1 :
オランニェ公ウィリアム :
01/11/21 01:43 北欧の小国ながら北海、バルト海、インド洋、果ては東洋にまで進出し、 ヨーロッパ史の奇跡と言われるほどの躍進を遂げたオランダ共和国。 その繁栄は16世紀末から17世紀中頃までと短かったが、どうして あんな辺境のの小国がヨーロッパ随一の富と繁栄を勝ち得たのか? 改めて語りましょう。
2 :
パトリック・クライフェルト :01/11/21 01:53
2002年に日本にこれなくて申し訳ありません!
3 :
世界@名無史さん :01/11/21 01:55
1)スペイン・ポルトガルさえ倒せば世界制覇ができたから 2)新教国だったから
4 :
世界@名無史さん :01/11/21 02:02
質問! アルマダを撃退したのはイギリス?それともオランダ? 本によって記述が違うんだけど。
イギリスが有名なアルマダの海戦でスペイン艦隊を壊滅させた後、 フェリペ2世は艦隊再建するのよ。 んで、それを使う前にお亡くなりに(-人-)チーン☆ んでんで、その再建後のスペイン艦隊を撃破したのがオランダ。
6 :
オルデンバルネフェルト :01/11/22 01:52
>>2 >1)スペイン・ポルトガルさえ倒せば世界制覇ができたから
あの、それって国力の差から考えても到底無理だし、東アジア貿易
は別として、実際倒してないので理由になってないと思うのですが。
海上権制覇=世界制覇ってのもかなり無理な論法だと思うのですが
>2)新教国だったから
もうちょっと具体的に・・・
>>6 ヨーロッパの前に現れた世界はスペイン・ポルトガルによって二分
してよいことが認められました。(カトリック教会の傲慢でしたが)
スペイン勢力・ポルトガル勢力がすべてであったヨーロッパでは
それらを駆逐することはすなわち世界制覇を意味したと思います。
あくまで「狭いヨーロッパでの格付として」です。
実際達成されたわけでもなく大袈裟な表現でしたね、すいません。
8 :
世界@名無史さん :01/11/23 18:43
オランダのスペインからの独立って英国の援助を受けてたんですよね。 その後英国との関係が悪化すると英蘭戦争になって没落するし。 やっぱり英国との関係を無視してオランダが超大国になるのは無理だったのか?
9 :
デ・ウィット萌え :01/11/23 19:28
東インドの遠洋では、一時的にイギリスの派遣をおびやかしたらしいけどね。 1619年のジャワ島決戦とか。 東インド会社の資本金は英東インド会社の18倍。 ユグノーやピューリタン、ユダヤ人の流入以前に、16世紀に北海漁業でためた資本が 不自由な国土(低地)に拘束されない運輸・貿易になだれこみ爆発的な富を生み、それが自己目的化して オランダは発展したのですねえ
オランダは1609年のスペインからの形式的独立後、 必死になってイギリスの某卿やエリザベスを国王として迎えようと 躍起になってましたね。イギリスの属国となってでも延命しようとしていたの でしょうか。でもそれらの工作は全て失敗。 ところが、17世紀末にオレンジ公ウィリアムがイギリス国王になってる。 正直、当時のイギリスとオランダの関係ってよくわかりません。
11 :
貿易競争から新教国家同士の連盟へ :01/11/23 21:06
やはり、17世紀においてスペインからフランスに大陸の圧力国家がかわったことが、 対英関係の改善につながったのでしょうね。 太陽王ルイ14世がカソリックとして反プロテスタント十字軍の御旗を立てて 国家膨張、欧州覇権にのりだしたのが1660年代、70年代に英蘭は干戈をまじえましたが、 80年代にはフランスの圧力をおさえるために対仏連盟(オランダにとっては従属)を結ばなければ、 なりませんでした。 名誉革命の詳細は省略しますが、オランダ総督ウィレム3世が英国王になれたのは、 弛まぬ英国王室との姻戚政策のおもいもかけぬ遺産と私見します
しかし、チューリップバブル。 今から思えばニッポンのバブルとうり二つだったんだね
13 :
もうしわけありませんが・・ :01/11/23 21:19
ずっと気になっていたのですが、オランダのサッカー代表チームの ユニフォームがオレンジ色なのは、やはりオレンジ公ウイリアム に由来しているのでしょうか?板違いであるのはわかっておりますが、 オランダのスペシャリストの方々に聞いておきたいと思い書きました。
14 :
世界@名無史さん :01/11/23 21:22
ウィリアムはオランエ家ですよ オレンジは英語読みでは
15 :
世界@名無史さん :01/11/23 21:24
がーん! チューリップ・バブルについてはガルブレイス・ファンの私は幾らでも 書けますが、オランダのサッカーチームの色については皆目見当がつきません。 やはり偏頗な教養はよろしくない。 わたしも知りたい。誰か教えて
16 :
世界@名無史さん :01/11/23 21:37
>10 1609年はスペインとの間に12年休戦の結ばれた年で、むしろ実質的独立の方では? (形式的は48年) >必死になってイギリスの某卿やエリザベスを国王として迎えようと >躍起になってましたね。 これは1580年代の話では? 当時のオランダとしては、君主のいない統治形態は非常識に近く、 フェリペ2世を見限ったあとも、 オーストリアの某大公→フランスのアンジュー公→エリザベスの順に 打診するが交渉は実らず、 もう、しょうがない、ということでウィレム1世のホラント伯即位工作が進んでいたところ、暗殺。 結局、予定外の共和制体が行き当たりばったりに成立した・・・・ 但し、主権の所在や総督の国制的地位を煮詰めることなく・・・・という経緯だったと思います。
17 :
世界@名無史さん :01/11/23 21:41
18 :
世界@名無史さん :01/11/23 21:50
英蘭戦争ってオランダの負けなんやろか? あるいは英蘭戦争=オランダの没落なんやろか? 何かゆっくり、ゆーっくり没落していったという感じがするのだがするのだが。 国際政治で言うと、スペイン継承戦争までは、ギリギリ強国として機能していたように思うのですが。
19 :
世界@名無史さん :01/11/23 21:51
なんだ。オラニエはオレンジでいいと。 表象は事物をさしていて形態が一致しなくとも可ですな
>>17 さんありがとうございました。長年の謎が解けて嬉しいです!
自分もオレンジは英語読みだしな〜とは思っていたのですが、
それでもオランダのシンボルカラーはオレンジなんですね〜。
サカーネタなら任せて。
オラニエ家の旗はオレンジ一色。
>>14 の指摘するとおり、オラニェは英語でオレンジですな。(といってもオランダ語で果物のオレンジのことはsinasappelなんですが)
大文字で始まっていればオランダの王家の姓です.
サッカーのナショナルチームがオレンジ色のユニフォームを着けているのはこの旗からとってるそうです。
ちなみに彼らのことを Oranje Elftal (オレンジ色の11人)とも言うらしい。
蛇足:
オランダの三色旗、元々はオレンジ・青(緑?)・白の組み合わせで
オレンジ:オラニエ家への感謝
白:平和
青:森林
を意味してると聞いたことがあるんだが事の真相は如何に???
P
あ、既に書かれてておいらの書き込みは手遅れになってた。 無駄遣いスマソ
23 :
世界@名無史さん :01/11/23 21:59
>18 正解正解。17世紀に英仏スペインの欧州覇権の間隙をぬって、商業資本を中心に 勢力のばしたけど、産業資本が育たなかったから、18世紀になるとそっち方面は イギリスにとられた。 英蘭戦争って、戦略的に膠着状態になって終わったのでは? オランダ海軍もテムズ河遡って、どっかの造船所砲撃してクラレンドン伯 引責辞任にまえ追い込んだけど、結局、両国とも海上交通妨害しあって疲弊して 政治的決着をみたと記憶
24 :
世界@名無史さん :01/11/23 22:05
>21 なるほどねえ
25 :
世界@名無史さん :01/11/23 22:08
優良スレですな
26 :
世界@名無史さん :01/11/23 22:10
おれはサッカーネタでひとつ利口になった
27 :
世界@名無史さん :01/11/23 22:15
オランダには大変申し訳ないのですが、オランダって朝鮮に 似てますよね。イギリスが日本の立場
28 :
世界@名無史さん :01/11/23 22:20
いや。それを仰るならアイルランドでしょう。 オランダの17世紀の富の蓄積と、アントウェルペンの今世紀までつづく繁栄は、 これはなかなか・・・
29 :
世界@名無史さん :01/11/23 22:53
>27 外洋への出口をイギリス(日本)によって押さえられてる、という 地政学上の優劣なら似てるかも。
30 :
世界@名無史さん :01/11/24 01:51
>>16 そうでしたね。時系列完全に間違ってました。すいません。
>1609年はスペインとの間に12年休戦の結ばれた年で、むしろ実質的独立の方では?
(形式的は48年)
外交上の完全な独立という意味では1609年はイギリスその他(度忘れ)が
少数承認しただけで、1648年のウェストファリア条約で、スペイン、フランス、
から完全に認められたと思うのですが。
共和制体についてですが、当時のオランダは完全な共和制と呼んでもいいのでしょうか?
ホイジンガあたりは都市富裕層の既得権益の確保の結果できあがった
擬似共和制みたいなことを言っていますね。
ホイジンガという名前を出す時点でドキュンですが、彼の現在の歴史家としての
位置付けがどうなってるかご存知の方いますか。
31 :
デニス・ベルカンプ :01/11/24 04:19
飛行機、怖いねん。
32 :
世界@名無史さん :01/11/24 04:21
>>9 一時的には、って、東南アジア方面にまともにイギリス勢力が広まるのって18世紀以降じゃ?しかも後半。
結局オランダの繁栄って
ポルトガル・スペインが東南アジアに強固な基盤をつくれなかったおかげのような。
>>32 ってえ事は、かつてのオランダは「ニッチ(隙間)産業」の元祖だったってぇ訳ですか
ますますオランダに萌え萌え
>商業資本を中心に勢力のばしたけど、産業資本が育たなかったから、18世紀になるとそっち方面は
>イギリスにとられた。
>>23 段階論はもうやめにしましょうよ。50年前の教説ですぜ・・・
間違っていますよ。
35 :
23じゃないが :01/11/24 15:33
>34 間違ってるいわれてもなあ。げげげといわれても、会話にならんし。 まず、これこれこうといわなきゃ
36 :
世界@名無史さん :01/11/25 11:23
オランダってけっこうエゲツナイこともやってるね。 オランダの商人に敵国であるスペインに武器を売ったのがいて 当時同盟国だった英国が怒ったとか、 日本の鎖国政策も他の商業上のライバル(朱印船、中国、ポルトガル、スペイン、 英国)を締め出したいオランダの策謀があったとか。
37 :
世界@名無史さん :01/11/25 13:29
オランダは現代文明揺籃の地。 そもそも魔女狩りが欧州でもっとも早く終結したのがここ。 人間理性による自然改造、ブルジョアによる政治支配、 他国への技術移出による荒地の沃土化(アングリアやロシアなど)、 資本主義の様々なシステムなどなど 先陣を切った近代国家だった。 16,17世紀のオランダと比べれば、英仏独西どれをとっても 野蛮で無知蒙昧な王国にすぎん。 いまでも市民的自由の分野では前衛である。 名誉革命は事実上のオランダ王による英国占領であり、 英国人にとっては不名誉すぎることなので、 やけくそで「名誉革命」と詐称しているのである。 ボナパルトやヒトラーによる占領は災難だったが、それでも この400年のオランダ史を「衰退の一途」と括っていいのか?
38 :
世界@名無史さん :01/11/25 18:55
確かにオランダって進取の気性に富んだ国だけど、その反面、 あまりにも個人主義的な考え方が強すぎてソンしてる部分があると思う。 いろんなシステムを考案しても、結局後発の英国に超大国の座を奪われちゃった。
39 :
EXODUS@美術鑑賞板 :01/11/25 23:34
個人主義・・・・。うーん、オランダは外見上とても現代の民主国家、 資本制と似通った面をもってるけど、必ずしもそれがプラスの思考法 から生まれたわけではないと思う。(といってもそう一筋縄ではいかないのが 歴史の流れなんですけどね) 上でホイジンガの名前があがっているけど、彼曰く、オランダの 政治行政システムはほとんど中世のギルド制、ギリシャ・ローマの都市国家 の方式を受け継いでいるという。現代の国民国家ではなく、一部の都市貴族 富裕な商人層による寡頭支配型国家。 そこでは、絶対君主による抑圧が少なかった分、個人の自由な行動が保証 され、それが技術の発展にもつながっていったのだろうけど、逆に国家としての 機能は隣国に相当遅れをとっていたと思う。そこが17世紀後半の急速な没落と 関係があると思う。 それから、個人レベルで見てみると、オランダ人は急速な富の蓄積に 戸惑っていたらしい。チューリップや絵画への莫大な投資がそのいい例だし、 フランス貴族の真似をしたりと節操がない。 オランダ人が国家というものを少しは意識していれば、国家を纏め上げる 思想なり人物なりがもしいたとしたら....... けど、この時代にこれだけ多宗教、多民族の国民国家が生まれていたとしたら、 奇跡ですね
40 :
世界@名無史さん :01/11/25 23:57
オレは
>>37 氏に近いかな。
国民国家=「強い国家」の時代に、「弱い国家」+「強い社会」の持った可能性について、
近代オランダ史は十分に示していると思う。
18世紀以降、「強国」になりそこなったことなど些細なことだし、
その過程を「衰退」と捉える必要はないだろう。
・・・・というのも、例えば、岡崎久彦という人だったかな、
オランダ共和国=安全保障を考えない「弱い」ダメ国家、という感じで、
「日本もオランダみたいになっちゃダメだよ」
と言ってのけるオランダ観が多いんだよね・・・
41 :
ベンゼン中尉 ◆fjTeojqQ :01/11/26 00:19
オランダ人といえば、高身長と木靴に長崎出島くらいなものであるが、 東インド会社っておもろい名称ですね。
42 :
世界@名無史さん :01/11/26 00:33
麻薬売春安楽死合法の国 おらんだ
普通「東インド会社」というとイギリスのことを思うかもしれないが、 (設立はイギリスが1600年でオランダは2年後の1602年) しかし重要なことはオランダの東インド会社(VOC)が世界初の 株式会社として発足したことである。 イギリスの東インド会社は当初は当座会社でしかなく株式という発想はなかった。 資金もオランダの10分の一に過ぎなかった。しかしイギリスのほうが 有名になってしまったのにはいくつか理由がある。オランダの場合インドと いっても交易の中心がインドネシアだったこと、会社の繁栄の期間が イギリスのほうが後からで長かったこと、それに歴史の教科書においては 自国のことが優先的に賛美されるから、イギリス主体の歴史書では後に 覇権を握ったイギリスの東インド会社ばかりが強調されることになって しまったのである。
会社という形態ならばイタリアのベネチアなどでは古くからあった。 だが会社といっても「当座」会社で株式会社ではなかった。当座とは、 その都度「座」を開き出資者から資金を集め、船を用意して遠方に買付けに いって利益を分配するという一航海限りのやり方である。 船が沈んだりすればすべてを失う。他社と競合がおきれば商品の値が下がり 利益がでない。 そこでもっとリスクを分散した恒常的な方法がないものかオランダで考え られたのが「株式」会社で、要員を集め、船を建造し、航路を決定し、 商品の販路を確保した。 このようにして株式会社としての体裁が整い史上最初の世界企業が できあがっていったのである。物事を組織的に運営するという現代の ビズネスの原点はここから始まったといってもよいだろう。 資本主義の最大の発明は「株式会社」だといわれる。その意味において オランダの果たした役割ははなはだ重要なのである。
当たり前過ぎて恐縮ですが、ライン河の河口の港湾都市(海船と河船の積み替え港)として 栄えたのですよね。とするとライン河岸の諸都市の繁栄と連動していたのでしょうね。
>>45 ちがうと思うよん。
ライン川下流のマース河河口に位置しているのはアントウェルペン。
当時も今もオランダの中枢都市アムステルダムはライン河とはあんまり関係ない。
むしろオランダは海洋貿易で栄えたと思うよん。
47 :
世界@名無史さん :01/11/27 00:04
>>33 まあその通り。
でも実際にオランダが恐れたのは華僑や東南アジアの諸民族だったと思う。
マラッカが落ちた後のポルトガルなど取るに足らない相手だったろうが、鄭家は・・・
>>40 「国民国家」が台頭し始めた時代にはすでに「衰退」していたと思うが。
48 :
世界@名無史さん :01/11/27 00:09
>>43 日本史の人にとっては東インド会社=オランダだと思う。
オランダ東インド会社は確かに扱いが低いと思うが、
イギリス東インド会社は帝国主義を体現しているから強調されるのも仕方ないと思う。
>>45 むしろライン川やその周辺が衰退したから、台頭できたのかも。
49 :
世界@名無史さん :01/11/27 00:22
対スペイン英蘭同盟=対ソ日米同盟 敵国に武器を売るオランダの無節操さ=安保ただ乗り日本 スペインに勝って同盟は必要なくなった=ソ連に勝って同盟は必要なくなった イギリスぶちきれ英蘭戦争=? ?が現実にならないように気をつけましょう。
50 :
世界@名無史さん :01/11/27 00:35
>>46 揚げ足取りになるかな?
アントウェルペンはスヘルデ川の河口部です。
あと、オランダの経済基盤の話で言うと
北海〜バルト海貿易とか大西洋貿易とかも重要なんだろうけど、
ライン・マースなどの内陸河川関連の貿易もやっぱ無視できないのでは?
あの辺は無数の水路・運河で結ばれているし。
>>47 すまソ。おっしゃるとおりだが。
フランス革命〜ナショナリズム以降の厳密な意味での「国民国家」でなしね。
絶対主義モデルと結びついた、前期的なソレ、ぐらいの意味です。
(言い忘れたが俺は
>>40 )
51 :
世界@名無史さん :01/11/27 17:21
「黄金の世紀」といわれる17世紀に対して、 18世紀はしばしば「かつらの世紀」と呼ばれます。 かつらというのは内に充実したもののない空虚な飾りという意味。 そこで、オランダが18世紀も繁栄を続けるにはどうすれば よかったのでしょうか?
ニシンをもっと売っていればよかった。 各州が団結してしっかりした軍隊をもって 今のアメリカみたいな連邦国家としての政治体制を整備しておくべきだった。
53 :
世界@名無史さん :01/11/28 01:06
>>52 >各州が団結してしっかりした軍隊をもって
>今のアメリカみたいな連邦国家としての政治体制を整備しておくべきだった。
理論レベルでは、参政権の拡大と連邦制の整備(連邦の執行権力の強化)を唱えて、
レヘンテン主導の寡頭制を打破しようとした共和主義の流れ(哲学者のスピノザとか)はあった。
んが、改革勢力が社会的な力を持てなかった、というのが問題なんでしょうね。
結局は、経済の停滞が抜き難く作用しているというか・・・
あと、18世紀はやっぱ「勢力均衡」全盛の時代ですから、オランダ程度の規模だと対外関係の影響をモロに受けるというか、
ちょっと動きがあると周りに潰されるということがあったでしょう。
18世紀末にはアメリカ革命の影響を受けた「パトリオット」らが国政を一時掌握するが、
プロイセン軍の介入によりソッコーで潰されます。
オランダの18世紀・・・なるようにしかならなかった、という気がするなあ。
まあ、スペイン・ポルトガルみたいに「近代」に乗り遅れなかっただけでも良しとしなくちゃ、という感じでしょうか。
54 :
世界@名無史さん :01/11/28 21:09
>53 そおかあ、やっぱり無理か。 でも英蘭戦争の記述とか読んでると、負けるにしてももうちょっと マシな負け方(?)はできなかったのかと思っちゃう。 あと、インドネシアの植民地支配にしてももうちょっとイギリス のやり方を取り入れるとか。
55 :
西国のアズマ帰依者 :01/11/28 22:07
18世紀は衰退の世紀というけど、 世界における金融の中心はアムステルダムにあったことをお忘れなく。 引受信用、アムステルダム振替銀行、手形譲渡裏書制度の3本柱で。 ロンドンに中心がうつるのは19世紀以降
56 :
世界@名無史さん :01/11/28 23:16
オランダの実力でウエストファリア奪取できなかったのかな。 そうなればドイツ3分割(オランダ・プロイセン・オーストリア)で ドイツは勢力均衡して、なおかつある程度力のある国民国家になったと 思うけど。オランダ語とドイツ語はかなり近いみたいだし。ベルギー なんかよりうまくいくと思うんだけどな。
57 :
ふれいへいど :01/11/28 23:50
国民国家というものには、どことなく宗教的な匂いがある。 それが国民国家の怪しさであり、いまひとつ信用できんとこだ。 オランダはいかにもといった感じの国民国家にはなれんかった。 でもそれは市民社会としてすでに成熟していたからではないのか。 後発国のほうがナショナリズムの高揚は激しいでしょう? 19世紀なら日本やドイツ、現代だってしょーもない 野蛮な国のほうが愛国心に訴えがちでしょう? オランダ人にとっては、「オランダまんせー」よりは 「ギルダーまんせー」というかさ、でもそっちのほうが 人間らしくていいんじゃないの? うらやましい国ではあるぞ。
58 :
世界@名無史さん :01/11/29 20:16
オランダと南アフリカの近代における関係はどういうものだったの? なんか今でも南アに親戚にがいるオランダ人て多いみたいだけど。
59 :
見せかけ社会 :01/11/29 21:55
オランダって世界で唯一、麻薬の使用が法律で認められている国じゃなかったっけ? 麻薬といってもコカインとかじゃなくて、ハッシシやマリファナみたいなまだ軽いもの 昔から進んでる国とは聞くけれど、違う方向にも進んでらっしゃる気が…。 この事について詳細知ってる方が居られれば、是非ご教授を
61 :
ふれいへいど :01/11/29 22:50
>>59 マリファナ解禁は市民的自由擁護精神のあらわれともいえるが
ジャンキーが増えすぎてどーしよーもなくなった末の
苦肉の解決策でもあった。
合法なのはカンナビス(マリファナ、ハシッシ)くらいで、
ヘロイン・コカイン・LSD・エクスタシー・シャブは禁止。
しかし罰則は甘く、問題行動の多い麻薬常習者に対しても
「専門病院で入院治療をうけるか刑務所に行くか」
という二択が提示される。
またジャンキーに対して、AIDSやB型肝炎の蔓延を
防止するため、麻薬注射用の針まで政府は無償で供与する。
カンナビス解禁以来、非合法麻薬常習者の実質的人口は
公式には「増えていない」とされている。
カンナビス売買にしても市内の特定地域のライセンス専門店
(「コーヒーショップ」という)で成人が自分用に
少量買うことに限定して許可されている。
これを「オランダ方式」というが、オランダだけでなく
スイスも最近採用している。
以上は精神医学の論文"Mental health in Amsterdam"より。
62 :
見せかけ社会 :01/11/30 00:30
63 :
世界@名無史さん :01/12/01 23:50
>>56 無理でしょう。
できるとすれば最盛期しかない
(19世紀初頭はプロイセンが強くなりすぎてる)けど、
オランダの最盛期は軍の司令官であるオラニエ家の勢力が衰えてて、
ホラント州は陸軍に全く力を入れなかったから。
第二次英蘭戦争のときなんか、逆にミュンスター
(ウェストファリアの小都市)の司教に
国中荒らされたりしてるし。
64 :
世界@名無史さん :01/12/02 11:30
オランダ人の「商業重視」という価値観や、人材の他国への流出が 衰退の一因になったとは考えられないのかな? 技術者とかはオランダにいても高く評価されないから。
65 :
世界@名無史さん :01/12/06 22:50
>>64 「商業重視」は国土の狭さ(日本の九州とほぼ同じ面積(泣)、資源不足等の
原因から生じたやむをえない結果だったのではないかな。
製糸工業やビール醸造程度の国内産業じゃたかが知れてるし。
技術者はオランダでは、重宝されていたはず。干拓や造船業などは群を抜いていたし。
そういえば、フィリップスという会社はオランダですね。
66 :
世界@名無史さん :01/12/06 23:57
>人材の他国への流出 黄金時代のオランダは他国の人材を吸収して繁栄したんだよね。 15.6世紀にイベリア半島を追い出されたユダヤ人しかり。 16世紀末のアントウェルペン陥落後、大量移住した南ネーデルラント人しかり。 17世紀末のナント勅令廃止により亡命したユグノーしかり。 デカルト・ロック・ホッブズも一度はオランダに居を構えている。
そろそろギアナ問題など…
68 :
梵阿弥さんマンセー! :01/12/11 18:10
梵阿弥さんはカバーする範囲が広いですね。 いろいろなスレでお見かけしますけど。 ご専門は何ですか?
専門は有りません。只の焼亡者です。
70 :
世界@名無史さん :02/01/01 22:33
あげついでに >67 ギアナ問題って何ですか? >66 たしかピルグリム・ファーザーズも一度は アムステルダムにいたんだよね。 でもなんで、みんな「一度は」なんだろう? 居心地が悪かったのか? それとも舞台として物足りなかったのか?
71 :
世界@名無史さん :02/01/14 20:34
>70 私もよく知らんのですが現ニューヨークは元ネデルラント王国領ニューアムステルダムでした。 1624年?にブリテンに譲る代わりにギアナ領有を認められたそうです。現スリナム共和国の 通貨はギルダーです。
73 :
世界@名無史さん :02/01/17 12:38
オラニエ家と議会の二元性とウエストファリア条約以後のフランス関係の悪化等が弱体化した原因じゃないかな。 そもそも繁栄自体ユグノーの流入やスペインからのユダヤ資本の流入などの一時的なものだったと思うけど。 英蘭戦争が没落の原因といわれるけど一方1667年にはプレダ条約によって東南アジアからイギリス勢力を駆逐し てるわけだし没落したと言うより他国に追い抜かれたと言った感じじゃないかな? 間違ってたらスマソ。
74 :
世界@名無史さん :02/01/18 20:40
中央公論社から出てる『世界の歴史25 アジアと欧米世界』を読むと、 17世紀のオランダにはイギリスのピューリタン革命やフランスの フロンドの乱のような「危機」が無く、構造転換をする必要がなかったのが 不幸なことだったと書いてある。 あと、移民を大量に送り出すには本国の人口が少なすぎたこととか。
75 :
世界@名無史さん :02/01/19 02:22
オランダの人口密度は世界でも指折り(のはず)
76 :
世界@名無史さん :02/01/23 08:37
今週末アムステルダム行くんだけど此処だけは行ってけってのはある? 本スレからずれるけど保存上げということでゆるして
77 :
世界@名無史さん :02/01/23 10:54
>>75 「移民を大量に」というところを、よく読めよ、お前。
78 :
世界@名無史さん :02/01/23 11:05
>>77 今はむしろ逆に移民を大量に受け入れている感じさえするからね。
サッカーのオランダ代表チームのメンバーを見ると…。
79 :
世界@名無史さん :02/01/23 16:15
オランダは当時としては金融資本が一番発達していた。 で、その「金融資本」とは何か? 利子。利息。金の移動。為替取引なんかもやっただろう。 要するに具体的なモノを作らなかった。 さて、ある国の情勢が不安定になったとき、そこに金を預け続ける人は いるだろうか? 普通はいないよね。 で、「金融国家」に金を預けてくれる人がいなくなったら貧乏になるわな。 他に金を作る手段がないんだから。 モノを作って売ってればそれを買う人はいるわけで、 それだけで金が得られる。 それをしなかったツケだと思う。 戦争自体は「没落」の大した理由にはならない、というのは 日本がよく示してる。
80 :
世界@名無史さん :02/01/25 03:17
ロイヤルダッチシェルはオランダの会社なんですか?イギリスなんでしょうか?
81 :
世界@名無史さん :02/01/25 05:55
その移民を送り出せなかったというのは初めて聞いたが興味深いね
82 :
世界@名無史さん :02/01/25 06:39
あまりユダヤ人の活躍が重視されてないね。 19Cにロンドンへユダヤ人が大量移民しなければ あるいは・・・
83 :
世界@名無史さん :02/01/25 15:08
>>79 そういうのを「生産中心主義史観」というのです。
あなたは、オランダについて、ウォーラーステインの説明をどのように反駁しますか?
84 :
世界@名無史さん :02/01/25 15:52
「大躍進」なんて書いてあると餓死者が3000万人くらい出た大惨事かと思ってしまう
85 :
世界@名無史さん :02/01/26 09:57
>>74 >17世紀のオランダにはイギリスのピューリタン革命やフランスの
フロンドの乱のような「危機」が無く、構造転換をする必要がなかったのが
不幸なことだったと書いてある
いわゆる「17世紀の危機」論争ですね。
オランダが「危機」の例外なのかは置くとして、
オランダが絶対王制的〜官僚制的なモデルを解決としてとらなかったことははっきりしている。
それが「衰退」の前提なのか、帰結なのか、それとも(経済的)「衰退」とは無関係なのか・・・
86 :
世界@名無史さん :02/01/26 18:43
レンセンブリンクのシュートが入っていれば・・・
ヨーロッパはどこでも同じだろうけど、オランダの移民流入への寛大さは今でも続いてるね。 オランダ皇太子がアルゼンチン女性と結婚したり、ベアトリクス女王の親がドイツ人だったり。
88 :
世界@名無史さん :02/02/10 05:20
クライフェルトアシストage
から揚げ
90 :
世界@名無史さん :02/02/24 17:34
>>80 資本関係は合弁だが、オランダに登記されている。
91 :
世界@名無史さん :02/02/24 17:37
>>87 ベアトリクス女王の父親って、ロッキード事件で名前が
出た人?
92 :
世界@名無史さん :02/03/03 21:40
ヘゲモニーあげ
( ´ ▽ `)y-~ ( ) | つ| ( _人__ )
( ´ ▽ `)y-~ ( ) | つ| ( _人__ )
( ´ ▽ `)y-~ ( ) | つ| ( _人__ )
96 :
世界@名無史さん :02/03/27 00:50
何でこんなに盛り上がらないのでしょ。 マウリッツの軍制改革でも語ろうよ。
97 :
世界@名無史さん :02/03/27 08:48
>>96 兵士たちにきちんと給料を払い、モラル向上に努めたんですよね。
当時低く見られていた塹壕掘りもやらせたり、スイス風密集方陣ではなく
多くの縦列を編成する方法にかえたり。
98 :
世界@名無史さん :02/05/07 15:59
オランダの右翼指導者殺される 移民規制主張 総選挙延期の可能性 【ブリュッセル7日=藤本欣也】オランダの右翼政治家で反移民政策などを掲げていた ピム・フォルトゥイン氏(五四)が六日、アムステルダム近郊で銃撃され、死亡した。 十五日には総選挙を控えており、同氏が率いる右翼政党の躍進が予想されていた。 “寛容の国”と評される同国で政治家の暗殺は初めてとみられ、総選挙が延期される可能性も出てきた。 フォルトゥイン氏は六日午後六時すぎ、ラジオ局での収録を終えて建物を出たところで、 胸などに六発の銃弾を浴びた。警察当局はオランダ国籍の白人男性(三三)を容疑者として逮捕したと発表したが、 詳細は不明。 コック首相は同日夜、「わが国の民主主義にとって名状し難い悲劇が起こってしまった」 とコメントし、国民に冷静になるよう呼びかけた。 同日、ハーグの政府庁舎周辺には右翼政党支持者らが押し寄せ、一部が商店を襲うなど暴徒化した。 フォルトゥイン氏は大学の社会科学の講師出身。「フォルトゥイン党」の代表として 、「オランダはいっぱいだ」「イスラム文化は遅れている」などと移民規制やイスラム教蔑視(べっし)の 発言を繰り返した。同性愛者であることを公言し、スキンヘッドの風貎(ふうぼう)をはじめ 派手な言動から注目を集めていた。 最新の調査によると総選挙では17%の得票率で議会内第三党に躍進するとの結果が出るなど、選挙後の連立内閣に参加する可能性を指摘する見方もあった。
99 :
世界@名無史さん :02/05/09 15:01
近世のオランダは、レンブラント、フェルメールといった名だたる芸術家を 輩出しましたが、この時期に集中して優れた芸術家が現れた背景は 何なのでしょうか?
100 :
世界@名無史さん :02/05/09 15:34
>>99 経済が栄えれば芸術も栄える。
国家が衰えれば芸術も衰える。
それだヶ
>>99 1.教会・貴族の代わりに市民階級が顧客として登場したこと。
2.カルヴィニズムのヘゲモニーが存在したこと。
などから、題材・手法に関してある種の実験が大規模に行われたのではないだろうか。
ジャンルとしての風景画や静物画もこの時期のオランダに成立しているし。
102 :
世界@名無史さん :02/05/09 15:46
日本のバブル経済期に何の芸術があったんでしょうか・・・
>>102 漫画・アニメ
聖闘士星矢のハーデス編、バブル崩壊でアニメ化ポシャッたとか
オランダよりもフランスの方が盛んかな?
104 :
世界@名無史さん :02/05/09 17:47
>>101 オランダ特有の絵画ジャンルとして、もうひとつ「集団肖像画」
がありますね。
フランス・ハルスの「ハールレムの聖ゲオルギウス市民隊の
幹部たちの宴会」とか。
その最高峰がレンブラントの「夜警」だけど。
ちなみに「市民隊」とは、オランダ各都市で15世紀以降発展を遂げた 市民有志による自警団です。 ギルドの体裁をとっていましたが、メンバーは皆ほかに生業を持っていました。 独立戦争では大活躍しましたが、17世紀にはいると、一種の社交クラブに 変質し、記念行事のパレードと恒例の大宴会が主な仕事になるといった ありさまでした。
106 :
世界@名無史さん :02/05/09 23:30
コーヒーショップの客の脳内では21世紀もオランダは躍進している模様
107 :
世界@名無史さん :02/05/11 12:33
>>12 チューリッポマニアの話ですけど、もともとあれはトルコから入ってきたんですよね。
ヨーロッパにもたらされるや絶大な人気を集め、さまざまな交配種が
生み出されるようになりました。
特に人気があったのは斑入り模様のチューリップだったとか。
1630年代に入って、それまでの一個取引から、「アース」という小さな
単位の取引に変わったのが引き金だったとか。
108 :
世界@名無史さん :02/05/11 12:49
17,8世紀のオランダにおける言論の自由(というか出版事情というか)が、 ヨーロッパの啓蒙思想に与えた影響、ってどのくらいあるのでしょうか? ガゼットだとかパンフレットとか扇動的な著作だとか、 そういった出版物の歴史ってなにか参考になる本ありませんかね?
>>108 邦語だと、
ポール・アザール「ヨーロッパ精神の危機」
ピーター・ゲイ「自由の科学」
あたりではないでしょうか?
110 :
世界@名無史さん :02/05/16 14:38
チューリップの投機についてだけど、1ヶ月で120ギルダーから1500ギルダー にはね上がった例もあるとか。 最も高値をつけた「常夏」という品種は、球根ひとつが1万3000ギルダー。 レンブラントが破産したとき、売り払った邸宅の値段は同じ1万3000ギルダー だった。
111 :
世界@名無史さん :02/05/30 04:57
オランダに集まった思想家や科学者についてあんまり語られてないなぁ。 デカルトの本とか読んでると有名な人物同士のつながりが見えてきて けっこう面白いよ〜。
>>111 まず自分で話題を触って欲しいな。
ウンチクであっても喜んで聞くよ。
113 :
世界@名無史さん :02/06/11 16:21
age
114 :
世界@名無史さん :02/06/11 22:43
カルヴィニズムは、オランダ人のものの考え方にどのくらい影響を 与えていたのかな。 カルヴィニズム=厳格というイメージがあるけど。
115 :
世界@名無史さん :02/06/11 22:53
>>87 亀亀レスで申し訳ないが、ベアトリクス女王の夫がドイツ人です。
(お母さんのユリアナ女王の夫もドイツ人なの?)。
結婚式当日は抗議デモもあった。
三代続いた女王も、次には終わる。
116 :
世界@名無史さん :02/06/11 23:04
>お母さんのユリアナ女王の夫もドイツ人なの? ベルンハルト殿下ですね。 この人は武器商人として有名で、ロッキード事件にも関わっていたとか。
>116 ありがとうございます。 かなり怪しげな人ですね。 検索したら怪しげな情報が結構出てきました。 オードリー・ヘップバーンまで出てきた。
118 :
世界@名無史さん :02/06/12 02:41
オラニエ公ウィレム沈黙公暗殺から、息子のナッサウ伯マウリッツが イニシャティブを握るまで、オランダを支えたと言われる オルデンヴァルネフェルトについて詳しく教えてもらえませんか? 最終的にマウリッツに処刑されるも、最後まで潔かったとか?
119 :
世界@名無史さん :02/06/12 03:23
>>100 そうかな?
たとえば同時代のスペインは完全に斜陽だったけど、フランドルは別格とはいえ、
イベリア半島でベラスケス、ムリーリョ、スルバランら優れた画家が輩出してる。
破産宣告までしたフェリペ2世統治下のスペイン芸術の「黄金時代」をどうみる?
120 :
世界@名無史さん :02/06/12 03:33
>>114 一応カルヴァン派が国教になっていたけど、カトリック、メノナイト、ユダヤ教、ルター派、ユグノーもいたよね。
アムステルダムが最盛期を迎える以前の中心地ハールレムではカルヴァン派の割合は5割未満。
1600年以前はレヘントにもカトリックがいたくらいだった。
サイモン・シャーマがThe Embarrasment of Richesという面白い本を書いてます。
表題のとおり、当時
121 :
世界@名無史さん :02/06/12 21:42
>>118 オルデンバルフェルトは、確かホラント州の指導者だったと思う。
ウィレム1世の死後、マウリッツと協力してオランダの政治・外交を支えた。
スペインの脅威が去ったあと、オランダでオラニエ家とホラント州の対立が
激しくなって、1609年、スペインとの間で12年間の休戦が結ばれたあと、
国内は国民統一派と地方自治派の内乱状態になって、マウリッツの軍隊が
ホラント州を制圧し、オルデンバルネフェルトを処刑。
122 :
世界@名無史さん :02/06/12 21:46
オランダ精神とは「割り勘の精神」 と、「けち」である。
ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt) (1547-1619) ユトレヒト州アメルスフォールト(Amersfoort)のレヘント(都市門閥)の家に生まれる。 オランダ反乱の勃発と同時に沈黙公の下に参じる。 1576年、ロッテルダムの法律顧問になる。 1586年、ホラント州の法律顧問(共和国の実質上の首相格)になり以後終身同職を勤める。 この人、ホラント州出身者でないにも関わらず、また40になるかならないかの若さであるにも関わらず 共和国最高の重職に就いたことからわかるように、抜群の逸材ですね。 ただ、謹言実直・精励恪勤な性格の反面、傲岸不遜・人間的魅力に欠けるとの評も。
124 :
世界@名無史さん :02/06/13 00:22
>>121 >>123 グロティウスはこの人の部下(弟子?)になるんでしたっけ?
ようは中央集権化の妨げになったので殺される事になったんでしょうか?
>>124 マウリッツとオルデンバルネフェルトの相克は
>>121 氏の言及した1609年の12年休戦が遠因。
(戦争継続派のマウリッツら軍首脳+ゼーラント州・アムステルダム市のレヘンテン
VS 休戦推進派のオルデンバルネフェルトらホラント州のレヘンテン)
これに1610年頃から始まるカルヴィニズム内の神学論争がからむ。
(レモンストラント派=穏健カルヴィニスト VS 反レモンストラント派=厳格カルヴィニスト)
劣勢のレモンストラント派は神学論争沈静化へ向けての州政府・市政府の介入を要請する。
オルデンバルネフェルトらレヘンテン主流はインテリ=エラスムス思想の徒=「寛容」の徒。
よってDQNな反レモンストラント派の増長を好まず、
エラストゥス主義(国家が宗教事項に大幅に介入すべし、という考え)的政策をとる。
対抗上、反レモンストラント派はオラニェ家に接近、一般大衆を巻き込んでブロック形成。
直接のきっかけはオルデンバルネフェルトが、
総督職(=マウリッツ)をバイパスする州兵的制度を作ろうとしたこと。
マウリッツは、己の聖域(=軍部)を犯されたとしてついに腹をくくり、クーデター決行。
オルデンバルネフェルトらの逮捕・処刑に至る。
ただし、根本には
>>121 氏の言う
>国民統一派と地方自治派
の対立という共和国の国制に由来する重大な争点が存在した。
オルデンバルネフェルトらは、「主権はあくまで各州(議会)に存在する」ゆえに、
各州が独自の軍事力を持つことは許される、としたのに対し、
マウリッツらは「主権は連邦議会に存する」ゆえに、
各州が連邦に諮らずに勝手な振る舞いをすることは許されない、と主張した。
(さらにこの議論の裏には、「総督職」という特殊な地位をどう理解するのか、
あるいは、「総督職」に対して連邦統合上の役割をどの程度認めるのか、
つまり、はっきり言うと、オラニェ家に擬似君主的なステータスを認めるのか否か
という争点が存在していた。)
長文御免。sageよう。
>>124 グロティウスはオルデンバルネフェルトの部下・同僚?ですね。
1618年当時はロッテルダムの法律顧問でした。
当時まだ35歳でしたが、バリバリの論客でオルデンバルネフェルト派の知恵袋。
オルデンバルネフェルトとグロティウス、もう一人、ホーヘルベーツというライデンの法律顧問
が反逆罪で訴えられるわけですが、後2者は終身刑。
グロティウスが2年後、書籍用のタンスに隠れて逃走したことはわりと有名ですね。
127 :
世界@名無史さん :02/06/13 17:20
戦争しっぱなしでも規律が良かったオランダ軍。あげ
M・ウェーバーは、マウリッツのオランダ軍が、欧州における「合理的規律」の 原点であるとしている。彼は、戦争の変化として火器の出現よりも、規律の発生 のほうを重視した。 ただし、マウリッツ軍が「近代的軍隊」の祖であるとは考えていないことに注意。 ウェーバーの言う軍隊の近代化の基準とは、物的経営手段の集中の度合であり、 マウリッツの軍隊でも、この点については未だ中隊長レベルに握られていた。
>>129 そのことに触れているのはウェーバーのどの著書ですか?
131 :
世界@名無史さん :02/06/20 23:57
現在のオランダ凄い。 ワークシェアリングの実効化、同性の結婚、売春の合法化、 軽いドラッグの解禁、障害者に対するセックスボランティア。 なんか「実験する国家」っていう気がする。
ちょいと質問です。 1585年にアントワープがスペイン軍に破壊されたのは何故? アントワープは1581年のオランダ独立宣言に参加していないのに・・・
133 :
世界@名無史さん :02/06/21 00:46
この時期には南ネーデルラントも反乱に参加してたんじゃなかったっけ?
>>133 >この時期には南ネーデルラントも反乱に参加してたんじゃなかったっけ?
だと思います。
通常、1581年の独立宣言とされる文書は、
連邦議会による1581年7月のthe Act of Abjuration
(=「(フェリペ2世への)忠誠義務撤回の決議」)を指しますが、
この時の連邦議会にはアントワープの属するブラバント州も代表を送っています。
ただ動乱期はいつもそうですが、個々のアクターの動きは本当に複雑で、
あるいはこの時点でアントワープはブラバント州代表に加わってなかったかも知れない。
ちょっと調べないとわかりませんが・・・
この辺、普通は79年のアラス同盟とユトレヒト同盟の成立で
はっきり「離婚」が成立した、というふうに説明されるのかな?
実際にはやっぱり複雑で、
アラス同盟には南部の3州(エノー・アルトワ・ドゥエ)のみが含まれ、
フランドルやブラバントは様子見、というか
親ユトレヒト同盟派(とっとと独立派)・親スペイン派(アラス同盟派)
そして76年ヘントの和約の線(南北協調路線)に立つ親オラニェ公派
の綱引きの場になっていました。
個々の都市ごとに、あるいは都市の内部でも対応は様々だろうけど。
>>132 〜
>>134 そもそも1581年当時、連邦議会はアントワープにありました。
ホラント州・ゼーラント州らユトレヒト同盟中核勢力(急進的反スペイン・反カトリック)と
オラニェ公+ブラバント州ら中部諸州(穏健的反スペイン・新旧教の融和)
の間に反乱の主導権を巡って暗闘が存在したことは確かですが、
時のスペイン側ネーデルラント執政・パルマ公には、
アントワープは賊徒の巣窟・攻略の対象として映ったことでしょう。
また、1576年に史上Spanish Furyと呼ばれるスペイン軍の暴動
が起きていたため(スペイン王の給料の不払いが原因)、
アントワープの反スペイン感情には大変強いものがあり、
パルマとしてもアントワープがそう易々と城門を開かないだろうことは重々承知していました。
なお、パルマが南から一つ一つ反乱諸都市を制圧していくに連れて、
それを避けるかのように連邦議会は1583年にゼーラント州のミッデルブルフに、
その後最終的にホラント州のハーグに移ります。
>>130 『支配の社会学』(世良晃志郎訳)です
詳しい章立ては忘れてしまったんですが、合理的規律については2巻、
軍隊の近代化については1巻に出ていたはずです。
>>135 それ初耳です。
1581年の時点で全国議会はハーグに移ったんじゃなかったっかな。
最前線のアントワープで元宗主への臣従拒否宣言なんてするかな?
あと、全国議会が連邦議会に名前を変更したのはたしか1584年だったと思う。
J.ParkerのDutch Revoltが手元にないので英語表記はわからないけど。
>>136 どうもありがとうございます。早速調べてみます。
アントウェルペンとかアンヴェルスとかアンヴェールと呼んで欲しい、今日この頃。
んじゃ、ハーグはデン・ハーフかス・フラーヘンハーフェと呼びますか・・
136>
なんかsage進行でいいのだろうか?、と思ったけど結局sage。
>>137 >1581年の時点で全国議会はハーグに移ったんじゃなかったっかな。
Jonathan Israelの The Dutch Republic;Its Rise, Greatness, and Fall 1477-1806
によると
「1583年8月にStates Generalはその開催地をアントワープからミッデルブルフに、
さらにデルフトへ、最終的にはハーグへ移した。」
ということらしいです。
>最前線のアントワープで元宗主への臣従拒否宣言なんてするかな?
1581年、トゥルネー・アウデナールデ(スヘルデ川南岸)
1583年、ダンケルク・ニューポールト(フランドルの海岸地域)
1584年、イープル・ヘント(フランドル主要部)
1585年、ブリュッセル・アントワープ(ブラバント)
という風に陥ちているようですから、1581年にはまだ余裕があったのでは。
確かに、かな〜りヤヴァい状況ですが。
84年にオラニェ公が暗殺されてから反乱の主導権が完全にホラント州に移り、
前後してブラバント州が(政治的に)放棄されて行く、という流れだと思います。
>あと、全国議会が連邦議会に名前を変更したのはたしか1584年だったと思う。
この議会は、ブルゴーニュ時代から Staten Generaal(States General)ではなかったでしょうか。
ちょっと自信ないけど。
どう訳していいかわからなかったので・・・・
身分制議会や等族議会というのも変だし。Etats generauxと同じだからと言って三部会はないだろうし。
連邦議会というのはテキトーです(汗)。
間違えました。 140は 136> ではなくて 135> でした。
142 :
世界@名無史さん :02/07/15 00:58
八十年戦争はマウリッツ率いる陸軍の勝利であると同時に、スペインを破産に追い込んだ私掠船作戦の勝利でも有るよね。
143 :
世界@名無史さん :02/07/15 03:27
1にもどって、あんな辺境の小国が「どうして」、を簡単に言うと何かな。
辺境の小国じゃなかったから