>>65 ああ、そうか…。
すいません。>61
バヤズィト1世はアナトリアに割拠していた小君候国を制圧し、
ヨーロッパ方面ではニコポリスの戦いで十字軍を撃破(1396年)、
コンスタンチノープルを断続的に包囲して圧迫していた。
ティムールのほうはすでにイラク・クルディスタンを占領しており、
インド遠征(1398-1399年)から帰還後、
グルジアに再進出して西方を伺っていた(1400年)。
はじめティムールはマムルーク朝と事を構えるため、
オスマン朝領のシヴァスを攻撃するに留め
コンスタンチノープル攻撃を「聖戦」とたたえて兵を退いた。
ティムールはダマスカスとアレッポを落し(1401年)
マムルーク朝を屈服させると
再び兵をアナトリアに向けアンカラの街を包囲、
バヤズィトはコンスタンチノープルの包囲を解いて
アンカラ救援に向い、こうしてアンカラの戦いが起きた(1402年)。
この戦いで、バヤズィト1世と末子ムサが捕虜になり、
離脱した長子スレイマンはヨーロッパ側の領土に逃走。
アナトリアのオスマン領の多くは元の君候に返還され再建
(コニヤのカラマン君候国、キュタヒヤのゲリミヤン君候国など)、
わずかに西アナトリアのブルサ周辺がイサ(バヤズィトの子)に、
北アナトリアのアマスィヤ周辺がメフメト(同上)に残された。
1403年に虜囚のバヤズィトが死に、ティムールが中央アジアに引き上げると
バヤズィトの息子たちの間で後継者争いが起こった。
1404年にメフメトがイサを破りアナトリアを制覇するが、
バルカン側のキリスト教徒を味方に付けたスレイマンに脅かされた。
対抗してメフメトはティムールの元から解放されてきた弟ムサを助け、
バルカンでムサはワラキア公やセルビア公の支援を受けて
スレイマンの根拠地エディルネ(アドリアノープル)を制圧(1410年)。
バルカン側のムサとアナトリア側のメフメトの間で決戦となり、
1413年にメフメト(1世)が勝利してオスマン朝の再統一が果たされた。
オスマン史概説書の語るところによると、こんな経緯。
ビザンツ側の対応についてはギボンの『ローマ帝国衰亡史』が詳しいです。