ベトナムについてのスレッド

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1世界@名無史さん
李朝、陳朝、黎朝、ゲン朝なんでもござれ。
2世界@名無史さん:02/01/14 12:23
ヴェルナァム
3世界@名無史さん:02/01/14 12:42
チャンパは今はベトナムの領域だけど、昔は違ったんだよーん。
4世界@名無史さん:02/01/14 16:07
阮朝の宮廷は中国風だったと言われてるけど、それって漢族風なのかな?
それとも満族風(清朝風)だったのかな?
そもそもベタナム独自の宮廷文化ってあったのかな?
5世界@名無史さん:02/01/14 17:31
http://www.interq.or.jp/japan/kimi/viwopho.htm
ベトナムの世界遺産。やっぱ中華風かな。
ミーソンはヒンドゥー教の聖地らしいけど。
6世界@名無史さん :02/01/14 17:55
グエン朝時代、北の清朝に対してグエン朝では自らを南朝と呼び、
大南皇帝を自称した。しかし対外的には朝貢システムの枠内に収まり、
越南国王として承認されていた。この2重構造がヴェトナム近代の歴史を複雑にし、
かつ中国とのあり方を微妙にしているといえなくもない。
実際には朝貢使節も定期的に送られていはいたものの、清朝からの干渉や
交渉はあまり目立つものがなく王朝同士のつながりはさほど緊密ではなかったといえる。
しかし広東で巻き起こった太平天国の乱による残党が国境を超えて進入を繰り返すなどして
実際は中国人問題がもっとも困難を極めた時期といえるのである。

坪井善明先生の本を読むと面白いよ。
7世界@名無史さん:02/01/14 17:59
米軍は撤退せよ!!
8世界@名無史さん:02/01/15 17:03
あげてみる
9「世界制服」ってか…?:02/01/15 17:50
>7
ロシア軍でしょ。
10世界@名無史さん:02/01/15 20:20
ベトナムってどうやって独立したんだっけ?
フランスと戦ったんだっけ?
11世界@名無史さん:02/01/15 20:24
フランスに勝ってるよ。
そのあと南北に分断されるが。
12世界@名無史さん:02/01/16 13:02
違うよ。本当はヴェトナムが独立する前の支配国は日本。
ほんのわずかな時期だったけれどね。
戦争がはじまってから日仏共同統治体制がとられていたんだけど
戦況がまずくなってくると日本はサイゴンまで一気に占領したの。
これが明号作戦。これによって紅河をさかのぼる重慶ルートを遮断しようと考えたらしい。
けど結局戦争には負けてしまった。1945年8月。
そのあとすぐに9月にはホーチミンが独立宣言を読み上げているんだよね。
フランスが宗主権を主張して盛り返してくるよりもずっと素早いこの判断
を見てもホーチミンという人の政治的手腕は群抜きだといえるのではないでしょうか。
でも翌年から始まる南北間の対立は多くの悲劇を生み出していくのです・・・
哀れイデオロギーの対立。
13減点パパ:02/01/16 14:52
> でも翌年から始まる南北間の対立は多くの悲劇を生み出していくのです・・・
もう少し正確に書くように
14THE GEACS PROJECT:02/01/16 16:13
>12
>9月にはホーチミンが独立宣言を読み上げているんだよね。
その前に3月11日に大日本帝国の支援のもと「最後の陸軍記念日」
にパオダイ帝を元首として独立宣言をしている。
これは、宗主国フランスの教科書も認めている事実である。
4月にはラオス、カンボジアも独立。
しかもカンボジア初代の国家元首は、今なおご健在のシアヌーク国王陛下!
15世界@名無史さん:02/01/25 01:45
3月に逝くのであげてみ
16世界@名無史さん:02/01/25 18:52
>>14
へー・・・
ベトナムの独立宣言ってインドネシアより早いんだ。
インドネシアは45年の8月17日だけど。
何で日本はインドネシアよりベトナムを先に独立させたんだろう?
17世界@名無史さん:02/01/25 20:10
タイソン朝
18世界@名無史さん:02/01/25 21:53
ベトナムのチュン姉妹ってどんな人?GOOで検索しても出てこないんです
詳しい本などあれば教えて下さい。
19世界@名無史さん:02/01/25 22:20
日本のベトナム研究者なんてあんまりいないから探せばすぐ見つかると思うぜ。
とりあえず詳しく知りたければ山川の 世界各国史東南アジア 大陸部(長い・・・)がいいと思う。ただチュン姉妹については中公新書から出ている 物語ヴェトナムの歴史 の方が詳しく書かれていたような覚えがある。こっちの方が手軽に買えるからいいかも。
もっと端的に知りたければ角川が出した ベトナムの辞典 に載っていると思います。手元にある平凡社の 東南アジアを知る事典 にもちょっと記述があるね。
チュン(徴)姉妹はHai Ba Trung と書く。Haiは「二」の意。Baは女性をあらわす。後漢の時代に中国への抵抗運動を起こした姉妹で今でもホーチミン市にはハイバーチュン通りという通りがあるよ。
20世界@名無史さん:02/01/25 22:39
19さん
早速、丁寧なレスありがとうございます、一通り買って調べてみますが
やっぱり最後は殺されたんですか?結構、ベトナムで人気のある姉妹
と聞いたのですが、日本の判官贔屓のノリで敗北者だから人気があるのかな?
と、、、
21世界@名無史さん:02/01/25 23:24
>>20
19だけど、シッタカしてるだけだからあんまり参考にしすぎないでね。
東南アジアを知る事典には最後は馬援なる将軍に敗れて殺された、あるいは自殺したと書かれてます。
どっちが本当かはわからないけど知名度があるのは本当。
ヴェトナムの歴史は面白くて、チュン姉妹でもそうだけどモンゴル軍を撃退したチャン・フン・ダオや明朝の支配を抜けたレ・ロイ等、中国の支配に立ち向かった人を英雄となしたみたいな所がある。
逆に極悪人とされるような人は例えばマク・ダン・ズンのような私利私欲をむざぼったとされる人、らしい。
現在共産党の支配にあって人々がどう思っているか。
アメリカに対抗した英雄なのか、それとも権力をたらいまわしにする強欲者としての姿なのか。それは知らない。
22世界@名無史さん:02/01/26 02:21
>>16
フランスを追い出すため
23世界@名無史さん:02/01/26 02:35
チュン姉妹についてのまともな記録は『後漢書』くらいしか
ありません。あとは1000年以上後の伝承でしかなく、
どの程度信用できるのかは怪しいところです。

英語ですが、コーネル大学のキース・テイラーという先生が
"The Birth of Vietnam" (University of California Press)
という本を書いていて、その時代のこともそれなりに詳しく
論じています。ネットで注文すれば数千円で手に入りますので、
関心があれば入手してみてはいかがですか?
24世界@名無史さん :02/01/26 02:53
おおすげぇ。2ちゃんはたまにこういう超最先端の書き込みがあるからやめらんねぇ。
25世界@名無史さん:02/01/26 08:10
ヴェトナムの英雄ホーチミンはフランスへ留学したことがあるんですよね。
ヴェトナム南部の都市サイゴンはホーチミンですが、アメリカメディアでは、
サイゴンと呼んでいるのには驚きました。
26世界@名無史さん:02/01/26 08:43
>>25
ホーチミンがフランスに留学していたことは、別に不思議じゃないと思うけど。
というか、植民地独立運動の指導者達というのは、宗主国への留学経験のある
エリートというのが大半でしょ。
インドなら、ガンジー、ネール、ポースがイギリス留学組、インドネシアのスカルト
はオランダ留学、ベトナムはフランスの植民地だったんだから、ホーチミンがフラ
ンスに留学するのは自然でしょ。
ある程度の教育と世界的な視野がないと、独立運動の指導者にはなりにくいで
しょう。
27世界@名無史さん:02/01/26 10:36
日本に留学してた韓国・台湾の要人もいるの?

庶民レベルではいたの知ってるけど。
2827:02/01/26 10:37
日本の統治時代ね。
29世界@名無史さん:02/01/26 12:51
>>26
スカルノは留学してない。する前に独立運動に足突っ込んだからね。
他の独立戦争期の大物(ハッタとかシャフリルとか)はしてたけど。
もし留学してたら、ああいう(「指導される民主主義」みたいな)
権威主義的な体制は取ってなかっただろう、と言われてる。
代わりにもの凄い読書家ではあったらしいけど。

ついでに言うなら「スカルノ」だよ。「スカルト」じゃない。
「スハルト」とごっちゃにしてない?
どっちにしても両方とも「オランダ留学」はしてないが。
30世界@名無史さん:02/01/26 13:06
>>26
台湾の李登輝が京大出身と聞いてる。学徒出陣にぶつかったって
話だから戦中だろう。
彼の場合はその後コーネル大学にも行ったけど。
農学者だからね、基本的に彼は。

そう言えば去年の秋、結局日本に来たのか彼?
春に森が「唯一の英断(と思う)」をして日本に来て、
手術受けたのは知ってるが。
確か半年後に再検査しないといけないはずだったんだけど。
3130:02/01/26 13:08
>>30>>27ね。
逝ってくる・・・
32世界@名無史さん:02/01/26 13:40
今、旧王家の方達はいずこにおわす?
現当主(王位継承権保持者?)とか….
33世界@名無史さん:02/01/26 15:05
ポルポトもフランス留学組。
34世界@名無史さん:02/01/26 17:19
>>27
独立運動とは無関係だが、朝鮮の旧李朝の皇族(王族)は
みんな学習院に通っていたんじゃなかったかな。
未確認だが。
35世界@名無史さん:02/01/26 17:41
はじめまして。「中華民国期の軍閥を語ろう!」の1です。

ベトナム独立派の教育面での話が出ていたので少し割り込みますが、
ベトナム独立同盟の軍幹部の多くは、
辛亥革命以後に、中国雲南省の軍事学校(雲南陸軍講武学校)に在籍していたようです。
仮名を使って学んでいた人が多く、誰が来ていたかは正確に把握できないのが残念ですが。
またこの結果、雲南軍閥の若手軍人とベトナム独立派軍人との間に連帯感が芽生えていて、
後の国共内戦期までそれは相互に影響しあいました。

あまり関係の無い話だったかもしれません。失礼しました。
36世界@名無史さん :02/01/26 19:17
35さんの話面白いね。軍人同士での中越交流って案外事の本質を突いてるかもしれない。
ヴェトナム人将校の話ってあんまり知らないけど結構面白そう。
誰か簡単で飽きない本知らない?
37世界@名無史さん:02/01/26 19:18
植民地人は京城帝大、台北帝大より内地の大学の方が入りやすかったから
(京城帝大、台北帝大は元々は居留内地人のための学校)、
戦前の朝鮮、台湾人の日本留学経験者なんて数え切れないほどいるぞ。
38世界@名無史さん:02/01/29 02:45
ホーチミンは、全生涯を祖国の解放に捧げた戦士だ。
民衆を愛し、全人類を愛した。
しかし、私個人の感想を言えば実に率直な人で、人間を最も尊敬している人だった。
ヒューマニストだった。
彼は偉大な人物だが、非常にシンプルな人間なのだ。
彼はベトナムの民衆に独立と自由、幸福をもたらす事だけを考えていた。
彼は始終「人間は金持ちの国と貧乏な国とで違うはずはない」と言っていた。
ベトナム革命は人間革命なのだ。
私はこれをホー・チ・ミン・ヒューマニズムと呼びたい。

ボー・グエン・ザップ(vo nguyen giap)
39世界@名無史さん:02/01/29 02:46
ベトミン=ベトナム独立同盟
ベトコン=南ベトナム民族解放戦線
40世界@名無史さん:02/01/29 02:49
ベトナムはフランスに勝ち独立した。
アメリカには苦戦したが、ゲリラ戦でアメリカを磨耗させ、
アメリカ世論が戦争反対の風潮になるまで耐えた。
結果、ベトナムは南北が統一された。

朝鮮、ドイツと同じ民族分裂の悲劇を自らの手で掴んだ。
もちろんソ連援助はありましたが。
41世界@名無史さん:02/01/29 02:57
>38
僕はベトナムにはほとんど詳しくないんですが、
ホー・チ・ミン(胡志明)が、今でもベトナムの人々から慕われている建国者なのは、
確かですよね。その人柄にひかれて人材も大分集まったようですし。
でも、現在のベトナム共産党が言うところの「ホー・チ・ミン思想」って、
一体どういうものでしょう?
42世界@名無史さん:02/01/29 03:09
>>41 はじめから内容はない
43世界@名無史さん:02/01/29 03:42
特に内容もないのに「○○思想」という名称だけ流布してるんじゃ主体思想と同レベルだな
44世界@名無史さん:02/01/29 05:43
>>43
でも、内容のある「毛沢東思想」よりもマシでは?
45歴史教科書悶題:02/01/29 11:25
>35
なるほど!だからチャイナリストどもがホーチミンの古証文「200万人餓死説」を
炙り出すんだな。(藁
46世界@名無史さん:02/01/29 13:35
今では、北はともかく南のベトナム人は、ホーチミンのことあまり好きでないらしいよ
なんせ、共産主義お得意の官僚主義で、縁故主義、
南の人は、北の人に色々なところで差別されているらしい
47世界@名無史さん:02/01/29 14:14
>>46
南部は元々ベトナムではなかった、というのも大きいだろう。
18世紀までは違う国、文化圏だった。
48世界@名無史さん:02/01/30 02:58
どうかなぁ。一概に南部の人間がホーチミンを嫌いと言うのは短絡的だと思うなぁ。
大体統一前にホーチミンは死んでるし。
むしろ彼をシンボル的に扱って「これはホー主席の意思である!」と
強引に政策を展開した共産党幹部に対して不満が高いと言うべきでは。
幹部の連中は本当に嫌われているし、現にそういわれても仕方がない
連中が多いと聞きました。
49世界@名無史さん:02/01/30 12:50
革命家は革命の成功だけを考えており、
その後の社会のことは何も考えてはいない。
ホーチミンは純粋すぎる人だった。
ただ、国家の統一と独立だけが目的だったのだ。
50世界@名無史さん:02/01/30 14:25
>>49
アメリカが多額の経済援助をすることで妥協するという選択肢も
あったからねぇ。ただ、国家分断という痛みを延々と抱えることに
なるのがいいのか悪いのか。
51世界@名無史さん:02/01/30 23:00
近藤紘一氏の本は面白いと思うが、どうよ?
52世界@名無史さん:02/01/31 01:54
エッセイとしても白眉だと思います。
53世界@名無史さん:02/01/31 21:31
 ベトナムの本も結構出るようになったけど、
一般向けでは「ベトナムの詩と歴史」がまだ筆頭かな。

54世界@名無史さん:02/02/03 21:08
>>32
西山阮朝の子孫の方々はなぜか香港に住んでいる模様です。
旧南部政府の高官の子孫もいるとのことです。
そのためベトナム料理は香港でもかんり本格的なものが食せますよ。
>>53
現在ベトナム関連の卒論書いてますが、参考文献の基本書としての一部を紹介します。
『ベトナムの世界史』古田元夫
『インドシナ文明史』G.セデス
『ベトナム人共産主義の民族政策史−革命の中のエスニシティ』古田元夫
『物語 ベトナムの歴史』小倉貞男
この辺りを押さえればいわゆるベトナム通といっても過言でないかと思われます。
なお『詩と歴史』は楽しい本ですがいかんせん古すぎて現在の学術的分析と乖離してる部分があると聞いたことがあります。
55世界@名無史さん:02/02/04 00:17
ベトナムに関する研究は全くとっていいほど進んでいないのが現状。
長引く戦争、偏狭な唯物史観主義などが原因。
歴史的資料は殆ど残存してません。
歴代の中国の王朝が侵略的に物品とかを尽く奪取し、フランスの植民地時代、アメリカの猛空襲で何も残っていない状態です。
はなしは変わりますが、ベトナムのラオス、カンボジアとの国境付近には未知の生物がいるともききましたよ。
ご存じの方いますか。
56p:02/02/04 00:24
>>39
南ベトナム民族解放戦線ではなく、南ベトナム解放民族戦線です。
ベトナム語では
MAT TRAN DAN TOC GIAI PHONG MIEN NAM VIETNAM です。

MAT TRAN 戦線
DAN TOC 民族
GIAI PHONG 解放
MIEN NAM VIETNAM 南ベトナム

つまり、南ベトナムを解放するための民族戦線です。
南ベトナム民族解放戦線として意図的に誤訳していたのは朝日新聞の恥知らずな奇形左翼的戦略です。
詳しくは「悪魔祓いの戦後史」稲垣武雄
57世界@名無史さん:02/02/04 01:16
>>56
お、あなたベトナム語知ってますね。
私は正確に憶えていませんが、ベトナムの正式な国家名称も邦訳と単語の順番がずれてましたよね。
これもその奇形とやらの一種でしょうか?
58世界@名無史さん:02/02/04 01:24
>>54
ベトナム関連の卒論をお書きとは・・・。めずらしいですね。
時代はどのあたりの事なのでしょうか?参考文献の一部を見せて
いただくかぎりでは、やはりホーチミン辺りの頃でしょうか?
59世界@名無史さん:02/02/04 01:25
>『ベトナムの世界史』古田元夫
>『インドシナ文明史』G.セデス
>『ベトナム人共産主義の民族政策史−革命の中のエスニシティ』古田元夫
>『物語 ベトナムの歴史』小倉貞男

追加では
『ドキュメント・ヴェトナム全史』小倉貞男
『歴史としてのベトナム戦争』古田元夫
『ベトナム戦争の記録』ベトナム戦争の記録編集委員会

あたりが一般的で入手し易いです。
中国とベトナムの関わりについては、
『毛沢東のベトナム戦争』朱建栄

が最近出てます。日本は結構ベトナム研究進んでいると思いますよ。
ただ、一部の研究者止まりで表に出てこない(出てきにくい)だけで。
60世界@名無史さん:02/02/04 01:35
正しくは
『ドキュメント・ヴェトナム戦争全史』小倉貞男

でした。インターネット上はあまり資料がないのが実状ですね。
ちょっと偏ったサイトはありますがね。卒論・・・・懐かしい響き
61世界@名無史さん:02/02/04 20:42
 トンキン凶作は、東南アジアを襲った凶作の中で最大の飢餓地獄をもたらした。食糧に
ついていえば、トンキンと北アンナンは昔からの問題のある地域で、米はコーチシナから
の輸入に依存していた。しかし連合軍による陸路や沿岸輸送に対する爆撃の結果、米の輸
入はほぼ完全に途絶えてしまった。こうした状況下で凶作が起こったのだから惨憺たる結
果が生じないはずがなかった。1944年12月、民衆はすでに飢餓的状態にあったが、1945年
はじめに残酷な飢饉がトンキンを襲い、60万人ないし200万人――なお人数に違いがある
のは、フランス当局とヴェトナム人の生命を奪った。トンキンの飢饉は、例外的に規模の
大きい惨禍だった。というのも、それは次のような様々な有害な要因が相互に結合し、つ
いには、……。具体的には昔ながらの食糧危機、経済的崩壊、日本軍の搾取、輸送の全面
的破壊、政庁が何の現実的改善もできなかったこと、投機家の貪欲なやり口、官吏の汚職
、ヴェトナム人の抵抗運動のための生じた農村地域の混乱状況、それに1944年末の凶作が
重なり合った。(-371)

――東南アジア現代史上 植民地・戦争・独立 ヤン・M・プルヴィア 長井信一監修 
六人訳 東洋経済新報社 昭和52年3月4日

 この大飢饉についても、日本軍の徴発によってもたらされたと「サヨ」は宣伝してまわ
っています。まず大学等にいる「同志」が研究と称し、「宣伝本」をだし、続いて報道の
場にいる「同志」が、これを記事としてばらまきます。「反省していない。謝罪していな
い」とします。続いて教育の場にいる「同志」が子どもたちに吹き込んでまわります。赤
いトライアングルはずっと活動をつづけています。共産主義国ベトナムを守るために、こ
の話はばらまかれています。サヨがまた反日キャンペーンをはり、デマを輸出した結果、
ベトナム人もこういう話をして日本人を批判するようになりました。きちんと反省しない
とこのままでは「世界の孤児」になるというのです。
 この飢饉の最大の主因は大爆撃による交通の杜絶にあるのです。漁船にいたるまで無差
別に攻撃されています。これは明らかに国際法違反です。勿論、多数の犠牲者をだしてい
すますが、アメリカが何の謝罪も賠償もしなかったのはいうまでもありません。
 当時のベトナムはまだフランス植民政府の管理下にありました。しかし何の対策もとらず
に放置したのです。
 日本軍の徴発がなくても、大飢饉は起きたでしょう。
62世界@名無史さん:02/02/04 22:06
>日本軍の徴発がなくても、大飢饉は起きたでしょう。

日本軍の駐留や、その後の仏印武力処理など無ければ大爆撃も無かったでしょう。
日本軍も仏印軍も責められて当然のことをしたのです。それは覚えておくべきです。


63世界@名無史さん:02/02/04 22:25
現在の南部ベトナム地域をあつかったものとしては、
めこん出版からでている『チャンパ!』も付け加えてほしい。
建築史などの話も載っていてちょっと異色だけど、写真がきれい。
カバーの爺さんの顔がいい味だしてる。
64p:02/02/04 22:59
>>61
まさにその通りです。
実際に中部ベトナムの人にこの件について聞いても知らない人がほとんどで、
ベトナム共産党万歳の当地の歴史教科書にも日本人の徴用による飢饉については記述してません。
65p:02/02/04 23:03
>>57
ベトナムの正式国名は
cong hoa xa hoi chu nghia viet namです.
ベトナム社会主義共和国です。
cong hoa 共和
xa hoi 社会
chu nghia 主義
viet nam ベトナム

国名には誤訳は無いと思われます。
66世界@名無史さん:02/02/05 00:56
話は横道にそれますが、IEをお使いの方はツール―エンコード―その他から「ベトナム語」を選んでしまうとシステムファイルが壊れることがあるのでご注意ください。
>>64
田舎で農民たちの一揆が多々おきてることも実は報道されてないだけですね。
それでも北朝鮮よりはましですけど。
67世界@名無史さん:02/02/05 02:29
>>65
pさん、わたしが言いたかったのは解放統一以前の北の名称だったんですが。
民主とか共和とかゆう単語使ってますよね。
明らかに矛盾しているように思いますが。
68世界@名無史さん:02/02/05 11:14
>>67
日本共産党がつかっている「民主」と意味的には近いものでしょう。
この「民主」と、アメリカや日本の「民主党」の民主は少々意味が違います。
共和についても同様。
69世界@名無史さん:02/02/05 13:19
しかし、なんだねぇ。中国の共産党支配が続く限り、ヴェトナムも一党制なのかねぇ。
70世界@名無史さん:02/02/05 23:25
で、最近「刷新」はうまく進展しているのか?
71p:02/02/06 20:21
>>67
レス遅れて済みません。

1975年前の国名は
北ベトナムの場合、今と同じです。
つまりベトナム社会主義共和国です。

南ベトナムはやはり日本での翻訳はほぼ全滅状態で誤訳でしょう。
正しくは VIET NAM CONG HOA (共和ベトナム)です。

ベトナム共和国ならば CONG HOA VIET NAM と順がひっくり返ります。
7267:02/02/07 00:46
>>71
Oi,xin com on qui phuong!
でも、当時の北の名称ってベトナム民主共和国って日本では呼称されてましたけど、この呼称は日本ではそうであってもベトナム(ベトナム語)では今と変わらなかったんですか?
いつも訊いてばかりですみません。
ベトナム語知ってそうなんでいろいろ聞かせて下さい。
73某趣味人:02/02/07 01:06
横レスですが、
>1975年前の北ベトナムの国名

VIET NAM DAN CHU CONG HOA =ベトナム民主共和国、で誤訳はないと思います。
現在のベトナム社会主義共和国は
CONG HOA XA HOI CHU NGHIA VIETNAM、です。

南ベトナムの場合は、VIET NAM CONG HOA=ベトナム共和国でやはり誤訳はありません。
CONG HOA VIET NAM となっている記述もありますが正式に南ベトナムの国名を表記
する場合(当時の南発行の切手なども)は、VIET NAM CONG HOAとなっています。
そもそも、国名を翻訳する場合「共和南ベトナム」と言うのも変な話だと思います。
ちなみに解放戦線側(臨時革命政府)では、CONG HOA MIEN NAM VIET NAM 南ベト
ナム共和国を名乗り混乱させてくれています。

その前の解放戦線に対する誤訳(誤解)については同感で興味深く拝見しました。
入手できれば「悪魔祓いの戦後史」を読んでみたいと思います。






74某趣味人:02/02/07 01:24
訂正
>正式に南ベトナムの国名を表記する場合(当時の南発行の切手なども)は、
>VIET NAM CONG HOAで「共和ベトナム」ですが、そもそも国名を翻訳する場
>合「共和南ベトナム」と言うのも変な話だと思います。その辺は柔軟に考え
>て良いと思います。


要約すればこう言いたかったわけです。
長く書き込みしたら、ややこしく意味不明になっていました。反省。
慣れてないもので許して下さいませ。(でしゃばるからだ・自爆)
75世界@名無史さん:02/02/07 01:38
>ベトナム民主共和国
>共和ベトナム
国名の前と後ろでは何か違うのでしょうか?
76世界@名無史さん:02/02/07 05:29
ちょっと山岳部の少数民族の情勢がよくないみたいですね。
土地問題が表面化してきている感じ。
下手をすると国が動きますよ。
77世界@名無史さん:02/02/07 05:35
日本語名はどうせ英語からの重訳じゃないの。
78世界@名無史さん:02/02/09 01:26
>>32
退位したバオダイはフランスに住んでましたよね。もう死んだけど。
バオダイの子供達は今なにをしてるのでしょうか。誰か知ってますか。
79世界@名無史さん:02/02/09 13:43
>>56
ベトナムに「GP6型」という蒸気機関車がありまして
これは元満鉄のミカロ型蒸気機関車でした。
なんでGPというのか知らなかったが「解放」だったのですね。

満鉄ミカロ(ミカド型6番目)
-> 中国 解放6 (JF6)
-> ベトナム GP6

なるほど!

ベトナム語は全然分からないのですが
ベトナム語って漢語・和製漢語が語源のものがかなりありますね。
ハングルと同じで漢字でも書けそうなものが多いですね。

首都のハノイは「河内」だし
トンキンは言わずと知れた「東京」
80世界@名無史さん:02/02/09 13:48
>>79
だって明代まではベトナム北部と中国は一心同体とさえいえたもの。
南部は全然違うけど。
81@名無しさん:02/02/09 14:40
ラオスの研究者に会ったら、フランスも中国も
ベトナムとちがって、ラオスには興味も示さなかった由。
82世界@名無史さん:02/02/09 15:22
ラオスはもともとタイの勢力圏(≒領土)だったのを、フランスが
喧嘩を売り、イギリスも黙認したので、フランス領インドシナに
併合された地域。住んでる人もタイ系の人々。
83世界@名無史さん:02/02/09 16:03
フランスの前はタイの属国でタイ人も沢山いたとはいえ、ラオ族とタイ人
とは違うし、ランサーン王国はベトナム・クメール・ビルマの勢力圏にも入った
こともあるよ。
84世界@名無史さん:02/02/09 20:12
ホー・チ・ミンの後継者のレ・ズアンが評判よくないね
85世界@名無史さん:02/02/09 22:35
レ・ズビアン?
86世界@名無史さん:02/02/09 22:52
レ・ズアンは別に後継者って訳ではないですよ。
党内順位の横すべりで、本来ならチュオン・チンだったはず。
87世界@名無史さん:02/02/10 13:29
トンキン凶作については、通説とそれへの反論異論(61のような)を
表面的に読んだだけなので自身の意見は無いのですが、戦争中、
たしかに“ベトナム米”と称する外米が出回っていたことは
たしかのようです。なにせ私の周囲の、外地で食べた人、日本で食べた人、
みんながマズイ外米を代名詞的に“ベトナム米”と読んでいましたから。

やはり飢餓に繋がる徴発はあったのではとも思います。
88靡莫:02/02/10 19:29
唐突な質問ですみませんが、
近代以降のベトナムの研究者は、
本国を除くとやはり旧宗主国のフランスが多いのでしょうか?
中国ではそれほどみかけなかったので・・・。
8984:02/02/10 22:03
>>86
実際レ・ズアンじゃん。
チュオン・チンなんて80年代半ばでしょ、また出て来たの。
9086:02/02/11 23:02
>>84
いや、ホー・チ・ミンの後継としての正統性ってことで。
ベトナムの研究者でもレ・ズアンをホー・チ・ミンの後継とするのは抵抗があるらしいし。当然か。
チュオン・チンを残しておいたのもホー・チ・ミンだった訳ですしね。
91世界@名無史さん:02/02/12 01:32
毛沢東の後継者が華国鋒かケ小平かみたいな議論
92世界@名無史さん:02/02/12 01:39
そんなことより、西山朝について話そうや。
93世界@名無史さん:02/02/12 01:50
【ベトナム社会主義共和国】 Socialist Republic of Viet Nam
地域;東南アジア 面積;32万9566ku 人口;6931万人
首都;ハイノ(人口310万人) 主要言語;ベトナム語
宗教;仏教、カトリック、伝統宗教 政体;国家評議会議長・議員内閣制
通貨;ドン
94世界@名無史さん:02/02/12 01:52
訂正
>政体;国家評議会議長・議員内閣制
>政体;国家評議会議長・議院内閣制
95世界@名無史さん:02/02/12 01:52
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vietnam/data.html
日本からの文化無償協力でアニメ製作機材なんていうのがあるね。
96世界@名無史さん:02/02/12 02:03
だから砲艦外交に屈した西山朝をかたろうや。
97世界@名無史さん:02/02/12 02:11
>>96
まず自分の知っていることを書いてみたら?
98世界@名無史さん:02/02/12 03:08
西山朝が砲艦外交に屈したという話には興味があります。
説明してもらえますか?
99順化王:02/02/13 00:23
19世紀初め、阮福英はフランス人宣教師ピニョーの支援により西山阮朝より独立し、さらに西山阮氏を打倒しヴェトナム全土を統一し、清
の宗主権下で越南国の王に封ぜられた。
1806年、阮福映は嘉隆帝として即位し越南国を建て嘉隆帝を名乗った。
保大(バオダイ)帝の先祖にあたる人です。
さて砲艦外交ですが。
これら一連の事件のなかで、阮福英に加担するフランス軍が艦砲射撃をベトナムの各都市に行っている。
後のカトリック教徒殺害事件が起きたときも沿岸都市に砲艦射撃を行い、その後もフランスの外交手段の一つとしてこの艦砲射撃は繰り返されている。
有無を言わせずまずは艦砲、その後に実務的会談。というより圧迫外交。
こんなかんじかな。
1001:02/02/13 01:25
100ゲットさせて頂きます。
101ミスター・ホー:02/02/13 02:17
      ∧_∧
      ( ´Д`)< 福映はクァンナムだからタイソンから独立した訳ではないでしょ
     /    \   我が国はグエンが多くて訳解らん。かく言う私もグエン・タト・タン(w
  __| |胡志明| |__
  \   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   \
  ||\            \
  ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄
  ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
     .||              ||


102順化王:02/02/13 02:32
砲艦外交は昇龍(ハノイ)、順化(フエ)、柴棍(サイゴン)といった主要都市だけでなく、地方の沿岸部小都市にも施されたらしい。
誇るべきフランス文化、あるいは民主主義と相反するようなこのような蛮行はどうしたものか。
インドシナにおいてイギリスに負けまいとしたのは理解できるとしても、このような獣的な行いはベトナム戦争のアメリカを凌ぐのではないかと。
御蔭でベトナムには古来からの古跡が殆ど残ってないです。
103順化王:02/02/13 02:38
胡志明は様々なニックネームがありますな。
国を愛するグエンなんていいネーミングじゃないか。
104世界@名無史さん:02/02/13 02:55
>>99
説明どうも。
でも、西山朝が砲艦外交に屈した説明になっていませんよ。
「砲艦外交に屈した」というからには、砲撃の後で西山政権とフランスの間で
折衝が行われ、西山政権が譲歩しなければならないはずですが、
その事実については何も言及しておられませんね。

ついでに、阮福暎が西山阮朝より独立した事実があるんですか?
阮福暎は終始一貫して西山政権に敵対していたわけですから、
従属した時期はないと思いますが。
105世界@名無史さん :02/02/13 11:27
西山朝はやはり従来どおりの王朝交代の中に組み込まれて倒されたと見るべきでは。
たしかに阮福暎は西山朝からタイに逃げてそこでフランス人宣教師と出会い、彼らの
軍事的支持を取り付けてヴェトナムに戻るんだけどさ。
それはどっちかっていうと砲艦外交的な植民地拡張主義政策というよりは
宣教師達のキリスト教布教活動の発展と見るべきでは。
それが証拠に阮朝は二代明命帝の時には宣教師弾圧を行いながらも
最盛期を創設してるし。もしここに政治的な背景があるとするならば
フランス軍の大規模な活動があってしかるべきでしょう。
まぁ当時フランスは国内の問題で大変だったでしょうが。
結局フランスの砲艦外交の開始は隣国中国におけるアヘン戦争の後、
1858年から始まるダナン港砲撃〜サイゴン港占領から、と考えるべきです。
106世界@名無史さん:02/02/13 23:45
>>104
独立とはなにをせしめて独立状態にあるとお考えでしょうか。
はるか昔に滅亡したはずのチャムの王国が、この時代に各拠点で独立した勢力でした。
さらに黎、莫とかの旧王朝でさえも主権を握ってなかっただけで、地域で独立勢力でした。
このような状況において、中央の意に抗う地方勢力を独立した状態にあると記したかったのですが。
107世界@名無史さん:02/02/14 00:16
>>106
それは失礼。「西山阮氏より独立し」とあったもので、西山阮氏に従属していた
阮福暎が独自の勢力として自立した、という意味だと思いました。

108世界@名無史さん:02/02/14 01:13
それでは砲艦外交の方に話を戻しましょう。
砲艦外交といっても、わたしがいう砲艦外交は;
>>105 1858年から始まるダナン港砲撃〜サイゴン港占領から、と考えるべきです。
の時期のみを範疇としません。
むしろ、後期黎朝前後から連続した、西欧諸国の近代的な武器に拠るベトナムへの恫喝を総称しています。
つまり、初期段階の接触時からフランスの行ったベトナムへの政策がことごとく近代的兵器にてベトナムを圧倒し植民地としたことををすべからく「砲艦外交」としています。
西山党に関してですが、かれらは広南の強壮の集団であり、それゆえに覇権を獲得できたのであり、同民族の落ちぶれ貴公子の阮福英のごとき弱小勢力に敗退するはずがありません。
実際、阮福英の反乱軍は連戦連敗だったのですが、最終的にはフランス艦の砲艦をはじめとする陸戦兵器に結局惨敗してしまい、西山党は尽く圧倒されたと目されます。
こうした連なる事情、そして後の保護国下への動き全般を含めて砲艦外交としました。
やや広義すぎるかもしれませんがいかがでしょうか。
109105:02/02/14 01:39
>>108さんの仰ることごもっともです。確かに西山朝は阮福英によって倒されたのではなく
まさにフランスの軍事力によって倒されたと思います。
しかし西山朝崩壊の原因はそれだけでしょうか。私はこう思います。
まず一点目、西山朝は成立間もない新興の勢力であるという点。これは
国としての自力の弱さが表れます。その証拠に北部地域では反乱が続き、
戦争で疲弊した国内にはまだ国力が戻ってきておらず、対外的な発展はありません。
二点、国内の華僑に対して厳しく対処したという点。ヴェトナムでは今も昔も
経済は華人が握っていますがこれを良しとしない西山朝はかなり大規模な弾圧を加えたと
何かの本で読みました。このことは国内に動揺と離反をもたらしたと考えられます。
三点、西山創立の英雄阮文恵の急死。言うまでもなく東洋的国家の成立において建国者は
大きな意味を持ちます。しかし阮福英が舞い戻ってきた時は既に阮文恵は
この世になく、言うなれば支柱が失われた状態であったのです。
このように西山朝自体が内部磐石でなかったためフランスの軍事技術というショックの前に
簡単に敗れ去る結果となったと思うのですが、いかがですか?
110世界@名無史さん:02/02/14 02:21
広義も狭義もないでしょう。
砲艦外交という言葉は、武力を誇示しつつも実際には武力を行使せずに
所期の目的を達成する外交の手管以外の意味では使われないと思います。
坪井善明先生にでも尋ねてみたらいかが?

それから、フランス人がやったこととフランス国家がしたことくらいは
区別してくださいね。
111世界@名無史さん:02/02/15 00:24
>109
なかなかの慧眼のある指摘ですね。
フランスの加担以外の要因について、3点とも要素を正確に捉えていると思います。

蛇足なのですが、3の阮文恵に関する補足です。
阮福英(嘉隆帝)が西山阮、とくに阮文恵をひどく憎んでいたということを聞いたことがあります。
墓場から彼や一族の遺体を引っ張り出して鞭で打ったということです。
この影響で、西山阮、とくに阮文恵に関しては史書のなかで良くも悪くも実体と離れたイメージで書かれたのでないのでしょうか。
かれが仮に存命だったとしても戦勝できたかはやや曖昧です。
また2の国内の華僑に対して厳しく対処したという点。
今の共産党も南北解放時に同様に華僑に大打撃を与えましたが、その関係で国際的地域的にも信用を落としまくったと思います。
歴史は繰り返してますね。
刷新のキーは越僑したかれらではないかと思ってます。
112ベトナムの:02/02/17 00:14
クオンデについて教えて!あとラオスの王族とかいまどこなんですか?
113世界@名無史さん:02/02/17 02:07
>>102-111
君らは研究者か?それとも概説書をかじっただけの素人か?
どっちなんだ?最低限、それくらいは教えてもらいたい!
あっと院生でも修士は研究者じゃないからね。研究者といえるのは
最低限、博士課程を終えた者のみだかんね〜。
114世界@名無史さん:02/02/17 02:14
>>113
このスレには何の関係もないが、たまたま目にしたものだ。
お前この板から消えろ。


115世界@名無史さん:02/02/17 02:15
べつに研究者ではないですが。
じゃあなた学歴は?
116世界@名無史さん:02/02/17 03:32
まぁまぁ、アフォは放っといてマターリと行きましょう。
ところで、阮朝の話の途中なんでちょいと聞きたいんですが、
嗣徳帝って半分気狂いだったって本当なんですか?
大南ジツ録、縮印かなんかして中華書局の二十四史みたいな
形で売ってないんですか?ベトナム本国か中国で出版されて
ないんかなぁ・・・?阮朝初代皇帝嘉隆帝が名前がなんかかっこ良い
んで好きなんだが・・・。やっぱ大南ジツ録くらいしかないのかなぁ。
質問ばかしでスマソ。
117113:02/02/17 16:48
別に漏れは荒らそうと思って書いたんじゃないのだが・・・。
あまりにもしっかりとした事を書いてたから、すごいなぁと
感心したんで研究者か、もしくは概説書をよんで勉強した人
かと尋ねたのだけどね。概説書を読んだのなら、典拠となった本
でも教えて欲しいなと思っただけ。それに修士は研究者じゃない
ってのは常識でしょうが。その証拠に学部から修士へは大抵、進めるが
修士から博士への進学はほとんど至難の技だってのは以前、ここにあった
大学院進学に関するスレ(1年程前)でも現院生の人たちが言ってた通り。
それに修士だけじゃ研究職に就けないだろうが。
>>114
お前、そんなに過剰反応するってことはもしかして、修士の院生かそれとも
博士課程に進めなかった研究者くずれか?または博士は出たが職にはつけな
かった就職浪人か?もしかして、院にすら進めなかったとか(w
>>115
漏れも別に研究者じゃないよ。だから、102−112の話をすごいと思って、
典拠となった本とかを知ろうと思ったんじゃねえか。そして、もし研究者
だったら色々と教えてもらおうと。やっぱ歴史を専門にしてそれで飯を食ってる
研究者と趣味でやってる素人とは格段にレベルが違うだろう?
118105:02/02/17 19:46
>>113
残念ながら私はあなたの定義する研究者ではありません。ただの学部生です。
でも18〜19世紀のヴェトナムの歴史は本当に研究数が少ないので
マイナーなところに興味を持ってます。
これは原因があってこのころのヴェトナムをいじるには漢越語(ハンノム)・中国語・
フランス語・現代ヴェトナム語(クオックグー)・そして日本語や英語など実に
多くの外国語を読まなければならないため今まで忌避されてきたからです。
ただ、日本では坪井善明先生がフランス語文献からの視点を紐解く努力を欠かさず
行ってくれたため、ヴィヴィッドな歴史を楽しむことが可能になってます。
著作『近代ヴェトナム政治社会史』 東大出版会 はとてもよくまとめられていて
大変参考になりました。よかったらどうですか?大き目の図書館にはあると思います。
ttp://opac.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/opac/books-query?mode=1&code=20229781&key=B101394258605514
西山朝については
ttp://opac.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/opac/books-query?mode=1&key=B101394258605514&code=21410794
の嶋尾先生の論文がよくわかると思いますよ。
119105:02/02/17 19:59
>>116
『大南寔録』は慶応大学から列伝と一緒にまとめられています。
結構大きい本です。
ttp://decsv001.lib.mita.keio.ac.jp/cgi-bin/kmc/cal950.cgi?
Phase=230&Uid=3178291&Wno=302&Jid=6501978&Pg=1&Ln=1&PicMode=
これは資料としてはかなり長いので自分の見たい箇所を参照する形をとらないとタイヘンですよ。
嗣徳帝は儒教的な考え方を最後まで離さなかったので、そういった意味では一部から忍び寄る現実に
背いた”キグルイ君主”に見えたかもしれませんねー。
私生活では病弱で詩文ばかり書いていたそうです。
120世界@名無史さん:02/02/17 22:07
> これは原因があってこのころのヴェトナムをいじるには漢越語(ハンノム)・
> 中国語・フランス語・現代ヴェトナム語(クオックグー)・そして日本語や
> 英語など実に多くの外国語を読まなければならないため今まで忌避されてきた
> からです。

これはどうかな。二十世紀でも実に多くの外国語が必要になるわけだし、
条件はそれほど変わらないはず(漢文はフェイドアウトするが、ロシア語
などが加わる)。
本当の原因は九十年代まで現地の史料が利用できず、わずかな官選史料
によって研究せざるを得なかったこと。
一八世紀史は今でも史料的に厳しいはず。嶋尾論文は現時点で最良の概説だが、
逆にいえば、研究状況の臨界を示してもいる。
121世界@名無史さん:02/02/18 04:56
対米のベトナム戦争、それにベトナム共産党に関しての書物ならある程度日本語のがありますが、これ以外の分野の書物になると。。。
最低でもベトナム語、フランス語、漢語ができないと厳しいですよね。
これにクメール語、ラオ語、ロシア語、英語なんかが加わればもっといいと思います。
122世界@名無史さん:02/02/19 02:25
18世紀史が厳しいとのはなしですが、むしろそれ以前も厳しいに変わりはないでしょう。
漢語、字喃、quoc uguの入り混じった文献を読解するのは並大抵の努力ではないです。
123世界@名無史さん:02/02/20 04:17
>>122
それはそうです。誤解をされているかもしれませんが、一八世紀史云々は
史料が爆発的に増える一九世紀と対比しての話です。118で問題と
していたのは「18〜19世紀」ということでしたし。

ついでに伺いたいのですが、「漢語、字喃、quoc uguの入り混じった文献」
というのは何のことですか?
124世界@名無史さん:02/02/21 00:22
おおと失礼。
>漢語、字喃、quoc uguの入り混じった文献
じゃなくて、多用な言語の文献がいっぱいあるっていいたかった。
17、18、19世紀のベトナムっていろいろ入り混じってるから、たとえタネになる文献があっても分析するのが大変だということですわ。
これはベトナムに限らず他の国でも同じことなんだろうけど、ベトナムはそのレベルがさらに高いってこと。
ではもう少し時代を遡ってみましょう。
モンゴルのベトナム侵攻はなぜ失敗したのでしょうか。
陸続きの地で、モンゴルが敗退した例は極めて稀で前々から不思議でした。
125 :02/02/21 02:11
直接的な軍事上の要因としては、大越国が元朝(大元ウルスと呼ばなきゃ駄目?)
の遠征軍の補給を絶ったこと、というのが故・山本達郎先生の説ですが、
どうでしょう?
126世界@名無史さん:02/02/21 02:17
バクダン江の決戦で干満を賢く利用したという説明もできそうですが。
127世界@名無史さん:02/02/21 23:17
「中国・ベトナム関係史」でしたっけ? 
主力の騎兵がデルタでしか役に立たないとか、
伝統のゲリラ戦術やら気候に苦しんだところに
補給路を断たれてあぼーん。

128世界@名無史さん:02/02/21 23:55
むう。
パガン朝とか中東方面での圧倒的征服はこれいかに。
気候だけでは説明できませんね。
その反面、中国、中央アジア、朝鮮はあれあれという間に征服されています。
水戦が不得手といっても南宋滅亡後はその強靭な軍団と技術も得てますからね。
陸続き、長い海岸など守り手にとって不利な状況ばかりなのになぜ撃退できたのか。
ちなみに南のチャンパの方はあっけなく敗戦、降伏したみたいいです。
129125:02/02/22 02:08
>>127
『ベトナム中国関係史』が正しい。もっと詳細なものとしては、
『安南史研究 I』という本があります。

>>128
誰も気候だけで説明はしていないと思いますが。
撃退できた理由は、補給中継点への攻撃や補給船団の撃滅などによって
元軍の補給を絶ち、さらには食糧の隠匿などによって軍事行動を困難と
したこと(一種の焦土戦術)、さらに元軍が退却するまで降伏しなかった
こととされています。もちろん、気候や低湿地での作戦上の困難などの
理由によって作戦続行が困難になったこともあるでしょう。
詳しくは前掲書の関連箇所を読んでください。
それから、揚げ足を取るつもりはありませんが、中国と朝鮮の征服は
「あれあれという間」ではないと思います。同様のリソースを大越国
に投入していれば征服されていた可能性は高いでしょう。
「陸続き・長い海岸」も元軍にとって有利には働かなかったはずです。
というのも、交通路の未発達な華南経由の陸上補給路は脆弱なもの
でしたし、当時の海岸部には何もありませんから、水際沿いに防衛線を
張る必要もなかったからです。
また、チャンパーが「あっけなく敗戦、降伏」というのはどのような
事実を指しているのでしょうか?
130世界@名無史さん:02/02/23 18:47
>129
>誰も気候だけで説明はしていないと思いますが。
じゃなくてビルマ、中東っていう熱帯の気候を特化して書いてるだけでしょ。
熱さが苦手な蒙古もビルマ、中東を征服し、かつ支配してるのにベトナム(今の)北部の陳朝に関しては尽く失敗した。
これは他に何らかの理由があるんじゃないの。
131世界@名無史さん:02/02/24 06:50
もともとチャンパを征伐するためにベトナムに援助および入国を依頼したのに、チャンパは内乱などの影響で北部のベトナムよりはやくモンゴルに降参。
と歴史の授業で習いましたが。
132アジアの力:02/02/24 21:22
「サイゴンに着くと、別の驚きが私たちを待っていた。陸上で、丁重な敬礼をもって私たちを迎えたのは、
武装した日本兵だったのである。日本の将校たちは、サイゴンの街を、サムライのサーベルを引きずって
歩き回っていた。日本の小さな哨区が、相変わらず住民の居住地域に一定の間隔で配置されていた。私たち
に話してくれた数人の白人は、日本軍のおかげで安全な生活ができるのだと断言していた。…実際、ミカド
の勇敢なる軍隊のおかげでサイゴンには秩序が支配していた。この時以後、私たちの計欲は一切反古になっ
ていたのである。…私たちは日本軍を武装解除することを差し控えた。彼らは私たちの連合軍だったのであ
る。もちろん彼らのある者は密林に逃れてしまった。だがこれが主たる敵なのではない。敵とは要するにベ
トナムの住民ほとんどすべてだったのである。…」
ジャン・ポール・サルトル「反戦の原理 戦争とアンリ・マルタン事件」(弘文堂 昭和41年刊)より
第三章 事件の発端と経過 5 インドシナのフランス兵p111〜p112」
平和の使者、大日本帝国将兵万歳!!
133世界@名無史さん:02/02/24 23:04
今の論点はちゃいまんがな。
モンゴルとベトナムの関係を他国を例に相対的に捉えたいとしとるんやろが。
抵抗精神、反骨精神、愛国精神はいずこからきたか。
これが大事な関心事項。 
134 :02/02/24 23:36
> 抵抗精神、反骨精神、愛国精神はいずこからきたか。
> これが大事な関心事項。
最初からそう書けばいいのに…
135世界@名無史さん:02/03/08 12:01
サイゴン
136世界@名無史さん
age
小さい国の歴史は関心をもつ人が少ないのでなかよくやりましょう。