今更ながら近世オランダの大躍進について語る!

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95sagefd:02/03/12 20:10
( ´ ▽ `)y-~
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| つ|
( _人__ )  
96世界@名無史さん:02/03/27 00:50
何でこんなに盛り上がらないのでしょ。
マウリッツの軍制改革でも語ろうよ。
97世界@名無史さん:02/03/27 08:48
>>96
兵士たちにきちんと給料を払い、モラル向上に努めたんですよね。
当時低く見られていた塹壕掘りもやらせたり、スイス風密集方陣ではなく
多くの縦列を編成する方法にかえたり。
98世界@名無史さん:02/05/07 15:59
オランダの右翼指導者殺される
移民規制主張 総選挙延期の可能性

【ブリュッセル7日=藤本欣也】オランダの右翼政治家で反移民政策などを掲げていた
ピム・フォルトゥイン氏(五四)が六日、アムステルダム近郊で銃撃され、死亡した。
十五日には総選挙を控えており、同氏が率いる右翼政党の躍進が予想されていた。
“寛容の国”と評される同国で政治家の暗殺は初めてとみられ、総選挙が延期される可能性も出てきた。
 フォルトゥイン氏は六日午後六時すぎ、ラジオ局での収録を終えて建物を出たところで、
胸などに六発の銃弾を浴びた。警察当局はオランダ国籍の白人男性(三三)を容疑者として逮捕したと発表したが、
詳細は不明。

 コック首相は同日夜、「わが国の民主主義にとって名状し難い悲劇が起こってしまった」
とコメントし、国民に冷静になるよう呼びかけた。

 同日、ハーグの政府庁舎周辺には右翼政党支持者らが押し寄せ、一部が商店を襲うなど暴徒化した。

 フォルトゥイン氏は大学の社会科学の講師出身。「フォルトゥイン党」の代表として
、「オランダはいっぱいだ」「イスラム文化は遅れている」などと移民規制やイスラム教蔑視(べっし)の
発言を繰り返した。同性愛者であることを公言し、スキンヘッドの風貎(ふうぼう)をはじめ
派手な言動から注目を集めていた。

 最新の調査によると総選挙では17%の得票率で議会内第三党に躍進するとの結果が出るなど、選挙後の連立内閣に参加する可能性を指摘する見方もあった。



99世界@名無史さん:02/05/09 15:01
近世のオランダは、レンブラント、フェルメールといった名だたる芸術家を
輩出しましたが、この時期に集中して優れた芸術家が現れた背景は
何なのでしょうか?
100世界@名無史さん:02/05/09 15:34
>>99
経済が栄えれば芸術も栄える。
国家が衰えれば芸術も衰える。

それだヶ
101世界@名無史さん:02/05/09 15:46
>>99
1.教会・貴族の代わりに市民階級が顧客として登場したこと。
2.カルヴィニズムのヘゲモニーが存在したこと。
などから、題材・手法に関してある種の実験が大規模に行われたのではないだろうか。

ジャンルとしての風景画や静物画もこの時期のオランダに成立しているし。
102世界@名無史さん:02/05/09 15:46
日本のバブル経済期に何の芸術があったんでしょうか・・・
103林彪:02/05/09 15:52
>>102
漫画・アニメ
聖闘士星矢のハーデス編、バブル崩壊でアニメ化ポシャッたとか
オランダよりもフランスの方が盛んかな?
104世界@名無史さん:02/05/09 17:47
>>101
オランダ特有の絵画ジャンルとして、もうひとつ「集団肖像画」
がありますね。
フランス・ハルスの「ハールレムの聖ゲオルギウス市民隊の
幹部たちの宴会」とか。
その最高峰がレンブラントの「夜警」だけど。
105104:02/05/09 22:23
ちなみに「市民隊」とは、オランダ各都市で15世紀以降発展を遂げた
市民有志による自警団です。
ギルドの体裁をとっていましたが、メンバーは皆ほかに生業を持っていました。
独立戦争では大活躍しましたが、17世紀にはいると、一種の社交クラブに
変質し、記念行事のパレードと恒例の大宴会が主な仕事になるといった
ありさまでした。
106世界@名無史さん:02/05/09 23:30
コーヒーショップの客の脳内では21世紀もオランダは躍進している模様
107世界@名無史さん:02/05/11 12:33
>>12
チューリッポマニアの話ですけど、もともとあれはトルコから入ってきたんですよね。
ヨーロッパにもたらされるや絶大な人気を集め、さまざまな交配種が
生み出されるようになりました。
特に人気があったのは斑入り模様のチューリップだったとか。
1630年代に入って、それまでの一個取引から、「アース」という小さな
単位の取引に変わったのが引き金だったとか。
108世界@名無史さん:02/05/11 12:49
17,8世紀のオランダにおける言論の自由(というか出版事情というか)が、
ヨーロッパの啓蒙思想に与えた影響、ってどのくらいあるのでしょうか?

ガゼットだとかパンフレットとか扇動的な著作だとか、
そういった出版物の歴史ってなにか参考になる本ありませんかね?
109世界@名無史さん:02/05/11 22:25
>>108
邦語だと、
ポール・アザール「ヨーロッパ精神の危機」
ピーター・ゲイ「自由の科学」
あたりではないでしょうか?
110世界@名無史さん:02/05/16 14:38
チューリップの投機についてだけど、1ヶ月で120ギルダーから1500ギルダー
にはね上がった例もあるとか。
最も高値をつけた「常夏」という品種は、球根ひとつが1万3000ギルダー。
レンブラントが破産したとき、売り払った邸宅の値段は同じ1万3000ギルダー
だった。
111世界@名無史さん:02/05/30 04:57
オランダに集まった思想家や科学者についてあんまり語られてないなぁ。
デカルトの本とか読んでると有名な人物同士のつながりが見えてきて
けっこう面白いよ〜。
112世界@名無史さん:02/05/30 05:05
>>111
まず自分で話題を触って欲しいな。
ウンチクであっても喜んで聞くよ。
113世界@名無史さん:02/06/11 16:21
age
114世界@名無史さん:02/06/11 22:43
カルヴィニズムは、オランダ人のものの考え方にどのくらい影響を
与えていたのかな。
カルヴィニズム=厳格というイメージがあるけど。
115世界@名無史さん:02/06/11 22:53
>>87
亀亀レスで申し訳ないが、ベアトリクス女王の夫がドイツ人です。
(お母さんのユリアナ女王の夫もドイツ人なの?)。
結婚式当日は抗議デモもあった。
三代続いた女王も、次には終わる。
116世界@名無史さん:02/06/11 23:04
>お母さんのユリアナ女王の夫もドイツ人なの?

ベルンハルト殿下ですね。
この人は武器商人として有名で、ロッキード事件にも関わっていたとか。
117115:02/06/11 23:15
>116
ありがとうございます。
かなり怪しげな人ですね。
検索したら怪しげな情報が結構出てきました。
オードリー・ヘップバーンまで出てきた。
118世界@名無史さん:02/06/12 02:41
オラニエ公ウィレム沈黙公暗殺から、息子のナッサウ伯マウリッツが
イニシャティブを握るまで、オランダを支えたと言われる
オルデンヴァルネフェルトについて詳しく教えてもらえませんか?
最終的にマウリッツに処刑されるも、最後まで潔かったとか?
119世界@名無史さん:02/06/12 03:23
>>100
そうかな?
たとえば同時代のスペインは完全に斜陽だったけど、フランドルは別格とはいえ、
イベリア半島でベラスケス、ムリーリョ、スルバランら優れた画家が輩出してる。
破産宣告までしたフェリペ2世統治下のスペイン芸術の「黄金時代」をどうみる?
120世界@名無史さん:02/06/12 03:33
>>114
一応カルヴァン派が国教になっていたけど、カトリック、メノナイト、ユダヤ教、ルター派、ユグノーもいたよね。
アムステルダムが最盛期を迎える以前の中心地ハールレムではカルヴァン派の割合は5割未満。
1600年以前はレヘントにもカトリックがいたくらいだった。
サイモン・シャーマがThe Embarrasment of Richesという面白い本を書いてます。
表題のとおり、当時
121世界@名無史さん:02/06/12 21:42
>>118
オルデンバルフェルトは、確かホラント州の指導者だったと思う。
ウィレム1世の死後、マウリッツと協力してオランダの政治・外交を支えた。
スペインの脅威が去ったあと、オランダでオラニエ家とホラント州の対立が
激しくなって、1609年、スペインとの間で12年間の休戦が結ばれたあと、
国内は国民統一派と地方自治派の内乱状態になって、マウリッツの軍隊が
ホラント州を制圧し、オルデンバルネフェルトを処刑。
122世界@名無史さん:02/06/12 21:46
オランダ精神とは「割り勘の精神」
と、「けち」である。
123世界@名無史さん:02/06/12 22:23
ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt)
(1547-1619)
ユトレヒト州アメルスフォールト(Amersfoort)のレヘント(都市門閥)の家に生まれる。
オランダ反乱の勃発と同時に沈黙公の下に参じる。
1576年、ロッテルダムの法律顧問になる。
1586年、ホラント州の法律顧問(共和国の実質上の首相格)になり以後終身同職を勤める。

この人、ホラント州出身者でないにも関わらず、また40になるかならないかの若さであるにも関わらず
共和国最高の重職に就いたことからわかるように、抜群の逸材ですね。
ただ、謹言実直・精励恪勤な性格の反面、傲岸不遜・人間的魅力に欠けるとの評も。
124世界@名無史さん:02/06/13 00:22
>>121 >>123
グロティウスはこの人の部下(弟子?)になるんでしたっけ?
ようは中央集権化の妨げになったので殺される事になったんでしょうか?
125世界@名無史さん:02/06/13 01:34
>>124
マウリッツとオルデンバルネフェルトの相克は
>>121氏の言及した1609年の12年休戦が遠因。
(戦争継続派のマウリッツら軍首脳+ゼーラント州・アムステルダム市のレヘンテン
 VS 休戦推進派のオルデンバルネフェルトらホラント州のレヘンテン)

これに1610年頃から始まるカルヴィニズム内の神学論争がからむ。
(レモンストラント派=穏健カルヴィニスト VS 反レモンストラント派=厳格カルヴィニスト)
劣勢のレモンストラント派は神学論争沈静化へ向けての州政府・市政府の介入を要請する。
オルデンバルネフェルトらレヘンテン主流はインテリ=エラスムス思想の徒=「寛容」の徒。
よってDQNな反レモンストラント派の増長を好まず、
エラストゥス主義(国家が宗教事項に大幅に介入すべし、という考え)的政策をとる。
対抗上、反レモンストラント派はオラニェ家に接近、一般大衆を巻き込んでブロック形成。

直接のきっかけはオルデンバルネフェルトが、
総督職(=マウリッツ)をバイパスする州兵的制度を作ろうとしたこと。
マウリッツは、己の聖域(=軍部)を犯されたとしてついに腹をくくり、クーデター決行。
オルデンバルネフェルトらの逮捕・処刑に至る。

ただし、根本には>>121氏の言う
>国民統一派と地方自治派
の対立という共和国の国制に由来する重大な争点が存在した。
オルデンバルネフェルトらは、「主権はあくまで各州(議会)に存在する」ゆえに、
各州が独自の軍事力を持つことは許される、としたのに対し、
マウリッツらは「主権は連邦議会に存する」ゆえに、
各州が連邦に諮らずに勝手な振る舞いをすることは許されない、と主張した。
(さらにこの議論の裏には、「総督職」という特殊な地位をどう理解するのか、
 あるいは、「総督職」に対して連邦統合上の役割をどの程度認めるのか、
 つまり、はっきり言うと、オラニェ家に擬似君主的なステータスを認めるのか否か
 という争点が存在していた。)

長文御免。sageよう。
126世界@名無史さん:02/06/13 01:50
>>124
グロティウスはオルデンバルネフェルトの部下・同僚?ですね。
1618年当時はロッテルダムの法律顧問でした。
当時まだ35歳でしたが、バリバリの論客でオルデンバルネフェルト派の知恵袋。

オルデンバルネフェルトとグロティウス、もう一人、ホーヘルベーツというライデンの法律顧問
が反逆罪で訴えられるわけですが、後2者は終身刑。
グロティウスが2年後、書籍用のタンスに隠れて逃走したことはわりと有名ですね。
127世界@名無史さん:02/06/13 17:20
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/hikin/hikin05.html

一六一八〜一九年、ドルトレヒト会議が開催され、アルミニウス派の敗北が
決定し、グロティウスもまた、一九年、国家転覆陰謀罪として財産没収・終身禁固の
身となり、ルーフェシュタイン島城に幽閉されてしまいます。彼は、この城中で
『キリスト教の真理』(出版1627)などを執筆していましたが、二一年、妻の
協力を得て書物運搬箱に隠れ、ようやくここから逃げ、パリでルイ十三世
(1610〜43)の保護を受けることとなりました。
128世界@名無史さん:02/06/19 08:39
戦争しっぱなしでも規律が良かったオランダ軍。あげ
129世界@名無史さん:02/06/19 16:32
M・ウェーバーは、マウリッツのオランダ軍が、欧州における「合理的規律」の
原点であるとしている。彼は、戦争の変化として火器の出現よりも、規律の発生
のほうを重視した。
ただし、マウリッツ軍が「近代的軍隊」の祖であるとは考えていないことに注意。
ウェーバーの言う軍隊の近代化の基準とは、物的経営手段の集中の度合であり、
マウリッツの軍隊でも、この点については未だ中隊長レベルに握られていた。
130世界@名無史さん:02/06/20 02:32
>>129
そのことに触れているのはウェーバーのどの著書ですか?
131世界@名無史さん:02/06/20 23:57
現在のオランダ凄い。
ワークシェアリングの実効化、同性の結婚、売春の合法化、
軽いドラッグの解禁、障害者に対するセックスボランティア。
なんか「実験する国家」っていう気がする。
132 :02/06/21 00:32
ちょいと質問です。
1585年にアントワープがスペイン軍に破壊されたのは何故?
アントワープは1581年のオランダ独立宣言に参加していないのに・・・
133世界@名無史さん:02/06/21 00:46
この時期には南ネーデルラントも反乱に参加してたんじゃなかったっけ?
134世界@名無史さん:02/06/21 01:14
>>133
>この時期には南ネーデルラントも反乱に参加してたんじゃなかったっけ?

だと思います。
通常、1581年の独立宣言とされる文書は、
連邦議会による1581年7月のthe Act of Abjuration
(=「(フェリペ2世への)忠誠義務撤回の決議」)を指しますが、
この時の連邦議会にはアントワープの属するブラバント州も代表を送っています。

ただ動乱期はいつもそうですが、個々のアクターの動きは本当に複雑で、
あるいはこの時点でアントワープはブラバント州代表に加わってなかったかも知れない。
ちょっと調べないとわかりませんが・・・

この辺、普通は79年のアラス同盟とユトレヒト同盟の成立で
はっきり「離婚」が成立した、というふうに説明されるのかな?
実際にはやっぱり複雑で、
アラス同盟には南部の3州(エノー・アルトワ・ドゥエ)のみが含まれ、
フランドルやブラバントは様子見、というか
親ユトレヒト同盟派(とっとと独立派)・親スペイン派(アラス同盟派)
そして76年ヘントの和約の線(南北協調路線)に立つ親オラニェ公派
の綱引きの場になっていました。
個々の都市ごとに、あるいは都市の内部でも対応は様々だろうけど。
135世界@名無史さん:02/06/21 07:56
>>132>>134

そもそも1581年当時、連邦議会はアントワープにありました。

ホラント州・ゼーラント州らユトレヒト同盟中核勢力(急進的反スペイン・反カトリック)と
オラニェ公+ブラバント州ら中部諸州(穏健的反スペイン・新旧教の融和)
の間に反乱の主導権を巡って暗闘が存在したことは確かですが、
時のスペイン側ネーデルラント執政・パルマ公には、
アントワープは賊徒の巣窟・攻略の対象として映ったことでしょう。

また、1576年に史上Spanish Furyと呼ばれるスペイン軍の暴動
が起きていたため(スペイン王の給料の不払いが原因)、
アントワープの反スペイン感情には大変強いものがあり、
パルマとしてもアントワープがそう易々と城門を開かないだろうことは重々承知していました。

なお、パルマが南から一つ一つ反乱諸都市を制圧していくに連れて、
それを避けるかのように連邦議会は1583年にゼーラント州のミッデルブルフに、
その後最終的にホラント州のハーグに移ります。
136世界@名無史さん:02/06/21 15:25
>>130
『支配の社会学』(世良晃志郎訳)です
詳しい章立ては忘れてしまったんですが、合理的規律については2巻、
軍隊の近代化については1巻に出ていたはずです。
137世界@名無史さん:02/06/21 23:55
>>135
それ初耳です。
1581年の時点で全国議会はハーグに移ったんじゃなかったっかな。
最前線のアントワープで元宗主への臣従拒否宣言なんてするかな?
あと、全国議会が連邦議会に名前を変更したのはたしか1584年だったと思う。
J.ParkerのDutch Revoltが手元にないので英語表記はわからないけど。

>>136
どうもありがとうございます。早速調べてみます。
138世界@名無史さん:02/06/22 00:18
アントウェルペンとかアンヴェルスとかアンヴェールと呼んで欲しい、今日この頃。
139世界@名無史さん:02/06/22 00:26
んじゃ、ハーグはデン・ハーフかス・フラーヘンハーフェと呼びますか・・
140世界@名無史さん:02/06/22 01:04
136>
なんかsage進行でいいのだろうか?、と思ったけど結局sage。

>>137

>1581年の時点で全国議会はハーグに移ったんじゃなかったっかな。

Jonathan Israelの The Dutch Republic;Its Rise, Greatness, and Fall 1477-1806
によると
「1583年8月にStates Generalはその開催地をアントワープからミッデルブルフに、
 さらにデルフトへ、最終的にはハーグへ移した。」
ということらしいです。

>最前線のアントワープで元宗主への臣従拒否宣言なんてするかな?

1581年、トゥルネー・アウデナールデ(スヘルデ川南岸)
1583年、ダンケルク・ニューポールト(フランドルの海岸地域)
1584年、イープル・ヘント(フランドル主要部)
1585年、ブリュッセル・アントワープ(ブラバント)
という風に陥ちているようですから、1581年にはまだ余裕があったのでは。
確かに、かな〜りヤヴァい状況ですが。
84年にオラニェ公が暗殺されてから反乱の主導権が完全にホラント州に移り、
前後してブラバント州が(政治的に)放棄されて行く、という流れだと思います。

>あと、全国議会が連邦議会に名前を変更したのはたしか1584年だったと思う。

この議会は、ブルゴーニュ時代から Staten Generaal(States General)ではなかったでしょうか。
ちょっと自信ないけど。
どう訳していいかわからなかったので・・・・
身分制議会や等族議会というのも変だし。Etats generauxと同じだからと言って三部会はないだろうし。
連邦議会というのはテキトーです(汗)。
141135:02/06/22 01:10
間違えました。
140は
136>
ではなくて
135>
でした。
142世界@名無史さん:02/07/15 00:58
八十年戦争はマウリッツ率いる陸軍の勝利であると同時に、スペインを破産に追い込んだ私掠船作戦の勝利でも有るよね。
143世界@名無史さん:02/07/15 03:27
1にもどって、あんな辺境の小国が「どうして」、を簡単に言うと何かな。
144世界@名無史さん
辺境の小国じゃなかったから