1 :
世界@名無史さん:
中国きっての英雄、朱元璋について語りましょう。
sinnzoku kolosisugi
中国史上最高の出世ってこいつ?
5 :
世界@名無史さん:02/01/08 22:33
両親と兄が餓死してしまったという、凄まじい経験をして育ったんだよ。
並みの神経ではないのさ。
>3
kolositanoha kousinnjyanaika?
7 :
世界@名無史さん:02/01/08 22:39
口減らしに寺の小僧にされたのだが、
寺でも食料が足らず、
寺を出て、托鉢の乞食僧になったことがある。
乞食僧時代に広い地域を旅して見聞を広めたらしい。
何処へ行っても餓死者だらけだったと思われるが、
残虐な出来事を残虐だと感じなくなってしまった可能性があるかもしれない。
8 :
世界@名無史さん:02/01/08 22:44
評価の難しい人物だ。
「一人で聖賢と豪傑と盗賊の性格を兼ね備えていた。」
「織田信長と豊臣秀吉と徳川家康を一緒にした巨人」
「魔性の人であり、矛盾の人」
いろいろと言われてる。
9 :
世界@名無史さん:02/01/08 22:53
金銭を第一とする道徳性が欠如した中国社会を支配し、
秩序を保つには「暴力的権力」が必要なんだよ。
少しでも「人に優しい政治」を始めたら、
あっという間に中国は分裂し、無秩序となる。
果たしてどちらが悲惨だろうか?
その答えを中国人自身が本能的に悟っているので、
強権的暴力支配を長い期間、続けられるわけだ。
10 :
世界@名無史さん:02/01/08 22:57
今でも毎年千人単位で犯罪者を処刑しているけれど、
汚職や凶悪犯罪が絶えない。
11 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:02
数年前のことだが、経済特区に入ろうとする大群衆を警備員が棒で殴りながら整理していた。
確かにあれは暴力的だ。
そうしないと大群衆が押し寄せて、何もかも台無しになるんだろうね。
12 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:08
朱元璋が陳友諒が率いる60万人数百隻の軍船の大軍との死闘を行った「ハ陽湖の戦い」。火攻め作戦で勝ちを収めた。
後に三国志演技の赤壁の戦いの描写のモデルとなったと言われる。
軍事的天才という側面があることは確か。
13 :
世界@名無史さん :02/01/08 23:12
強権支配は知らんが、朱元璋は「建国の功臣」を大量に殺しているという点で有名。
14 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:14
勤勉な男だよね。
来る日も来る日も朝早くから夜遅くまで仕事。
多くの法律を制定したり、軍事組織や地方行政組織を整備したり、目の回るような忙しさ。
生活は質素で華美な生活を嫌い、ひたすら仕事に打ちこ込むタイプ。
自分の手足となる官僚に対しても多くの仕事量をこなすように要求。
しかも滅私の志で働くべきであり、少ない俸給で我慢させる。
こういう人物とは絶対にお近づきになりたくないタイプだな。
15 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:15
怠け者は独裁者になれない。
16 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:21
「建国の功臣」を一族郎党皆殺しにする際に、
膨大なでっち上げの罪状一覧を作成している。
妙に律儀で怖い。
17 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:23
感情に任せて殺害というより、
何年もの計画と準備の末に大虐殺決行というわけだ。
18 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:32
何もないところから明代約300年弱の基礎を作ったのだから、
それなりの有能さを持っていた。
明の基本的な体制は清にも引き継がれているから、
500年体制の創始者、立案者でもあったわけ。
いろいろ言われているが凄いと思わないか?
19 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:37
元号を皇帝一代で使い、崩御後の呼び名にする仕組みを考えた人。
日本は明治以降にこの仕組みを取り入れた。
20 :
世界@名無史さん :02/01/08 23:39
>>明代約300年弱の基礎を作ったのだから、それなりの有能さを持っていた
それなりどころの有能さじゃないとは思うが・・・
胡惟庸の獄・藍玉の獄以下五回の疑獄で粛清された人数は一万人
全て、彼の手足となって明建国に尽くした者達なわけで・・
まさに「明祖は、一人で聖賢と豪傑と盗賊を兼ねたり」ということか・・・
21 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:45
朱元璋ではなくて、張士誠が天下を取っていたら、
海禁をせず、倭寇もなく、貿易と商業と海外進出の盛んな
中国になったと思う。
返す返すも残念。
22 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:48
スターリンや毛沢東に比べたら規模は小さいぞ。粛清
23 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:53
朱元璋が殺したのは合計すると10万人程度はいるんじゃない?
それでも20世紀の大粛清に比べたら、少ない数だわな。
24 :
世界@名無史さん:02/01/08 23:57
中国の海禁と江戸幕府の鎖国と関係があるの?
25 :
世界@名無史さん:02/01/09 00:00
陳友諒が天下を取っていたら、朱元璋以上の大虐殺が始まるような気がする。
26 :
世界@名無史さん:02/01/09 00:00
>>21 うむ?海禁は永楽帝の死後ではなかった?
つーか、永楽帝のころには世界最大の艦隊を持っておったような・・・
27 :
世界@名無史さん:02/01/09 00:05
白蓮教徒の乱で身を起こしながら、
勢力が拡大すると、一転して
白蓮教を邪教カルトとして弾圧した。
食えないやつだ。
28 :
世界@名無史さん:02/01/09 00:14
海禁は元末にも既に一時的に行われていた。
洪武帝のときに本格的に施行されている。
1371年の布告で国内の人民に海外渡航を禁じると共に、
外国人との私的な交流を禁止している。
胡惟庸の獄以降、いっそう海禁が強化された。
永楽帝も海禁は引き継いでいる。
但し、朝貢貿易という形式での貿易は積極的だった。
鄭和の大艦隊はその現れ。
29 :
世界@名無史さん:02/01/09 00:32
ホクロだらけだったの?
30 :
世界@名無史さん:02/01/09 12:10
アバタだと思う。
あごが長いし。
ブ男だ。
敵に捕まった時に、あんまり不細工だったので「こんな凄い不細工殺すの勿体無い」
って命助けられたんでしょ?
32 :
世界@名無史さん:02/01/09 13:10
モンゴル史の権威である
杉山正明氏に言わせれば
彼が天下をとったのは
まったくの幸運の産物なんだけどね。
33 :
世界@名無史さん:02/01/09 16:19
顔相で只者ではないと思われていた。
34 :
世界@名無史さん:02/01/09 16:23
モンゴルへの思い入れが強い杉山先生の言うことは割り引いて聞かなくては。
35 :
世界@名無史さん:02/01/09 16:28
元王朝が勝手に自壊していった幸運があっただろうが、
紅巾軍の数ある軍団の中から突出して勢力拡大できたのは、
彼の才能によるものだよ。
36 :
世界@名無史さん:02/01/10 09:44
軍の規律が厳格で、むやみに人を殺さないことで民衆の支持を集めたらしい。<紅巾軍時代
信義を守る姿勢も高く、「聖賢」の面があった。
だが、・・・・。
37 :
世界@名無史さん:02/01/10 09:53
38 :
世界@名無史さん:02/01/10 10:45
>32
>モンゴル史の権威である
>杉山正明氏に言わせれば
権威というか、単なる熱狂的蒙古ファンだろあの人
39 :
世界@名無史さん:02/01/10 10:51
海禁と日本の鎖国との関連性について
>>24 幕府首脳部の頭の中に明清、朝鮮の海禁政策が概念としてあったと思う。
裏付ける文献はないかもしれないけれど。
40 :
世界@名無史さん:02/01/10 11:06
無政府状態で荒廃した国土を再建し、
耕地面積を大幅に増やし(確か5倍に増えた)、
里甲制で地域社会の秩序を回復し、
六諭を暗唱させて儒教的道徳を教化して公衆道徳の改善を図り、
衛所制で軍事組織を改革し、
魚鱗図冊を作成して財政を健全化して、
宰相を廃止して行政組織を効率化し、
諜報機関を作って情報能力を高め、
功臣粛清で高禄を食むだけの特権階級を根絶やしにして、
なんてすばらしい政治家ではないか!!!
41 :
世界@名無史さん:02/01/10 13:56
不思議に思うのだが、
清の歴代皇帝に英明で優秀なのが続くのに、
何で明の歴代皇帝は残虐、狂人、奇人ばかりなのか?
そもそも明史というのは真実の歴史なのだろうか?
まぁ、明代以降は文献が豊富だから、
全部捏造とも思えないが、
清代が聖人君主の時代で、
明代を残虐または暗愚の帝王の時代に
仕立ててようとする清の作為の可能性はないのだろうか?
42 :
世界@名無史さん:02/01/10 14:00
暗愚な皇帝が続き、
しかも長期在位する割には、
明は長続きするのが不思議。
43 :
世界@名無史さん:02/01/10 14:17
朱元璋は宦官が大嫌いであった。
建文帝は父の教えを守り、宦官を政治から遠ざけた。
(いっそ廃止すればいいのにとも思うが)
建文帝を逆恨みした宦官どもは永楽帝による皇位簒奪に協力する。
永楽帝は宦官を重用した。
以後、宦官の力は絶大なものとなる。
建文帝が残っていたら、どうなっていたでしょうね?
44 :
世界@名無史さん:02/01/10 14:17
>>41 あるだろ。
明治政権の江戸時代暗黒史観みたいなもん。
45 :
世界@名無史さん:02/01/10 14:33
「明代暗黒史観」を批判する歴史学者っているの?
46 :
世界@名無史さん:02/01/11 13:19
洪武帝は日本を嫌っていた。
なぜだろう?
47 :
世界@名無史さん:02/01/11 16:31
海禁の中でも特に対日本については厳禁しているね。
日本と共謀して謀反を企んだという罪で大量処刑が行われた後だと思う。
48 :
世界@名無史さん:02/01/11 16:48
>>47 でも、朱元璋の死後3年の1401年には朝貢貿易だけど日明貿易が始まって
いたりしますね。
49 :
世界@名無史さん:02/01/11 21:45
永楽帝の母親が誰か実は不明ってほんと?
馬皇后というのは史家の潤色だとか。
50 :
世界@名無史さん:02/01/11 22:39
何が何でも朝貢貿易で、私貿易を認めない理由がよくわからないなぁ。
51 :
世界@名無史さん:02/01/11 22:43
馬皇后というのは、中国史上まれに見る良妻賢母とされるが・・・。
洪武帝自身には何十人も奥さんがいたが、
正室の馬皇后の名前すらわかっていない。
>50
民間人が貿易で力を蓄えるのがイヤだったんじゃない
53 :
世界@名無史さん:02/01/11 22:52
儒教の商業蔑視思想の影響かもしれない。
54 :
世界@名無史さん:02/01/11 23:50
ふっくら系の画像はやっぱ美化してあるの?
55 :
世界@名無史さん:02/01/12 00:09
歴史はそんなもの
清は明を否定し
民国は清を否定し
中共は民国を否定した
日本でも
徳川は豊臣を否定し
明治は徳川を否定し
戦後は戦前を否定している
56 :
世界@名無史さん:02/01/12 17:25
>>54 伝わっているもう一つの肖像の方が本物に近いと言われている。
57 :
世界@名無史さん:02/01/12 17:26
>>55 じゃぁ、洪武帝の粛清は捏造、ないし誇張の可能性があるのかなぁ?
話半分でもあの大量粛清はすごいぞ。
59 :
世界@名無史さん:02/01/12 17:45
60 :
世界@名無史さん:02/01/12 17:52
中共王朝が崩壊して次の王朝が出来たらやっぱ文革とか大躍進とか
さらに誇張されるんだろうなあ・・・。ところで民国か中共って清の正史
編纂してるのかな?
>>57-59 しかしだ、正史は当時記録された文献などを参考に書かれるはずだ。
つまりだ、ソースが明らかにされなくては正史になり得ないのではないか?
62 :
世界@名無史さん:02/01/12 18:41
>>60 もう十分誇張されてるようにも思えるが・・・
清の正史は確か民国が編纂してた気がする。
50号沿いに「朱元璋」っつーラーメン屋がある・・・
足利辺りだったかな。
どんなラーメンが出てくることやら。
雑談なんでsage
人骨ラーメンだろ?
手伝わされた上に、殺されてダシを取られてしまうのぢゃ!
66 :
世界@名無史さん:02/01/13 15:34
「儒教原理主義」政権だったんだよね。
67 :
世界@名無史さん:02/01/13 15:40
ブレーンの劉基と宋濂の影響で儒教に目ざめたのだが、
目ざめすぎてしまい、劉基と宋濂の想像を越えて、
熱心になった。
ちなみに劉基と宋濂の双方とも、その死の真相が謎めいている。
68 :
世界@名無史さん:02/01/13 15:44
胡惟庸が劉基を毒殺したと言われるが、
胡惟庸を粛清するための口実とも考えられている。
69 :
世界@名無史さん:02/01/13 22:09
>>46 洪武帝時代に既に倭寇に手を焼いていたことが原因。
倭寇の取締りを厳しく日本に要求したらしいが、
洪武帝側が交渉した相手は征西将軍懐良親王だったため、
交渉がはかどらなかった。
建文帝になってから、足利義満が日本の代表として使者を派遣し、
ようやく朝貢貿易体制に日本が入ることになった。
外交交渉は責任ある実力者が相手でないとダメ。
70 :
世界@名無史さん:02/01/13 23:07
明が暗黒の時代であった事は
増加しなかった人口や、鉄鋼生産量etcの客観的な
指標から図り知ることができる。
なお、明の時代に、科挙による中央集権制は完成を迎えたが、
これにより、中間共同体が壊滅してしまった。
今でも中国では、村落などが共同体として機能しない。
明が暗愚な皇帝を次々出しながら続いて言ったのは
行き過ぎた中央集権により批判勢力が力をもてなかったため。
カウンターパワーが存在しないというは
これは政治システムとしては最悪の体制
清の時代が中国にとってすばらしい時代だったのは
当時始めて総人口が四億を越えた事実や
考証史学派に見られるような近代的な実証的学問の発達
科学技術の発達など客観的に見られる指標から図ることができる。
71 :
世界@名無史さん:02/01/13 23:19
明代に人口増加しなかったっけ?
そりゃ清代ほど急激ではないだろうけれど。
鉄鋼というのはおかしいな
中国は鋳鉄だからねえ。
×鉄鋼生産量
○鉄生産量
ちなみに中国は歴史的に鉄は政府の専売制なので
鉄の生産量は歴代の記録に残っており
国力を測るある程度客観的な指標として使える。
司馬遼太郎は、室町中期以降、日本の輸出品に刀剣が
高い割合を占めるのは、明の国力の衰退により
生産される製鉄が需要をまかなえなくなったからではと
推測している。
73 :
世界@名無史さん:02/01/13 23:23
>>71 唐代が第一次のピークで次が清
戦乱が終わったあとは、どの時代もしばらく増加するけど
中国の戦乱は、人口が数割減るようなすごいものだからこれは当たり前
74 :
世界@名無史さん:02/01/13 23:32
納税者人口としては
前漢(2年)が6千万
唐(754年)で五千万と少し
明(1578年)六千万
前漢から明まで増加してないじゃない。
75 :
世界@名無史さん:02/01/13 23:40
76 :
世界@名無史さん:02/01/13 23:43
生活水準が高いほうが、人口増加率が低い現象をお忘れなく。
貧乏人が多いと人口が増加するのだ。
77 :
世界@名無史さん:02/01/13 23:50
納税者人口が増えないのは納税や労役逃れが多いためだろうね。
78 :
世界@名無史さん:02/01/13 23:57
>>76 それは、現代の話で、しかもGNPが1万ドルを超える
国の話じゃん。歴史上その水準まで豊かになったのは現代
より前には無いよ。論外
79 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:06
戸籍に載る人口は戦乱が終わっても急には増えないらしいよ。
隋の人口より唐の太宗の時代は少なかった。玄宗のときようやくピーク。
明の直接支配領域は隋唐より広いはずだから、実人口はずっと多い気がするが。
80 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:13
もちろん現代と比較は出来ないが、
江戸時代に人口が増えなかったからといって、
「貧農史観」が正しいとは限らないと同じように、
「明代暗黒史観」をそのまま受け入れてよいのかどうか、
再考したいだけだよ。
81 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:21
少なくとも明代では耕地面積の増加がある。
清代では人口増加ほどには耕地面積は増えていないはずだ。
もちろん単位面積あたりの収量を増やす技術の違いがあろうが、
仮に人口が増加せずに、耕地面積が増加しているとしたら、
豊かになっているのではなかろうか?
82 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:30
>>75 某世界史教科書の中の小さな棒グラフ。
何処まで正確かは知らん。
83 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:31
江戸時代は、人口も耕地面積も、石高も
倍以上に増えているし、実際に停滞したのは享保以降だしね
そもそも、米の生産高を人口で割れば、貧農史観は覆せるわけで
貧農史観というのがそもそも政治的な意図で作られたデマゴーク。
例として出すには不適当だと思う
84 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:40
>83
江戸時代の米の生産高なんて分かるのか?
85 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:42
耕地面積といっても、検地を全土で実施したのは明初と張居正のときの2度だけ。
データ不足は否めない。
86 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:46
張居正が行った丈量(検地)でかなり財政再建に貢献したそうだから、
耕地面積が広がったことは事実だと思う。
87 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:53
明代をことさら暗黒時代に描くのも清の政治的な意図で作られたデマゴークではないのだろうか?
88 :
世界@名無史さん:02/01/14 00:55
さすがに明が地上の楽園であったとは思わないけれどね。
89 :
世界@名無史さん:02/01/14 01:11
何か最近の傾向で、此処が本来下の方に沈んで行ってる「明王朝を語るスレッド」
の様に成っているね。
此処のスレタイトルは「洪武帝朱元璋」と言う事なので、ちょっと軌道修正ネタを
ageて見る。
此処来ている皆は、朱元璋のブレーンだと誰が好きですか?
漏れは 劉其 と 徐達 かなぁ〜
90 :
世界@名無史さん:02/01/14 01:11
>>84 石高でわかるんでしょう。
近世の石高
文禄元年 1845万石
元禄年間 2577万石
天保3年 3040万石
明治4年 3162万石
面積は
慶長年間 164万町歩
享保年間 297万町歩
明治7年 305万町歩
だって。
ただ人口が倍以上増えているというのは初耳だな。
江戸時代を通じて3千万人をキープしているもんだと思っていた。
日本史ネタでゴメン。
91 :
世界@名無史さん:02/01/14 01:20
ブレーンの一人一人は皆、抜群の才能があるんだが。
朱元璋があまりに強烈過ぎて・・・・・・。
>90
石高から米の生産高なんて分かるわけがないと思うのだが。
日本史ネタなのでsage。
93 :
世界@名無史さん:02/01/14 04:24
さらにスレ主旨から外れるけど
>>92 んまぁ、石高は検地のときに作付面積とその土地の等級とをかけあわせた
ものだから、直接的な生産高はわからないけど、目安にはなるでしょ。
江戸期の農業は肥料の発達 (いわしを肥料にするようになった) による収量の
増加と、江戸期全般に渡る寒冷化のほうの影響のトレードオフを考えないと
いけないんだけど、石高が増えていることは確かなので、全体的な収量は増えて
いるんでしょう。
人口については元禄年間までは確実に増えていたはず。戦国期から元禄年間
にかけてで人口が倍増したのは確か。
94 :
世界@名無史さん:02/01/14 05:04
>93
いやそうじゃなくて、石高は土地の収益を「米の収穫量に換算」
したものだから、雑穀はもちろん評価対象となるし、商業的価値
が考慮されて決定されることもあって、米の生産高の具体的な
指標にはなりえない、ということ。
95 :
世界@名無史さん:02/01/14 09:00
>>91 大半が殺されているもんなぁ。
天寿を全うしたのは数えるほど。
功臣第一位の徐達は腫れ物をわずらった際、
洪武帝は腫れ物にとって最大の毒となる蒸した鳥を見舞いに送る。
徐達はその意を悟り、涙を流しながら見舞いの品を食べた。
96 :
世界@名無史さん:02/01/14 09:05
>>95 それって史実なの?三国志演義に出てくる曹操から空箱を送られた荀イク
のエピソードとそっくり。ソースを教えてほしいです。
97 :
世界@名無史さん:02/01/14 09:08
宮廷に出仕する官吏は、毎朝、これが今生の別れになるかもしれないと妻と水杯を酌み交わした。
無事に務めが終わると、今日は殺されずに済んだと喜びながら家路についたとか・・。
98 :
世界@名無史さん:02/01/14 09:22
劉基は職を辞して故郷に戻り、隠遁生活。
あるとき知県(県知事)が身分を隠して劉基のもとへやってきた。
劉基は県知事とは知らずに招きいれ食事する。
食事中、ふと県知事は自分の身分をもらしてしまう。
すると劉基は顔色を変えて立ち上がり、自分は平民の一人に過ぎぬ。
知県様にお会いする筋合いではないとその場を去った。
そのぐらい注意して、隠遁していないと危ないことを知っていたためだという。
どれも何処まで史実かは知らないよ。
99 :
世界@名無史さん:02/01/14 09:30
>>49 明史によれば、馬皇后との間には5人の男子を産んでいます。
その一人が後の永楽帝。
一方、馬皇后は子供を生まなかったという話もあります。
真相は不明。
100 :
世界@名無史さん:02/01/14 09:33
95氏の徐達のエピソードは『セン(前の下に羽)勝異聞』という野史
がソースではなかろうか。正史の『明史』によれば徐達は病死したと
あるようだ。朱元璋の功臣に対する粛清が多かったのは史実だが徐達
に関してはあくまで噂話程度ということで。
参考資料
高嶋俊男『中国の大盗賊 天下を狙った男たち』(1989年,講談社現代新書)
101 :
世界@名無史さん:02/01/14 09:40
徐達が洪武帝から賜った屋敷は現在、太平天国歴史博物館になっているそうです。
>>96 かなり昔読んだ本を記憶に頼って書いている。
どの本だったか、今やっと見つけることが出来た。
壇上 寛『明の太宗 朱元璋」白帝社
エピソードの原典は知らない。
103 :
世界@名無史さん:02/01/14 10:05
病死しない人はみんな処刑されちゃったのか?
104 :
世界@名無史さん:02/01/14 10:20
朱元璋の身内と皇帝に即位した後の臣、およびイエスマンは
粛清にあわなかったと思う。全部粛清してしまうと政権運営
がままならないわけだから。
105 :
世界@名無史さん:02/01/14 10:31
オウム真理教事件報道の記事の中で麻原らが中国旅行した話があって、
麻原は「朱元璋パワー」を得る目的があったとかいう話だったのを思い出した。
106 :
世界@名無史さん:02/01/14 10:44
>>105 「毛沢東パワー」だったら麻原に日本は征服されていただろうに・・・。
107 :
世界@名無史さん:02/01/15 01:44
2年くらい前にNHKの番組でやってたんだが、
明時代中期頃に新大陸(アメリカ)からとうもろこしがもたらされたことが
農業生産力の増加につながったそうだよ。
108 :
世界@名無史さん:02/01/15 14:00
清が経済的に繁栄した理由はメキシコ産の銀が清に流入したためという話を読んだことがあります。
それで銀本位制になることができたとかいうような話だったと思います。
109 :
世界@名無史さん:02/01/19 20:04
朱元璋ってティムール朝からはブタ王と呼ばれていたんだってサ。
110 :
中華@名無史さん:02/01/28 15:45
徐達は後漢のケ禹みたいで好き。
111 :
中華@名無史さん:02/01/28 15:53
幼馴染みだった徐達と朱重八。子供の頃童牧をしていた頃、
友人の徐達たちが腹が減ったと訴えたので、世話していた牛を
殺して振舞ったんだんだって、それが主人に発覚したけど、
その罪を全て一人で被って、幼い徐達は感動したらしい。
この人物、確かに皇帝に成ってからの残忍さはきついけど、
それでも粛清前の朱元璋は魅力的だと思うのだけれど・・・
確か清の皇帝の誰かも、中国一の名君に上げてたな・・・
112 :
世界@名無史さん:02/01/28 16:17
人間的魅力がなければ、あそこまで成り上がることは不可能だもんねぇ。
秀吉だって人たらしといわれるほどに、人間的魅力があったわけだし。
113 :
世界@名無史さん:02/01/31 18:09
朱元璋の資料としても信頼できてなおかつ読み物としても面白い小説ってなに?
114 :
世界@名無史さん:02/02/03 16:19
>>111 順治帝曰く「歴代の賢君の中で洪武帝に及ぶものなし」
康熙帝の書の中に「治 唐宋より隆し」つまり朱元璋は唐宋時代よりも繁栄をもたらしたと評価した。
115 :
世界@名無史さん:02/02/03 16:36
朱元璋が乞食坊主として流浪していたときの心情を後に記したもの
↓名文だと思う。
「そのとき、何の取り柄もない私は何をして良いのかわからず、
天を仰いで茫然とするしかなかった。
頼るべきものは己に寄り添う影だけ。
朝げの煙を見れば急いで駆けつけて施しをもらい、
暮れには古寺に投宿して疲れた身を横たえる。
そそりた立つ崖や覆い茂る緑を見上げて、
壁を背にして眠れば、
夜猿の声が耳に入り月光も凄涼としている。
魂は悠々と漂って父母を捜せど今はもうこの世に無い。
志は落魄して焦りのみ増し、
淋しげな鶴の声が西風にのって聞こえると、
無念の涙は飛霜となって下る。
風に吹かれる蓬の如き当てどもない我が身であったが、
たぎる思いだけはふつふつと沸きた立っていた。」
>112
なんとなく想像してるんだけど、黒田の官ちゃんや竹中の半ちゃんが
秀吉に、”大陸の今の王朝の始祖は・・・”ってなんか耳打してそうだよな。
乞食坊主から始まり、糟糠の妻がいて・・・
世おのづから数といふもの有りや。
118 :
中華@名無史さん:02/02/11 21:50
>>114 順治帝だったんですね?レス有難うです。
と言うか亀レススマソ!
ところで、此処は”朱元璋”以外でも、その周辺、また彼と天下を争った
群雄等に付いても語って良いのかな?
この時代も意外と群雄割拠な感じで萌えると思うんですけどねぇ〜・・・
119 :
世界@名無史さん:02/02/11 23:40
>118
陳友諒と陳友定って、名前似てるけど、親戚なん?
120 :
世界@名無史さん:02/02/12 00:11
正直インパクおやじ(境屋)の本読んで朱元璋の事知ったんだが、みんな何で知った?
なんか鬱だ...
121 :
世界@名無史さん:02/02/12 00:32
>>5 食い詰めて寺に入ったおかげで、学が付いた。
もし、家族が死滅しなければ、一生文盲のままだったんじゃないか?
122 :
世界@名無史さん:02/02/12 15:02
清代の人口増加の原因は、南米からトウモロコシが入ったことと、
地丁銀の導入で人頭税逃れのための戸籍からの脱漏がなくなったこと。
123 :
中華@名無史さん:02/02/12 20:17
>>119 陳友諒は湖北の人。で漁師の家に生まれています。
陳友定は福建の人。で雇農でした。
自分の知るソースでは”親戚では無い。”と言うハッキリした
記述が有るものでは無いので断言はしませんが、
出身・生業・反乱軍での所属・活動拠点等も全て違うので、
おそらく赤の他人だと思います。
それにしても、本当名前似過ぎですね?(w
オレ煽りのつもりでカキコしたんじゃないんだけどな...
それとも「堺屋」はこのスレではタブーなの?
125 :
世界@名無史さん:02/02/15 03:01
>>124 講談社文庫の?
元長官は序文書いてただけで、中身は中国の人の書いたものだったよ。
さすが、堺商人の血筋。ええ商売しとるヨ。
126 :
世界@名無史さん:02/02/15 03:27
>>125 そうそう!
んで、あなたが興味を持ったきっかけは?
127 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:13
>>120さん
漏れも初めは文全体の雰囲気からしてネタだと思って居ました(w
でも・・・
>みんな何で知った?
って部分はマジレスキボーンだったんですね?
と言う事で、皆さん書かれて居ない様なので、レスさせて頂きます。
と言っても、漏れ何かもっと鬱かも知れません(汗
だって、小学館の「漫画中国歴史人物大百科」ですから(爆
まぁ、知ったのはそれで、興味を持ったのは(と言うか萌えた)また後日の書に成りますが・・・
128 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:26
>>127から続いているかも?
と言う事で、それから萌えた理由と言うのが、
以前まではこの人物、農民反乱が有って、その反乱軍の中で頭角を表し
(要は勢いだけで)皇帝に成った人物。
と言う印象が有ったのですが、調べて見ると実際には”反乱軍”
と一言で言っても、皆独立勢力で、全然一本化していなくて、
そこに元軍の将軍達も絡んで来て正に”群雄割拠”と言う様相で、
その状況を配下の人材(これも魅力的な人材が多い)を駆使して、
天下を統一した。
と言う状況を知って、非常に関心を持った次第です。
129 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:31
で、
>>118の後半で書いた内容に、誰も反応無い様なので、
(
>>119さんは、関連した話題をふってくれたと思いますが)
自分成りに”反対する人が居ない。”と解釈させて頂いて、
そんな彼自身のみでは無く、彼の周辺・またその時代全体を
語れる様なスレにした方が、もっと盛り上がるのではないかな?
と思ったので、今後皆さんに話が膨らませられる様な、”朱元璋”の時代
それをを共に生きた人物等を、それぞれの立場に纏めた物を
僭越ながら次レスよりあげて置きたいと思います。
130 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:33
☆元軍☆
順帝@
元朝最後の皇帝。明軍の北伐に敗れ、大都を放棄して
北のモンゴル平原へ去った。北元朝初代でも有る。
トクト@
元の丞相。江東の群雄”張士誠”を撃破し、その勢いに乗って
朱元璋とも戦火を交えている。
チャガン・ティムール@
ウイグル出身の元軍将軍。紅巾軍鎮圧に功有り。山東・河南を回復
実質独立勢力の様な形に成る。が、以後降将に殺される。
131 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:34
ココ・ティムール@
ウイグル人。チャガン・ティムールの外甥で養子。チャガン死後
その軍を継承。丞相と成るが政争に嫌気がさし河南王として
以後反乱鎮圧に専念、元滅亡後に明の徐達軍をがカラコルムに
侵攻した際に破って、北元滅亡の危機を救った。
蛮子海牙(バンジカイガ)@
采石に駐屯した元の武将。
陳埜先の子、陳兆先と呼応して、朱元璋の居る太平府を狙うも、
翌年には敗れた。
チョリブカ@
元軍の将軍。朱元璋の義父、郭子興を恐れ、近隣の一般人
を捕らえ、その首を郭子興軍の物と偽り大都に送っていた。
132 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:35
☆紅巾軍☆
韓山童@
「宋の徽宗八世の子孫」と名乗り、紅巾軍首領として立つが、
事前に元側に知れてしまい殺される。
劉福通@
紅巾軍の実質的初期の指導者。チャガン・ティムールに敗れ、
益都に逃れるがココ・ティムールに包囲される。更に張士誠軍
の呂珍に安豊を囲まれ敗死した。
韓林児@
韓山童の子。”劉福通”に迎えられ、紅巾軍の象徴的指導者
に据えられる。が、実際には実権は劉福通に握られた。
劉福通死後は、配下の呉王”朱元璋”を頼るが、
道中の長江の船が沈没し、溺死。
杜遵道@
劉福通と共に紅巾軍を興す。初めは韓林児の信任厚く
軍内で権勢を誇ったが、同僚の劉福通の手に因って殺された。
133 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:35
郭子興@
紅巾軍の幹部。五元師の一人。定遠県で占いをして巨富を蓄える。
紅巾の乱が勃発すると、杜遵道の指示により私財を投じて
数千の私兵を従え軍に参加。朱元璋を登用する等する。
他の五元師4人とはそりが合わず。性格的にも猜疑心が強く
危機に瀕したり朱元璋の独立も許す。
徐寿輝@
韓山童派とは別の”西派紅巾軍”の象徴的指導者。
彭瑩玉に首領へと推され、「弥勒様の生まれ変わり」と称し、決起した。
天完国皇帝になるが、実権はなく、彭瑩玉の傀儡。彭瑩玉死後は、
倪文俊、次いで陳友諒の傀儡となり殺された。
134 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:36
☆この時代の朱元璋と天下を争った群雄☆
陳友諒@
湖北周辺の群雄、大漢皇帝を称した。
猟師の子に生まれたが、若い頃は地元の小役人だった。
天完紅巾軍(徐寿輝派)が、勢力を広げるとこれに参加。戦功を立て領兵元帥となる。
その後、実質自立状態と成り、安慶、池州、南昌を攻略、江州を都に定め、漢王を称した。
徐寿輝を迎え。徐寿輝を殺し、彭瑩玉→倪文俊と受け継がれた勢力を乗っ取り、
領土・兵数共に当代群雄最強と成り、国号を大漢とした。
その勢いで一気に朱元璋を叩くべく長江を下り応天府へ進軍しが、「江東橋の計」
により大敗をきっし、逆に朱元璋の侵攻をうけ、江州から武昌へ撤退。
更に多くの領土を失った。
これで二人の力関係は逆転していが、朱元璋が、小明王救済の軍を出した隙を狙い
60万の水軍で洪都を攻め、これを切っ掛けに、ハン陽湖へ引き両軍が激突。
有名な「湖口の戦い」である。
この戦いで朱軍の火攻め敗れ、流れ矢にあたり戦死した。
135 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:36
張士誠@
淮南泰州白駒場生まれ
江南で誠王を名乗り国号を「大周」とした。
張士誠一家は私塩(闇塩)を売り、生計を立てていた。
その地元私塩グループの頭目に推されたのが、
義侠心熱く、腕力が強く、武芸を好み、気前よく貧しい人々を救う等
人望が有った張士誠だった。
闇塩は政府の収入源だったので、取締りの対象とされ、その反発から
各地の反乱軍に呼応する形でその財力を使って蜂起。
元軍に追討されたりもするが、運等も有り助かり、その後は各地を占領して
江南に覇を唱え、その闇塩で蓄えた財力等も有り、当時の群雄の中でも有数の
勢力と成った。
奸謀・間諜を得意とし、文人と交わったちもしていたが、余り勢力拡大の野心は少なく、
主に守勢に専念していたのが、後に朱元璋に敗れた原因と目された。
136 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:56
明玉珍@
湖北随州に生ま。代々農業を営む中小地主。
重慶にて国号を夏とし皇帝に即位した。
若い時から人望が有り、徐寿輝が蜂起すると、郷里防衛の為、
豪傑を集めて屯長に推された。
その後徐寿輝に降ったが、戦功を重ね統兵征虜大将軍となる。
四川攻略を命じられ占領、拠点を築いた。
徐寿輝が陳友諒に殺されたと知り、陳友諒と断交し、自ら隴蜀王を称した。
紅巾軍系独立勢力の中では善政を行い、名君だったが、在位5年僅か36才という若さで
この世を去った。
子の明昇(僅か10歳)の代に明軍に攻められた。
方国珍@
浙東の豪族。塩の海上輸送を生業としていた。
海賊の仲間と密告を受け元朝に追われたので海上にて蜂起した。
ボロト・ティムールを敗るが、元朝の招撫策にのり官位をうける。
それ以降は元朝に船による糧食を運んで、勢強な朱元璋には服従していたが、
杭州を落とした頃になると、ココ・ティムールと結び朱元璋と対立。
朱元璋軍の湯和・廖永忠に敗れ投降した。
137 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:57
陳友定@
福建福清の人。雇農であったが、富農の女婿となった。
紅巾軍が福建へ侵攻して来ると民兵となり対抗、多くの城を落とし、福建行省平章に昇進。福建八城の守将となる。
朱元璋領の処州に侵攻するが、胡深に敗れ、更に反撃をうけた。
陳埜先@
義兵の大将。大地主。紅巾軍と激戦を続ける。
元軍と連動し太平を取った朱元璋を挟撃するが、共に敗れ、
朱元璋に説得され投降、兄弟の契りを交わした。
軍は朱元璋軍に吸収されたが、しかし陳埜先は紅巾軍を恨んでいたので、
当時、朱元璋と共に元帥の地位にいた郭天叙、張天祐と再び集慶を攻めた時、集慶守将・福寿と密約を結び、
郭天叙、張天祐両元帥を捕らえ引き渡した。二人は即刻殺され、陳埜先は紅巾軍を攻め、敗りに敗った。
が、その後の手違いにより元軍の伏兵により、捕殺されてしまった。
軍は、息子の陳兆先が引き継いだ。翌年その軍は朱元璋の軍門を降ることになる。
138 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:57
毛貴@
山東地方の統治者。政治能力・戦略に長ける。
元朝の官吏に各路を守備させた。
しかし元朝官吏登用反対派の趙均用に殺された。
その後この勢力は毛貴の部下。趙継祖が趙均用を殺し。
朱元璋軍に参加する。
趙均用@
彭瑩玉の弟子。秘密結社の首領。
芝麻李、彭大と共に挙兵し、徐州を攻略。その後
徐州が落とされると、五元帥と合流し支配下に置いた。
彭大と対立し、それについた郭子興を殺そうと画策する。
その後毛貴の傘下に入る。
李思斉@
関中地方に割拠するが、河南王と成った元のココ・ティムールの侵攻を受ける。
劉益@
遼陽の群雄。
139 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:58
☆明王朝の元勲☆
徐達@
朱元璋の幼馴染みで共に牧童の仲間の一人。
朱元璋が郭子興軍の隊長として地元で兵を募集するとそれに参加した。
朱元璋麾下の将として、数々の戦功を上げる。征虜大将軍と成り北伐軍の主将として中原を平定、
翌年大都を落とした。
明建国の功臣として右丞相、魏国公となる。その後、北伐軍を率いてカラコルムを攻めるが、
ココ・ティムールには敗れた。
その後体を患い自宅で療養して時に、朱元璋から贈られた鳥を食べ、その直後急死した。
湯和@
朱元璋の幼馴染みで共に牧童の仲間の一人。
十数名の地元の若者を引き連れて紅巾軍に参加、功を挙げる。
その後、僧侶をしていた朱元璋を紅巾軍に誘った。
年上ではあったが朱元璋を尊敬し、細心かつ慎重に従った。
方国珍・陳友定を破り、広東も降す。征西将軍として明玉珍の夏国重慶を攻め落とす。
功臣が殺されていく中、兵権を返上し地元に帰り天寿をまっとうした。
自由奔放に知謀をめぐらす知将。
140 :
中華@名無史さん:02/02/17 01:59
劉基@
浙江人、青田の豪族。字は伯温。若い頃元朝の官吏となる。
元朝の至順年間の科挙に合格した天才。天文学者でも有る。
民兵を組織し方国珍を討とうとするも受け入れられず以後隠棲した。
紅巾軍に対し嫌悪の念を抱いていたが、朱元璋の度重なる招請に渋々応じ応天府へ行く。
朱元璋の幕僚となり、以降は我子房と呼び重用される。
軍師としても活躍し、陳友諒との「湖口の戦い」での火攻めも
彼の献策。ちなみにこの戦いは以後、三国志演義での赤壁の戦いの
描写・また羽団扇を持つ諸葛孔明のモデルに成ったと言われる。
科挙、徴兵制などの制度を整えたりと丞相になるチャンスがあったが、
淮人派と対立し隠居させられ胡惟庸に毒殺された。
李善長@
地主。1353年朱元璋に接見、意気投合し掌書記となる。
当時下層身分の多かった軍で、富裕階級の彼が参画した事に拠り、軍の格式が高まった。
朱元璋に「漢の高祖に倣いなさい」と助言した事でも有名。
朱元璋が呉王になると右相国となる。明建国後中書右丞相、韓国公。
明建国の功臣、しかし内政を牛耳り、地元贔屓で淮人を高官につけ他を冷遇した。
「胡惟庸の獄」に弟が関与していた為、自殺を命じられ一族皆殺しとなった。
読書を好み、知謀が高く謀に長け、法家の学問を修めた。
141 :
中華@名無史さん:02/02/17 02:00
常遇春@
朱元璋軍一の豪傑。
盗賊をしていたが朱元璋軍へ帰順、先鋒として活躍する。
征虜副将軍として中原を攻め、北伐に参加、上都を攻め落とすが陣没した。(1330〜1369)
百万の敵に対しても勇敢に突き進む勇将、無双の勇士。
胡惟庸@
李善長の親族。有名な「胡惟庸の獄」を引き起こさせた張本人。
明朝建国後丞相と成り、中書省の権限を一手に握って政務を独裁した。
朱元璋と対立。謀反の疑いにより「胡惟庸の獄」が発生。
その一味と多くの功臣が処刑され。これを機に中書省が廃止された。
非淮人を敵として、劉基を毒殺する等したので、政治能力は優れていたらしいが、
自身の死に関しては仕方が無い部分も否めない。
馮国用・馮国勝兄弟@
定遠人、中小地主。紅巾軍に対し、地主郷民をまとめ自衛団を組織し防衛した。
その後朱元璋軍に投降し、朱元璋とは気が合い、参謀となる。
太平攻略後、金陵(南京・応天府)を本拠にするよう進言した。思慮深い知謀の士。
弟の国勝も、兄と共に自衛団を率いて朱元璋軍に降る。
年北伐軍に参将として参加。明建国後、宋国公に封じられる。
東北ナガチュを討伐。勇猛、知略に富む。馮勝と改名した。
142 :
中華@名無史さん:02/02/17 02:01
ケ愈@
虹県人。16歳より紅巾軍に参加していたが、その後兵を引き連れ朱元璋軍に帰順、
戦では常に戦陣に立った。征戌将軍として北伐に参加、南陽以北を攻略した。
明建国後、衛国公に任じられ、その後、吐蕃を攻める。
謝再興@
朱文正の舅。張士誠軍との抗争では、三次にわたり戦い城を守りきる。
しかしその後、突如張士誠軍に降る。理由は朱元璋に部下を殺された事、副将に降格された事、
次女を勝手に徐達の後妻にされた事等が上げられる。弟たちは処刑された。
この事件等が朱元璋が残虐に成ったきっかけとされる。
宋濂@
金華の学者。朱元璋の招請により劉基と同時期に応天府へ招かれた。五経師となる。
北伐の時には檄文を書いた。皇太子の教育係。
「胡惟庸の獄」に孫が関与していたとして処刑寸前まで成るが、馬皇后の計らいに因り
流罪に減刑されたが、その道中で死んだ。
143 :
中華@名無史さん:02/02/17 02:07
>>130-142 長々と書いてしまいましたが、一応盛れが思いつくこの時代の主な人物を
出来る限りageて見ました。
その他にも”こいつは外せない!”と言う人物等有ったら教えて下さい。
144 :
世界@名無史さん:02/02/17 15:55
145 :
世界@名無史さん:02/02/17 16:04
私は知らないが、広州の何真。
とある本の元末群雄の一覧にのっていた中で130-142に載ってない人物。
すごい!ゲーム作れそうだねw
147 :
世界@名無史さん:02/02/18 21:54
>130-142
お疲れ様。凄い時代っすね。
力量ある作家さんに小説化して欲しい。
148 :
世界@名無史さん:02/02/19 22:40
小説はないの?
149 :
世界@名無史さん:02/02/19 22:43
>>148 誰かが朱龍賦ってタイトルで書いとったぞ
150 :
世界@名無史さん:02/02/19 22:46
151 :
中華@名無史さん:02/02/20 03:12
>>144 >>146 >>147 有難う御座います。
漏れの説明で喜んでくれて、この時代に今まで以上に萌えてくれれば
書いた甲斐が有ったと言うものです(w
萌えて頂けましたか?
>>145 情報さんくす!
此処で幾つか更に面白いエピソードや人物を某所でハケーンしたので、
ageて置きます。
152 :
中華@名無史さん:02/02/20 03:13
元軍のココティムールの武勇に対し、敵で有る朱元璋が、
配下一の豪傑”常偶春”を差し置いて「あの者こそ天下一の勇者」と誉めた。
と言う逸話が有ったらしいです。
彼は、同じく軍内トップクラスの将”徐達”を破った位の名将ですし。
それと、こちらも先に挙げたトクト(脱脱・こう書くらしい)は
正史で有る『遼史』『金史』『宋史』の編纂事業を取仕切った程の元末の名宰相と言う事で、
のち、反乱軍討伐の司令官として紅巾軍を次々と平定するも、張士誠を討伐中に、
内訌著しい元朝内部で讒言に遭って流刑に成り、毒を仰いで自殺しました。
と、正史編纂、と言う大事業をした。と言う事実を知ると、
さらに”名将”で且つ”名宰相”と言う事で、凄みが増しますね?
そして、こうして見ると、意外にもこの当時でも、元軍内にはまだまだ有能な人材が多く居た。
と言うのに、こうした国家危機的状況に有るにも関わらず、宮廷内での権力争いに終始していた。
と言うのは惜しまれますね?
まぁ、そう言う”闘争好き”なのは、やはり遊牧民族の血なのですかねぇ〜?
と思っちゃったりもします。
153 :
中華@名無史さん:02/02/20 03:16
そして、こちらは先だって紹介に漏れた人物で、これは!!?
と思った人物が居たのでageて置きます。
沐英@
朱元璋軍に参加後、養子成る。その後に従い吐蕃を攻め功を挙げ、
その後雲南を攻め梁王を破る。翌年大理を落とし雲南鎮守に任じられる。
粛清の多かった朱元璋配下の中でも、沐英を初代とする沐家は、
明朝300年間に渡り、その地位を世襲した。
それにしても先日の連続カキコ、改めて読み返すと誤字の多い事多い事(滝汗
思わず鬱に成りそうでした(にがわら
154 :
世界@名無史さん:02/02/21 23:01
朱元璋が濠州の郭子興の軍から独立したときに朱元璋に従っていった開国の功臣とも言うべき「24人衆」は以下の通り。
徐達、湯和、呉良、呉禎、花雲、陳徳、顧時、費聚、耿再生、耿炳文、唐勝宗、陸仲亨、華雲竜、鄭遇春、郭興、郭英、湖海、張竜、陳桓、謝成、李新、張赫、周銓、周徳興
ああ、漢字変換が疲れる・・。
従って、誤字に責任は取れないのであしからず。
155 :
世界@名無史さん:02/02/21 23:07
トクトのような人物を陥れたりするから、元朝は自滅したも同じ。
156 :
世界@名無史さん:02/02/21 23:10
元朝の欠点は代替わりのたびに派手に内戦を始めちゃうこと。
157 :
世界@名無史さん:02/02/22 16:28
>156
同じ異民族征服者による王朝でも
その点が権力闘争はあっても
内戦はやった事がない
清朝との違いだね。
もっともモンゴル人と違い、
満洲人の武力はかなり限られたものでは
あったから精神的にそんな
余裕がなかったとも言えるけどね。
158 :
世界@名無史さん:02/02/24 15:52
清朝では、皇帝選びで混乱が起きないように後継者指名を秘密裏に行う仕組みがあったはず。
実力主義のモンゴルは内戦で勝ち残ったのが帝位に就くので、優秀なのが選ばれることが多いが、確定するまで混乱する。
明朝はどうなのだろう?
洪武帝が選んだ建文帝は簒奪されちゃうから、
後継者を残すことに失敗したのだろうね。
159 :
世界@名無史さん:02/02/24 15:54
建文帝の邪魔になりそうなのは全部抹殺したのだが、
建文帝を守る人々もいなくなってしまった。
160 :
中華@名無史さん:02/02/25 01:30
>>158 >洪武帝が選んだ建文帝は
朱元璋は別に建文帝を好んで選んだ訳では無いと思いますが・・・
朱元璋にはちゃんと皇太子?(長男)が居ました。
けど早逝してしまったので、家系の筋を通す意味で、
皇太孫の建文帝を後継ぎにした。と言う事で、
決して”後継ぎとしての実力を見込んで”の指名では無かったと思います。
161 :
中華@名無史さん:02/02/25 01:43
まぁ、なんか突っ込みレスみたいに書いてしまいましたが、
この事で思ったのが、朱元璋萌えな自分が、彼を弁護する訳では無いんですが、
結果的に即位後の大粛清を避難されている訳ですが、
現に、李善長や胡惟庸等は相当の野心家だったと感じるので、もし存命だったら
明王朝乗っ取りの可能性も、十分に有り得たと思いのですが、どうでしょう?
やっぱりこう言う後継者が幼少、と言う家の事情等を考えますと、
粛清も皇統を守るのには本人が危機感を持った。と言う
状況は致し方無かったのかなぁ?と多少は感じます。
162 :
中華@名無史さん:02/02/25 01:48
それと、これら一連の事を書いていてさらに思ったんですが、
朱元璋の長男(皇太子?)について詳しくご存知の方は居ませんか?
長男は何時頃没したのでしょうか?
また、活躍等はしたのでしょうか?
これらの事が判明すると、さらに彼の一生を解く意味でも、粛清の意味を
解く意味でも参考に成ると思うのです。
と、こう書くと、クレクレみたいで恐縮なので自分でも調べて見ますが、
何方かご存知の方御教授下さい。
163 :
世界@名無史さん:02/02/25 22:59
長男の朱標は洪武25年に38歳で病死。
人となりは「友愛」だったそうな。
父親と違い、温厚な性格だったらしい。
殺戮を嫌い、柔弱かもしれない。
164 :
世界@名無史さん:02/02/25 23:05
孫の朱允ブンも柔和な性格。
朱元璋としては、「汚い」仕事を全部自分の代で済ませようと考えたのではなかろうか?
165 :
中華@名無史さん:02/02/26 23:16
>>163-164 レス有難う御座いました。
勉強に成りました(w
自分でも早速”朱標”と言う人物で調べて見た所、親子での面白いエピソードが
判明しました。
当時父”朱元璋”が数々の粛清を行なう中、皇太子の”朱標”は父に
「陛下は王朝安定の為とは言え、余りにも粛清をし過ぎているのでは無いですか?」
と嗜めた所。反対に部下に茨の弦を持って来させ息子に・・・
「ではそなたはその刺の付いた茨を持って強く握り締める事が出来るか?」
と尋ねた所、たじろきました。それを見た”朱元璋”が
「それ見ろ、掴めまい!朕はそなたの世の為に茨の刺を残らず取り除いて居るのだ!!」
と諭したそうです。
166 :
中華@名無史さん:02/02/26 23:30
それと、皇太孫の朱允[火文]も、叔父の永楽帝が反旗を翻した際に
「朕に叔父殺しの汚名を着せてはならぬぞ」
と将軍に厳命した為に将軍達も本気で追討出来なかった。と言う事です。
まぁ兎に角
>朱元璋としては、「汚い」仕事を全部自分の代で済ませようと考えたのではなかろうか?
と言う指摘は多分その通りでしょうね?
167 :
世界@名無史さん:02/02/27 12:25
>>154 ちなみにその24人の内、粛清されたのは何人なんですか?
168 :
世界@名無史さん:02/02/28 17:15
>>167 李善長の獄で処刑されたのが、唐勝宗、陸仲亨、費聚。
藍玉の獄の時に処刑されたのが、陳桓。
徐達は病死だが、朱元璋から賜った見舞いの鳥を食べた直後に急死。
華雲竜は自殺の可能性あり。
湯和は病死。
他は手元に資料がないので私にはわかんない。
169 :
世界@名無史さん:02/02/28 19:11
高校時代の世界史の資料集見てたら朱元璋の肖像が二枚載ってた。
一枚は穏やかな表情で、もう一枚は厳めしい表情をしたものだったが、文章では
「上の二枚の肖像画のうち、疑い深そうな右側が実像に近く、温厚そうな左側は
権力者が画家に強いて描かせた虚像であろう。」とあった。
>一枚は穏やかな表情で、もう一枚は厳めしい表情をしたもの
というより正直、一枚は高橋英樹似の二枚目、
もう一枚は松本人志似(ゴメン)の醜男って感じだったが…
てな事書いてると漏れにも粛清の魔の手が迫ってきそうでコワイヨー
171 :
世界@名無史さん:02/03/01 23:31
功臣の粛清は漢の劉邦を手本に見習ったに過ぎない。
但し、見習いすぎた。
元璋は生真面目なのだ。
172 :
世界@名無史さん:02/03/01 23:50
私自身は朱元璋ファンなのだが、
粛清がなかったとしても
元璋みたいな人の下で働きたくはない。
滅私奉公を強要されて、
堅苦しくて、息苦しそうだ。
173 :
世界@名無史さん:02/03/02 00:13
人物像へのファンというのと、
お近づきになりたいというのは違うからね。
明って、とことん忠誠が報われない王朝だよな。
よく長続きしたものだ。
174 :
朱元璋の事は何も知らん!:02/03/06 10:00
関係ないけど、中国関係とかは人名であるにも関わらず、
読めない、読んでて発音できない「漢字」のせいで読む気を失う。
せめて、人名ぐらいは仮名とか、読める語尾を添えてくれると助かり。
以上、朱元璋すら何と読むかわからない者の愚痴でした
歴史は好きなので、「英雄を上げよ!」スレで朱元璋(洪武帝)
の名が、多く上げられたので、興味本位だけでこのスレ読んでます
175 :
中華@名無史さん:02/03/06 19:39
ちなみに此処のスレタイトルは
「こうぶてい・しゅげんしょう」と読みます。
>>174
176 :
世界@名無史さん:02/03/06 19:47
普通に音読みすればいいと思うけど…?
まあ、漢字固有名詞は慣れないとわかんないもんか。
形声文字(大部分の漢字はこれ)の場合は旁(つくり)の音読みで大体いけるんですけどね
関係ないのでsage
178 :
世界@名無史さん:02/03/10 04:32
. ∧∧ ∧∧
/中 \ / 中\ ハイ、ドウゾ
(`ハ´ ) ( `ハ´)
⊂二、 \ /, つ
\ ) )(_(_, )
/ / / しし'
(__)_)
【不幸のレス】
このレスを見た人間は七秒以内に中国人に強盗に入られます。
※あなたに訪れる悲劇を回避する方法が一つだけあります。
それはこのコピペを一時間以内に7つ、別のスレに貼り付ける事です
179 :
世界@名無史さん:02/03/28 12:47
朱元璋と毛沢東は似てないですか。
権力奪取までの行動と建国後などが。
180 :
世界@名無史さん:02/03/28 14:19
東洋史は何故盛り上がらないのだろうね
181 :
世界@名無史さん:02/03/28 16:28
朱元璋は、坊主上がりだからそれに関係する言葉を極端に嫌ったそう
で、禿・僧・光などが上奏文に入っていると大変なことになった。
しかも秘書に読ませるから同じ音も避けなきゃいけない。
たとえば
「光天の下、天は聖人を生ず」にはNGワードが二つ入っている。
ひとつは「光」。もうひとつは「生」。これは「僧(ソン)」と「生(ソン)」
の音が似ているから(^^;
182 :
世界@名無史さん:02/03/28 16:29
183 :
世界@名無史さん:02/03/28 18:57
スターリン型独裁者プロトタイプ。
ただし大衆が政治資源として登場する前ゆえに、
大衆が粛清の対象とはならなかっただけ。
184 :
世界@名無史さん:02/03/28 20:49
既出だが永楽帝は馬皇后の実子ではないらしい。
それでも単に母が別ならまだいいが
元朝の宮廷から略奪した蒙古官女の子で
実父は・・・という噂もある。
永楽帝に反感を持つ知識人がでっち上げた話だろうが
万が一事実なら太祖高皇帝の子孫・明王朝というのは壮大な虚構だな。
185 :
世界@名無史さん:02/03/29 00:34
>>141 胡惟庸(丞相)っていよいよ謀反を起こしたときに、日本(九州)に援軍を
もとめていて、実際に400名程度の「日本軍」が援軍として派遣されてい
ます。
#どうやら明朝初期の地理感覚では九州が本体で本州は付属の島のような
#扱いだったらしい。
で、当時九州を支配していたのが懐良親王。
親王はもともと8歳で九州平定のために派遣されたんだけど、半独立勢力として
南朝方北朝方問わずに人物を用いて、30歳のときに九州全域を統治下におきま
した。その後畿内で南朝が落ち目になる中、40年にわたり九州に君臨した。
で、明朝と何の関係があるかというと、明朝成立直後に(勝手に)朝貢して
「日本国王」の称号を受けている。ちなみに次の日本国王は15歳年下の
足利義満。
良い意味で食えない政治家だけどなぜかあまり注目されていない・・・
「日本」という枠内だけだとだたの地方政権だけど、アジア史全体からみる
と面白い政権
>>184 あと、建文帝生存説もありますね。
太祖から「いざというときにはこれを使え」と自分が使っていた
乞食坊主の衣装一式を渡されていて、南京落城時にそれをもって
秘密の地下道を通って城外に脱出、雲南で余生を送ったという説。
また、海外に高飛びしたという話もあって、鄭和の大航海も建文帝
を探すためだとか・・・
しかし、成祖が反乱を起こしたのも無理からぬ話だと思う。
建文帝は太祖の孫。一方で太祖の子20人は王として各地に割拠している。
太祖にしてみれば、一族で宗家を守らせるつもりだったんだろうけど、
孫からしてみると、太祖と一緒に天下をとった「格上」の伯父さん(建文帝
は太祖の長男の子)が、子飼いの軍勢をもって割拠しているのは気味悪い。
ということで、一つ一つ各個撃破していった。
成祖は、いずれは自分の番ということで挙兵し、賛同する兄弟(建文帝から
すると伯父さん)も多かった。
>185 面白いな それ誰か小説にしてくれへんやろか
188 :
世界@名無史さん:02/04/03 12:46
極太明朝体とは洪武帝朱元璋の事ですか?
>>187 幸田露伴『運命』という小説では、建文帝生存説だよ〜。
ageてみた。
190 :
世界@名無史さん:02/05/17 15:39
>>189 でも露伴は「運命」を書いたあとで、建文帝生存説が完全な偽説であることを知って、後悔したらしいね。
ageてみた。
191 :
世界@名無史さん:02/05/17 16:51
三谷幸樹に似てる
192 :
世界@名無史さん:02/05/17 20:59
193 :
世界@名無史さん:02/05/18 09:20
日本で渡来銭の代表と言えば永楽通宝だが、
実は洪武通宝もそれに負けず劣らず流通し、
密鋳・私鋳も盛んに行われてた。
代表的なのは、南九州で量産された「加治木手」の洪武通宝。
194 :
世界@名無史さん:02/06/04 11:11
age
195 :
中華@名無史さん :02/06/15 23:12
遼陽(遼東半島付近)の群雄「劉益」に興味が有ります。
この時代、遼東半島付近と言うと元の本国である蒙古にも近く、
群雄として割拠するには相当の才覚が無いと生き残れないと思いますが、
ネット関係&手元の簡単な文献だけで調べて見ても、
”遼陽の群雄”と言う事しか解りません。
この人物について何方か知識がお有りの方は教えて戴きたいのですが・・・
196 :
中華@名無史さん:02/07/14 11:48
他スレで偶に此処のスレが話題に上って、「このスレ読んでいたら気分が悪く成った」
と言う様な意見も見たけど、やっぱり普通の人にとっては朱元璋って許せない?
何か全然ネタも上がって来ないし、やっぱり世界史板住人的にも人気薄なのかなぁ〜…と
空ageもなんなんで、こう話を振りつつage!
197 :
世界@名無史さん:02/07/14 13:16
気分悪くなるところなんかあったかなぁ?
朱元璋の薄気味悪さは時代を考えなければ気の毒だ。元の支配されてる時代は中華民族の誇りがずたずたにされ、彼の出身地は特に搾取の対照でしか無かったわけだから、
内に秘めた敵愾心は相当なものだった思われる。だから最下層の農民なんかには優しかったのでは無いでしょうか。その分商人とか官僚には厳しかったのでは無いか。
農本主義が彼の理想でその為に中央集権を目指すと同時に小さな政府官僚機構を作ろうとしたのではないか。
粛正のやり方が妙に用意周到で陰険だけどそれをもって彼を評価するのは可哀相だよ。
199 :
世界@名無史さん:02/07/19 00:23
中国の朱鎔基首相は朱元璋の24番目の息子、長沙王朱権の16代目の子孫だとか。
ご先祖様の悪いところを真似しなけりゃいいが・・・
↓これは、こちらで質問すべき事でしょうか?
>「洪武五年在銘 手銃」は、現在→「藩陽博物館」に所蔵されている模様。
>発掘したのは、黒田博士(Dr.)という日本人のようですが、
>発掘時期がいつなのか、実は明確な記述が、上記同書には無く、
>同じ著者の「図解古銃事典」(入手困難)には、
>昭和12年に、かつての「元」の都城の地である、熱河省で発掘されたとの記述がありますが、
>記述に曖昧なところがあって、何か消化不良ぎみです。
>どなたか、詳しい事をご存じの方、ご教授下さい。
よろしくお願いいたします。
201 :
中華@名無史さん:02/08/14 02:34
>>200さん
銃の歴史スレでの一文ですね?
僕も一度銃が何時頃から”てつはう”から今の”ライフル”の様な形状に成ったのか
興味が有って、覗いた事が有ったのですが、僕もその書き込みを見て
洪武帝も、天下を取る過程で鉄砲隊を組織していたのかな?と言う疑問が湧きました。
で、肝心な質問回答については存じません(爆)
202 :
世界@名無史さん:
>>167 地味だけど花雲とかはどうよ?
初期の面子で粛清免れてるよ・・・
単に粛清前に戦でとっ捕まって殺されただけだけど
個人的には
自分ひとりで何でもできるぜ!誰も俺には敵うまい!
天上天下唯我独尊タイプの陳友諒
商業・農業の中心地である江蘇さえ抑えとけば、とりあえずどの勢力も
俺を無碍には扱わないだろうし、そう簡単には滅ぼされんぞ
明日は明日の風が吹くタイプの張士誠
んでもって、資源は無い、地勢も無い、あるのは無駄飯ぐらいが大半の
「人」だけ
頭使わないと世の中何ともならんわタイプの朱元璋
この中では一番陳友諒が好きだけど、どうも評価良くないなあ
無数の屍の上に乗っかっていたのは朱元璋だけではないのに