部の大賀一郎教授が、約3000年前の蓮の種を
3粒発見してこのうち1粒の栽培に成功した事より始まります。
エジプトの神殿の柱のデザインに始まったロータス信仰は「ロータス・ロード」とも言うべき
道をつくり、それが日本にまで影響を及ぼしているのです。
“蓮の香や水を離るる茎二寸”〔蕪村〕
156 :
世界@名無史さん:02/03/31 19:57
157 :
世界@名無史さん:02/03/31 20:14
で、【問題29】はセミかコウロギ?(どっちをどっちに勘違いしたのか、
忘れたけど)
158 :
ラムセスX:02/03/31 20:26
【正解31】 劇場・・・・・・
>>143 ピョートル1世はロシアの近代化を進めたツァーリとして知られていますが、
父のアレクセイ帝も近代化をしなかったと言うわけではありません。当時、真っ先に
取組んだ近代化は軍事面でした。つまり、絶対王政に欠かせない常備軍を最終的な
目標に置きました。ポーランドやスウェーデンと戦争をして、近代化を痛感した為
です。アレクセイ帝の父である、ミハエルの時にイギリス人などから成る「外人部隊」
がつくられましたが、アレクセイ帝は更に、歩兵6連隊から成る外人部隊をおき
ました。そのうちドイツ人が最も多く1500人を超えています。武器は輸入から国産化に
変っていき、ロシアにもマニュファクチュアが押し寄せました。1626年、イギリスの
技師ブルメリーを皮切りに国の資源調査が行われました。外国の資本家や工場の
リーダーもロシアに招かれ、製鉄工場やガラス工場などが外国の技師や職工の指導の下
によって、作られていったのです。そして、労働力を保持するために国有地農民を
登録して「工場付農奴」としました。しかし、外国人達は勝手に土地を買い入れ、新教の
教会や酒場などをつくった為に、モスクワ市民やギリシャ正教会が政府に苦情を呈し、
以後、外国人がモスクワ市内で土地を買ったり、教会を建てることは禁止されました。
その代わりに彼らは郊外に「ネメーツカヤ・スロポダー(ドイツ人の農家が集まった所)」
と呼ばれる一角を与えられました。この外人の農家が集まった所は、「ロシアの
ヨーロッパ」と言われ人口も1000人に上がり、3つの新教の教会や1つの学校ができ
ました。
このネメーツカヤ・スロボダーに住んでいた軍人や技師、資本家たちは頻繁に
ここへ西欧文化をもって来ました。アレクセイ帝は中でもオペラが気に入り、自分の
宮廷で上演させましたが、役者はこのメネーツカヤ・スロボダーに住む技師や軍人の
子弟達でした。そんな中、1672年にピョートルが生まれるとそれを喜んだアレクセイ
帝は、メネーツカヤ・スロボダーの市長であるヨハン=グレゴーリーに劇場をつくる
から上演しろと命じました。これがロシア最初の劇場で、喜劇座(コメディンナヤ・
ホロミナ)です。
159 :
ラムセスX:02/03/31 20:28
160 :
ラムセスX:02/03/31 20:37
>>149 ベイトンさん、爪先立ちさせられたのは単に命令で行われていたようです。
大地は緑が生える聖なる物なので、捕虜は足をしっかりと踏む事はできませんでした。
ツタンカーメンの出土品にも爪先立ちされた捕虜の絵が描かれた物がありますが、
支配者は逆にこのような絵は足が踏まれる物に描きました。ツタンカーメンのこの物も
彼が足を乗せて休むための台であり、足でこのような絵を踏む事によって支配している事を
はっきり分からせたのです。
細かく解説していただいてありがとうございます
162 :
ラムセスX:02/03/31 23:17
【正解35】 振り子を使った・・・・・・
>>143 古代の文明では暦が盛んに作られましたが、メソポタミアでも暦はつくられました。
それは度量衡が発達していたおかげでした。シュメール人は円周を360度に分けて、
一日を24時間とし、さらに60分に分けました。メソポタミアでは今のメートル法
以上に時間や長さ、体積などがそれぞれつながっていたのです。
長さの単位は「キュービット」と呼ばれてこれは、ヒジから中指の先までの長さが
元になっています。エジプトにも伝わりましたが、メソポタミアのキュービットは
約49.5pで、体積の単位は「クア」といい、紀元前2450年頃のシュメールで使われ
ていた銀の容器(標準器)から検出された容量は4.95リットルで、これは10クアに相当
します。つまり、1クアは495立方cmです。
そして、重さの単位はメソポタミアでは「シケル」に始まります。これは、180粒の
コムギが基準になってできたもので、このシケルの60倍が「ミナ」で約500gになり
ます。このミナの60倍が「タレント」で約30kgです。ここから、キュービットと
クアとミナが関係している事がわかります。
メソポタミア時代の時間の計り方についての説の一つは、まず、一日を均等に分け
るために水と天秤を使ったと考えられます。水時計にいつもいっぱい水が入るように
補充される仕掛けを用意し、皿の底からは一定のリズムで一滴づつ落ちるように穴が
空けられていました。水滴は、下の天秤の皿に落ちるようになっていたのです。
用意ができたら、まず太陽が地平線に現れた瞬間に天秤の皿に水を落とし、
地平線から太陽が離れた瞬間まで(この間約2分)の落ちた水滴の量と、太陽が地平線を
離れた瞬間から明くる朝太陽が地平線に出現し始める瞬間までの水滴の量を比較する
のです。この場合、滴る水の量が2分間に1クア(≒495立方cm)を満たすようにすれば、
その重さは1ミナになることになります。
また、2つの目方から太陽の直径(見かけではありますが・・・)と天の全円周の比率が
算出でき、太陽の直径は0.5に対し全円周の比は720になります。この関係が出れば
1日の長さが精密に出て、それを12等分すればよかったのです。
一方、秒を測るにはバビロニアの人たちは振り子を使っていたとアメリカの
国立標準局の人たちは考えています。遺跡からも振り子のような棒は出ているから
です。振り子はある決まった長さの時には、決まった周期(行って帰ってくる間隔)で
振動する性質があります。《振り子の等時性》西洋では、ガリレオが1583年に
発見しています。この原理を利用して、すでにバビロニアの人たちは秒を計っていた
のです。例えば、振り子の長さが1mの場合、周期は2秒になります。先ほど、
キュービットの長さは約50pと言いました。これの2倍の2キュービットは約1000mm、
つまり1mになるのです。バビロニアの人はこの2キュービットの振り子で太陽が
見かけ上その直径分だけ移動する約2分の間を、60等分するために計っていたのです。
この2キュービットのことをダブルキュービットと言いますが、このダブル
キュービットの10分の1を1辺とする立方体を満たす水の重さは1kgになります。
また、太陽が朝顔を出して、出し終える2分間で歩く事のできる約185mが距離の
単位になりました。「スタディオン」と呼ばれるもので、古代オリンピアなどで
活用されました。
ちなみに、近代に入りメートル法が使われるようになりましたが、このメートル
を算出した最初の方法は、振り子の長さを基準にしようというものでした。古代の
考えが復活したのですが、地球重力が緯度の影響を受けるという事が分かったので
この案はボツになりました。
163 :
ラムセスX:02/03/31 23:27
>>157 問題29は、セミで正解で〜す。
ただ、これから仕事なので解説は火曜日までに書きたいと思っています。
ちなみに、他の問題のヒントを・・・。
【ヒント】∴問題33は、商人はどういうルートで行き来したかを考えてください。
∴問題34は、フランスでも1934年にエッフェル塔を利用して同じことを
していましたが、第二時世界大戦で上手くはいきませんでした。
わーい、正解だって♪(「AかB」はダメかと思ったYO)
えと、【問題33】は樽か何か入れて、潮流に運ばせた?
165 :
ラムセスX:02/03/31 23:50
>>167 正直、このクイズのルールがあんまはっきりしていないので
これからは「AorB」という解答はチョッと冷たいですが、無効という事に
しちゃいます(^^)
解答する時は一つに絞ってね(^o^)
問題33の答えは残念ですが違いますー!
166 :
世界@名無史さん:02/03/31 23:52
タダでさえ厳しいのにな(w
まいいや。密かに応援しとります
問29
アワビを柔らかくするのにセミを使ったのかな?
冬虫夏草とかいうやつかな?
解説を楽しみにしよう。
問29を正解した名無しさん、ここのスレッドだけでもコテハンにしてみませんか。
他の名無しさんもこのスレッドはコテハンがあったほうがいいと思いますがどうでしょう。
168 :
ラムセスX:02/04/02 16:42
【正解29】 セミ・・・・・・
>>143 台湾のカバライ族の言い伝では【普段から、親の言う事を聞いていなかった娘が
ある時、親にひどく叱られた。それをつらく思ってひどく泣いていたその娘は、
いつの間にか羽が生えて、セミになってそのまま遠くへ飛んで行ってしまった】
といいます。そのセミの鳴き声は、家へ帰りたいという娘の叫び声だそうです。
古代ギリシャでは、セミは神の使いとして大事にされていました。黄金の
セミはアポロンの持物(アトリビュート)とされて、曙の神エオス(エウロラの事)
の持物でもありました。その後、音楽のシンボルとされるようになり、アテネの
市の象徴にもなりました。また、復活や不死、のシンボルにもなりました。
恐らく、脱皮して成虫になる姿から来たものと考えられます。地中海地方や
南ヨーロッパでは、今でもセミやその他、鳴く虫をカゴに入れてその音色を
楽しむという古代からの習慣があります。
中国でもセミが長い間土の中で幼虫の時に暮らしていることから、
長寿や再生を思わせられるようで、しましば権力者たちが亡くなると、
セミの形をした玉を死者の口の中に入れるという「含蝉」という習慣が
ありました。これは、周の頃から行われていたようです。また、アワビを
煮るときにセミの抜け殻を一緒に煮ると柔らかくなるといわれていますし、
中国では、今でもセミ自体を食べる文化も残っています。また、『天工開物
(宋応星の著書)』では、江南では、扇を作るときには抜け殻を水に溶かした
液で絵を描いて、それを火であぶって金箔画のようにして見せたといいます。
英語でセミの事をロウカスト(locust)という事がありますが、これは
元々はバッタやイナゴを指すもので、アメリカのみセミという意味を持つ
単語です。これは、18世紀にイギリスからやって来た人々が、セミの鳴き声を
聞いてバッタと勘違いしたためです。イギリスでは、セミはニューフォレスト
というイングランド南部の国立公園に1種類しかいない為に、多くのイギリス人
はセミについてあまり知らない事が原因です。
【訂正】問題では「カラバイ族」と書きましたが「カバライ族」の誤りです。
すみませんm(__)m
>>167 あと、コテハンについては無理にしてもらわなくてもいいですよ。
これは皆さんの好きなやり方でして下さい。気楽に行きましょう(^○^)
169 :
ラムセスX:02/04/04 19:18
Q33と34の答えは明日の夜に載せておきます。
>>143 一応、ヒントを・・・。
Q33:サツマイモをそのまま持ち帰るとバレてしまうので、
可食部分ではない所を商船のどこかに隠して持ち帰りました。
Q34:ナチスドイツは20世紀のある文化についての研究をする目的で
エッフェル塔を選びました。当時の画期的な発明品につながります。
170 :
世界@名無史さん:02/04/04 21:39
問題33の答え
芋の蔓をロープに編みこんだ。というのはどうでしょう。
サツマイモは蔓から栽培していたはず。
171 :
ラムセスX:02/04/04 23:49
172 :
ラムセスX:02/04/05 19:24
【正解33】蔓(ツル)を商船の帆縄に編み込んだ・・・・・・
>>143 新大陸原産のサツマイモは、コロンブスの手によって1493年にはスペインに
もたらされ、イザベラ女王に献上されました。中国へはヨーロッパやペルシャから
伝わったのではなく、フィリピンから伝わりました。1521年、フィリピンに来て
いたマゼランは、セブ島をスペインの属領にしました。これによってスペインの
フィリピン統治が始まります。その後、1565年レガスピがフィリピンに総督として
到着すると、メキシコ(アカプルコ)とフィリピン(セブ島)間に何度か運航が行わ
れて、1571年にはフィリピンの統一が完了し、総督府をセブ島からルソン島
(マニラ)に移しました。これによって、中国との交易においても大変安全に行ける
ようになりました。アカプルコ港で航海の為の食糧として積み込んだ甘藷
(かんしょ:サツマイモ)は、マニラに到着した後も、余った時にはマニラの
市場に上がったのです。中国の商人もこれに目が入り、中国へ持ち帰ろうと
しましたがそれはできませんでした。
レガスピはメキシコから来る商船の帰路の食糧にするためにルソン島の農民に
栽培させて、普及させようともくろんでいたのです。こうして、食糧の統制が
行われたサツマイモは国外持ち出し禁止になったのです。一方、中国側は飢餓で
苦しんでいる農民達に適したこの食べ物を持ち帰ろうと思案していたのでした。
これに成功したのが、万暦21年(1592)か22年(1593)、福州の商人である
金振龍がルソンでサツマイモを見て、そのツルを自分の船の帆の縄にない込んで
持ち帰りました。中国ではすぐ後に来た巡撫の金学會が、植え方を学んで栽培に
努めました。このサツマイモは大いに真価を発揮したので‘金藷’と呼ばれました。
浙江や河南などで生産されるようになったのは清の時代に入ってからです。
ちなみに、このサツマイモが宮古島へ来たのが1597年(慶長2年)で琉球に
来たのが1605年(慶長10年)のことです。当時は「ハンシュウ」と呼ばれていました
が、「ハンス」と名前を変えて1615年(元和元年)にウィリアム・アダムスの手で
長崎(平戸)にもたらされ「琉球イモ」と呼ばれました。その後は全国的に広まり
1717年(享保2年)には、早くも京都に焼いも屋が登場しています。
173 :
ラムセスX:02/04/05 19:32
【正解34】 テレビスタジオ・・・・・・
>>143 1940年6月14日、ドイツ軍はパリに進軍し攻撃を行いました。そんな
ドイツ軍もエッフェル塔には大きな関心をよせていました。何しろ今でも
フランスやドイツでは、ヒトラーはエッフェル塔に上がったかどうかで
討論されるくらいです。
ドイツ軍は、この塔を最初は「広告塔」として使っていました。塔の
2階の上に巨大なVという文字を貼り付けて、更にすそには‘DEUTSCHLAND
SIEGT AUF ALLEN FRONTEN’[ドイツは全戦線で勝利を収めている]と
書いた横断幕を張り、力を誇示しました。またその後は、パラシュートの
降下テストをここからするようになりました。しかし、連合国軍に見られて
失敗したら恥ずかしいと思ってか、マネキン人形を使ってしていました。
そんな中、1942年からベルリンが連合国軍の攻撃の対象にされると、
テレビの放送施設が使えなくなっていきました。ドイツでは既に、テレビの
研究がかなり進んでいて、1934年にはテレビの中継車が登場していたほど
で、その翌年には高鮮明なテレビが登場しています。またプラスチック・
テープを使ったテープレコーダーをつくったのもこの年のベルリンでした。
空爆の為に、テレビのさらなる研究ができなくなって困っていた関係者
たちは、占領したパリのエッフェル塔を選びました。ここなら、連合国側の
攻撃は無いと考えたからです。フランスでも1934年からテレビの実験放送を
この塔を使ってやっていたので彼らは期待をしていたのですが、実際は違って
いました。塔の周辺の放送設備はフェリエによってほとんど破壊されていた
からです。
フェリエとは、エッフェル塔を救った人物です。1889年にできた塔は、
1909年に取壊されるはずでしたが、彼がその塔の高さを利用して通信に
使えないかとフランス軍に提案しました。そこでこの塔は取壊されずに
すんだのです。恐らく、占領軍に使われれては困ると判断したために破壊
したと思われます。しかし、ドイツ側はまだ何とか使えると考え、活用する
事にしました。
フランスのテレビの開発や実験は、テレビとラジオ局の人たちが担当して
いました。スタジオは塔のすぐそばにありましたが、ドイツはこれでは
不十分と判断し新しくスタジオを造ることにしました。その建物に選ばれた
のが、閉鎖されていた遊園地の建物だったのです。こうしてできたスタジオは
塔とつながっていたものでした。運営にはフランス人を使っていたので、
1944年のパリ解放でドイツ軍が引き揚げたときに、そのままそのスタジオを
使う事になりました。この、スタジオは「コニャック・ジェイ・スタジオ」と
呼ばれ国営放送のキー・ステーションになりました。
174 :
世界@名無史さん:02/04/05 23:40
亀レスでスマンが今日このスレを知ったのでご勘弁。
>>61の【問題16】だが、おそらくパリも正解。
ルーブル美術館にモアイ像がある。この目で見たのだから間違いない(藁
もっともレプリカかもしれないし、どういう経緯でそこにあるのかも不明。
横に解説プレートがあったけどフランス語だけだったのだ。俺、フランス語よめんのよ。
布団の中で記憶を辿るに、英語の解説もあったような。
でも由来に関する記述はなかったような。
曖昧なのでsage。
176 :
ラムセスX:02/04/07 03:04
>>174-175 調べましたが分かりませんでした。
大阪に来たモアイ像は本物でした(って俺はまだ生まれてなかったから
見れなかったけど(^^ゞ)
※必要があれば調べ直したり訂正しますので、
問題や正解に対しての意見などもどんどん入れてくださいね〜!(^o^)!
177 :
ラムセスX:02/04/07 04:14
【問題36】1971年、中国湖南省長沙市の馬王堆で発見された前漢時代の墓には
丞相であったタイ侯(タイは車+大という字)の妻が眠っていた。
この遺体を解剖してみると、ある食べ物を大量に食べていた事が分かった。
その食べ物は、アフリカ原産でエジプトのピラミッドの壁画にも描かれて
おり、中国にはウイグル、契丹を通って五代十国の頃にはあったと
思われる。では、その食べ物とは何!?
【問題37】アフリカ東海岸地域に住んでいる人たちは、外国へ輸出するために
かつてたくさんの象牙を取っていた。その輸出先は古くは、インドや
中国であったが、19世紀に入るとヨーロッパが中心になっていった。
そして、1840年代当たりから急激に輸出量が増えていった。理由は
当時、大量に生産されるようになったある物をつくる為であった。
では、18世紀に生まれたそのある物とは一体何!?
【問題38】前回、イギリスにはセミは1種類しかいないと紹介したが、トラック諸島
には変わった習性を持ったセミがいる。1つは、夕方から決まった時間に
30分間だけ鳴くというもので、もう1つは何かをするとセミは面白い
ように集まって来るので昔からこの方法でセミを採集していた。
では、セミを集めるためにする簡単な事とは何!?
【問題39】ライフルの銃弾などに用いられる爆薬コルダイトを作るには「アセトン」
という化学物質が必要であった。第一次世界大戦の時、イギリスは最初
輸入木材からこれを作っていたが、戦争の為に徐々に原料が手に入り
にくくなった。そこで、ワイスマンが砂糖からアセトンを作る技術を
見つけイギリス軍は注目した。アセトンは砂糖以外にもでんぷん質が多い
ジャガイモやトウモロコシからも作れたが、それでも原料不足になると
軍は、子供たちに何かを集めさせた。それは日本でも古くから知られて
いる物で、持統天皇がそのある物の栽培を奨励したという事が日本書紀に
書かれている。では、子供たちに集めさせたその食べ物とは何!?
【問題40】前回、古代バビロニアでも利用されていた振り子の等時性は、西洋では
1583年にガリレオが発見したと紹介した。この法則を発見した彼は、
単振り子を利用してその後ある物を発明した。この発明品ができる前は
当然、人が行っていたが、フランドル派の画家たちは「恋わずらい」と
いうテーマを表現するのにその行為をかっこうの材料にし絵にしていた。
では、単振り子を利用したガリレオの発明品とは何!?
【問題41】1543年(天文12年)、ポルトガル人によって種子島に鉄砲(火縄銃)が
伝わった。この火縄銃を使う時に用いるある物が戦国時代末期から
江戸時代初期にかけて近畿を中心に盛んに作られるようになっていった。
それはかつて外国から伝わったが、作る技術が伴わず国産化に失敗した
物であった。朝鮮半島には14世紀に中国から伝わって、日本には15世紀に
朝鮮から入ってきた。では、そのある物とは一体何!?
【問題41】アラスカのイヌイットたちが、かつて海にいるクジラなどの獲物を
見つけ出すために行っていた方法とは何!?
178 :
世界@名無史さん:02/04/07 04:18
37はピアノですか?
【問題38】の回答
手をたたく
【問題39】の回答
栗。
(この問題解くために、日本書紀を引っ張り出してしまった…。)
【問題41】の回答
硝石。(縁の下に小便)
180 :
tamkakko:02/04/07 12:39
>問題36
壁画の描いてあるピラミッドなんてあるんですか?どのピラミッドでしょう?
181 :
ラムセスX:02/04/07 15:58
>>180 tamkakkoさん、すんません訂正します。m(__)m
【訂正】問題36において(
>>177)
×エジプトのピラミッドの壁画にも描かれており
○エジプトでは4000年前の壁画に描かれていており・・・・でした。
※尚、ついでに古代エジプトでは、正解のものを「ベデドゥ・カァ」と呼んでいました。
182 :
ラムセスX:02/04/07 16:02
183 :
ラムセスX:02/04/07 19:57
【正解37】 ピアノ(白鍵)
1488年、バルトロメウ・ディアスは喜望峰に到達してその後にガマがこの
喜望峰を通って東アフリカにやって来ました。これが東アフリカの海岸地域に
暮らす人たちとヨーロッパ人との最初の出会いです。この東アフリカ沿岸に
暮らす人たちは諸外国との交易をする事で文化を築いてきた面もあります。
ポルトガル人が来る前は、多くのアラビア人などと交易をしていました。
1世紀頃に書かれたと思われる『エリュトラ海案内記』には、今のケニアの
海岸地域の町ではガラス器などを輸入して、一方、ベッコウやヤシ油、象牙など
を輸出していた、とあります。この「エリュトラ」とはギリシャ語で赤いを
意味する「エリュトロス」から来ています。つまり「紅海」の事を言っている
のです。しかし、この書で言っている「紅海」とは今の、インド洋、ペルシャ湾、
紅海の総称で、紅海自体のことはアラビア湾と呼んでいました。東海岸地方では
交易でもたらされたと思われる外国のコインが多数見つかっています。
ヘレニズム時代、パルティア、ササン朝ペルシャ、ローマ帝国、ビサンツ帝国・・・、
また、唐から清にかけての中国のコインも見つかっています。宋銭や明銭は
日本も輸入していて、足利時代には流通もしていましたね。
また、東海岸地方は、イスラム教とも関係あります。イスラム世界では7世紀
預言者マホメットの後継者争いで対立が起こり、少数のシーア派と多数のスンニ派
に分かれましたが、シーア派がイスラムで迫害を受けたために、オマーンから
逃れたのがこの東海岸地方でした。この中には地理学者のマスウーディが
いました。彼が出発した10世紀には東海岸地方のことを「ザンジ」と呼んでいました
が、ザンジの人々は象牙をたくさん取っていました。それは、外国へ輸出するため
でした。古くはインドや中国にも輸出されて、インドでは剣などの武器の装飾や
ゲームに使うコマなどに、中国では玉座に利用されていたといいます。
中国の書物に登場する大食(アラビア)の象牙とは、東・中央アフリカのものです。
因みに日本の中尊寺にもアフリカ産の象牙が装飾として利用されています。
中国では12世紀頃までインドネシアからも輸入していましたが、減産してきた為
にアフリカに注目しました。13世紀の趙 汝カツ(カツは舌+しんにょうという字)
の『諸蕃志』にも、チャンパやシンロウ(インドシナの国々)より、大食の方が
良質で大量に取れると述べています。しかし、19世紀に入ると東海岸地域の人たち
は象牙の輸出先をヨーロッパに転換しました。主にロンドンに輸出されて、
象牙の狩猟に関わったアフリカ人も奴隷として売却させられました。
W.E.Bデュボア博士によると、1840年代から産業革命の影響で大量生産できるよう
になったピアノの白鍵に使うために大量に市場に出回った、といいます。
ピアノは、ダルシマーやクラヴィコード、チェンバロなどが合わさって
1709年、イタリアのクリストフォリが発明しました。ピアノの正式な名前は
「クラヴィチェンバロ・マル・ピアノフォルテ」といいます。日本語で言えば
「弱い音も強い音も出るチェンバロ」という事です。19世紀までは白鍵、黒鍵の
色が今と逆になっていたのですが、白鍵盤をメインにした方がきれいに見える
という事で今の鍵盤の形になりました。白鍵は象牙でしたが、黒鍵は黒檀でした。
因みに、今のピアノは88鍵ありますがこれは、人間の聴覚に関係しています。
ヒトは最低20Hz〜最高20000Hzまでの音が入りますが、ピアノは人間が丁度いい
音として感じる範囲の鍵盤数として88鍵選ばれたそうです。
88鍵は27.5Hz〜4186Hzの範囲です。
東海岸地域で暮らす人たちは都市単位であまり密接な関係がなかった為に、
ポルトガルの攻撃にあっさりやられてしまいましたが、スワヒリ語などに代表
されるスワヒリ文化を遺してくれました。
184 :
ラムセスX:02/04/07 20:15
【正解38】 手をたたく
このセミはミドリッチッチセミというセミで面白い習性を持っています。まず、
決まった時間に鳴くというもので、これは日本では安松京三氏の実験では
午後6時ごろに30分間だけ鳴くということが分かりました。また、この頃に
手をたたくとセミが集まって来るので、島の子供たちは昔からこうして遊んで
いました。
セミに関する俗信としては、フィリピンのイゴロット族ではセミが鳴いている
時は絶対に大きな音を立ててはならないというものがあります。もし大きな音
を立てるとセミが鳴き止んで、それが合図となって暴風雨が来るからだそうです。
『昆虫記』で知られるファーブルは、かつて古代ギリシャでセミの幼虫が
食べられていたのを聞いて、家族で4匹をフライにして食べてみました。記録では
えびの味がしたそうです。日本でも、愛媛の宇和島では心臓病の薬としてセミの
成虫をあぶって食べていました。また昆虫記では、フランス南部では小便を漏ら
して飛んでいくセミから、セミは利尿剤として利用されていました。これは古代
ギリシャ時代からあった考えだそうです。
できれば24時間は正解を発表しないでいてもらいたいです。
問36 ビールなんてどうでしょう。エジプトから麦の栽培と発酵させた酒が伝わった
問40 メトロノーム
問41 トランポリンで高いところから海を見た
186 :
ラムセスX:02/04/07 22:46
【正解39】 クリ
1914年に始まった第一次世界大戦では、たくさんの木材が消費されま
した。それは、「アセトン」と呼ばれる化学物質を作るためです。
アセトンは戦争中は爆薬コルダイトを作るのに欠かせなっかったのです。
木材から作る方法は、密閉容器に木材を入れて、容器の中にある空気を
押し出すために加熱して放出される蒸気を収集しました。この蒸気の中に
アセトンが含まれていました。イギリスでも木材から作ってきましたが、
戦争の為に原料の木材が不足してきて軍を困らせていました。そんな中、
1つのニュースが入ってきました。カイム・ワイスマンというマンチェスター
大学の講師が砂糖からアセトンを作り出す技術を開発したというのです。
1910年のこのできごとは、偶然で生まれました。理由は、元々は
ワイスマンは、砂糖から人造のゴムを作る目的で実験していたからです。
プロセスは、デンプンを砂糖に変えて、次にクロステリジウム・
アセトブチルアミンというバクテリアで処理すると、60%のブチル
アルコールと30%のアセトンと10%のエチルアルコールができました。
大戦中、軍はこのニュースを聞くと協力を要請しました。イギリスでは
砂糖よりもジャガイモや小麦などのデンプン質を多く含むものを栽培いた
のでこれらで作られました。またトウモロコシをたくさん使うジンの蒸留
工場で一遍に0.5トンものアセトンを作りました。1年に50万トンもの
トウモロコシが使われたといいます。しかし、ドイツのUボートの攻撃が
強くなるとアメリカなどから輸入していたトウモロコシも不足になった
ので軍は、子供たちにデンプン質が多いクリを集めさせました。
クリは日本でも縄文時代から食べられている古い食材で、17世紀の
フランスで生まれたマロングラッセは、アレクサンダー大王が妻のために
作ったという伝説もあります。また、フランスではクリの渋皮を取ると
爪が黒くなるのでそれを隠すためにマニュキアが生まれたとも言います。
そして、最終的にはイギリス政府はカナダとアメリカにアセトンの
工場を作ることに決めました。ここなら材料に困る事はないからです。
そんな中、1916年にロイドジョージはワイスマンに多大な貢献に感謝して、
何かお礼がしたいといったところワイスマンはユダヤ人である自分が
熱心なシオニストであり、パレスチナを失ったユダヤ人に聖地を返して
ほしいと願い出ました。ロイドジョージはバルフオァと何度か会談しました
が進展せず、ロイドジョージが総理になりそして、1917年あのバルフォア
宣言が出ました。
大戦前はトルコ領であったパレスチナは、イギリスのアレンビー将軍の
活躍でトルコ軍はパレスチナから撤退した。そこでワイスマンをリーダーと
するイギリス政府公認のユダヤ人委員会がパレスチナに派遣されました。
そして、1948年ついにイスラエルを建国、ワイスマンが翌年の議会で最初の
大統領になりました。しかし、イギリスはその一方でアラブ人に対し1915年
フサイン=マクマフォン協定を結び、ユダヤ人とアラブ人との二重外交で
両者の民族紛争の基盤を作ってしまったのです。
187 :
ラムセスX:02/04/07 23:07
>>185 分かりました。少し様子を見て正解を載せます。
因みに、Q41は正解でーす。解説は仕事があるので火曜日にしますね。
すんません、【正解37】(
>>183)で
ピアノの名前を「クラヴィチェンバロ・マル・ピアノフォルテ」と紹介しましたが
正しくは「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」
[gravicembalo col piano e forte]といいます。訂正いたします。
問題36
瓜 チョットズルしちゃった。
189 :
ラムセスX:02/04/07 23:13
>>188 もうちっと、具体的に答えて下さい(^_^)
190 :
世界@名無史さん:02/04/08 00:05
>189
えーっと、解剖結果で”のどから胃にかけて300余りの瓜の種があった”
とかいてあるので、西瓜ですかね。
当たった。良かった
楽しみにしてますんで頑張ってください。
クリの話は面白かったですね。
マニュキアの発祥に関係してたり、歴史上重要な条約に関係したりと、実にためになりました。
193 :
ラムセスX:02/04/09 16:40
【正解36】 スイカ
1971年、中国湖南省長沙市の東部の馬王堆で病院を建設するために土を
掘った所、今から2000年以上も前の墓が見つかりました。深さ16mの所にあった
墓は、大きさが縦:6.7m、横:4.9m、高さ:2.8mもありました。調べた結果
この墓は、長沙王に仕える丞相、タイ侯利蒼(たいこうりそう:タイは車+大と
いう字)の妻であることが分かりました。厳重に6重にも仕切られていて、外側2つ
は木槨(きかく)という棺を入れるためのケースのようなものがあり、内側4つは
棺でした。この棺の内、外側2つが漆塗り、内側2つがラシャ張りでした。
遺体は、一番外側を綿が入った絹の合わせで覆われていて、それを取ると20枚もの
絹の袍に包まれて9本の絹帯で縛られていました。
副葬品は1000点以上になり、竹の行李(こうり)に入っていた夏・冬の衣類のほか
に、楽器やつぼ、漆塗りの食器や鏡、クシなどがあり、312枚の竹簡でリスト
されていました。
棺に使われた木材は広葉杉(こうようざん)と思われます。後漢の王符が
『潜夫論』で、古代より広葉杉でできたような棺には千金を惜しまないで手に
入れる姿はいいものではない、と戒めるようなことを書いています。この広葉杉
は、揚子江以南から台湾で見られて、朝鮮半島には自生していません。しかし、
百済王の棺はこの木材が利用されています。
馬王堆の遺体は、さっきまで生きていたみたいに潤いが感じられ身長:154cm、
体重:34.3kgの50代の女性と分かりました。また、腰椎に損傷があり、歩く事が
難しかったろうとされ、また動脈硬化の傾向があって激しい腹痛が元で起きた
心不全が死因と考えられます。その彼女の食道から胃にかけておよそ300を越える
スイカの種が見つかりました。
《後に続く・・・・・・。》
194 :
ラムセスX:02/04/09 16:41
【正解36】のつづき
>>193 スイカは今から3000万〜2500万年前にアフリカのカラハリ砂漠で生まれた
とされ、1850年代にアフリカを探検していたリビングストーンは、南アフリカの
中央部でいろいろなスイカの原生種を発見しました。古代エジプトでは、
スイカの仲間が早くも古王国時代の墓の壁画にも描かれていて、便秘や種の多さ
から多産に結びつけています。ギリシャでは3000年前に入ってきて、その後
イギリスには1597年に、アメリカへは1629年にマサチューセッツに1664年には
フロリダに伝わった事が分かっています。
中国へは五代十国(907〜960年)に入ってきたと思われます。アジア最古の
スイカの記録は『陥虜記』で、契丹がウイグルを破った時にスイカの種を
持って帰って栽培したが中国の冬瓜のような形で味は甘い、と書いています。
この後、中国に入って、西の方から来た瓜なので「西瓜」と名付けられました、
と言われていますが、中国の『蔬菜栽培学』によると、1959年2月24日の
「光明日報」に、杭州の3000年前の遺跡からスイカの種を発見したという記事や
1960年の「考古(第7期)」には山西省の東漢の遺跡からも種を発見したと紹介して
います。恐らく馬王堆から出た種はスイカの原種かスイカに似た瓜科のものと
思われます。
日本へはいつ来たかははっきりしていませんが、14世紀の南北朝時代の南禅寺の
学僧、義堂周信はその『空華集』にスイカの詩を詠んでいます。当初は皮が濃い
緑色で中が真っ赤な色なので気味悪がってあまり食べられませんでした。
さらに、料亭などは切ったスイカを部屋の隅に置いて、ハエを集めるために
使っていました。
ちなみに、スイカに限らず果物は、種の周り(あるいは中心部)が一番甘く
この甘味の正体は果糖とブドウ糖です。この果糖とブドウ糖にはそれぞれ
α型とβ型の2種があり、冷やすとα型が下がり、β型が上がります。また、
果糖のβ型はα型の3倍の甘さがあります。つまり、冷やせば果物は甘くなると
いうことです。また逆に暖めるとα型が上がって、更に水素イオン濃度
(PH:ペーハー値)が上昇します。酸度が上がるということですから酸っぱく
なってしまうのです。
195 :
ラムセスX:02/04/09 17:59
【正解42】 トランポリンを作って飛ぶ
イヌイットはグリーンランド、カナダ、アラスカ、チュクチ半島(ロシア)まで
広がる大きなツンドラ(永久凍土)地帯に4000年以上前から暮らしている人々です。
その中のアラスカは、元々はロシア領で当時の首都はシトカでした。ロシアは
クリミア戦争で痛い出費に合い、それをまかなう為にアラスカの売却に出たので
した。アメリカはこれに承諾して726万$(当時)で広大な土地を買いました。
1867年3月30日の事です。しかし、アメリカ国民は良く思わず当時の国務長官の
ウィリアム・スワードになぞって、アラスカのことを‘スワードの冷蔵庫’と
呼んでいました。ロシア領以前はイヌイット達が暮らす土地だったのです。
イヌイット達は主にクジラやアザラシを獲る狩猟民族で、これらを暮らしの
中に取り入れています。例えば、アザラシの油はランプの灯として使ったり、
クジラの肉を食べたりしています。極寒の地であるツンドラでは、草木が
生えないので陸地と海は真っ平らになります。このような環境でクジラなどを
見つけるために、イヌイット達は何人かのグループでセイウチの皮や大きな布を
用意してトランポリンを作ります。何人かで布をピンと張るように引っ張り
ながら持って、一人が乗って高く放ってもらいます。飛んだ人は獲物がいるか
見つけるのです。今では、この方法は行われておらず祭りの時にゲーム感覚で
行っています。
‘スワードの冷蔵庫’とバカにされたアラスカは1880年、その汚名を返上します。
金が発見されたからです。チャップリンの『黄金狂時代』もこのアラスカの
できごとが舞台になっています。
196 :
ラムセスX:02/04/09 23:47
【ヒント】問題40の答えは医療器具です。
問題41は日本には8世紀に一度伝わりました。軍事用から日常用に
用途が変わりました。
問題40は「血圧測定機」でしょうか。
問題41は「火打石」とか・・・。違うな。
199 :
ラムセスX:02/04/10 18:51
じんさん
>>197はいいところいってます!
>>198は違います。ヒントは、これは火縄銃においては火縄に使われました。
200 :
世界@名無史さん:02/04/10 19:01
今だ!じゃーんぷ♪
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄
ヒョイ , ∧∧
( _(,,゚Д゚) ミ ___
⊂___,.つつ て. ) クルリ
彡 ⊂ .ノ
(" ) ∧∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. ∨∨ 彡 (,,゚Д゚) < 200番ゲット!
/ ,つ \_______
〜、 ノつ スタッ !
.(/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
【問題41】の回答
木綿
自信は…どうだろう?
確か綿花が日本で栽培されるようになったのはこの時代からでしたね。
木綿は最初軍事用で、足軽の服や船の帆なんかに使ってたし。
問41 和紙でしょうか?
問題40 血圧が近いということは・・・。
心拍数を計る装置とか。
恋わずらいというのは、恋をするとドキドキして
心拍数が速くなるという様子でしょうか?
204 :
ラムセスX:02/04/11 00:57
【正解41】 木綿
1542年(天文11年)、3人のポルトガル人が暴風雨の為に中国の都市へ本当なら
行くところが日本の種子島にやって来ました。そして、翌年の1543年に一度日本へ
ポルトガルへ来た1人ともう一人のポルトガル人が日本へ来るという目的を持って
マラッカから中国船で再び種子島に来ました。この時に火縄銃が日本に伝わり
ました。
ポルトガル人が東南アジアの中で最初に足をつけたのがマラッカでした。1511年
7月25日、アルグアルゲが攻撃してマラッカ王国を敗北させました。その時に
ポルトガル側は火器を多様に使いましたが、東南アジアには火器が全く無かった
というわけではありません。例えば、明の永楽帝が交趾(コーチ:ベトナムの南部)
を攻めた時には、ベトナム人は神機箭(しんきせん)と言われる鉄砲で鉄のヤジリ
を発射させた事に明の軍は驚いています。また『明史』には、ポルトガル人を
仏郎機(フランキー)と表しマラッカの近くにその仏郎機の国があると記しています。
東南アジアのイスラム教徒にとって、西洋のキリスト教徒は全て十字軍の最も
強かったフランク軍になぞって仏郎機と言っていました。最初に見たヨーロッパ
人がポルトガル人だったので、ポルトガル人が仏郎機と呼ばれたのです。
そのポルトガル人が火器を持ってくる前にマラッカでは火器がすでにあって、
ポルトガルのそれを元にアジア型のものを作るようになりました。そして、
日本の火縄銃は火挟みの位置や、瞬発式の引金などからヨーロッパ型ではなく
安南(ベトナム中部)やマレー、ジャワなどのタイプに似ています。ですから
日本の火縄銃は、アジアの物が来たと考えられます。また、当時のヨーロッパ
では火縄銃より進んだ火打ち石式の鉄砲を使っていました。火打ち石と言っても
「ホイルロック」と言って、ライターのように回転する鋼の輪に黄鉄鉱を当てて、
それで出てくる連続火花で点火させるものです。この技術はかなり高度で、
その為に東南アジアでそれを作ろうとすると、専門の技術者を連れてこなければ
ならずそれは難しいので、鍛冶屋の腕でできる程度の火縄銃が東南アジアで
作られ、それが日本に伝わったと考えられます。
この火縄銃の火縄は、日本では木綿が使われていました。『日本後記』では、
桓武天皇の時代の799年に崑崙人と呼ばれるインド系の中国西部の民族の1人が
三河の海岸に漂着しました。この時に木綿の日本での歴史は始まります。
彼は三河の川原村(せんがむら)に住む事になりました。この時に綿の種を持って
いるということが分かって、それが郡司や国司に伝わり、やがて朝廷の耳に
入ると勅令で、今の兵庫・和歌山・大阪・岡山・高知・徳島・愛媛・岡山で
それが栽培されました。ですが、『中河内郡誌』によれば10年と持たなかった
ようです。一方、三河の綿はその中で崑崙人の手で何とか栽培されつづけました。
古ワタ(地ワタ)と呼ばれる綿はその遺種と思われます。方言では紀波陀(キワタ)
と呼ばれます。この後、崑崙人は村を出て河内(大阪)の国分寺に行った
と言います。
綿は大きく分けて2種類あります。1つはアフリカからインドへ来たアジア綿で
これの仲間が日本に来ました。もう1つが新大陸にあったものがアフリカのもの
と混ざってできたペルー綿です。新大陸のものはDゲノム綿でアフリカのものは
Aゲノム綿です。ペルー綿はADゲノム綿ということになります。染色体はA型の
2倍体に対し、AD型は4倍体です。
[後に続く・・・・・・。]
205 :
ラムセスX:02/04/11 01:00
【正解41】のつづき・・・・・・
>>204 日本ではその後、朝鮮半島から伝わるまでに700年以上かかります。
朝鮮では高麗の恭愍王(こんみんおう)の時代、元へ派遣された文益漸は元の
不当な要求に拒否したために雲南へ流刑されました。そこで彼は木花(もくふぁ)
つまり、綿の畑を見てこれを持ち帰ろうと決心しました。元ではこれを持ち
帰ろうとすれば死刑になるので、筆の中に10粒、種を隠して持ち帰ることに
成功しました。その後、義父の鄭天翼と1粒だけ育てる事に成功したのです。
そして李朝の世宗王の時代に全国的に栽培する事ができたと言います。
1451年には薩摩の島津貴久が2394匹(匹:2反)の綿布を授かっています。
また応仁の乱(1467年〜69年)のさなか、近江・出雲の守護であった佐々木京極政経
は大量の綿布を輸入しようとしました。
日本へ伝わったのは1469年(文明9年)とも1594年(文禄3年)ともいわれる木綿は、
当初は軍事用に使われました。例えば、兵衣、馬衣、旗、幟(のぼり)、陣幕、
帆布、火縄などです。火縄は、木綿は油を含んでいたので消えにくく火がつき
やすいという特長がありました。帆布は、麻より軽いので船の重心が下がって
安定するということと、嵐などで濡れても破れにくいという長所がありました。
また、船が軽くなる事からスピードもアップして、100〜200石レベルが
江戸時代の半ばには1000〜2000石になったほどです。因みに13世紀にスペインが
木綿産業で発展したのも帆布の需要に応えるためでした。恐らく、コロンブスの
船も木綿の帆が使われたと思われます。
日本では木綿は当初朝鮮から輸入していましたがやがてそれでは足りず、
中国から輸入するようになって、やがて日本でも近畿を中心に生産されるように
なりました。戦乱の時代が終わり、天下泰平の江戸時代になると、慶安のお触書
などで庶民の衣類などに使われ、その用途は変わっていきました。
206 :
ラムセスX:02/04/11 01:09
>>203 じんさん残念、Q40の正解は「脈拍計」でしたー。
解説は後日載せます。
207 :
ラムセスX:02/04/11 19:11
【正解40】 脈拍計
1583年、ピサの寺院でガリレオはお祈りをしていた時にあんまりにも退屈
だったので、ポセンティがデザインしたランプに目が移りました。ランプは
丁度、係りの人が灯を点けたばかりで手を離した後にランプが前後に揺れて
いました。その揺れ(振動)は最初のうちは大きかったですが、最後には
揺れはなくなっていきました。19歳の学生だったガリレオは、ランプが
大きく揺れても、小さく揺れても、行って帰ってくる時間は同じだという
ことに気がついて、それを確かめる方法は無いか考えていましたが、
当時、医学を勉強していたので自分の体で調べることを思いついたのです。
つまり、脈拍を使いました。ランプの一回の振動時間を脈拍で調べて、
その時間は振動の大きさに関係ないことを証明したのです。そこで彼は
単振り子というものを作り、紐の長さで振動の速さが変わることも突止め
ました。更に、この単振り子を使って人の脈拍を計る方法を思いつき、
脈拍計を1607年頃作りました。
17世紀に入って科学ははガリレオと「自己の認識こそ絶対にして唯一の
確実な事実である」と自分で実験し、確かめる事の必要性を説いたデカルト、
更に帰納法の重要性を説いたベーコンらによってかなり進み、医学も
その影響を受けたかに見えたが当初そうではありませんでした。
例えば、当時の治療法は瀉血と下剤に頼っていて、治療法と言えば尿検査と
脈拍を診るくらいでした。これらはフランドル派の画家達の絵の題材になり、
『医師の訪問(アドリアン・ヴァン・オスターデ画:エルミタージュ美術館)』
『純白の証明(ゴッドフリート・シャルテン画:ハーグ博物館)』のように
フラスコに尿を入れて診ているのを絵にしたり、
『恋わずらいの婦人(ジャン・ステーン画:アムステルダム美術館)』
『水腫症の婦人(ジュラール・ダウ画:ルーヴル美術館)』のように
女性の脈を診るのを絵にしていました。これらは、タイトル通り恋わずらいや
性的純白ということを表現するのに使われました。
因みにガリレオは、1603年に温度計を発明しています。これは空気を入れた
試験管を反対にして、水中に立てます。周囲の温度が上昇すれば、中の空気が
膨張して試験管の水面が下がります。逆に、温度が下降すると、空気が収縮して
試験管の水面が上がるという仕組みです。この温度計は、空気の熱膨張を
利用している画期的なものですが、気圧の影響を受けやすいという欠点も
ありました。そして、この温度計からイタリアのサントリオは体温計を発明
しました。1609年の事です。
208 :
ラムセスX:02/04/11 20:09
【問題43】1950年代、香港は中国への中継貿易から軽工業生産による加工貿易へと
産業構造を変えた。そこで、1952年からアメリカ向けにある物を作るように
なり、それが欧米を席巻した。その為にフランスでは「自国のそれを
買おう!」と購買を呼びかけるために、わざわざそれをモチーフにした
記念切手を作ったほどだった。では、ホメロスの『オデュッセイア』の
詩にも登場するそのあるものとは何!?
【問題44】唐の睿宗(李旦)が帝位に就くきっかけになった生き物がある。
彼は皇帝になると、金銀で作ったその生き物を形作って供養したという。
その生き物は、中国では薬として利用され、中世ヨーロッパでは
怠惰の象徴とされたり、逆に処女懐胎の真実性を保証するとされた。
ではその生き物とは一体何!?
【問題45】1754年、北アメリカで7つの植民地がフランスとネイティブ・アメリカン
との対立を処理するためにニューヨークのオルバニーで会議を開いた。
代表のフランクリンは、「オルバニー連合案」を提案したが、この時
彼は、自分の扱っている機関紙に各植民地が団結する必要があるという
ことを表現するために、アメリカの新聞史上初めてマンガを載せた。
では、そのマンガに描かれていたものとは何!?
【問題46】ルネサンスの絵画「最後の審判」でミケランジェロがゴミで
絵が汚れないように施した工夫とは何!?
【問題47】17世紀オランダ人医師が来日した時に、日本のあるものに注目した。
帰国後それを論文にしてヨーロッパに紹介した。1つはお茶であった。
もう1つは、7世紀のアラビアでは薬として既に使っていたものだが
手に入りにくく極めて高価であった。日本では、薩摩藩がそれを
世界史上初めて専売化したものでオランダなどに輸出していた。
医療では眼科治療に用いていて、また他の生活に役立った使い方も
あった。では、第二次世界大戦後も一時期、専売されていた
オランダ人医師の「論文テーマ」とは何!?
【問題48】1909年、エッフェルはエッフェル塔の下である物を作った。
そのある物のおかげで、当時のある研究や実験に大いに役立つことが
でき、1913年にはアメリカから受賞もされた。
では、エッフェルが作った物とは何!?
【問題49】古代エジプトでは神殿で仕事をする神官は、さまざまな厳しいルールを
守らなければならなかった。例えば、神官になるには割礼をしなければ
ならず、また神殿に入る前の数日間は性行為は禁止されていた。
では、定期的に神官達が行わなければならなかった事とは何!?
【問題50】インカ帝国では医学が発達していた。頭蓋骨を開いて手術したのも
その一例である。更に、もう1つ行われていたもので
日本では江戸時代半ばから行われていたその医療とは何!?
【問題51】タイではアユタヤ王朝の第9代ボロムトライロカナット王の時代
(1448年〜88年)に始まったとされるヒンズー教の儀式がある。
これはタイでは今でも行われ、外とボス・ブラーマン寺院の中の
両方で、シヴァ神の為に行われる。儀式自体はインドから伝わったもの
で、インドでは紀元前2000年ごろから冬至に行われていた。
一方、西洋ではエストニアでは、儀式として逆に夏至に行われていた。
では、今の我々は遊びとしてするその儀式とは何!?
【問題49】
ん〜映画とかの印象で頭ツルツルのイメージ有り。 だから 頭の毛剃り
【問題50】
入れ歯じゃないかぁ〜(因みに当時の日本製入歯は、木から作ってたはず)
問題44熊 47砂糖 50入れ歯 とりあえずこれだけ。
順番が狂ってゴメンナサイ。
【問題47】
黒砂糖かな!!
【問題44】
もしかしてタツノオトシゴ?獣とは限定されていませんでしたから。
うひ。ちょいと出遅れた。
【問題47】の回答
樟脳(これは自信あり)
【問題44】の回答
猫。(いつも寝てるし。あと、西行と頼朝の話が頭から離れない…。)
【問題46】の回答
ニカワでコーティング
【問題43】
ソーセージ??
【問題46】
私のヒラメキだと卵の≪卵白で作ったコーティング剤を使った。≫です
問50 何と言うのかわからないけど、種痘の予防。
天然痘にかからないように、わざと牛痘にかかっておくとかいうの。
>217
それも考えたのですが、新大陸の人口が天然痘で激減したので違うのでは無
いかと。江戸中期というのがひっかかりますね・・・。
【問題50】の回答
金歯(銀歯)
江戸町人には虫歯が多かったので、恐らく「歯」関係だとは思うのですが…。
入れ歯を言われてしまったし。
>>216 正直、それとどっちにしようか迷ったんですよね。
でもまあ、卵白は最後の晩餐なんかでも使われてるんで、こっちにしました。
>>217 種痘というと、手塚治虫の「陽だまりの樹」を思い出しますね。
220 :
ラムセスX:02/04/11 22:48
今まで答えてもらった中で正解が出たのは、
Q47:樟脳
Q49:体毛を剃る
だけです〜!(^o^)
【問題43】の回答
チーズかな・・・??
222 :
ラムセスX:02/04/11 23:09
正解の解説は後日します。
Q43は食べ物ではないですよ〜。
223 :
イスマイル:02/04/11 23:34
【問題44】の回答
怠惰かつ処女懐胎の真実性を保証というのに激しく既視感があるけど
それが何かは思い出せなかった。
それはそれとしていろいろ考えた結果は、
白バラ。
上述の既視感とは激しく食い違うのが不安。
224 :
ラムセスX:02/04/11 23:41
>>223 残念ですが違います〜!
植物ではない生き物です。ヨーロッパでは天の川がこの生き物の何かと関係付けて
いましたし、5月1日にこの生き物を投げると一年中幸運でいられるという
考えがありました。
【問題43】の回答
毛皮でどうでしょう?
なんか香港製って多い気がするので
【問題44】の回答
牛でいいのかな?
以前テレビで、牛を投げる祭りを見たことがあるんですが、
あれどこの国だったかな?
227 :
tamkakko:02/04/12 08:34
問題50
麻酔かな?
【問題44】
天の川がミルクの川と呼ばれるそうなので、牛。
229 :
ラムセスX:02/04/12 17:11
【正解47】 樟脳・・・・・・問題は
>>208 樟脳とは、クスノキ(樟)から取れる白い結晶のことで、それ以前は「竜脳」と
呼ばれるものが使われていました。「竜脳」とは、主にボルネオやスマトラなどの
密林地帯にわずかに生えている竜脳樹から取れる白い結晶で、別名〈ボルネオール〉
ともいいます。独特の香りがあって、唐の玄宗にも献上されました。
唐では蝉(セミ)の羽のように透明で繭(マユ)のように白いということで
「蝉蚕(センサン)」と呼ばれていました。楊貴妃の遺体にこの竜脳の香りが
したといいます。この香りには近年、鎮静効果と共に高揚効果があることが
分かりました。また、防虫剤や防腐剤としても使われてきました。
更に木材を蒸留して得られる油は眼薬や歯痛止めとして使われてきました。
そして、丁子や麝香(ジャコウ)と共に墨の中に入れてその香りを楽しんで
いました。しかし、竜脳はなかなか手に入りにくく高価であった為に、
それに代わって比較的手に入れやすかった樟脳が12世紀頃から使われだされた
のです。
樟脳は既に7世紀のアラビアでは薬として使われていて、ギリシャや
エジプトでも用いられていました。この樟脳を取る技術が東南アジアから
中国南東部、雲南などに伝わって明朝末期には台湾に伝わりました。
台湾には樟がたくさんあるので樟脳の製造事業は大きく発展しました。
日本(薩摩地方)へは朝鮮半島を経由して伝わったと考えられます。薩摩藩は
この樟脳に注目し、製品は全て藩が買い上げる事とし、藩主の御用以外は一部
薬店へ払い下げ、残りは長崎(平戸)へ回してオランダや中国へ輸出されました。
この樟脳の専売制は世界で初めてと考えられます。因みに『阿蘭陀商館日誌』に
樟脳の記載が初めて出るのが寛永年間(1623年〜)です。薩摩の樟脳は砂糖、
ハゼロウに次いで大きな利益をもたらしました。一方、土佐藩も薩摩藩の
焙烙(ほうろく)式を改良し、蒸留式で製造して、力を入れました。
そんな中、4代将軍家綱の治療の為にオランダから来日していたウィリアム・
テン・ライネは日本のお茶と樟脳に注目して、帰国後の1678年論文を書いて
います。また、1683年にはロンドンの学会で日本では関節炎の治療に主に灸を
用いていると報告して、ヨーロッパに灸を紹介しています。
日本では香薬として仏教と共に入ってきた「竜脳」は大槻玄沢、宇田川玄真の
『厚生新編』では日本の樟脳より優れていると記していますが、文化文政期には
「白様竜脳(しろでりゅうのう)」というものが流通していました。これは
竜脳ではなく、中国で樟脳を精製したニセ物で輸入物の竜脳では一番安いもの
でした。これに対して、日本での精製品は片脳または反脳と呼ばれました。
元々、竜脳の中で最上級品が「梅花片、あるいは氷片脳」と呼ばれていたので
名前で混乱を来たし、幕府は長崎大村町に唐和竜脳座を設け統制していました。
日本では、樟脳の科学的な分析は宇田川榕庵が行っています。『舎密開宗
(セイミカイソウ)』(1835年)の中で樟脳は精油に似ているが硝酸を加えると
燃焼しないで樟脳酸になる、また樟脳は発揮性があって、アルコール、
エーテル、固油、精油に分けられ、アルカリとは化合しない。点火すれば
よく燃えて、成分は水素・炭素・酸素の三元素であると述べています。
確かに樟脳に硝酸を加えて蒸留させることを8回繰り返すと樟脳酸になりますし、
樟脳の構造式は、C10H16O で表されます。
<後に続く・・・・・・。>
230 :
ラムセスX:02/04/12 17:12
【正解47】 樟脳(の続き)・・・・・・
>>229 更に、明治維新後、樟の栽培が自由になって九州を中心に四国から紀伊、
伊勢、駿河、伊豆と各地に樟脳の製造業が興りました。また、19世紀には
もう1つ別の使い道が生まれました。セルロイドです。セルロイドとは
初期のプラスチックで、このセルロイドの原型がニトロセルロースと呼ばれる
木などの繊維を硝酸で作用させてできるもので、19世紀には知られていましたが
加工しにくく割れやすいという特徴がありました。そんな中1863年、ビリヤード
製造業者が象牙に代わる新しいボール素材を見つけた人に賞金を出すと発表
しました。これに目をつけたアメリカの印刷業者ハイアット兄弟がニトロ
セルロースに樟脳を混ぜてセルロイドを作って見事、ボールを作ったのです。
このセルロイドと言う名前は1872年にセルロイドの製造会社を兄弟が作った
後に命名されました。
1855年にイギリス人は、台湾の樟に注目して輸出させていましたが
日清戦争後(1895年)台湾を領土化した日本は後藤新平の手を借りて、樟脳を
専売化しました。1903年には台湾産の樟脳生産量が世界のシェア90%にも
なりました。日本における専売制は1962年まで続きました。
英語で「カンファー」と呼ばれるようにカンフル剤の原料にもなる樟脳は、
最近は『リン酸緩衝液上での樟脳酸運動の数理モデル(2001年 龍谷大学)』
のようにまだ研究の対象になっています。因みに、クスノキを「楠」と書く
ことがありますが。この楠は中国の四川省に自生するタブノキ属の植物で
クスノキではありません。クスノキはニッケイ属です。「樟」と書きます。
また耐水性から厳島神社の鳥居にも使われています。
231 :
ラムセスX:02/04/12 19:19
【正解49】 体毛を剃る・・・・・・
>>208 古代エジプトにおいて神官の役割は、特に古王国時代や中王国時代には
神殿に専従して仕事をしていたわけではなく、単に神殿に奉られていた
神の像を世話することをしていたのです。人間と同じように毎日食事や衣類を
神は必要と考えていたからです。古代エジプトでは元々、ファラオだけが
神に仕える特権があったのですが、実際は大司祭にこの仕事は委任されました。
大司祭はまた、その下の神官達の補佐を受け活動していました。
彼ら神官は神殿の経済活動の中心になり、彼らの下の神官はまた、雑多な仕事を
していたのです。
神官の中には専門的な仕事をする人もいました。例えば、祭礼が行われる時間を
決める神官や読み書きを教える神官、神の言葉を朗唱する神官などです。
これら神官には厳しいルールがありました。ヘロドトスによると、
神官になるには割礼を済ませておかなければならないとしています。
これは清潔を重んじた為です。また、シラミやその他不潔なものがつかないよう
に3日ごとに全身の体毛を剃りました。例えばテーベにあるインヘルカウの墓の
壁画(第20王朝 前1160年頃)にもそれを見る事ができます。
ギリシャから来たクニドスのような外国人もその対象になりました。
また、食べ物の規制もあってブタやヒツジ、ペリカン、豆、塩などが食べられ
ませんでした。結婚は普通にできましたが、ディオドロスによれば例外は
ありましたが、基本的には1人しか持つ事は許されませんでした。
そして、神殿に入る前の数日間は性交渉は禁止され、神殿内での性交渉も
禁止されました。また、性交渉の後は必ず沐浴をしなければ神殿に入る事が
できず、水によって汚れを落とし生命の象徴の水を得ることによって、
活力が与えられると考えたのです。
神官の服装も清潔さから亜麻糸で作られた服を着て、庶民が裸足だったのに対し
てパピルス製のサンダルを履かなければなりませんでした。位の高い神官は
ヒョウの皮を身に着ける特権がありました。
しかし、1年中仕事をしていたわけではなく、4つのグループが3ヶ月交代で
仕事をしていました。これをギリシャ語で「フュレ」といいます。
そんな神官も新王国時代には相当、力を持つようになりました。
第18王朝アメンヘテプ3世の時代、カルナクのアメン神殿やルクソールの神殿が
増築され、王国の繁栄による富が集まって神官が力を持つようになると、
横暴を働くようになりました。これに対し、王は慣例を打破して、ナイル河の
西側に人工の池を備えた王宮を建築しました。また、王妃のティイを平民から
選んだ事やその両親の墓を王家の谷に作ったり型破りな行動に出ました。
またアメン信仰に代わって太陽神のアテン信仰を支援して神官達に対抗しました。
次のファラオであるアメンへプ4世は遂に、アメン神官団の横暴さに業を
煮やし、太陽円盤で表される太陽神アテンを絶対神とするとしたのです。
カルナクのアメン神殿にアテン神殿が建立されました。この宗教改革の後、
更に治世5年目には名前をアメンヘテプ〔:アメン神は満足するという意味〕
からアクエンアテン〔:アテン神の栄光という意味〕に改名しました。
政治の中心地もテーベから中部のテル・アル=アマルナに移し名前を
アケト・アテン〔:アテンの地平線〕と変えたのです。王妃は父親の
アメンヘテプ3世に習い平民から迎えたと言われています。
その王妃がネフェルティティです。しかし、王の行動は平民にはついていけず、
一度も海外遠征をしないばかりか、ヒッタイトに一部ながら領土を奪われて
しまったほどです。更にエジプトに忠誠を誓っていた国々がヒッタイトの
影響を恐れ、援軍を頼んでも派遣しなかった為に植民地のほとんどが離反
してしまいました。このようなことで王の一神教化は10年程で終わっています。
この時代はアマルナ時代とも呼ばれ、美術などの芸術もそれまでのルールとは
違った型破りなものが登場しています。
その後、スメンクカーラーの後にファラオになったツタンカーメンの時代に
王が13歳の時にアメン神の復興を宣言しテーベが賑わいを戻したので、
アメン神官の力も盛り返しました。その力はしばらく続くことになります。
232 :
ラムセスX:02/04/12 19:51
【ヒント】・Q43は、クセノフォンがペルシャ地方ではこれを使っていると
書いています。日本では幕末、下級武士たちが内職して作るように
なったものです。
・Q44は、中国ではサソリの毒消しに利用されたり、
沖縄でも薬として使われ、これを煎じて飲むとマラリアに効くと
されました。心理学者のユングは夢にこれが現れたら、これは
自分自身の投影と解釈できるとしています。
・Q45は、ある生き物を描いています。
・Q46は、何かを塗るというわけではありません。
・Q48は、当時の発明品にヒントがあるようです。
・Q50は、麻酔もインカにおいては発達しましたが、かつてこのスレで
紹介したので違う物を考えてみて下さい。
>>13 内科か外科かと言えば内科的治療です。
・Q51は、私達は今は遊びとしてするもので、古くはメソポタミア時代
にはありました。新大陸にもあってメキシコのトトナカ文化
(5〜16世紀)にも遺物が出土しています。日本では大陸から伝わった
と思われ、平安時代の初期には行われています。
問43 傘
問44 イモリ
問48 電気に関係あることでしょうか? 発電機
問49 書かなくてよかった。問題文に「…数日間は性行為は禁止…」とあったから、てっきりアレだと…
問50 虫くだし
問51 冬至夏至に関係しそうな遊びだから 影踏み でもヒントに出土品ってあるからなあ
【問題51】
影踏みで無いとなると・・・双六でしょうか。
【問題43】の回答
団扇の類ではないかと・・・。
236 :
世界@名無史さん:02/04/12 22:03
問題43の答え
造花。
ホンコンフラワーって言いますしねー。
(自信なし)
237 :
ラムセスX:02/04/12 22:39
残念ながら答えていただいたものは全て違います。
Q51の名前の語源はポルトガル語にある考えられます。
他に、日本の方言としては「イサ」「エンザモンザ」「インサンブサン」
などとこれを言うそうです。
238 :
世界@名無史さん:02/04/12 23:13
【問題51】
かるたじゃないかな・・・自信ないけど。
239 :
ラムセスX:02/04/12 23:40
>>238 違います〜。
外で遊ぶものです(^o^)
【問題43】の回答
人形かな?
241 :
ラムセスX:02/04/13 00:05
>>240 違いますー(>_<)!
Q43で、幕末の武士が作った理由は、大砲が戦術に登場するとこれが
欠かせなかった為です。また、天正少年使節団がアルカラ大学で
これを寄贈されたそうです。
242 :
世界@名無史さん?:02/04/13 01:12
Q43 花火
Q44 天道虫かと思ったけど、やめて蝶々。
Q51 サッカー
243 :
世界@名無史さん?:02/04/13 01:25
>花火ってやっぱへんだな
>蝶々がだめならスカラベ
>インカだったか、南米のどこかの文明では誉れ高き戦士たちが死ぬまでサッカーを
やっていたと小耳に挟んだことがあります。
【問題43】の回答
手袋・・・自信なし。
【問題43】の回答
しゃぽん玉・・・かな?
>>245 「問題51の回答」の間違いです。
申し訳ありません。
【問題51】
日本に伝来した野外でやる遊びという事は、蹴鞠でしょうか。太陽に見立てたのでは。
248 :
世界@名無しさん:02/04/13 13:53
素晴らしい良スレだと思いますが、答えがまったく分かりません・・・
解説読んで「なるほど」と思って終わっている身です。
249 :
ラムセスX:02/04/13 17:42
>>244 お見事ーッ!! 問題43は【手袋】で正解で〜す!解説は後でします。
>>247 答えは違いますが正解の遊びは、儀式としては太陽信仰と深く関わりがあります。
インドでは冬至にする事で、日照時間が最小となる太陽に再び力を持ってもらえる
ように力を与えるという事と、その年の豊穣を祈る意味がありました。
儀式では祭りを司る神官がそれを行っていましたが、太陽を男と考えていたので
女性がこれを行って太陽と結婚するという‘聖婚’の考えもありました。
現にグプタ時代の絵画には女性がこれをしている絵が出土しています。
中国でも女性が行っていました。
ヨーロッパでも女性が行い、ギリシャやイタリア、スペインなどでは
夏至かクリスマス(元々は冬至)にしていました。
沖縄の宮古島でもアワの収穫が終わってする祭りで、女性が海水に浸かって出て
晴れ着に着替えてからこれをするという習慣があります。
250 :
世界@名無史さん:02/04/13 18:11
問題51は
すごろくですか?
251 :
ラムセスX:02/04/13 18:26
>>250 インドと言えば駒やサイコロを使った双六や将棋・チェスの類を連想しますが
違います。私達は外で遊びます。
252 :
ラムセスX:02/04/13 20:32
【正解43】 手袋・・・・・・問題は
>>208 第二次世界大戦後、中国では占領地区の扱いをめぐって国民党と共産党の
対立が再び激化し、遂に1946年7月国共内戦に入りました。アメリカは国民政府を
一貫して支持したのに対し、香港の宗主国イギリスは経済的な繁栄が唯一の
関心事であったので、どっちに付くというわけでなく中立を保っていました。
両政権どちらとも交渉可能な関係にあったわけです。
状況は共産党が有利になっていましたが、そんな中イギリスはどちらに付くか
決断する時がやってきます。それが1949年4月19日に起こった「アメジスト号
事件」です。これは、解放直前の南京で駆逐艦コンソートの補給切れを
助けるべく上海を出たフリゲート艦アメジスト号が、人民解放軍の砲撃を受け
座礁し、今度コンソートがアメジスト号を助けようとしましたがやはり、
人民解放軍の砲撃を受け失敗した事件です。この事件で共産党は
「イギリス艦が人民解放軍の防衛地域に入って発砲し250人を死傷させた」と
非難しました。イギリス側は共産党の考えを認める結果になって、4月25日
イギリス外務省が「共産党政権を事実上の政府と認め、友好関係を確立したい」
と声明したのです。
その後、人民解放軍が上海や南京を解放すると、香港は大陸との貿易が
本格的に戦後、再開されるのではと期待しました。現に、上海市軍管会と
人民政府は上海市貿易総公司と華東区国外貿易管理局を設立し、香港と解放区間
の貿易は進展するように見えました。
しかし、国民政府はイギリスが、香港を解放区への軍事物資供給の為の基地に
していると非難し、遂に1949年6月26日午前0時から、解放区沿岸の武力封鎖を
実施しました。
この結果、上海だけでなく厦門や汕頭との直接の貿易が難しくなり、香港を
通じて行われるようになったのです。「中継貿易」地点となった香港ですが、
かえって経済的には効果が出ることになりました。
1949年10月1日、中華人民共和国の成立が宣言されました。10月15日には
蒋介石率いる国民党政権は重慶に追いやられ、11月30日には政府機関を成都に
移しました。その後台湾の台北に「遷都」するのは12月7日の事です。
中国の新リーダー周恩来は、香港を敢えてイギリスに支配させ続けました。
その目的は主に、中国の封じ込め政策を取っていたアメリカをけん制すること
です。また、東南アジアに展開していた、華僑に対する配慮もありました。
更に、香港の経済的な効果にも期待していました。これは1949年7月に
「向ソ一辺倒」を表明して、共産党はソ連に忠誠を誓っていましたが、
1950年2月にソ連と結んだ「中ソ友好同盟相互援助条約」では、ソ連からの
援助がアメリカのドルで3億ほどの借款しか得られなかった為に、ソ連以外で
経済的に得ることのできる国や地域として香港を選びました。そのために
中国にとって、この事に於いては香港の資本主義は絶対必要なものだったのです。
周恩来は、香港を『東南アジア、アジア、アフリカ、中南米及び西側に通じる
窓口となり、世界を相手にしたときの展望台、気象台、前線基地と
なるであろう。アメリカをはじめとする西側陣営の中国封じ込め政策を
打破するための前線基地でもある(許家屯‘香港回収工作’より)』と
述べています。
【後に続く・・・・・・。】
253 :
ラムセスX:02/04/13 20:34
【正解43】 手袋(の続き)・・・・・・
>>252 しかし、そんな香港にもまた転機がやってきます。1950年6月朝鮮戦争が
勃発しました。この戦争のために香港は、中継貿易としての役割が失われ、
違う道を求められました。また、1940年代後半から内戦や革命を逃れるために
大量に中国などからやって来た難民にも悩まされました。人口が大戦後は
60万人程度だったのが50年代には236万人を超えていたからです。
この為、香港政庁は「工業化」で難局を乗り切ろうと決めました。労働力は
難民達がいましたし、彼らの中には資本家や技術者などがいたので
好都合だったのです。こうして、中継貿易型から軽工業による加工貿易型に
転換しました。
香港が他の東南アジア諸国と最も違っていた点は、当初から輸出という考えが
上位にあって、域内市場は持っていなかったという事です。
例えば、韓国や台湾の場合は域内に大きな市場があったので、域内の価格を
抑える事が最優先でした。このために、彼らはアメリカ政府の補助を受けた
綿を繊維産業に利用していましたが、このことはかえって彼らの綿製品を
アメリカへ輸出する時のネックになっていたのです。
一方、香港は完全な自由市場で一番安い綿を購入していたために、アメリカの
市場に対してより安い商品を提供できたのです。このようにして
香港の繊維産業を中心とする軽工業は発展しましたが、面白くないのは欧米、
特にイギリスでした。「植民地」の分をわきまえない行動に怒ったイギリスは
1957年、イギリス向けの輸出品に規制をかけました。
また、1952年からアメリカに向けて手袋の生産が始まりましたが、
これが欧米で席巻しました。フランスは自国の手袋をアピールするために
1955年には女性がフランス製の手袋をしている記念切手を販売し、購買を
アピールしました。
手袋は、古くはホメロスの『オデュッセイア』にもバラのトゲに
刺さらないように使っていたと記されていましたし、12世紀頃にはそれまで
親指だけが離れていたものが、今のような5本指のタイプに変わっていったと
されます。幕末は砲術で大砲操作をする上で手袋が欠かせなかったので
下級武士が内職して作り、江戸市中の糸屋や、足袋屋がそれを買い取って
販売していました。維新後、陸軍に軍靴を納入していた西村勝三が、
明治4年にアメリカから納入したメリヤスの機械で製造を開始しました。
また、明治19年の婦人服制が改正され皇后などの女性の皇族も西洋の服装が
自由に着られるようになったので、女子の手袋も礼装の一部となりました。
こうして、急成長した香港はその後に雑貨、オモチャ、電気製品などの
分野でも進展し、21世紀に入って更なる成長が期待されています。
因みに、プラスチック造花の代名詞にもなったホンコン・フラワーは
1950年代から作られ、1959年には日本へ輸出され始めています。
【問題51】の回答
ビー玉でどうでしょう?
ビードロってポルトガル語が語源ですよね?
255 :
ラムセスX:02/04/14 19:54
>>254 違います〜。
中国では『鞦韆(しゅうせん)』と呼ばれていました。寒食という冬至後の時期に
女性が行っていました。インドでの言い方は今の私たちのいいかたに似ています。
256 :
世界@名無史さん:02/04/14 20:02
なるほど、
ブランコですか。
257 :
ラムセスX:02/04/14 20:06
258 :
ラムセスX:02/04/14 23:33
Q51の解説は火曜になります。
他の問題のヒントを・・・・・・。
Q44:古代ローマではリッピヌスという人物が人工的に育てることに
成功しています。エサはワインを煮詰めたものを与えていました。
Q45:なにかある生き物をバラバラにした絵で「団結か死か」とうテーマが
書かれていました。
Q46:ほこり等の小さなゴミが付きにくくしようと、した事です。
道具は要らない方法です。
Q48:エッフェルは塔を造る前には世界各国で橋などを建設していますが、
この時に「建設の敵」ともいえる何かに関心を持ちました。
Q50:これ自体は他の中南米の古代文明でも行われていたようです。
【問題48】の回答
気象観測施設かな?
260 :
世界@名無史さん?:02/04/15 00:13
Q44:蚕じゃだめですか?
【問題48】の回答
わかった。風洞実験施設だ。
風は橋の大敵だし。
すいませんが、259は取り消しということで。
259のカキコをした直後にひらめきました。
A45:バッファロー?
まったく思いつきません。
【問題44】蛭かなぁ〜??
【問題46】気流でしょうか?
Q48は風洞施設に賛同です。
【問題44】の回答
蛇・・・かな?
265 :
ラムセスX:02/04/16 23:04
【正解51】 ブランコ・・・・・・問題は
>>208 ブランコの起源はメソポタミアと考えられます。紀元前3000年頃のマリの
遺跡から、フランスの考古学者パルローが豊穣の女神がイスに座って、その
イスに紐が通してあり、何かに懸かり揺する仕掛けになっていた遺物を
発見しました。彼は、これは豊穣の儀式に関係すると言っています。
このブランコはその後、インドを始めとするアジアへ、一方ギリシャ・ローマを
中心としたヨーロッパに分かれて伝わっています。
インドでは、紀元前2000年頃にヒンズー教の儀式として行われていました。
「プレンカ」と呼ばれるこの儀式は、毎年冬至の日に儀式を行う祭官が、
東西の方向に揺れるブランコに西側から入ることから始まります。そして、
東に向いてブランコに乗る板に腰を下ろします。板は、地面からこぶし一つ分
程度の高さに位置していて、祭官は右の手のひらで板と地面に触れた後、
「太陽男神は、大地女神と交わり給うた」と宣言するのです。この儀式には
次の2つの意味が考えられます。1:太陽男神が1年に2回危機に直面する
一方の極、つまり、日照時間が最も短い冬至に、太陽男神とみなされたブランコ
を揺り動かす事で再び力を与えるという事。2:太陽男神が大地女神と交わる
事でその年の豊穣を予祝するという事です。
また、このような儀式は別として、ブランコは太陽男神なので、女性がブランコ
に乗って‘聖婚’を果たすという考えも生まれました。今でもベンガル地方では
クリシュナ神を祭る春のドーラヤートラ祭りでブランコが作られ、
日の出、正午、日没の3回に渡ってクリシュナ神の像をブランコに乗せて
静かに揺すり祭るのです。
紀元前後には東南アジアへ伝わり、タイでは記録に残るものとしては
アユタヤ王朝第9代ボロムトライロカナット王の時代(1448〜88年)に始まった
とされます。それ以来、王室で僧侶が行う儀式として今日に受け継がれています。
儀式はシヴァ神の為に屋内と屋外において行われ、屋外では何と高さ21mにも
なるブランコが使われます。屋内の儀式は「ヤ・ハンサ」といい、シヴァ神が
地上に降りてから天上に再び帰るときに乗るものとされます。これらの
ブランコも東西に揺すられるように設けられます。
中国では「鞦韆(しゅうせん)」と呼ばれ、寒食の時に女性が乗りました。
寒食とは、冬至後105日目で火を絶って冷食をすることを言います。
元来は春の太陽の蘇りを象徴した改火儀式でした。鞦韆は春の季語として
使われ、蘇東坡などが詩に用いています。
日本では鞦韆という言葉が初めて登場するのが『経国集(804年:天長4年)』で
日本では元々、「由佐波利(ゆさはり)」と言いました。これはゆさゆさと振ると
いう事を意味する動詞、「ゆさは(ぶ)る」から来ています。方言で「ゆうさ」
「えんざもんざ」「ゆらだこ」などと呼ばれるのはこの為です。また、私達が
言うブランコはポルトガル語の「balanco(バラソン)」から来ています。
江戸時代に「ぶらっこ」「ぶらんど」などと呼ばれるのはこの為です。
<後に続く・・・・・・。>
266 :
ラムセスX:02/04/16 23:05
【正解51】 ブランコ(の続き)
>>265 一方、ヨーロッパの方を見ると、クレタ島やギリシャ地方から壺に描かれた
女が乗ったブランコが描かれています。古代のヨーロッパでも女や豊穣の意味が
込められています。
古代のアテナイの伝説を紹介します。
【バッカスがぶどう酒の楽しさを人間に教えるために、アッティカの
イーカリオスという男の家に泊まった。そこで彼にぶどう酒の造り方を教えて、
他の人たちにも飲ませるように奨めた。そこで彼は犬のマイラを連れて外へ
行くと、羊飼い達に会った。イーカリオスが酒を飲ませると、羊飼いの何人かは
飲みすぎて死んでしまった。他の羊飼いは、イーカリオスが毒殺したと勘違いし
彼を殴り殺してしまった。マイラはイーカリオスの家へ行き彼の娘の
エーリゴネーを父の死体のとこへ案内した。彼女はそれを見ると、アテナイ人が
父と自分の仇を討たなければ、アテナイの娘達は自分と同じ死に方を
するであろうと、呪いながら木に首をくくって死んでしまった。
遂に神の宣託が、首くくりの原因が彼女の呪いであることを人々に教えた。
そこでアテナイ人は父と娘の死体を探し出し、彼女をなだめるために
ブランコをした。また同時に、ぶどうの季節になると初物を父と娘に供えた。】
以来、古代のアテナイでは春のバッカス祭りにブランコをしていたといいます。
新大陸でも、メキシコのベラクルス州にかつて栄えたトトナカ文化
(5〜16世紀)から遺物が出土しています。これは、一つの板に女の子が仲良く
並んでいるもので左の少女の右手と板の左端、右端、右の少女の左手の順に
紐を通してぶら下がる仕掛けになっていて、少女たちの背中には笛が付けられて
いて、ブランコを揺すると音がするように作られています。
267 :
ラムセスX:02/04/16 23:34
>>261 風洞で正解ですー☆
ただ、仕事が忙しくて、解説が今日書けないので明日載せます。
お見事でした(^○^)
268 :
ラムセスX:02/04/17 19:19
【正解48】 風洞・・・・・・問題は
>>208 ギュスタブ・エッフェルは、エッフェル塔の建設前に世界中に橋などを
建設していましたが、この頃から「風」というものに関心を持っていました。
エッフェル塔の場合は、風速50m/s(秒速50メートル)の強風を想定して
あのようなすき間のある構造になっています。因みに、エッフェル塔の最大の
天敵は風ではなく「太陽の熱」だそうで、真夏には太陽の向きとは反対に
18cm程度傾くそうです。また、逆に真冬の寒さでは15cm程縮まるそうです。
エッフェルは、1909年にエッフェル塔の下に風力研究所を作って、
その中で人工の風を自由に送り込む事のできる風洞を作りました。
直径は1.5m、全長は3mです。このエッフェルの風洞が意外なところで
活躍しました。それが、飛行機の研究と実験です。
1903年、ウィルバー・ライトとオーヴィル・ライトの兄弟が自分達で作った
複葉機‘キティ・ホーク’で試験飛行に成功したのを皮切りに、1908年には
66.6kmの距離を1時間31分25秒で飛行し、飛行機の実用性を決定付けました。
これ以降も彼らはより安定した飛行機を作ろうと研究と実験を重ねますが、
その時に役立ったのがエッフェルの風洞でした。
また、1910年にはこの風洞を使って、プロペラの研究を開始し立て続けに
5000回以上の実験をしました。しかし、翌年にパリ市のシャン・ド・マルス地区の
整理の為に、風洞を取り払わなければならなくなりました。
そこでエッフェルは、パリの16区オートゥイユ地区のボワロー通り67番地で、
新たに直径2.5mの風洞を作り、1912年3月19日に完成式が行われました。
この風洞は30m/sの風を起こすことができ、これが正式に‘エッフェル型風洞’
と呼ばれました。
そして1913年には、アメリカのスミソニアン協会が航空力学を開拓した
エッフェルを称え、ラングレー賞を贈りました。このラングレー賞は、
アメリカの天文学者で物理学者、また飛行機の設計者でもあるサミュエル・P・
ラングレーの遺業を記念して設けられた賞です。ラングレー自身、
プロペラ推進による空気より重い物体の最初の飛翔に成功していますが、
1903年には有人飛行の実験に失敗しています。そんな中、ライト兄弟の
有人飛行の歴史が作られるのです。
そうして、民間の航空路が開かれると航空灯台が作られなければなりませんが、
最初の航空灯台はエッフェル塔ではなく、パリの西方12kmぐらいにある
モン・バレリアン丘陵(標高162m)に作られました。その灯台は直径2m、
光線は300km先まで届くというものでした。しかし、ドイツ軍が占領中に
外してしまいました。戦後、フランス政府は航空灯台の復活に当たって、
エッフェル塔を選び回転式灯台としてエッフェル塔に新しい役割が加わることに
なりました。
<後に続く・・・・・・。>
269 :
ラムセスX:02/04/17 19:20
【正解48】のつづき・・・・・・
>>268 因みに解答の中で、気象の研究というものがありましたが、エッフェルは
その他の気象にも興味を持っています。エッフェルはこの塔を科学的に
利用しようと思っていたのでしょう。彼の著書『1900年のエッフェル塔
(La Tour Eiffel en 1900)』の中で、「エッフェル塔は、衛生及び科学発展に
貢献するすばらしい気象観測所の役割を果たすことになろう。
観測の対象になるのは気流の強さと方向、空気中の科学分子の構成、静電気、
液体の比重測定、高度による気温の変化などである」と書いています。
そして、実際彼は塔を使って実験し、塔の頂上の気温は、日中は地上に比べて
いつも低いが、夜間は頂上の方が温度が高い事が判明しました。
そして、日中に頂上の気温が地上より高くなった場合は、翌日は雨が降る
という天気予報のようなことまでしています。
更に、塔の4階は4つの部屋があって、一つを自分の部屋にして残りを
学術研究に使えるように科学者たちに提供しました。3つの部屋はそれぞれ、
気象観測・天体観測・生物学的観測に使われるとエッフェルは発表しました。
そして、その運用には自分はあまりタッチせず、専門の科学者に任せたのです。
これらの部屋で例えば、天文学者のジュール・ジャンサンは、スペクトル及び
静電気の観測と研究を行い、科学者のルイ・ポール・カイユテは、当時
世界最大の水銀圧力計を設置して、ガスと蒸気の圧縮に関する研究を行いました。
また、エッフェルの義弟で医師のエノックは、高度300mでヘモグロビンによる
酸素の吸収状況を研究しました。彼はまた、塔に登ると百日咳をはじめ
呼吸器官系の障害、その他食欲の不振を和らげる効果があると発表していますが
これはどの程度信用していいか科学的な裏づけは発表されていません。
270 :
ラムセスX:02/04/18 13:46
では、正解が出なかった残りの問題の答えです。
【正解44】 カタツムリ・・・・・・問題は
>>208 中国の『本草綱目』によると、カタツムリやナメクジは貝類ではなく、
虫の仲間にされています。また、そのヨダレを武器にしてムカデやサソリなどの
毒を持った生き物を制すると考えられていたので、これらに刺された時は
カタツムリを擦って塗れば治ると書かれています。
そして、『酉陽雑俎』には唐の睿宗(李旦)が帝位に就く前に、寝室の壁に付いた
カタツムリがヨダレを出して、「天子」という字を形作ったという珍事が3回も
続きました。そこで睿宗は、後に皇帝になった時に金と銀で作ったカタツムリを
数百個も作らせて供養したといいます。
また中国では、カタツムリを薬として使い、脱肛や痔などには著しく効くと
されました。
日本でも、本草綱目の影響を受けて『和漢三才図会』でも虫の仲間と紹介し、
薬として効果あると記しています。沖縄では、煎じて飲むとマラリアや頭痛に
効くとされました。
一方ギリシャのアリストテレスは、カタツムリを貝類の仲間とし、
古代ローマでは既に養殖も行われていました。これを始めたのが、トラキア地区
に住むフルウィウス・リッピヌスでカエサルの内戦(前49〜前48年)より少し前の
ことといいます。当時はさまざまな種類が知られていて、それを彼は仕切りを
作って種類別に育てました。エサにはワインの新酒を煮詰めたものや家畜飼料用
のコムギを与えていました。
中世になるとキリスト教に結びつけられ、のんびり歩く様子から怠惰の象徴と
され、怠惰を全ての罪の源と考える当時の人たちは、罪人になぞっています。
しかし、また逆に露を吸うだけで生きている生物と考えられ、処女懐胎の
真実性を保証する生き物と信じられていたのです。更には目が見えない
無感覚な生き物という捉え方から、生と死の境界の象徴となり、天の川を
カタツムリが這った跡に例えます。
また、ヨーロッパでは5月1日にカタツムリの角をつかんで肩越しに投げると、
一年中幸運でいられるという発想がありました。イギリスやアイルランドで
ハロウィンの日に女の子たちがカタツムリやナメクジを捕まえて、這わせて
ヨダレの跡をつけさせると、好きな人のイニシャルを描き出すといいます。
271 :
ラムセスX:02/04/18 14:41
【正解45】 ヘビの絵・・・・・・問題は
>>208 アメリカ大陸にある13の植民地のうちいくつかが集まって議会を開く
ことは既に17世紀に行われています。1643年にはネイティブ・アメリカン
に対する脅威を無くすために、攻守同盟と各植民地間の友好同盟として、
マサチューセッツ/コネチカット/プリマス/ニュー・ヘブンの4つの
植民地によるニューイングランド連合が成立しました。
この連合は1684年には消滅していますが、相当の効果はあったようです。
次いで1754年6月には、フランスに対する共同防衛と当時フランスと仲が
良かったネイティブ・アメリカンのイロクォイ族との問題処理の為に、
イギリス政府が植民地会議を開くように命じました。これに呼応する形で
先のニューイングランドの4つの植民地とメリーランド/ニューヨーク/
ペンシルバニアの7つの植民地はそれぞれ2人ないし5人の代表者を
ニューヨークのオルバニーに送りそこで会議が開かれました。
この会議の代表を務めたフランクリンは「オルバニー連合案」を提案、
満場一致で採択されました。
このオルバニー連合案は、各植民地による連合政府を作ってその総督は
国王が任命します。そして議会は、各植民地議会から出す議員で構成され
ますが、その議員の数は各植民地から連合政府に納める金額の比率に
拠って決まる、というものでした。
そして連合政府の権限は、ネイティブ・アメリカンの問題処理、
新しい開拓地の創設とその管理に限ってそのために必要な税金を
植民地の人から直接徴収できるというものでした。
しかし、各植民地とも連合政府に与えられた権限が広すぎ
「人民の自由と特権を侵しかねない」との理由でこれを承認せず、
本国のイギリスも植民地に権限を与え過ぎている、ということで
この案は日の目を見ませんでした。
このオルバニー連合案を提議している時に、フランクリンは自分が
関わっている『ペンシルバニア・ガゼット』紙に「結合か、死か
(JOIN, or DIE)」という題を付け寸断されているヘビのマンガを載せ、
各植民地の連結の必要性を示唆しています。この寸断されているヘビの
一つ一つにN.Y(ニューヨーク)やM.(マサチューセッツ)など各州の
名前がそばに記されています。このマンガがアメリカ新聞史上最初の
マンガとされています。
やがて、本国イギリスの重商主義に反対する植民地の人たちが独立の為に
手をつなぎ立ち上がります。彼らの夢が世界で認められるのが
1783年の事です。
272 :
ラムセスX:02/04/19 00:15
【正解46】 壁面の上部を傾けた・・・・・・問題は
>>208 ジュリアーノ・ディ・メディチの死去―。これはミケランジェロに大きな
転機をもたらしました。レオナルド・ダ・ビンチがシスティーナ礼拝堂で
『最後の審判』を描くために1513年からローマに移り住んでいましたが、
ダ・ビンチを支えた彼の死はダ・ビンチにとって大きなショックでした。
それ故ローマを去ってしまったのです。このために彼に代わって大作を
作ることになったのがミケランジェロという事になったわけです。
作品が作られたシスティーナ礼拝堂は、1475年に着工されて83年に完成
しています。法王シクトゥス4世の時代で、元々はパラティナ礼拝堂と
呼ばれていました。1483年8月9日には最初の礼拝が行われています。
まず最初に、ここの正面向かって左側の壁面にモーゼを中心とした旧約聖書の
物語が、反対の右側の壁面には新たな王、イエスを中心とした新約聖書の物語が
対応するように描かれました。そして後に天井には旧約聖書の世界(創世記)と
正面祭壇画に『最後の審判』が描かれることを予想させました。
元々は彫刻家であったために製作を拒否していたミケランジェロでしたが、
遂に1534年ローマへ来て『最後の審判』の製作に取り掛かります。
そしてその前には、1508年から12年にかけて『創世記』を作りました。
ユリウス2世の命で作られた『創世記』は、神がこの世を創ってその後に
アダムとイヴの創造や彼らの追放、更にノアの箱舟とそれの大洪水といった
聖書上のできごとを連続して描いたもので礼拝堂の天井で見る事ができます。
因みにユリウス2世は、自分の壮大な墓をミケランジェロに作ってくれと
頼みましたが、間もなく死んでしまい、計画は立ち消えとなってしまいました。
『モーゼ像』はその墓の一部に元々なる予定だったといいます。
一方、『最後の審判』は最後の審判が下される日に、生きているものも
死んだものも神の前に連れて来られ、「○か×か」の審判が行われるという
ものがモチーフになっています。「×」なら地獄行きになるもので、
この絵では「×」になった人たちが描かれています。
ペルジーノの『キリストの受難』の上に一部重なるように描かれた
『最後の審判』は、ミケランジェロが末永く残るように作られたようで、
彼は絵や彫刻、建築などをする時には多くのスケッチやデッサン、モデルなどを
作るのを習慣にしていましたが、今回も何度とスケッチをとって、その構想を
練っています。そうして、今度は壁を良質なレンガで作り直して、高さが20mに
もなるものができました。この壁画の上部はゴミやホコリが付かないように
約50cmほど前に傾いています。これは、ミケランジェロのアイディアです。
更に、セバスチアノ・デル・ピョンボがこの絵の為に用意しておいた油絵の具を
使わず、正統なフレスコ画法に頼りました。これはダ・ビンチが『最後の晩餐』
で油絵の具を使った時、あまり良くない結果になった事やラファエロや
彼の弟子達も同じく油絵の具で失敗していたからです。
そして、この『最後の審判』がだいたい4分の3ほど完成していた頃、
法王パウロ3世はビアジオ・ダ・チュゼナを率いて様子を見に来ました。
その時に、ビアジオがこの絵について文句を言って帰っていきました。
ミケランジェロは彼の顔を記憶に基づいて絵の中の地獄の‘かしら’の
ミノスの顔に描きました。ミノスの両足には大きなヘビが巻き付いています。
この顔は今でも見る事がもちろんできます。
こうして、1541年12月25日この作品は完成しました。この完成は単に作品の
完成を意味するだけでなく、『モーゼの物語』『イエスの物語』『創世記』と
共に合わさって『神と人間の契約の物語』を作り上げたのです。
273 :
ラムセスX:02/04/19 01:06
【正解50】 浣腸・・・・・・問題は
>>208 インカ帝国では、健康は単に個人的なものだけでなく、
国民が農民として、納税者として、また兵士としていかに国に役立つか
を考える基準として、健康や医療は国家にとってかなりの関心事でした。
インカのおなじみの頭蓋骨を開く手術は特に難しい手術というわけでは
なかったらしく、ペルーでは開頭手術された頭蓋骨は1万件以上
発見されています。19世紀のフランスの人類学者ピエール・ポール・
ブロカの調査の結果、この手術を終えた患者が無事に生き延びていた
事がわかりました。これは手術を頭蓋骨の切り口に骨が再生している
跡を確認したためです。何と、頭蓋骨を切り取った後の穴は銀の板
あるいはカボチャの皮でふさいでいました。
更に、患者の多くは何度もこの開頭手術を行っていたようです。
何故、こんなにも頻繁に手術が行われていたのかというとこれは、
インカの戦闘法と関わりがあるようです。
インカでは星型の石の頭がついた棍棒で殴りあうのが主な戦闘法
でした。ですから、頭にこんなもんが当たれば一撃でやられてしまう
わけです。インカの外科医達は頭に受けた打撃の為に体が麻痺して、
何よりも割れた頭蓋骨の破片で脳の組織に与える圧力の為に、人体が
麻痺することを知っていたようです。その為に頭蓋骨を開いて、
骨の破片を取り除こうとしていたと考えられます。
一方、内科的な治療には浣腸がありました。
インカでは、消化不良で苦しんでいる患者の肛門に筒を入れて、
そこへ浣腸液を流したのです。また、医療だけではなく儀式としても
浣腸をしていたようです。浣腸に使われたのはアルカロイド系の
植物の種などが使われたようです。
浣腸はインカだけではなく、マヤ文明では幻覚性のキノコを肛門から
浣腸する儀式が神官によって行われている事が土器の絵から分かります。
また、アステカ文明でもビブダデニアと呼ばれる植物の実を
エキスにして、これを浣腸液に混ぜ使っていました。これは、
幻覚作用を楽しむ目的があったようです。
新大陸だけでなく浣腸は古く他の地域でも行われています。
インドの「ヴェーダ」にもまた、アッシリアのタブレットにも
記されています。英語で浣腸の事を「enema」といいますが
これは古代ギリシャ語の「注入する」から来ています。
古代エジプトでも行われていたようで、紀元前1500年頃のパピルスには
「腹部の疾患の治療に浣腸が使われている」と残っています。
またヘロドトスは、「エジプトの人たちは全ての病気は、
足を伝わり体内に侵入するという考えを持っており、
毎月3日間連続で浣腸を行い病気除去に努めた」と記しています。
古代エジプトで浣腸を行っていた目的は〔1〕腸の通りを良くする為
(水・ビール・牛乳を浣腸液として使用)〔2〕便を柔らかくする為
(油・ハチミツ)〔3〕積極的に病気を治療する為(香料を配合したもの)
が挙げられます。
初めは医師などの専門家が行っていたようですが、器具の改良で
その後一般的となってルイ13世は1年に212回、またルイ14世は
生涯に2000回も行っていたようです。そんなフランスでは、19世紀に
なると美容の効果を得るために乱用されていたらしく、浣腸器を
仕込んでよその人からはイスに座っているようにしか見えない
浣腸用のイスなども作られました。
日本では、西洋医学が広まるようになる江戸時代半ば頃から
行われていたようで、すでに浣腸液にはグリセリンが使われていました。
274 :
ラムセスX:02/04/20 21:00
久々です。どうぞよろしく(^^)
〜ユダヤの王を助けた万能薬?〜
【問題52】ユダヤの王ヒゼキア(前725年〜前697年)は病気で瀕死の状態であった。
しかし、ある作物を治療に利用したところ、3日で病気が治り、15年も
寿命が延びたという。また、フェニキアの港町ウガリットでも
病気の馬の治療に使われた。原産地がアラビアや小アジアといわれ、
日本には寛永年間(1624年〜43年)に伝わったというその作物とは何!?
〜ネアンデルタール人も使った仏教道具?〜
【問題53】仏教の世界では出家修行者を比丘(ビク)といいます。
釈迦は比丘たちに最初は使うことを禁止させていたが、
かえっていろんな問題が生じたので使うことを許した物がある。
その物の歴史は古く、10万年前のネアンデルタール人も使っていた
という。また、中世ヨーロッパでも使われていた。
では、釈迦が使うことを許した物とは何!?
〜現代によみがえったパルテノン?〜
【問題54】紀元前438年に完成したといわれるパルテノン神殿は、その後
ヨーロッパの建築に大きな影響を与えた。例えば、大英博物館も
これを模倣している。
そして、建築以外でデザインが利用されているものがある。
イギリスを中心に見ることができるそれは何!?
〜ビルマ・ピュー族の3つのミステリー?〜
【問題55】多民族国家として知られるビルマ(ミャンマーと今では言われますが、
ここではビルマで通します。)に歴史を残したピュー族の遺跡には
3つの文化を見ることができる。
1つは‘ピュー・コイン’と呼ばれる銀製のコインのようなものの存在、
2つ目はピュー語で書かれた碑の存在、そして3つ目が王族たちだけが
行っていた習慣の存在である。
この習慣は、後のビルマの民族には受け継がれる事はなかったもので、
それに関わる遺物も遺跡から発見されている。では、その習慣とは何!?
〜儀式に使われるトロピカル・ジュース?〜
【問題56】太平洋地域では、儀式の時や病気の治療などに「カヴァ・ジュース」
というジュースが利用されることがある。このジュースに使われる
「カヴァ」とは、コショウ科に属する植物で、ハワイでは「アワ」、
他のポリネシア地域では「カワ」などと呼ばれることもある。
では、彼らがカヴァの木の根からジュースを作る方法とは何!?
275 :
ラムセスX:02/04/20 21:01
〜イスラム教社会が拒んだナポレオンの「お土産」?〜
【問題57】1811年にエジプトの政権を手に入れたムハマンド・アリは、
文化や教育を西洋式にする為に使節を西洋諸国へ派遣させた。
その後彼は、ある物を取り入れてそれを役立てようとした。
その物はキリスト教社会や仏教社会では肯定的であったのに対し、
イスラム教社会では否定的であった。
かつて、ナポレオンもエジプト遠征する時に、エジプトの人たちに
フランスに対する抵抗感を弱らすために、当時エジプトにはなかった
これをイタリアから持ってきて利用した。
では、エジプトにはナポレオンが初めて持ってきて、
その後アリが西洋の文化・教育を根付かせるために利用した物とは何!?
〜スコットの南極探検の影の功労者?〜
【問題58】ロバート・スコットが南極を探検する時に、地面と大気の電場の変化を
測定する装置を持って行った。この装置は、電場に変化か起きると
装置内に吊るしてある小さな鏡が動いて、その動きを測定するという
仕組みであった。
しかし、電場の変化に対する鏡の動きはわずかであったので、
どれだけ動いたかを正確に測るのに自然界のあるものが利用された。
当時の技術ではなかなか作り出せなかったが、これは簡単に
手に入れる事ができたからだった。では、電場の変化の測定に
利用された自然界のあるものとは何!?
〜シーラカンス、4億年前の謎を破る!〜
【問題59】生物界における20世紀最大の発見―。それがシーラカンスだ。
1938年に南アフリカのイースト・ロンドン港で発見されて以来、
この生き物に対する科学的な研究が本格化していった。デボン紀
(約4億年前)の地層から化石が見つかっているシーラカンスには、
いくつかの特徴がある。
例えば、現生種の鰾(うきぶくろ)には脂肪でいっぱいに詰まっている事
などである。
では、他の魚類には基本的には持ち得ないもう一つの特徴とは何!?
〜ロシアの飲酒はピョートルもブレジネフも悩んだ?〜
【問題60】ブレジネフ時代(1964年〜82年)のソ連では、犯罪の原因を作る飲酒に
頭を悩ませていた。そんな中、ピョートル大帝時代(在位1682年〜
1725年)の禁酒に関する古文書が見つかった。当時も相当飲酒による
犯罪に悩まされていたらしく、そこで何かを使って酒を飲む事を
イヤにさせる禁酒の方法が実施されていた。
では、ピョートルの時代に行われていた禁酒の方法とは何!?
〜NASAを悩ませた聖なる生き物?〜
【問題61】1995年アメリカはディスカバリー号の打ち上げの準備をしていたが、
その打ち上げが中止になってしまった。原因はある生き物であった。
その生き物、古代ローマでは占いにも使われていた。また中国では、
その生き物の生態に引っかけて、これを食べると虫歯が治ると
信じられていた。
では、打ち上げを中止に追いやった生き物とは何!?
〜ネアンデルタール人も使った仏教道具?〜
【問題53】
僕のヒラメキでは* 杖状の木の棒
〜シーラカンス、4億年前の謎を破る!〜
【問題59】
肉鰭(胸びれ、腹びれ、しりびれ、背びれ)
** コレが手足の元カモ?!! **
278 :
初参加です:02/04/21 01:17
【問題53】剃刀(自信なし)
【問題58】水晶(全然自信なし)
【問題59】肺。
ちょっと訂正します。
【問題59】の解答:肺を持っている。
280 :
かちゅ〜しゃで書き込めない!:02/04/21 01:41
【問題54】〜現代によみがえったパルテノン?〜
自動車のフロントグリル。
ロールスロイスのフロントグリルのデザインがパルテノン宮殿のファザードを模して
いる。ついでに言うと、フロントグリルの上のフライング・レディと呼ばれる小像は、
サモトラケのニケのコピーですね。
281 :
tamkakko:02/04/21 09:47
問題57
時計?モハメド・アリ・モスクにはナポレオンか誰かからもらった時計がある。為政者は
よろこび、代わりにオベリスクをあげた、という話をエジプトに言ったときにガイドさん
がいってました。
今回から問題にタイトルがつくようになりましたね。
見やすくてわかりやすくて印象に残ります。
問52 よもぎ
問53 楽器
問54 食器
全部感で出した答えです。
〜ユダヤの王を助けた万能薬?〜
【問題52】
コーヒーでしょうか?
最初は薬として用いられたそうだから。
284 :
世界@名無史さん?:02/04/21 13:52
【問題57】
印刷機ではないかと。
仏典や聖書が古くから印刷されていた話は聞くけど
コーランを印刷したときの話は知らないからなぁ。
285 :
ラムセスX:02/04/21 20:15
>>280、お見事です〜(^o^)!!
⊂正解54⊃ ロールスロイスのフロントグリル(ラジエーターグリル)
古代ギリシャのポリスには必ず神を奉るための神殿があるアクロポリスが
作られました。アクロとは「高い」、ポリスとは「都市国家」を意味します。
つまり、アクロポリスとは都市国家を守ってくれる神の為の神殿が建てられた
‘聖域’だったのです。
アテネのアクロポリスに造られた神殿がパルテノン神殿でした。
第一次ペルシャ戦争後、ペリクレスの民主政治が行われようという中、
彼はフィデアスに建立を命じます。しかし、建設が行われて間もなく資金不足
という問題に出くわしました。そこで第二次ペルシャ戦争後ペリクレスは、
ペルシャの再来に備え各ポリスが出し合った資金が集められていたデロス島に
行きました。つまり、「デロス同盟」の軍資金をパルテノン神殿の建設費に
当ててしまったのです。
基本的に古代ギリシャの大きな神殿を建てる時のルールとしては、
円柱を正面と背面に各6本ずつ、側面にはおよそ12本配置するものでした。
一方、パルテノン神殿は正面と背面だけは6本ずつ、その外周に
もう1列円柱を配置しました。従って、正面と背面で8本ずつ、側面に各17本
計50本の円柱が建ったのです。
因みに建設当初は、正面と背面が16本、側面も16本という事で進んでいましたが
第二次ペルシャ戦争でアクロポリスが焼失し工事が中断され、紀元前447年に
再開されると、今のような形に計画が変更になりました。
この神殿の外周と内側の正面と背面の柱は、ドーリア式と呼ばれる柱です。
ドーリア式は柱の頭に飾りがなく、上へ行くと細くなるのが特徴です。
そして、後室にはイオニア式の円柱が建っています。イオニア式は柱の頭が
渦巻きの飾りがあって、柱自体が細くイオニア地方で紀元前7世紀頃成立した
といいます。
パルテノン神殿は、このドーリア式とイオニア式の2つの様式をもった
珍しい神殿です。また、ドーリア神殿にイオニア式特有のレリーフが
内側の梁に用いられている点でもパルテノン神殿のみ見られる特徴です。
そんな、パルテノン神殿も紀元前438年頃完成しましたが、その後は
ローマ時代はビサンチン教会として、また、オスマントルコ時代はモスクとして
使われました。更に、1687年にはベネチア軍の砲撃を受けて大きく損壊
しました。
時代は進み19世紀の初めには、イギリスのサー・エルギン・マーブルスが
残っていた神殿の彫刻の大部分をイギリスに持ち帰ってしまい、
それは大英博物館に展示される事になりました。
この大英博物館もパルテノン神殿の影響を受けて同じ様式になっています。
また、日本をはじめアルゼンチン、ベルギー、アイルランド、スペイン、
ポルトガル、オーストリア、アメリカの国会議事堂もパルテノン神殿を
まねています。
イギリスはその他、王立証券所や街の公衆トイレなどにもデザインが
利用されていますが、1904年にデビューしたロールスロイスのフロントグリル
にも利用されています。ロールスロイスの生みの親の1人、サー・ヘンリー・
ロイスが神殿のデザインを使おうと決めたといいます。
因みに、日本の法隆寺の真ん中が膨らんだ「エンタシス」という柱の形は、
ギリシャのパルテノン神殿の影響を受けたと最初に考えたのは伊東忠太で、
日本の建築が優れていることを強調するために書いた『法隆寺建築論』で述べ、
彼自身3年という時間をかけてシルクロードを周り検証しようとしましたが、
現在は、建築家や歴史家などの専門家はこの説に疑問を投げかけている人が
多くなってきています。
286 :
ラムセスX:02/04/22 04:14
⊂正解57⊃ 印刷術(印刷機)
印刷の歴史は中国に始まります。拓本などの習慣から興ったと思われる
印刷術は、隋・唐時代に遡れるといいます。これは木製の版で行われていた
整版印刷でした。日本へその後伝わったのですが、現存する印刷物の最古の
ものは日本の物だと20世紀の半ばまで思われていました。
それが法隆寺にある『百万塔陀羅尼経』といわれるものです。
これは『無垢浄光大陀羅尼経』の『陀羅尼』の部分で、764年の恵美押勝
(藤原仲麻呂)の乱の後の平定、大きくいえば鎮護国家を祈念するために、
称徳天皇の勅願で770年頃に作られた物です。
この経は、木製のロクロ引きでできた三重塔の中に収められていて、
その数が百万にのぼった事から「百万塔」といわれるようになりました。
紙の大きさは縦5cm、横15〜50cmです。
しかし、1966年に韓国の慶州の仏国寺で『無垢浄光大陀羅尼経』の全文が
印刷されたものが見つかりました。これが何故、日本の物より古いのかと
言える理由はいくつかありますが、例えば「則天文字」の使用が挙げられます。
則天文字は則天武后ゆかりの文字で、身近のものとしては、水戸光圀の「圀」が
則天文字です。この則天文字が使われていたのが690年頃〜705年までです。
経典にこの則天文字が使われていたので日本の物より古いと考えられるのです。
そして、宋の時代に木版印刷は更に中国では盛んになります。
仏教をはじめ、儒教典などの宗教的な書物に多く利用され、中でも
972年〜983年にかけて刷られた四川省の成都で見つかった『大蔵経』は
延べ5048巻にもなります。また、四川と言えば紙幣の先駆け、「交子」の
登場も木版印刷が助けました。また、科挙のための受験の参考書も
多く印刷されました。
そんな中1041年に畢華(ひっしょう)が活版印刷を実用化させることに
成功しました。印刷術には以前から注目していた朝鮮では、高麗の時代の
1377年の仏典の印刷が朝鮮の現存する最古の物となっています。これは一部分、
活版印刷されていると思われます。
シルクロードを通って、印刷術はヨーロッパには13世紀頃入ってきたと
いいます。ヨーロッパでも当初は木版印刷が主流でしたが、グーテンベルクが
1455年に活版印刷術を中国のものを改良しより簡便化しました。
彼が刷ったのは『42行聖書』などキリスト教に関わるものです。
これらは200部程度しか刷っておらず、現存するのはその中でも45部しか
ありません。しかし、彼の「改良」によってその後、50年間に約250の
ヨーロッパの都市で1000軒を超える印刷所が作られました。
聖書を中心とする書物が大量に作られるようになると、社会は激変しました。
民衆も手に入りやすくなった聖書は、彼らに知識を啓蒙する事になり、
ウィクリフやフス、ルターらの持つ中世カトリック中心主義に反発する考えを
多くの人たちに広めるのに役立ったのです。
こうして、ドイツやスイスなどで宗教改革の嵐が起こり、また印刷業という
新しい職業も生まれました。
【後に続く・・・・・・。】
287 :
ラムセスX:02/04/22 04:16
⊂正解57⊃ のつづき・・・・・・
>>286 日本や中国、朝鮮などのアジアでは仏教に、スイスやドイツなどの
ヨーロッパではキリスト教に利用された印刷術ですが、その真ん中の
イスラム圏ではどうだったのでしょうか?
残念ながらイスラム圏ではあまり歓迎されなかったようです。
理由としてはまずムスリムは、トルコ語をはじめイスラム諸国の言葉は
アラビア語のアルファベットを使っているので印刷するのは難しいと
考えていました。また、ムスリム以外の人たちの中には、活版を掃除する時に
使う刷毛(ハケ)には当時ぶたの毛が使われていたので、これはアラーの怒りに
触れると考えていた人たちもいたようです。
そんな中、1798年ナポレオンがエジプト遠征した時、彼はエジプトにおいて
初めて印刷機をもたらしました。当時のエジプトではニュースは寺院の光塔
(ミナレット)から祈りの時を告げる人が伝えていました。
ですが、人伝いだったのであまり正確に広範囲に伝わりませんでした。
ナポレオンは遠征の途中に、イタリアでバチカンの印刷機を接収して、
更にイタリアの植字工と印刷工を3人ずつ、また、フランスの印刷工を18人
エジプトに連れて来ました。ナポレオンによって‘海軍印刷所’と命名された
この印刷設備は軍の旗艦に設置されました。
ここで、航海の中ナポレオンの軍隊向けの指令や布告のアラビア語訳の文も
印刷され、それを配布するのにマルタの囚人も同行させたほどです。
その後、ナポレオンは、アレクサンドリア駐在のベネチア副領事の家に
印刷機を据え付けました。そして、‘オリエンタル・フランス印刷所’と
改名して、アラビア語に翻訳したナポレオンの布告文を一日に400部以上も
刷ったのです。
この印刷術を使ってナポレオンは
1:エジプト市民に対して、善意を持っている事
2:イスラム教社会を尊重している事
3:メッカ巡礼から戻ってくるムスリムを保護する意思がある事
などを訴え、その真意を保証するイスラムの指導者の言葉が添えられました。
また、フランス陸軍に対しては、例題問題つきのアラビア語の文法の参考書が
印刷されました。
指令本部をカイロに移すと、軍の印刷機をナポレオンはナイル河づたいに
カイロまで運びました。しかし、ナポレオンの支配に抵抗しようとする人たちの
手から印刷機を守るために印刷所をその後あちこちに移したといいます。
このナポレオンの印刷術の導入によって、エジプトで初めて『エジプト旬報』
という日刊新聞が登場しました。これはフランス語で書かれていて、
ナポレオンはアラビア語で発刊する事も考えていました。
しかし、実現せずナポレオンがエジプトを去るときに彼は印刷機もエジプトから
持ち帰ってしまったのです。これによって、エジプトの民衆の教化が
妨げられる事になりました。
しかし、その後ムハマンド・アリが使節を外国へ派遣して、西洋の著書を
読ませそれを翻訳させて、印刷術を再び取り入れました。
1820年頃印刷機がまたやって来たのです。
そして、イタリアから紙や活字を取り寄せ職工も招き、遂にカイロ郊外の
ブーラークに官立の印刷所を設立するまでになりました。
1822年、最初のアリが作らせた本はイタリア語―アラビア語辞典でした。
なお、アリは40歳になるまで読み書きができなかったといいます。
また1833年にはコーランが印刷されました。これが最初のコーランの印刷と
考えられます。しかし、1849年にアリが亡くなると、イスラム法学者たちは
次のアッバース・パシャを説得して、印刷したコーランを全て厳重に隠し
使用を禁止してしまいました。
後に、サイード・パシャ(1822年〜63年)の治世になって、やっとこれらの本は
解禁されました。
因みにイスラム圏最初の印刷所は、オスマン・トルコの時代のイスタンブールで、
ハンガリー生まれのイブラヒム・ミュテフェリッカで1727年の事です。
詳しいことは次回のこのイスラム最初の印刷所に関する問題の時に述べます(^o^)。
288 :
ラムセスX:02/04/22 04:22
今のとここの2問だけ正解です〜☆
他の問題もガンバって下さい(^^)
289 :
ラムセスX:02/04/22 12:50
>>278 何か最後が意味不明の文章ですみませんm(__)m
寝ぼけて書いたので、、、、、、。
ハンガリー生まれのイブラヒム・ミュテフェリッカという人物が
1727年に開業したという事です。
他の問題のヒントです。
問題52:くだものです
問題53:日本には仏教と共に奈良時代に伝来したといいます。
問題55:宗教的な習慣です
問題56:アジア地域でもこういう作り方をしているところがたくさんありました
問題58:ある生き物に関わるものです
問題59:今でもある種の魚はこういう生態を持っています
問題60:飲みすぎの者にとってはかなり‘重い’罰だったようです
問題61:ギリシャでは母神の象徴のあるものに関わるので
性的欲望の象徴とされましたし 軍神マルスに関係します
290 :
ラムセスX:02/04/22 12:54
【問題52】
果物だとすると、ザクロかイチジクかな。
イチジクにします。日本に入ったのはかなり遅いはずだから。
【問題53】
お数珠ですか?
問61 これは覚えています。
キツツキでしたよね。
キツツキがロケットを木と間違えて、いくつも穴を開けてしまって延期になりましたね。
儀式に使われるトロピカル・ジュース?〜
【問題56】
「乾燥させて、粉にして水に溶かして飲む」だった筈。
**** シーラカンスの答えは自信あったのだが・・・ ****
あらら、ちょっと見ない間に随分と進んじゃってる。
【問題53】の回答
香。(香水、線香etc…)
【問題59】の回答
メスの腹の中で卵が孵化する。(卵胎生)
でも、卵胎生の魚ってグッピーをはじめ、結構種類多いから、違うかなぁ。
とりあえず、これに関してはあんまり自信無しです。
295 :
ラムセスX:02/04/23 19:00
⊂正解52⊃ イチヂク
イチヂクの原産地はアラビアや小アジアといわれ、牧野富太郎氏の
『牧野植物図鑑』では日本に伝わったのが寛永年間(1624年〜43年)と
されています。中近東では古くから栽培されていて、聖書においては、
『聖書語句引用辞典』で調べると、その引用回数はイチヂク桑を含め
69回にもなります。
イチヂクは聖書で最初に特定できる植物です。『創世記』には、
エデンの園でアダムとイヴが禁断の実を食べた後に「恥ずかしさ」を覚え、
周りに生えていた‘イチヂクの葉’で腰の周りを隠したとあります。
また、旧約聖書の列王記下20章7節、イザヤ書38章21節には
「干しイチヂクの一かたまりで腫物を癒す」とあり、死にかかっていた
ユダヤのヒゼキヤ王がイチヂクのおかげで3日で病が治り、15年もその後
寿命が延びたといいます。
また、1939年のフェニキアの港町のウガリット(現在のラス・シャムラ)の
発掘によって、病にかかった馬の治療を記したものが見つかって、
それに拠ると、馬の頭に腫れ物ができたり、鼻が赤くただれた場合は、
イチヂクとオートミールを混ぜてそれを膏薬とすればよいという事です。
そして、スイスでは今でも牛乳で蒸したイチヂクをきれいに磨りつぶした
ものを薬として使っています。
そんなイチヂクを日本の医者も注目しました。
千葉県市川市一条会病院の東風睦之氏は、先の聖書のユダヤの王の記載に
目が止まって、イチヂクの抽出物をエーリッヒ腹水ガンに与えた所、
顕著な効果が見ることができ、その抗がん性の有効成分が「ベルザルデヒド」
であることを確かめて、これを進め臨床実験を行いました。
その結果、57人中で19例が著効《ものすごく効果があった(^○^)♪》、
10例有効《良くなった(^_^)》、19例改善《やらないよりは良くなった(・o・)》
7例不変《実験前と変わらなかった(-.-)》、2例悪化《実験前より悪く
なった(>_<)》となりました。
最近も、がんのベルザデヒド誘導体による制がん作用の臨床例が報告されて
いるそうで聖書の記事が実際に役立ったのです。神話が歴史になりました。
イチヂクの名前は、諸説あり例えば一ヶ月で熟すために、あるいは
一時で熟すので「イチジュク」からきたという説などあります。
296 :
ラムセスX:02/04/23 19:29
>>291 因みに、今調べたらザクロはインドやイラン(ペルシャ)原産とされ、
インドではインド最古の医学書『アーユル・ヴェーダ』にも登場します。
また、ユダヤのソロモン王の宮殿の柱の頭には、ザクロの唐草文様があった
そうです。
中国にはペルシャ地方から伝わり、ペルシャの事を「安石」と呼んでいた
事から、安石から来た瘤(コブ)のようなもので「安石榴、または石榴」と
呼ばれました。日本には平安時代(10〜11世紀頃)に薬として伝わり、
呼び方は石榴の漢名の「ジャクロ」に由来するそうです。
297 :
ラムセスX:02/04/23 20:09
298 :
ラムセスX:02/04/24 20:13
⊂正解61⊃ キツツキ
1995年6月、アメリカのケネディ宇宙センターからスペースシャトルの
「ディスカバリー号(STS−70)」が打ち上がる予定でした。しかし、デスカバリー
号の燃料タンクの錆色の発砲断熱材をキツツキが止まり木にしてしまい、
巣を作り始めて200ヶ所以上に穴を空けてしまったのです。このために
10万ドルかけて格納庫に戻されました。
打ち上げを中止に追いやったキツツキは、マダガスカル、ニューギニア、
オーストラリアをはじめ太平洋諸島にはいない生き物です。
英語でウッド・ペッカーと呼ばれるキツツキの日本語の語源は、取って突付く
という意味の「テラツツキ」の古い言い方が「ケラツツキ」で、
これが江戸時代以降にキツツキになったといいます。
更に『和漢三才図会』によれば、テラツツキという名前は昔、玉造に天王寺を
建立した時に、この鳥が群れでやって来て寺の軒を突付いたことから
寺啄(てらつつき)という名前が生まれたといいます。
キツツキはラテン語では「ピクス」といいます。これはローマ神話で
サトゥルヌスの子供のピクスが魔女のキルケの愛を拒んだために、
このキツツキに変身させられたことに由来します。
また、オウィディウスによればロルムスとレムスがオオカミの母乳で
育てられた時に、キツツキにも食べ物の供給をいわれます。
そして、軍神マルスの聖鳥とみなされる時もありました。
ギリシアでは、母神の象徴であるオークの木をくちばしで突付くことから、
性的欲望の象徴と考えられていました。
プリニウスの『博物誌』でも聖鳥として紹介しています。それによると、
古代ローマで市政の法務官が頭に止まったキツツキを捕まえました。
占卜官に伺いをたてたところ、キツツキを放してあげれば帝政に、殺せば
法務官に災いが起こると告げました。法務官はキツツキを殺す方を選択しました。
この予言は間もなく的中したといいます。
このように古代ローマでは占いに用いていて、その習慣はアフリカにも
伝わりました。マサイ族はキツツキの声が右側からすればいい事が起き、
反対に左側からすると良くないことが起きると信じています。
北欧のノルゥエーでは、ガートルードという名の女性がキリストとペテロに
パンを与えるのを拒んだために、罰としてキツツキに姿を変えられてしまい、
水を飲めなくされたという話があります。そこでこの鳥がいつも喉をからして
雨を求めているという俗信が生まれました。
中国では木の中の虫を制するところから、シャレでこれを食べれば虫歯が治る
とされていました。
日本の文学の中にも登場して、聖徳太子が四天王寺を築いた時に寺のあちこちを
突付くキツツキが現れました。世間の人たちは物部守屋(もののべのもりや)
という大連(おおむらじ)の怨霊だと噂していました。あるとき斑鳩の里の
イカルがこのことでキツツキをからかうと、巻き舌で「縁起でもねぇ!」と
噂を否定しました。またイカルが鳥のノド自慢をしようと誘っても、
歌が下手なので「腹が減った!!」と言って逃げ出してしまったと言います。
(中勘助『鳥の物語』より)
1995年7月13日にディスカバリー号はやっと打ち上がり、
8日と22時間20分後の22日に帰還しました。このトラブルを機にNASAは、
定期的に打ち上げの支障になるような場所に鳥が巣を作らないか確認したり、
鳥がこないように、光る目玉の絵が描かれた風船をシャトル前に設けたり
工夫をしています。因みにこの風船の中には日本の物もあって、その商品名も
「トリタイジャー」というそうです。
ですがこの宇宙センターのすぐ隣がフロリダの野生動物保護区なので、
そう簡単にはいかないようです。
299 :
ラムセスX:02/04/25 22:38
⊂正解59⊃ 卵胎生など
シーラカンスは、アフリカ南東部のコモロ諸島の海という限られた所でしか
現在発見されていない1属1種の生き物です。シーラカンスは英語名で
coelacenth といいますがこれはギリシャ語の「koilos:空洞」と
「akantha:とげ」をラテン語に変化したものです。
フランス語のcoelacantheやオランダ語のlatimeriaも同じところから来ています。
これは、シーラカンスの脊椎に椎体がなく円筒状の脊索しかない為です。
デボン紀(約4億年前〜3億5000万年前)の時代に現れた後期の総鰭類でも
あります。この総鰭類とは、簡単に言えば鰓(エラ)のある魚類と肺のある
両生類の中間型の生き物です。
総鰭類の研究の歴史はナポレオンがエジプトに遠征した時に始まります。
将校でありパリ植物園の動物学者であったエティエンヌ・ジョフロア・ド・
サン=ティレールが遠征に参加した時に、ナイル河の上流で体長1mほどの
緑色をした魚を発見しました。
この魚の背中には背ビレの代わりに小さなヒレが一列に並んでいたのです。
そこで彼は、‘たくさんのヒレがある魚’という意味の「ポリプテルス」と
名付けました。科学者達からはビチャーというニックネームをもらった
ポリプテルスの呼吸器は、特殊な浮き袋をしていたので、ティレールは
この浮き袋から肺へと進化したと考えました。
更にヒレから陸上生物の四肢が生まれたとも考えました。
つまり、この魚は両生類になる途中の段階のものと結論付かれました。
その約40年後には、オーストラリアで肺に似た器官で呼吸する肺魚が
見つかり、こっちのほうがより両生類に近いと考えられました。
そこでトマス・ヘンリー・ハックスリーは、当時分類できていなかった魚を
含めて、ポリプテルス、肺魚、アミア、ガーパイクを全体として「総鰭類」と
名付けました。
彼によると、魚類は硬骨魚→アミア、ガーパイク→ポリプテルス→肺魚→
両生類と進化したといいます。しかし、この説をルイ・アガシは『化石魚類
(1833年〜44年)』で否定しました。そして、1896年にはクラーチュは
普通の魚と肺魚はどっちが新しいか古いかではなく、同一の種から生じた
脊椎動物の2つの枝葉に過ぎない、と提唱しました。ですが、当時まだ化石の
総鰭類はあまり知られていませんでした。そして、尾ヒレに中空の脊椎骨がある
魚(これをシーラカンス類といいます)は肺魚より新しい地層でしか見つかって
いなかったので彼の説はあまりいい反応は返って来ませんでした。
1900年に考えれた系統樹ではまず円口類が軟骨魚と甲冑魚に分かれます。
そして軟骨魚からチョウザメやアミア、ガーパイクのような原始的な硬骨魚に
進化し、そのから3つに枝分かれして、@現在の硬骨魚、A総鰭類→
ポリプテルスなど、B肺魚→両生類という進化をたどったと考えられて
いました。
しかし、1909年グッドリチは3つの点で反論しました。
§1 魚類の祖先はサメではなく甲冑魚である、
§2 総鰭類の発生は他の硬骨魚や肺魚よりも古いこと、
§3 総鰭類からポリプテルスを外すこと、を主張しました。
20年後彼の主張は認められることになります。
そしてその後には、化石しかない初期の総鰭類は肺を持っていて、
浮き袋は進化した硬骨魚が水中生活を適応するために、遅れて発達させた
器官である事が分かりました。こうして四足動物の起源は肺魚ではなく、
総鰭類であるというのが定説になったのは1930年代の後半の事です。
そして、1938年の12月22日恐竜と共に6000万年前に絶滅したと思われていた
総鰭類のシーラカンスが見つかったのです。
【後につづく……。】
300 :
ラムセスX:02/04/25 22:41
⊂正解59⊃ のつづき……
>>299 南アフリカのイーストロンドンの西のチャルムナ川の河口近くの海岸で、
トロール船のEL8号が水深75mのところから変わった魚を釣り上げました。
最初は生きていましたが、およそ4時間後には死亡してしまいました。
船長のグースンは、この魚を見るなり氷漬けにして、イーストロンドンの
博物館に寄贈したのはその3日後のことでした。
館長のコールトニー=ラティマーが受取った時には既に、腐敗していたので
急いで彼女は皮を剥いで、頭の骨を取り出してこれを冷凍庫に入れました。
その後、彼女はこの魚の形の異様さからグレアムズタウンのスミス教授に
電報を打って研究依頼をしました。そして、彼はこの魚は後期の総鰭類の
シーラカンスであると断定し、魚に彼女と発見された川の名前を記念につけ、
ラティメリア・カルムナエと呼ばれる事となりました。
当初、動物学者は信じる事はできませんでしたが、このシーラカンスの
頭骨と皮とを、ゾルンホーフヘェンのジュラ紀の片岩から出土した
シーラカンスであるウンディナ・アクティデンスのそれらと比べた所、
顕著に似ている事が分かったのです。
スミス教授は研究のためにもっとたくさんのシーラカンスを必要と
していました。その為に、シーラカンスの絵を描いたポスターやビラを配って
これを持ってきた人には報奨金を出すと約束したほどです。
ですが、次の発見までに14年待たなければなりませんでした。
1952年、コモロ諸島でビラを読んでいた貿易船の船長ハントは、妻と一緒に
1匹について100ポンドもの賞金が出ることを漁師達に強調して、
宣伝活動を行っていました。そんな中、アーメド・フセインという漁師が
コロモのアンジュアン島の市場で変わった魚を売っていました。
体長は1m半、重さは100ポンドを超えていました。この魚をみたハントは、
急いでその魚を買い取りました。そして、ホルマリンを注射して内臓を
取り捨ててスミス教授のもとへ打電しました。
教授からその魚の重要性を知らされていた当時の南アフリカのダニエル・
マラン大統領は、教授のために特別機を用意しました。
そして、12月29日に到着して再会したのでした。
このアンジュアンのシーラカンスは、第一背ビレと尾ヒレの中間葉が
無かったのでスミスは新種だと考え、マラン大統領に感謝の意を込めて
マラニアン・アンジョウアナエと名付けました。
しかし、1953年〜55年にかけてアンジュアン島とグランドコモール島近海で
更に7匹のシーラカンスが捕らえられた時に、このマラニアン種は単に体が
損傷していたラティメリアであったことが分かり、その後取り消される事に
なりました。
当時、コモロ諸島はフランスの統治下であったのでその後はJ.ミロ教授が
研究を引き継ぎました。彼は、1匹のシーラカンスを水槽で20時間生かしたまま
観察した事で知られています。このミロ教授のほか、ドイツのフリッケ博士らの
手でシーラカンスの生態が徐々に分かってきました。
【さらに後に続く……。】
301 :
ラムセスX:02/04/25 22:43
⊂正解59⊃ のつづき……
>>299-300 形態上の特徴としては、
1…胎 生⇒2個体のメスが、全長30〜40cmの5〜26個体の胎児を持っていた
サメの仲間などもこれに当てはまる
2…腸がらせん状
3…肉 鰭(肉ヒレ)⇒胸ヒレ、腹ヒレ、第2背ヒレ、臀(シリ)ヒレは、
軸になる骨と筋肉からなる支持部を持っている
4…尾部の後端に小さい尾ヒレの存在
5…ウロコの表面の小さな突起の存在
6…咽 板(こうばん)の存在⇒下アゴの腹面にある2枚の扁平の骨のこと
7…頭骨が前部と後部に分化できる
8…脊柱(せきちゅう)が1本の中空の管になっている
9…現生種の浮き袋には脂肪には脂肪が充満
10…吻器官の存在
11…内鼻口(ないびこう)はない、などです。
また、水深200m付近にある洞窟の中に、多い時には数十体群れをなして
生活していて、その行動範囲は直径8kmと推定されます。
胃の中からは水深100m〜数百mに多くいる魚やイカ・タコの仲間が見つかって
います。中には600m〜2700mの深さで生息するリュウキュウホラアナゴを
食べていたものもいます。
また、大コモロ島とアンジュワン島は極めて雨水の浸透しやすい火山性の岩から
できていて、シーラカンスの腎臓の仕組みから、淡水が海水へしみ出るような
場所に生息することは間違いないと見られて、なぜこの付近でしか
見ることができないのかという謎をとくカギになりそうです。
ですがこの現存する生きた総鰭類、シーラカンスについてまだまだ多くの
ミステリーは残されています。
☆少々長く、生物学的な説明になってすみません(>_<)☆
302 :
ラムセスX:02/04/26 19:35
他の問題のヒントです。
>>274 問題53:釈迦は比丘たちが長さがふぞろいなので、長さを統一して使うなら良い、
と認めた物です。西洋では金でできていた物もありました。
問題55:インドでは紀元前2世紀〜紀元前3世紀の遺跡からも出土している物で
日本では紀元後8世紀頃から一般化した仏教の習慣です。
問題56:このやり方は中南米をはじめ、東南アジアや中国などでも行われて
いました。日本でもかつて未婚の女性が行っていました。
>>275 問題58:17世紀のイギリスの天文学者ガスコインが望遠鏡に星の直径を測る
測微計(マイクロメーター)を取り付けるきっかけが始まり
とされています。ある生き物の何かを利用しました。
問題60:ピョートルは6kgの鉄を使ってこれをしました。
【問題55】火葬
【問題53】口の中で噛み砕く
けっこう自信あり。( ̄ー ̄)タプーリ
304 :
ラムセスX:02/04/26 22:36
Q55⇒×(日本では火葬とこの習慣は同時に始まっていない為)
Q53⇒○正解でーす(^○^)
問題60:ピョートルは6kgの鉄を使ってこれをしました。
そっかぁ!!! 酒瓶を鉄で作った訳ですね!!
306 :
ラムセスX:02/04/27 19:56
>>305 違います〜!!
酒を飲む以外に不都合が生じる方法だと思います。
問題60:ピョートルは6kgの鉄を使ってこれをしました。
** 鉄製酒瓶は、名案だと思ったのだ皇帝には採用されませんでしたか・・**
でも良く考えたら罰になってませんもんね。
デワ ≪大トラ≫酔っ払いに鉄製のブーツを履かせたと言った所でしょうか??
【問題53】
ベッド。
日本でも奈良時代にベッドが使われてたし。
…と言いつつ、全く自信無し。仏具でもないしなぁ。
【問題55】
回忌法要。3回忌とか、7回忌とか。
それにしても、難しいなぁ…。
309 :
ラムセスX:02/04/28 19:30
⊂正解56⊃ 噛んで吐き出す
酒を造る方法として、作物を噛んで吐き出す方法をとる地域は、ポリネシア、
南北アメリカ(太平洋側に多い)、東南アジア、中国など太平洋の周りに広く
見られます。
そして、日本においてもかつてはこのような方法で行われていました。
アジアから縄文時代の晩期(紀元前3世紀頃)に、稲の水耕栽培の技術が
伝わると共に、酒は頻繁に歴史に登場することになります。
それまでは果物を使った果実酒でした。
米をゆっくり噛んでいくと、米のでんぷん質がだ液のでんぷん質分解酵素である
アミラーゼにより糖化されます。それを器の中に吐き出すと、空気中の菌と
反応を起こして発酵します。こうして3、4日後には酒ができるのです。
この「口噛み酒」は8世紀の初めの『大隅国風土記』にも記載されています。
当時は未婚の女性が作業していました。
因みにこの「噛むす」から「醸す(かもす)」という言葉が生まれました。
一方、麹(コウジ)で造る酒は足立勇氏の『日本食物史』によると、
応神天皇の時代(4世紀末)に、百済から来た仁番(にわ)または須須許里
(すすこり)という人物が伝えたといいます。当時、麹は加無太知(かむたち)と
呼ばれていました。
口噛み酒は南方系の文化であるのに対して、麹酒はヒマラヤ以東の北方文化です。
西のヨーロッパでは、東南アジアのような高温多湿ではないために
麹になるカビが発生しにくく、その代わりに、麦類から得られる麦芽を
用いた酒、つまりビールが発達する事になるのです。
ハワイで造られる「カヴァジュース」も口噛み式です。
造り方はカヴァの木の根っこを砕いて噛みます。それを直径1m程度の木の鉢へ
吐き出します。こうしてできたジュースにはアルコール分は含まれていません。
カヴァにはアルカロイド系の成分が含まれていて、鎮静作用があります。
ポリネシアではカヴァの飲み物が儀式や病気治療、来客用と多用され、
その飲み方にも首長から飲むなどと、茶道にも似た要素があります。
〔
>>303-304で問題53と紹介しましたが問題56の誤りです。m(__)m〕
310 :
ラムセスX:02/04/28 19:50
>>307 かなり近づいてきていますよー(^_^)
問題60は酒を飲む時に使う体のある部分に鉄を加重させました。
>>308 ・問題53はシャカは長さを最大16指(1指は2〜3cm)と定めました。
材料にはインドボダイジュという木が使われました。
・問題55は現在では、比丘(ビク)という出家修行僧や金持ちが行っています。
遺跡から出土した物を考えてください。つまりそれを使っていたというのが答えです。
因みに遺跡はベイタノー遺跡、ターイェーキッタヤー、ハリンジーの3遺跡が
知られています。
「口噛み酒」って、スサノヲノミコトがヤマタノオロチを退治する話に
出てきませんでしたっけ?
子供のときに聴いた話なので記憶があいまいですが。
【問題53】
爪楊枝かなあ。
西洋に金属製のものがあるし。
禅宗などでは口臭を忌むべきこととしているから、
それを防ぐ楊枝は仏教の道具といえないこともない。
312 :
ラムセスX:02/04/28 20:17
>>311 ヤマタノオロチで登場したお酒は『八塩折之酒(やしおおりのさけ)』
という物で、日本書紀では「汝衆菓ヲ以ッテ酒人甕ヲ醸スベシ」と
記されていますが、この酒が「衆菓」より果実酒か、「醸す」より
日本酒の原型か意見が分かれているので敢えて載せませんでした。
問題53は正解ですー(^○^)☆
セーカイ(゚∀゚)ヤター
問58 蜂 帰巣本能を利用した
≫ 問題60は酒を飲む時に使う体のある部分に鉄を加重させました
皇帝陛下が鉄製の*腕輪*しかも両手分強制的にプレゼント!!!
と言った所ですか???
******* 取り合えずコレで【問い60】は諦めます。***********
316 :
ラムセスX:02/04/28 23:12
>>314 違いますー(>_<)
ある生き物が出す何かを使ったんです。
>>315 ほぼ正解ですー。
答えは「鉄のメダルを造って首からかけさせた」でした。
ラムセスX殿
おまけの正解有り難うゴザイマス。(TT)
コレからも頑張ります。!!
*問56、59が、完全に間違いじゃなかったので、合わせで〇と◎君人形かな?*
318 :
ラムセスX:02/04/29 20:08
⊂正解53⊃ つまようじ
インドでは古代から日常の食事の前後に楊枝を使う習慣がありました。
主にインドボダイジュやウドンゲノキという木が利用されていました。
これらは白くて軟らかい素材です。楊枝の一種で、香花で飾ってある
木の枝を噛む事で歯の汚れを取る道具を「歯木」といいます。この歯木は
仏教に大きく関わりがあります。歯木を噛む事で、煩悩を噛み砕くことを
意味するのです。
また、シャカと絡む話として『摩訶僧祗律』によると、悪さをよくする
比丘(出家修行者)たちは、いつも長さが揃っていない歯木を噛んでいたので
俗人たちに行儀が悪いと嫌われていました。そこでシャカはこれを使うことを
禁止しました。ですが、そのために比丘たちの口臭がひどくなっていって、
かえって問題が生じたのでシャカは長さを最大16指(1指は2〜3cm)と
定めて使うことを許たといいます。
また『薩婆多部毘尼摩得勒伽』では、使う長さを12指〜8(または6)指、
その間を中と名付けて使い方を規定しています。現在の仏教の歯木は
12指なので恐らくここから来ていると思われます。
使い方は、まず藻豆(そうず)という洗剤と土屑で手を洗って、次に歯木を
使います。噛み終わると水で洗ってその後に捨てなさいと
定めているのです。
更に『毘尼母経』では歯木を使う効果として
1:口気香潔(口の中がきれいな香りがしてきれいになる)
2:咽喉清浄(ノドがきれいになる)
3:痰いん〔いん、は病だれに陰という字〕(たんのこと)、
宿食(前日の食べかす)を除く
4:食を思う(食べる事の大切さを知る)
5:眼目明浄(目がきれいになる)
と記しています。
[どうして目が良くなるのか自分には分かりませんが…(ーー;)。]
そして『善見律毘尼沙』には「阿育王の時、雪山(ヒマラヤ)の鬼神
日々楊枝木の羅多と名付くるを献ずる。柔軟香美なり」と書かれています。
この羅多(らた)はサンスクリット語でナーガラータ、すなわち
セイロンテツボクです。そして、インドでは一般的に歯木に使う木のことを
「ダンタカシュータ」といいます。
このダンタは後に英語でいう「デンタル」の語源になります。
またインドではダンタは数字の「32」を表します。つまり歯の本数を
意味します。中国にも仏教の流れで伝わるとこれを「歯木」と訳しました。
ここから「歯木」という言葉が生まれたのです。
また、インドにある聖木が中国にはない為に、楊柳という適した木で
作られたので「楊枝」と表されるようになりました。
【後に続く・・・・・・。】
319 :
ラムセスX:02/04/29 20:10
⊂正解53⊃ つまようじ(のつづき・・・・・・
>>318)
日本へは同じく仏教と共に伝わりました。最初は仏教道具であったので
僧侶たちが使っていましたが、やがて平安時代になると貴族たちの間にも
広まっていきました。右大臣にもなった藤原師輔(ふじわらのもろすけ)
〔908年〜960年〕は自分の著書『九条殿遺誡(いかい)』の中で、
朝に使って口をすすいだ後に顔を洗うことを普段の作法として
子孫に伝えています。
現在でも日本の寺では例えば、京都の三十三間堂では楊枝のお加持ち法要が
1月15日に、東京の浅草寺では楊枝浄水加持会が6月18日に毎年行われ、
楊枝と仏教の関係を証明してくれます。
一方、西ではマホメットも歯木を使うことを奨め、アフリカではクルミの木
などで歯木を作っていました。(現在でも作られているそうです)
中世のヨーロッパでは金や銀、鉄などの金属でできた楊枝を使っていました。
こちらは使い捨てというわけではなかったようです。
また研究によると、10万年前のネアンデルタール人歯の化石を見ると
アジア、ヨーロッパ両方の地域で縦に擦った跡が見つかりました。
かなり強く擦っていたようです。
また、アリゾナ州立大学のクリスティ・ダーナ教授はネイティブ・アメリカンや
アボリジニ(オーストラリア地域の先住民族)の昔の人たちの歯にも
筋が見つかった事から
「斧(武器)を持つより、つまようじを持つのが早かったのでは」
と発表しています。
320 :
山犬@大凶:02/04/29 22:41
【問題58】
クモの糸
そろそろ正解したい…。
321 :
ラムセスX:02/04/29 22:47
>>320 正解ですー!
解説などは今週中に載せておきます。
遅くても来週月曜までには次の問題を載せておきます。m(__)m
あと出てないのは問55のビルマ人の風習だけですね。
何でしょう?火葬でなく、法事でもない。
出土品もある仏教的行事で後のビルマにないもの…
う〜むぅ とりあえず、卒塔婆でどうです。…違うだろうな
323 :
ラムセスX:02/05/01 19:28
>>322 火葬に伴う習慣ですよ。
現在のビルマではあまり行われていないようですが、
私たちはよく知っている物です。
問題55:宗教的な習慣です
≫火葬に伴う習慣ですよ。
≫現在のビルマではあまり行われていないようですが、
≫私たちはよく知っている物です
っん、 じゃぁ*骨壷*かなぁ〜
325 :
ラムセスX:02/05/01 22:48
>>324 やったぁ〜、正解だぁー!!
解説を後日載せときます(^_^)
326 :
ラムセスX:02/05/02 00:18
⊂正解60⊃ 鉄のメダルを首に掛けさせた
ウォッカなどでおなじみのソ連の飲酒について、ブレジネフは犯罪の温床に
なると悩んでいました。彼の時代、犯罪の50%が酒によるもので、
交通事故の35%が飲酒運転でした。また、アルコール中毒の患者も激増して、
女性専用の病院まで作られたくらいです。
酒に対する悩みはピョートルの時代からあったようで、彼はたくさん
酒を飲む者についてペナルティーを設けました。それが鉄のメダルだったのです。
重さが6kgものメダルを与えられた者は、朝から夜までず〜ッと首に掛けて
いなければならず、かなり効果があったようです。
また、この他に「酔っ払い省」というものまで作りました。
これは、名うての酔っ払いを集めて、酔っ払い大臣や酔っ払い大主教、
酔っ払い枢機卿などを任命して酔っ払いながらその仕事をしたといいます。
そうする事で周りの人から恥ずかしいと思わせるのが狙いだったようですが
自分自身も酔っ払い司祭補についていたといいます。
これは別の説では、ギリシャ正教の主教制度を批判するという意味もあった
といいます。
また身長が2m以上もあるピョートルは、外国を訪問した時にたくさんの
お酒を飲んだために酔っ払って、宿泊した施設の壁などを壊して多額の弁償を
求められたといいます。例えばイギリスのデッドフォードでは、3ヶ月の
滞在中の損害賠償請求額として、家主から350ポンドを求められています。
家主曰く「床と壁にタンが吐き散らされ、宴会騒ぎのあと歴然たるものがある。
家具が壊され、カーテンが引きちぎられて壁の絵が射撃の的になったらしく
孔だらけである。庭の芝生は、鉄の長靴を履いて軍隊が行進したかのように
踏みにじられていた」
327 :
ラムセスX:02/05/02 01:09
⊂正解58⊃ クモの巣
ルネサンスの大航海時代でヨーロッパ人達は、海を通していろいろな所へ行く
ことができましたが、20世紀になっても行っていない所がありました。
それが北極点と南極点だったのです。南極についての記述はもちろんそれ以前にも
見ることができます。
例えば、ジェームズ・クックが1772年から75年にかけて南極大陸をほぼ一周して
それまでかなり大きな大陸と思われていた物が、実はその正体はそれに比べて
遥かに小さい物と分かったのです。そして、彼のクジラやアザラシを見たという
記録がイギリスやオーストラリアの捕鯨業者たちの意欲を大きくさせる結果に
なりました。
また、1820年代にはロシアのF・G・ベリングスハウゼンは、南氷洋の測深、塩分、
深海水の形式、気温の測定などの科学的な調査を行い徐々にその姿が明らかに
なっていく中、ロバート・F・スコットが1901年から04年にかけて
ディスカバリー号で更なる科学的な調査を行う為に南極に向かいました。
この時には凍傷や壊血病などで南極点には到達できませんでしたが、
エドワード7世島の発見などの功績に対して陸軍大佐に昇進しました。
そして、今度はまだ人類が為し得ていないと思われる南極点の最初の到達という
はっきりとした夢を達成すべく、1910年6月15日にテラ・ノバ号で再び南極に
向かいます。当初は隊員18人、馬10頭と数頭の犬ゾリで編成されていました。
しかし、南極に到着する前に大きな衝撃が走りました。
それは本来北極点を目指していたノルウェーのアムンゼンが1909年4月に
アメリカのピアリーに先を越されてしまったので、180度方向変換して南極点を
目指すという電報を10月12日にオーストラリアのメルボルンで受取ったのです。
また、南極到達後も馬の命が亡くなったり、隊員が帰国するなどとあまり
いいことはありませんでした。
一方、アムンゼンは8月9日にノルゥエーを出発して電報を打ったマディラ島
から一気に南極に向かっています。この為に南極上陸の時には、わずか10日間の
差でスコットが早かったという事態になっていました。
そのスコット隊の方は、航海の途中何度か所々に止まらなくてはなりません
でした。その理由はテラ・ノバ号にありました。この船は古い捕鯨船を改造した
石炭で動く船だったので石炭を補給する必要があったのです。
一方、アムンゼン隊のフラム号は近代的な石油船であったので、石炭船より
燃料を取る場所が省スペースで長距離走れました。
また、アムンゼン隊が探検の時に犬ゾリを多用したのに対し、スコット隊は
馬ゾリを使っていたのも足を引っ張った理由でした。
ですが、遂にスコット隊は1912年1月17日、南極点に到達しました。
しかし、彼らの目には人工のあるものが目に入りました。それはノルゥエーの
国旗だったのです。つまり、アムンゼン隊の方が先に到達していたのです。
それは1911年12月14日の事でした。
スコット隊は最大の目的は達成できませんでしたが、その後に南極の科学的な
調査を本格的に行っています。その一つが電場の測定でした。
使われた装置は問題で紹介した仕組みで(
>>275)、地上と大気の電場の変化を
目盛りで読取るもので、その目盛りはクモの巣の糸に記されていました。
また、この装置は磁場の影響を無くす為に殆ど真鍮で作られていました。
彼らは他にも化石の調査なども行っています。
そんなスコット隊も相次ぐエバンズやオーツら隊員たちの死に続き、
隊長であるスコット自身にも死が迫ってきました。
1912年3月29日、彼の日記はその日を最後として書かれていません。
そして遺体が見つかったのは11月になってからの事です。
328 :
ラムセスX:02/05/02 02:09
⊂正解55⊃ 骨つぼ
ビルマは全長約2090kmのイラワディ川を中心に、上座仏教国として成立して
いますが、上流域と下流域とでは生活形態が変わっています。
農業で見てみても、上流域では主に畑作であるのに対して、下流域では
コメの単作が行われています。この下流域ではモン族が紀元前の時代から
暮らしていました。彼らはこの頃からインドから来た商人や仏教徒と接触して
いたようです。
しかし、彼らはチベット・ビルマ語系といわれているピュー族の南下によって
追い出されてしまいます。そして少なくてもピュー族は、7世紀頃には王国を
建国しました。ビルマの年代記である『フマンナン・ヤーザウィン』によると
住民たちはパガン王朝(1044年〜1287年)の建国前にはピュー、カンヤン、
テッの3種族に分かれていたといいます。
その年代記にも登場するピュー族の遺跡は主に3つ挙げられます。一つは
イワラディ川中流の左岸のタウンドゥインジー内にあるベイタノー遺跡、
二つめがピュー族の都とされるプローム市の東南9kmのフモーザーにある
ターイェーキッタヤー遺跡、三つめがイワラディ川上流右岸のウェッレッ内に
あるハンジリー遺跡です。
この3遺跡には共通した特徴があります。まず、ピュー・コインの出土です。
これは直径2、3pの円形の銀貨のような物でこれは王権の象徴として使われた
とか、お守りとして、また宗教関係の道具として使われたなどと説が出ていて
はっきりその用途が分かっていません。
次が骨つぼの出土です。骨つぼには素焼きのつぼの他、石甕(いしがめ)も
使用されていますが、これは王族だけの習慣のようでした。この骨つぼの出土は
死者を荼毘(だび)に付した後、骨や灰をつぼに収めて埋葬する風習があった
ことを物語っています。この骨つぼ埋葬制度はピュー族固有の物でその後、
現在では一部の金持ちや比丘の間では行われていますが、一般的にビルマの
歴史に名を残すどの民族も受け継いでいません。殆どが土葬です。
現在、首都ヤンゴンには火葬場は2ヶ所ありますが、1日に36体しか
火葬できず、地方では特定の場所で野天で火葬をする時には行われます。
3つ目の特徴は、ピュー語の碑の存在です。各遺跡からはいずれもビルマの
文字とは違うピュー文字が使われています。
仏教と関わりがある所だけに漢字で遺跡を表す事もします。
3遺跡の中では、ターイェーキッタヤーが玄奘の『大唐西域記』では
「室利差咀羅」と、また義浄の『南海寄帰内法伝』では「室利察咀羅」と
表されます。また王国の名前自体も「縹」「漂」「剽」などと表されます。
そんなピュー王国も832年ごろ雲南地方の王国であった南詔の攻撃を受けて
衰退しました。
因みに解答していただいた中に出てきた、周忌の習慣は「フネレースン」と
呼ばれていますが、これも現在はあまり行われていませんが葬儀が終わると
その日のうちに比丘を招いて、テツピャウスンという食供養を行い、
7日後には初七日の追善供養であるウエツレースンをします。
墓参りの習慣も一般的ではないですが、最寄のパゴダ(仏塔)に行って
参詣するそうです。
もう少しピュー族については、載せておきたい事もあるので
出題の機会があれば書きたいと思います。
329 :
ラムセスX:02/05/03 03:57
〜古代エジプト・死者の書からのミステリー〜
【問題62】古代エジプトでは、人間が死ぬという事は鼻で息をしなくなった
という事で理解をしていた。そこで『死者の書』では、死者に
新しい空気を与える為に「空気」や「風」を象徴するある物を
死者の鼻先に持っていった挿絵が残されている。
では、死者の復活を願って鼻先に差出されていた物とは一体何!?
〜医学で解くモンゴル軍が強い理由?〜
【問題63】遊牧民族にとってヒツジやウマなどの家畜は、生活に役立つ
大変重要なものである。時に戦いや狩猟の時に乗ったり、
またある時はそのミルクや肉などを食事に利用したり、更に住居や
楽器を作るのには皮などが使われていた。
またモンゴルの大平原で暮らす人たちは、昔から動物を医学にも
利用していた。
かつてモンゴル帝国の時代には、ハーンたちは戦いのときにウシを
携えて行った。ウシは軍事用ではなく、負傷した人を治す医療用として
使われたのだ。チンギス・ハンが、信頼を篤く置いていた部下が戦いで
出血をして昏睡状態になった時、治療の為ウシを利用したという。
また、オゴダイ・ハンも部下を治す為にウシを同じように使った。
主に激しい出血をした時に行われる、ウシを使った治療方法とは何!?
〜カメルーン・海底油田に秘密あり!〜
【問題64】アフリカ西部で赤道に程近いカメルーンは、石油産出国として
知られている。実は、海底油田がある所には、もう一つのある
「水産資源」がたくさん取れると昔からいわれていた。
カメルーンもその例に漏れず、その言葉通りもう一つの水産資源の
宝庫である。一体それは何!?
〜人を運ばず夢を運んだ蒸気船〜
【問題65】19世紀半ば、当時世界最大級の蒸気船であったグレート・イースタン号
に、ある特別の任務が課せられた。その任務の成功のおかげで、
多くの人たちに役立った。では、その任務とは一体何!?
330 :
ラムセスX:02/05/03 03:58
〜梁の元帝も乗ったスーパーカー?〜
【問題66】1634年から37年にかけてオランダでは、16世紀に伝わった
チューリップの球根に対して熱狂的な投機が行われ、価格が著しく
暴騰した。いわゆる‘チューリップ狂時代’である。
そんな中、画家のポットはチューリップを持った人々が、ある乗り物に
乗っている絵を描いた。この乗り物は中国で550年ごろに作り出された
物で、梁(中国の南朝時代)の元帝も記録に残している。
西洋には16世紀ごろに情報として知られるようになり、実際にそれが
ヨーロッパで作られるようになったのは、1600年代初頭のオランダで
大反響を呼んだ。理由は、地上を素早く走れるその特徴にあった。
画家ポットは、花や乗り物など外国から伝わってきた文物に熱を
上げ過ぎている悲しさを風刺の意味で絵にしたのだ。
では、その乗り物の売りとなった特徴とは何!?
〜知られざるイスラム最初の印刷史〜
【問題67】中国をはじめとする仏教国の多いアジアや、ドイツなどのキリスト教国
のヨーロッパでは、15世紀にはすでに印刷業は成立していたが
真ん中のイスラム圏では、1727年になってようやくイブラヒム・
ミュテフェリッカがイスタンブールに印刷所を開いた。
だが、コーランなどを写字する人たちがこれに抗議をしていた。
では、印刷所が完成する前に建設予定地を中心に彼らがとった
抗議の方法とは何!?
〜古代マヤ・美しくなる方法教えます!〜
【問題68】ユカタン半島に展開したマヤ文明では、独特の美しさの基準があった。
男女関係なく生まれてきた子供はすぐに仰向けにされて、子供の
背たけより少し長い2枚の板を使い体に何かをした。
マヤの人たちはこれを行い、そうなる事が美しくなる事と
考えていたからだ。
では、美しくなる為に2枚の板で行っていた事とは何!?
〜子供はいい迷惑!?古代アステカの雨乞いの儀式〜
【問題69】一方、メキシコ高原に展開したアステカでも子供が行う儀式があった。
それが雨乞いの儀式である。
メキシコ高原では6月〜9月が雨季で、10月〜5月が乾季になる。
アステカ文明の暦は主に2つあったが、太陽暦を使っていたのは
「シウポワリ」と呼ばれる暦であった。この暦では20日で1ヶ月になる。
つまり1年365日は18ヶ月+5日〔20(日)×18(月)+5(日)〕と
なるのだ。シウポワリ暦でいう18月、1月、2月、3月が乾季の中でも
最も雨の少ない時期なので、この暦の1月に雨乞いの儀式が山頂などで
行われた。
生け贄(いけにえ)にされたのは、まだ母乳で育っているような子供で
雨の神「トラロケ(トラロック)」に捧げらた。
実は、この生け贄にされた子供たちは、必ず体にある特徴を持った
子供たちが選ばれたのだ。では、その体の特徴とは何!?
ラムセスXさん、おはようゴザイマス。 *朝早いですね!!*早速回答です。
【問題62】
≪花びら≫か≪葉っぱ≫でしょうか。
【問題63】
牛を殺し、胴体を切り裂いて怪我人を中に入れた??
【問題64】
カニか海老。えび優先の回答です。
やっと答えに見当がつく問題が出た。
>329 【問題62】
答え。鳥の羽。
336 :
かちゅ〜しゃで書き込めない!:02/05/03 11:28
〜人を運ばず夢を運んだ蒸気船〜
【問題65】
グレート・イースタン号といえば、海底ケーブル敷設ですけど、大西洋横断
海底ケーブルを運んだということでどうでしょうか。
337 :
かちゅ〜しゃで書き込めない!:02/05/03 11:36
〜子供はいい迷惑!?古代アステカの雨乞いの儀式〜
【問題69】
つむじ曲がり、じゃなかった、頭につむじの二つあるこどもですね。
つむじは渦や竜巻など水に関連するものを暗示し、二つあることは
それが2倍になることを意味すると考えられたからなんだそうです。
前回の問題は難しかったですが、答えはどれも面白いものでした。
今回も面白そうな問題ばかりですね。
問62 葉っぱ
問63 牛の糞を湿布にした
問64 琥珀
最初は直感だけで
68
頭に板二枚縛り付けたんだよな。
んで。あたまを斜めにさすことがカコイイ
340 :
ラムセスX:02/05/03 13:01
お見事ー☆
今回は簡単過ぎましたかね、正解率がいいですね(^_^)
Q62,Q66,Q67以外はすべて正解です〜。
正解の補足は少しずつやっていきますのでよろしくm(__)m
341 :
ラムセスX:02/05/03 13:07
A63:ウシを腹を開いて内臓を出して、腹の中にケガした人を入れる
A64:えび
A65:大西洋横断ケーブルの敷設
A68:額に挟んで頭を細く伸ばす
A69:旋毛(つむじ)が2つある
>>らむせす
乙彼
簡単すぎるって。ああた(w
343 :
278改め白蛇:02/05/03 13:20
あ、もう問題出てたんだ。しかも、みんな答えるの早いわ。
【問題62】〜古代エジプト・死者の書からのミステリー〜
団扇でしょうか。
【問題66】〜梁の元帝も乗ったスーパーカー?〜
たぶん帆のついた車。セイル・カーとかいうやつかな。
344 :
ラムセスX:02/05/03 13:52
今回は2問正解!!嬉しいっ! しかし68は、ナンかで読んだ気がスルが、
思い出せ無かったぁ〜。コレは悔しいぃ
【問題67】〜知られざるイスラム最初の印刷史〜
≪イスラム教徒は、豚が嫌い≫
私のヒラメキでは、≪豚を意味するプラカード≫を持って
「コーランを汚すなぁ〜」と叫んだ。かなぁ〜
【問題67】
版木を作る際、豚の毛の刷毛を使ったから非難囂囂、ってこのスレでやってたような…。
今見たら、すでに問題が出題されてて、しかも
全部答えが出ちゃってるじゃないですか!!! びっくりしました。
問題が出されてまだ半日ぐらいしか経ってないみたいなのに。
うひぃ〜。問題見てみたら、結構わかる問題も多かっただけに、残念…。
また次の問題の時、頑張る事にします。
348 :
ラムセスX:02/05/03 18:55
349 :
ラムセスX:02/05/03 20:07
正解が出た順番に補説します。
⊂正解63⊃ ウシの腹を切開して内臓を出して負傷者を入れる(
>>329)
モンゴルで暮らす人たちは、チンギス・ハンが統一する前に経験的に
動物を医療に役立てていました。答えの治療法はその知識が生かされたものです。
『元史・布智児伝』によると、チンギス・ハンが西に進軍していた時に、
将軍ブジルが戦闘中にたくさんの矢に当たって重傷を負いました。
ハンはこれを見るとすぐに矢を抜きましたが出血がひどく、昏睡状態になって
しまいました。そこで1頭のウシを連れてきて腹を切開して、そこから内臓を
出してブジルを入れて、熱の残ったウシの血を体に浴びさせました。
すると徐々に意識を回復したといいます。
また『元史・謝仲温伝』では、ムホワンという将軍が3本の矢に当たって
倒れたのをオゴダイ・ハンが知ると、哀れんで矢を抜いて同じように
ウシの腹の中にムホワンを入れたと紹介しています。
更に清朝の歴史書には、モンゴルの軍医が負傷者をラクダの腹の中へ入れて
治療したと残しています。
モンゴルではまたこれに似たような治療法として、セブス〔瑟博素〕療法
というものがあります。
これはヒツジやヤギ、ウマなどを殺してその胃袋を人の体に当てて
その熱で治療する療法です。モンゴルの医学書には‘胃袋での浸透’と
命名されているそうです。気候が寒いモンゴルでは、寒病がかなり多いことから
このセブス療法はかなり頻繁に行われていました。特に、ヒツジの胃の上に
座らされて女性の子宮の病気を治したり、ウマやヒツジなどの胃の中に
手や足を入れて、リューマチや痛風などを治療するというような事は現在でも
行われています。
更に皮罨療法というものもあります。これは動物を殺してその皮で患者の体を
覆って暖める療法です。13世紀には魚の皮でも行っていたようで、1267年に
フビライ・ハンが朝鮮に使者を出してアキルホムンハという名の魚を持ち帰る
ように命じました。これはハンの足にできた魚の目にこの魚の皮で作った
長靴を履けば効果があると思われていたからです。
翌月、朝鮮国王は17枚の皮を献上しました。ハンは早速、長靴をこれで作って
魚の目の治療をしたといいます。(鄭麟趾『高麗史』より)
最後に臓罨というものを紹介すると、これは動物の内臓で人体の器官を
治すものです。方法は、殺したヒツジの五臓を熱いうちに取り出して、
患者の体の上に置くのですがそのやり方は、2つの腎臓を耳に貼り付けて
肝臓と脾臓をそれぞれ患者の肝臓と脾臓に相当する部分に当てます。
また熱が頭に上がるのを防ぐ為に、冷水を満たしたヒツジの回腸を環状に結んで
患者の頭に置きます。
このような療法は、昔の遊牧民が健康に暮らせる知恵として現在も
受け継がれているのです。
【問題67】〜知られざるイスラム最初の印刷史〜
≪イスラム教徒は、豚が嫌い≫
コレがポイントだと思ったのだが・・・・残念!!
建設予定地の回りを、イスラム教的に*結界化*した。
つまり出入りする人・物は、イスラムの前では、コレ全て罪人。!!!
如何でしょう?
モンゴル医学の事で質問です。
西洋医学的に見てこの治療法は効果があるのでしょうか?
問67 他の方とは逆に神聖な動物の牛を使ったのではないでしょうか。
建設予定地に放牧したとか
352 :
ラムセスX:02/05/03 23:19
>>351 自分は医学の知識が欠けてる者なので詳しくは言えませんが、例えば西洋で言う
「温熱療法」に近いものがあるのではないでしょうか。
モンゴルは知っての通り大平原で、西洋医学で使う医療器具などはありません
でしたからそれに代わるもの、つまり、動物で行っていたのだと考えます。
モンゴル独特の分散型の住居生活、文字の成立の遅れ、長期の戦乱などで
モンゴル医学の研究はあまり進んでいませんでしたが、これから更に進展すると
思いますが、どなたか分かりやすく説明できる方がいらっしゃれば、
教えてくださいm(__)m。
因みに他の治療としては、薬草による止血や馬乳酒を布に浸して、骨折の治りを
早くする方法などもあります。
『内蒙古歴代自然災害史料』や『中国歴代自然災害大事記』などでは1354年に
疫病が流行したなどとあり、たびたび伝染病による被害を受けたようですが、
治療として西洋医学にも通じる事も行なわれています。1つは隔離療法です。
もう一つは火による消毒法です。これらは西洋の影響を受けずとも、
長年の経験で自らの身体を守る手段のほんの一例に過ぎません。
尚、Q67は今のところ正解はでていません。
もう少しノーヒントで行きます。
【とかいいながら動物は関係ないですヨ(^_^)】
【問題67】
今更しゃしゃり出て来て何ですが・・・抗議のビラ配り?上手い字を利用した宣伝
も兼ねて。
〜古代エジプト・死者の書からのミステリー〜
【問題62】古代エジプトでは、人間が死ぬという事は鼻で息をしなくなった
という事で理解をしていた。そこで『死者の書』では、死者に
新しい空気を与える為に・・・・・
フイゴでしょうか??
さっき帰ってきてよく読んでみたら、まだ問題62と67は答えが出て
なかったんですね。ハズカスィ…。
気を取り直して頑張ろう。
【問題62】笛。
【問題67】建設予定地の地面にコーランの文章を書いた。
356 :
ラムセスX:02/05/04 22:48
違いますー!
Q62、Q67がんばってくださーい!
357 :
かちゅ〜しゃで書き込めない!:02/05/04 23:03
あれ?【問題62】はまだ正解が出ていなかったんですか。
てっきり「鳥の羽」でよいのかと思っていましたけど、違うんですね。
うーん。空気や風の神はアモン(アメン)で、象徴は雄羊や雁だから、
てっきり雁の羽根だと想像してたんですけど、、、、
んじゃ、♀の形をしたアンクというお守りが生命あるいは息という意
味があるみたいだから、これでどうでしょう。
358 :
ラムセスX:02/05/04 23:47
>>357 アンクを鼻に向けるというのは、以前違うスレ(古代エジプトのスレ)で
紹介した事がありますし、アンクを知らない人は解けない問題になってしまうので
違う物を考えてみて下さい。
問62 羽根でも笛でもないとすると、あと考えられるのは…風船かな
問67 コーランを読めなくなるようにした。すなわち学校の閉鎖
360 :
ラムセスX:02/05/05 19:11
⊂正解64⊃ えび(
>>329)
人類と石油の関係は古く、紀元前3000年以上前からメソポタミア地方などでは
接着剤や防腐剤として使われていましたし、日本でも『日本書紀』によると、
天智天皇の時代(668年)に現在の新潟県から「燃ゆる水」と称された石油が
天皇に献上されています。
この石油が溜まる砂岩や岩石の地質年代は、およそ5億年前にも遡れます。
比重が小さくて揮発性の強い石油の鉱床は、緻密な細粒地層がなければ
上の方へ移動して地表に達して大気に逸散してしまいます。この構造を
「トラップ」といいます。
石油のでき方は今では有機成因説が考えられています。
これは、その昔海であった地層の堆積岩より現在石油が産出されて、成分が
タンパク質の分解よるチッ素とイオウの化合物を含んでいる事などからいえる
のです。成因となる有機物が多量にあるところは、植物性のプランクトンが
多い河川の流入する陸岸に近い、内湾や大陸棚上の海盆などです。
このようなところでは、有機物が嫌気性のバクテリアによって黒い腐泥を
生じさせ、さらに長い年月をかけて石油根源岩になるのです。
そしてこういう堆積盆では、海底下より炭化水素が検出されて今でも石油が
作られています。えびの漁場も海底沈殿物の有機炭素量が多く、石油の生成
されるところと環境が重なります。それ故、石油が採れるところはえびも獲れる
というわけです。
カメルーンの語源は、15世紀半ばのポルトガルに始まります。
当時のポルトガルは航海に夢中になっていたエンリケ航海王子が亡くなった頃で
したが、そんな中、フェルナンド・ゴメスというかなり荒くれた貴族がいました。
その扱いに困った国王は、毎年400キロほどギニア湾を南進してその発見地との
交易で得た利益の独占権を与えるという条件で、ポルトガルから追放しました。
ゴメスは1471年に、現在のガーナのエルミナとナイジェリアのニジェール川の
河口を発見しました。エルミナの西北の内陸には金鉱山が多くて、後にそこは
「黄金海岸」と名付けられるようになりました。しかし、ゴメスは毎年400キロ
南進するという条件があったので、その資源を調査する時間がなかったようです。
そして、1472年(一説には71年)ナイジェリア東南部のギニア湾の一部の
ビラフ湾に進みました。その東方にウーリ川という川を見つけ、その河口に
多くのえびが群がっていた為に、‘えびの群れの川’という意味の
リオ・ドス・カマエロスと命名しました。ここからカメルーンという国名が
誕生したのです。スペイン人がカマロネスと訛って呼んだ後にイギリス人、
ドイツ人がカメルーンと呼ぶようになりました。第1次世界大戦後にドイツ領
カメルーンの大部分を委任統治領として得たフランスは、カムルーンと
フランス訛りで言っていたそうです。
カメルーンの海底油田はナイジェリアの油田の延長と考えられます。
因みに、その他でえびに関係するところでは、ユカタン半島にある
メキシコのメキシコ湾きってのえびの生育場所であるテルミノス湖の近くにある
カルメン〔カメルーンじゃないですヨ(^^)〕という市の名前がスペイン語の
えびを表すカマロンから来ています。
また、インドネシアのジャワ島にある、えびの集買の中心地であるチレボンと
いう地名はアキアミや車えび類の稚えびを表すレボンから来ています。
そして、チレボンとは小えびそのものを指すのです。
361 :
ラムセスX:02/05/05 19:23
>>359 両方違いますよー。
Q62は実際は手に持てるような大きさではないのですが、
象徴的に手に持っているのです。
ヒエログリフでは「風」を表すのにこれが描かれていました。
正解のものは古代エジプトでは「ヘタア」と呼ばれていました。
【問題62】古代エジプトでは、人間が死ぬという事は鼻で息をしなくなった
という事で理解をしていた。そこで『死者の書』では、死者に
新しい空気を与える為に「空気」や「風」を象徴するある物を
死者の鼻先に持っていった挿絵が残されている。
実際は手に持てるような大きさではないのですが、
象徴的に手に持っているのです。
ん〜、≪雲≫でしょうか? コレで降参です。
363 :
ラムセスX:02/05/05 19:58
⊂正解68⊃ 額と後頭部を挟んだ(
>>330)
マヤでは、妊婦が出産するとすぐにその子供は正解のような事をさせられ
ました。これは板で数日間仰向けにさせた子供の後頭部と額を挟みつけ、
額を扁平にさせるというのが狙いです。この習慣は、マヤ以外にも他の
中南米の地域でも行われていて、実際、遺跡から発見された人の頭蓋骨を
見ると明らかにこのような事をしたと思われるような変形が見られます。
この頭部の変形を施した後は、神官の所へ行って子供の運勢を占ってもらい、
更には職業や名前までも決めてもらうのです。この名前は洗礼を受ける
までかあるいは、大人になるまで呼ばれることになります。
マヤの女性は髪型にも気を使っていました。長髪を真ん中で分けて
それぞれ個性ある形に巻き上げたのです。男性は女性のように長く伸ばし
ますが、頭に巻きつけた後はその頭のてっぺんを焼いて大きなハゲにしました。
更に入れ墨も行っていました。これは痛みを伴うのでたくさん入れ墨をして
いればしているほど勇気があるとされ、していない者はからかわれたと
いいます。女性も授乳の為に乳房だけはしませんでしたが、男性よりも
繊細に仕上げたようです。
364 :
ラムセスX:02/05/05 20:12
>>362 ゴメンなさーい(>_<)、違います。
古代エジプト人は「風」を崇拝の対象にしていましたし、
実際の生活の中でも役立てていました。どういう時に風を利用したかを
考えると正解の近道になると思いますよ〜。
【問題62】
帆船の帆の小型版でしょうか。
【問題67】
署名活動でも始めたのでしょうか。
いずれも自信無し。
366 :
ラムセスX:02/05/05 20:18
>>365 お見事ーッ!!
Q62は正解です(^o^)
367 :
ラムセスX:02/05/06 18:21
⊂正解65⊃ 大西洋海底ケーブルの敷設(
>>329)
この偉業を成し遂げた人物は、ニューイングランド出身で紙の事業で
成功を収めていたサイラス・W・フィールドでした。1852年に33歳でリタイア
したフィールドは、その後サミュエル・F・B・モースでおなじみの電信の
技術に夢中になっていました。そして大西洋を横断する海底ケーブルの事を
考え出したのです。すぐさまモースとワシントンの国立気象台に勤める
海洋学者のマシュー・フォンティン・モーリーに実用化できるか手紙を
書きました。2人とも返事はイエスと返ってきました。特に、モーリーは
(その当時の)最近行われた北大西洋地域の調査の結果、ニューファンドランド
とアイルランドの間には海底台地があることが分かって、これは海底ケーブルを
敷設する為にわざわざできたような物だ、と記しました。
これらの返事から早速フィールドはイギリスの大蔵省からケーブルの
敷設工事が完了するまで毎年1万4000ドルの補助金支出の約束を得て、更に
イギリス海軍には敷設ルートの調査と敷設作業に対する協力を約束させる事に
成功しました。これらはモーリーら2人の手紙をもらって1年経たないうちに
成遂げています。
一方、アメリカ側は遅れること1857年に議会が毎年、敷設の為の補助金支出
と作業船を提供する案をわずかの差で可決させました。ケーブルはイギリスで
作られて1857年の7月に完成しました。長さ1kmあたり約600kgにもなる
物でした。そのために作業に当たったのが、イギリスの軍艦アガメムノン号と
アメリカの砲艦ナイアガラ号でした。8月6日両艦は、アイルランドの沿岸で
あるバレンシア湾を出航しました。
当初の計画ではナイアガラ号(米)が積み込んだケーブルを敷設しながら、
大西洋の中ほどまで進んで、そこでアガメムノン号(英)が積んでいた
ケーブルに接続して西へ航海を続けてニューファンドランドまでの敷設作業を
完了する事になっていました。しかし両艦のケーブルを繰り出す機構が
しっかりしていなかった為に、ナイアガラ号(米)が担当区域である約540km
進んだ所でケーブルが切れてしまって、50万ドル相当のケーブルを海底へ
沈ませてしまったのです。この為に、両艦はまだ敷設し終えないケーブルを
積んだまま、アイルランドに帰港する事になりました。
そこで1858年6月に、今度は成功させようと別な方法でリトライされました。
別な方法とは、ナイアガラ号(米)とアガメムノン号(英)が大西洋の中央で
落ち合って両艦の積んだケーブルの端をつなぎ合わせて、ナイアガラ号(米)は
ニューファンドランドへ、アガメムノン号(英)はバレンシア湾へ向けて
出発しようというものでした。しかし、この計画も3回行われましたが
全てケーブルが途中で切れてしまったので成功しませんでした。
その後、イギリスで開かれた大西洋海底ケーブルの会社の重役会議では
あまりの失敗の連続で、何人かの重役は辞任してしまいましたが、それでも
もう1度だけ試してみようという結論に達しました。
1858年7月29日、両艦は大西洋の真ん中で落ち合う事ができ、最後の
ケーブルの繰り出しを始めました。そして8月5日にはニューファンドランドの
ナイアガラ号(米)から、バレンシア湾のアガメムノン号(英)へ初めての信号が
打たれました。作業員をはじめ関係者は「まさかッ!」というような感情を
持っていましたが、予想外の成功に大きな興奮が起こりました。
9月1日にはフィールドの栄誉を称えニューヨークの市民が歓声を上げて
盛大なセレモニーが行われました。しかし、式典の参加者には知らせれて
いませんでしたが、当初から完全に作動していなかったケーブルはまさに
式典当日には機能がダウンしていたのです。
これが公になると、イギリスの海軍省は調査委員会を設置しましたが、
1860年の調査報告書には、【新しいケーブルの製造、敷設、維持に適切な
注意が払われるのならこの事業は失敗するはずはない】と楽観的な結論を
出したのです。
<後に続く……。>
368 :
ラムセスX:02/05/06 18:23
⊂正解65⊃ 大西洋海底ケーブルの敷設(のつづき
>>367)
そこで何十回とケーブルの設計と試験を繰り返した後に1865年には、
新しいケーブルが完成しました。
これは長さが3680kmで直径が2.5m以上もあって、中心の電導線は最初の物
よりも3倍も太く、総重量は1858年に作られたものより2倍近くありましたが
浮揚性はかなり大きな物でした。そして、今度はこのケーブルを1隻で
運搬できる当時最大級の蒸気船であるグレート・イースタン号が仕事に
当たる事になりました。
1865年7月23日、グレート・イースタン号がバレンシア湾を出航しました。
しかしトラブルは続き例えば、ケーブルの外側に使っていた鉄がもろくて
はがれてしまい、そこからできた穴によって3回も電気的事故が発生して
しまいました。特に3回目の事故では、弱くなったケーブルが切断されて
一気に1600km分ものケーブルが海底に沈んでしまいました。
ですが今回のケーブルは鉄の外被以外は問題なかったので、この部分だけを
改良すれば良かったのです。
そこで、亜鉛メッキした鉄でケーブルを包み込む事にして、3850km分の
発注を1866年1月に完了し、7月13日グレート・イースタン号はアイルランド
から再出発しました。今回は作業が恐いほど完璧に進んで、27日には完了
という事になりました。今回は単にケーブルを敷設しただけではなく、
前回沈んだケーブルを海底4000mから回収して、新しいケーブルに接続する
という偉業を成遂げたのです。
こうしてフィールドは汚名を挽回する事に成功させました。
369 :
ラムセスX:02/05/06 19:13
⊂正解69⊃ つむじが2つある(
>>330)
アステカでは2つの暦が使われていました。1つは「トナルポワリ」と
呼ばれるもので、1〜13までの数字と20種類の絵文字の組み合わせで
成り立っていました。この260通りの組み合わせによって、その人の行動の
吉凶が計られたのです。一方、「シウイトル」と呼ばれる暦も使われて
いました。この暦は私達のいう太陽暦でしたが、1ヶ月が20日で成り立って
います。ですから1年は18ヶ月+5日だったのです。この付け足された
5日の事を「ネモンテミ」といい不吉な日とされていました。
彼らはトナルポワリとシウイトルを並列して使っていました。ですから
この2つの暦の組み合わせは260日と365日の最小公倍数である18980日、
つまり52年に全部でなります。
アステカ人にとってこの52年が1世紀だったのです。
アステカではトウモロコシを中心とする農業が基本的な生活の基盤でした。
ですから、農業の発達という目的で暦に対する知識が深まった結果になった
といえます。特に雨というものに気を使っていたのです。
メキシコ中央高原の雨季は私達の6月〜9月に当たり、乾季が10月〜5月
になります。アステカの人たちのシウイトルで言うと18月〔イスカリ〕〜
翌年の3月〔トソストニトリ〕の頃が乾季になります。
アステカ人の1月はアトルカワロ(水が止まる)と言われ、他のところでは
クァウイトレオア(木が立つ)と呼ばれていました。
雨の神トロラック(トロラケ)に雨を降らしてもらえるように、雨乞いの
儀式をするのはこの月の1日、つまり元旦なのです。この儀式に生け贄として
捧げられるのは、まだ母乳で育っている小さな子供でした。
しかもその中で頭のつむじが2つある子供だけが選ばれたのです。
つむじは水の渦や嵐の竜巻など水に関するものを暗示させて、それが2つも
あるので余計にその効果が出ると考えていたようです。
儀式を行う者が両親からその対象となる子供を買い取ります。その子供達
には羽根や花で着飾った服を着せて、周りの人々は楽器を演奏しながら
あるいは踊りながら行進しました。子供が涙を出して泣いていると人々は、
この年は雨が多い年になる前兆だとしてたいそう喜びました。
そして山頂まで連れて行った後には、雨の神に降雨などを祈祷しながら
子供の心臓を取り出して神に捧げたのです。因みにその後生け贄にされた
子供達は食べられてといいます。
あなたの頭にはつむじは2つありますか(^^)?
370 :
ラムセスX:02/05/07 00:32
⊂正解66⊃ (車に)帆が付いている
>>330 帆が付いている車(以下、帆走車)は中国で6世紀頃に作られました。
梁の元帝は著書『金楼子』の中で、「高蒼梧叔は風力で動く車を造るのに
成功した。それには35人乗せてたった1日で数百里を行く事ができた」と
記しています。また『続世説』という書物には、隋の煬帝の為に造られた
大きな帆走車が記されていますが、こちらはかなり誇張されているようです。
最も有効な使い方としては、これも中国で紀元前1世紀頃作られたと
いわれる手押し式の一輪車に帆を付けて荷を引くのに利用していました。
この帆が付いている一輪車を1798年にA・E・ファン・ブラーム・ホウクギスト
が『1794年及び1795年の中国宮廷派遣オランダ東インド会社使節報告』に
載せました。しかし、それ以前に西洋には情報として16世紀には入っていた
ようです。それから約200年ほどの西洋の中国を表す地図には、必ず帆走車の
予想図が描かれていました。ミルトンも『失楽園』で、1685年にその事を
書いています。また1598年にヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテンの
『旅行記』では、「中国人は(まるで船のように)帆が付いた(四輪車、或いは)
二輪車を製作して使っており、……(中略)……野を行くのにあたかも
水上のごとく風に押されて進む」と書き残しています。
そして、実際に中国式の帆走者を作った西洋人がオランダのシモン・
ステビンです。1600年ごろに記録を元に造って、国際法でおなじみの
グロティウスなど合計28人が乗って、96kmの距離を2時間程度の時間で
進んだといいますから、時速では約48kmという事になります。
当時としてはかなり速かったに違いありません。因みにステビンは
これ以外にも中国から、小数や音楽の等分平均律などを受け入れ西洋で
研究を重ねた人物でもあります。
またしばらくするとオランダでは、1630年代にチューリップの球根が
異常なほどその価格が暴騰して殺人事件が起きるまでになりました。
この‘チューリップ狂時代’と相まって、画家のヘンドリク・ゲリツゾーン・
ポットは「愚者たちのフローラの車」と題する絵を残しました。
これは花や乗り物など外国から入ってきた物に異常な程、熱を上げる
愚かさを絵で表したのです。尚現在、この絵はフランツ・ハルス博物館で
見ることができるそうです。
しかし、この絵の為かこれ以後、チューリップ熱は下がって帆走車のことも
口に出す者はめっきり減って忘れられていったといいます。
371 :
ラムセスX:02/05/07 01:29
⊂正解62⊃ 船の帆(
>>329)
【エジプトはナイルの賜物―】ヘロドトスで知られるこの言葉は、
古代エジプト文明は、ナイルがなければ成立し得ないことを物語っていますが
実際この全長約6700kmの川では、さまざまな文化が生まれ、また思想、戦争
などもここが舞台となったものもあります。言い換えれば古代エジプト文明は
ナイル文明の一つといえるのです。
そのナイルから生まれた古代エジプトを支える文化としては、船というもが
考えられます。古代エジプト人にとって、船はなくてはならない交通手段の
一つであってまた、単に行き来する乗り物だけではなく、神や世界(宇宙)が
乗る神聖な物と考えられていたのです。その船の帆は風を受けて働く為に
風を表すヒエログリフにも登場します。
また、人間の鼻から出る風つまり、「息」も意味を兼ねています。
風は神が創ったものとされ、その神が創った風に似た息をしなくなった人間は
初めて亡くなったと理解されました。船で言えば、人が亡くなることは
風が無くなって動かなくなった、という事です。
『死者の書』第38章には、死者に空気を与える為の呪文が書かれていますが
この場面では死者の鼻に息、或いは空気(風)の象徴である帆を鼻先に捧げられ
ている挿絵が残っています。壁画には新王国時代の第18王朝(紀元前1330年頃)
テーベにあるセンネジェムの墓に描かれています。
一方、船の航行に欠かせないのが舵(かじ)ですがこちらは『死者の書』
第148章の挿絵において、天を支える4本の柱としてオール型の舵が登場して
います。それぞれに「東の空の美しい舵」「西の空の〜」「北の空の〜」
「南の空の〜」という名前が付けられています。しかし、天の柱になぜ舵が
描かれているのかはまだはっきりと分かってはいません。
尚、
>>357でかちゅ〜しゃで書き込めない! さんが解答として『アンク』
と答えて頂きましたが、このアンクを鼻先へ向けるというのは過去に出題
しました。ご覧になっていらっしゃらない方の為に、重ねてそれを述べる事と
なりますが、これは神とファラオの関係でよく描かれたようです。
ヒエログリフには文字そのものが目に見えない象徴となったり、書くだけで
実際のその物と同じだけの効果・価値があったと考えられるという発想から
生まれた物の一つといえます。
アンクは「♀」と表されるヒエログリフで、生命を象徴する物です。
また安定を表す「ジェド」と呼ばれる、穀物を束ねた柱を元に作られた
ヒエログリフがありますが、亡くなったファラオがあの世で神からアンクを
鼻先に向けられて、ジェドを授かる事でジェド(安定)、アンク(生命)
つまり安定した(永遠の)生命を保証されるという事になります。
こうしてファラオは永遠にファラオであり続けることができると考えられて
いたのです。
372 :
ラムセスX:02/05/07 03:21
⊂正解67⊃ 筆記具を棺(ひつぎ)に入れて行進した
>>330 イスラムの社会では、他のキリスト教や仏教の国々が印刷術を利用して
成功しているのを認めながら自分たちにおいては、それを使うことを
拒んでき続けていました。
ラシーッド・アッディーン(1247年〜1318年)は世界の歴史を百科全書の
ように記述した自署の中で、中国の熟練した書家が学者の監督の元で、
官庁が管理して完全に誤りを訂正した重要な文書を版木に彫った、という
記述を残しています。
「この本の写しを入手したい者は、委員会に出向いて規定の料金を納める。
すると、役人が版木を取り出して金貨を鋳造する時の刻印のように、
紙面に押捺して申請した者に手渡す。こうすれば、むやみやたらに
追加や削除ができなくなり、文書の内容が信頼できる物になる。
こうして歴史が受け継がれていくのである」と記しています。
この‘注文出版’の先駆けとも言うべき方法を説明したこの文章は、
当時の東アジア一帯で見られる中国式の印刷書籍について述べた世界最古の
ものです。しかし不思議な事に、アッディーンは自分の本を印刷しようとは
全然考えていなかったようで、その代わりに自分の全著作をアラビア語と
ペルシャ語とに毎年1部ずつ筆写させて、イスラムの諸都市にあるモスクの
全てに1組ずつ本が行き渡るように遺言してそれを実行させる為に資金まで
残しています。
その後、イスラム社会に「印刷」という言葉が登場するのが18世紀に
入っての事です。オスマントルコが東ヨーロッパを侵攻した時に、
20歳だったハンガリー生まれのイブラヒム・ミュテフェリッカは捕虜となり
奴隷となってトルコに連れてこられました。そこでは冷たい主人にひどく
扱われた為に、そこから抜け出そうとイスラム教に改宗しました。
彼はすぐにこの国の言葉を使いこなせるようになって、それが役立ち
トルコの外交関係の仕事に就くことができ、東欧やウクライナ諸国への
使節に任命されるまでになりました。ミュテフェリッカは科学に関心が
あったので、印刷機がイスラム社会に貢献するはずだと考え、1719年には
サンプルとしてツゲの版木にマルマラ海の地図を彫りました。そして、
その後8年にも渡ってスルタンに印刷所の設立を許してもらえるように
努力しました。
彼は『印刷の手段』という論文(1726年)に次のようなことを書いて
説得しています。
【モンゴル人の侵攻やムーア人がスペインから駆逐された時の戦乱で、
コーランやイスラムの本がたくさん破壊されたことは嘆くに値する。
今や廉価な印刷本によって、原理の真正さを損なうことなく、
真の信仰を広める事ができる。さらに、イスラムの本の印刷を
独占してきたヨーロッパ人の手から、自分達のものであるイスラムを
取り返すことができる。
イスラム諸国の中でトルコこそ、まさしく学問の王者になれる―。】
ついに効を奏して1727年、ミュテフェリッカは本を印刷しても良いという
勅許を受ける事ができたのです。しかし、コーランを書写する写字生達は
当然これに抗議して、インクの壺やアシのペン、ぺン削りなどを棺に納めて
印刷所の建設予定地までデモ行進しました。
<後に続く……。>
373 :
ラムセスX:02/05/07 03:23
⊂正解67⊃ 筆記具を棺に入れて行進した(のつづき)
>>372 しかし、律法学者達は「文字や言葉の母型をつくり、紙に印刷して本を
複製」することを律法が許可するという声明を発すると同時に、
「コーラン、コーランの注釈、神学や預言者の言行録、律法に関する本」
を印刷してはいけないと命じました。
いくつかのハードルはありましたが、何とかして1727年にイスラム最初の
印刷所がイスタンブールに完成しました。ユダヤ人の印刷主任と15人の
職工で構成せれていて、書籍用の印刷機が4台、地図用の印刷機が2台
そこで稼動する事になりました。ラテン語の活字の鋳型はヨーロッパから
もたらされました。
イブラヒムが亡くなるまでの18年間に渡って総計で17点、およそ
1万2500部の本が印刷されました。
その中には、歴史、地理、天文学、物理、数学、ラテン語、フランス語、
アラビア語、ペルシャ語からの翻訳、トルコ語―アラビア語の辞書や
トルコ語ペルシャ語の辞書、海運史、磁気学の本などがありました。
ちなみに、トルコで最初に印刷された挿し絵入りの本は、やはり
ミュテフェリッカの版で、ヨーロッパ人が到達して間もない頃のアメリカに
ついて書かれた本で、1538年に筆写本として当時出回っていたものでした。
そして、望遠鏡や顕微鏡の発明などの情報もこのミュテフェリッカの印刷所を
通してイスラム社会に広まっていったのです。
しかし、ミュテフェリッカの死後、印刷所は閉鎖になりトルコで再び
印刷術が登場するのは、19世紀の半ば教育を一般の人たちに広めようと
行われた西洋化の改革運動(1839年〜76年)の時になってからのことです。
そしてコーランの印刷が許可されるのが、この時代の1874年でしたが、
それでもアラビア語に限るという条件が付いていました。
⊂正解67⊃ 筆記具を棺に入れて行進した
イスラムの社会では、他のキリスト教や仏教の国々が印刷術を利用して
成功しているのを認めながら自分たちにおいては、それを使うことを
拒んでき続けていました。
結局のところ≪コーラン≫に印刷の事が、書かれてなかったから・・・
って言うトコロガ理由なのでしょうか?(豚油が理由なら鉱物油にしたら解決)
イスラム教って不思議だ。!
>>374 印刷機を用いるようになると、それまで筆写するのを生業としていた人達が
職にあぶれてしまうというのも、理由の一つじゃないですかね?
イギリスだと、19世紀に自動車が発明された際、馬車の組合が圧力をかけ、
自動車は馬車よりも速く走ってはならない、とか、自動車の前を赤旗を
持った人が走って警告しなければならない、とか、がんじがらめに規制をかけて
結局、自動車産業の発展が遅れたという事がありましたね。
なんとなくその事例に似ているような気がします。
それはそうと、最近、このスレの問題24でも紹介されていた、
エジプトの爪先立ちさせられた捕虜の絵を見たんですが、
このスレをみて、予備知識があったおかげで、興味深く見る事が出来ました。
楽しみながら知識もつく、素晴らしいスレだと思いますので、ラムセス陛下、
これからもガムバってくださいな。
376 :
ラムセスX:02/05/08 17:56
>>374-375 神の言葉などを「印刷」という簡単に、たくさん作れてしまう方法で残すという事が
イスラムの人たちにとっては、けしからんコトだったのではないでしょうか。
書写してコーランのありがたみを、本当の意味を知るというのが当時の敬虔な
イスラム教徒に多かったようです。
ただ今、次の問題のリサーチの為に少し遅れてます。もうすぐ出題できると
思いますので、またよろしくお願いしますm(__)m
≫ラムセスX殿(山犬 殿)
質問に対する回答、有り難うございます。
何と無く理解できます。(宗教に対する一般的な*姿勢*な訳ですね)
次回出題待っています。!!(^^/
あげ
379 :
ラムセスX:02/05/08 23:52
では、次の問題ができるまで今まで‘ボツ’にしてきた問題から出題します。
ボツになったくらいですから、あまり面白くない答えですが
ヒマつぶしに解いてみて下さい。
おまけのQ:北アメリカに住むマンダン族は、食料になる野牛の肉が底を尽いて
なくなると狩りに行きます。ですが、なかなか牛が見つからず
お腹が空く日が続くとある事をします。さてそれは一体何でしょうか?
≫北アメリカに住むマンダン族は、食料になる野牛の肉が底を尽いて
≫なくなると狩りに行きます。ですが、なかなか牛が見つからず
≫お腹が空く日が続くとある事をします。さてそれは一体何でしょうか?
≪待つ≫のはやはり狩りの基本、≪猟ポイント≫の所で見つからないように
≪待ち≫続ける。
ココで待って居る時に、1人又は数人が*神話*や*面白話*をする。
この皆の前で語る行為を≪まんだん≫と言う。・・・・≪まんだん→漫談≫
失礼しましたぁ〜!!
381 :
ラムセスX:02/05/10 20:04
>>380 正解は、『野牛がやって来るまで延々と踊りつづける』でした
あまり面白くなかったので出題は止めたんです。ゴメンなさいm(__)m
382 :
ラムセスX:02/05/10 21:04
では、久々に出題します。
〜レーニンのクイズ日本人への質問〜
【問題70】1917年に起こったロシア二月革命を極めて少ないながらも、
日本人も目撃していた。そのうちの2人が大阪毎日新聞・
東京日日新聞の布施勝治と時事新報の播磨楢吉(なりきち)であった。
その後、布施は大阪朝日新聞の中平亮と共にレーニンと会見する事が
できた。それは1920年6月3日の事である。
この会見でレーニンは、日本についてさまざまな質問をした。
例えば「日本の電力はどれくらいなのか」などである。しかし、
2人を驚かせたのは子供の教育に関するある質問であった。
一体、その質問とは何!?
〜マホメット・棺の謎を解け!〜
【問題71】15世紀のイタリアからマホメットに関するあるうわさが広まった。
それは、彼の眠る棺にはある仕掛けが施されているというものであった。多くのキリスト教徒は
しばらくはこのうわさを信じていた。その為に命がけでイスラムへ
旅行するキリスト教徒もいた。
また、カベウス神父(1585年〜1650年)は、本当にそんな事が
あり得るのか科学的な実験を行った。では、マホメットの棺に
施されていたとキリスト教徒が信じていたその仕掛けとは何!?
〜ヒンドゥー教には欠かせない・おいしいミステリー?〜
【問題72】インドやネパールをはじめとするヒンドゥー社会では、さまざまな
植物が神聖な物とされている。その中で彼らはある植物の材を
火葬の時に使っている。
私たちはその植物の果物については食べたりするので良く知っている。
ヒンドゥー社会ではその果物は「プラサーダ」(供物の御下り=
供物として差出したものが信者たちへ戻ってくる事)として寺院から
信者へ配られる。一方、薬として用いる事もあり、その植物の葉を
燃やした熱気を吸い込むとしゃっくりが止まるという。
では、その植物とは何!?
〜822年、渤海と日本の戦い?〜
【問題73】698年大祚栄により建国された渤海は、日本に何度となく使節を
送ってきている。822年、その使節団と共にあることをする
グループが日本へやって来た。そして、日本人達とあることを
競い合った。それの西洋的な言い方はチベット語に由来する。
では、彼らが競い合ったこととは何!?
383 :
ラムセスX:02/05/10 21:05
〜パレンケの神殿に描かれたパスポート?〜
【問題74】マヤ族を中心に中南米のネイティブ・アメリカン達は、神聖な
儀式の時にある事を行った。
それを行う時に使う道具はまた、特別な意味を持っていた。
例えば、宣戦布告をする時に相手側へこの道具を送りつけたり、
旅をする時にこれを持っていれば、他の部族の場所を安心して
通過できる「パスポート」のような役割も持っていた。
では、パレンケの十字架の神殿にも描かれているその行為とは何!?
〜ニューギニア・アスマット族の首狩りからの謎〜
【問題75】オーストラリアの真上にあるニューギニアの南西部には
アスマット族が暮らしている。彼らはかつては首狩りの風習があった。
戦いなどで敵の首を切って、その頭部を持ってくるのだ。
彼らはその敵の頭蓋骨をある事に利用している。こういうふうに
使うことで彼らの先祖の霊が安らぐのだという。私達もその使い方
自体はよくするのだが、では彼らの頭蓋骨の利用方法とは何!?
〜玉器が語る、中国・良渚文明〜
【問題76】中国の浙江省を中心として、かつて紀元前3300年ごろ栄えた
良渚(りょうしょ)遺跡がある。
その文化を代表するのが墓に副葬されていた玉器(ぎょっき)である。
その中で、ある生き物をかたどった物がある。その生態から
再生の象徴とされたのだが、では、玉器にかたどられた
その生き物とは何!?
〜古代エジプト・太陽の船の秘密〜
【問題77】古代エジプト人たちは、太陽はクフ王のでおなじみの太陽の船に
乗っていると考えていた。昼間は東から西へと現世を船に乗って、
夜間は西から東へと来世を航海しそしてまた、私達の現世に来て
東から西へ旅するものであるいると信じていた。
その為に太陽の船は昼(現世)の物と夜(来世)の物の2つ
造られていた。その夜の船の船首にはしばしばある動物が
乗っている事があった。この動物がさえずり夜が明ける事を
教えてくれると思われていたからであった。ではその動物とは何!?
384 :
イスマイル:02/05/10 21:27
【問題73】
ポロ?
385 :
世界@名無史さん:02/05/10 21:42
【問題75】杯?おさけのむ?
【問題76】蚕じゃなかったっけ?
自信なし
>386 【問題76】
A.蛇…と答えたい所だが、「蝉」
貴人の遺骸の口に、蝉を象った玉を含ませる風習が清朝まで残っていたから。
【問題72】バナナ
【問題74】タバコ
【問題77】雀
どれも自信はイマイチ。
388 :
かちゅ〜しゃで書き込めない!:02/05/10 22:20
〜レーニンのクイズ日本人への質問〜
【問題70】
えっと、レーニンが日本では家庭や学校で子供をあまり殴らないと聞いて感激した
という話を聞いたような記憶があるので、日本人記者が驚いたという質問の内容は、
「日本では子供を教育するのに(どのような)鞭を使いますか」
といったものだったのではないでしょうか。
389 :
世界@名無史さん:02/05/10 22:48
【問題74】瀉血具
ってナニって感じ。
390 :
かちゅ〜しゃで書き込めない!:02/05/10 22:52
〜ヒンドゥー教には欠かせない・おいしいミステリー?〜
【問題72】
う〜ん。この問題は、、、、
果実を食べるんですって?白檀(ビャクダン)の実って食べられますかね。
香木の栴檀、本当の名前は白檀を火葬に使うって読んだことがあるんだけど、
果実を食べる木ですか、、、、、
漢方薬の材料にはなるくらいなんですから、食べても毒じゃないでしょね。
え〜い!答えは「ビャクダンの木」でどや!
〜レーニンのクイズ日本人への質問〜
【問題70】・・・・・ ≪子供の教育に関するある質問であった。≫
読み書きソロバン!(寺子屋)にツイテですかね。
〜マホメット・棺の謎を解け!〜
【問題71】・・・・・ ≪キリスト教徒が信じていたその仕掛けとは何!?≫
キリスト教徒が気になる仕掛けと言えば錬金術! 金製造装置かな!
〜ヒンドゥー教には欠かせない・おいしいミステリー?〜
【問題72】・・・・・ ≪私たちはその植物の果物については食べたりするので良く知っている≫
ん〜閃いたのはカキかビワ。 カキは日本原産だから 正解は≪ビワ≫かな
〜822年、渤海と日本の戦い?〜
【問題73】・・・・・ ≪彼らが競い合ったこととは何!?≫
7〜9世紀と言えば、奈良飛鳥の時代。スポーツでサッカーと答えたいけど
雅なトコロで、詩(漢詩)の朗読合戦かなぁ
〜ニューギニア・アスマット族の首狩りからの謎〜
【問題75】・・・≪彼らの先祖の霊が安らぐのだという。私達もその使い方
自体はよくするのだが、・・≫
木魚の様に使うのでしょうか。
〜古代エジプト・太陽の船の秘密〜
【問題77】・・・・≪古代エジプト人たちは、・・・
動物がさえずり夜が明ける事を≫
やはりニワトリでしょうか。
393 :
ラムセスX:02/05/10 23:07
お見事ー!!早くも正解が出てます。
>>384 イスマイルさん、Q73はポロで正解でーす。
>>386 世界@名無史さん、Q76は蝉で正解です。
>>387 山犬さん、Q74はタバコ(パイプ)で正解です。
>>388 かちゅ〜しゃで書き込めない! さん、Q70正解ですー。
394 :
かちゅ〜しゃで書き込めない!:02/05/10 23:08
〜822年、渤海と日本の戦い?〜
【問題73】
平安時代・仁明天皇の弘仁13年(822年)に、渤海国使が豊徳殿で打毬を行っ
たという記録があるようですから「打毬(だぎゅう)」というですね。
んでもって打毬には騎馬球技と徒歩球技があって、要するにポロとホッケーなん
ですね。
ここまではいいんですけど、どっちだろ。語感的にはポロのほうがチベット語みた
いにも思うけど、豊徳殿で行ったとなると騎馬球技はちょっと難しいように思うし、
ポロはもう
>>384氏が答えてるから「ホッケー」ということでお願いします。
再び回答。
【問題73】雅楽(催馬楽とか)
「我家は 帷帳も 垂れたるを
大君来ませ 聟にせむ 御肴に 何よけむ
鮑さだをか 石陰子よけむ 鮑さだをか 石陰子よけむ」
この歌、大好き。
【問題71】〜マホメット・棺の謎を解け!〜
不老不死になる仕掛け。
【問題72】〜ヒンドゥー教には欠かせない・おいしいミステリー?〜
バナナが違うとすると、桃かな? 桃、大好きなんだよなぁ…。
解答が発表されたのと入れ違いで、間違った答えを出してしまって、
凄くハズカスィ…。>395
【問題73】・・・・・・西洋的な言い方はチベット語に由来する。≫
問題を良く読まなければイケマセンね。!
回答は今日は出ない様ですね。明日を楽しみにシテイマス。
デワ!!
399 :
かちゅ〜しゃで書き込めない!:02/05/11 17:25
【問題72】〜ヒンドゥー教には欠かせない・おいしいミステリー?〜
やはり、ビャクダンの実では果物とは言えないですよね。
んじゃ、マンゴではどうでしょうか。
400 :
ラムセスX:02/05/11 18:41
>>398 補説はすみません、徐々に行っていきますのでよろしくお願いします。
>>399 マンゴーで正解ですー。
401 :
ラムセスX:02/05/11 20:40
⊂正解73⊃ ポロ(打毬)……
>>382 ポロの起源は一般にペルシャ地方と言われていますが、他にもインドや
中国と唱える人もいます。「ポロ」という名前は、チベット語でボールを
意味する「プル」に由来します。近代的なポロは、19世紀にイギリスの軍人が
インドのアッサム地方で習い覚えたのを本国へ持ち帰って、ポロの名前で
近代スポーツ化して世界に広まった為にポロが一般的な名前になっていますが、
中東やインドでは「チュガン」と呼ばれます。
中国にはチベットを介して唐の時代の初期に当たる7世紀頃に伝わりました。
軍事訓練としても行われ玄宗も大好きだったと言います。
打毬(だきゅう)と中国では呼んでいました。
渤海でも唐に入朝した人たちによって伝わり、上層社会を中心に流行しました。
都だけではなく辺境地域でも行われ、文官や学者も行ったと言います。
渤海と日本の関係は722年に始まります。渤海の使節は日本へ向けて、
当初は24人で出発しましたが不運にも蝦夷に流れ着いてしまい、正使以下
16人が殺されてしまいました。7月出羽国に着いた高斉徳(こうせいとく)ら
8人は、翌年の正月に奈良へ行き国書を奉じました。
これは当時仲の悪かった唐と新羅から時の渤海のリーダー武王(武芸)が
孤立してしまうのを恐れた為に出た行為です。つまり日本に助けを求めたのです。
日本側も当時、新羅と仲がよくなかったので、聖武天皇は好意的に受け取り
引田朝臣蟲麻呂(ひけたのあそんむしのまろ)を返礼使にして、渤海の使者に
随行させました。これ以後35回に渡って渤海の使節は日本にやってくる事に
なります。
政治思想だけではなく文化の交流も行われました。その一例がポロ(打毬)の
試合です。
渤海の文官であり、また優秀な打毬の選手であった王文矩は、使節団と共に
打毬チームを率いて日本にやって来ました。そして日本の選手団と対戦して
います。日本には打毬は8世紀頃に伝わったといいますが、当時の嵯峨天皇も
打毬が好きで『早春打毬を観る』の賦でこんな詩を残しています。
芳春景煙早期に晴れ
使客時に乗じて前庭に出ず
杖を回らし空に飛び初月かと疑い
奔毬地に転じ流星に似たり
左擬右承して門に当たって競い
分行群踏するはキュウ雷(キュウは古代の竜、みずちの事)の声
大呼して鼓を籌を催すこと急なれば
観る者猶嫌う都て成しき易きを
〜『経国集』巻11より〜
やり方としては、選手は2チームに分かれて各々が着飾ったウマに乗って
鼓を鳴らす中、両者が疾駆し棒でボールを打って、一回ゴールすれば1点が
与えられるというものでした。
選手達が競技している間に観戦者たちは勝負を賭けあう事がよくありました。
『類聚国史』には、嵯峨天皇も渤海との戦いの際に「帛に二百屯を賭けた」と
いいます。渤海における打毬は滅亡にいたるまで盛んに行われていたようで、
『遼史』の蕭孝忠伝にも書かれています。
また日本では、舞楽の中にも『打毬楽』というものがあるくらい貴族文化に
浸透しました。
因みに、渤海でその他に流行したもというと、囲碁や投壺、雪滑りなどが
あります。
402 :
ラムセスX:02/05/12 00:02
⊂正解76⊃ 蝉(せみ)……
>>383 古代中国では、蝉は土の中にいた幼虫が成虫になる為に、土から出て殻から
抜け出る様子が再生を思わせるために、玉にかたどられる事がありました。
過去にもこのスレで紹介した事がありますね。(
>>168)
そして、中国では不老不死の薬を作ろうという煉丹術においては、
修養の極みで結成した腹中の信念の事を聖胎といいますが、この聖胎が胎から
出る事を「金蝉脱殻(こんぜんだっかく、金の蝉の脱け殻)」に例えます。
西遊記で三蔵法師が、前世の名に因んで金蝉子とか金蝉長老と呼ばれるのも
この煉丹術を反映しているようです。
過去のスレでは、周の頃からこの蝉の玉は造られたといいましたが、
それ以前の遺跡から出土していました。〔すみません(>_<)〕
その中の一つが良渚(りょうしょ)遺跡です。
長江流域には、古くから文明をもった人たちが暮らしていましたが
この良渚遺跡は長江下流域に存在します。この遺跡を中心に存在した良渚文化は
馬家浜(ばかほう)文化の後に生まれたもので、放射性炭素による年代測定では
紀元前3300年から前2200年くらいに栄えました。
遺跡からは数々の土器が見つかっています。これらは山東龍山文化と同じく
黒陶ではありますが、龍山の黒陶と比べて乾燥すると色が褪(あ)せてしまう
ので、偽黒陶あるいは仮黒陶といわれています。この黒陶が浙江省余杭
(よこう)県の良渚一帯で20世紀の初頭から見つかっているので、良渚文明
(遺跡)といわれるのです。その範囲は近くにある太湖を挟んで江蘇省の
寺とん(土+敦)まで広がっています。
黒陶はろくろを使って作られていて、器壁は薄くて高台と三足を付け足した
物が多数確認されています。器形は鼎(てい)、豆(とう)、貫耳壺
(かんじこ)、把手杯(とってはい)に特色があります。
またこの良渚遺跡一帯では、磨製の「へ」字形石器や石包丁が発見されて
いて、水稲耕作が行われていました。また中国最古級の絹と麻織物が見つかって
います。そして1973年以降、江蘇省呉県草鞋山(そうあいざん)、張陵山、
同省武進県寺とん、上海市青浦県福泉山、浙江省余杭県反山(はんざん)など
から多数の玉器(ぎょっき)が見つかっています。これは副葬品として
使われていることが多く、玉器がある墓つまり玉葬墓が多数存在します。
これらの墓は人工で築かれた丘の上にあり、中には木槨を具えたものや
妻妾を合葬したものも発見されています。
玉器は身体や衣類を装飾する物のほかに、壁やj(そう)と呼ばれるものも
多数含まれていて、これらと共に眠っている墓の主は、既に村落共同体の
枠から抜け出した権力者で、豊かに実った稲作農耕から生じる余剰生産を
掌握した次世代の支配者像にかなり近づいています。
ここで、良渚文化の玉についてもう少し見てみると、発見された玉は
鉱物学でいう「軟玉」と呼ばれるものですが、その産地は分かっていません。
この玉器の製作の技術は、既に殷の時代の水準に達していたといいます。
玉器に残された痕跡から加工には軟玉より硬い石英粒(せきえいりゅう)を
含む円盤をろくろによって回転させて切り削り、或いは細かい刻文を刻み込んだ
事が分かります。こうした技術は、黒陶の製作と同じくかなり熟練した人物が
当たらないとできないと思われます。そして既に、専門の玉器製作工房が
あったのではと考えられます。
玉の蝉が出土したのは張陵山遺跡(第四号墓)で、玉蝉の大きさは
長さが4.8cmで幅が3.3cm、厚さは0.7cmです。3つの孔が開いているので
佩用されていたと思われます。これが発見されている中では最古の玉蝉と
思われます。
403 :
ラムセスX:02/05/12 20:05
⊂正解74⊃ タバコ(パイプ)……
>>383 タバコの歴史はアメリカ大陸のユカタン半島に存在したマヤ文明(3世紀〜
13世紀頃)に始まります。マヤでは、トウモロコシのほかにもタバコを栽培
していました。代表的な建築物であるパレンケの神殿(7世紀)の十字架の
神殿の方の入り口に、神官の司祭(事実上の支配者か)がラッパ状のホルダーに
タバコの葉を入れ喫煙し、その煙を出しているレリーフが残されています。
このような喫煙の壁画はその後のアステカ地方(1325年〜1521年)のものでも
見ることができます。
栽培の目的は、単に喫煙を楽しむという訳ではなく、神に捧げる香煙に
使っていたのです。マヤの人たちにとっては、火と煙は神聖なものであり
あらゆる行事にタバコの葉を焚いて、その香煙を神へ捧げ、またその煙を
吸うことは神聖な行為とされていました。それは、煙の中に彼らが信仰していた
神の精霊が宿っていると信じていた為です。故に、喫煙は神官の特権に
なっていました。そして、神官から吐き出されるタバコの煙は精霊の力によって、人間から
悪魔を守るものとされていました。
さらにタバコは、宗教的な儀式呪術から医療に用いられました。
乾燥した葉タバコを粉末にして鼻の病気に使ったり、捏粉にし食べさせて
胃の中の物を吐き出させれば、病毒も一緒に出て行くと考られていました。
ですが、相変わらず宗教的な使い方が圧倒的に多く、何か希望する事態に
なるようにと、神官たちは天地四方へ吹き上げて祈ったのです。これは精霊に
聖なる供物を捧げる事と同じと考えられていました。
儀式としては、生け贄を火の中へ投げた後にタバコの葉を入れることで
その芳しい香りによって、天にいる神が降臨すると信じていましたし、
神の怒りに触れたと思ったときの贖罪、凶変の兆しを感じた時に使ったりと
いろいろな場面で利用されていたのです。
そして、儀式で使うのは神官だけではなく、呪術師もいました。
彼らもまたタバコをたくさん喫煙して、種族の生みの親である精霊と
交霊し、それがうわ言となって予言につながるのです。
元々は、タバコを単に燃やしていただけでしたが、やがてそれを入れる
パイプが生まれました。このパイプにも大きな意味がありました。
重要な会議にはパイプが使われ、タバコを詰める、パイプを部族のリーダーに
渡す、点火する、など一つ一つの行為に意義を持っていて、それらには
それぞれ細かな規定があり、間違うと命取りになる事もあるのです。
このパイプはカルメット・パイプと呼ばれ、このパイプ自体が神聖視されました。
典型的な例として、戦争と平和のパイプが挙げられます。
部族間で争い事が起きて、それが武力で解決するという事になると、
装飾が無い簡素なつくりでタバコの葉を詰める部分が大きい‘戦争のパイプ’を
相手側に送り届けます。つまりこれが宣戦布告ということなのです。
戦いが終わると仲直りの為の平和会議が行われて、毛髪や羽根で飾りまくった
‘平和のパイプ’に最上のタバコの葉を詰めて相手側に渡すのです。
自分達もまた、相手側の平和のパイプを吸って天の四方に煙を吐くことによって
戦争は完全に終わったことを天に知らせるのです。
その他の使い方としては、他の部族を旅などで通過する時に、カルメット・
パイプを持っていることで安全に通過できたりしました。
【後に続く……。】
404 :
ラムセスX:02/05/12 20:06
⊂正解74⊃ タバコ(パイプ)の続き……403
タバコは、西洋へはコロンブスの航海がきっかけで伝わっていきました。
ヒスパニオラ島に着いた一行が初めて喫煙を見たときは「口から煙を出している」
とビックリしたそうですが、スペインから広まった喫煙の風習は単に嗜好と
ういう面だけはなく、当時のヨーロッパの事情にも関わっていました。
それがペストの流行です。当時のヨーロッパ人は、伝わったばかりのタバコの
煙が、ペストで汚染された空気を浄化してくれたり、汚れた体液を体外へ
排出してくれると信じていたのです。
また1571年には、スペイン・セビリアの医師モナルデスが
「タバコは歯痛からおできまであらゆる病気や傷を治せる」と著書で宣伝した
為に大流行を生みました。
しかし、反対の声も出ていました。1575年、スペイン領のメキシコの教会で
喫煙している現地の人がいました。現地の人たちは、タバコを吸うことは
神聖なことであった為に当然という感じだったのですが、ビックリしたのは
教会側。神聖なミサの最中に喫煙とは「ケシカラン!」という事で、教会側は
教法会議で喫煙を禁止しました。これが世界最初の喫煙禁止令です。
しかし、効果は余り上がらずかえって本国のスペインで大流行してしまう
始末でした。そこで、カトリックのリーダー教皇自らが教皇名で禁止令を
改めて出したのです。
因みに、フランス古語でタバコのことを「ニコチアーヌ」、属名を
「ニコチアナ」、更に主成分である「ニコチン」という言葉は、ルイ13世の
王妃カトリーヌにタバコを献上したジャン・ニコに由来しています。
405 :
なんでこんなところまで下がっているんだ?:02/05/13 22:38
お気に入りにつき、保全あげ
406 :
ラムセスX:02/05/15 01:25
⊂正解70⊃ 親は子供を折檻(せっかん)するのか……
>>382 1917年の3月に起こったロシア三月革命(ロシア暦では2月になるので
二月革命になる)を目撃したのはロシアの人たちだけではありませんでした。
わずかでしたが日本人もいました。
大正6年当時は、まだ自由に海外へ旅行できる時代ではなかったので
ロシアにいた日本人といえば、商社に勤める人や留学生、それに新聞記者程度
でした。その中で、首都ペトログラードにいた日本人は、新聞記者では
大阪毎日新聞・東京日日新聞の布施勝治と時事新報の播磨楢吉の2人だけでした。
朝日新聞は丁度、革命の時には記者の交代の狭間であったので、ロシア国内には
誰もいませんでした。
布施は明治末年にロシアに渡って以来5年間もここにいて、日本人としては
かなりのロシア通だったのです。しかも大阪毎日新聞は、留学生の資格で
黒田乙吉をモスクワに送っていたので、ペトログラードとモスクワ両都の
同時の情報が収集できたのです。
遅れた朝日側はすぐに記者を送りましたが、その太田三孝がペトログラードに
到着したのが3月下旬だったといいます。しかし、朝日は遅れを取り戻すべく、
革命を体験した日本人商社マンの1人に取材を頼むことにしました。
大正6年5月12日付けから6月1日付けの東京朝日新聞に載った
『露都革命見聞録』は埋花畔人(まいかはんじん)というペンネームの
人物が記事として書きましたが、これは三井物産の支店に勤務していた
今井政吉だったのです。
公卿出身の商社員正親季董(おおぎすえただ)も大正5年から6年の夏に
かけてペトログラードで過ごしていました。『文芸春秋(昭和5年9月号)』
に「二月革命見聞記」という題で記事を寄せていますし、芦田均も革命当時、
外交官補として首都にいたので革命を克明にしたためています。
三月革命を経験した布施は、今度は十一月革命で名を馳せたレーニンと
会見する事ができたのです。それは、日本軍がアムール河口に近い漁港都市
ニコラエフスク・ナ・アムーレを占領した(尼港事件)の1920年3月12日から
およそ3ヵ月後の6月3日の事でした。場所はクレムリン。そしてもう一人、
布施と同じ席で会見できた日本人がいました。それが中平亮でした。
彼は大阪朝日新聞社の人間で、ロシアの混乱した中、旅券を申請している
ヒマはないと非合法的にモスクワに入りました。そのために、スパイ容疑で
投獄されましたが、日本人記者であることを主張し会見の席に座れたのです。
レーニンは会見の中で、今後のソヴィエトとロシアについて
「全国の工業の電化という課題がロシア工業に課せられている」と
電化の重要性を熱く語りました。そして2人の日本人に「日本の電力は
どれくらい整っているのか」とか「日本の識字率」や「農民は田畑を持って
いるのか」などを聞いた後に、「日本の親は子供をしつけの為に折檻している
のか」と聞いてきました。これには2人とも驚いたといいます。
会見は和やかに終わりましたが、今度はこの記事を日本に送るという
熾烈な戦いが待っていました。中平の方が少し早く帰国の為に腰を上げましたが、
布施も負けまいとすぐに出発、北京行きのバスに乗る時点では一旦、中平を
抜きましたがこの布施が、北京に着いて日本へ打電してしまえば、中平の
負けが決定してしまいます。
そこで中平は、バスから汽車に乗り換えました。そして長春へ出て
そこから打電したのです。その当時の通信状況から安心はできないと、中平は
更に奉天からも打電し、そして何と重ねて京城からも打ったのです。
この作戦があたり見事、レーニンの会見の第一報は中平の勝利につきました。
一方、この勝負では布施は負けましたがその後、スターリンやトロツキーと
会見する事に成功し、ロシアの3巨頭と見事に話ができたのです。
407 :
ラムセスX:02/05/15 02:16
⊂正解72⊃ マンゴー……
>>382 現在、マンゴーの原産地は2つ考えられています。
一つが、インド・アッサム地方からチゴッタン高原(ビルマの国境近く)で、
もう一つがマライ半島です。日本には昭和4年に台湾からもたらされました。
その台湾には1561年にオランダ人が持ち込んだといいます。
サンスクリット語では「アームラ」と言い、ヒンディー語やベンガル語では
「アーム」と呼ばれます。このアームとは、サンスクリット語系の言葉では
「普通の」という意味です。つまり‘一般的な果物’として、特にヒンドゥー
社会では見られているのです。
サンスクリット文学ではしばしば、マンゴーの花序が性的な欲求を促す
作用があるとされています。更にクリシュナ神がルクミニーと結婚した
マドゥヴァナの森にはカダムバ、ココヤシ、シダレガジュマル、ジャンボランと
マンゴーの木でいっぱいだったと神話では語られています。
そのマンゴーの果実は、プラサーダ(供物のお下り)とされ、ヒンドゥー
寺院から参拝者に配られます。また、火葬の時にはマンゴーの木が薪(まき)
として使われ、子供達が最初に手習いで文字を書くのもマンゴーの板なのです。
小枝は護摩の火として燃やされたり、歯ブラシに使われます。
この歯ブラシはネパールでは、日曜日と火曜日になると使ってはいけないと
されます。さらにインド地方の一部の部族では、木と結婚する「木婚」なる
ものが存在します。主に、新婦がマンゴーの木と結婚するそうです。
また、マンゴーを意味するマーカン(ma-kan)を姓にしている部族もあります。
そしてヒンドゥー教で大切な「5種類の神聖な葉」はウドンゲノキ、
インドボダイジュ、ベンガルボダイジュ、パカル(ネパール語。イチジク属の木)
とそしてもちろんマンゴーで成り立っています。
宗教だけではなく、科学的にもマンゴーは人々の生活に医療として役立って
います。例えば、葉や樹皮から作られた水薬は、収斂作用があり、歯痛や
ノド・歯グキなどの痛み止めとしてのうがい薬として使われます。
また、樹皮からとった液とレモン汁を加えたものは淋病の薬として、
乾燥したマンゴーの花は下痢や慢性赤痢、膀胱炎、慢性尿道炎に有効とされます。
さらに乾燥花の粉末は、蚊の殺虫剤としても利用できます。
種もヨーグルトと混ぜて使うと下痢に効くといいます。そして、種子の殻を
とった胚には、回虫を体外へ出すのに効果があるそうです。
まさにマンゴーは、ヒンドゥー社会では「アーム」と呼ぶに相応しい
植物になっているのです。
408 :
ラムセスX:02/05/15 03:38
1問ヒントを……。
Q77は、後漢の時代の物とされる汗血馬の像が20世紀に発見されましたが、
その汗血馬が足で踏んでいる生き物は何でしょうか?それが答えです。
409 :
かちゅ〜しゃで書き込めた♪:02/05/15 19:30
【問題77】〜古代エジプト・太陽の船の秘密〜
>>408 んじゃ、ツバメ、、、、、、えっ?
ツバメって鳴いたっけかな。
410 :
世界@名無史さん:02/05/15 20:16
411 :
世界@名無史さん:02/05/15 20:17
でもなぜツバメを踏んでいるのだ?
412 :
ラムセスX:02/05/15 20:38
>>409-410 ツバメで正解ですー。
>>411 多分、当時ツバメは相当速く空を飛ぶと考えられた生き物だったと思われます。
故に、その飛んでるツバメを踏むくらい汗血馬は颯爽と走る馬という
例えではないでしょうか。
413 :
世界@名無史さん:02/05/15 21:31
なるほど〜。
ところでその汗血馬は今のアラブ馬の祖先なの?
サラブレッドとアラブって外見じゃ見分けがつかない。
今のアングロアラブには、サラブレッドの血がかなり
入ってるとはいえ、
小柄だったモンゴル馬よりは大きかっただろう。
ソレなのにモンゴルはなぜあの小さな馬であんな大遠征が
可能だったのかなあ?
414 :
世界@名無史:02/05/15 22:40
415 :
世界@名無史さん:02/05/15 22:50
416 :
世界@名無史さん:02/05/16 17:56
417 :
ラムセスX:02/05/16 18:33
⊂正解77⊃ ツバメ……
>>383 ファラオが亡くなると、太陽と共に天空を航海すると考えられていました。
その乗り物が「太陽の船」でした。これの有名な物がギザにあるクフ王の
ものです。このクフ王の太陽の船は、紀元前2530年頃(古王国時代・第四王朝)
のもので、1954年にクフ王のピラミッドの南側で発見されています。
全長が43m、幅5.35m、高さ7.9m、排水量が50tの世界最古の木造船でした。
レバノン杉を使ってあるこの船は、発見当時は1224の部分と651の部材に
解体されていました。ですからこれを組み立てるのに14年もかかりました。
朝、東の空から夕方、西の空へと航海する現世の船である「太陽の昼の船」は
マアネジェトといい、地下にあるもう一つの天空を、つまり夕日が沈んだ西から
朝日になる東へと航海する来世の「太陽の夜の船」をセケテト、あるいは
メセケテトといいました。
つまり太陽の船とは2つあることになります。クフ王の船も2艘目が
1980年代に電磁波探査などによって存在が確認されています。全長がこれも
40mほどのスケールです。
最初に発見されたほうの船には吃水線の跡があったことから、実際に
水の上に乗っていた事が分かっています。
古代エジプトでは昼間の航海とは違い、夜の航海はアアペプ(アポピスとも
いった)、つまり大きなヘビが航行を邪魔しようと襲ってくるので、呪文を
唱えたり、従者の神などが戦って撃退して翌日には無事に東の空へ到着する
と考えられていました。<例:末期王国時代、第21王朝 紀元前10世紀の
ヘリィトウェベケトのパピルスの絵には、航行を邪魔するアアペトを従者である
セト神が槍で突いている>
こうして朝日を迎えると信じられていたのです。
この航海では太陽の船の舳先にツバメが止まっていました。ツバメは
古代エジプトでは歓迎されていた鳥で、ヒエログリフでは意味を持たない
表意文字としてよく使われていましたが、「偉大な」という意味でも使われて
いました。このツバメが無事にさえずれば朝を迎える(航海を終える)と
考えられていました。〔自分もツバメがさえずるのを聞いた事がないですが、
エジプト人はそう考えていたようです〕
因みに、逆の意味ではスズメが使われていました。スズメは実った果実や
穀物を食べてしまう為に、古代エジプトの人たちはあまりいい印象を持つことが
できなかったのでしょう。ヒエログリフでは、決定詞としてこの文字がつくと
「小さい、狭い、悪い、病気の、滅びる、空からの」などの意味になります。
418 :
ラムセスX:02/05/16 18:35
⊂正解77⊃ ツバメのつづき……
>>417 太陽の船だけではなく、神殿の儀式に使われる神の乗り物(神輿)も
船の形をしています。甲板には、神が座る厨子型の船室が造られて、船首や
船尾には神の頭部が飾られていましたが、これも航海の安全の為に付けられた
と思われます。<例:カルナック神殿のレリーフにアメン・ラーの聖船として
描かれている>
新王国時代の墓の壁画に描かれている「太陽の船」に乗った太陽神は、
ハヤブサやスカラベ(フンコロガシの仲間)、オスのヒツジなどの頭を持つ
ものとしてさまざまに表されています。時に太陽やハヤブサの目
(古代エジプトではウジャドという)だけで表されていることもあります。
従者としてはトト神、ハトホル女神、マアト女神、セト神などがいます。
<新王国時代、第18王朝 紀元前1320年頃 王家の谷のホルエムヘブの墓の
未完成の壁画など>
古代エジプトでは、太陽はこのように太陽の船に乗って現世である昼を航海し
また夜は来世を航海すると考えられていましたが、この来世をヌト女神で
表現する事がありました。
この場合は、太陽は夕方になると天の女神であるヌトの口に入って、
夜の間に彼女のお腹の中を通って、翌朝にまた生まれるものとされていました。
このケースの時は、星も同じように生まれると考えられていました。
更にあるときは天は「天のメスのウシ」の姿で表される事がありました。
この場合は太陽は子ウシの姿になっていたのです。
このように古代エジプトの太陽に関する考えはいくつかあり、時にそれらが
混ざっている場合もあり、今の私たちからするとチョッとややこしい時も
あります。
419 :
ラムセスX:02/05/16 19:24
>>392 ニワトリと古代エジプトの関係は古代エジプトスレッドで過去に出題した事がありますが、
あまり、古代エジプトではなじみがなかったようです。
【問題】1923年にカーターが発掘したツタンカーメンの王墓からはさまざまな物が
出土した。その中には、ある生き物が描かれた陶片があった。
その生き物は第18王朝トトメス3世が、シリアを征服した時の年代記にも
書かれてはいるが、実際にその生き物がエジプトに伝わったのは
およそ1000年後のプトレマイオス王朝になって、シリアから伝わった
という。
では、ゾロアスター教において神聖とされるその生き物とは一体何?
(「古代エジプトスレッド」で過去に出した問題より)
⊂正解⊃ ニワトリ
ニワトリは古くマレー半島などにいた赤色野鶏がそのルーツとされて
います。家畜化したのは、今から一説には5000年前とも言われています。
インドのマヌ法典(前1200〜前800年)には、家鶏は食べてはならないと
記されています。恐らく、闘鶏に使われたと思われます。
ミャンマーでも紀元前1000年頃には闘鶏が行われていて、バリ島では
食用より闘鶏に多く使われています。
日本には、弥生時代後半(紀元1世紀頃)には少なくとも朝鮮半島から
入ってきたと思われ、埴輪(はにわ)にも象られています。
また、17世紀初期にシャムから闘鶏に向いたニワトリがもたらされました。
これが軍鶏(シャモ)という事です。
西方には、ペルシャがインドを攻めた時に持ち帰ったと言われ、
ペルシャの支配に置かれたメソポタミアでは‘ペルシャ鶏’とも呼んで
いました。新約聖書にも登場するニワトリは、紀元前6世紀に生まれた
ゾロアスター教において、「太陽の使い」とされ、犬と共に神聖な生き物に
なりました。別名‘一日の聖なる布告者’といわれたほどです。
古代エジプトで最初にニワトリの事が記されたのは、トトメス3世
(前1501〜前1447年)がシリアを征服した時に書かれた年代記ですが、
これをハワード・カーターのニワトリが描かれている陶器の破片の発見
(ツタンカーメン王墓)により決定的にしました。
しかし、トトメス3世のシリア征服の時代にはまだニワトリは、
シリアにはいなかったので、南方のアジア(インドか?)より直接海路で
持ってきたものと現在、考えられています。ですが、次にニワトリが
古代エジプト史に登場するまで約1000年かかります。
これは、エジプトでは古くからガチョウやハトを飼っている為に
あまり食用として注目されなかった事や、儀式用としても当時は
ファラオだけでなく神官も力を付けて来た時期で、独善的な彼らの
神学教義から‘異国の鳥’は信仰の対象から外されたと思われます。
その後、プトレマイオス朝になってシリアからもたらされました。
ですから恐らくゾロアスター教もいっしょに来たのではと自然と考え
られます。
また、ギリシャでは太陽神アポロがニワトリを抱えている像が
造られたり、ガリア人はニワトリを勇敢の証と考えてきました。
故に、フランスでは切手や貨幣のデザインにオスのニワトリが
使われるのです。
420 :
ラムセスX:02/05/16 19:58
>>383 Q75のヒントは、その頭蓋骨の高さが使うのに丁度いいようです。
基本的に毎日使うものです。
421 :
世界@名無史さん:02/05/16 23:46
422 :
世界@名無史さん:02/05/17 00:01
問75 てことは枕かね…
423 :
ラムセスX:02/05/17 20:01
⊂正解75⊃ 枕……
>>383 グリーンランドに次いで2番目に大きな島として知られるこのニューギニア
には、標高4500mを超える山脈があるなどして、大変過酷な自然環境になって
います。そんな島へ最初に目をつけたヨーロッパの国がオランダでした。
昔からニューギニアの西端の海岸地域は、インドネシアのスルタンの国と
行き来があって、その関係でオランダの東インド会社の支配に置かれました。
一方、東部はオーストラリア系の入植者が入りました。19世紀後半になって、
オーストラリア系の入植者とオランダ系の入植者との対立が起こり、不安を
感じたオーストラリア系入植者は島の東半の一部、ないしは全部を領土として
併合するようにイギリスに詰め寄りました。
そうこうするうちに、今度はドイツが島の北東部に現われ始めました。
彼らは最初は交易活動をしていましたが、その内に政治的な力を持つように
なったのでようやくイギリス政府は重い腰を上げ、1884年に島の南東部を
保護領にすると宣言しました。
オランダ・ドイツ・イギリスはニューギニアで暮らす先住民達の意見を
聞かずに舞台をヨーロッパへ移し、それぞれの島の領土線を幾何学的に
引いてしまったのです。そしてその後、イギリスは自国の領土であるパプアを
新しく成立したオーストラリア連邦に譲りました。更に1914年に、オースト
ラリア側はドイツ領ニューギニアを自国のものにしたのです。
そんなニューギニアにはヨーロッパ人が来る前から、いくつもの部族が
暮らしていました。島に存在する言語の数は1000種類を超えるといいます。
それは最初に言った「過酷な自然環境」が、部族同士の文化などの交流を
妨げた結果になった証拠といいます。
そのニューギニアの南西部一帯に暮らしているのがアスマット族です。
彼らは石を全く含まない沖積土の森で暮らしています。ですから彼らが持っている
石斧は、遠く離れた高山地方の諸部族から物々交換して得た物です。
また、土器を知らないので食べ物は全て焚き火であぶって食べるのです。
そんな彼らにとって、サゴヤシという植物は大変重要です。この植物から
取れる実はもちろん食用として、また、木は家を造ったりブタを取る為の
狩猟道具として、更には川を渡るのに使うカヌーやカイとして、そして火を
起こすものとして利用されます。
アスマット族にとって、木は人間と同じであるという考えがあります。
つまり木の根は人間の足、木の幹は人間の胴体といった具合で、木の実は
人間の頭になります。この木の実と人間の頭という考えは、彼らのある風習に
関わりを持ちます。それが首狩りです。木の実を食べるコウモリやサイチョウ
などの鳥などは、首狩りの象徴的な生き物とされています。
また、交尾の後にオスの頭をメスが食べてしまうカマキリも、首狩りの象徴と
されます。アスマット族は、女性が積極的に戦争で出かける男性を励まし、
敵の首を狩ることを期待していました。失敗すれば人前で夫をののしるという
光景があったといいます。
この首狩りで得た敵の頭蓋骨は、枕として使われます。こうする事によって
先祖の霊が安心すると彼らは考えているのです。
そして、アスマット族が首狩りをしていた理由には彼らの生命に対する考え方が
反映されています。
それは何かが滅びなければ新しい生命は生まれ得ないという事です。
敵の生命力を首狩りという行為で確実に自分のものにし、吸収しようという
事なのです。彼らにとって人間が死ぬという事は、寿命という概念では
否定されてしまいます。戦いで殺されるか、呪術で呪い殺されるかのどちらか
でしかないのです。
この為に首狩りの風習は最近まで脈々と受け継がれていたのです。
424 :
ラムセスX:02/05/17 20:37
>>382 Q71のヒントは、その実験に使ったものの名前の由来は、プリニウスによると
小アジアのヒツジ飼いの少年が発見した事から名付けられたと『博物誌』に
載せています。
また、この物の名前の由来は他にもたくさんあり、小アジアの丘の名前から来た
ともいわれていますが、どれもあまり的を得ていないようです。
425 :
世界@名無史さん:02/05/17 20:42
426 :
ラムセスX:02/05/19 01:25
⊂正解71⊃ 2つの磁石の磁力で空中に浮いている……
>>382 デ・メゾーの著書『ピーター・ベイル氏の辞典(第2版)』(1734年〜38年)
には、「15世紀のイタリアでは、マホメットが死んだ後にサラセン人は、
遺体をペルシャのある町に運んで、鉄の棺に納めた。棺の上下には磁石が
設けてあって、棺は2つの磁力の為に空中に浮いていて、この仕掛けを知らない
人は奇跡が起こったと信じている」と記しています。
マホメットの死後、何世紀にも渡って多くのキリスト教徒たちは、この説が
本当かどうか確かめたかったのですが、イスラムの土地に行くという事は
イスラム教徒に改宗しなくてはならず、たとえ仮に改宗したとしても、
帰ることは許されず、絶えず他のイスラム信者に監視されていなければ
ならなかったのです。もし、改宗を拒めば答えは1つしかありませんでした。
そう、死が与えられたのです。
ですが、1515年になって、何とか逃げ出す事に成功したイタリア人が
預言者の墓のことを書き記しました。それには墓は空中には浮いていなかった
と書かれています。
しかし、17世紀の初めに2人の著述家がこの説を確かめようと検討しています。
そのうちの1人は、「滑らかなテーブルの上に鉄針を2、3本置いて、その上に
銀か真鍮(しんちゅう)の板を被せて板の上に磁石を乗せてみなさい。その後、
板をテーブルから数インチ上へ持ち上げると、針は空中に浮かぶであろうが、
その先端は板の下面に接しているであろう。」と述べ結論を出しています。
つまり「どんなものにせよ、それが直接、磁石に接するかまたはそれと磁石の
間にある何か他の物に接するのではない限り、磁力だけで宙ぶらりんに
浮かせることはできない」としています。
また「重い目方を支えるには磁石がたくさん必要であろうが、それらの力は
互いにごちゃごちゃになってかき消されてしまうであろう」といっています。
具体例として「何頭かの馬で荷物を運ぼうとする時に、各自が勝手な方向へ
進もうとすれば、たとえその馬たちが強者どもであっても、荷物は全然前には
進まないのと同じだ」としています。
一方、もう一人検討した人物がいます。それがカベウス神父(1585年〜1650年)
でした。彼は実際に実験をしてこの問題に取組みました。
実験は、まず2つの磁石を上と下に指で4本分空間を作って置きました。
つぎに2本指で針の真ん中をつまんでそれをそっと2つの磁石の間に差し込んで、
針が上下の磁石から丁度同じ力で引かれて指などの支えがなくても、空中に
浮くような場所を見つようとするものでしたが、これが何と成功したといいます。
しかし神父は、友人にこの現象を見せようと動いた瞬間、空気の振動で
針は落っこちてしまったといいます。
神父自身はこの実験は成功したといっていますが、仮にこの実験が成功した
としても、遺体が納まってしかもその納まっている棺が鉄ときたら、それを
浮かすのには相当の強力な磁石が必要になります。まず実際上無理な話なのです。
【後に続く……。】
427 :
世界@名無史さん:02/05/19 01:27
428 :
ラムセスX:02/05/19 23:14
⊂正解71⊃ 2つの磁石の磁力で空中に浮いている(のつづき)……
>>426 しかし、マホメットの棺の磁石空中浮揚説は18世紀になっても、信じられて
いたといいます。この説がようやく否定的に捉えられたのは20世紀に入ってから
の事でした。それは、W・アーヴィングの『マホメットの生涯』(1915年)でも
分かります。
「マホメットは死ぬ少し前に、預言者は全て死んだその場所に葬られるべきだ
という意見を表明した。この遺言は全く文字通りに実行された。というのは
墓は、アエシア(マホメットの妻)の家の中、つまり彼が息を引取ったその
ベッドの下に掘られていたからだ。
その後、広い聖堂を建てて、墓をその中へ納めた。墓は豪華な外囲ですっぽり
囲まれていて、約6インチ四方の小さな窓を通すほかは、内側を覗くことが
できない。外囲は鉄の欄干をめぐらし緑色に塗られて、金線銀線の細工で飾り、
真鍮に金メッキした針金を織り込んである。この神聖な外囲の上に、金メッキ
した球と三日月を載せた高いドームがそびえている。
メディナに近づく巡礼者たちは、このドームを初めて目にしたとき、深々と
体を伏せ、適当な祈りを唱えて預言者の墓にあいさつをする」と記されています。
ちなみに、磁石の事をマグネットといいますが、この名前の由来について
さまざまな説がでています。プリニウスは、マグネスという名の羊飼いが
小アジアのイダ山の斜面で羊を追っかけている時に黒い岩に足を捕られて
しまいました。よく見ると、自分のはいていた靴に打ってあった釘と、杖の
鉄の石突きの部分がその岩にくっついていたのです。
ここからこのような性質を帯びた岩をマグネス石というようになり、後に
マグネットと言われるようになったと述べています。
また、磁石が発見された場所が、小アジアのマグネシアの丘であったので
そこから名付けられたなどさまざまな説が出ていますが、あまり確証の持てる
説は見つかっていません。
429 :
ラムセスX:02/05/20 02:41
〜年齢を当てろ!古代ギリシャ数学史〜
【問題78】 古代ギリシャでは、紀元前6世紀から紀元後3世紀頃までは
数学において、幾何学がその中心であった。
しかし、代数学も少数ながら研究を行っていた者たちがいた。
身近な人物でいえば、物理法則にもその名を残すアルキメデスも
その1人であった。
さて、もう1人古代ギリシャの代数学に名を残す人物がいた。
彼は伝説では、自分の墓碑に次のような数学者らしい言葉を遺している。
『私はその生涯の6分の1を少年、12分の1を青年、7分の1を
独身で過ごした。その後、結婚してから5年目で子供が生まれた。
その子供は私より4年前に私の年齢の半分でこの世を去った―』
では、彼が亡くなった年齢は何歳!?
(計算式と答えがあって正解になります。)
〜アフリカ・ベニン帝国の豆知識!?〜
【問題79】 12世紀頃に生まれたというベニン帝国では「ジルー」とか「エゼレ」
と呼ばれていた豆がある事をする為に栽培されていた。
ニジェール川のデルタ地帯であるカラバル海岸の人たちも同じ目的で
使っていたという。その豆は神聖なものであったので、限られた場所で
しか栽培する事が許されなかった。その為に収穫後は厳重に保管されて
いた。では、その豆の利用法とは何!?
〜フランス パリ・ナチスドイツのもう一つの遺産〜
【問題80】 1940年6月14日にドイツ軍がパリを占領した。そして、ドイツ軍は
パリでテレビスタジオを造って、軍が引き上げた後もそのスタジオを
フランスが使っていた、という事を過去に紹介したが(
>>173)、
実はもう1つ、ドイツ軍がパリに造って、それを軍が引き上げた後に
そのままフランスが利用していた施設がある。
いかにも戦時中の施設らしいのだが、では一体、その施設とは何!?
〜作れば破門!買えば破門! ローマ教皇の軍資金集め作戦〜
【問題81】 1453年、オスマントルコがビサンツ帝国を滅ぼし、
聖地コンスタンティノープルを占領した。その時にこの地にいた
カストロというイタリア人は、トルコが占領した時に脱出して
祖国イタリアに戻った。その後、彼はトルファである物を発見した。
それは、当時のヨーロッパで使うほとんどをコンスタンティノープル
からもたらされる物であった。しかし、オスマントルコの侵攻後、
ヨーロッパへもたらされる事はほぼなくなっていたので、大きな
ニュースになった。
時の教皇、ユリウス2世はこれを扱う事は教皇の許可がないと
できないとし、事実上、教皇が独占するに等しくなった。
独占の理由はこれを売って得た資金を元にオスマントルコから
コンスタンティノープルを奪回するという事であった。
そして勝手にこれを作ったり、トルコ人から買ったりした場合は
破門にするとまで宣言した。
トルファのそれは、火山活動によってできていた物で、
化学的には酸化鉄や粘土などの混じった物を取り除いて結晶化させて
作っていた。
では、教皇が独占化したその特産品とは何!?
430 :
ラムセスX:02/05/20 02:41
〜古代エジプト・疑問詞の疑問〜
【問題82】 古代エジプトでは文字としてヒエログリフが使われていたが、
そのヒエログリフで「どこ?」という疑問詞を表す場合、
ある物が描かれた。
それはツタンカーメンの墓からも出土した物であるのだが
では一体、それは何!?
〜キューバ・経済危機で消えた「ボラス」って?〜
【問題83】 1962年2月3日、キューバ危機が起こった。この影響は大人だけ
ではなく、子供達にも及んでいった。その例として「ボラス」と
呼ばれる遊びに見ることができる。この遊びで使うある物が
経済危機の為に姿を消してしまったのだ。
この遊びは、18世紀にキューバの奴隷解放後の新しい労働力として
大量にやって来た中国人によって伝えられた。従って、その遊びに使う
ある物も中国から輸入していた。
日本ではその物の歴史的なイメージとして、西洋のある国を
思い浮かべがちだが、では遊びに使うそのある物とは何!?
〜ローマの顔 コロッセオ・闘技場ともう一つの素顔〜
【問題84】 古代ローマを象徴する物にコロッセオ(コロッセウム)がある。
ネロ帝の死後、帝位に就いたウェスパシアヌス帝が70年ごろに
建設し始め、79年ごろ未完ながら献堂式を行っている。そして翌年から
闘技が行われるようになった。
闘技といえばアレーナ(闘技が行われた舞台)で剣闘士や猛獣が
闘ったり、時にアレーナに水を流して人工の池を造り、そこで
模擬海戦行ったりしていた。
このコロッセオは闘技場として5世紀初め頃まで使われていたが、
時代は過ぎ中世になると、コロッセオは違った使われ方をした。
では中世におけるコロッセオの使い方とは何!?
【問題79】【80】 【82】 【84】
貨幣 硝石 杖 浴場 ?
432 :
世界@名無史さん:02/05/20 07:50
【問題79】
裁判
433 :
世界@名無史さん:02/05/20 07:58
【問題84】
建築石材の採取
434 :
ラムセスX:02/05/20 10:05
435 :
世界@名無史さん:02/05/20 11:26
[問題78]
「7分の1を独身で」のところが少年+青年を含まないとして解答いたします。
彼が亡くなった年齢をx とします。彼が、結婚してから亡くなるまで、
x - (x/6 + x/12 + x/7) = 17x/28
年となります。
よって結婚して5年後に産まれ、彼が亡くなる4年前に亡くなった子供の年齢は、
17x/28 - (4+5)
となります。これが彼の年齢の半分 = x/2 に相当するのですから
17x/28 - (4+5) = x/2
です。これを解くと、
x = 84
となります。念のため検証してみますと、
〜14 少年
〜21 青年
〜33 独身
〜38 子供誕生
〜80 子供死亡(享年42才)
〜84 本人死亡
となります。
【問題82】硫黄かな?
【問題82】弓矢かな?
436の問題82の回答は、問題81の間違いです。スマソ。
ところで、問題78の「ディオファントスの方程式」
中学の教科書に紹介されてたなぁ。懐かしい…。
>>435 [問題78] 〜年齢を当てろ!古代ギリシャ数学史〜
いんや、ここは敢えて異論を立てたい。その解答には3つの疑問点がある。
1つめは、「その子供は私より4年前に私の年齢の半分でこの世を去った」という場合の
私の年齢は自分の死亡時の年齢ではなく、4年前の年齢と受け取るのが自然だと思え
ること。
2つめは、整数しか使わないのならば、問題があまりに簡単すぎること。6,12,7の最
小公倍数は84だから、年齢として168歳がありえないことから、問題の後半は意味が
なくなってしまうし、古代ギリシャで分数が知られていなかったとは到底思えない。
3つめは、古代ギリシャでは0の概念、少なくとも0歳という概念は存在しなかったと考え
られるので、年齢はいわゆる「かぞえどし」だったはずであること。
以上のことから計算しなおすと、彼が亡くなった年齢をXとして
X = (X/6 + X/12 +X/7) +5+(X-4)/2+4
X = 65+1/3 年齢66歳
検証すると
11 12歳まで 少年
16+1/2 17歳まで 青年(チョト苦しい)
25+13/14 26歳まで 独身
31歳 子供誕生
62歳 子供死亡(享年31歳)
66歳 本人死亡
となるな。
〜フランス パリ・ナチスドイツのもう一つの遺産〜
【問題80】・・・・・ やはり≪地下工場≫ですかね。
〜作れば破門!買えば破門! ローマ教皇の軍資金集め作戦〜
【問題81】・・・・・ たしか≪ミョウバン≫
〜古代エジプト・疑問詞の疑問〜
【問題82】・・・・・ ≪地面印と、?印≫が合体しているのでしょうか?
〜キューバ・経済危機で消えた「ボラス」って?〜
【問題83】・・・・・道具を使う遊び = 凧、こま、綾取り、ゴム飛び、
でも西洋っぽい物、 ≪ダーツ≫でしょうか?
〜ローマの顔 コロッセオ・闘技場ともう一つの素顔〜
【問題84】・・・・・ コレは、たぶん≪家畜の飼育場≫だと思ったら
採石場!! *答え出てましたね* でもナンかで読んだ気するんだけぢなぁ〜
豆は神明裁判用でしたか・・・どじった。
【問題82】
サンダル
>>438 私は3つめの疑問点については、問題文に出てくる「年齢」を「何年間生きた
か」と解釈し、1つめの疑問点については、死ぬ間際に「俺の息子は俺の半分
しか生きなかったなあ」と思って墓碑に残したと思ったのですが、私の解釈で
はどちらもちょっと無理がありますね。
442 :
かちゅ〜しゃで書き込めた♪:02/05/21 00:15
〜キューバ・経済危機で消えた「ボラス」って?〜
【問題83】 −−−− ドミノかな?
443 :
かちゅ〜しゃで書き込めた♪:02/05/21 00:28
〜作れば破門!買えば破門! ローマ教皇の軍資金集め作戦〜
【問題81】 −−−− う〜ん。硫黄じゃ簡単すぎるかな、、、
>>441 あのぅ、、、すいません
>>438 のMail欄を見てください、、、、、、ネタです。
444 :
ラムセスX:02/05/21 16:25
正解を答えてもらった問題は
Q78(
>>435)、Q81(
>>439)です〜☆
>>442 ドミノは確かにキューバでは流行っていますが、正解の遊びではありません(>_<)
445 :
ラムセスX:02/05/21 19:02
⊂正解79⊃ 神明裁判で使う……問題は
>>429 ベニン帝国で「ジルー」ないし「エゼレ」と呼ばれていた豆は、学名を
‘フィソティグマ・ヴェネノスム’といいます。
この豆は、カラバル海岸のいくつかの土地で栽培されていましたが、
神聖なものだったので、それ以外のところで栽培される事は許されませんでした。
従って見つかりしだいそれは引き抜かれてしまいました。
裁判では、この豆を挽いて水に浸してできた液体がよく使われました。
裁判はまず、被告が土地を祀った社(やしろ)に連れて行かれることから
始まります。社の周りには裁きに立ち会おうと人々が集まっていましたが、
被告はその人たちの前でその豆、或いは液が口に運ばれたのです。
豆が運ばれた時にはその数は約30粒だったそうで、それを噛まなければ
なりませんでした。
飲み込むとその豆の中毒の症状がはっきり出るまで、いろいろな所を
歩かなければなりませんでした。そして、被告が飲み込んだものを吐いて
中毒症状が消えていれば無罪とされたのです。
この、ベニン帝国から受け継がれているカラバル地方の神明裁判は
古くは皇帝と有力者からなる検断の立会いの元に行われました。
この試罪法が行われるケースは、魔術を使った罪で告発される人たちが
ほとんどでした。
使われる豆は収穫されると厳重に管理されました。種子は村のリーダー達の
小屋に貯えられていました。前年の残った物は水の中に捨てられて、毎年
新しい豆が使われていたのです。
この神明裁判で無罪になった人はまずいません。
裁判を受ける者の中には、この裁判自体死刑執行の手続きだと考える人も
いました。
446 :
ラムセスX:02/05/21 21:04
⊂正解84⊃ 石切り場……問題は
>>430 古代ローマの象徴ともいうべきコロッセオは、ウェスパシアヌス帝の時代に
造られました。彼は、暴君といわれたネロ帝による権威失墜の回復の為に
この闘技場の建設を実行しました。
ネロ帝の後、ウェスパシアヌス帝になるまで目まぐるしく皇帝が乱立しました。
西暦68年、ガリアの知事であったヴィンデクスが反乱を起こし、これによって
ネロ帝は失脚、更にイスパニアのタラコンネンシスの知事であるガルバが
帝位に就くことになり、ネロ帝は自殺しました。
これによって事実上ユリウス・クラウディウス朝は断絶しました。
しかし、71歳の高齢の為、また先の暴君のやり方に反動してガルバは、
保守的になっていました。そこで69年、将軍でありネロ帝の妻ポッパエアの
先の夫であったオトーが皇帝になりました。
ですが、オトーより先に皇帝に候補として立ち上がっていた下ゲルマニアの
知事ヴィテリウスがローマに進軍、そしてオトーを自殺させ帝位に就きました。
しかし今度は、ネロ帝のユダヤ攻めに対する反乱を鎮定する役に就いていた
ウェスパシアヌスが元老院と西方諸州の軍隊からも承認され皇帝になったのです。
こうして新しい王朝フラヴィウス朝が幕を開けました。
彼は帝位に就くと、まずガリアとユダヤの反乱を完全に鎮圧したり、これまで
あまり皇帝と上手くいっていなかった元老院と仲良くすることにしました。
さらに貧困した財政を立て直そうとしました。市民に増税を行いましたが、
彼らにとって厳しい事を押付けるだけでなく、気持ちがエキサイトする物も
提供しました。それがコロッセオだったのです。
建てられた場所は、ネロ帝が64年、ローマの大火で土地を買収した時に
建てた黄金宮(ドムス・アウレア)の敷地内にあった池が選ばれました。
この池を埋めて70年ごろに建設されました。そして79年に未完ながら献堂式を
行っています。しかし、実際に完成したのは息子のティトゥス帝の時代の80年頃
といいます。古代ローマ史でいえば、ポンペイがヴェスヴィオ火山で埋没したり
(79年)、ネルヴァ帝が即位して五賢帝時代が始まった頃(96年)です。
名前については、古代ローマの頃はこの円形競技場の事を「フラウィテウスの
アウフィテアトルム」と呼ばれていました。
「フラウィテウス」とはウァスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌス3代が
属していた家系の名前で、「アンフィテアトルム」とは円形の闘技場という
意味です。それがコロッセオと呼ばれたのは、黄金宮の入り口にあった太陽神
ヘリオスをネロ帝は真似て自分の巨像を造りました。
ローマで巨像の事をコロッススというのでそこから来ています。
古代ローマ帝国崩壊後、ネロの巨像もなくなっていましたが、そのネロ帝の
巨像の話は語り継がれて、今度は「巨大な」円形競技場に転用されたのです。
時代でいうと11世紀頃から人々は使い出したといいます。
その競技場ではさまざまな催しが行われていました。剣闘士vs剣闘士、
剣闘士vs猛獣、猛獣vs猛獣などの戦いが行われていたのです。
また、水を引いて模擬海戦も行われていました。模擬海戦は「ナウマキア」と
呼ばれていました。
コロッセオの献堂式でも、ティトゥス帝の主催で大規模な模擬海戦が行われて
います。アレーナに水を張った後、水を恐れないように調教したウシやウマなど
を解き放ったといいます。また彼は、水面に敵と味方に分かれた軍船を浮かべて
ギリシャのペロポンネソス戦争(前431年〜前404年)の発端となったコリントス
とコルキュラの名高い海戦を再現しました。
447 :
ラムセスX:02/05/21 21:06
⊂正解84⊃ 石切り場(のつづき)……
>>446 東西に156m、南北に188m、収容人数約4500人のこの円形競技場はしばらくは
人々のストレス発散の場となっていましたが、5世紀、ついにその役目を終える
時が来ました。その時代は405年のホノリウス帝の時代とも、またウァレン
ティニアヌス3世の時代の438年ともいわれます。
ローマ帝国の崩壊後、コロッセオはローマを見守っていながら一方、人々は
過去の熱狂振りを忘れていきました。
そして、中世になると競技場としてではなく、当時の社会や経済を動かしていた
教会などの建築材料として利用されていきました。フランスの大使館でおなじみの
バルベニーニ宮殿やバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の基礎部分などに利用
されたのです。その利用頻度は大きくコロッセオの全体の3分の2も利用に
当てられています。
コロッセオの石は「トラヴェルティーノ」と呼ばれる大理石が使われています。
この大理石は耐久性に優れ、4世紀にこの大理石で造られた橋が現在も残っている
ほどです。この大理石はローマから700kmも離れたバンニ・ディ・ティッポリと
いうところから運ばれてきています。
古代ローマの時代は競技場として使われていたこの大理石の建物は中世になると、
禁欲的な考えから人々はただの過去の建築物としてしか見ることができなかった
のです。
わざわざ教会を造るのに700kmも離れた所から切り出すのは面倒だと考えたかも
知れませんね。
こうして、当初は権威を回復するために、また自分の善行を宣伝する為に
建てられた円形競技場、コロッセオは中世から14世紀ごろまで石切り場として
使われ、15世紀からはキリスト教殉教の地として保存される事になりました。
そして現在、歴史的な遺産としてその保存の目的に加わる事になり、歴史の
証言者としてローマ史を語っているのです。
448 :
ラムセスX:02/05/21 21:08
>>447 競技場⇒闘技場 の間違いです。すみますぇんm(__)m
【問題82】ブーメラン。
たしかエジプトでも使われてたと思うんですが…。
450 :
ラムセスX:02/05/21 22:31
>>449 お見事ーッ☆
Q82:ブーメランです。
451 :
ラムセスX:02/05/21 22:59
>>447 訂正その2
収容人数 4500人⇒45000人です。
452 :
ラムセスX:02/05/22 23:33
⊂正解78⊃ 84歳……問題は
>>429 古代ギリシャの数学は、ギリシャ文化の一つである哲学から学問的に派生
しました。哲学は元々、世界がどうあるか、または世界でどのよにして生きる
べきかということがテーマで、背景には神話を自由に批判できたギリシャの
文化的な風土が強く働いていました。
その哲学を学問的に体系化したのがタレスです。タレスは哲学者であった
のと同じく商人でもありました。商業目的で出かけたエジプトで、数学を
学び、そこで幾何学をギリシャで根付かせました。
タレスの身近な業績としては「二等辺三角形の底角は等しい」「対頂角は
等しい」などの幾何学的な事を残しています。
このような、図形の性質を研究する幾何学は‘geometry’といいますが、
これは土地を表すgeoと測量を表すmetryの合成語です。
エジプトではナイル川の度重なる氾濫で農地が乱されました。そこで、自分の
所有する土地をはっきりとさせる為、或いは税として納める収穫物がどれくらい
になるか土地の大きさで計算する必要がある為に測量が発達しました。
幾何学というその言葉はエジプトからギリシャへもたらされた名残なのです。
一方ピタゴラスは、数とその比例により世界はできていると考えました。
そのピタゴラスの幾何学としての業績は、「ピタゴラスの定理」とまでいわれた
【直角三角形の斜辺上に立った正方形は、他の直角三角形の二辺の上に立った
正方形の面積の和に等しい】という事を見つけたという事です。この定理は、
三平方の定理ともいわれそれ以前は日本では鈎股弦(こうこげん)の定理とも
いわれました。
因みに、例えば(3,4,5)のような直角三角形になるような自然数の組を
ピタゴラスの数といいます。
更に哲学では、ソクラテスがその対象を人間の生き方に向きを変え、その後の
プラトンやアリストテレスに強く影響を与えました。哲学の学問化も進み、
哲学だけでなく先の数学のようにさまざまな分野にその影響をもたらしたので
した。
哲学から派生した数学の幾何学の集大成ともいえるのが、ユークリッドの
幾何学です。ユークリッドはソクラテスの弟子で、メガラ派をつくった人物
としても知られますが、数学では『原論(ストイケイア)』を著し、幾何学を
研究した人物として知られています。
彼の考え方は放物幾何学とも呼ばれ、19世紀のヨーロッパまでにもその名を
馳せることになるのでした。彼の業績の一つが‘ユークリッド空間’といわれる
ものです。
【n次元の2点(x1,x2,……xn)と(y1,y2……yn)の距離が
√{(x1−y1)2+(x2−y2)2……+(xn−yn)n}で定義される空間】
でこの距離の事を「ユークリッド距離」といいます。
例えば平面は2次元ユークリッド空間という事になります。
もう少し身近な例としては、ユークリッドの互除法というものがあります。
これは自然数、或いは整式の最小公倍数を求める方法の一つで、
【aをbで割った余りをrとすると、aとbの最小公倍数はbとrの最小公倍数に
等しい。この事を利用して次ぎにbをrで割る……と次々とこの手順を
行って余りが0になった所で最小公倍数が求まる】というものです。
〔後に続く……。〕
453 :
ラムセスX:02/05/22 23:34
454 :
ラムセスX:02/05/22 23:35
すんません(>_<)、続きです・・・・・・
>>452 古代ギリシャの数学は何も幾何学だけでなく、数の代わりに文字を記号として
使って数の性質や関係を研究する代数学も発展しましたが、こちらは幾何学に
比べるとあまり研究した人はいませんでした。
そのうち歴史上知られている人といえばエウドクソス、アルキメデス、
ディオフォントスがいます。
エウドクソスは比例の理論を研究した人物として知られています。
【長方形の縦と横の長さの比が1:1.618になるような形が非常に美しい】と考えた
人物です。歴史上の建築物でも、例えばクフ王のピラミッドの側面にある
三角形の頂点から真下に延ばしてできる線を一辺、下ろした線からピラミッドの
底辺の先までを一辺としてできる長方形は、このエウドクソスの長方形にほぼ
なります。この比率は後にレオナルド・ダ・ヴィンチが‘黄金比率’と名付け
ました。求め方は、横の長さを1、縦の長さをχとした長方形を作ります。
この長方形の横の長さと同じ長さ分、縦に下ろすと1:1の正方形ができます。
すると残りの縦の長さは(χ−1)となりますね。最初の長方形から正方形を
とってできた長方形は最初の長方形と相似の関係になります。ですから、
この2つの長方形の比率は最初の長方形χ:1ともう一つの長方形1:(χ−1)
になります。これは相似の関係より、χ:1=1:(χ−1)になり、これにより
χは2次方程式の解の公式から1±√5/2になります。しかし、題意より
1+√5/2になるのです。
さらに月や太陽などの天体の運動も研究した事から、月面のクレーターに
その名前を残しています。
次ぎにアルキメデスは、幾何学上は円や球、楕円、放物線及びそれらの
回転体の求積法を作り上げました。
代数の分野では【数a、bを正の数とすればaがどんなに小さくても、また
どんなにbが大きくてもb<naとなる自然数nが存在する】という
アルキメデスの公理を発見したといいます。
最後がディオファントスという人物です。彼は方程式を研究したとこで知られ
その例が、クイズの問題だったのです。
自分が用意した解答は、数直線を書いてみると分かりますが、彼が亡くなった
歳をχ歳とすると、問題文から少年の時代は一生涯の6/1ですから6/1χ、
以下同様に青年時代が12/1χ、独身時代が7/1χ、結婚後5年で子供が
生まれたので5、亡くなる4年前に子供が自分の寿命の半分で亡くなったので、
2/1χと4これらを加えると、彼の寿命つまりχになるという事ですから、
(与式)=6/χ+12/χ+7/χ+5+2/χ+4=χ が成立します。
これより9/84χ=9
∴χ=84(歳)になるのです。
もちろんこれは解答例ですから他にも解答の方法は考えられますね。
455 :
世界@名無史さん:02/05/23 13:31
重箱の隅つつくようで申し訳ありませんが…。
452
誤:√{(x1−y1)2+(x2−y2)2……+(xn−yn)n}
正:√{(x1−y1)2+(x2−y2)2……+(xn−yn)2}
454
誤:1±√5/2
正:(1±√5)/2
ですね。
# ディオファントスのところは最後を除いて分子・分母がひっくり返って
# ますが、そちらはご愛嬌ってことで。
野暮言ってすいませんでした。
456 :
ラムセスX:02/05/23 19:56
>>455 すみませ〜ん(>_<)
間違いがあったらどんどん指摘して下さい。
そそっかしいキャラなんでよろしくお願いしま〜す☆
457 :
ラムセスX:02/05/23 22:47
⊂正解81⊃ ミョウバン・・・・・・問題は
>>429 ヨーロッパでは15世紀の初めになって、組織的に鉱山の採掘や探索が行われ
るようになりました。原因の一つには、人口の移動が挙げられます。
都市には大勢の人が押し寄せて人口が上昇したのに対して、農村では減少
しました。特に農村部の人口の減少によって、農産物などの生産性を上げる為にも
機械化(技術の向上化)が求められたのでした。その答えの一つが鉱山の開発
だったのです。
中でもミョウバン鉱脈の発見は、ヨーロッパ中にそのニュースが広まって
いきました。ヨーロッパではそれまで、コンスタンティノープルから主に
もたらされていました。ミョウバンの使い方はだいたい、染色する時に使われ
ていました。ミョウバンを使うと、天然ではあまり映えなかった色がハッキリと
してしかも色落ちがしにくかったのです。
しかし、1453年オスマントルコが都市を占領すると、ヨーロッパへの
ミョウバン輸送は難しくなっていきました。手に入れたい場合は、トルコ人は
法外な金をヨーロッパ側に請求したのです。
それを助けたのがカストロというイタリア人でした。
布や染料を扱っていたカストロは、陥落するまでコンスタンティノープルに
いましたが、陥落後はイタリアへ脱出しました。そのイタリアのトルファで、
コンスタンティノープルのミョウバン石鉱山の周りに生えているのと同じような
色をした草を見つけました。また、辺りに落ちていた白い石を拾い上げて噛んで
みました。すると、舌にピリッと独特の刺激を感じました。
この結果、カストロはここにはミョウバンが豊富にあると確信し、早速
教皇ピオ2世の元へ報告に行きました。
「私は教皇がトルコ人に対して勝利を治められると思います。
・・・・・・(中略)・・・・・・もしも、教皇が職人をお遣わしになり、この地に
炉を建てさせなさいますと、ヨーロッパのほとんど全部にこのミョウバンを
供給できるでありましょう。
今やあなたはトルコ人に対して戦いをし掛ける事ができます。
この鉱物は、あなたに戦いの糧(かて)、つまり金を供給し、同時にそれを
トルコ人から奪うでありましょう。」
〈J.ベックマン著『発明と発見の歴史 第1巻(1846年)』より〉
最後の言葉の意味は、教皇がこの事業開発に関われば、入ってくる金は
教皇の物になるし、またトルコ人と戦う事で、今までトルコ人に払いつづけて
きた法外な金を取り返すことができるという事をいっているのです。
しかし、教皇はこの報告をまともに受け取りませんでした。ですがカストロの
粘り強い説得に折れ、かつてコンスタンティノープルで働いていた専門家たちを
トルファの現場まで連れて行きました。
調査の結果、本当にミョウバンがあることが確認され、しかもそこのものより
トルファのものの方が上質である事が分かりました。教皇は早速、そこに工場を
作らさせました。
【後に続く・・・・・・。】
スマンが一言! 算数&数学は嫌いじゃぁ〜!!!
取り乱して失礼。!で、気を取り直して
〜フランス パリ・ナチスドイツのもう一つの遺産〜【問題80】の
ヒントを希望します。
459 :
ラムセスX:02/05/23 22:48
⊂正解81⊃ ミョウバン のつづき・・・・・・
>>457 ミョウバンを取り出す方法は、まず鉱山から採ったミョウバン石を炉に入れて
焼きます。こうすることによって、まず余計な水分が蒸発されます。
次に、水に投げ込みます。こうすればミョウバンの成分である硫酸カリウムが
溶け出し、酸化鉄やアルミナ、粘土などの不純物は溶けずに下に沈むのです。
そして、不純物を取り除いた溶液を鉛の容器に入れて、再び加熱し水分を
飛ばします。最後に、木の容器に移し取って放置しておくと、ミョウバンの
立方結晶体が析出するのです。
あまりに上質で大量に取れるミョウバンを見てピオ2世は、工場で働く人の
規模を800人にしたといいます。
そして、教皇がユリウス2世に代わると、この事業によって得られた資金は
対トルコ政策に当てる、つまりコンスタンティノープルの奪回の為の資金に
するとし、それに伴ってここでミョウバンをつくる権利は教皇にあり、
ミョウバンをトルコ人から買う事を禁止しました。
勝手にミョウバンを採ったり、トルコ人から買えば破門にすると宣言したのです。
こうして教皇のミョウバンの独占が行われました。
〈実際は教皇の下に置かれたミョウバン会社(ソキエタス・アルミヌム)を
保護する形を執った〉
そして、そのころ同じく小規模ながらナポリでもミョウバンの鉱脈が発見され
たので向こう25年間、競争を避ける事を協定にして結んでいます。
しかし、教皇たちにとって憎むべきオスマントルコが歴史上滅亡するのは
それから400年以上も後の1922年まで待たなければなりませんでした。
460 :
ラムセスX:02/05/23 23:10
>>458 19世紀に実用化に成功したある発明品に関わります。
場所は、パリの廃兵院(アンバリード)の裏にあるトゥールビル通り沿いに
あるそうです。
早速のヒント有り難うございます。
19世紀の発明品と言えば、電信、電話、機関車?、映画にあとは・・・・
レコードもソウかなぁ〜?
ん〜前のナチスドイツのクイズがTV放送局ダッタからその繋がりで、
映画館!じゃなくて、≪戦時中≫だから、≪電信電話の傍受、盗聴施設≫
【問い80】は、≪電信電話の傍受、盗聴施設≫
これで、このシリーズは諦めます。
462 :
ラムセスX:02/05/23 23:46
>>461 やった!正解です〜。
他の問題の補説を終え次第、次の問題を出題します。
463 :
ラムセスX:02/05/24 20:30
⊂正解82⊃ ブーメラン……問題は
>>430 ブーメランは、古代エジプトでも戦争の時の武器として、或いは鳥や獣を
狩猟する時の道具などに使われていました。ツタンカーメンの墓からも出土
しているブーメランは、ヒエログリフにも登場し「投げる」という意味を表す
のに使われていました。古代エジプトで投げるは「ケマア」といいました。
また、その他に「人」というヒエログリフとくっつくと、「外国人」という
意味になります。これは、ブーメランが遠くへ飛んでいく性質から、遠くの人
という意味になったのでしょうか。古代エジプトではヌビア人は「ネフスィ」、
カナーン人は「メンチュウ」、リビア人は「チェメフ」などと言っていましたが
いずれもブーメランが描かれています。
そして、当時のブーメランは戻ってこない物だったので、草むらなんかで
投げると、それに当たった獣やブーメラン自体が何処へ行ったのか分からなく
なる事がよくありました。そこで「どこ?」という疑問を表す言葉もブーメランが
用いられました。
464 :
ラムセスX:02/05/25 20:30
⊂正解80⊃ 電話盗聴施設……問題は
>>429 1939年。その年はパリにとって歴史的な年でした。まずエッフェル塔が
造られて50年目の年だったことです。当然50周年式典が行われました。
この式典の目玉は、「ミス・エッフェル塔」という美人コンテストの開催でした。
誰が選ばれたかは資料がありませんでしたが、21名が参加して平均身長が1.75m
だったといいます。しかし、エッフェル塔の来場者は1919年に再開して以来、
最低の25万人でした。その理由が第2次世界大戦の勃発だったのです。
39年に始まった大戦で、パリは翌年にはドイツの占領下になったのです。
これが2つ目の歴史的な年の意味です。パリッ子たちは、ドイツ軍にエッフェル
塔が踏みにじられると思いましたが、思いもしないことが起こりました。
それはエッフェル塔の目玉であったエレベーターが故障してしまったのです。
過去50年間、一度も起こらなかったのでドイツ軍は慌てて技師を呼びましたが
4年間の占領期間中、遂に直る事はなかったのです。
過去にも紹介しましたが、ドイツ軍はエッフェル塔でパラシュートの降下訓練
をするなどエッフェル塔を利用していましたが、これらはエレベーターを使わず
階段を上がって利用していたのです。
ヒトラーは1940年6月23日にパリへやってきましたが、エッフェル塔に
上がったかというとはっきりとは分かっていません。
上ったとする説には、ヒトラーのパリ訪問の時に案内役を執ったドイツの
彫刻家アルノ・ブレッカーがその著書に書いています。
「ヒトラーはエッフェル塔の2階まで階段を歩いて昇った。しかし、こんなに
してまで昇らにゃならんとはけしからん、と怒り出して、同時にぜん息持ち
だったので息切れがして、疲れ切った様子だった
『パリ、ヒトラーと私』より」
一方、上らなかったという説もあります。これは廃兵院を訪れた後に、
シャイヨー宮へ行く時にエッフェル塔を地面から眺めていただけだったという
のです。フランスの週刊誌である『パリ・マッチ』の「占領下のパリ」と題する
写真記事の特集には、ヒトラーがフランス各地を訪れたと思われる3枚の写真を
掲載していますが、そこにもエッフェル塔に上った写真は掲載されていません
でした。(1978年8月4日号)
因みにヒトラーはエッフェル塔と同じ年に生まれています。また、ヒトラーと
思われる人物を演じたチャップリンも同じ1889年に生まれています。
占領中、ドイツ軍はパリ市に電話盗聴施設を造りました。ここからフランスの
情報を入手していたようですが、ドイツ軍が引き上げた後もしばらくフランスが
例えば、野党が与党の動きを見るためなどの理由で使われていたそうです。
そして再びエッフェル塔に三色旗が戻ったのは、1944年8月25日のことで
レイモン・サルニゲという消防士が掲揚しました。その後すぐエレベーターが
直っていつものエッフェル塔に戻ったといいます。
465 :
ラムセスX:02/05/25 20:56
おまけのQ1:ジャンヌ・ダルクが17歳のとき、戦場へ行こうと決心したが
父親は反対した。そこで父親は戦場へ行かせまいと、よその人を
利用してその人にジャンヌをある罪で訴えさせた。
では、その罪とは何?
おまけのQ2:スペインは他のヨーロッパの国々と比べて、イスラムの支配などで
独特の雰囲気があったようで、隣の国フランスの皇帝ナポレオンは
ピレネー山脈一つ隔てたスペインのことを何と言った?
おまけのQ1・・・・・ジャンヌをある罪で訴えさせた
神様の声が聞こえたらしいから、≪魔女の疑いアリ!≫かな?
おまけのQ2・・・・・・スペインのことを何と言った?
コレはたしか。≪ピレネーの向こうはアフリカである≫
PS ヒットラーとエフェル塔ですが、たしかNHK≪映像の20世紀≫で、
ヒットラーがEVで、塔に登っているシーン見た記憶が有るのですが、
他に見たこと有る人イマセンか?
ビデオ、DVDが手元に無いので確認出来ませんです。
467 :
ラムセスX:02/05/25 22:54
Q2は正解です〜◎
>ヒットラーとエフェル塔ですが、たしかNHK≪映像の20世紀≫で、
>ヒットラーがEVで、塔に登っているシーン見た記憶が有るのですが、
そうでしたか、自分は見ていなかったのですみません、もし上っていたなら
かなり疲れたでしょうね。
468 :
ラムセスX:02/05/26 20:23
⊂正解83⊃ ビー玉……問題は
>>430 1962年のキューバ危機によって、政治・経済・文化・軍事・音楽など、ありと
あらゆる面でその影響が出ましたが、子供達の遊びもその例に漏れることは
ありませんでした。その遊びの一つが「ボラス」と呼ばれる遊びです。
ルールは、地面に拳ほどの大きさのくぼみを作って、そこに遊びに参加する
子供達が等しい数のビー玉を入れます。そして、一定の距離から親指で、くぼみに
入れたビー玉より少し大きめのエル・ティードというビー玉を飛ばします。
もちろん、くぼみに入っているビー玉めがけてです。そしてこの玉に当たって
くぼみにある玉が外に飛び出したらその人の物になります。こうして、くぼみに
あるビー玉がなくなるまで順番に回して遊ぶのです。
1869年、大統領になったカルロス・マヌエル・セスペデスは、前年の10月
「ヤラの叫び」で知られるキューバの独立を宣言しました。その際に、キューバが
自由の国になったという証として自分の所有する奴隷を解放しました。
(実際の奴隷解放はもう少し後になりますが…。)こうして、サトウキビなどの
生産を事実上行っていた奴隷達はいなくなっていきましたが、今度は逆に、その
生産に携わっていた者がいなくなってきたという新しい問題が生じてきました。
そこで登場したのが中国人です。新しい働き口を求めて日本はもちろん、
世界中に飛んでいってたのです。この中国人たちによって「ボラス」が持ち
込まれたといわれています。それは、だいたい1800年代後半の事だそうです。
ビー玉も中国から輸入していましたが、経済危機の為に食料や衣料などの生活
必需品の輸入が優先され、店頭からビー玉の姿が消えていきました。その為に
最近ではその遊びを見ることはできません。
因みに、ビー玉は16世紀にヴェネチアで作られ始め、日本には幕末に来たと
いいます。明治時代にラムネが流行りましたが、そのビンにビー玉が入っていた
ので、やがて日本中にラムネと共に広まる事になります。ビー玉の「ビー」とは
ポルトガル語でガラスを意味する「ビードロ」から来ているといわれています。
野球のさかんなキューバのほかの遊びとしては、プラスチックのパイプの中に
小石や砂などを入れて、円形にしてそれを腰で回すフラフープがあります。
キューバでは「ウーラ・ウーラ」と呼ばれ、この遊びはボラスとは逆に、経済危機
で遊ぶ道具がなくなっていった子供達が流行り出させたそうで、1995年の夏には
国中で大人たちも楽しむほど大流行しました。
また道具が要らない遊びとしては、日本でもおなじみのかくれんぼがあります。
キューバでは「泥棒と巡査」と呼ばれ、隠れるほうが泥棒でそれを見つけるのが
巡査という設定になっています。子供達は隠れるほうの「泥棒」を好んでする
そうです。
469 :
ラムセスX:02/05/26 20:59
問題は火曜の夜に出題します。
おまけのQ3:1922年に発掘されたツタンカーメンの影響で、あるオシャレが
流行り出した。日本でもその後 流行ったのだが、では一体
そのオシャレとは何?
470 :
ラムセスX:02/05/26 21:17
おまけのQ5:1978年にサクラ・シンドーネ礼拝堂で公開された聖骸布にある
人の姿は、血液が油に反応してプリントされたと思われる。
では、その聖骸布に染み込まれている血液は一体 何型?
471 :
ラムセスX:02/05/26 22:50
おまけのQ4:中世のヨーロッパでは、赤ちゃんが生まれると2,3日のうちに
洗礼を受けさせた。その後に、両親の代わりの者達が赤ちゃんの
名前を決める習慣があった。
スペインのアラゴン地方でその昔、王子の名前を決める為に12人が
協議したが、それぞれ自分の候補に挙げる名前が、王子にふさわしい
として名前が決まらなかった。
そこで、ある日常品を使ってどの名前がいいか決める事になった。
では、王子の名前を決める為に行われた、ある日常品を使っての
方法とは何?
472 :
世界@名無史さん:02/05/26 23:23
おまけのQ1の答え。
ジャンヌネタは大好き!
答えは婚約破棄罪。
ドンレミ村の一青年がジャンヌを結婚の約束をしておきながら、
いざその段になったら言を翻したと言って訴えた。
他にもそれより少し前、親父がジャンヌに不審を抱いてある決意と命令を息子に伝えたらしい。
さてそのある決意とは?
473 :
世界@名無史さん:02/05/27 00:07
分かった!息子にケガか病気になってもらってジャンヌに看病させるってーのはどう?
Q3・・・・・・
髭かな??
Q4・・・・・・
卵に名前を書いてドノ卵が最初に孵化スルかかな?
Q5・・・・・
コレは知ってる!! AB型です。
475 :
かちゅ〜しゃで書き込めた♪:02/05/27 20:40
おまけのQ3
しょーじき、わからん。
素直に答えると「エジプト模様」の流行なんだけど、それじゃ面白くないね。
あとは「ピアス」か「サンダル」くらしか思いつかない。
しばらくアクセスできなくなっていました。
参加できなくて悔しい思いをしました。
おまけのQ3はアイシャドウでどうでしょう。
≫476 ペイトンさんの
*Q3はアイシャドウ*に賛成! コレは恐らく正解でしょうね!
≪思い付かなくってクヤシー!!≫
478 :
世界@名無史さん:02/05/28 19:47
おまけのQ3
口紅
479 :
世界@名無史さん:02/05/28 19:58
初めてこのスレにきました。
Q3 アイシャドー(虫除けをかねてぬったのが最初かな)
Q4 石鹸(単なる思い付き)
Q5 AB型(聖ジョバンニ大聖堂にあるものですよね)
480 :
ラムセスX:02/05/28 20:34
今回は7問出題します。
〜メドゥーサを封じ込めろ! ビサンツ地下貯水槽の秘密〜
【問題85】ギリシャの神話に登場するメドゥーサとは、髪の毛がヘビになっていて、
その恐ろしい姿を見ようと目を合わすと、石に変えられてしまうという
コワ〜イ女神なのだ。これは、古代ヨーロッパにあったヘビに対する
信仰と関わりがあるらしい。キリスト教が登場する以前は、悪魔を石に
変えてくれると考えられて、魔除けとして彫刻されていた。
しかし、キリスト教がローマ帝国の国教になった後は、メドゥーサ信仰は
異教という風潮が芽生え始めた。
敬虔なキリスト教徒でもあった、ビサンツ帝国の皇帝ユスティニアヌス
1世は、このメドゥーサの信仰を「異教」として、女神を封じ込めようと
した。その方法として、首都コンスタンティノープルで教会を建てた時に
併設された地下の貯水槽の柱の土台にこのメドゥーサを彫刻させた。
ここなら地下という事もあって、人目につきにくく封じ込められるだろう
と思ったのだ。しかも、そのメドゥーサはある特徴を持って彫られていた
のだ。こうする事で封じ込めるという意味を強める狙いがあった。
では、柱の土台に彫刻されたメドゥーサの特徴とは何!?
〜稲作文化を証明? アジアに残る年中行事〜
【問題86】日本をはじめ、コメを作る文化を持つアジアの国々では、あることが
年中行事として行なわれている事が多い。
例えば、タイでは15世紀から18世紀にかけて、王と王妃がそれぞれ
チームを編成して、それを行なってその勝敗でその年のコメの出来具合を
占っていた。また、ヴェトナムでは10世紀頃からこれが行なわれていた
ようで、中国とほぼやり方は同じという。
その中国では南部で盛んに行なわれていて、日本も中国の影響で
行なわれるようになり更に、沖縄では1392年に中国・福建地方の
人たちがこれを持ち込んだという。
では、韓国やラオス、カンボジアなどでも行なわれる、
スポーツともとれる年中行事とは何!?
〜神頼みならぬ網頼み? ヒューロン族の変わった魚獲り〜
【問題87】アメリカの五大湖の一つにも名前を残している、ネイティブ・アメリカンの
ヒューロン族は、現在のオンタリオ湖の北部に住んでいた。
17世紀には人口は4万人にも達していたそのヒューロン族を支えた
経済は、農業が基本であったが、網を用いる漁業も行なわれていた。
しかし、魚がなかなか網にかからない時には、網に対してある事を
行なう習慣があった。
では、網を人間に見立てていたために生まれたその習慣とは何!?
481 :
ラムセスX:02/05/28 20:35
〜レオナルド・ダ・ヴィンチ ヴェネチアに残る建築家の証拠〜
【問題88】ルネサンスを代表する人物にレオナルド・ダ・ヴィンチがいる。
彼はさまざまな物を考え出して、画家だけにそれをスケッチにして
残している。「戦車」「潜水艇」「ヘリコプター」などを描いているが
建築に関する物も考案してスケッチに残している。
それは、実際に16世紀にヨーロッパの建築に使われ、ヴェネチアでは
集合住宅に使われていた。
では、建築で取り入れられた、ダ・ヴィンチのアイディアとは何!?
〜舌のない聖なる生き物? 古代エジプト編〜
【問題89】古代エジプトではさまざまな聖なる生き物がいたが、この生き物も
その対象になっていた。その理由は、この生き物のある習性を
古代エジプト人たちは誤解をしながらも既に知っていた為に、
その習性により神業を行なっていると考えていた為であった。
ヘロドトスは、この生き物は舌を持っていない唯一の生き物と考え、
ラセペードはヨーロッパにこの生き物がいないのは、アフリカよりも
文明が発達している証拠だとした。
解剖学的には心臓の機能がしっかりしている為に、酸素を十分に脳へ
送る事ができ、それによって大脳が発達していると考えられている。
では、その生き物とは何!?
〜中枢作用を持つ聖なる生き物? マヤ編〜
【問題90】一方、古代マヤではそれを食べると中枢作用がある為に、儀式の時に
使われたり、信仰の対象にもなった生き物がいる。
では、土器に描かれたり、土偶にもかたどられたマヤの
聖なる生き物とは何!?
〜学校で発見! 仏教で使われるアレ〜
【問題91】仏教の影響を受けて、日本へさまざまな文物がインドや中国、朝鮮半島
から入ってきた。その中の一つにインドの影響を受けて日本でできた
ある物がある。それは元々、仏教に関する物だったので、最初は僧侶が
用いていたが、やがて一般の人たちも使うようになった。
現在のような形になったのは、江戸時代になってからの事であった。
では、学校で見かけることが多いその文化的な物とは何!?
482 :
世界@名無史さん:02/05/28 20:44
おまけのQ3
染髪
483 :
世界@名無史さん:02/05/28 20:54
【問題90】
キノコ
484 :
ラムセスX:02/05/28 20:58
485 :
世界@名無史さん:02/05/28 20:59
【問題90】
じゃカエル
486 :
ラムセスX:02/05/28 21:02
487 :
世界@名無史さん:02/05/28 21:03
【問題86】
綱引き
488 :
ラムセスX:02/05/28 21:07
>>487 綱引きは過去に違うスレで紹介した事があるので、
他のものを考えてみて下さい。
〜メドゥーサを封じ込めろ! ビサンツ地下貯水槽の秘密〜
【問題85】・・・・ 黒目が無い?
〜稲作文化を証明? アジアに残る年中行事〜
【問題86】・・・・ ????
〜神頼みならぬ網頼み? ヒューロン族の変わった魚獲り〜
【問題87】・・・・ 働かない奴は≪おしおき≫かな
〜レオナルド・ダ・ヴィンチ ヴェネチアに残る建築家の証拠〜
【問題88】・・・・ コレは、≪エレベータ―≫かな
〜舌のない聖なる生き物? 古代エジプト編〜
【問題89】・・・・ アフリカで頭の良さそうな動物≪ゾウ≫かな
〜中枢作用を持つ聖なる生き物? マヤ編〜
【問題90】・・・・ ≪カエル≫
〜学校で発見! 仏教で使われるアレ〜
【問題91】・・・・ コレ或る人は楽器のように使ったりしますよね。
≪算盤≫で如何でしょう?
490 :
世界@名無史さん:02/05/28 21:22
【問題85】
メドゥーサの顔を横にした?
【問題88】
二階建ての通路・・・といえばいいのかな?
今で言う所のショッピングモールみたいな構造の・・・。
【問題90】・・・・ ≪カエル≫
もう回答済みダッタとは・・・・残念!
492 :
ラムセスV:02/05/28 21:32
≫490
Q85はほぼ正解ですー。
Q88は回廊という事ですか?
あの〜ラムセスX世さん。 ≪おまけのQ≫シリ―ズの回答も
どッかでお願いします。デス
494 :
世界@名無史さん:02/05/28 22:26
>>492 Q85これは、横向きか逆さまの
どっちかだった気がしたんですが、逆さまだったかな、やっぱり?
Q88は、そうですね。二階建てになった回廊。なんというか、
上手い事説明できなくてすみません。
495 :
ラムセスX:02/05/28 22:55
>>494 Q88は回廊では正解になりません(>_<)
違う物が正解です。
⊂おまけのQの正解⊃
A1:婚約不履行(問題は
>>465)
ドンレミの村の近くにあるトゥールの町のサン・エチエンヌ教会には
ジャンヌの裁判を記念した銘板があります。
「結婚の約束をしたのに、実行してくれなかった」
小心だったジャンヌもこのときばかりは正々堂々、この罪を否定した
そうです。そして、判決はもちろん無罪になり、祖国フランスを救うべく
旅立っていきました。
A2:「ピレネーの向こうはアフリカだ」(問題は
>>465)
A3:アイライン(問題は
>>469)
ツタンカーメンの黄金のマスクを飾るラピスラズリの青いアイラインは、
古代から時間と空間を超えて、20世紀に世界中でその流行が復活しました。
日本では2年後の1924年ごろに流行したそうです。
また、シャネルが始めたショート・ヘアの流行も、それより少し前にあって
女性のオシャレはだんだんと斬新的になっていきました。
A4:12人がそれぞれにロウソクに候補の名前を書いた(問題は
>>471)
書いた後に同時に火を付けます。そして、最後に残った物を採用した
そうです。
A5:AB型(問題は
>>470)
496 :
世界@名無史さん:02/05/28 23:02
【問題86】
競馬
497 :
世界@名無史さん:02/05/28 23:11
【問題86】
ボートレース
498 :
ラムセスX:02/05/28 23:15
【問題89】
ヨーロッパにいない・・・ライオンかな?
【問題89】
ヒヒ(猿)。トト神は朱鷺ないしはヒヒの姿で表現された。太陽に向かう習性
があった事は、壁画にも描かれているし勿論現在でも見る事が出来る。
【問題91】
百葉箱
85 後ろ向き、つまり顔が見えない
86 もちつき
87 酒を飲ませる(ふりかけるとか)
88 エレベーター
89 象
90 アリかと思いましたが
91 筆
503 :
ラムセスX:02/05/29 19:01
>>499-500 この生き物は、宇宙を創ったと考えられました。それは、産卵に関係していました。
また、この産卵の為の彼らの知恵を借りて古代エジプト人は、耕作地を決めていた
とも言われています。
>>501 残念ですが、違いますー(^.^)
【問題89】
ワニかな??
505 :
ラムセスX:02/05/29 19:13
506 :
世界@名無史さん:02/05/29 19:13
【問題89】
まさか、カエル?
507 :
ラムセスX:02/05/29 19:48
⊂正解90⊃ ヒキガエル・・・・・・問題は
>>481 マヤでは古典期(3世紀)からヒキガエルを信仰していました。皆さんの
解答はカエルとなっていましたが、厳密に言うとカエルとヒキガエルは区別され
ます。カエルは主に水中で生活し、ヒキガエルの方は陸で生活することが多い
生き物と粗く言えばなります。ヒキガエルはガマとも言われます。
マヤの地方ではカエルやヒキガエルをひっくるめて‘uo’と書きます。
昔からマヤでは8月に行われる「okot uil」というダンスがあります。この
uilはuo、つまりヒキガエルと関わりがあると思われます。それは、8月は
マヤ地方では多雨でヒキガエルの鳴き声が頻繁に聞こえることからも想像され
ます。古典期のマヤの土器には、長い骨と手、さらにくり抜かれた目玉が入った
器を手にしているヒキガエルが描かれています。こういうヒキガエルの石碑が
キリグアにもあります。
また、科学的にヒキガエルの分泌液の中から、ブフォテインからブフォテニン
という物質が分離して、強力な心臓の血管作用と同時にセロトニンのような
中枢作用が生まれる事が明らかになりました。
マヤの人たちが食用としていたのは単に食べるだけではなく、このような
精神を変化させる力によって神聖化され、儀式に用いられたと考えられます。
因みに、世界的にヒキガエルを見ていくと、ヒキガエルを別名ガマという事は
紹介しましたが、このガマを漢字で書くと「蝦蟇」になります。
王荊公の『字説』によると、ガマは自分のいる場所の土になつく為にどんなに
遠い所へ運ばれても一夜にして戻ってこれる。つまり、どんなに‘遐か’
(はるか)に隔たった場所においても、また元の所へ‘慕って’帰ってくる為
‘蝦蟇’となったと記しています。
カエルとヒキガエルの区別はアリストテレスも行っていますがあまり詳しく
記されていません。また、ヒキガエルは冬眠中も食べ物を摂り続ける生き物と
考えられていた為に強欲の象徴とされていました。例えば、古ゲルマン時代の
絵にはヒキガエルの上に女性が座っている作品があります。これは、その女性の
強欲ぶりをヒキガエルで表現しているのです。
508 :
ラムセスX:02/05/29 20:42
⊂正解85⊃ 頭が逆さま・横になっている・・・・・・問題は
>>480 古代から人々はヘビに対して畏敬の念とも取れる感情を持っていました。
メソポタミアのウルの遺跡から両手に大蛇を持った王のレリーフが見つかって
います(紀元前4000年頃)。またマリ遺跡からは、絡み合う2匹のヘビの文様が
刻まれている器が見つかっています(紀元前3000年頃)。更に、クレタ島の
大地母神も両手にヘビを持っています(紀元前1600年頃)。
そして、ヘビの頭は男性の性器を象徴していると考えられ、生命や健康の
シンボルにもなったり、豊穣や多産のシンボルにもなりました。
また、脱皮するので再生のシンボルにもなり得たのです。このような背景が
あった為に、ヘビは超自然的な力を持っていると思えたのでしょう。
その例が、メドゥーサです。
【ガイア(大地)の子ケトと、ポントス(海)の子フォルキュスの間に
3姉妹が生まれた。ゴルゴンと呼ばれた3姉妹の末っ子がメドゥーサで
あった。3姉妹で一番美しかったメドゥーサのうわさは女神アテナの耳
にも入った。そこでメドゥーサと美しさを競ったが、負けてしまった
アテナは、プライドを傷つけられた為にメドゥーサの髪をヘビにして
しまい、目を合わせた者は、たちまち石にさせてしまうという怖い怪物に
させてしまった―。】
このようにしてギリシャ神話に登場するメドゥーサは、紀元前8世紀頃から
建築の彫り物に登場します。この頃は口を大きく開いて舌を出し、目をカッと
見開いて怖い表情をしています。
しかし、紀元前4世紀のヘレニズム時代になると、怖さより美しさが強調され
ていきます。その傾向はローマ時代になっても受け継がれていきます。理由は
自然と人間の関係にあると専門家は考えています。
初めの頃は、自然という物は人間にとって神と同じ存在でしたが、文明が発展
していくなかで、自然は徐々に人間と同じような高さにまでポジションが下がって
いきました。森の木々が開拓されていくと、今まで届かなかった所にまで光が
差し込むように、闇のような正体が分からなかったその自然の神秘性は、
失われていくことになっていったのです。
ですから、自然に対する畏敬の念を表していたメドゥーサの怖さは消えていった
というわけです。
ローマ帝国の時代になると、メドゥーサに対する信仰は異教とされました。
それはキリスト教が国教になった為です。
ビサンツ帝国皇帝ユスティニアヌス1世は、メドゥーサ信仰を異教とみなして
これを封じ込めようとしました。コンスタンティノープルに建てたアヤソフィア
教会を建築するなど行っていた皇帝は、地下貯水槽の建設も行いました。
その貯水槽の一番奥の柱の土台にメドゥーサを彫らせました。2つ見つかって
いて、1つは横向きに、もう1つは逆さまに彫られていたのです。
ルネサンスになると、新しいキリスト教の考え方が生まれる事により、
メドゥーサの威厳さはさらに失われていく事になったのでした。
メドゥーサの信仰が消えたという事は、自然に対する畏敬の念も失われた
ことを意味し、現に人間による地球支配を完成させたといってもいいでしょう。
しかしそれ以来、ヨーロッパの森はどんどん破壊されていき、その破壊は
21世紀になった現在、地球規模になってきています。
【問題85】目をくりぬいた。
【問題88】換気扇。
うわーん、問題89が答えられちゃってる。やっぱ、ワニでよかったのか。
昼頃大学から書きこもうとしたら、書きこめなかったのよね…。
510 :
ラムセスX:02/05/29 23:28
⊂正解86⊃ 競 渡……問題は
>>480 競渡とは、主に中国で行なわれる龍のように装飾を施した舟での競漕を言い
ます。別の言い方はドラゴンボートレースです。
中国では、文献に舟競漕の事が出てくるのは5世紀頃からです。主に5月5日の
端午の行事として行なわれていました。南部で生活している貴州省のミャオ族や
雲南省のぺー族やタイ族では舳先に龍の頭を付けて競漕をしています。
では、他の国々ではどうでしょうか。
ヴェトナムでは、10世紀頃には王が臨席して宮廷行事として14〜15世紀頃まで
開催されていました。ただ時期が7月〜11月までと一定ではなく、目的もはっきり
していません。
ラオスでは19世紀前半までルアンプラパン、ビエンチャン、チャンパサックの
分裂時代にもいずれの王国でも王が列席する大事な年中行事でした。
カンボジアでは競漕は、雨季の後半に行なわれる水祭りの一部になっていて、
王制時代にはやはり国家行事だったのです。水祭りは、雨季が明けて太陽が力を
増していき水浸しの土地を乾かして、稲の豊かな実りを願う為に祈るという意味
がありました。
タイでは、15〜18世紀まで雨季の終わり頃に王室の年中行事として競漕が
行なわれていました。それは、王と王妃がそれぞれ対抗してレースをして、
王妃のチームが勝つと豊作、王のチームが勝つと災害に遭うと占っていたのです。
ですがこの競漕の後でも、メナム川の水位が下がらない時には、王は舟を率いて
川へ出かけて、川の水を海へ退ける儀式をします。そして、その後に参加した
全ての舟が川を漕ぎ下って競漕しました。
一方、ビルマでは、毎年10月にイラワジ川沿いにあるミヤノーンという名の町で
行なわれます。ミヤノーンとトーンワクの町が対抗して勝負するのです。
韓国でも江綾島、莞島で競漕が行なわれています。莞島では、旧暦の1月15日
に宋大将軍を祀る祭祀が小島の堂で行なわれた後に、海上で祭官や農楽隊を乗せた
舟が競漕するレースがあります。
日本では長崎のペーロン、沖縄のハーリーが有名です。ペーロンは17世紀に
長崎にいた中国人の行事を見習って行なったのが始まりとされています。
ハーリーは福建省からきたビン人(ビンは門がまえに虫)が、1392年に琉球に
帰化したことから始まったといいます。
日本ではこの他にも例えば、島根県八束郡三保神社では12月3日に『古事記』
の国譲り神話に基づき、2艘の諸手舟が競漕します。また神奈川県真鶴町の
貴船神社では7月27日〜28日の貴船祭りの神輿渡御式に伴って、櫂伝馬競漕が
行なわれます。これは神霊が舟に召され、真鶴岬の笠島に降臨したのを地元の人
たちが小舟に乗って迎え祀ったという縁起に基づいています。
尚、貴船神社の祭神は大国主と少彦名の神です。
このように、主に競漕は雨季の降雨祈願や稲の豊作祈願と関係あるように
東南アジアの大陸部に多く見られます。元々は一ヶ所で行なわれていたものが
民族の移動や国同士の交易、文化交流などで広まっていったのかもしれません。
今となってはそのルーツをたどるのは時間の要る作業になってしまいましたが、
そのルーツを知らなくても、現在もいろいろな所で競漕が行なわれていると思う
と面白い事かもしれません。また、競漕以外にもそのような物はまだあるかも
しれませんね。そういう事を考えるのも歴史の面白い所だと思います。
〜神頼みならぬ網頼み? ヒューロン族の変わった魚獲り〜
【問題87】・・・・ 鞭が違うのなら飴かな!
≪網のご機嫌を取った≫歌でも歌ったのでしょうか?
〜レオナルド・ダ・ヴィンチ ヴェネチアに残る建築家の証拠〜
【問題88】・・・・ ≪アーケード≫でしょうか?
****** エレベータと算盤は自信あったのですが、残念!・・・・ *****
512 :
ラムセスX:02/05/29 23:53
>>511 残念ながら違いますー(>_<)
明日の夜までに正解が出ない場合はヒントを出します。
それまではノーヒントで行きたいと思います。
【問題91】
竹ボウキ
514 :
ラムセスX:02/05/30 00:58
515 :
世界@名無史さん:02/05/30 01:16
【問題91】
藤棚?
516 :
ラムセスX:02/05/30 01:38
>>515 違いますー。
>>509 遅ればせながら、山犬さんまだ解けていない問題が残ってるんで
それを解いてみてくださ〜い(^_^)
517 :
世界@名無史さん:02/05/30 16:18
【問題88】
ベランダとちゃうかな?
518 :
ラムセスX:02/05/30 20:18
⊂正解89⊃ ワ ニ……問題は
>>481 ワニは3つの属に分けることができます。1つはクロコダイル属、2つ目は
アリゲーター属、そして3つ目がガヴィアル属です。エジプトに棲むのは
クロコダイル属のワニです。
クロコダイルという名前は、イオニア人が自分の国で石垣の間にいたトカゲが
この属のワニに似ていた為に、そのトカゲの名前に因んで‘クロコディルス’と
呼んだ事に始まります。ヘロドトスは『歴史』の中でエジプト人はカンプサ
(champsa)と呼んでいたと記しています。
ワニ全般の解剖学的な特徴としては、心臓の構造が著しく発達している点が
挙げられます。心室の隔壁が完全になっていて、心臓内で静脈血と動脈血が
きっちりと分かれていて、酸素を十分に含んだ血液を大脳へ送る事ができるのです。
その結果、大脳皮質が大きく発達し、知能の獲得を可能にさせたと現在、考え
られています。
しかし、頭のいいワニはヨーロッパでは見かけることが一般的ではなかった
ようで、ビュフォン=ラセペードは、『一般と個別の博物誌』の中でワニが
ヨーロッパにいないのは「技術」が「力」に勝った一つの証明だと紹介して
います。
【文明国では猛獣は育ちにくい。これは技術が隅々まで行き渡って、
野放図な力を発揮できないからである。また逆に、アフリカや
アメリカは、技術が未開な野蛮国であるから力が全てとなる。
ワニが棲む地域が限定される由縁だ―。】と力説しています。
しかし、そのアフリカで5000年前に始まった古代エジプト文明では、ワニを
神聖な生き物として捉えていました。
エジプトのワニはワニ目・クロコダイル科・ナイルワニです。
(以下、ワニと表記します。)
先史王朝時代から土器の絵に描かれたり、オモチャの形になったりしていました。
ヒエログリフにもなり、ワニという意味のほかに「貪欲」「攻撃」などの意味に
も使われました。また、尾を曲げた姿で描かれる場合は「集める」という意味に
もなったのです。テーベではワニは太陽神ラーの変身した姿と考えられ、
オシリスはナイル川においてワニによって再生するものと信じられていました。
ワニはたくさん卵を産むことから豊穣の象徴でもありました。また、その卵を
産む場所がナイルの度重なる洪水でも流れないような場所を選んである事から
その産卵場所を目安にして、古代エジプト人は耕作地を決めていたといいます。
そして、混沌とした水中から現れて卵を産む姿から、宇宙を造化しているとも
捉えられて、それゆえワニが宇宙の創造神ともなったのです。
こうして神聖化されたワニは中王国時代にセベク神という神に具象化されて
いきました。
【後に続く……。】
519 :
ラムセスX:02/05/30 20:20
⊂正解89⊃ ワ ニのつづき……
>>518 古代エジプトにおいて、ワニが神聖な生き物となった理由は他にもあります。
一つは‘目’でした。ワニは水中では目を薄い膜で覆っています。これを瞬膜と
いって、水の中にいるときは目を保護し、これによって水中でも物が見えるように
なっているのです。簡単に言えば、水中メガネのような役割をしているのです。
ですから、実際はこの瞬膜があっても視力には影響しないのですが、古代エジプト
の人たちはこの瞬膜があるので視力が効かないと考え、それなのに目が見えるよう
に行動できるのは神業以外にないと勘違いしたのです。それ故、神聖視され
ました。因みに、ワニにはもう一つ目についての特徴があります。
それは視細胞が二十網膜構造に組織されていることです。つまり、光を2回
反射させているのです。その為に夜でも目をオレンジ色に輝かせている事が
できます。これは、ワニの他にもカメやムカシトカゲのなどにも共通する特徴
です。こういう事もワニに対する神秘性を高めたのかも知れませんね。
またヘロドトスは、ワニは唯一舌を持っていない生き物と考えていたようです
が、実際はもちろん舌はあります。下あごに付いているそうです。
更にこの舌の基部に咽喉弁があって、これを閉じる事によってノドの下に水を
流入させるような事を防いでいるのだそうです。
このヘロドトスの‘舌’のない生き物、という考えも神聖化させた理由になって
います。それは、トプセルの『爬虫類の歴史』によると、神は意志を表明する
のに声を必要としないからだそうです。つまり、声を出さないワニの行動一つ
一つが古代エジプト人にとって意味のあることだったのです。
時に甲や盾の材料になったり、ミイラにもなったワニは、第13王朝時代には
セペク・ヘテプと名乗るファラオが現われたり、テーベではワニが神殿で飼われ
ていたといいます。
因みに、ワニは「メセフ」といいましたが、ワニの皮のことは「ケム」と
いっていました。「ケム」には「黒」という意味もあったのです。古代エジプト人
は自分達の土地をケメト、つまり‘黒い土地’と呼んでいましたが、このケメト
から進んだ学問がケミストリー(化学)の事を指しています。
>>500 山野野衾さん、確かにヒヒも「イアン」と呼ばれ尊ばれていました。
先史王朝時代から崇拝されたいたようですが、トト神と結び付けられたのは
新王国時代からです。
太陽と三日月を頭に掲げている壁画がよく知られていますね。
520 :
ラムセスX:02/05/30 20:23
521 :
ラムセスX:02/05/30 20:43
【ヒント】
:問題87:すぐにできるというものではありません。
場合によっては、一日かかる事もあり得ます。
:問題88:フランスのある城にも取り入れられています。
16世紀の建築家、ヴィニョーラもこの城のものを見て
デッサンに残しています。
日本にも18世紀の末(1796年)に寺のお堂で造られたそうです。
:問題91:何かの授業で使うものです。日本での一般的な言い方は、
1695年(元禄8年)に生まれています。
日本最古のものは11世紀初めのものです。
【問題88】さざえ堂みたいな奴。
入り口と出口が別々になってて、中は一方通行。
うちの田舎の会津に、このさざえ堂があります。
あと、換気扇も、結構自信あったんだけどなぁ…。
【問題91】乳鉢。
523 :
ラムセスX:02/05/30 22:10
>>522 ~>゚)きゃ〜〜〜! 問題88は限りなく正解に近いです。
そのさざえ堂の中にあるものが正解です。
問題91は残念ですが違います。
【問題88】二重らせん構造。と言えばいいんでしょうか?
525 :
ラムセスX:02/05/30 22:15
【問題91】
石綿
527 :
ラムセスX:02/05/31 20:23
⊂正解88⊃ (二重式)螺旋階段……問題は
>>481 螺旋(らせん)階段自体はヨーロッパでもごく一般的に使われていて、
ダ・ヴィンチの時代の物ではフランチェスコ・ディ・ジョルジョのウルビーノの
螺旋式のスロープ(15世紀末)やコンティーレ・デル・ベルヴェデーレで造った
螺旋階段(16世紀初め)などが知られていますが、DNAの構造のような二重に
なっている螺旋階段はあまり例がありません。
しかし、ダ・ヴィンチは二重にすれば階段を降りる人と昇る人が決して
ぶつかる事はないという利点を考え実際に建築に取り入れています。
ヴェネツィアでは集合住宅に利用され「レオナルド型階段」とまで言われて
います。
ダ・ヴィンチはフランソワ1世の誘いでフランスに来ることになりましたが、
そのフランスのシャンボール城にこの二重式螺旋階段を設けました。
城自体の工事は1519年に始まり、1545年には一通り終わっています。
部屋数440、煙突の数だけでも365もあるこの城をアンボワーズにいたダ・ヴィンチ
は設計したのです。
また、故小林文次氏によると、この城以外に当時造られた二重式の螺旋通路
としてはイタリアのオルヴェリートの聖パトリツィオの井戸に使われた螺旋斜路を
挙げています。こっちはアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァーネが
1528年から37年にかけて造った物で深さが63mもあります。
山犬さんが答えて頂いた会津のさざえ堂は、恐らく飯盛山、白虎隊の墓の
近くにある旧正宗寺に属していたさざえ堂の事を言って頂いたのだと思います。
1796年(寛政8年)に建立され、明治の初めに修理されたこのさざえ堂は、
見た目は六角形の塔で全体が螺旋形をしています。正面入り口を入ると右回りに
螺旋を描くような斜路がありそれを昇っていき、頂点までくると今度は同じく
右回りの斜路で下って行くそうです。〔自分はまだ行った事がないので・・・(^^ゞ〕
そして、入り口と反対の背面から外に出られるという設計になっています。
つまり、一方通行の二重螺旋構造になっているので昇降でぶつかる事がない
のです。
元々は、西国巡礼の時に一つ一つお札を取るよりも、一ヶ所でグルグル回って
巡礼を済ませてしまおうという考えから、あのような構造になったといいます。
〔山犬さん違っていたらフォローお願いしますm(__)m〕
さざえ堂は正式には「三匝堂(さんそうどう)」といいます。
これは、礼拝対象の中心を3回巡るように造られた寺の事をいいます。
このさざえ堂について故小林氏は、18世紀頃江戸から東北地方南部にかけて
いくつか建てられ、他の地域に似たよな物が4つあると述べています。
ですが、他の4例はいずれもさざえ堂のように塔状で二重の螺旋構造を持つ
わけではなくて、外観は二階建てで中二階付きになっていて、入り口から
出口まで多数の観音像を参拝して一巡できる設計になっています。
〔例えば東京の羅漢寺など〕
【後に続く・・・・・・。】
528 :
ラムセスX:02/05/31 20:25
⊂正解88⊃ (二重式)螺旋階段のつづき・・・・・・
>>527 そして、この会津のさざえ堂とフランスのシャンボール城の二重螺構造は
全く関係ないとは言えないようです。
それは、故小林氏は会津のさざえ堂のルーツを探る過程で、秋田藩主で画家でも
あった佐竹曙山のスケッチ帳にあった二重螺旋階段の図が、1670年のロンドンで
出版されたジョセフ・モクソン著『実用透視画法』の第35図の写しである事を
突き止めました。そして、二重螺旋階段の構想は曙山の晩年(1785年に没)には
輸入書を通して日本人の一部の人たちの間に知れ渡っていたと述べています。
そして、モクソンの図はヴゥニョーラの『透視画法の二規則』(1583年)の
中に出てくる、絵と同じ物ですが左右裏返しになっているというのです。
このヴィニョーラとは、16世紀に活躍した建築家で、画家のプリマティチョと
共にフォンテンヌブロー城の装飾の為にフランスに来ていました。
フランスに来ていたということは、シャンボール城の二重螺旋階段を知る事が
できたわです。そして、未完ながらもヴィニョーラ自身もパラッツィオ・
ファルネーゼで二重螺旋階段を建設しようとしています。
またヴィニョーラと同時代の建築家アンドレア・パラディオも大きな直径の
二重螺旋階段を自分の著書である『建築四書』に書き込んで、シャンボール城の
階段についても記しています。
このようなことから、会津のさざえ堂とフランスのシャンボール城の二重
螺旋構造に何か関わりがあるのではないかと専門家は考えています。
530 :
ラムセスX:02/05/31 20:39
531 :
世界@名無史さん:02/05/31 21:01
【問題91】
文鎮かな・・・?
532 :
ラムセスX:02/05/31 21:04
〜神頼みならぬ網頼み? ヒューロン族の変わった魚獲り〜
【問題87】≪網を人間に見立てていたために生まれたその習慣とは何!?≫
飴でも、鞭でもないとしたら、残るは練習有るのみ!!
網を使う*ネイティブアメリカン*発のスポーツは、≪ラクロス≫?
【問題87】は、網に魚を獲る練習をさせる為に、≪ラクロス≫をした。!!
*** 実は不漁のときは、遊んでいたかったダケの気もシマスガ(^^/ ***
【問題91】・・・・仏教由来で、学校に良くあって文化的で、百葉箱が、オシイ
んん〜!! 百葉箱つながりで、雨量計!その由来は*猪脅し*<ホントか?>
【問題91】は、*猪オドシ*に由来を持つ、≪雨量計≫です。
534 :
ラムセスV:02/06/01 00:24
》533
Q87は網を若い男の人に例えてます。
Q91は百葉箱は正解に結びつきません。文系のものです。
535 :
世界@名無史さん:02/06/01 00:39
【問題91】
絵の具?
って、どこまでが文系なんだろうか…
【問題87】・・・・<網を若い男の人に例えてます>
扶養家族を、与えてよく働く様にするのでしょうか??
【問題87】は、網に≪家族を、与える≫
【問題91】・・・<文系のものです。>
学校でよく見る文系の物・・≪書見台≫でしょうか??
******* コレでこのシリーズは降参です。 ********
537 :
ラムセスV:02/06/01 01:56
≫535
Q91は小学校でよく見かけます
≫536
Q87はそこまでいかなくてももう少し簡単な事です。
【問題91】
小学校でよく見る文系の授業で使うもの…
さっぱり分からん
笛とか。。。
87:酒がだめなら…タバコ、タバコを吸わせた
91:単純に黒板で…しかし仏教に関係ないような
540 :
ラムセスX:02/06/01 18:42
541 :
ラムセスX:02/06/01 19:28
⊂正解87⊃ 結婚した……問題は
>>480 ヒューロン族は北アメリカのオンタリオ湖の北、現在のトロント市の東で
暮らしていました。彼らはイロコイ族に属する人々で、そのイロコイ族の言語は
ホケン・スー大語族に位置します。ヒューロン族の人口は、17世紀には3万から
4万人となっていたようですが、ヨーロッパからもたらされた病気などで17世紀の
半ばには半数に減り、18世紀には1万8000人程度にまでなってしまいました。
およそ20ほどの村で構成されていて、その村には各々幅6m、長さ10mほどの
家がいくつかありました。しかし、その家と家の間はほとんどすき間がなく、
しかも家の中で火を燃やす習慣があったので、火事になることがしばしばあり
ました。そこで、食糧や衣類などの貴重品は、穴を掘って地下にしまっておいた
そうです。一つの家で火が1.5mくらいの間隔で燃やされていて、一つの火を
向かい合わせで2家族が共有していたので、一軒で10家族程度が暮らしていたと
思われます。
17世紀のフランス人の記録では村にはその他に大きな建物が2つあり、1つは
「文」の酋長が、もう1つは「武」の酋長が使っていたといいます。
つまり、村には2人の酋長がいたというわけです。
そのヒューロン族の経済は農業が基本でした。実に75%は農産物に頼っていて
残りの25%は、木の実や果物、魚などで成り立っていました。
魚を獲る為に漁場の近くでは臨時の小屋が作られていました。ヒューロン族の
魚獲りはかなり変わっているもので、「魚説得役」とも言うべき役を持った人が
1人任命されます。この人は「食べた魚の骨は焼かないよ。だからおまえ達
(魚の事)は生きて還ることができるのだよ。」と魚に言い聞かせる役を持って
いたのです。こうすると安心して魚が近づいてくると考えていました。
また、魚に「一服やりな」と、農作物の1つであるタバコを水に投げ落とす
習慣もありました。しかし、それでも網にかからないと、網が元気に魚を獲れる
ようにと若い女性と結婚させる事もしました。
この他のヒューロン族の文化としては、敵討ちの習慣が挙げられます。
殺された者の親類縁者がグループとなって復習したのです。しかし、このような
敵討ちは討たれる方が贈り物をする事によって帳消しになりました。
そんなヒューロン族の事をもっと知りたいと思っていても、彼らの末裔が
今どこにいるのか、歴史の闇に消えてしまいまだその姿を確認することは
できません。
542 :
ラムセスX:02/06/02 00:57
⊂正解91⊃ 五十音図……問題は
>>481 五十音図とは、縦に10行の同類の子音を持った仮名あるいは音節を、一方
横に5段の同じ母音を持った仮名あるいは音節を並べて作った音節表の事です。
この表のおかげで皆さんは、ひらがなやカタカナを覚える事ができたはずです。
しかも、「あいうえお・かきくけこ・さしすせそ……」という順序で覚えて
いったはずです。この順序には意味があったのです。
それはサンスクリット語と関係します。
インドではまずアショカ王の時代(紀元前268年〜232年)の碑文などでおなじみ
のブラーフーミー文字とカローシュティー文字が使われたといいます。
カローシューティー文字は紀元前5世紀に北西インドで用いられていたアラム語
の影響を受けて左から右に書きます。一方、ブラーフミー文字はフェニキア文字
に影響を受けたといいます。右から左に書き著しく発達し、古代インドの言葉を
表記する上でオーソドックスなものになっています。
このブラーフミーとはブラフマン(梵天)から来ています。サンスクリット
(梵字)というのはこの事を狭義でいう事があります。
その後グプタ朝の時代(320年〜500年頃)になってブラーフミー文字は、
それまであまり用いられなかった曲線が使われるようになりました。
これをグプタ型ブラーフミー文字といいます。
しかし、王朝が衰退した6世紀にはこの文字からいくつかに分化する事になり
ます。1つは6世紀に成立したシッダ・マットリカーという文字で、日本に
伝わった悉雲(しったん)文字はこの系統に属します。
そしてもう1つが7世紀のナーガリー文字です。現在、サンスクリットを書い
たり、印刷する時に用いる文字であるデーヴァ・ナーガリー文字はこの系統に
属します。
前置きが長かったですが(^^ゞ、このデーヴァ・ナーガリー文字の配列が
今の私達の五十音図の仮名の配置に大きく関わりました。
現在知られている最古の日本の五十音図は、寛弘年間(1004年〜1012年)に
登場した『孔雀経音義』という漢字の発音(音)と意味(義)を記した物に
出てきます。孔雀経は密教(特に真言宗)でよく使われていたので、この
五十音図を真言宗の僧侶が書いたことは十分に考えられます。しかし、仮名の
順番が今の物とは違い
「キコカケク・シソサセス・チトタテツ・イヨヤエ○・ミモマメム・
ヒホハヘフヰヲワヱウ・リロラレル」となっています。
つまり、五十音段はイオアエウの順でア行とナ行はありません。
また、ハ行とワ行が並行して書かれています。
【後に続く・・・・・・。】
543 :
ラムセスX:02/06/02 00:58
⊂正解⊃ 五十音図のつづき・・・・・・
>>542 次に新しいのは承歴3年(1079年)の『金光明最勝王経』です。
ここには3つ五十音図が書かれています。しかし、これも現在の物と全く同じか
といえば異なります。やがて、空海が唐の釈智広の『悉雲字記』を持ち帰り、
これが現在のものにつながっていったと考えられます。この『悉雲字記』に
書かれていた物が先のデーヴァナーガリー文字の音節表だったのです。
デーヴァナーガリー文字の母音は基本的には12あります。
それは a・a'・i・i'・u・u'・e・ai・o・au・am・ah という
順番になっていて、このなかで私達に関係するのが『 a・i・u・e・o 』です。
一方、子音は単独(一字)では「 a 」という母音が付いています。
『悉雲字記』によると
☆牙 声 'ka' kha ga gha n'a
☆歯 声 'ca' cha ja jha n~a
☆舌 声 t.a t.ha d.a d.ha n.a
☆喉 声 'ta' tha da d.ha 'na'
☆脣 声 'pa' pha da dha 'ma'
☆遍口声 'ya' 'ra' la 'va' sa s.a ha llam. ks.a
となります。そのなかで ' ' で記号をつけたものを拾い集めると
『 ka ca ta na pa ma ya ra va 』となります。
caはサと発音し、paはハと発音します。そして、vaはワに準じます。
また、例えば、室町時代までハ行は「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」ではなく
「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」と発音し、それ以前は
「パ・ピ・プ・ペ・ポ」と発音していたので pa ととったのだと思われます。
このように、もともと経典の中に出てくる漢字音を理解する為に用いられて
いた五十音図は、サンスクリット語の研究、つまり悉雲学の影響で現在の
五十音図になったのですがその後、平安時代に国語音の音韻変化が生じ、それに
伴って「オ」と「ヲ」、「エ」と「ヱ」、「イ」と「ヰ」などが本来の形でない
乱れた音図を生む事になりました(例えばアイウエヲ等)。
ですがやがて、江戸時代になり再び元の五十音図になりました。
「え」をア行に持っていったのは契沖で「お」をア行、「ヲ」をワ行に持って
いったのは富士谷成章、本居宣長です。
契沖はそれまで〔五音〕や〔五音五位之次第〕〔五十連音〕などと呼ばれて
いた音節表を初めて〔五十音図〕と『和字正濫抄』で使っています。
元禄8年(1695年)の事です。
544 :
ラムセスX:02/06/02 01:09
次回の問題は火曜に出題します。
おまけのQ1:古代ギリシアの有名な彫刻『ラオコーン』は出土した時には右腕が
なかった。その為に出土後、想像力を生かし右腕を作り、像に
付けたのだが、その後本物の右腕が出てきた。そこで本物の右腕と
付け替えたのだが、では、その要らなくなった修復工場で作られた
右腕が今ある場所とはどこ!?
いったん終了で一休みか、今回のも面白かった。
おまけの答えは、出土した場所に埋めたってのはどうですか
【問い87】
素直に結婚と書いておけばヨカッタ・・(TT)
** 坂東英治風に間口を広くシテイタノガ敗因でした。 **
おまけのQ1 は、博物館内の≪レリーフ≫かな!
547 :
世界@名無史さん:02/06/02 13:21
Omake no Q1
Rhodes kana?
548 :
ラムセスX:02/06/02 22:40
正解1:ラオコーンが展示してある台座の後ろ
おまけのQ2:スウェーデンの医師ステン・フォーシュフットは、ナポレオンは
毒により殺害されたという説を出した。それは、髪の毛からヒ素が
検出された為に打ち立てた説だった。
しかし、死因に疑問を抱くきっかけになったのは、ナポレオンの
遺髪を調べる前の事であった。実は、肖像画にまつわることなのだが
では、死因に疑問を抱くきっかけになった肖像画に関わる事とは何!?
>548
肖像画というのは死の直前のものでしょうか。
550 :
ラムセスX:02/06/02 22:56
>>549 それよりもう少し前からのナポレオンの肖像画を範囲に入れてみて下さい。
>550
少し前ですか・・・脱毛が多かったとか。
552 :
ラムセスX:02/06/02 23:17
>>551 答えは違いますが、やはり見た目に関することです。
553 :
世界@名無史さん:02/06/03 02:54
太りすぎだったからですか?
554 :
世界@名無史さん:02/06/03 03:33
555 :
世界@名無史さん:02/06/03 07:01
553です
太り過ぎというかむくみが激しかったから?
556 :
ラムセスV:02/06/03 07:29
正解2:晩年に近づくにつれ太ってきている
これはヒ素中毒独特の症状の為,疑問に思い始めたそうです。
557 :
ラムセスX:02/06/04 20:32
今回は8問出題します。
〜簡単?複雑? 西夏文字に挑む!〜
【問題92】1038年、李元昊が皇帝になり西夏が成立、その2年前には
西夏文化を代表する西夏文字を彼は公布した。
西夏文字は漢字の模倣と考える人もいるようだが、それは違うらしく
独自に創作された。例えば、漢字には「山」や「日」のように
その物を象って(かたどって)作られた象形文字があるが、
西夏文字にはそれが全くないというのも理由の一つである。
漢字に比べて10分の1の約6千数百字から成る西夏文字は、一見すると
複雑に見えるが、殆んどが偏(へん)や冠などの部首によって
できているので、そのパターンさえつかめれば分かりやすい文字と
いえる。その偏の中には水偏、火偏、鳥偏など私たちにもなじみ深い
ものがあるが、中には西夏文字独特の偏がある。
その偏は、カタカナの「リ」のような形をした偏である。
(ここでは便宜上‘リ偏’と呼ぶことにします)
では、漢字にはない「リ+○」で記される‘リ偏’が表す意味とは何!?
〜バビロン捕囚を知らないバビロンの植物?〜
【問題93】紀元前586年に起こったバビロン捕囚にちなんで、18世紀にある植物の
学名が名付けられた。しかし、本来はそのバビロン捕囚に関わる植物は、
ポプラの仲間の植物であったのだが、出題の植物と形が似ているので
混同されてしまったのだ。つまり、出題の植物はバビロン捕囚とは全く
関係のない植物といえる。
現に、その植物がヨーロッパに伝わったのが18世紀で、中国から来た
という。では、腹痛薬などにも利用されたその植物とは何!?
〜イヌイットの男の子たちが大人になるまでアレができないワケ〜
【問題94】北極圏に住むイヌイットには独特の習慣がある。その一つに、将来
大人になったら狩りができなくなってしまうという理由で、
男の子たちはある事ができない習慣がある。
そのある事自体は世界各地でも行なわれていて、特に、環太平洋地域で
よく見られるという。もちろん、日本でも行なわれていて、
イースター島でも行なわれている。では、その忌避されている事とは何!?
〜2人の結婚が世界史を変えた?〜
【問題95】1661年、ポルトガルのキャサリンがイギリスのチャールズ2世と
結婚した時に、ポルトガル王室はイギリス王室へと、ある物を贈った。
後に、それはイギリスの歴史に大きく関わる物になったのだが、
では、イギリス王室への贈り物とは何!?
558 :
ラムセスX:02/06/04 20:33
〜ハープ奏者の条件!? 古代エジプト音楽史〜
【問題96】古代エジプトのカルナック神殿のレリーフに、王宮でハープを演奏
している人たちが描かれている。当時、アテン神やファラオの為に
ハープを演奏する時には、演奏者たちはある事をしなければ
ならなかった。では、そのある事とは何!?
〜チョウだけが知っている? 記念切手の間違い〜
【問題97】アメリカにまだ占領されていた1959年の沖縄で、「第一次動物シリーズ」
というたくさんの動物が登場する記念切手が発売された。
その中の13セントのコノハチョウの切手は、枝に止まった姿や
羽を広げた姿が生き生きと描かれていた。
しかし、発売後に生態上おかしいという指摘を受けた。
つまり、本物のコノハチョウはこういう事はしないというのだ。
その為に翌年になって、正しく直した切手を発売する羽目になった
のだが、では、指摘を受けたその生態上の間違いとは何!?
〜雷が嫌う縄文時代の食材?〜
【問題98】メディア王国で宗教的な儀式を行なう時には、マムシの皮とカエルと
共にある物を焼いて、その灰を飲み物に振りかけて飲むと目がよくなる
と考えられていた。
そのある物は、集団結社のピタゴラス派の紋章にもなっていて、
またヨーロッパでは、その物の化石を雷除けあるいは家畜の病気除けにも
利用していた。
日本では、縄文時代から食べられていた物で、エドワード・S・モースは
これを使って作られたコマが、江ノ島の土産屋で売られていたと記録に
残している。では、これらに利用されていた海の食材とは何!?
〜アンリ4世もうらやんだガリレオの恩返し〜
【問題99】ヨーロッパの科学史に名を残すガリレオは、経済的に貧しかった。
それをバックアップしたのがメディチ家のコジモ2世であった。
友人でもあり、弟子でもあったコジモ2世の協力で、次々と
したい研究ができた為にガリレオはある恩返しをした。
その事をアンリ4世はうらやましく思い、自分に対しても同じような
事をすれば、資金協力などの保護をするとガリレオを誘惑したほどで
あった。では、ガリレオが行なったその恩返しとは何!?
【問題98】
サザエかな?
蓋がコマになりそう。
【問題93】シクラメン?
【問題94】夜這い?
「日本でも行われていて」という部分が引っかかりますが…。
【問題97】枝にとまるとき、頭が下になる。
【問題98】ヒトデ? 不味そうだけど。
ところで、【問題88】が正解できたのは結構嬉しかったです。
昨日の夜まで旅行してたんですが、正解していたことを帰ってきてから知りました。
会津のサザエ堂といえば、アニメ「サザエさん」で紹介されたことがありましたね。
タラちゃんが、「ママと同じ名前です〜。」という、お決まりの台詞を吐いていた
ことを思い出します。
【問題93】イチョウ 【問題95】スリランカ。この結婚をオランダ
が幕府にちくった為、幕府はイギリスとの交易再開を拒んだ。
【問題98】サザエ【問題99】毒の検出
自信が無いのですが、一応。
〜イヌイットの男の子たちが大人になるまでアレができないワケ〜
【問題94】・・・・≪あやとり≫
マズは、コレだけ!です。
〜バビロン捕囚を知らないバビロンの植物?〜
【問題93】・・・≪かえで≫でしょうか?
〜ハープ奏者の条件!? 古代エジプト音楽史〜
【問題96】・・・・≪沐浴して、心身を清める≫かな?
〜雷が嫌う縄文時代の食材?〜
【問題98】・・・・≪アワビ≫たしかこの頃から養殖してましたよね。
〜2人の結婚が世界史を変えた?〜
【問題95】・・・・・アヘン戦争の遠因??? ≪喫茶の習慣≫
567 :
ラムセスX:02/06/04 22:39
正解が出たのは……
Q94:あやとり
Q97:頭を下にして止まる
……です。
>>561 答えが惜しいものが1問混じっています。(>_<)
〜アンリ4世もうらやんだガリレオの恩返し〜
【問題99】・・ガリレオと言えば天体観測!!
≪発見した星に、メディチ家の名前を付けた≫で如何でしょう?
******** アトは、ヒント待ちです。 *****
569 :
ラムセスX:02/06/04 23:00
>>568 ほぼ正解ですが、もう少し的を絞って頂けますか?
つまり、どんな星に付けたのでしょうか?
それが出れば★パーフェクト★な正解です(^^)
ガリレオと言えば天体観測で、有名なのは木星の衛星!
世に言う、≪ガリレオ衛星に、メディチ家の名前を付けた≫です。
【問題95】お茶ですか。
572 :
ラムセスX:02/06/04 23:20
>>570 正解ですー☆
>>571 Q95に注目したのはいいんですけど
あらら、離れちゃいました(+_+)
【問題95】
交易権(圏)、航路。
574 :
ラムセスX:02/06/04 23:24
>>573 最初に答えていただいたものが一番近いですヨ(^○^)
575 :
世界@名無史さん:02/06/04 23:25
>>山野野衾様
それは「お茶」と「交易権」の結婚と言う意味でしょうか?
俺は中国の「緑茶」と「発酵」かな?と。
中国人が飲んでるのはほとんど緑茶なんでね。
【問題95】
リスボン風の茶の飲み方。ぶっちゃけた話発酵した紅茶を使用したもの?
577 :
ラムセスX:02/06/04 23:33
>>576 元々はインドのものでしたが、1534年になって、
ポルトガルの物になったものです。
インドの人たちを無視して贈った物です。
〜2人の結婚が世界史を変えた?〜
【問題95】・・・・セイロン島の統治権??
このお陰で、ロイヤルアフターヌーンティーの習慣が出来て・・・
≪セイロン島の統治権≫です!!!
579 :
世界@名無史さん:02/06/04 23:41
【問題95】
セイロン島?
なんだかよく分からんけど
【問題95】
1661年に英国領になったインドの一部は
ボンベイだが。。。
>580
それだ!!・・・多分。
582 :
世界@名無史さん:02/06/04 23:48
そいや、もともとセイロン島はコーヒーが名産なんだっけ。
疫病かなんかで、コーヒーの木が全滅した後に茶を植えたって話を聞いたような、、、
≫580さん
その通りでした。(*年表見てみました。*) 何処かで勘違いした様です。
ボンベイ島を手に入れた事によって、一大拠点を手に入れた
英国東インド会社は・・・
で、アヘン戦争、日本における幕末、薩英戦争に繋がって行ったか?
【問題95】・・・≪ボンベイ島です。≫
584 :
ラムセスX:02/06/05 00:16
585 :
世界@名無史さん:02/06/05 01:27
問題98
ピタゴラス派の紋章ならペンタグラムだよな。ただの貝なら
違うだろうし・・・。
586 :
ラムセスX:02/06/05 01:41
>>585 その五角形の形はこの生き物の口が元になってできたそうです。
ヒポクラテスはこれを食べると、利尿効果が得られると記録しています。
インドの『リグ・ヴェーダ』にもこれと思われる生き物が登場するといいますが、
サンスクリット語のこれは、イルカ、或いは小さくなったヴィシュヌ神という意味も
含まれているので、違うのではという反論もあります。
五角形の口・・・
【問題98】
タコか?
588 :
ラムセスX:02/06/05 01:49
589 :
世界@名無史さん:02/06/05 01:57
【問題98】
ヒラメ。たこ。サザエ。アサリ。牡蠣。ハマグリ。秋刀魚。いわし。
赤貝。平貝。フジツボ。しじみ。
正解はある?(w
590 :
ラムセスX:02/06/05 01:59
>>589 ヒントを言いましょう。
そんなかにはありません(^o^)
これで最後
【問題98】
いそぎんちゃく
592 :
ラムセスX:02/06/05 02:01
>>589 あと、解答は原則1つに絞ってください(^^)
593 :
世界@名無史さん:02/06/05 02:02
【問題98】
ひとで
594 :
ラムセスX:02/06/05 02:02
595 :
ラムセスX:02/06/05 02:02
596 :
世界@名無史さん:02/06/05 02:03
ふじつぼ、中南米じゃ食用だそうだ。
日本のものよりはるかに大きくてやわらかくて
シーフードレストランでよく出るんだって。
597 :
ラムセスX:02/06/05 02:06
>>596 どんな味なんでしょうか?どうやって食べるか興味がありますね。
598 :
世界@名無史さん:02/06/05 02:16
軽く酒で蒸してサラダみたいにして食べるんだそうで
TVでも見たんですが、凄く大きくて手のひらに近い大きさ
だったです。
うまそ〜。
おっと、本題からずれた。
え〜と、貝ですか?
599 :
ラムセスV:02/06/05 02:30
一応、もう少しノーヒントで進めたいと思いますm(__)m
【問題98】ウニですか?
601 :
世界@名無史さん:02/06/05 09:09
【問題98】
イカ?
602 :
世界@名無史さん:02/06/05 09:58
問題98
星ですか?
603 :
世界@名無史さん:02/06/05 10:18
問題98
602です
先ほどはとんちんかんな答えで失礼しました
答えはミドリシャミセンガイではないですか?
【問題98】
ナマコですか?
【問題92】
土地でどうでしょうか?
606 :
世界@名無史さん:02/06/05 10:53
問題93
ポプラに似てないですけど
松ノ木ではないかと
【問題96】
踊る・・・とか??
608 :
ラムセスX:02/06/05 13:13
609 :
ラムセスX:02/06/05 15:12
⊂正解94⊃ あやとり……問題は
>>557 あやとり自体は世界各地で見ることができます。太平洋地域をはじめ、
東アジア、オーストラリア、南北アメリカ、アフリカなどで行なわれています。
イースター島では「カイカイ」と呼ばれ、島の伝説を語るときにあやとりを
しながら話を進めるそうです。つまり、視覚的効果を狙ったものといえます。
これらはいつから始まったのかは現在分かってません。‘神話の時代’から
あったのかもしれませんね(^_^)。
日本でも古くから行なわれていたようで、平安時代には貴族のたしなみにも
なっていました。しかし、どんな物を作っていたかについてはあまり史料が
ありません。分かっているものに例えば「月と星」(沼田親王)があります。
江戸時代になって、2人で交互にする「二人あやとり」が生まれました。
その後、昭和20年代くらいまで日本の遊びとして定着していきました。
さて、イヌイットのあやとりについては1888年に、文化人類学の分野から
本格的な調査が行なわれてきています。男の子はそのあやとりを子供の頃から
すると、狩りができなくなってしまうという理由でさせてはくれません。
イヌイットの狩りはいろいろな方法で行なわれますが、その一つである銛
(もり)を使った狩りができなくなってしまうというのです。
彼らの考えでは、小さい時に指に糸を絡ませて遊んでいると、大人になって
狩猟で投げる銛の網が手に巻きついてうまくいかなくなってしまうというのです。
このような、遊びをするの時のタブーは他のところでも見ることができます。
例えば、アッサム地方に住むレングレ・ナガ族は畑作に稲が植えられている間は
相撲をしてはならない習慣があります。これは、相撲でドンドンと大きな音や
振動を起こすと、稲の精霊が驚いて実をつけてくれなくなってしまうと考えて
いる為です。ですから、彼らは相撲をしたいと思ったなら、稲を刈り取った後
から次の播種までの間にしなければならないのです。また、コマ回しも
その回転で畑の作物を吹き飛ばしてしまうという考えから、収穫後から種蒔きの
間に遊ぶのが限定されているのです。
610 :
ラムセスX:02/06/05 17:22
⊂正解97⊃ 頭を下にして止まる・・・・・・問題は
>>558 1959年に沖縄で「第一次動物シリーズ」と題する記念切手が発売されましたが、
その中に、コノハチョウが描かれた13セント切手もありました。しかし切手には
枝に頭を上にして止まっている姿が描かれていたのですが、実際はコノハチョウは
頭を下にして止まると指摘を受けたのです。翌年の第二次動物シリーズでは、
構図を逆にし直して改めて発行しています。
このコノハチョウを有名にしたのは、博物学者でもあり心霊学者でもあった
アルフレッド・ラッセル・ウォーレスです。ダーウィンよりも早くに生物の進化に
注目しましたが、ダーウィンの方に皆が注目してしまい、その為に
‘ダーゥインに消された男’とまでいわれてしまったほどです。
しかし、現在でもバリ島とロンボク島の間に名前を残しています。
北のバリ島では、アジアの熱帯気候になっているのでサルやトラが棲み、
少し南に下ったロンボク島ではオーストラリア型の乾燥気候のため、全く
そのような動物は棲んでいなくて、有袋類の仲間やトカゲ、オウムなどが
棲んでいるのに気付き、‘生物上の国境’(生物が暮らしていく上での境界線)
という事を発想したのです。これを‘wallace line(ウォーレス線)’と呼んで
います。
そのウォーレスが1869年に出した著書『マレー諸島』の中で、スマトラの
ムラサキコノハチョウを取り上げ、〈羽の裏側が枯葉のような色になっていて
それを利用して枯葉に擬態する〉と紹介したので一躍注目を浴びました。
コノハチョウはヒマラヤ北西部、ネパール、アッサム、シッキム、ビルマ北部、
インド北部、インドシナ半島、マレー半島、タイ、ハイナン、中国北部・中部、
台湾、日本に生息しています。
日本には、沖縄本島、石垣島、西表島に暮らしています。成虫になると樹液や
鳥の白骨、バナナの果実などに集まるそうで、地上の吸水例も報告されています。
ですが、花に飛んでいって蜜を吸うという事はめったにしないそうです。
このコノハチョウの特徴の1つに羽の開閉が挙げられます。
さまざまな行動の中でその羽を広げたり或いは閉じたりするのに何か意味がある
のでは?そんな疑問から調査が始まりました。しかし、これにはウォーレスの
報告も関わってきます。
〈羽の枯葉模様で擬態する―。〉この報告から、敵が来た時には羽の裏を
見せて静止しているのは分かるが、羽の表は大変きれいな青い色をしていて、
しかもそれを見せて止まっている時があるのです。
そんな事をしていると、鳥などの捕食者に捕まってしまうのにどうして羽を
広げて止まるのか?ウォーレスの報告に疑問をもち始め調査が行われたのも
事実です。
現在分かっているコノハチョウの行動パターンは、
1:日光浴 2:占有行動(縄張り意識)とそれにともなう追飛
(邪魔なやつを追いかけていく)
3:摂食行動 4:休息 5:夜の睡眠 6:越冬
7:配偶行動(求愛など) 8:産卵行動
などがあります。
このときの羽の開閉を表にすると
羽の広げ方
開閉 狭いV字 V字 水平 屋根状
日光浴 ? △ ◎ ◎
占有行動 △ ● ◎ ●
摂 食 ◎ ● ● ●
休 息 △
夜の睡眠 ◎
越 冬 ◎
※記号の◎は多い、●は時々、△は少ないを示す
【後に続く・・・・・・。】
611 :
ラムセスX:02/06/05 17:24
⊂正解⊃ 頭を下にして止まる(つづき)・・・・・・
>>610 そして、このきれいな羽には2つの大きな役割が考えられます。
1つは捕食者に自分を狙っても無駄だという事を分からせる為です。
コノハチョウが見通しのいい所で羽を広げていると、当然鳥などの捕食者に
狙われます。捕食者が襲い掛かると、コノハチョウはひらりひらりと交わして
暗い木々が生い茂った所へ逃げていきます。そして、木の枝に止まって羽を閉じ
枯葉模様になるのです。こうすると、もう捕食者はどこに行ったのか分からなく
なってしまいます。記憶力と識別能力がいい鳥は、あの青い羽を見るともう
襲っても捕まらない、無駄だと思ってしまうというのが一つ目の役割です。
二つ目は毒がある事を教えているという事です。幼虫の時に食べた植物には、
薬効成分が含まれているものもあります。それを食べて成虫になったら、今度は
コノハチョウを捕まえた生き物がチョウを食べると危険になる可能性があります。
つまり、青い羽を見せることで、この間食べて危険な目にあったのは俺たちの
仲間だよ、という事と教えているというのです。
1968年8月26日に沖縄県の指定天然記念物になったコノハチョウのミステリーは
まだ完全に解けてはいません。これからも謎は出てきそうです。
因みにそのほかで切手の間違いといえば、1901年に発行されたコロンブスの
切手が有名です。当時、まだ発明されていなかった望遠鏡をコロンブスが
持っている図柄が話題になりました。
また、日本では昭和12年に第一次昭和切手が発行になりましたが、その中の
1つの五厘切手に朱印船を描いたものがありました。この朱印船の船首には
「日の丸」が掲げられていたのですが、果たして、当時日の丸が既に朱印船に
掲げられていたか論争になりました。この切手のモデルは、長崎の清水寺に
奉納されていた額に描かれていた御朱印船で、その船には丸の中に「平」の
文字が描かれていました。切手の作者は「平」と「日の丸」の両方を提出しま
したが、日の丸の方が採用されたのです。太平記にも日の丸の記述はあるよう
ですが、かなり議論になったといいます。
94、95、97、98、99はすでに正解が出ているのですね。
92、「リ偏」ですね、う〜む、適当に「漢民族の」という意味の部首
93、おなかの薬ということで、イチョウ………違いますね、すいません
96、神様のために演奏するために、「目隠し」
613 :
ラムセスX:02/06/05 20:21
614 :
世界@名無史さん:02/06/06 13:32
正解を出して頂いた問題から補説を原則的に載せていくのですが、
仕事場に書いたやつ忘れてきちゃったので、順不同で行きます。すみませんm(__)m
⊂正解98⊃ ウ ニ・・・・・・問題は
>>558 ウニのラテン名はechinus(エキヌス)といいますが、これはギリシア語の
ハリネズミ:ekhinos に由来します。また、anthocidaris(アントキダリス)は
ギリシア語の花:anthos と王冠:kidaris に由来します。clypeaster
(クリペアステル)はラテン語の楯:clypeus と星:aster の合成語です。
英名の sea urchin は、海のハリネズミという意味です。そして、フランス名の
oursin(ウルサン)はクマ:ursus に由来します。
日本語のウニは新井白石の『東雅』(1719年)によると、ウヰ(海胆)が転じた
ものだそうです。そのウニの私たちが食べる所は卵巣の部分です。
プリニウスの『博物誌』によると、古代メディア王国で宗教儀礼を司った
というマギ族は、ウニをマムシの皮やカエルと共に焼いて、その灰を飲み物に
ふりかけて飲むと目が良くなると考えていました。また、ローマではウニを
食べると結石が治ると信じられていました。
ピタゴラス派の紋章には、ウニの口をモチーフに五角形の形を選びました。
彼らの宇宙に対する思想がウニの口の形に合っていたのです。
(といいつつ自分もウニの口を見た事がないのですが・・・・・・。)
また、ヨーロッパでは、ウニの化石は雷といっしょに天から降ってきたもの
とされ、その為に「雷石」「天気石」などと呼ばれていました。そして雷除けや
家畜の病気除けのお守りとして広く利用されたといいます。
ダーウィンの『ビーグル号航海記』(1839年)にもウニの話が出てきます。
南米のホーン岬のすぐそばにあるウォラストン島ではフエゴの女性が海に潜って
ウニを獲っていたと記されています。そしてA.M.リースの『経済動物学提要』
によれば、西インド諸島でもウニは食用として獲るそうです。sea egg と呼ばれ
20世紀の初めのこの地域におけるウニ産業の中心地であったバルバドス島では、
年間の取引高が2万ドルになっていたといいます。
インド最古の宗教文献『リグ・ヴェーダ』にもウニらしきものが登場します。
第116歌には、小さなウニと雄牛が金持ちの車を挽くものがあります。
しかし、グーベルナティスの『動物の神話』では、サンスクリット語の
cincumaras はウニという意味のほかに小人に化身したヴィシュヌ神やイルカ
という意味も含まれているというので、正体をはっきりさせるのは難しいと
しています。
一方、日本では縄文時代の遺跡からもウニが出土しています。どんなウニかと
いうとバフンウニ、ムラサキウニ、アカウニ、エゾバフンウニなどの殻が出土し
ています。
平安時代の『令義解』(833年)にもウニの古名である「がぜ」が登場して
います。江戸時代の『本朝食鑑』には、九州の大村・五島・平戸が卵巣が赤黄色を
しているので最もよいと記しています。その次が薩摩のウニで、色が紫黄色のもの
がいいとなっていて、三番目が福井や福島のもので、黄白色のものとランク付け
しています。
そして、モースの『日本その日その日』(1917年)によると、明治初期の
江ノ島の土産物店で、ウニの中身を取った殻を二つ重ねて作ったコマが売られて
いたといいます。更に、『動物学雑誌・第331号』(1916年5月発行)によると
動物学者の谷津直秀は、かつてウニのトゲの一端に巻きタバコを入れる穴を開けて
パイプとして売られていたのを見たといいます。ここで使われたウニとは、
パイプウニと思われます。
そして谷津は加えて、彼が子供の頃には東京の文房具屋では、小笠原産の
パイプウニのトゲを石筆の代わりとして売られていたといいます。また、
ミクロネシアのヤルート島でも子供たちが、浜に打ち上げられたウニのトゲを
石筆の代用品にしているそうです。(『動物学雑誌・第330号』1916年4月)
更に、トンガのヴァヴァウ島の子供たちもウニを海から持ってきて、トゲを
火にあぶって使いやすくして石筆代わりに使うそうです。
(J.ウィリアムズ著『南海の島々における伝道事業報告』より)
【問題92】
政府に関する言葉の部首とか。
616 :
ロゼット・ア・ストーン:02/06/06 14:03
>>615 やはり、言語に関わる事を表しているようですよ。
617 :
ラムセスX:02/06/06 14:05
>>616 すみません、他のスレのハンドル使っちゃいました。
【問題92】
言語に関わる事ですか・・・難しいですね。
表音文字を表すとか。日本のカタカナみたいに。
619 :
ラムセスX:02/06/07 01:32
620 :
世界@名無史さん:02/06/07 02:16
すみません、仕事が忙しいので解説が書けません。明日にはまた少しずつ書けると
思いますのでその間、違うスレで出した問題ですがヒマつぶしに解いてみて下さい。
〔おまけの問題1〕
インカ帝国第9代皇帝パチャクティが領土拡大の為に、南方のコヨ族を征服した後
都に帰らず、そのまま進み インカ皇帝史上初めて太平洋を見た。
そしてその時に記念として都クスコに持ち帰った物とは何!?
〔おまけの問題2〕
アンコール・ワットをはじめとするカンボジアの遺跡にはよく見ると、所々
表面に直径2〜3cmほどの穴が空いている。これには意味があると考えられる
のだが、ではこの穴がつくられた目的とは何!?
〔おまえけの問題3〕
ヨーロッパでは中世にはお守りとして、16世紀までは磁石の磁力を無くすと
信じられていた自然界の物とは何!?
【問題92】
元の意味の否定。英語のunみたいな。
自信ないです・・・。
>>621 否定偏で正解です〜&お見事でした。(^_^)
623 :
ラムセスX:02/06/07 16:52
⊂正解99⊃ 木星の衛星にメディチと名付けた……問題は
>>558 16〜17世紀に実用化に成功した望遠鏡でガリレオは偉業を残しました。
最初にレンズを向けたのは月でした。1609年12月1日に観測して以来、翌年の
1月の初めには月の表面はツルツルではなく凸凹している、月は太陽の反射で
輝いているなど、それまでアリストテレスの考えを信じていた科学者がビックリ
するような成果を挙げることができました。
そして次にレンズを向けたのが木星でした。1610年1月に木星の観測をし、
4つの‘惑星’(発見当時は惑星だと思っていた)が木星の周りを回転し、
そしてその木星と共に太陽を回転している事に気が付いたと、1月30日に彼が
生まれ育ったトスカーナ大公国のベリザリオ・ヴィンタ首相に手紙を送って
報告しています。そして、2月にこの発見の報告を印刷して多くの人たちに
知らせる準備をすると同時に、この木星の‘新惑星’をどう命名するかについて
ヴィンタに相談しています。
ガリレオはコジモ星(コスメチ)にするか、メディチ星(メディケア・シデラ)
にしようか考えていましたが、ヴィンタはコジモ星では宇宙(コスモ)と
紛らわしいし、メディチ家はコジモ2世、フランチェスコ、カルロ、ロレンツォの
4兄弟であったから新惑星と数が一致するのでメディチ星を薦めました。
こうして3月12日には報告書である『星界の報告』がまとまり、その中で
新しい惑星の事を‘メディチ星’と呼んでいます。
そして、コジモ2世に献辞を付けて『星界の報告』を上げ、付属品をつけた
上等な望遠鏡を一緒に渡しています。彼がコジモ2世にここまでするには、
コジモ2世に対する感謝が込められているのです。
コジモ・ディ・メディチ支配下のトスカーナ大公国で1564年生まれたガリレオは
服を商う音楽家の父の家に育ちましたが、家庭が経済的に上手くいっていません
でした。81年にはピサ大学の医学進学教養部に入りましたが、学費が足りなく
なって退学してしまったほどです。その後、ガリレオの才能に目をつけた
コジモ2世が資金を提供し、彼のしたい研究をさせてあげました。
あるときは友人として、またあるときは弟子として、そしてスポンサーでもあった
コジモ2世に感謝の意を込め新惑星に名付けたのです。
つまりこの結果、新惑星自体メディチ家の献上品になったのです。
異常な反響を呼んだらしく、コジモ2世に献上した19日には550部刷った
『星界の報告』はあっという間になくなってしまったといいます。しかし、
彼の発見に対して早速批判がでました。当時は望遠鏡を覗く事自体が宗教的に
いけないこととされていたようで、更にガリレオの代わりにボローニャ大学の
教授になったマジニは、メディチ星などははっきり見た者はいないと言って
います。またマジニの弟子であるホルキは、メディチ星は光学上の錯覚だとし、
星そのものを否定しました。しかし、ガリレオの説は徐々に浸透していきました。
多くの人たちは反対する人たちを白い目で見てガリレオを応援しました。
フランスのアンリ4世は、1610年5月14日に暗殺される直前にガリレオに
別の新しい星を発見しその星をブルボン貴族の名を取って「アンリ星」と
名付けてくれれば、フランス王家はどんな事があっても保護すると誘いを
持ち掛けています。これは、アンリ4世が王妃マリー・ド・メディシスの関係で
メディチ家と関係があることに目をつけたからでしょう。
キリスト教関係者が反対する中、12月にはローマ学院の神父たちも自分達で
作った望遠鏡で観測し、『ローマ学院の星界の報告』として事実を確認して
います。
また、ドイツの天文学者のケプラーも『星界の報告』に対して『星界の報告論』
で応えています。その中ではガリレオの発見に対して肯定的な意見を出しています
し、ガリレオがケルン選挙公に贈った望遠鏡を手に入れて自ら観測もしています。
そして『木星の四衛星観測記録』を出版し完全にガリレオに支持することになり
ました。
【後に続く……。】
624 :
ラムセスX:02/06/07 16:54
⊂正解99⊃ 木星の衛星にメディチと名付けた のつづき……
>>623 ガリレオはメディチ星を「惑星」と表現していましたが、月やメディチ星の
ような惑星の周りを廻る星に対して、ケプラーはラテン語で‘取巻き’や
‘腰巾着’を意味する「サテライト」と呼ぶ事を提案しています。つまり
ここから衛星という呼び名が始まりました。
また当初は木星の衛星はメディチ星でしたが、ヨーロッパでは初めて
アンドロメダ星雲を見つけたシモン・マリウスはこれらの4つの衛星に対して、
神話に登場する神の名をつけました。つまりイオ・エウロパ・ガニメデ・カリスト
です。
木星はジュピターといいますが、これはローマ神話のユピテル(Jupiter)
から来ています。もちろんギリシャ神話のゼウスの事です。ゼウスは女性関係が
広かったので衛星の名前はそこから来ているものが多いのです。
イオ(Io)は、ゼウスが妻ヘラの目をごまかす為に白い牡牛に変えられて
しまった女神です。地球上ではイオニア海にその名を残しています。
1979年に地球以外で初めて火山活動が確認された星としても有名です。
エウロパ(Europa)についてはどうでしょうか。ゼウスとイオの間にエパポスが
生まれました。そのエパポスの娘であるリュビエーとポセイドンの間に生まれた
子の1人であるアゲーノルーの娘がエウロパです。
今では「ヨーロッパ」という呼称に残しますが、2000年1月にエウロパが
木星の周りを回りながら木星の磁場に従って5時間半に一度、磁場の向き変える
事が分かりました。これはエウロパに電気を伝える物質が大量にないとできない
話の為に、それを為しえるものが液体の海水ではないかという考えに至った
のです。観測の結果、地表を覆う下に海があることが分かりました。生命がいる
可能性も100%否定できないといいます。
ガニメデ(Ganymede)はトロイア王家の祖トロースの息子とされます。容姿が
あまりに美しかったので、ゼウスは鷲に化けて天上界へ連れて行ってしまいま
した。そこで青春の神のヘーベと共に酒を酌ませたといいます。この酌む様子から
ガニメデが水瓶座のモデルに、またゼウスが化けた鷲が鷲座のモデルと言われて
います。因みに酌まれた酒のことを「ネクタル」といい、そこから不二家の
ネクターが命名されました。
最後のカリスト(Callisto)はアルカディア族の祖リュカオーンの娘、
あるいは孫とされる女神で、月と狩猟の女神アルテミスの従者です。
当時は4つしか発見されていなかった木星の衛星は、2002年5月16日に
アメリカハワイ大学の研究チームが11個発見し、現在39個確認されています。
その中で命名されている衛星が16個です。
これからも新しい発見が続く事でしょう。
625 :
世界@名無史さん:02/06/07 18:13
おまけ問題2
昔、王族や金持ち達が少量で価値の高い宝石や金を寺院のあちらこちらに隠し、
その地図も作成していた。
その地図が盗賊の手にわたり宝石も彼らに盗られてしまった。
この穴はその隠し金庫の後。
エッヘン!問の96の正解を出し、おおいばりのペイトンです。
おまけの問題を除くと出ていないのは問93だけですね。
問93は植物を当てる問題でしたね。
バビロンに関係してそうなもの…う〜ん…
マナをイメージして、ネコヤナギでどうでしょう。
627 :
ラムセスX:02/06/07 23:56
⊂正解95⊃ 島……問題は
>>557 クロムウェルの後、1660年4月4日オランダのブレダでブレダの宣言を行い
イギリスに戻ったチャールズ2世は1661年にポルトガルのキャサリンと結婚
しました。この結婚はイギリスはもちろん世界の歴史を変えるできごとに
なりました。3つほど挙げられます。
一つ目は、ポルトガルからのボンベイ島の譲渡によるインド経営の本格化です。
ボンベイにポルトガルが目をつけたのは1534年のことで、グジャラートの
スルタンであったバハドゥール・シャーからこの地を得たのに始まります。
ここに要塞と教会を建ててゴアの補助港としていたのでした。
イギリスに渡った後のボンベイは、1668年今度は王室からイギリス東インド会社
に年10ポンドで貸し出されました。これがイギリスのインド経営の基礎を
築き上げるきっかけにもなりました。
東インド会社は1639年にはボンベイの反対側の東に位置するマドラスに
セント・ジョージ要塞を構築してから発達し、53年には独立管区となりました。
87年にはスラートからボンベイに会社の中心を移し、90年にはガンジス川の
枝流フーグリ川のほとりにウィリアム要塞を構築しました。これがカルカッタの
始まりです。1707年には独立管区となっています。
こうして、マドラス・ボンベイ・カルカッタの3拠点が形成される事になった
のです。
ボンベイの名を一躍有名にしたのは木綿でした。
それまで木綿といえばアメリカのものが知られていましたが、南北戦争
(1861年〜65年)によってアメリカの綿の輸出がダウンすると、デカン高原の
綿が注目されるようになり、よりしっかりした産業化が進みました。更に69年に
完成したスエズ運河によってヨーロッパへの距離が短縮化され、ボンベイは
西方への門戸を広げる貿易港としてのきっかけを得たのです。
加えてそれ以前にインドを巻き込んでイギリスは利益を上げる為に、中国と
三角貿易を行いました。それまでイギリスから中国に渡っていた銀がインドの
アヘンが中国に、インドの綿花がイギリスに渡った事で逆流し、中国から
イギリスに銀が渡っていきました。アヘンの害を防ぐ事と銀の流入を防ぐ事が
イギリスと対決する事で一致し、こうしてアヘン戦争が起こりました。
一方、インドでもイギリスに不満を持っていた人たちがシーク戦争などで
対決していますが、いずれもイギリスに破れる結果になってしまいました。
インドの綿花によって産業革命の産物である綿織物が作れると、イギリスは
世界にその市場を求めいく事になります。
因みに、ボンベイとはポルトガル語で良湾を意味する「ボン・バイア」から
来ていますが、それ以前は地元の人たちは「ムンバイー」と呼んでいました。
これは地元の人たちが崇拝していたパールヴァティー女神の化身、ムンバに
因んでいます。1995年にはボンベイからムンバイーへと地名が復活しています。
ですから「ムンバイー」と答えて頂いても正解になりました。
【後に続く……。】
628 :
ラムセスX:02/06/07 23:59
>>626 ほぼ正解です。シダレヤナギが正解でした。
629 :
ラムセスX:02/06/08 00:36
⊂正解95⊃ 島 のつづき……
>>627 2つ目が砂糖と茶の定着化です。1600年に誕生したイギリス東インド会社の
長崎・平戸駐在員であったウィッカムが茶のことに言及したのが始まりです。
つまり、イギリスと茶を結びつけたのが日本であったのです。
当時はイギリスでは茶のことを「チャ」と発音していました。これは日本の
影響と思われます。
茶を指す言葉には「チャ」と「ティー」の2種類が挙げられますが、
「チャ」は中国広東語をはじめ、日本語、ヒンドゥー語、ペルシャ語、ロシア語、
アラビア語などです。一方「ティー」は中国福建語、英語、フランス語、
オランダ語などです。
では、いつ英語では「チャ」から「ティー」になったのかというと、それは
1644年以降と考えられます。それはこの年にイギリスの商人がアモイに拠点を
置いてここで直接、福建語の「ティー」を聞き覚えたと考えられる為です。
イギリスで紅茶が受けた理由にはいくつか理由が挙がります。1つは
それまでコーヒーハウスで売られて男性中心であった茶が、キャサリンの飲茶の
風習の持込で女性が気軽に楽しめるようになったこと、イギリスには茶に適する
軟水が豊富にあった事、1723年ウォルポールが茶の関税を20%ダウンさせた事、
更にキャサリンが砂糖を持ってきたことが挙げられます。
キャサリンはポルトガルからイギリスに渡るときには船で来ましたが、このとき
には銀塊を本来持ってくることになっていたのです。しかし、なんと砂糖を
その代わりに持ってきたのでした。ですが、砂糖は当時のイギリスでは大変な
貴重品でした。
砂糖の原産地は今ではニューギニアと考えられていますが、少し前までは
インドと思われていました。アレキサンダー大王がインドからヨーロッパに
持ってきたものの一つにサトウキビがあったというくらい、サトウキビが
インドに豊富にあったのです。大航海時代以降、それをポルトガルが新大陸で
栽培するようになりました、1500年ブラジルを手に入れると、そこで
プランテーション栽培を実施したのです。1623年には、実に350ものポルトガルの
プランテーションの数がなったといいます。それだけポルトガルは砂糖に
困る事はありませんでしたが、イギリスは全くの輸入に頼っていたわけで、
1665年における輸入量は8tでした。
キャサリンのお土産と東インド会社の成立によりスパートをかけたイギリスは
砂糖の故郷とも言うべきインドに目を向けました。運良くインドのアグラで
砂糖を手にすることができ、こうしてインドから毎年1万t近く輸入する事が
できました。
また1727年には西インド諸島にハリケーンが来襲し、イギリスのココア栽培が
壊滅的な打撃を受けたのも紅茶が受けた一因でした。
砂糖だけではなく、茶樹もインドで栽培すれば合理的と考えたイギリスは
インドでその茶樹を見つけようと腰を上げました。1823年、アッサムの奥地で
ブルース兄弟が、また1831年には同じくアッサムでアッサム州の地方長官の
チャールトンも見つけましたが、専門家はすぐにそれが茶の木とは答えることが
できませんでした。
実はそれまでイギリスでは茶といえば、中国産の物しか知らなかったので
アッサム産のものは見たことがなかったのです。中国産のものより小ぶりな
葉をしたアッサム茶がロンドンにやってくるのは1838年11月の事でした。
こうして、それ以後イギリスの生活文化がまた1つ増える事になるのです。
【更に後に続く……。】
〔おまえけの問題3〕
ヨーロッパでは中世にはお守りとして、16世紀までは磁石の磁力を無くすと
信じられていた自然界の物とは何!?
***** 磁石は色んな物を呼び寄せるから、危険って訳ですかね? ******
守護石の中で、万能?なのは水晶 ハイ、回答は≪水晶≫です。
631 :
ラムセスX:02/06/08 00:59
⊂正解95⊃ 島 のつづき……
>>629 最後が政党政治の芽生えです。チャールズ2世とキャサリンの間には王位を
継承できる男子が生まれませんでした。そのために次の王位を継承できるのは
王の弟であるヨーク公ジェームズと考えられたのです。
しかし、ヨーク公が自分はカトリック教徒であると公言した事で事態は急変
します。当時、審査法などでカトリックに対して厳しかったイギリスは、当然
これにナーヴァスになりシャフツベリーはヨーク公を王位継承の権利から
排除させようという運動を起こして、1679年には何度か王位継承排除法案を
提出しました。しかし、このために王は議会を解散させてしまったのです。
成立に失敗したシャフツベリーは、議会を召集しようと請願書を地方党の
有力な選挙区から提出させたので反対派から「請願者」と呼ばれました。
一方、反対派はこういう請願は、王の議会に対する大きな権利を侵害する
ものであると考え、彼らを「嫌悪」したので「嫌悪者」とよばれました。
そして、それぞれがやがて「トーリー党」と「ホイッグ党」と呼ばれることに
なりました。
トーリーとはアイルランドの人たちを馬鹿にした言い方から来ていて、
一方のホイッグとは、スコットランドの西南部の長老主義や共和主義を推進
しようとした人たちを馬鹿にした言い方から来ています。
トーリー党は貴族、国教会関係者、農民大衆で構成されていて、王の世襲制や
王権の尊重を訴え、保守主義を目指しました。それに対してホイッグ党は、
大商人や新興の金融業者、それに付いていた貴族などで構成され、宗教上の
寛容や王権制限を訴え、自由主義を目指しました。
当然、チャールズ2世はトーリー党を支持します。またホイッグ党の人たち
による王の暗殺計画が発覚すると(1682年ライ・ハウス事件)、彼らを処刑する
など弾圧を加えました。更にホイッグ党の地盤である自治都市に自主性を奪い
ホイッグ党を壊滅状態にさせました。
こうして1685年にはジェームズ2世が国王に就く事になります。
632 :
ラムセスX:02/06/08 01:07
〔おまけの問題2〕仏像を固定させるための穴。
〔おまけの問題3〕琥珀?
634 :
ラムセスX:02/06/08 01:29
★お知らせ★
このスレでは間もなく問題が100問目になります。
そこでそれを記念して《チョッと大げさですが・・・・・・(^^ゞ》、
日ごろ答えて頂いている皆さんから今度は出題して頂きたいと思います。
ルールに従って問題を出してみてください。
自分も普段は偉そうに出題していますが、本当は世界史オンチなので
解答者として頑張ります。どうぞよろしく☆
<ルール>
▼出題の期限は来週の金曜日(6月14日)の午前0時まで
ただし、解答はその期間を過ぎてもOK
▼正解が出たらなるべく早く正解が出たことをカキコする事
(そうしないと違う人が不正解かと思って、また違う答えを
書き込んで混乱する為)
▼できればコテハンを使う事
ただし、難しければ‘名無史さん’でもOK
▼期間中は皆が出題者でまた解答者でもある
・・・・・・以上
※ただし、これで何か不備が生じた時は新たにルールを作ります。
※次回の自分の問題は6月15日以降になります。
出題していただいた問題の数に関わりなく、自分の次回の問題は100問目の
カウントになります。
100問目もいつもと違う形式なのでよろしくお願いします。
では、どうぞ出題して下さい。
635 :
ラムセスX:02/06/08 01:32
>>633 Q2についてもう少し教えてください。
固定とはどういうことでしょうか?
Q3は残念ですが違います。
仏像が倒れないよう、仏像に付けた突起部とかを差込む為の穴。
う〜ん、これで合ってるんでしょうか?
ところで、問題を作るというのは、面白そうですね。
頑張って作りたいと思います。
【記念問題1】
イタリア・ミラノ市のアンブロジアーナ図書館には中世の桂冠詩人ペトラルカが
蔵書していた「アエネアス」があります。この本の表紙の見返しにはペトラルカが
詩を創る上で非常に重要なあるものについてのペトラルカ自身の書き込みがあること
で有名です。この詩人が詩想を得るうえで重要だったあるものとはなにか?
こんな問題でいかかですか?
638 :
ラムセスX:02/06/08 13:01
>>636 うーん、
>>625さんの答えよりかは近くなりましたが正解ではありません(・o・)
>>637 早速の問題ありがとうございますm(__)m
答えはなんでしょう?彼は山登りに関わりがある人だったから
『山』でしょうか?
≪問題≫
俗につれない態度を指して「にべもない」というが、これは江戸中期に書か
れた「華夷通商考」によれば当時清国の南部からある生き物の体の一部が輸
入されており、「にべ」とはその動物の名前であった。
さて、「にべ」とはどんな動物で体の一部とは何であり何の為に使われてい
たのでしょうか。
↑こんな感じで良いでしょうか。
>637
樹木の絵でしょうか。
641 :
ラムセスX:02/06/08 16:15
⊂正解96⊃ 目隠しをした……問題は
>>558 古代エジプトでは、第18王朝辺りから楽器を演奏する人たちの中でも、ハープ
奏者に対して特別な目で見ていくようになりました。それは、生と死のような
重大なことを詩で現したときに、ハープで演奏し歌ったからです。リーフでも
他の楽器演奏者と違って描かれています。
例えば、他の演奏者と離れた所で描かれたり、食べ物に恵まれていることを
暗示する三段腹などの豊かな体つき、高い地位を示す服装、肉体の清潔さを示す
剃髪などです。そして、もう1つの大きな特徴といえば、目の不自由な人として
描かれているのです。
古代エジプトの文学ではハープ奏者は「盲目の竪琴弾き」と表現されるくらい
です。では、普通の人と目がどのように違って描かれたかというと
1:目の形は普通であるが、瞳が省略されている
2:細めた目のすき間に瞳が描かれている
3:細めた目のすき間に瞳がない
4:一本線の孤で描かれている
の4通りです。テル・アル=アマルナの遺跡にはアテン神殿で演奏している
ハープ奏者が描かれています。アクエンアテン王は、それまでのエジプトの
美術形式にとらわれない写実的な面も取り入れた時代なので、その絵からも
ハープ奏者は目が見えない人たちである事が分かります。
一方、カルナック神殿のレリーフでは、白い目隠しをしたハープ演奏者が
描かれています。彼らはレリーフから神殿ではなく、王宮で演奏しているもの
と分かっています。その王宮でアテン神の為に、そしてファラオの為に演奏して
いるのです。つまり、本当に目が見えない人ではなく、目を布などで隠して
演奏しても良かったのです。では、どうしてこういう事をしたのでしょうか?
実は、この時代よりもっと前のエジプトでは、男性は神を直接見ると目が
つぶれてしまうと信じられていたからです。楽師は演奏する事で神と直接交信
していたので、こうする必要ができたと考えられます。
では、次に古代エジプトのハープとはどんなものだったか見ていくと、
第18王朝までは杓子型のものだったようです。ですが、アマルナ時代には
このハープの演奏者は見ることができなくなってしまいます。理由は、
アクエンアテン王がアメン神の崇拝を禁止した為です。それまでのハープ奏者は
アメン神に捧げた歌が多くありました。アクエンアテンはアテン信仰において
アメン神を賛歌する必要性はないと考えたのです。従って、ハープもその形が
変わっていきました。
それまで女神の頭部が装飾されていたのに対し、アクエンアテンの時代には
彼の頭部が彫られるようになり、共鳴胴もより浅くなっていきました。そして、
新王国時代のラムセスの時代にまたモデルチェンジします。1つは杓子型ハープ
から派生したもの、もう1つは第18王朝の底が平たい舟形のハープの特徴を持つ
ものです。
壁画にはたくさんこの時代のハープは残っていますが、実際のものは現在
たった一つしか見つかっていません。しかもそれは、演奏できるものではなく、
模型と考えられています。共鳴胴の部分がくり抜かれている為に模型楽器と
考えられていますが、最長の弦と最短の弦の比率から4度より狭い音程が5本の
弦で演奏できたと思われるのです。
更に、1768年に発見されたラムセス3世の墓には2人のハープ奏者の絵が
あります。彼らのハープは自分達より背たけの高い、下部とネックの上部が
カーブを描いて中間の部分はまっすぐなものです。
弦の本数は向かって左側の「神々の女主人マアトの竪琴弾き」は11本、
右の「冥界の竪琴弾き」は13本です。共に弦の最長と最短の比率が1:3ないし
1:4なので1〜2オクターブが演奏できたと考えられます。
【後に続く……。】
642 :
ラムセスX:02/06/08 16:17
⊂正解96⊃ 目隠しをした のつづき……
>>641 最後にラムセス2世の時代(第19王朝)の高官パセルの墓に描かれていた
竪琴弾きの歌を紹介します。
〔イントロダクション〕
【A】
(この貴き者はなんと疲れ果てていることか。
よき終末は本当に訪れた。
真に肉体は滅びた)
その神の日々から、彼らの位置を占める他の者たち。
棺やピラミッドを建造した者たちは、死者の都に眠る……。
オシリスに次ぐ優れたる霊よ、汝らはこの市長に面を向ける。
見よ、彼に平和が訪れた。
与えよ……真実、それは彼が、汝らにあれほどたびたびもたらしたもの、
それは彼の胸の中にあって決してなくてはならないもの。
〈R〉楽しい一日を過ごせよ、パセル……。
長く汝のものであった汝の心臓に続け。
〈R〉楽しい一日を過ごせよ、貴き者。
悪しきことのすべてを無視し、幸福を思い起こせ、
沈黙を愛する土地に 汝がつながれるまでは。
【B】
〈R〉楽しい一日を過ごせよ。汝が称えることをせよ。
心を真に、真に楽しませよ。
ヘリオポスの神の御身の為に汝自らに軟膏を塗れ。
見よ……。
〈R〉楽しき一日を過ごせよ、貴き者。
見よ、汝の運命は子孫より重い。
もしそれを通じて汝の名が来世に届くことをめざすなら。
〈R〉楽しい一日を過ごせよ、おぉ。
〔メイン・パッセージ〕
【A】
神は自ら愛するものを汝に賜るだろう。
パン、ビール、ワインや軟膏が与えられるだろう……。
「来る日」のことを思うな、
称えられる者のように汝も西へ行くときまでは。
見よ、神官たちが地に撒き散らすもの、彼が供物台に捧げるもの、
あれはみな何ゆえのもの?
〈R〉楽しい一日を過ごせよ、それは正しい。
善きことを増やせよ。
見よ、運命はその日々を長引かせはしない。
やがて時は訪れる、そこに加うるものは何もない。
行ってしまった者は誰も戻っては来ない……。
※〈R〉は繰り返し
※A・B・Aの三部形式
>>640 残念ながら違います。
ヒント
彼の詩集は中世の騎士道や南仏の吟遊詩人の影響を強くうけた作品です。
なにかとはそのような系統の作品で必ずテーマになるものに深く関係する
もの(生き物も含む)です。
>>640 残念ながら違います。
ヒント
彼の詩集は中世の騎士道や南仏の吟遊詩人の影響を強くうけた作品です。
なにかとはそのような系統の作品で必ずテーマになるものに深く関係する
もの(生き物も含む)です。
645 :
世界名無し発見!:02/06/08 20:54
南仏といえばプロバンス。だからかたつむり。
NO640 ≪問題≫
*** にべもない ***
元々は、≪魚の名前≫でしてソシテその魚の≪浮き袋≫を、明治以前は、
≪接着剤≫として使用していたそうです。
名前: (-_-(-_-;)
E-mail: ミンナ待ってた!
内容:
〔おまけの問題1〕―――――インカ皇帝史上初めて太平洋を見た。
記念として都クスコに持ち帰った物とは何!?
海と言えば、≪海水と、砂浜、カモメと、ハマ風≫
やはりココは、皇帝らしく≪海水と、砂浜≫を持って帰った。かな
≫647です。
サーバー殿から、≪2重カキこですか??≫の指摘があって・・・
見苦しくて失礼!!
>647
正解!しかし早過ぎる。無念。ではもう一問出してもよろしいでしょうか。
≪問題2≫
ブルゴーニュ公国のシャルル・ル・テメレール、通称シャルル猪突公はフラ
ンスが好きなのであるものが6つ程あれば良いのにと語っていたそうです。
ではそのあるものとは一体何でしょうか?(また即答かな・・・。)
≫bU49
ワイン産地でしょうか??
>650
良かった、違います(藁)。6つというのは適当な数字のようですので、余
りお気になさらぬように。
652 :
世界名無し発見!:02/06/08 23:28
今度こそエスカルゴだ!
>652
違います。ヒントとしては、単位や言い方を変えられるというものを挙げる
事が出来ます。
654 :
世界名無し発見!:02/06/08 23:48
水かな?
>654
違います。それでは、今夜はこの辺で失礼致します。
≫bU49
海外植民地でしょうか?
明日も仕事なので僕も寝ます。
大阪は今雨がポタポタ降っています。明日涼しかったらいいなぁ〜
*** 問題考えてるんですが、ナカナカ思い付きませんです!! ***
>>645 残念ながらちがいます。
ちょっとむずかしすぎたかな?
【記念問題1】
イタリア・ミラノ市のアンブロジアーナ図書館には中世の桂冠詩人ペトラルカが
蔵書していた「アエネアス」があります。この本の表紙の見返しにはペトラルカが
詩を創る上で非常に重要なあるものについてのペトラルカ自身の書き込みがあること
で有名です。この詩人が詩想を得るうえで重要だったあるものとはなにか?
ヒント
彼の詩集は中世の騎士道や南仏の吟遊詩人の影響を強くうけた作品です。
なにかとはそのような系統の作品で必ずテーマになるものに深く関係する
もの(生き物も含む)です。
大ヒント
吟遊詩人が謳うと言えば、、恋愛モノでしょ。
>656
違います。彼とルイ11世の関係を振り返ってみてお考え下さい。
>657
交尾の様子でしょうか。しかしあからさま過ぎますかね。
>>658 交尾まではいきません。そのずっと前です。要するに相手の女性の、、、、
情報です。コタエイッチャッタ。
【記念問題1・解答】 「女性」
【記念問題1・解説】 桂冠詩人ペトラルカ(1304〜1374)
イタリア人で本名フランチェスコ・ペトラッコ。フィレンツェの公証人で白派(皇帝派)
だった父親が内戦に破れて亡命した先のアブルッツォで生まれた。ボローニャ大学で
法学と古代ラテン文学を修め、人文学者として名士になる。アヴィニョンの教皇庁に
仕えて顧問や外交使節として活動する一方「カンツォニェーレ」(歌集という意味)
というイタリア語の恋愛詩集を著わした。当時の詩は一人の貴婦人を選んでその女性に
対する熱愛を謳いあげるという形式が主流だった。これは中世の騎士が心の内に最愛の
女王を思い定め、プラトニックな愛を貫く姿を謳った南仏の吟遊詩人の影響である。
ペトラルカの作品はラウラという女性に捧げる愛の歌であるが、その内容は当然フィ
クションである。しかしラウラついてはモデルが存在したとされ、【問題】の蔵書には
その女性との出合いや女性の死の日付けが書き込まれている。モデルが誰であるかは
御本人さんしか知らないわけだが、研究者はその書き込みの内容からラウラ・ド・サド
侯爵夫人と推定している。あの有名なサド侯爵の先祖にあたる。実在のラウラ夫人は
侯爵夫人であるうえ12人の子供を生んだ女性でペトラルカと特別親密な交渉があった
形跡はない。ペトラルカは生前はラテン語の詩人として有名であり、1341年にはロー
マのカンピドリオの丘で詩人として桂冠を授けられている。ペトラルカという名もラテ
ン語好きの本人が自分の名をラテン語風に読み直したものだ。教皇の代替わり(イノケ
ンティウス6世の即位)後には彼の著作がキリスト教的でないと白眼視されるようにな
ったため、ミラノへ移りヴィスコンティ家に仕えた。彼の蔵書本がミラノにのこる所以
である。
というわけで正解は「女性」についての記述でした。
参考図書
「ルネッサンスの歴史 上」モンタネッリ/ジェルヴァーゾ著 藤沢道郎訳 中公文庫
はじめて問題だしちゃいました。
ちょっと難しすぎますかね?
ラムセス様(他の方でもOK)の御講評あれば幸いです。
660 :
ラムセスX:02/06/09 17:49
>>659 一人の人間を通して、当時の恋愛や文学に対する考え方などが分かりました。
問題自体も図書館などで調べれば分かったかもしれないので残念です。
勉強不足ですね(^^ゞ
難しかったですが、品良くまとまっています。
661 :
ラムセスX:02/06/09 19:06
⊂正解93⊃ 柳・・・・・・問題は
>>557 聖書の中には、イスラエルの人たちがバビロンに捕囚されていた時の苦しさを
思う詩があります。
「バビロンの流れのほとりに座って、シオンを思って、私たちは泣いた。
竪琴はほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚した民が歌を歌えと言うから、
私たちを嘲る民が、楽しもうとして、『歌って聞かせてよ、シオンの歌を』と
言うから。どうして歌う事ができようか。主の為の歌を、異教の地で。」
〜新旧同訳、詩137編1−4〜
私たちは柳と言うとしだれ柳を連想しますね。
しだれ柳は学名をサリクス・バビロニカ(Salix babylonica L,)と言います。
そして、「L」は命名者のリンネを表しています。
実はこの名前は、先の聖書の故事から来ているのです。
Salix とは、ケルト語の‘近い’を意味する Sal と‘水’を意味する lis
から成り立っているのです。つまり、柳が川辺でよく生育していることを示唆
しています。babylonica は当然、バビロニアのことを言っています。
このしだれ柳は中国が原産の木で、日本には縄文時代の遺跡からも出土して
います。例えば、福井県鳥浜貝塚から縄文前期の石斧(せきふ)の柄などに
柳が使われています。西洋はバビロニアから来ていますが、日本の「ヤナギ」の
語源は「簗木(やなき)」から来ていると言われています。そして、狩猟道具
としても使われていたようです。
『万葉集』では〔青楊(アオヤギ)の 枝伐(き)りおろし 湯種蒔き
(ゆだねまき)〕と詠われています。湯種とは斎種とも書き、豊穣を祈って
斎み(いみ)清めた種もみのことです。今でも田植えの苗床や水口に柳を挿す
習慣がありますが、これは田の神様を勧請(かんじょう)する為などと考え
られています。
更に〔青柳の 上つ(ほつ)枝(え)よぢとりかずらくは 君が宿戸(やど)
にし 千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ〕などと詠まれ、柳が春に芽生える事から
生命の復活のシンボルと考えていた中国の影響を受けたと思われます。
中国では柳に魔よけやサソリの毒消しなどの効果があると考えられていました。
清明説に柳の冠を頂く習慣は唐の時代にまで遡れます。
また、隋の煬帝は黄河と淮河を結ぶ運河である通済渠の堤防に柳を植えて、
更に唐の長安では柳が街路樹に使われました。因みにヤナギを「楊」と
中国では書くことがありますが、これはしだれ柳ではなく、ヤナギ科
ヤマナラシ亜科ヤマナラシ属の中国名です。
【後に続く・・・・・・。】
662 :
ラムセスX:02/06/09 19:08
⊂正解93⊃ 柳 のつづき・・・・・・
>>661 話をヨーロッパに戻すと、詩篇に登場する柳は実は、しだれ柳ではなく
ポプラの仲間である‘ユーフラテスのポプラ’(Populax euphratica)である
ようです。柳とポプラは非常に近い関係にある植物なのですが、このポプラに
琴掛柳(コトカケヤナギ)の名称が与えられています。
この柳の誤解について詳しい東北大学・木村有香名誉教授は、次のように
述べています。
【ヨーロッパにしだれ柳が伝わったのが、17〜18世紀に中国から中近東を経て
伝えられた。しだれ柳は‘オリエントヤナギ’として記述されたのが最初である。
ヨーロッパで栽植を見るようになってから、詩篇137編のバビロンの柳
(コトカケヤナギ)としだれ柳の誤認が広がり、植物学者のリンネが1738年に
しだれ柳をバビロンの柳(Salix babylonica L,)と命名して決定的となった。
多分、植木屋がしだれ柳に箔をつけて高く売る為に、詩篇に歌われている
バビロンの柳とまことしやかに言いふらしたのかも知れない】
(1982年 学士会報756号、43〜47ページ)
イスラエルの百科事典である『エンサイクロペディア・ジュダイカ』でも
柳とポプラの混同について紹介されています。
ヘブライ語の柳を表す「ラバン」とポプラを表す「ツァフツァファ」との間で
入れ替わりが起きていると言っています。アラビア語では柳を Zafzafa
(ヘブライ語のツァフツァファ)、ポプラを arb (ヘブライ語でアラバー)と
言うと述べています。
そして、中国では柳は川と関わりがあると言いましたが、聖書でも柳と川を結び付けて
います。
「彼らは蓄えた富と蓄積を携え、アラビム(柳)の川床を渡る」
(イザヤ書15・7)
「ソテツの影は彼を覆い、川辺の柳は彼を包む」
(ヨブ記40・22)
また、柳は薬としても使われていました。樹皮には鎮痛作用があるとされ、
葉の煎じた汁は、通風や皮膚病に効くと考えられていました。
更に18世紀にはマラリアの特効薬である、キナ皮の代用品ともされました。
そして現在は、柳の樹皮の鎮痛作用と解熱作用の効果からアスピリンが
発明されています。
〜ラムセスX世も孝明天皇もコレに罹患した!そしてスペインは兵器として使用!!〜
【記念問題n番】人類史上最も恐れられた疫病*天然痘*しかしWHOの
天然痘根絶プロジェクトの成果によって(中心人物は日本人)
1977年より患者の報告は有りません。
* ほぼ同時期に最初のエイズ患者の報告が在ったのは皮肉ですね。*
≪米国で、1981年に最初の報告在り≫
天然痘ワクチンとしては、≪種痘≫ですがエチオピアなどでは民間療法として、
患者のかさぶたを取り、健康人の皮膚に擦りつけていたためにこれが、かえって
流行の元になっていました。
*現地の伝統的接種の専門家達、バリオレーターと言うそうです。*
そこでこれを、止めさすためにプロジェクトのメンバー達は知恵を絞りました。
メンバー達は、民間療法を止めさすため何をしたのでしょう。