165 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:02/06/06 10:41
メフメト2世がビザンツ正教に改宗していたらオモロかった。
メフメト=マホメットからキリスト教関連の名に
変えねば。
166 :
世界@名無史さん:02/06/06 12:19
クイックレスなので思いつく要因を簡単に書きます。
<経済>
1)ビザンツ商品の競争力低下(主に絹織物)。
2)ノミスマ金貨以降に行なった悪鋳による貨幣信用低下。
3)官位売買による国庫負担(官位者への年金増)増大。
<軍事>
1)重装騎兵による戦法の旧式化
2)海軍力低下(財政難で維持不能)による地中海制海権の喪失。
イタリア諸都市の台頭。
3)アンカラの戦い以降、トルコ勢力の進入激化。
<その他>
1)バシレイオス以後の皇帝が概ね無能。(これが一番かな)
さらにその他、シリア エジプト喪失に端を発した
パンとサーカスの終焉!
周辺諸国や宗教的なことはあえて省きました。(トルコは堪忍して)
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| | ▼*▲< もうだめぽ
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169 :
世界@名無史さん:02/06/13 00:23
>>166 コムネノス朝・ニケア帝国・ミカエル8世あたりは決して無能とは言えんのでは?
170 :
世界@名無史さん:02/06/13 01:10
マヌエル2世も名君とはいかなくても、暗君ではないと思う
171 :
世界@名無史さん:02/06/13 06:33
私的にコンスタンティヌス11世ドラガゼスが・・・
・・・いや、
>>1さんの言う有名国立大卒じゃないので
やっぱやめときます。
>>170 マヌエル2世は滅亡寸前の帝国を良く支えた‘名君’だと
言えるよ。
たまたま居合わせた時世が不運だっただけ。
>>144 遅レス&スレ違いながら…
防大の入試に
「テマ制とプロノイア制(の違いだったか?)について説明せよ」
ってのがあったな……さっぱりだったけど
174 :
世界@名無史さん:02/06/13 13:17
後、キポンの本ではニケーア帝国のヨハネス3世がビザンツ一の名君と
書かれてますが、これは何ゆえでしょう?
175 :
世界@名無史さん:02/06/14 04:22
>>174 何ででしょうね?ヨハネス3世より
テオドルス・ラスカリスの方が名君のように思えるのですが・・・
やっぱ
>>1さんの言う有名国立大卒じゃないのでやめときます。
176 :
世界@名無史さん:02/06/21 23:28
あげ
177 :
世界@名無史さん:02/06/22 00:00
ビザンツ帝国が滅んだのはコンスタンティノープルの城壁に頼りすぎたため
178 :
世界@名無史さん:02/06/24 18:49
第4回十字軍でラテン帝国作られてもうた時点で既に滅亡の要因があったのでは。
ビザンツ衰退の遠因の一つは農業の停滞。
5〜9世紀くいらいまでは、ビザンツの農業技術は世界最高峰だったが、その
後、伝統的な農業技術の継承ばかりに力が入れられ、イノベーションを怠った
た。
そのため、10世紀以降は、農業生産力で、ヨーロッパ、アラブ圏に完全に逆
転されてしまった。
絹などの商品作物(作物と言ったら違うか)は10世紀以降も独壇場だったが、
やはり税収の大部分は農業に依存していたわけで、相対的に周囲に国力の差を
つけられることになった。
180 :
世界@名無史さん:02/06/29 02:20
中継貿易で稼いでいたわけじゃないの?
>>180 中継貿易でも稼いでいたけど、それだけで小アジアからバルカン半島に至る
広大な版図を維持するのは不可能でしょう。
帝国全体でみたら、やはり税収のうち農業の占める割合は大きかった、との
ことです。
実際、ビザンツを支えたのは、テマ制や、プロノイア制といった農業を基本
とする体制。
コンスタンチノープルにおける中継貿易の富がいかに莫大であったといって
もそれは、ひとつの都市の財源としては破格であった、ということなのだと
解釈してます。
トルコに小アジア全域を奪われてから急速に弱体化した事実も、
帝国全体の税収でいれば、貿易よりも農業、の裏づけになるのでは
183 :
世界@名無史さん:02/06/29 03:24
その後5世紀間をも続いた理由は?
184 :
世界@名無史さん:02/06/29 03:28
>>183 >その後5世紀間をも続いた理由は?
ん?
小アジアがビザンツから失われた時期を「いつ」と考えてる?
185 :
世界@名無史さん:02/06/29 03:36
いや、14世紀のことではなくて、農業が停滞した10世紀以降。
184は俺です。
5世紀間ということは、10世紀に小アジアがビザンツから失われた
ということ?
まず、10−11世紀は、ビザンツ帝国の最盛期で、小アジアはもち
ろん、アンチオキアやらクレタ島やら、バルカン半島北部までも版図
にいれていた時代だよ。
小アジアをトルコに侵食され始まるのが、11世紀後半。
国力が衰え始まるのはこのころ。
わざわざ西欧から援軍を要請しているからね。
でも、11ー12世紀にアレクシオス1世は十字軍がエルサレム方面
で戦っている間にちゃっかり小アジアを奪回している。
それで国力も回復し、12世紀後半のマヌエル1世時代のイタリア遠
征やら、ヴェネチア艦隊を撃退なんて実行している。
ビザンツが本当に衰弱するのは、このマヌエル1世死後。
小アジアを軽視して西に向いた政策で、小アジアが再びトルコに侵食
された。
その直後が、実質的なビザンツ帝国の滅亡である第4回十字軍。
力もあった。
ビザンツが小アジアへの支配を失うのは、13世紀からだよ。
1204年の第四回十字軍で、
>>185 >いや、14世紀のことではなくて、農業が停滞した10世紀以降。
スンマソン。
農業が相対的に停滞しても、版図を奪われなければ、0にはならない。
ジワジワと国力の相対的低下にはつながっても、
農業生産力の相対的低下=国の滅亡
とはならんでしょう。
まとめます。
10世紀:農業生産力の停滞
(農業生産力が下がったのではなく、周囲より遅れ始めた)
11世紀:テマ制を背景にした重装騎兵による征服時代
12世紀:周辺からの安い穀物輸入増加でテマ制崩壊
⇒十字軍要請へ
(その背後でプロノイア制への移行)
10世紀に、農業生産力で周囲に追いつかれたことが、2世紀後のテマ
制の崩壊につながると考えればいいはず。
何故農業生産が停滞したんでしょうか?
当時東ローマ帝国は、先進地帯だったと思いますが。
>>189 >何故農業生産が停滞したんでしょうか?
>当時東ローマ帝国は、先進地帯だったと思いますが。
イノベーションを怠ったから。
ビザンツの農業は5−9世紀までは周囲に比べ技術的優位性があったけれど、
進歩もしなかった。(例えば、有輪犂はついに使われなかった)
逆に、西欧は当初原始的な農業をしていたけれど、10世紀頃には技術の改良
の成果、ビザンツのレベルに追いついた。11世紀以降は、引き離している。
ビザンツの農業が衰えたのではなく、周囲のイノベーションに置いていかれた。
191 :
世界@名無史さん:02/06/29 12:25
森林破壊による表土流失によって耕地が荒廃、農業が停滞して
国力が衰えた、とは考えられないだろうか?
>>191 それ面白いね。
そういや、安田喜憲さんの本にもそういうことが書いてあったな。
地中海沿岸が森林伐採で土壌が流出してしまったのは事実っぽいけど、
それが年代的にはいつ頃か、という検証がが必要だとは思う。
193 :
世界@名無史さん:02/06/29 15:43
○西ローマ帝国
首都:ローマ
宗教:カトリック
成立年:395年
滅亡年:476年
○東ローマ帝国(ビザンツ帝国)
首都:コンスタンティノープル
宗教:ギリシャ正教
成立年:395年
滅亡年:1453年
194 :
世界@名無史さん:02/06/30 01:03
○大韓民国
首都:ソウル
宗教:無神論
成立年:ジュラ紀
滅亡年:弥勒菩薩年
小アジアの辺りは高地と高原が多い。農耕にあまり向いている
様には見えない。沿岸部の地中海式農業なるものも降雨量から考えて
それ程生産力があったとも思えない。
ヒッタイトもこの辺りの鉱物から鉄器を開発した。
本来豊かな地域ならエジプトまで遠征などしないだろう。
古代ギリシャ人は半島の貧しい生産力から貿易や植民に走ったはず。
従って本来粗食だった。
古代ローマは属州エジプトを手に入れてから贅沢に成った。
そのローマ時代も小アジアは穀物輸入地域だったと聞く。
現代のトルコ共和国はアタチュルクの改革から穀物輸出国。
果たしてそれほど農業のウェイトが大きかったのだろうか?
農業が大きな要因とは考え難いが、どうか?
やはり小アジアは交通、交易、防衛、の要所としての価値が高かったのでは?
当時の税制度は?税の対象は、農業生産物の物納が主だったのか?
商業への間接税のようなものは少なかったのか?
>>195 確かに小アジアは、古代ローマ時代、穀物輸入地域だったよね。
でも、それは、7世紀に、穀倉地帯シリア、エジプトを失うまで。
シリア、エジプトを失って以降は、働かなくても飯が食えた「ローマ市民」が
姿を消し、帝国民の多くは版図内で農業を行い、自給自足の生活をするように
なっていた。
この自給自足の農村をたばねて軍管区が経営され、農民達は土地所有を認めても
らうために兵役に臨んだ。9−10世紀のビザンツ帝国最盛期の駆動力となった
重装騎兵は、この軍管区制の賜物だった。
ギリシア、小アジアでの農業があったからこそ、中世ビザンツ帝国の繁栄があっ
た。
ギリシア、小アジアは確かに土壌が肥沃でなくて農業に向いていなかったけれど、
古代ローマに遡る(7−9世紀段階ではまだ高度なレベルだった)農業技術が自
給自足を可能としていたのだろう。
ちなみに、第四回十字軍の後に作られたビザンツ帝国民による亡命政権の一つニ
ケーア帝国は小アジアに根を張ったのだが、この亡命政権も農業を基本とした国
家だった。しかもただ自給自足していたのではなく、トルコ人相手に穀物の輸出
まで行っていた。
そんなわけで、中世ビザンツ帝国の国力の基本は、やはり農業だといえるのでは
ないかと思う。
>>195 >果たしてそれほど農業のウェイトが大きかったのだろうか?
「帝国の財源の中心は土地所有農民、または小作人が払う土地税であった」
---黄金のビザンティン帝国(ミシェル・カプラン)
>当時の税制度は?税の対象は、農業生産物の物納が主だったのか?
これは貨幣で収めていた様子。
「土地税」だから。
農民達がブドウ、オリーブなどの商品作物を近隣都市で売っている事実から、
彼らに貨幣収入があったことが分かる。
198 :
世界@名無史さん:02/06/30 21:43
>193
西ローマ帝国の首都はローマでよかった?
199 :
世界@名無史さん:02/06/30 22:15
>>198 メディオラヌム→ラヴェンナが一番事実に近いような気がするが……。
200 :
ニダーランの歌 ◆X8WSYuDE :02/07/01 02:52
>米好きさん
>ビザンツの農業は5−9世紀までは周囲に比べ技術的優位性があったけれど、
進歩もしなかった。(例えば、有輪犂はついに使われなかった)
確か・・・地中海あたりは土壌が柔らかいから
ゲルマン式の有輪鋤でなくとも、耕作ができたから広まらなかったのでは??
でも、10世紀ごろから西欧に農業技術が抜かれたというのは禿同。
ちなみに、コンスタンティノープルには国営のチョウザメ養殖場があり
国営工場の労働者はアンチョビを食っていたそうです。うらやましいぞゴルァ!
>>200 >確か・・・地中海あたりは土壌が柔らかいから
>ゲルマン式の有輪鋤でなくとも、耕作ができたから広まらなかったのでは??
なるほど。
なまじ土地を耕す時に困難が生じなかったことが、イノベーションの遅滞を招いた。
それもありそうなシナリオだなあ。
第四回十字軍は13世紀初頭だよね?
その頃にも穀物輸出が可能ならなぜ税収が落ちた?
商品作物が生産できて、貨幣経済が浸透している社会でなぜ、
農業への直接税に数世紀もの間比重が置かれていた?貿易等の商業の発展はなかったのか?
あったとして穀物輸出がかなり可能だったという事?
自給自足経済では物納が普通だし、貨幣経済の浸透は
普通は商業の発展に並んで起こる。
なぜ、農業重視の社会で貨幣に因る徴税が長期間可能なのか?
日本でも鎌倉期に宋銭が入ってから貨幣による納税が農民に可能となったのは明治時代から。
貨幣経済の浸透と数世紀間の農業への直接税重視の政策に矛盾ないか?
貿易重視なら間接税にウェイトがいかないか?
屯田兵制は通常未開拓地や生産性の低い土地での辺境防衛制度では?
例えば、北海道や帝政ロシアや現ロシアのコサック。
いずれにせよ高い生産性をもつ土地での制度とは思えないが、、、。
生産性が高い土地では余剰生産力で兵を扶養するようになり、兵農の分離が起こるのが普通。
生産性の高い土地でこれが数世紀間起こらなかったのか?
小作人がいたと言うことは、大土地所有が可能になった?生産性は上がるよね?
貨幣経済は浸透していたにも拘らず税収対象としての商業の発展には至らなかった理由は?
203 :
世界@名無史さん:02/07/05 12:09
>>202 日本は室町〜戦国末期には貨幣納税はあった。
ただ江戸時代に原則物納になっていたから(貨幣納税の場合もあった)遅く見えるだけ。
>>202 >第四回十字軍は13世紀初頭だよね?
>その頃にも穀物輸出が可能ならなぜ税収が落ちた?
これは俺の説明が悪かったかな?
"第四回十字軍の時代に「ビザンツ帝国」が穀物輸出をしていた" なんて言っては
いないよ。それだけの農業生産力は、第四回十字軍直前のビザンツにはなかったろ
う。
第四回十字軍の後に出来たビザンツ亡命政権の一つ、二ケーア帝国は、農業に力を
入れてなんとか体制を保った、という話を紹介したのだ。
伝えたかったのは、
第四回十字軍前のビザンツ帝国は、テマ制が崩壊して、独立自営農民が消え、国力
が衰えていた。しかし、第四回十字軍にコンスタンチノープルを奪われたことで、
再度、テマ制的な体性が出来て、国力を蓄えることが出来た、というストーリー。
プラス、小アジアの大地でも頑張れば、輸出する穀物を作ることも、可能ではあっ
たという事実も浮かび上がる。
>>202 >屯田兵制は通常未開拓地や生産性の低い土地での辺境防衛制度では?
>例えば、北海道や帝政ロシアや現ロシアのコサック。
これは違うよ。
ビザンツ帝国に関して言えば、ヘラクレイオス帝の時代、7世紀初頭に始まったテマ制
(軍管区制)は、国境周辺にしか存在しなかったけれど、8世紀初頭のレオ3世の時代
には、テマ制が帝国版図全体に広げられている。
これについては、「ビザンツ帝国史」(尚樹啓太郎)の地図12、地図14を見ると
一目瞭然。
通常辺境防衛にしか使わない制度を帝国全土に広げた点が、中世ビザンツ帝国の特徴。
>>202 >いずれにせよ高い生産性をもつ土地での制度とは思えないが、、、。
小アジアとギリシアが、生産性の高い土地だ、と主張したことは一度もないよ。
生産性が低いから、エジプト、シリアが版図内にある時は穀物輸入地域だった。
しかし、エジプト、シリアを奪われてからは、この肥沃でない地帯で独立自営農の
形成が薦められて、帝国の財政を支えた、という流れだよ。
うーん氏の言ってることと俺の言っていることは、一致していると思うが。
>>202 >自給自足経済では物納が普通だし、貨幣経済の浸透は
>普通は商業の発展に並んで起こる。
これは、俺が間違っていた。
ビザンツ帝国の独立自営農民を、間違って『自給自足』と表現していた。
自給自足なんじゃない。
独立自営農民なのよね。
彼らは、農作物を近隣の都市で売り、貨幣収入を得ていた。
納税も、貨幣。
ビザンツ帝国初期の5世紀アナスタシウス帝の時代に、土地税がほぼずべて
金納化されている。
なんか俺ばかり書き込んでいて、粘着だが(w
ローマの税収においける、農業課税と、商工業に対する取引税がどの程度の比率
であったのか、についての研究事例発見。
ソースは、「ローマはなぜ滅びたか」(弓削達)だから、たいしたネタではない
のだけど・・・
6世紀エジプト(東ローマ版図内ってことね)のヘラクレオポリスの、穀物と土
地に対する金納税は、約800ローマ・ポンド。
一方、シリア国境とアンティオキアを結ぶ、絹・奢侈品貿易の要地であった属州
首都エデッサの5世紀末(こっちも東ローマ)の取引税が、年平均35ローマ・
ポンド。
別の都市間での、農業課税と取引税の比較だから、この値の差が意味を持つとする
根拠はないのだけど、それでも、交易都市エデッサの取引税収入の少なさにはちょ
っと驚く。
最近見つけた他の事例。
小アジアの大半をオスマン・トルコに奪われたアンドロニコス2世(1282-1328)
の時代、ビザンツ帝国の国家収入は50万ノミスマ程度だった。
一方で、小アジアがまだ版図内にあった10-11世紀のビザンツの国家収入は、600
〜800万ノミマス。
しかも、アンドロニコス2世の時代、ノミスマの価値は、10-11世紀の頃の半分に
なっていた。
つーことは、小アジアを失ったことによって、税収は、20分の1以下に落ち込ん
だことになる。
小アジアを失ったことが、農業税収入を失ったことを意味するのか、取引税収入を
失ったことを意味するのかは、微妙かもしれないけれど、貿易で栄えていたとは言
え、コンスタンチノープルを押さえているだけでは、税収が全然足りなかったこと
は分かると思う。
ちなみに、アンドロニコス2世の時代の財政で雇えた傭兵は、3000人
の騎兵隊がやっとだったらしい。
211 :
世界@名無史さん:02/07/07 15:07
米好きさん、勉強になります。
続きを期待してます。
ewr
商業税=取引税だと思うのですが、税収全体に占める割合は、1/20だったようです。
貨幣経済が進んでいたといっても、そこはやはり中世なのだなあ、と思いました。