馬の歴史

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57世界@名無史さん:02/01/07 07:12
>某研究者
おはようございます。名前、入れ忘れてますよ
58世界@名無史さん:02/01/07 07:21
蹄鉄がなかったら、ひづめってすぐ減っちゃうのかな?
日本では明治以降につけ始めたらしいが。
59世界@名無史さん:02/01/07 18:54
騎兵が着ている服って各国ともすごく派手ですね。
やっぱり騎兵=戦場で一番目立つから?
60世界@名無史さん:02/01/07 19:12
>>58
馬が自走している分には問題ないけど、荷重が加わると減り始めます。
ちょっと乗る程度なら伸びる分と相殺されるが酷使には耐えない。
61(゚∀゚):02/01/07 20:26
>>54
歩兵が隊列を組んで一斉に長槍を突き出すと、馬のほうが怖気づいたらしいです。
また、足を引っ掛けるという姑息な手段もあります。(藁  槍、長すぎ。

>>55
英仏百年戦争のクレシーの戦いは、イングランドの長弓隊がフランスの重装騎士を破ったことで有名です。
英軍の快進撃は、広範囲に遠距離から矢の雨を降らせる速射性に優れた長弓に一因があったと思われます。

また、おっしゃる通り、騎士は重装備ゆえの動きの鈍さを馬に乗ることでカバーしていたため、
落馬すれば全く無防備となってしまいました。

「鎧をつけて突撃」→「敵の攻撃が貫通する」→「装甲を厚くしよう」→「仰角つきの矢が貫通する」
→「もっと装甲を厚くする」→「重くて動けない、馬も走れない」→(゚д゚)マズー!!

それゆえ、かつては戦場の華であった騎士も、中世後期においては戦場での優位性は全く失われ、
騎士階級として栄華を誇った諸侯は没落しました。
62(゚∀゚)クレシーの戦い:02/01/07 20:29
「イングランド軍はクレシー村近くの低い山に戦闘隊形をしいた。前方は緩やかな下り坂になっており、
後方には鬱蒼とした森が有った。イングランド軍の前線は、右翼1800人、左翼800人の二つの密集体型にわかれ、
それぞれの両側を1000人近い長弓隊(合計4000弱)が前方に突出する形で援護した。
敵の騎兵を食止めるため、長弓隊の前面には杭がうたれ、地面には穴が掘られた。
こうしておけば、弓隊を攻撃しても、どうしても両翼の歩兵隊の方へ流されてしまう。

その日の午後、フランス軍はクレシーに到着する。フィリップは翌日の朝攻撃を開始するつもりだったが、
彼の軍隊は血気にはやっており、次々に戦場に押し寄せた。
ここに至ってフィリップは、この日の決戦を避けられないことを悟り、戦列が整わないまま攻撃を決意した。

フランス軍はジェノヴァ弩隊を前面に出し、一斉射撃を始めた。これに対しイングランド軍も自由農民の長弓隊が
ジェノヴァ隊に矢の雨を降らせため、弩隊は散々に後退し始めた。次に長弓隊はフランス軍重騎兵に
攻撃をかけたため、フランス軍の前線は崩れ、混乱していった。それでもフランス軍騎兵は怯まず、
後方から次々に突撃していった。彼等はまとまりのないまま斜面を登り、イングランド重騎兵に白兵戦を挑んだが、
その前に長弓隊に至近距離から狙い撃ちされた。

日もとっぷり暮れた頃、生き残ったフランスの騎士たちは15回目にして最後の突撃を敢行したが
これも撃退されついに戦場を放棄した。」
 ・・・長文でスマソ。
63山野野衾:02/01/07 21:59
>62
面白いので長くてもいいです。
フランス側の敗因については、最近では(手元に資料が無いのですが)
指揮系統や部隊編成の違いが長弓以上に大きいと言われている様です。
上の文からも伺えますが。
64世界@名無史さん:02/01/07 22:39
重騎兵の突撃速度はギャロップ、地面の状況が良好ならば毎分500メートル以上
重騎兵の鎖帷子鎧に対する長弓の有効射程は100メートル
その距離を、フランス騎兵は12秒で駆け抜ける
登り坂で倍かかったとしても24秒
長弓の発射速度を毎分10発とすると、この間に長弓兵は4回射撃できる
4000名ならば総計1万6千発

槍兵密集陣は通常6列横隊だから、イングランド歩兵の戦闘正面は
右翼約300メートル、左翼約120メートルの合計420メートル
長弓兵の射撃隊形は3〜6列で、クレーシーでは6列だったとすると、
長弓兵1000名の戦闘正面は約160メートル、長弓4個部隊で約650メートル
とすると、イングランド軍の戦闘正面幅は約1キロ強

つまり、イングランド軍のキルゾーンは1キロ×100メートルの長方形となり、
面積は10万平方メートル
この面積に1万6先発の長弓が射撃されるため、1平方メートル当たり長弓0.16発
これじゃ騎兵の突撃を阻止するには不十分ではないだろうか?

勿論、一定の区域に集中射撃を行うこともあるだろうが、
例え弾量が3倍としても1平方メートルあたり0.5発が限度
仰角射撃だから有効射程を200メートルと仮定しても
キルゾーンの面積も増加するのでこの数値は変化しないし、
上で仮定した数値はイングランド軍に楽観的

おまけに障害に阻まれて歩兵部隊に突入した騎兵に対しては射撃は行えない
敵味方が入り乱れ、おまけにイングランド歩兵の鎧はフランス騎兵の鎧より
脆弱だから、弾幕射撃を行ったらイングランド軍のほうが被害は大きい
そして、10名の騎兵は100名の槍兵に匹敵する

>>62
どうもイングランド軍は長弓のおかげで勝利した訳ではないと思うがどうか

蛇足ながら、イングランドの長弓兵が杭障害で防護されるようになるのは
アジャンクール以降

俺も長文すまん
65山野野衾:02/01/07 22:48
>64
無視ですか。
66世界@名無史さん:02/01/07 23:47
>>65

よく解らんが一応レスしとこう

フランス軍がイングランドの長弓戦術に対して無知だったとは考えにくい
同盟関係にあったスコットランド軍が長弓戦術で叩き潰されたことは知っていただろうし、
ラ・フラマンジュリーでは攻撃せずに膠着状態を保ったことは、
イングランドの長弓戦術が基本的に防御戦術であり、防御においてのみ威力を発揮することを
知悉していたことを意味すると思う
モルレーではイングランド軍の側面を圧迫してほぼ包囲を完成しながら、
長弓陣地への攻撃を嫌って後退していることも、
フランス軍が長弓戦術について熟知していたからだと考える

更に、フランス軍は長弓戦術への対抗策をいくつか検討しており、
クレーシーの緒戦でジェノヴァ弩兵を投入したのもその一つだろう
弩は長弓に比べて発射速度で劣るが射程と威力において勝る
クレーシーでジェノヴァ弩兵が撃退された原因は、
何らかの錯誤により長弓の有効射程内に入り込んで展開してしまったことだろう

確かにフランス騎兵は血気にはやって突撃してしまったが、
士気の高過ぎる軍隊が戦術上の要求を無視してしばしば攻撃に出る事例は珍しくない
(イングランド軍でも同様の事例が見られる)
このような統制上の問題はフランス軍に限った話ではない

クレーシーでの敗因をフランス軍の内部欠陥に求めるのは難しいと思う
67山野野衾:02/01/07 23:53
>66
ありがとうございました。
68世界@名無史さん:02/01/08 03:08
クレシーの戦いの勝因については、
「長弓兵と、下馬した騎士の協調」というポイントが重要なんじゃないの?
スレの趣旨に即して言うと、大陸に比して
イングランドでは騎士を下馬させることに比較的抵抗のない伝統があったと。
69世界@名無史さん:02/01/08 12:42
中世ヨーロッパでは、騎兵が落馬するとその時点で落馬した兵隊は戦争が
終わったと聞いたことがあるが・・・。
70世界@名無史さん:02/01/08 23:38
日本騎兵の産みの親・愛媛出身の秋山好古。かなり男前でドイツでよくもてた。
71世界@名無史さん:02/01/09 00:34
日本みたいに馬を兵士の運搬用として使う方が世界的にはポピュラーだと聞いたことあるけど?
戦場では下馬して戦ってまた騎乗して次の戦場に転戦するみたいな。
72世界@名無史さん:02/01/09 00:51
ヨーロッパ中世だと
移動用・荷物運搬用・戦闘用と最低3頭は使い分けていた。
戦闘用はオスででかくて気性の荒いやつ。
73世界@名無史さん:02/01/09 01:54
どうでもいいけどロングボウって射程距離100mもないよ50mがせいぜい。
74世界@名無史さん:02/01/09 01:59
13世紀のモンゴル騎兵の弓の有効射程距離は183-274mとかいうの
オスプレイに載ってたけど、どんなものでしょうかね

同時代、ハンガリーにもアジア系の騎兵部族が王室に飼われていたいう話
誰か知りませんか?
75世界@名無史さん:02/01/09 02:04
>13世紀のモンゴル騎兵の弓

馬か何かの骨でできた矢じりを使っていたというが本当だろうか?
76世界@名無史さん:02/01/09 02:16
いくらモンゴルの強化弓でも有効射程は100mmから130mmと聞き及んでますが。
これでも諸外国の弓より性能がよかったんですし
最大射程かなにかの間違いでは?
77世界@名無史さん:02/01/09 02:21
部族時代は馬の骨の矢じりとか当然、つかっていたでしょうね。

カルピニいうローマ使節のモンゴル帝国訪問記(クビライ時代)によれば、モンゴル軍は
2種の矢があって、ひとつが長距離射撃用の軽い矢で、こちらは馬の骨とか
つかっていたかもしれません。
もうひとつは近距離攻撃用の重い矢で、鉄製鏃(やじり)

確か7世紀くらいの遺跡から、中央アジアで鉄製の鏃出土してたはずだから・・・。
鉄製のほうは交易で入手したのか自前なのか、ちょっと僕も知りたいです
7874:02/01/09 02:23
>76
>いくらモンゴルの強化弓でも有効射程は100mから130mと聞き及んでますが。
そうなんですよ。僕もオスプレイで、183-274mが有効殺傷距離いうの読んで不信感をもち、
あえてこちらでお尋ねしました。

たぶん74さんの数字のほうが正しいと思います
7974:02/01/09 02:24
おれ、ばか(笑)
76さんですね
80世界@名無史さん:02/01/09 04:39
訂正カルピニ訪問はクビライではなくグユク汗の時代でした
81世界@名無史さん:02/01/09 15:57
>>76
一応突っ込んでおきますね。100m-130mですね。

それにしても、>>73はひどい。
イングランド軍の長弓のように範囲攻撃をする場合は、「最大射程」で考えればよいのでしょうか?
82日本@名無史さん:02/01/09 17:03
長弓の最大射程は250mぐらいですね。
83世界@名無史さん:02/01/09 17:21
日本も長弓だがどのくらい飛んだんだろう。
京都のさんげん堂では、年に何回か200m以上の廊下を夜中
武士が弓を引いたそうだね。
モンゴルの短弓は強弓だったと聞いたが・・・。
84世界@名無史さん:02/01/09 21:07
1月5日付産経新聞夕刊・古井由吉氏のコラム!
85世界@名無史さん:02/01/10 02:07
イングランド軍の長弓について「戦術の世界史」より
http://plaza4.mbn.or.jp/~tactic/longbow.html
86世界@名無史さん:02/01/10 04:05
>>83手元の資料には和弓の最大射程について
丸木弓で300m
合成弓で350m〜400m
弓胎弓で400m〜450m
時代的には
丸木弓が奈良〜平安末期
合成弓が鎌倉初期〜室町初期
弓胎弓が室町末期〜戦国末期
と記述されております。
87世界@名無史さん:02/01/10 06:17
ウマのハナシしようぜ、な ウマだよウマ
88ニキータ:02/01/10 06:51
>>47
本村凌二さんが出した本とはこれですね。

講談社現代新書『馬の世界史』2001

ついでに目次も掲載。

目次
一章 人類の友
二章 馬と文明世界ーーー戦車の誕生
三章 ユーラシアの騎馬遊牧民と世界帝国
四章 ポセイドンの変身ーーー古代地中海世界の近代性
五章 馬駆ける中央ユーラシア
六章 アラブ馬とイスラム世界
七章 ヨーロッパ中世世界と馬
八章 モンゴル帝国とユーラシアの動揺
九章 火砲と海の時代ーーー近代世界における馬
十章 馬とスポーツ

エピローグにレオナルド・ダ・ヴィンチの馬についてのエピソードが載っています。
89世界@名無史さん:02/01/10 08:58
>>86
Thank you.
90世界@名無史さん:02/01/10 13:53
うまいぼう
91世界@名無史さん:02/01/10 14:15
>88
JRA馬事文化賞を受賞しましたね。

本村先生の授業は面白く、評価も甘いのでよい。
今は違うかもしれないけど・・・。
92世界@名無史さん:02/01/10 16:47
馬って合戦とかでは結構死んでたの?
弓は撃たれるし、刀で馬の足を切れば乗ってる武士を落とせたろうし・・・
93世界@名無史さん:02/01/10 17:17
たくさん死んだんでしょうね・・・ かわいそうに・・・

消耗品ゆえに、馬の生産も、重要な産業のひとつでした。
用途によってさまざまな特徴(足が速い、力が強いなど)をもつ馬が必要になるので、
よい馬の産地を押さえることは重要な戦略でした。
94世界@名無史さん:02/01/10 17:22
日本には馬塚が各地にあったようだけど
世界はどうなんだろ?
95世界@名無史さん:02/01/10 17:26
モンゴルなんかはわりと楽なんですけどね。普段から騎乗生活をし、たくさんの馬を所有していますから。
普段の狩猟の相手が動物から人間に代わるだけ。一般人が強力な戦闘員に早変わり。
遠征に行くにも、数頭の馬を連れて、乗り捨てながら行く。捨てられた馬はマターリしながらモンゴルへ帰る、と。

しかし、今ではたいした産業にならず、中国からの農耕移民が土地を荒らしたせいで草原も減少し、
寒害も多発したため、ほとんどの人が馬を手放してしまったようです。
96世界@名無史さん:02/01/10 17:38
>捨てられた馬はマターリしながらモンゴルへ帰る、と。

ずいぶんアバウトなんだな。
帰る時は一頭でいいのかな?
97世界@名無史さん:02/01/27 19:30
馬の鎧、って、東西でどうなってたんでしょうか。
98世界@名無史さん:02/02/04 19:18
モンゴル軍は遠征の折、大量の羊を同伴した。それらは食用であると
同時に兵士の性欲の発散用でもあった。どうやら牝馬を性欲の対象にする
習慣はなかったらしい(インドではあった)。

ところでモンゴル馬、日本の土着馬はキャンター時の上下振動が極めて
小さい。だから木製の鞍でもどうにかなったのだろう。
99世界@名無史さん:02/03/03 09:58
野生の馬は現存するのでしょうか。
100世界@名無史さん:02/03/03 10:00
>>99
モウコノウマがいます。
101ひひーん:02/03/06 22:57
中国や日本ではウマとカイコが関係あるようなのですがどなたか分かる方いますか?
捜神記とかに書かれているらしいのですが難しくて分かりません。
102山野野衾:02/03/06 23:04
>101
昔、ある家で飼われていた馬が人間の娘に恋をした。それを恐れた父親は馬
を打ち殺したが、木にかけられていた馬(白馬)の皮が娘を包んで空に登っ
て行き、やがて娘を包んだ白馬の皮は繭となった。
そこから生まれて来た「天の虫」を蚕と呼ぶようになった、という類話の事
ですね。おおむねこんな感じです。
ベトナムなどにも伝わっており、中には「八犬伝」の元ネタとなった話もあ
ります。
103世界@名無史さん:02/03/06 23:06
>>83 三十三間堂の通し矢は60メートルですよ。
堂射で60メートルだから屋外なら80−100メートルぐらいではなかろうか?
104ひひーん:02/03/06 23:18
)≫102
早速のレスありがとうございます。ベトナムのほうにもあったのですか。知りませんでした。
105世界@名無史さん:02/04/04 21:39
>>97
中国では馬鎧は三国末期あたりから見られる。
三国時代に漢人が発展させた強力な弩に対抗するために、
騎馬民族が馬に革鎧を着せるようになったのがそのはじめとされている。
それが中国に伝わり、漢人の手によって馬鎧は発展、完成された。

では、なぜ漢人は馬鎧を用いたのか?
漢人は騎馬民族と比べると馬の調達が困難であり、当然軍馬は貴重であった。
それゆえ、矢などで馬を損なわない馬鎧が重宝されたのではないかと考えられる。

さて、馬鎧を着用した騎兵は中国では「鉄騎」と称される。
数十騎あるいは数百騎によって密集陣を組み、
その衝撃力によって歩兵の陣形を崩すのが最大の役割であった。
重騎兵があけた陣形の穴に、歩兵がなだれ込むと言うのが当時の基本戦術だったのである。

なお、魏晋南北朝期に重騎兵が発展した理由の一つに、当時現れ始めた鐙も関係していた。
鐙の活用によって馬上でその身を支えることができるようになる。
それゆえ、長槍の使用が容易になり、衝撃力や安定性が増加したのである。

しかし、重騎兵の時代は唐の太宗李世民によって終わりを告げられる。
当時の重騎兵はあまりにも重過ぎる装備によって、騎兵本来の軽快さを失っていた。
李世民はそれに気付き、馬から鎧を取り去ったのである。
それによって、唐の騎馬隊は機動力を増し、はるかに有機的な戦術を取れるようになった。
結果、唐の軍事力は他勢力を圧倒し、天下統一を成し遂げたのである。
(もちろん、それだけが理由ではない)

ただし、周辺異民族である女真や契丹などは依然として重騎兵を軍の主力としていた。
遼や金の重騎兵団に宋が苦しめられたのは、あまりにも有名な話である。
しかし、その金も宋も結局は蒙古軍の軽騎兵隊に滅ぼされ、かくして重騎兵は戦場から姿を消していくのである。

大体こんな感じかな。
西洋や他地域についてはちょっとわからん、詳しい人頼む。
長文で失礼した。
106世界@名無史さん
良スレage