ゲルマン民族大移動って何?

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103世界@名無史さん:02/05/26 00:17
紀元370年頃、現在の南ロシア地域にあった東ゴート族の生活圏がフン族に襲撃され、交戦するも敗れる。
多数がフン族帝国の傘下に吸収されるも、多数が西に逃れ、ドニエプル川近辺で西ゴート族に合流。

伝376年、一部キリスト教化(アリウス派)していた西ゴート族は、フン族に圧迫され、東ローマ皇帝ヴァレンス帝にドナウ川渡川(帝国領への進出)を嘆願し、許可される。
一説に、皇帝は西ゴート部族をフン族に対抗する戦力として利用しようと意図したとも。

推定20万人と言われる進入民がおそらくは地中海に到達しようと掠奪行を続けるに至り、ヴァレンス帝は彼らの迎撃を決意。ペルシア遠征を中止し、アドリアノープルへ転進。
ヴァレンス帝は、378年8月9日、西ローマ皇帝グラチアヌスの増援来援を待たず開戦。混戦の後、東ローマ軍は壊滅。ヴァレンス帝は戦場で行方不明に(おそらく戦死)。

ヴァレンス帝の後継者テオドシウス帝は、コンスタンティノープルに迫った西ゴート族と交戦しつつ講和締結。数年後、西ゴートはトラキア地方に同盟部族として滞留。

この後、西ゴートのアラリックが東ローマを牛耳ったりいろいろ。フン族のゲルマン族への圧迫も継続。
406年にはヴァンダル族、スウェーブ族、アラン族がライン川を渡川して侵入。当時ローマ同盟部族としてライン川畔に滞留していたフランク族、アラマン族に襲いかかった。
このときのゲルマン諸族のガリア侵入は当時の記録に「ガリア(地方)は松明のように完全に焼けてしまった」と記されている。
408年には西ゴートのアラリックがイタリアに進攻するなど蛮族の侵入と混乱はまだまだ続く。
104103の続き:02/05/27 18:46
紀元406年頃、西ローマのガリア地方にヴァンダル族、スウェーブ族、アラン族が侵入、大混乱に陥った。
当時ラヴェンナにあった西ローマの政庁は、アラリック率いる西ゴートに対処するためガリア方面には有効な対策をうつ余裕がなかったと思われる。
(西ゴートはこのとき一端イタリア半島中部に滞留する)
このため、ヴァンダル族らの移動についで、グンダハール率いるブルグンド族、アラマン族などが西ローマ内奥への侵入を果たすことになった。

ブリタニアのローマ軍に擁立された僭称帝コンスタンチヌス3世が、ピレネー山脈を防衛すべくブローニュに上陸したが、敗退。
409年にはヴァンダル族などがイベリア半島に侵出。
多数のローマ臣民が対岸のアフリカに避難した。
当時の歴史記録には次のようにある
「蛮族はイスパニアで暴れまわっている。ペスト禍も同様に荒れ狂っている〔中略〕飢えに迫られて人間が人肉を貪り食うほど恐ろしい飢餓が猛威をふるっている」

数年後、イベリアに侵入した蛮族は彼ら自身も困窮し、同盟部族としてイベリアに居住する交渉を西ローマ相手にはじめた。
ハスディング=ヴァンダル族、スウェーヴ族はドウロ川近辺に、シリング=ヴァンダル族は現在のアンダルシア地方に居を構えることになった。

現在の南仏〜地中海沿岸一帯は、ヴァンダル族らのイベリア居住により一息ついた型になった。
が、おそらくは1年ほどの差で、アラリックの跡を継いだ義弟アタウルフに率いられた西ゴートがイタリアから南仏に転進してきた。

南仏の地中海沿岸部に居を構えたアタウルフは、僭称帝ヨヴィウヌスを倒し、西ローマのホノリウス帝と和解。
413年に同盟部族の扱いを受けナルボンヌ地方への居住を公認された。
が、数年後、同盟締結条件だった食糧の供給が西ローマからなされなかったことを理由に、ゴート族はナルボンヌから、トゥールズ、ボルドーを占拠した。
この後、アタウルフは西ローマ政庁に対し、種種の政治的駆け引きを展開するようになる。
105世界@名無史さん:02/05/27 19:46
僕は高校の世界史で、中国に追われたきょうどがフンとなり
西に西にゆき、それが玉突き式にゲルマン民族の大移動を引き起こした
と習いましたがこのスレを見ているとどうやら違うようです。
ではフンとは何者なのでしょうか?
フンは何のために移動したのでしょうか?
106世界@名無史さん:02/05/27 20:07
>>105
フン族の前身が中国史書に記された匈奴だ、と言う説は古くからあります。
同時に古くから疑問視する説もあります。

近年、疑問視する説が有力化しているかに聞きます。
が、実はこうした問題は、中国史をやってる人達と西欧史をやってる人達で見解が微妙に違う、といったこともあるのでやっかいです。

もし「高校の世界史で、中国に追われた匈奴がフンとなり」と教わったのでしたら、
受験勉強用には「フン族の前身は匈奴」と覚えることをお勧めします。

「フン族の前身は匈奴」と仮定するならば
「中国に追われた匈奴がフンとなり西に西にゆき、それが玉突き式にゲルマン民族の大移動を引き起こした」と言う理解も、さほど間違いとも言えなくなります。

実は3世紀頃からゲルマンの一派はゴート族はローマ帝国の領域を度々侵していました。
これはいわゆる「ゲルマン民族の大侵入」の前史です。
また、ゲルマン諸族の大移動を引き起こした時点でのフン族は、研究者によってはフン帝国と呼ぶような体制でした。
配下にゲルマン系部族やイラン系部族も従えていた。
が、中心勢力はフンでした。
こうした知識も補助的に覚えておくと受験勉強でも何かの役にたつかもしれません。

>フンとは何者なのでしょうか?
>フンは何のために移動したのでしょうか?
すでに書きましたように、この辺は専門研究者の間でも幾つかの説が唱えられているようです。
私も、詳しくは知りません。
私も、どなたか、どんな説が、どんな根拠で唱えられているか整理していただけるとありがたいと思います。
107世界@名無史さん:02/05/27 21:09
>>105
このスレの次のあたりが参考になると思うぞ。

>>20-26
特に(>>26)>フン族の征服過程をたどっていくと、別の部族を追い出すのではなく
>次々と飲み込んでいった「雪だるま式拡大」とでもいったほうがふさわしい。
>それは後の突厥やモンゴル帝国の拡大にも似ている。
ってあたり。

読んでみて疑問が生じたら、また質問してみてもよいと思う。
108世界@名無史さん:02/06/14 13:24
>>76
オイオイ!南仏は海を越えてきたイスラム教徒に荒らされてるよ。現スイス領内まで進入されてる。シチリアのように国のレベルまで到達しなかったので、無視されがちだが。
 
カール・マルテルのマルテル(鉄槌)とは盛んに遠征したために付けられた。その遠征地はアキテーヌや南仏だ。
 
109世界@名無史さん:02/06/14 13:24
>>76
オイオイ!南仏は海を越えてきたイスラム教徒に荒らされてるよ。現スイス領内まで進入されてる。シチリアのように国のレベルまで到達しなかったので、無視されがちだが。
 
カール・マルテルのマルテル(鉄槌)とは盛んに遠征したために付けられた。その遠征地はアキテーヌや南仏だ。
 
110世界@名無史さん:02/06/14 18:03
どこからともなくやってきて一大勢力を築き、当時の秩序を一気に覆して西ローマ帝国を崩壊へ導く。
"海の民"ならぬ"陸の民"ですか。
111SP:02/06/27 12:53
現在は「フン族」を称する人はいないのかな?ハンガリーだってマジャール人だし。
そうすると消えた民族?
112世界@名無史さん:02/06/27 16:03
>111
フィンランド
113SP:02/06/27 17:51
そうか、フィンランドかあ、フィンランドといえばアホネン
114世界@名無史さん:02/06/28 01:39
>>113
ニッカネン、マキネン・・・
115世界@名無史さん:02/06/28 18:00
へるす マネキン
116世界@名無史さん:02/07/07 15:10
アホちゃいますねん パーデンネン パー
117世界@名無史さん:02/07/07 15:24
ゲルマン民族大移動って第二次大戦中に、アイヒマンが組織した強制移送のことでしょう?
118世界@名無史さん:02/08/05 17:33
                    + 小移動 age +
      ∠ ̄\
        |/゚U゚|
      〜(`二⊃┳⊃>>55
       ( ヽ/┃
        ( |┃
        UU┃
   〜〜 (◎) ̄))

119世界@名無史さん:02/08/05 18:40
>>112 >>113
日本に次いで姓(ファミリー・ネーム)の数の多い国。
120世界@名無史さん:02/08/22 12:03
現在のスペインの王族や貴族はゲルマンの地が濃いの?
いちおう、あそこには西ゴート王国があったけど・・・
121120:02/08/22 12:03
×地→○血
122世界@名無史さん:02/08/26 00:45
>>120
現在のスペイン王家=ブルボン王朝の系統じゃなかったかな。
貴族は・・ゲルマン系かどうかという詮索は不可能でしょう。
西ゴート王国は、カトリックを採用してから、ゴート人と
ヒスパノ・ローマ人との混合が進んだので。
123クラムネシンドゥス:02/08/27 01:02
フランスに旅行したときに、現地で人名学の本を買ったことがある。それによると:

ガリアを征服したフランク人は、人口的にはガロ・ローマ人に対して劣勢だったので、
独自のゲルマン系言語を次第に失い、ラテン系というかロマンス系言語を採用して
いったのだが、反面、人名のつけ方については、逆にガロ・ローマ人に影響を与えて
いったそうだ。
特にフランク人の影響の強かった北部と中部では、ローマ系住民がゲルマン系人名を
つけるようになる度合いが極めて大きかったという。

教会記録などを調べると、北部と中部では、5世紀には、人名の中のゲルマン系氏名の
比率は1/4未満なのだが、6世紀にはほぼ半数になり、9世紀になると、ほとんどすべて
ゲルマン系人名だけになる。
一方、ローマ文化が根強く残った南部では、マルセイユの記録によれば、9世紀でも
半数近くはギリシア・ラテン系人名が用いられていたという。

9世紀を超えると、次第に聖人崇拝が広がった関係から、キリスト教系(語源的には
ヘブライ・ギリシア・ラテン)の人名が広がっていく。
124ふむ:02/08/27 10:11
なお、人名の中には、稀に、
ラテン語とゲルマン語を合体させた「ハイブリッド人名」も
生まれたという。
たとえば、現代のフランスにも残っている「ボナール=Bonard」は
ラテン語のBonus(=善い、勇敢な)とゲルマン語のHard(=強い、鋭い、勇敢な)を
あわせて生まれた名前であった。
125世界@名無史さん:02/09/15 20:16
yg iu9
126世界@名無史さん:02/09/23 19:24
>>20
>民族の大移動って具体的にどのように行われるのですか?
安住できる土地まで、とり得る交通手段で、行くのだよ。
田畑にしがみついて生きる習性が、沁みついた水稲耕作民の末裔らしい質問だね。
難民が、生きのびるために移住するのは、歴史的には、定住生活民より多数派なんだよ。
食糧不足や軍事的迫害でね。現代でも最近アフガニスタンで報じられたばかりだが。
127世界@名無史さん:02/09/29 08:17
フンの侵入以前にゴートはバルト海沿岸から南ロシア方面へ移動してるよね。
この原因はなんだったの?

ちなみにスウェーデンのエーテボリ(Goetburg)ってゴートの街ってことだよね。
128世界@名無史さん:02/09/29 10:52
「アジア」はラテン語。
129世界@名無史さん:02/09/29 20:21
>>127
イェーテボリは「ゴートの町」
イェータランドは「ゴートの土地」

なのでしょうが、これは後の時代になってから
ゴート族を意識して意図的に名づけたのかな?
まさか、ゴート族移動時代からその地名があったなんてことは
ないでしょうね?
130世界@名無史さん:02/09/30 05:09
>>127
移動の原因は多分、気候の変動だと思う。
もっと詳しい人いるとおもうけど。
131世界@名無史さん:02/09/30 11:18
移動の原因は経済格差が原因ですよ。
ようするに今でいう難民みたいなもの。
132世界@名無史さん:02/09/30 11:53
>>131
もうちょい詳しく教えて。
ということは、残った人はどうなったの?
ノルマン人の祖先とか?
133世界@名無史さん:02/09/30 12:01
正直、漢の武帝の西方進出が原因だと思ってたよ…ショボーン
134世界@名無史さん:02/09/30 12:28
経済格差、気候の変動、フン族の圧迫などが
要因として挙げられる

ただ、ローマ帝国自身が、すでにゲルマン人を
軍隊や下級官吏などにどんどん登用していたことも
忘れてはいけません
135ケルト人:02/09/30 14:01
俺達の方が哀れだよ
136世界@名無史さん:02/10/27 22:58
>>3
そのとき、スラブ人はどうしていたの?
137世界@名無史さん:02/10/28 23:21
>>132
残った部族は、スラブ系に吸収され同化したものと思われ。
138世界@名無史さん:02/11/14 23:23
現代イタリアの地名ロンバルジアは、ゲルマン諸派のうちのランゴバルド族の
部族名起因でしたでしょうか?。
139突厥:02/11/15 00:02
>>138
>現代イタリアの地名ロンバルジアは、ゲルマン諸派のうちのランゴバルド族の
>部族名起因でしたでしょうか?。

そうすっよ。
140世界@名無史さん:02/11/16 09:08
>>139
どうしてランゴバルド族は、ローマ近辺地域まで侵入・移住しえたのですか?
先住ローマ人は、どこへ追い出されたのですか?
141世界@名無史さん:02/12/01 01:14
長身金髪碧眼のゲルマン系の直系子孫の現代ドイツでも、北部に比べ中部や南部では
長身金髪より、短身黒髪の人が多いのは何故なのですか。
142世界@名無史さん:02/12/01 07:24
全然直系子孫じゃないし、なにより民族と人種とをごっちゃにしている時点で…
143:02/12/13 19:45
フン族に圧迫され、ゲルマン民族大移動の
きっかけを作ったのは東ゴート族でした。
ところが西暦375年、先にローマ帝国に
侵入してきたのは西ゴート族でした。
そこで質問。なぜ、西ゴート族は
東ゴート族より先に動いたのでしょうか?
144世界@名無史さん:02/12/13 20:03
ドイツと日本は結構密接な関係にあるよね。
元寇の時、運も味方して何とか侵略を防げた。
その後新たなモンゴル帝国である。ロシア、ソ連
との戦い。歴史って野は何の因果か。
145世界@名無史さん:02/12/14 10:58
>>143
東ゴートはフンと行動を共にし、西ゴートはフンから逃げたから。
146世界@名無史さん:02/12/14 21:00
>>141
ローマ帝政時代史書に登場するゲルマン人種の直系子孫は、現代の何人なのですか。
147:02/12/15 11:11
>>145
ありがとうございましたm(__)m
148世界@名無史さん:02/12/15 18:50
149世界@名無史さん:02/12/29 16:03
ベルンハルト・マイアー「ケルト事典」ならぬ「ゲルマン事典」ってないんだろうか?
150世界@名無史さん:03/01/03 03:33
ヨーロッパの民族移動について海外(欧米)の英語のサイトを調べていて、
面白いことに気づいた。
私は映画ファンなので、「この話をxx主演で映画化したらいいのになぁ」
などと妄想にふけることが好きなのだが、「この物語の時期の、この階層の
人間はどういう『容貌』『身体的特徴』の系統の人だったのかな?(それに
よってキャスティングの可能性は随分と変わってくるから)」ということを
知ろうとすると、途端につまずいてしまうのだった。

ある時代のある地域のある階層の人々は、「髪の毛や目や肌の色や背の高さ」
がどういう傾向を有していたか、ということについて、同時代の人々の記録や
証言が当然あったはずだろうに、それに関して言及しているサイトが驚くほど
少ないのだ。

で、たまに言及してるサイトは、たいていがアーリアだのナチだのの
白人至上主義サイトだったりする。

ああ、ヨーロッパでは「(ヨーロッパ)地域における人種的特徴の差違」
に言及する行為自体が、人種差別を誘発しかねないタブーに近いものとして
扱われているのだな、ということをこれで知った次第。

ヨーロッパ人の気持ちは分かるし、古代や中世においても混血が進んで
いて現在と同様に人種的特徴はヨーロッパ全地域で多様だったであろう
と見なすのも勝手だけど、でもそれは人種的特徴の地域的差違がヨーロ
ッパに存在しないということではないはずで。

ディカプリオがアレクサンダー大王ってのはどうなんだろう。何か違う
んじゃないの。
151世界@名無史さん:03/01/08 05:08
確かに、何か違うんだが、しかし、マケドニア人を含む、ギリシア人も
元は、北ヨーロッパからの移住であるし、アテナイ人ほど原住民との混
血はしてない、と思われてるし...
152山崎渉
(^^)