オスマン帝国とウィーン包囲

このエントリーをはてなブックマークに追加
1トルコの名無しさん
第一回、第二回ともに歴史的に大きな意義があったと思います。
欧州諸国に影響を及ぼしましたし。その辺の事を。
2世界@名無史さん:02/02/17 02:25
あ。名スレの予感・・・。
ただし単純にオスマントルコ乃軍隊スレでも塩野スレでもなく、それ以外の
専門家の視点もそろそろ欲しいね
3世界@名無史さん:02/02/17 02:34
第一回でウィーンが陥落してたら…
なんて言ってみたりして
4世界@名無史さん:02/02/17 02:38
第二回でなぜかウィーンが陥落して、
そのまま西進してルイ14世率いるフランス軍と対決…
なんて厨房な妄想を言ってみたりして
5世界@名無史さん:02/02/17 02:51
関連スレ。
※※ハプスブルグ VS オスマントルコ※※
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1004077018/

>>4
そんなことしたらロシアに後ろ取られちゃいますよ。
6世界@名無史さん:02/02/17 02:55
テリー・ギリアムの『バロン(法螺吹きミュンヒハウゼン男爵の冒険)』がとりあえず
好き。

あれはウィーンじゃなくドイツの都市だけど、オスマン・トルコ軍よかったよ。
7世界@名無史さん:02/02/17 03:00
>>5
ピョートル大帝がトルコの背後を突く! とか。

ダメか、ちょっと早すぎる…
8世界@名無史さん:02/02/17 03:06
ハプスブルグと同盟して戦ったトランシルヴァニアのワラキア公もいいでよ。
9世界@名無史さん:02/02/17 03:09
>>7
ピョートル1世は在位1682〜1721だから、
即位はしてるんだけどね、まだ子供だ。
ソフィア摂政の時代になるのかな。

>>8
トランシルヴァニアのワラキア公?って?
10世界@名無史さん:02/02/17 03:13
すまんミハーイのことね
11世界@名無史さん:02/02/17 03:25
>>4
延びきった供給線をポーランド騎兵隊に間違いなく分断されて
前線のトルコ兵は孤立、目を移すとトルコ本国自体はロシアに攻撃されて
オスマン・トルコは汎スラブ主義によって滅亡。ロシア帝国の
一部となる。
129:02/02/17 03:43
>>9
自己レスだけど、ピョートルの在位は1682〜1725でした。

>>10
なるほど、勇敢公ね。
13世界@名無史さん:02/02/17 18:03
ワラキア公って言うと
ドラキュラのモデルになった人がいた国だったっけ?
違ったらスマソ
14山野野衾:02/02/17 18:29
>13
そうです。ちなみに子孫はアメリカの東欧史学者だそうで、フランケンシュ
タイン博士の実在を証明された方だとか。
それとブラド公よりも酷そうなのは西欧にも何人もいますよ。
15世界@名無史さん:02/02/17 18:32
神聖ローマ帝国とオスマン帝国の板ばさみ状態だったので
ドイツ系住民を迫害したりオスマン帝国の捕虜を頃したらしいですね。
スレと無関係なのでsage
16世界@名無史さん:02/02/17 19:58
>10
2次包囲時のトランシルバニア公はアパフィ・ミハーイですな。
クルツ軍の指導者テケイ・イムレも支持者の推薦で公を称してい
ます。オスマン軍とともにウイーンに攻勢をかけたのはテケイの
クルツ軍ですね。
179:02/02/18 00:46
二次包囲時のトランシルヴァニア公ってテケイだと思ってた…。
恥ずかしいのでsage
18世界@名無史さん:02/02/18 23:28
>17
テケイもトランシルバニア公を自称していました。
1682年にトルコのよってハンガリー王の称号を与えられていますが、
いくらなんでもまずいと思ったのでしょう、これを辞して「上部ハンガリ
ー・トランシルバニア公」を称します(上部ハンガリーとは主に今のスロ
バキア、一部はウクライナ。テケイの妻が立てこもったムンカーチの城は
現在はウクライナ領)彼の支配地域はいわゆる北ハンガリー大公国とかク
ルツ公国として書籍に登場します。

ウイーン攻撃失敗の後、ハプスブルク側と講和しようとしてトルコ軍に逮
捕され、彼の公国も崩壊しました。
1690年にトルコの支援を得てトランシルバニア公となりますが、すぐ
にハプスブルク軍に駆逐され、トルコに亡命、同地で客死しました。
19世界@名無史さん:02/02/22 19:18
一時包囲は寒いから終わったって本当ですか??
20世界@名無史さん:02/02/22 22:29
>2が>1っぽいんですが
21世界@名無史さん:02/02/23 02:18
>19
補給が出来なかったのが原因だと思います。
222:02/02/23 02:34
>>20
そのとおり!
おれが1だよ。ガハハハ。

・・・なわけないじゃん(笑)
23世界@名無史さん:02/02/23 02:54
>>21
ウィーンは陥落寸前までいったと聞いたんですが…。
補給路が断たれたって事ですか??
24世界@名無史さん:02/02/23 03:09
発破による城内突入はすべて妨害されて、秋の長雨と補給線の長大化で
攻囲軍を維持できず、自主的に撤退きいたけど。

第一次ウィーン攻囲って、新教諸侯も旧教諸侯もおたがい牽制しあって
兵力出さず、結局、ニコラス・サルム伯のウィーン守備隊が城壁内にこもって
戦った。

兵站線破壊いうのは、ないでしょう・・・
25世界@名無史さん:02/02/23 03:20
延びすぎて維持に苦しんだ、ということでしょ<兵站
26世界@名無史さん:02/02/23 12:32
1526年に緩衝帯としてのハンガリー王国軍がモハッチ湿原の戦いで滅んだし、
ドイツ諸侯は新旧足並み揃わず傍観の構えだし、第一次包囲は可哀想。

それでもハプスブルグ本家12000+帝国派遣5000人いたんだよね
27世界@名無史さん:02/02/23 12:36
ちなみに第一次、第二次ともにトルコ軍の作戦発起点は、ハンガリーのブダ。
ブダ−ウィーン間は250km。

冬の到来とともに兵站をいじできなかったんだろうね
28ウィーン珈琲文化の起源:02/02/23 12:49
さらにどうでもいいが、第二次ウィーン包囲戦終了後、トルコ軍の遺体から
回収した見なれぬ豆がコーヒー豆だった。

救援軍との連絡に功があったガリチア生まれの商人コルチスキーがこれを回収。
「カフェー」営業の第一号鑑札があたえられた。

・・・ま、俗説だけどね。好きな話
29ウィーン珈琲文化の起源:02/02/23 12:52
というわけで、ウィーン包囲戦ってとても好きな歴史なのですが、
どなたかこれの図版とか解説あつめたサイトご存知ないですかね?

トルコ軍やハプスブルグ家の衣装とか天幕、軍装知りたいです
30世界@名無史さん:02/02/23 22:00
Jan III Sobieskiの肖像ね
http://campus.northpark.edu/history/WebChron/EastEurope/ViennaSiege.html
ウィーン攻囲計画
http://campus.northpark.edu/history/WebChron/EastEurope/ViennaBattlePlan.html

第一次攻囲のとき、篭城軍は城壁がうすくて壁の上に大砲をすえつけられなかった。
第二次のときは大改築
31世界@名無史さん:02/02/23 23:39
第一次攻囲はフランスがオスマントルコをけしかけたのですな。
フランスの外交、恐るべし。
32世界@名無史さん:02/02/27 07:36
包囲の間どのくら戦い(殺し合い)があったんでしょうか?
またイェニチェリは何してたんでしょうか?
33世界@名無史さん:02/02/27 13:20
第2次攻囲のときの記録とか見ると、城壁爆破のイェニチェリ軍団突入直後、
200人の戦死者を出す白兵戦があったとか、
第一次包囲直後のトルコ軍撤退時、捕虜の斬首死体が4000体あった(撤退決定直後の処刑)とか
34世界@名無史さん:02/02/27 13:26
>>31
二次もフランスが絡んでるんじゃかったっけ?
ちょうどベルギーのほうでルイ14世ががんばってたころでしょ。
35世界@名無史さん:02/02/27 13:27
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
36世界@名無史さん:02/02/27 13:56
第2次はトルコ軍1〜2万。
ソビエツキの救援軍1500.
ウィーン守備隊(正規軍。市民軍。志願兵)は篭城時の16000から
8000に半減。

夏場の攻囲時で赤痢が流行り、それの犠牲者も多かったようです。
37パン:02/02/27 15:22
第一次を含めてオスマンは色々ヨーロッパに触媒的に働いたっていうか、直接ではなくヨーロッパの動きを加速させたよね。
皇帝焦らせて宗教改革促進したりルネサンス促進したり主権国家体制への道を開いたり(これは言い過ぎ!?)
38世界@名無史さん:02/02/27 15:36
>>36
ソビエスキは今川を破った信長か!
39世界@名無史さん:02/02/28 01:16
>>36
包囲するには、ちょっとトルコ軍少なすぎない?

オレの読んだ資料では
トルコ軍90000or200000(←後者は多すぎるか?)
ウィーン守備隊11000or12000(→4000ほどに減少)
救援軍68000or76000(ポーランド+皇帝軍+バイエルン+ザクセン+シュヴァーベン)
 内ポーランド軍21000or24000
4036は各軍団の犠牲者数です:02/02/28 05:23
36>>39
いや申し訳ない。恐縮です。
トルコ1−2万は犠牲者数です

>32氏の問いに犠牲者数をこたえたものですが
・・・なぜ、自分でも意味不明な書き方をしたのか(汗)

PS
これがソビエツキの救援軍との決戦の間に出たものか、はたまた攻囲中の戦闘によるものか
はったまた攻囲中の疫病によるものか、不明です
この1−2万という犠牲者数はやはり
41世界@名無史さん:02/03/02 19:52
>34
そうですね。
あと、ラコーツィの反乱もパトロンはルイ14世です。
42世界@名無史さん:02/03/20 16:05
オスマン朝の方が強い。
43オーストリア気質:02/03/21 01:38
オーストリア側から見ると、「トルコの脅威と戦うハプスブルク家」
という図式があったために、その後の時代、国内(特にウィーン)の
ブルジョアジーが、王朝に依存する形で成長していくことになったと
いう経緯があります。

これは、フランスのように、国家権力に対抗する勢力としてのブル
ジョアジーを生み出さず、結果的に国内改革を遅らせ、近代化に
乗り遅れることにつながったと言えます。これは、ナポレオン戦争の
勝利者としてのロマノフ王朝、にも同じ。
44世界@名無史さん:02/03/21 04:27
リングシュトラーセの外側からアジアがはじまるのれす
45世界@名無史さん:02/04/15 21:47
オスマンはロシアを攻める事は考えてなかったのだろうか?
南ロシアの諸都市を攻め落としておけば黒海は安泰したんじゃねー?

それか海軍にもっと力を入れるべきだったな。
インド方面に進出してヨーロッパ勢力を締め出しておけば、莫大な利益が生まれた筈だ!!
46世界@名無史さん:02/04/15 21:56
>>45
その頃すでに「西欧の衝撃」を受けきるのにいっぱいいっぱいだったんだろう
47山野野衾:02/04/15 22:00
>45
それだとそれまで陸の交易路で利益を得ていた人々がえらい目に遭ったので
は無いでしょうか。そこまでの危険を侵す必要性が認められなかったのでは。
48世界@名無史さん:02/04/15 22:07
ディプロマシーだとオーストリアはトルコによくやられます
49世界@名無史さん:02/04/15 22:26
>>35 ???

トルコ軍の軍楽隊が音楽の都ウィーンに影響を与えたことのことですか?
「トルコ行進曲」とか有名ですよね。

詳しくは知らないので詳細教えて。
50世界@名無史さん:02/04/15 22:59
>>45
ロシア方面はスルタン第一の封臣だったクリミア・ハンの「縄張り」だから
そっちに戦争を仕掛けるのは言わば「ルール違反」だった気配がある。

カルロヴィッツ以前でロシアに戦争をしかけた政治家は
ソコルル・メフメト・パシャ(1569年、アストラハン遠征軍を派遣)と
カラ・ムスタファ・パシャ(1677-81年、第一次露土戦争を起こす)の
2人の大宰相くらいしかいない。
ソコルルのアストラハン遠征はドン川とヴォルガ川を運河で繋いで
カスピ海までオスマンの内海にしようとする壮大なものだったが、
クリミア・ハンのサポタージュもあって大失敗。
カラ・ムスタファはウクライナ・コサックを支援するためにロシアと開戦したが、
次に控えた第二次ウィーン包囲へ余力を残すために
ドニエプル左岸のコサックへの宗主権をロシアに認めさせたところで切り上げ、
とうとうキエフまでは進まなかった。
51世界@名無史さん:02/04/15 23:58
>>50 詳しいのう。勉強になった!
52世界@名無史さん:02/04/23 20:12
上げるぞ
53世界@名無史さん:02/04/24 06:33
>>49
モーツアルトもベートーベンも「トルコ行進曲」を書いているが、
最も顕著なのは、ベートーベンの第九交響曲の第4楽章。
打楽器を多用して、いかにもトルコの軍楽隊風に仕上げている部分がある。
(「歓喜の歌」の大合唱のちょっと前、テノールと男声合唱の部分)
54つまり:02/04/24 07:03
15世紀までの先進国にして西欧の防波堤たるビザンチンを
倒したオスマンへのヨーロピアンの恐怖は相当なものだったんだろうな。
軍楽隊のティンパニーの音聞いただけでチビってたんじゃないの?
55世界@名無史さん:02/04/25 01:45
いつの間にかトルコ人は第3次ウィーン包囲始めてるな。
あ、包囲じゃなくて浸透か。
56名無的発言者:02/04/25 02:58
トルコで処女テスト実施
トルコの看護婦学校で「処女テスト」が実施されることになった。これはトルコ各誌が16日、一斉に報じたもので、デュルムス保険相が命じたものだという。
テストは、セックスをした疑いのある生徒に対し、両親の同意のもとに行われ、もし非処女であると判明したら退校処分にし、あらゆる公立学校から締め出すという厳格なもの。処女テストは看護婦や助産婦を養成する学校に限定される。
それにしても、何で処女テストを?
未成年を売春と不純異性交遊から守るため、なんだそうだ
57世界@名無史さん:02/04/26 23:48
>>49
一度、ハイドンの交響曲100番「軍隊」を聴いてみては?
途中から大太鼓だのシンバルだのの打楽器が大量に出てきて
大ラスはドカジャカのトルコ風軍楽隊メロディーで終わるから。
っていうか、トルコの脅威が去ったあとのハプスブルク帝国での
トルコ趣味はいったい・・・(謎)
5849:02/04/27 18:18
>>53,57 ありがとー、勉強になりました。
しかし歴史板で音楽を教えてもらえるとは。
59世界@名無史さん:02/04/27 22:01
>>58さんへ
クラシックヲタの>>53>>57(同一人物)です。

オスマンに包囲されていたときは>>54の言うとおり
みんなチビッていたんだろうけど、
もう100年近く経ってしまえば
(第二次ウィーン包囲が1683年、ハイドンはちょうどその百年くらいあと)
「なぁんか、アレって懐かしいよね」状態になって
18世紀末から19世紀初頭の「トルコ行進曲」ブームになったと思われ。

それから、世界史板的に言うと、18世紀末は
ちょうど市民階級が台頭してくる時代で
音楽も貴族のサロン音楽から、次第に市民のための音楽に変わりつつあった
そんな時代だったので、お上品に着飾った貴族向け音楽よりも
派手に「ドカジャカ」の方が受けたとも考えられます。

詳しいことは、エステルハージ侯の宮廷作曲家から
最後は、市民階級のための作曲を手がけるようになった
(交響曲で言うと最後の12曲=俗に言うロンドン交響曲
もしくはザロモンセットの一群)ハイドンや、
貴族階級の保護を受けながら、なぜか彼らを忌み嫌う傾向にあった
ベートーベンの伝記を読むとよく分かると思います。
60ナニイッテンダヨ :02/04/28 05:46
バルカン半島やその周辺ではビザンチンの頃から欧州と中東やセルジュークトルコ等の
文化が混在してたんだよ。いやヘレニズムまで遡ってもいいのかも。
ビザンチンは中継貿易で財をなした。文化の交流も当然あった。
ハプスブルクやオスマントルコはその文化的風土を継承したんだよ。
ブームと言うよりそういった文化的な土壌がもともとあった所なんだよ。
東欧やギリシャ、バルカンからトルコ半島は常に文化の混在地域。
中東から見れば欧州の玄関。欧州から見れば中東の玄関口。イベリアやシチリアは所詮
戦略的にも、文化的にも裏口だ。
半島は常に文化の先端だね。
61世界@名無史さん:02/04/29 01:43
>60
?!!
と・・・言う事は!!
あの半島も・・・・・文化の先端なのかーーー!!
62世界@名無史さん:02/04/29 02:13
良くわからないけど、ジャッディン・デデン好き。
63世界@名無史さん:02/04/29 02:18
>>60 トルコ半島・・・?小アジアのことですか?
64世界@名無史さん:02/04/29 02:42
>イベリアやシチリアは所詮 戦略的にも、文化的にも裏口だ。

これは極論。
バルカン半島つっても沿岸・島嶼部と山ん中じゃ大違い。
海運・水運の便がなけりゃ文化は文字通り「流」通しない。
65極論でも:02/04/30 04:59
ない。中東への窓口は常に、バルカンからトルコ辺りだよ。
これはペルシャ戦争、アレキサンダー東征、ビザンチンの興隆、十字軍、オスマンの繁栄、
第一次大戦、ユーゴ崩壊まで一貫している。
聖地エルサレムへの通路でもある。
大昔から中東と欧州の正面玄関なんだよ。
シチリアやイベリア地方には所詮それ程の重要性はない。

にも近い。古代以来地理的距離は往々にして文化的距離でもある。
常に地中海での覇権も結局この辺りに収束回帰しているといっていい。
67YP:02/05/01 02:05
イタリア半島、朝鮮半島、イベリア半島、これは見りゃ判る。
ヨーロッパ半島、これも判る。
しかし、バルカン半島、あそこ半島なのか?

68世界@名無史さん:02/05/01 03:28
クロワッサンがオスマン帝国を破った記念に作られたという話があるが
実は、降伏の証に作っていたが、勝ったのでその記念になったという話もある
ちなみに、オーストリアに行くと、星のマークのついたパンが良く出ます
これは、クロワッサンと一緒です。(オスマン帝国の国旗は、月と星)
69世界@名無史さん:02/05/01 04:27
>>65
>聖地エルサレムへの通路でもある。
巡礼ルートも、十字軍ルートの多くもバルカンを通ってはいない。

まあ、バルカンの範囲にもよるが、>>64の言うとおり
内陸部(ドナウ水系除く)と沿岸部の区別は大きい。
バルカン内部もアナトリア内部も実際には僻地。
日本だと吉野みたいなものだ。

シチリアに関して付言すると、東地中海(ギリシア語圏)と西地中海(ラテン語圏)の
結節点であるという意義は大きい。

あるいはイスラム圏を中心に考えるか西欧圏を中心に考えるかの差かも知れないが、
西欧を視点として考えると、シチリア・イベリアは全く無視できない。
両地におけるイスラム哲学の翻訳はその一例。
70東欧圏を:02/05/01 05:40
視野にいれないとそう言う結論になる。
特にビザンチンはイスラームやトルコにさえも
影響を与え続けた。イスラムに萌芽を与えたと言っていい。
それを継承したのがトルコやオーストリアと言っていい。
そもそもイスラーム圏だの西欧圏だのと言う二元論的発想が
地中海周辺の複雑さをわかっていない。
シチリアやイベリアがイスラム哲学を翻訳した?なるほど、その哲学に
絶大な影響を与えたのは欧州のどこの地域だ?
シチリアに関しては結節点にすぎないと言うのが正確な言い方。
十字軍はやはりビザンチンを中心に考えるとルートなどに拘らずこの地域の影響力が絶大だとわかる。
西欧或いはカトリシズムに偏った見方はそろそろ卒業した方がいい。
西欧史が未だに多分にカトリシズムにバイアスが掛けられている事に気づくべし。
ここに正教ビザンチウム軽視の原点がある。
古代に遡れば東地中海の重要性は決定的である。イベリアなどはただの田舎だよ。
植民地の時代でも中東での英仏の争いは際立っている。未だに利権が残る。
だからこそイスラム教徒の多く住むバルカン地方を今でも軽視しない。
ドイツ系イスラム系スラブ系等の勢力が常にせめぎあう。
ビザンチンの後継を自称するロシアも介入する。
ルートの問題を言っているのでは無い。文化の影響力と多様な文化の複雑さ、
そこからくる政治や宗教の問題の重要性とそれらが歴史に与えてきた重要性を言っている。
15世紀以前のヨーロッパでは西欧は寧ろ軽視する方が客観的な見方だよ。
7169:02/05/01 06:52
>>70
あなた(という言い方をしていいのかどうか?)のビザンチンに対するオマージュは理解した。

一つは、東欧圏の問題と、東地中海圏の問題を一緒にできるかどうか、ということ。
「ビザンチン」がそれを繋ぐ鍵概念として展開されうるのかどうか。

>文化の影響力と多様な文化の複雑さ、
>そこからくる政治や宗教の問題の重要性とそれらが歴史に与えてきた重要性を言っている。
もう一つ、これ自体は異議はない。
が異種混淆的な方法的概念として捉える必要があるは「西欧」も同じことではないのか。
邪推かもしれないが、反西欧的立場が、別の何かを実体化してしまうことを危惧する。

>十字軍はやはりビザンチンを中心に考えるとルートなどに拘らずこの地域の影響力が絶大だとわかる。
例えば、この場合「この地域」とはどこか。

>15世紀以前のヨーロッパでは西欧は寧ろ軽視する方が客観的な見方だよ。
あるいはこの場合「ヨーロッパ」というのはどこを指すのか。
72鍵概念:02/05/01 21:58
東地中海をギリシャ語圏と考えるのも、ビザンチンの影響からだろう。
ギリシャ人の学者が多く残ったのは現在のバルカンからトルコ辺りの旧ビザンチン領だ。
地中海周辺の東欧圏に正教が入り幾つかの国に定着するのもビザンチンの影響から。
現在我々がヨーロッパと呼んでいる地域は15世紀前後までは南欧特に東側の先進国
ビザンチンの影響が圧倒的に強い。
地中海周辺の先進文化が混在していた程度が西側を遥かに凌いでいた。
邪推する前に聖職者が政治や文化の担い手であった時期の宗教の役割と歴史を調べればわかる。
政教の融合を最も上手く提示したのもこの国だよ。これはイスラム社会や帝政ロシアにも
受け継がれる。神聖ローマ帝国等と言う西側の「オマージュ」もビザンチンを意識してつくられたもの。
でなければ教皇と王とがお互いを必要とした理由がつかない。
単なる古典古代への憧憬ではない。ビザンチンへの対抗意識だよ。特に教皇側には根強くある。
古典古代や中世ヨーロッパの歴史は宗教史とその役割の理解の程度により歴史の理解の程度が
決まるといってもよいぐらいだ。試しにビザンチンと古代キリスト教更には正教の歴史を一瞥してもわかる。
極論でも単なるオマージュでもないのがわかる。
イベリアやシチリア重視はどこかカトリシズムの臭いがこびりついた歴史観だな。
古代以来の現在に至るまでを客観的に考えれば、ヨーロッパでは嫌でも先ず第一にバルカン周辺に目がいくはずだが、、、。
73世界@名無史さん:02/05/01 22:43
西欧諸国が手を焼いているバルカン周辺を10世紀にも渡って
支配しづづけられたこの国の偉業を考えれば、なぜサー・エドワード・ギボン
が史料の少ない18世紀にビザンチンの記述に「衰亡史」で多くの筆を割いたか少しはわかろうというものだが、、。
74世界@名無史さん:02/05/13 22:23
オスマン
75山野野衾:02/06/10 17:06
アゲます。
76世界@名無史さん:02/07/04 14:10
age
77世界@名無史さん
第2次ウィーン包囲の14年前にトルコはクレタ島を陥して居る。
再び拡大しかけていた様にも思われる。