素材の歴史...金属、ガラス、プラスティック、繊維
>>691 ガラス製造に関して高い水準を誇っていたローマ帝国滅亡後、西欧地域における
ガラス製造の技術がしだいに低下していったのは確かだが、決して技術そのものが
地上から消え失せたわけではないよ。帝国東部地方(シドンとアレキサンドリアが中心)
のガラス製造技術はイスラム圏やビザンチンに受け継がれ、結果としてガラス製造は
イスラム世界の主要産業にすらなったのだし、そもそも透明度が高く耐熱性に優れた
ガラスの実験器具が製造可能だった事(後者は硼砂の添加といった新技術による)が、
この地で化学の雛形が生まれた理由の一つでもあったわけだ。
また欧州地域でもローマ帝国滅亡後に全ての技術が失われたわけではない。
西欧中心の観点からは「ガラスの暗黒時代」と表現されることもある中世前期だが、
西方の旧産地(ラインラント、ロワール、ノルマンディ)に残ったり各地に移住したり
した技術者集団の手で、工芸史的に「フランクガラス」と呼ばれるエキゾチックな形態
の製品のみならず、機能的でシンプルな実用製品もローマンガラスの延長線上の技術を
用いて造られていたし、吹き板ガラス製造などでは相当高度な水準を保ってすらいた。
これらの技術的伝統が、(東方の技術を吸収した)ルネッサンス期のイタリアからの
技術導入によりヨーロッパ各地の近世ガラス産業を発展させる基盤となったのである。
なおヴェネツイアのガラス製造にしても15世紀をエポックとするのはどうだろうか。
当地でのガラス製造の起源は古く、既に982年の文書には「ガラス製造業ドメニコ某」
なる署名が発見されている程で、1224年にガラス製造法の慣習を破った多くの職人が
処罰されたことなどもあってか、1268年にはガラス同業組合も結成されている。
ここから判るようにヴェネツイアガラス産業の本格的隆盛は概ね13世紀以後なのだが
これは(通説とは逆に)中世においてはヴェネチアの方がスパイを用いて「先進地」の
ドイツ方面から吹き板ガラスに関する多くの技術情報(あとで説明する円筒吹きにより
大型板ガラスを得る技術)を得たり、さらには第四回十字軍のコンスタンティノープル
征服時や、その後のイスラム世界の変動の煽りを受けて東地中海から流出したキリスト
教徒ガラス技術者を受け入れたりした技術政策の結果である。ヴェネツイアは彼らに
高給を与えると同時に秘密保持のためムラノ島に閉じこめ、島外脱出は死刑をもって
禁じるという囲い込みを行い(13世紀末)それによる技術独占で巨富を得たのである。
それでも技術者は他国からの高給の提示や身分保障による勧誘で流出していったし、
さらにはヴェネツイアと並ぶガラス製造技術を持ちながら職人を外部に遍歴修行させる
習慣を持っていた半島の反対側の小都市アルターレ出身の職人によって、新しい世代の
ガラス技術もまた、15世紀以後には欧州各地へと拡散していったのではあるが。
>>693 ステンドグラスに関しては、ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会の窓にはめられた
バル・アイ・グラスと呼ばれる円盤状のものは6世紀のものとされているし、完全な物
では1065年制作のアウグスブルク大聖堂の「予言者オセア」を描いたステンドグラスが
古いことで有名だろう(1)。あとドイツ方面では、完全品ではないが9世紀から10世紀に
かけてのものと推測されているキリストの顔の部分を描いたステンドグラスの破片が
Lorsch僧院の発掘作業現場で見つかっている(2)。
それ以外の純然たる窓ガラスとなると少し難しい。ヨーロッパ以外なら北斉(550-577)
の魏収の選述による「魏書」「西域伝」の大月氏国の項に、
「(北魏の世祖大武帝の時に大月氏の人が商売で京師に来て)自らいう、能く石を鋳て
五色の琉璃を為ると。是に従いて、礦を山中に採り、京師において之を鋳る。既に成る
ところの光沢は西方より来るものよりも美わしき、即ち詔して行殿を作らしめ、百余人
を容る。光沢は映徹し、観る者は之を見て驚嘆せざるはなく、以て神明の作るところと
なす。これより中国の琉璃は遂に賤(やす)し、人またこれを珍とせず」(3)とあるので
これが本当なら、5世紀前半に大月氏の技術者がきてガラスを製造し建物の窓ガラス等
が作られ一般にも普及したためガラスが珍しい宝ではなくなった、ということになる。
まあ、これら「西域伝」や漢代〜六朝の文献(4)に散見する、窓ガラスが当時中国で愛好
されていたという記述に関しては考古学的実証や、ガラス原料及び製品の供給元だった中東
におけるローマングラスやササングラスの実体解明が待たれるところであろう。イスラム期
になれば、少ないながらモスク用等に窓ガラスが作られていたこと(5)、また少なくとも
7世紀以後にはサマルカンド周辺の西トルキスタンなどでも窓ガラスを含む実用ガラス
製品が盛んに作られていたことは考古学的にも確認されているのではあるが(6)。
ヨーロッパの場合、7-9世紀の物と思われる発掘ガラスに窓ガラスらしいものがあるし、
さらには7-10世紀の北西ヨーロッパの一部修道院には窓ガラスが使われていた明確な証拠
(一番早いものは英国のMonkwearmouthとJarrowの修道院の設立者、聖ベネディクトゥスが
675年にノルマンディの技術者に出した窓ガラスの注文記録)が発見されている(7)。
ただ発掘されたものには幾分色の付いたガラスが多い。これはある意味当然で、完全に
無色のガラスが一般の窓ガラスなどにも使われるようになったのは、原料中の不純物の色
に応じその補色を出す物質を添加することで無色化する技術が生まれた17世紀以後のこと
だからである。(ただクリスタルガラス製造時に二酸化マンガンを添加し脱色したり、
ボヘミアにおける材料を吟味したカリガラスによる無色化への努力はそれ以前からある)
なおヨーロッパで窓ガラスが庶民の家にまで普及した時期は地域により随分差がある。
一番早かったのはイングランドで15世紀にはガラス工業が発達していたこと、また全般に
大陸に比べ豊かだったこともあって1560年代には農家にも窓ガラスが普及していたという。
(ただスコットランドでは17世紀後半時点でも一般家屋に窓ガラスは普及していなかった)
これについで早かったのはドイツの先進的な地域で、モンテーニュがドイツ旅行をした時
(1580年代)村のどんな小さな家でもガラス窓の無い家はないことに彼は驚いている。
17世紀前半になるとフランスにもガラス窓は普及し始めるが、これはロワール川以北の
地でのことであり、それ以南の地域とは著しい落差があったらしい。それゆえこの時代は
南仏やジュネーヴへ行った北仏人が、どんな上等な屋敷でも窓ガラスの代わりに油紙を
使っているのに驚く番となる。例えばリヨンでは1779年になっても窓にはしばしば油紙が
使われていたそうだし、これがバルカンともなると、ベオグラードでは1808年になっても
窓ガラスは珍品だったというから(8)驚くのも当然のことかも知れない。
とはいえ、17世紀の時点で大きなガラスをショウウインドウに使うような贅沢が実現
していたのはロンドンぐらいで、これを観た同時代のパリジャンは驚嘆したらしい(9)。
>>698 古代に望遠鏡はない。
>>699氏の言うとおり、基本的にこれは16世紀末〜17世紀初頭の
発明品である。ただ古代や中世に光学やレンズに関する知識が無かったわけではない。
例えば紀元前5世紀のギリシャ喜劇、アリストパネースがソクラテスを風刺したことで
知られる「雲」の一部分に、主人公ストレプシアデースが裁判を避けるために書類を
焼いて抹殺する方法を思いつき、ソクラテスに自慢する次のような場面がある(10)。
ソークラテース:どういう方法だ。
ストレプシアデース:薬屋の店でほらあの石を、
見たことがあるでしょう、綺麗な、透き通った、
火を付けるのに使う。
ソークラテース:火つけ水晶のことだな。
ここで火つけ水晶と言われているのはヒュアロスという発火用の水晶製の凸レンズの
ことで、この語は後にはガラスの意味も持つようになった。従って古典期のギリシャ人
は少なくとも集光作用を持つ凸レンズを知っていたわけである。
それ以外にもプリニウスの「自然誌」は医療上の焼灼の為に水晶レンズを使うことを記述
しているし、セネカは水を満たしたガラス球で文字を拡大してみることができることを
述べている。高名なプトレマイオスの「光学」もガラス容器中の水のレンズ作用について
書いており(11)、こういった古代の科学を継承したイブン・アル=ハイタム(965-1039)の
光学理論は13世紀にラテン訳され、西欧の光学理論に深い影響を与えることになった。
また西欧でも12世紀から13世紀にかけ光学やレンズの性質の解明の試みが始まっており、
この流れとアル=ハイタムの理論を受け継いだロジャー・ベイコン(1214-94)によって
望遠鏡に近い能力を持った機械が当時作られた可能性はあるらしい。
ただこれは実体の良くわからぬ孤立した試みで、遠方の物を鮮明に拡大してみせる
光学装置に関する文献が複数表れるのは16世紀も後半になってからであり、ガリレオが
天体望遠鏡に用いることになる凸レンズと凹レンズの組合せによって遠方を見る工夫も
ジャンバティスタ・デッラ・ポルタ「自然魔術」第二版(1589)には既に見えるという。
またレンズの使用による視力改善(メガネの作成)も試みられ、老眼鏡は遅くとも
13世紀末、近眼鏡は15世紀半ばには作られていることが同時代人の証言からわかる。
なおこれらのレンズの作成には普通の板ガラスを円く切り取り、研磨剤を使って機械や
手で磨くという基本的には現在とも共通する技量と根気の要る作業が必要だった(12)。
>>702 古代ローマには吹き板ガラスのみならず、型を使って鋳造する板ガラスもあった(13)。
というか、むしろこれがガラス成形の古いやり方であり、吹きガラスの技法こそが
ローマ時代のシリアで発明された新技術だったわけだ。ただこれは17世紀のフランスで
確立した、銅の型に鋳造し銅製のローラーで延ばすことで簡単に大型の板ガラスを作る、
という洗練された方法からはほど遠いものではあったが、それでもこの方法で作られた
ガラス窓がローマ時代にあったことは確かである。当時この方法では必要以上に分厚い
ガラスしか作れなかったのだが、大きさに関しては身体全体を映し出す人の背丈ほどの
鏡すら存在したことをセネカが彼の「自然研究」において記録しているという(14)。
それともう一つ、吹き板ガラスでは非常に小さな物しか作れなかったわけではない。
確かに近代のローラー鋳造のものには及ばないが、円筒吹きと呼ばれる、十二世紀の
ドイツの修道僧テオフィルスの技術書にも書かれている、ガラスを長いシリンダー型に
吹いてから切り開く技法によって、40-60p角程度のものならば作れたのである(15)。
ステンドグラスが作られた時代には既にこの技法が存在したことは確実であり、従って
以上のことから、ステンドグラスは小さなガラス片しか作れない状況において窓を作る
ための苦肉の策だ、というのは当たらないと思う。
711 :
Krt:05/02/12 19:48:21 0
<註>
(1)週刊朝日百科「世界の歴史」50:E-317
(2)Halliday,Sonia et Lushington,Laura:Le Vitrail:Seghers:1976:p.13
(3)由水常雄:「ガラスの道」中公文庫:p.200f.
(4)由水「ガラス入門」平凡社p.74f.によれば「西京雑記」「漢武故事」に窓や扉にガラス
を使った建物の話、「拾遺記」「世説新語」に窓ガラス、ガラス屏風の話があるという。
ただ「漢武故事」等の窓ガラスに関する記述は時代的/技術史的に信じ難い内容も多く、
外部世界の史料と比較の上での慎重な検討が必要なものであると考えられている。
(5)Liefkes,Reino(ed.):Glass:Victoria & Albert Museum:1997:p.28
(6)由水 ibid.pp.227-236
(7)Tasson-Brown,Veronica:Early Medieval Europe AD400-1066:in Tait,Hugh(ed.)
:Five Thousand Years of Glass:British Museum:1991 p.109f.
(8)F.ブローデル:物質文明・経済・資本主義「日常性の構造1」みすず書房:p.400
油紙以外にも羊皮紙、テレピン油を塗った布、石膏の薄片などが使われていた。
(9)ブローデル:物質文明・経済・資本主義「交換のはたらき1」みすず書房:p.66
(10)アリストパネース「雲」765-769:高津春繁訳:岩波文庫:p.88f.
(11)ジョゼフ・ニーダム:中国の科学と文明:第二十六章:物理学:(g)光学:
(5)レンズと点火レンズ:(iii)点火レンズとレンズの光学的性質
(12)初期の望遠鏡とレンズについては、技術の歴史5:筑摩書房:pp.186-194を参照。
(13)Raguin,Virginia Chieffo:Stained Glass:From Its Origins to the Present
:Harry N.Abrams,Inc. Pub.:2003:p.32f.
(14)S.ギーディオン:建築、その変遷:古代ローマの建築空間をめぐって:第三章
第七節「壁の穿孔」(3)ガラス窓:みすず書房:p.267
なお、ポンペイの浴場の脱衣場には100×70pという巨大なガラス窓があったが、
ここに嵌められたガラスの厚さは1.3pもあったという。由水「ガラスの道」p.79
(15)由水:「鏡の魔術」中公文庫:p.61