五代十国時代を語ろう

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191あやめ
通常ですと「渤海」と言えば、靺鞨の粟末部が松花江以南に建てた国を思い浮かべること
でしょう。しかし唐五代の人は僻遠の夷邦のことではなく、河北の「渤海郡」を指すものと
認識していたと思われます。
渤海郡は漢代から置かれ北齊までは現在の河北省の東光縣に、隋からは山東省の陽信縣に
在りました。唐中期に行政区としての「郡」が廃されて「州」に切替えられてからは「棣州」と
なりました。しかしこの切替後も封爵のための地名としては、明代に至るまでヴァーチャルに
存在し続けました。古代に消滅した燕や楚などの国名が封地の名称として後代まで使用された
事情と同様です。
渤海郡に封ぜられた王侯の数は甚だ多くざっと50人余に上ります。あの漢の獻帝も一時
渤海王に封ぜられています。しかしこの中で最も多いのが「高」姓の人士なのです。
列挙してみますと
渤海郡王としては 高樹生・高歓・高澄(北朝の魏)・高固・高崇文・高駢(唐)・高萬興・高季興・
高從誨・高保融(五代)・高懷徳(宋)
渤海郡公としては 高ヨウ(風+昜)・高仲密(北朝の魏)・高賓・高頴(正しくは示を火に)・高
表仁(隋)・高力士・高少逸・高元裕(唐)
渤海郡侯としては 高適(唐)・高滅里干(元)
渤海郡伯としては 高武光(唐)
渤海郡子としては 高重(唐)
これだけ存在しています。これはどのような事情からでしょうか、実は高氏は既に久しく
渤海の郡望(郡の有力豪族)であったからです。「新唐書」の「宰相世系表」高氏の条には
後漢の渤海太守であった高洪が渤海郡のシュウ(艸の下に脩)縣に居を定めて以来と述べて
います。
因みに長崎に在住していた唐通詞の一族に深見家というのがありますが、その先祖は渤海の
高氏であったので、渤海>深海>深見と変換して日本風に創氏したのだそうです。
そこで粟末部の大氏を「渤海郡王」に封じた事情ということになりますが、恐らく大氏が
継承を主張していた高句麗が高姓であったことと関係がありそうです。「大」という姓も
「高」に代るものとして採用されたものではないかと想われます。