《戦場》
ボロディノBorodinoは、開けた、樺と松の林が点在する平原である。
北にスモレンスク〜モスクワ新道がはしり、南に旧街道が平行する。
両者は東のモジャイスク市Mozhaiskで合流する。
平野の北を流れるコローチャ河Kolochaはモスクワ河の支流である。同河は地面を深くえぐり、
重要な軍事防衛拠点となりうる険しい土手をこさえている。
ロシア軍はこの土地を無数の塹壕で強化した。26の砲門が、のちに大保塁Grea、
ないしラウエンスキー角面保Raevsky Redoubtの名で知られるコローチャ河の東側に設置された。
さらに2個砲兵中隊が計12の砲門(前列中隊9、後列中隊3)がゴーリキーGorki村に梯段配置された。
戦場の南端は無数の小川が北西のコローチャ河に向かってはしっていた。Voinak、Semenovka、KamenkaおよびStonets。
クトウゾフKutusovは、彼の砲兵隊に最大限の地形上の便宜をあたえ、かつ防御濠として河を利用するため、東岸の低い丘を選んだ。
《ボロジノに先立つ戦闘》
ラウエンスキー角面保はVの字型に両肩を短い土塁でかこまれた砲台である。
初期の計画ではVの字の後ろは開けていたが、結局、防御用の木柵によりふさがれた。
しかし角面は土塁に阻まれ(発砲用の狭間がなく)使用不可能だった。
この大失敗の原因は、9/6の戦闘前夜からはじまった工事を担当したモスクワ市民軍によるものだった。
彼らはつるはしもシャベルもなく、構築に必要な指示もなく、ただ闇雲に土を積みあげたのだ。
9/7の大会戦当日の夜明けまでに、ようやく9つの狭間が完成した。砲台は未完成だった。
地面は固く、工事は困難をきわめた。結果、砲台陣地内は、必要な面積にはせますぎた。
築城木材(粗朶)の不足は、斜面の適切な補強工事に悪影響をあたえた。
フランス軍をはばむべき防御柵やその類にかんしてはいうまでもなかった。
《ロシア軍の配備》
クトウゾフ(ロシア軍の新任総司令官)はフランス軍の主進路をスモレンスク新道と予測した。
彼はボロジノにおいてはバルクライ・ド・トーリーBarclay de Tollyを軍右翼に展開させた。
彼は、本作戦直前までロシア全軍の総司令官だったが、ボロジノ戦直前に更迭、クトウゾフにかわられた。
降職にもかかわらず、彼は西欧第1軍the 1st Army of the West(Platovコサック軍団と第1騎兵軍団)をクトウゾフの右翼で指揮した。
バガヴーBaggovout第2歩兵軍団、トルストイOstermann-Tolstoy第4歩兵軍団はコローチャ河東岸の高位置に占位した。
ドクトロフDocturov第6歩兵軍団はコローチャ河からラウエンスキー角面保に展開。
角面保自体には第7歩兵軍団Paskevitch第26師団が配備。
第2(Korff)および第3の騎兵軍団(Kreutz)は角面保と背後に配備。
角面保正面のボロジノ村には近衛猟兵連隊the Guard Jager Regimentが配置された。
クトウゾフの布陣は南側が重要だった。セミョノフカSemenovka河以外に自然障害物のない土地が2500ヤードひらけていた。
セミョノフスカヤSemenovskaya村の土地である。村自体は、軍事的観点からすべての木製家屋は燃やされた。砲撃の視界確保のためだった。
軍左翼においては「バグラチオン三矢保 Bagration Fleches」として知られる3つの野戦陣地構築がおこなわれた。
これら3つのVの字型土塁は斜め梯段(in echelon)に構築された。
その正面1マイル西にやはりVの字型でシェバルディノ保塁Shevardino Redoubtが構築された。
その方向からのフランス軍の侵攻にたいして早期警戒をおこなうためだった。
クトウゾフはラウエンスキー軍団から1個師団抽出、南のセミョノフスカヤ村に正面させ配備。
また第4騎兵軍団をラウエンスキー角面保支援に配備。
さらに南ではボロゾフ第2混成擲弾兵師団Voronzov's 2nd Converged Grenadier Divisionをバグラチオンフレッシュに配備。
ネヴォンスキNeverovski第27師団をその背後に配置した。
クトウゾフは総予備軍としては、
第1、第2胸甲騎兵師団Cuirassier Divisions、
近衛歩兵the Guard Infantry、
ツチコフTuchkovの第3軍および、
62個砲兵中隊(砲門300門)を残す。
クトウゾフのこれらの戦術配置は、彼の「フランス軍の南からの侵攻の可能性」をまったく理解していなかったことを伺わせる。
彼は側面防御には、ほとんど努力をはらわなかった。
現実にフランス軍が件の方面のあらわれたとき、彼の唯一の反応は、
ツチコフ第3軍団から8000、コサック1500騎、市民兵7000をおくっただけだった。
部隊はUtitsa丘陵周辺に進出した。
クトウゾフは、部隊に丘陵の高位置を占領するよう命令しなかった。これが(ボロジノ戦当日初期の)戦術上のあやまりだった。
しかしながら彼はツチコフ軍に森にはいり、もしフランス軍が急速に進出してきたら待ち伏せ攻撃をかけるように命令した。
彼はフランス軍が予備軍すべてをバグラチオン軍の側面攻撃につぎこんだら、ツチコフ軍をさらに外まわりさせ、背後から攻撃できるだろうと望んだ。
ツチコフ軍とバグラチオン軍南側面を連絡させるため、
クトウゾフは4個猟兵連隊(軽歩兵)jager (light infantry) regiments に散兵線を展開させた。
開戦の直前、ベニグセン将軍Gen. Bennigsenがこのエリアを通りかかると、彼は野戦指揮官たちから、この配置にかんして苦情の総攻撃をうけた。
ベニングセンは彼自身の権限で、クトウゾフの命令を反古にし、ツチコフに待ち伏せをやめ、
猟兵指揮官たちの恐怖をおさめるため遮蔽物のないひらけた平原への散兵も中止させた。
クトウゾフにはこの変更は知らされなかった。ツチコフ(9/7戦死)の待ち伏せ配置は完了していると彼は考えていた。
ベニングセンの変更を知ると、彼は激怒した。
開戦のごく直前、クトウゾフは再度、軍内の上級指揮官を変更した。
ドクトロフDocturovが、戦線中央軍(第6歩兵軍団、第3騎兵軍団)を指揮。コンスタンティン大公Prince Constantine は予備。
ミロラドヴィッチMiloradovitchは右翼軍(第2、第4歩兵軍団、実質は騎兵軍団)
ゴルチャコフ公Prince Gorchakovは左翼軍(ほぼ西欧第2軍Armyすべてをふくむ)を指揮。
以上を、命じた。
これらの配置はロシア軍においてはけして異常ではなかったが、ウェリントンが同種の陣形をとるときとクトウゾフでは著しい対照をしめした。クトウゾフは丘陵斜面の前方に密集戦列を配置したのだ。
結果、彼らはフランス軍およびその砲兵の視界のまんなかに立つことになる。
おそらくクトウゾフはウェリントンのように、丘の反対斜面に味方を配列することで敵の視界と砲撃から保護する戦術を、知らなかったか、軽蔑していたと思われる。
もちろんフランス軍は、その種の配置の欠点をよく認識していた。ダヴーDavoutは、砲兵隊に、この無防備なロシア軍の密集戦列を第1目標と指示した。
このクトウゾフの錯誤と、フランス軍砲兵の組み合わせは、いうまでもなく数千人のロシア兵への死刑宣告だった。
例えば、PreobragenskiおよびSemenovski近衛歩兵連隊は会戦当日、一発も発砲していないにもかかわらず、フランス軍の砲撃により273人の死傷者を出した。
クトウゾフの決定は友軍の将軍たちを狼狽させた。有名なプロシアの軍事評論家クラウゼヴィッツCarl von Clausewitz は、のちにこれらを批判的に論述している・・・。
『最大の戦力を有するにもかかわらず・・・右翼は、左翼の苦戦を救うことはできなかった。全体的な配置を見るに、左翼軍は、
フランス軍を右翼軍にむかわせる側面補助をつよく志向している。
しかし結果は、右翼は戦力を消耗することなく、終日、ただ配置されている土地に立っているだけだった。
おそらく右翼は、ゴールキー村ではなくその隣のコローチャ河まで進出し、モスクワ新道を監視するか、占領するふりでもしたほうが、遥かに役にたったであろう』
クラウゼヴィッツはまた、トール将軍Gen. Tollの影響力がロシア軍の愚かな陣形の原因と記述している。このプロシア人は、
普段はこの種の(クラウゼヴィッツが述べる)縦深陣形に賛成するところ、この種の戦術原則を主張しなかった。
それどころか彼は、ロシア軍はまとまりすぎで、予備軍が前線に近すぎるとクレームをつけさえした。
クトウゾフは戦列に、ナポレオンの仏軍が攻撃してくるのを、受身で待った。9/5午後早く、彼は個人的に敵軍を偵察すべく前線に出た。
シェバルディノ保塁Shevardino Redoubtの12門の大砲配備は戦術的に大した価値はないが、
ナポレオンによるロシア軍戦列の偵察阻止と、友軍による仏軍配置の観測拠点としては有効である。
しかしながら、ナポレオンはすでにコローチャ河沿いのロシアの重点配備をみて、ロシア軍左翼に大陸軍を集中しつつあった。
さらにロシアの戦列を偵察した結果、ナポレオンは攻撃第一撃のプランをつくった。
彼はポニャトフスキーPoniatowski第5騎兵軍団に、敵左翼を包囲するため南に移動するよう指示した。
同時に、コンパンCompans第5師団にシェバルディノ保塁を攻撃するよう命じた。
シェバルディノ守備指揮官のゴルチャコフ将軍Gen. Gorchakovは、3個猟兵連隊を保塁の前に展開、
Doronino峡谷に沿ったAlexinkaからFomkina、およびYelniaの森まで散兵線をひかせていた。
彼はさらに第27師団を保塁の背後に、同保塁の12ポンド砲の支援下に配置していた。
その左翼歩兵戦列の背後にはロシア第2胸甲騎兵師団。他にもさまざまな支援部隊があった。
カルポフ将軍Gen. Maj Karpovとコサック軍は、スモレンスク旧道において、ポニャトフスキーの仏軍を監視していた。