銃の歴史

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251Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/11 18:57
雷管方式の鉄砲が普及していく時代を背景に、一人の超大物が登場する。
サミュエル・コルト Samuel Colt である。(コネチカット州ハートフォード 1814生〜1862没)

彼は、1835年に先ず「イギリス」と「フランス」で、
雷管式リボルバー(revolver : 輪胴式。回転式弾倉の拳銃)の特許を取得し、
翌36年にアメリカでも取得した。
リボルバーの特徴である蓮根似のシリンダー自体は、フリントロック時代から先例が存在した。
彼のアイディアの画期的なところは、
『撃鉄を引き起こすのと同時にシリンダーが自動的に回転させられる』という事だった。
(特許取得に先立って、1832年頃から、アメリカの鉄砲鍛冶と共同で試作を繰り返していた)
実際にパターソン Patersonモデルが売り出されたのは1837年になるが、商売的には大失敗に終わる。
口径違いの物や、ポケットモデル、カービン銃も生産したが、その生産数は、
コレクターを歓喜させる程少なく、一種で千丁を上回るものは無い。

そのため、1842年に彼の最初の会社 The Patent Armsは倒産する。
252世界@名無史さん:02/07/12 12:36
>>248
正確にはフリントロックとパーカッションの間にピルロックがあります。
但し、直ぐに(1年そこそこ)銅キャップの雷管が発明され、速攻で消えた。
253世界@名無史さん:02/07/12 12:40
>>251
その後、コルトはニューヨークに出て一人の男と出会うんだな…
その名はサミュエル・モールス(モールス電信機の発明者)と言う…
254Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/15 01:27
サミュエル・コルトを救ったのは、
1846年、パターソンの改良型を求める、テキサス共和国のTexas Rangerからの注文だった。
商業的には失敗したパターソン・モデルだが、Texas Rangerの評価は高かった。
そして、大量の新型拳銃、1000丁の注文がなされた。
この際に、コルトは、実際の使用者である、テキサスの英雄・ウォーカー大尉と
パターソンの改良について、直接会って話し合いを持っている。

後に、Walkerモデルと呼ばれる拳銃が完成したのは1847年。皮肉な事に、
ウォーカー大尉は、この新型の拳銃を受領したのち、わずか数日後に戦死してしまう。

この年、コルトは生まれ故郷のConnecticut Hartfordに工場を設立し、
新たに「Colt Patent Arms」として再出発した。

1848年、ウォーカーモデルを改良した Dragoonモデルの生産が始まった。
細部の設計変更と、銃身を9in.から 7 in.に短縮して、
2070g(4lbs.9oz) から1676g(4lbs.2oz) へと軽量化をはかったものだ。
このドラグーンモデルから、コルトの拳銃は、
職人の『工芸品』から脱皮して、部品に互換性のある『工業製品』になった。
(もちろん、現代のような完全な互換性ではないが)

>253
↑上記の工場では、若き日の、プラット&ホイットニーの創始者の二人が働いていました。
255世界@名無史さん:02/07/15 10:57
同じ頃、フランスで画期的な発明が起きた。1846年フランス陸軍のミニエー大尉
が椎の実弾の底に木栓を取り付けマスケット銃に弾を装填するというアイデアを考え
出した。この方法によりライフリングによって装填しづらかったり、品質のばらつき
で安定しなかった椎の実弾が、確実にライフリングに食い込み且つ装填し易くなった
のである。


256Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/15 16:07
>255の関連。
弾丸の直径の話。

銃口の直径の測り方には、2種類の計測形式がある。
 ボア・ダイアメーター = 山径 Bore Diameter
 グルーヴ・ダイアメーター = 谷径 Groove Diameter  G.D.> B.D.
基本的に、薬莢を使用する(メタリックカートリッジ)方式が確立された後は、
発射される弾丸の直径で銃身のグルーヴは作られている。
これは、推進薬の急速燃焼(爆発とは区別するための表現)によってつくり出される
高圧ガスを有効利用するための当然の帰結と言える。
内燃機関におけるシリンダーとピストン(ピストン・リング)の関係に置き換えると理解しやすい。

弾丸自体をガスシールに利用する、この工夫は、
1852年にフランスの( Claude Etienne Minie )ミニエー大尉が発明した『ミニエー弾』
が最初にガス圧の有効利用を可能にしたことが、先鞭を付けたと考えられる。

それ以前は、球形の弾丸を包んだフェルトや革などのパッチが、ガスシールの役目を負わされていた。
先込め銃は、銃口から弾丸を装填するため、
弾丸は、銃身を装填時と発射時の二度、通過する事になるのだが、
前者と後者では二律背反となる要求が、軍隊では長年に渡って生じていた。

1) 敵よりも多く発砲したいので、出来るだけ短時間でスムーズな装填を可能とするためにも、
パッチと弾丸の直径は可能なかぎり山径と同等にしたい。
2) 狙った場所に的中させたいので、ライフリングに食いつきの良い、
谷径と同じくらいの弾丸が望ましい。
257Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/15 16:11
↑続き。↓

1) と 2) の両方を同時に満足させるためには、
まず、装填する時は山径ほどで、
発射時には谷径くらいへと弾丸の直径を変化させる事が求められるのだが、
ミニエーが発明した方法は、発射火薬の圧力を利用して、弾丸を「変形」させ、
ライフリングに弾丸を密着させる事で、これらを両立させる事に成功した。

円柱の上に円錐を乗せた「シイの実」形の弾丸を作り、
その底面に円錐状の窪みを付けた。
基本的にはこれだけで、速度と精度が向上し、射程も伸び、
非熟練兵でも発砲サイクルが短くできる弾丸が誕生した。

誕生当初のオリジナルのミニエー弾は、
底面の円錐状の窪みに鉄の小さなカップが挿入されている物だった。
しかし、ミニエー大尉が、なんと、意図的に『特許を取得せず』に発明を公開したため、
各地で、窪みに陶器や木片等で蓋をするなどの工夫が各々なされ、様々なミニエー弾が作られていった。
しかし、これらの工夫は命中精度を良い方向に導かない事が後年判明する。
何も加えずに只の窪みにしておく方が、
命中精度を向上させる事に於いては一番良い結果が得られるというのは実に皮肉な結果である。
258世界@名無史さん:02/07/16 00:52
プラット&ホイットニーとはかのエンジンメーカですか?
銃器の製造とエンジンの製作はボーリングを行うという点で共通項が
あるのでしょうか・・・。
バイクメーカーのBSAなどももとは銃器専業でしたし・・。
259Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/16 01:02
>258 そうです。ジェットエンジン等を作ってる会社です。
260世界@名無史さん:02/07/16 01:15
このスレおもろい。
261世界@名無史さん:02/07/16 07:21
feuer!
262Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/16 17:16
>254 の続き↓。再びコルト。

サミュエル・コルトの新会社は、民生用の需要にも恵まれて発展していったが、
それ以上に重要だったのは、1849年に迫った特許の失効を、
専門の弁護士の力を借りて1857年まで、大幅に延長することに成功した事だろう。

『これまでの利益が充分ではなかった』という、無理のある主張が認められたのだ。
1850年には、M1849 Pocket(.31口径 765g) M1851 NAVY(.36口径 1067g) が売り出される。
(数字は『型番』なので発売の年と一致していないが、当時は珍しくなかった。
その上NAVYモデルは海軍との関係もない。シリンダーに海戦の模様が線画で施されているだけ) 

ゴールド・ラッシュに助けられて売上をのばし、
有力者との結びつきや政治力を重視することによって、会社は大きくなり、
1857年に新工場(現在の場所)を完成させ、日産 250丁の生産体制が整った。
(250馬力の蒸気機関を動力源にして、400 余りの工作機械を稼動させた)
M1849 Pocketは32.5万丁、M1851 NAVYは21.5万丁が、1850〜1873年の間に生産された。
263世界@名無史さん:02/07/17 00:54
1855年、ローリン・ホワイトという男がコルトを訪ねてきた。
彼は自ら編み出し特許を取得した後装填型金属薬莢弾奏をコルトの
製品に使ってもらおうと思ったのだ…だが、サミュエル・コルトは
けんもほろろに追い返してしまった。失意のホワイトは自慢の特許を
S&W社に売却してしまう。S&W社はこのシステムと1857年に
パブリック・ドメイン化したリボルバーシステムを使用した新型拳
銃を発売した。1858年にはレミントンが新型のパーカッション
リボルバーを発売する。
264世界@名無史さん:02/07/17 00:56
スマソ…弾倉ね…鬱だ
265Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/18 00:01
>262 の続き↓。もう少しコルト関連。

この頃が、コルトの第一次絶頂期と言えると思う。
コルト社は、大英帝国に進出し、ロンドン工場を1853〜57年の間稼動させていた。
M1849を 1.1万丁、M1851 を 4.2万丁(23500丁の政府納入も含む)の生産していたが、
アメリカの新工場の建設と時を合わせるように、廃止された。
背景として、新たな発明が存在する。

1851年、ロンドンで開催された、第一回万国博覧会。
イギリス人のRobert Adamsが、ソリッドフレームのダブルアクション拳銃を発表した。
(この場合の、ダブルアクションと言うのは、引き金を引くだけで、シリンダーが自動的に回転し、
撃鉄が起き上がり、雷管を叩いて弾丸を発射する機構を指す。対して、コルト側の機構は
シングルアクションと呼ばれる。引き金は、引き起し済の撃鉄を開放する役目しか持たない。)

始めは、コルトのリボルバーをサイドアームズに採用していたイギリス軍だったが、
クリミアやインドでの使用実績等を考慮して、
1855年にアダムス(Adams&Deane社)のリボルバーへと採用を切り換えた。

当時の世界最大の軍隊での採用を逃した事が、コルトがイギリスから撤退した真相のようだ。
制式兵器から外れれば、民間市場に中古の軍放出品として出回るであろうし、
旧植民地のコルトよりも、大英帝国本土のアダムスの製品が売れるであろう事は、想像に難くない。
アダムスの画期的な製品が、すぐに市場の主導権を握る事が出来なかったのは、
トリガーアクションがスムースでは無く、かなりの力と慣れを必要とした事が大きい。
1855年にBeaumont少尉が考案した、新型ダブルアクションの特許を、製品に取り入れて
トリガーアクションを改良し、Beaumont&Adamsとして知られる拳銃を生産してから、花開いた。

↑検索すれば、アメリカあたりのオークションサイト等で銃の画像は見られます。
266Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/18 00:06
>263 コルトとホワイトに交渉があったのは知らなかった。
1855年あたりだと、コルトは頭に血が昇ってる最中だったかも。↓263の関連。

順風満帆でコルトが事業を拡大している時、コルトの特許が切れるのを待っている人物達がいた。
Horace SmithとDaniel B Wesson である。
本格的なメタリックカートリッジである Rimfireカートリッジを実用品に仕上げて、
S&W Tipe1 リボルバーと共に売り出したのが、1857年。満を持しての発売だった。

以前、ウエッソンの兄が、コルトと特許をめぐる裁判で敗訴した事もあり、
彼らは周到な準備をしていた。自分たちの拳銃が抵触する可能性のある特許が無いか確認し、
そこで、Rollin Whiteのリボルバーのシリンダーに関する特許を発見した。
彼らはそれを買い取って、発売にそなえた。
1869年に彼ら自身が取得した「鋳鉄によるリボルバー製造」の特許が切れるまで、
彼らが発明した分野の市場を、半ば独占する事になった。
1850年代のヨーロッパでは、Pin Fire方式(蟹目打ち銃)が発明され普及したが、
信頼性と安全性に問題があり、本格的なメタリックカートリッジ時代に入ると姿を消した。
267世界@名無史さん:02/07/18 02:04
1853年、英国で一つの銃が生まれる。エンフィールド型マスケット銃…
日本で言うエンピール銃である。ミニエーの欠点を完全に修正し、ニップル
装着口に埃避けキャップを用意した前装銃最後の傑作である。この銃は採用
と同時にクリミア戦争に使用され、ロシア軍を撃破する。英国では続いて植
民地軍に続々と配備した。これが一つの事件を生む。.577ブリチェット弾の
ハトロンに牛脂が使用された。これを知ったメーラットに駐留するインド人
傭兵は激怒し、1856年暴動を起した。俗に言うセポイの叛乱である。
268Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/18 23:57
>263さん。V Hogg著Story of the Gunを読み返したら、コルトが拒絶したとの記述がありました。
私は、知らなかったのではなく、うっかり者らしさを発揮していた訳です。

また、ホワイトは、当初はロイヤリティの入る契約をS&Wと結んでいたのですが、
後に、法廷でS&Wにやられてしまった。踏んだり蹴ったりと言う結果に終わったようですね。

訂正。266の、>彼らが発明した分野の市場を、半ば独占(誤) →完全に独占した。(正)
269Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/19 21:50
>267 の関連。
私は、Civil War前後と日本の幕末期に使われた銃は、表面的にしか知らないので、
この時代に雨後の筍の如く現れた、ブリーチローダー及びコンバージョン・モデルは、お手上げです。

そんな私は、「エンフィールド」と聞くと、二次大戦でも使用されたリー・エンフィールドを
思い浮かべてしまいます。
この銃の名前は、リー小銃の、エンフィールド・ライフリング型という意味で、
同時期に少数ですが、リー・メトフォード(意味は上記同様)が存在しています。

と、いう事は、「Pattern 1852」がエンフィールドと呼ばれるのも、ライフリングに由来するのかと
疑問を持ったのです。
そこで、V Hogg大先生のEncyclopedia of Firearms 等をひもといてみると、意外な事実が。

Royal Small Arms Factry が、Enfield Lock, Middlesex に竣工したのは、1856年だということ。
紛争が頻発して、小規模生産の寄せ集めでは追いつかなくなった事が、工廠設立の動機だとか。
もともと研究所のようなものは、当地にあったようで、P1852がエンフィールドと呼ばれるのは、
そこからの由来らしい。
また、どうやら、ニックネームっぽいです。
肝心のライフリングは、エンフィールドタイプでは無く、八角形をしたライフリングだとの事でした。
270世界@名無史さん:02/07/20 00:26
続きへ行きましょう…コルト1860とサミュエル・コルト逝去…
271あぼーん:あぼーん
あぼーん
272Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/23 23:14
Civil War前後の拳銃の事情。

このあと、メタリックカート(金属薬莢式)とパーカッションが混在する過渡期がやって来る。
たとえば、アメリカ陸軍は1860年にM60 ARMY(.44口径・パーカッション) を採用し、
コルトは総計で20.5万挺も生産することになる。
1861年に Civil Warが始まると、
小銃・拳銃ともにメタリックカートリッジへの流れは一層あきらかになっていった。
雨の中でも確実に発砲できる弾丸。
長い間シリンダーに入れっぱなしにしておいても、湿気で不発になる事のない弾丸。
うまく撃つためには火薬の装填にコツが必要だった先込め銃とちがって、装填にコツのいらない弾丸。
すでに勝負はついていた。

戦争が終わる1865年までに、S&W社は、.22 .32 .38 .41 .44 の複数の口径で
リムファイアカートを生産販売していた。
また、他社のライセンス生産も認めて、弾丸の普及に努めた。
この時に、今日に見られるような口径の数字の混乱がはじまる。上記の数字は、
必ずしも実寸の口径とは一致しない。
.22 のように小数点を振っているのは、百分の何インチかを表すため。
.32 は、32/100inchを意味するのだが・・・
273Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/23 23:16
>↑272の続き↓

カート(金属薬莢)の普及には、既に何十万挺も世に出ている
コルトのパーカッション・リボルバーが、一役買っていた。
シリンダーを改造することによって(個人の手には余るが)銃を買い換えずとも、
金属薬莢式の弾丸を使用する事が、可能になるのだ。
.31 口径のM1849 Pocketには .32リムファイア、
.36 口径のM1851 NAVYには .38リムFが、それぞれ適合する。

(以下は、私の推測だが、)
なぜ、実寸よりも少し大きな数字を『型番』として弾丸の名前にしたか、真相はわからない。
『巨人コルト』に対抗するためには、イメージ戦略として、大きい数字を使うことを、
それも、あまりにも実態から掛け離れた数字を用いて
「虚勢を張っている」と思われない範囲内として、
実寸 .36口径のものに .38リムファイアの名を与えるなどしたのではないだろうか。
274Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/25 16:49
↑推測の続き↓

また、金属薬莢方式の、便利さと新しさが、
旧式化したパーカッション銃よりも強力な弾丸であるという「予断」をもたらすのを、
S&Wは期待していたのではないか。
当時から、発射した弾丸のエネルギーの計算は出来たはずだが、
肝心の弾丸の速度を正確に計る機械は存在しない。
つまり、たくさんのデータが蓄積されてみなければ、経験則的な判断は下せないのだから、
メーカー側の人間か、さもなくば軍隊の試験官のように何千発も撃てる人物以外は、
弾丸の性能の差異を、簡単に知る術がない。

実際のところ、.22 口径より大きいリムファイア弾が、現在は存在しないので
(センターファイアーに駆逐された)エネルギー等の数字の比較も困難だが、
パーカッションよりも強力だった可能性はあると思う。
『広告機構』がこの時代にあって、誇大広告を取り締まっていれば、
直径が 100分の38inchはおろか 100分の36inchにも足りない直径の弾丸が、
「.38 Special」などと名乗る事が許される事は無かっただろう。
この、誇大呼称の型番をつけた弾丸が幅を利かせているために、
実際に 100分の38inchの直径を持った弾丸は、一度も市場に出たことがない。
275世界@名無史さん:02/07/25 21:01
南北戦争のお陰で会社を大きくしたサミュエル・コルトはその利益で新型ライフル
1000挺を北軍に寄付した。北軍はその銃を使った『コネチカット・コルト・リ
ボルディングライフル連隊』を編成する事を決定し、連隊長をサミュエル・コルト
にする形で準備した。だが1862年1月10日、夢叶わずコルトは他界する。
276Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/29 23:16
その後、たしかにメタリックカートリッジの時代はやってきたが、
リムファイアのものではなかった。リムファイアは、薬莢の直径が大きくなると、
推進用火薬の理想的な燃焼が困難になっていく構造上の欠陥がある。
また、もしも薬莢の底を下にして、固い床にでも落下させた場合は、
大口径になるにつれて、弾丸自体も重くなるので、重さに比例して暴発の危険が増大する。
これらは、センターファイアの弾丸にはみられない欠点であり、
小口径の.22 口径以外のリムファイアが生き残れなかった理由である。
もっとも、これは歴史を知っている今の人間だから言えることであるが。

1866年に、近衛砲兵出身で王立研究所にも所属していた Edward M Boxer 大佐が、
.577口径の Snider Rifle 用の半金属薬莢実包を、
(現在の散弾薬莢と同じ構成。ただし、鉛の弾丸はボール紙の筒の上から顔を覗かせている)
自身が発明した『ボクサー型雷管』を使用したセンターファイアカートリッジとして完成させた。
(同年八月にイギリス陸軍に制式採用)

ほぼ同じ時期に、アメリカでは陸軍を退役した Hiram S Berdan 大佐が、
『ベルダン型雷管』を開発していた。
1868年、大佐が開発したベルダン M-1元込めライフルは弾薬と共に、ロシア陸軍に採用された。

その後、イギリス生まれのボクサー型がアメリカで普及し、
ベルダン型はヨーロッパ(旧日本軍も採用)で普及した。
二次大戦後は、NATO諸国(自衛隊も)ではボクサー型が主流となっている。
277Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/07/29 23:21
>275
その後、コルト社の工場は、放火による火災に遭い、
再建に数年掛かる損害を受けた。
西部を制した銃、が誕生するのは、もう少し先の話。
詳しい方よろしく。
278世界@名無史さん:02/08/19 23:57
狙撃による戦死という史実で、よく知られているのは、
1805年10月21日のトラファルガー海戦のネルソン司令官の死だが、
これは、意外な程の近距離からの狙撃である。
私の推測する数値としては、15m〜25mの範囲。狙撃手は後檣楼(Mizzen Top)から撃った。

ネルソン提督座乗のヴィクトリー号(104 門艦)が、
フランス艦ルドゥタブル号(74門艦、綴り不明)の左舷に取りつき、
更に英艦テメレイル号(98門艦、綴り不明)が、「ル」号の左舷に取りついた状態の時に、
提督は狙撃された。3隻は船首が同方向で並んでいた模様。
279世界@名無史さん:02/08/20 14:42
>>278
狙撃手の名前はマルソーという事だけ判っている
280世界@名無史さん:02/09/08 07:47
ロケットボールという弾丸についての解説をお願い出来ませんでしょうか?
281Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/09/14 01:19
ジャイロジェット(Gyrojet)のことかな?
だとすると、ちょっと世界史って感じでは無いのですが。ご容赦。

007シリーズの、日本を舞台にした「007は二度死ぬ 」にも出ていた銃に使う弾丸だと思う。
もちろん、映画用の小道具ではなく、60年代に米国の加州で開発され、市販されていた。
口径は9mm 12mm 13mm 20mm の4種類あり、銃身以外の銃本体は、アルミ合金で出来ていた。

通常の弾丸は、発射される弾頭部と、薬莢部の二つの部分があるが、これはワンピース。
弾丸の底部に開けられた孔から(2〜4ヶ所)に、推進ジェットを噴出して飛翔する。
およそ、 口径 X 30mm(直径 X 長さ)の大きさで、実用に足る威力もあった。
(初速は、357マグナムとほぼ同じ、1250ft/secもあり、重さも180grainもあるため)
また、発射音は、「ほとんど無い」といったレベルにあるらしい。

しかし、弾丸の値段が高すぎる事(1発で通常の拳銃弾50発分の値段)や、
思ったところに当たらない事(藁)から普及はしなかった。
発売当時も今も、一部のマニア向けの高価なおもちゃである事に変わりはない。
・・・だけど、↑これは、普通はロケットボールとは言わないから、別物?
282世界@名無史さん:02/09/14 03:58
>>280
ボルカニックライフル、ピストルに使われた弾丸を
ロケットボールと言うようですね。
281さん解説のジャイロジェットのご先祖様です。
283世界@名無史さん:02/09/14 04:33
訂正
ボルカニック以前にHUNT ROCKET BALL というのが発明されてて、
その改良版がボルカニック(VOLCANIC)、ロケットボール弾だと。
どちらも弾丸底部に発射薬を埋め込んだ一体型弾。
図が出てたから見てね。
ttp://www.cartridgecollectors.org/glossary.htm
284280:02/09/15 08:13
ご説明有り難う御座いました。
285Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/09/15 14:03
HUNT ROCKET BALL も、VOLCANICも、私は存在すら知らなかったです。
という事で、調べてみました。
頼りになる、V Hogg大先生のEncyclopedia of Firearmsを、
莫迦の一つ覚えよろしく繙いてみました。

それによると、HUNTの方は、Lewis Jennings の項目でありました。
銃の方は、Jennings rifle の名称で呼ばれるモノが一般的には有名なようです。
HUNTのデザインを基にして構造の単純化を図ったらしく、ある程度の商業化に成功した様子で、
1849年に発売されています。(パーカッション式です。)

VOLCANICは、Tyler Henryの手によるもので、彼はJenningsの工房の一員でした。
その後、S&Wに移り、1854年にパテントを取っています。
さらにそのあと、独立して商売を始めるも、鉄砲が売れず、1858年に破産。

双方共に、大きく評価されているのは、弾丸ではなく、レバーアクション式の装弾方式で、
西部を制したライフル銃、ウインチェスターの「元ネタ」となった所のようです。

弾丸の方は、ロケットというよりは、ケースレスアモ(無薬莢弾)というべき構造のようです。
火薬(装薬)は、継続した推進ではなく、
通常の弾丸と全く同じ方式の、瞬間的な爆発燃焼による推進力を得るために使われています。
(ちなみに、Gyrojetは燃焼ガスを銃口から14m余りまで、噴進しながら飛翔します)
画像は、>283氏が紹介されている所にあります。

Jenningsの設計意図は、パーカッション式に於いて装薬の手間を省くために、
弾丸(椎の実型)の底部にあらかじめ火薬を詰めておく、という点にありました。
VOLCANICの方は、それよりも一歩進んで、雷管も底部に納めた構造としたようです。
286283:02/09/16 03:06
>>285
スミスとウエッソンがかかわったボルカニックがヘンリーライフルになり
ウインチェスターになり、そこにブローニングも…。
なんかオールスターキャストですね、ここらの歴史も。

Jennings rifleは知らなかったのですが、見てみるとなんか複雑ですね。
これは弾丸とパーカッションキャップを同時にセットする連発式なんですかね。

ttp://www.researchpress.co.uk/firearms/jennings.htm
287Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/09/16 15:25
私も、知ったばかりなので、解説する任にないんですが、
パーカッションキャップは、弾丸の中に装薬された火薬に点火するという、
普通の役目を果たしているだけで、
火道が長いのも、フリントロックやパーカッションの発想から逃れられていないように思える。

ですが、驚きますね、
ハンマーを手動で激発位置に引き起こすと、その力を利用して、
パーカッションキャップを自動的に装填する構造になっているようです。
これだけ複雑な構造のものを製造できたのに、
完成する以前に、時代後れになっているなんて。技術革新の真っ最中の時代の悲劇ですか。
また、Jennings rifleは、V Hoggの本では20連発のチューブマガジンと言う事でした。
ご紹介のHPでは24発となっていましたが。どちらが正しいのかは、判りません。
288世界@名無史さん:02/09/17 17:14
銃について素人なんですが、
質問いいですか?
世界最古の銃っていつ何処の国が造ったのか教えてもらえませんか?
いきなりでスイマセン。
289世界@名無史さん:02/09/17 17:23
>>288
中世に、中国とヨーロッパでほぼ同時に発明されたというのは聞いたことがある。
銃と言っても、当時はロケット花火みたいな感じだったんだと。
290世界@名無史さん:02/09/17 17:35
>>289
中世ですね。φ(。。)メモメモ
わかりました。どうもありがとうございました。
291世界@名無史さん:02/09/17 18:01
中世って、またアバウトな(笑
1259年に中国の記録突火槍て竹筒火器が出てくるけど
これを銃といっていいものかは微妙かも。
元のころになると金属製のものが出現してるらしいが、これも
銃なのか砲なのか…。
同じ頃木製のマドファてのがアラビアでもあるがこれも微妙?
ハンドキャノンを銃とするか砲の小型砲とするかは難しいけど
いかにも銃と呼べそうなものとしては15世紀初頭のヨーロッパの
アークゥイバスArquebusからと私は思います。
292世界@名無史さん:02/09/17 20:40
>>288
最古の銃で確認されたのは1399年より以前に作られた(城が1399年に
壊れて以来放置され、その城から発見された)タンネンベルク銃です。それ以
前は現物確認されておりません。前レスを見てください。
293世界@名無史さん:02/09/28 22:59
X
294世界@名無史さん:02/10/02 01:55
一部参考にどうぞ。
ファンタジーRPGに銃は禁物ですか?
http://game.2ch.net/test/read.cgi/cgame/1009043965/l50
295Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/10/03 00:41

「史上もっとも重武装だった強盗」と言うのを、どなたかご存じないでしょうか。
かなり昔、ギネスブックか何かで読んだと記憶しているのですが。

30丁超の拳銃(多分、パーカッションの時代)を身につけた小男が、銀行へ強盗に。
ただし、銃が重すぎて、身動き取れずに御用。という様な、冗談じみた話。
最近、気になってるんですが、ネタ元の本が判らないんです。

一丁が1.5kgとしても、45kg。余りにも馬鹿馬鹿しいので覚えてたんですけど。
296世界@名無史さん:02/10/08 08:35
>238
近年、兵書の再検討や天保10年久米通賢製作の箱書きが残る「極密銃」が実際に発見されたことなどにより、「芥砲」が江戸期にも確かに存在していたことが明らかになっておるようです。
 それからちょっと質問であります。日本の場合17世紀初頭には、大鉄砲の一種にえらく神経質な照尺を用いて長距離射撃が行われていたことが知られていますが、
同時期、若しくは先行する時代の西洋においての大型マスケット銃等は、どのような標準器が用いられていたのでしょうか?当然のことながら一般的に砲や施条銃に比べて、滑腔銃の標準器は未発達なものであったとは聞きますが
297Bベス ◆92LbIz8Oa2 :02/10/18 00:03
>296
天保10年、1839年ですか。時代的な可能性は否定できないですね。
現代でも、実用性ゼロのマニア向け銃が生産されていますから、
当時の技術者(職人)の余技として作られたのかもしれませんね。

私は素人なので、その論文を読んでいませんが、とりあえず否定的な見方の方も書いておくと、
「芥砲」が、パーカッション式の雷管、もしくは香水壜式発火装置を備えた物だとすると、
発射準備を完了した状態は、非常に不安定で危険な状態であると思えます。
たとえるなら、「常に撃鉄を起こした状態」でしょうか。(安全装置はありません)
少なくとも持ち歩くのは、ほぼ不可能だと思います。
また、形状からすると、ストライカー式の撃発装置のようですが、この方式の元祖は、
ドライゼで、発明されたのが1841年、プロイセン軍の制式兵器になったのが、1848年です。

「芥砲」の一部を削って(微量)金属分析に掛ければ一発で判ると思いますが、
(たたら製鉄と、高炉では、同じ鋼でも、全く別物ですから)化学分析はなされたのでしょうか?
芥砲偽作の年代だと疑いの濃い大正・昭和初期は、たたら製鉄が最大の危機を迎えた時代で、
仮に、「お大尽のマニア向けの偽作」を作るとしたら、高価な玉鋼を使用するとは思えない。
安価な、近代製鉄の鋼を使用していると思えます。
298世界@名無史さん:02/10/18 01:53
平凡社技術史クラシックスの
「大砲と帆船」カルロ・チポラと
「火器の誕生とヨーロッパの戦争」バート・ホール読んだ人いる?
特に後者は「銃や大砲がヨーロッパに現れてから騎士が線上から駆逐されるまでなぜ数百年かかったのか」
という問題について論じていて面白いよ。
面白かったところ:
◎中世の軍隊は敵を射撃で攪乱するという弓兵(あるいは石弓兵)と突撃で敵を蹴散らす騎士を組み合わせた戦術が既にあり、銃はその戦術に組み入れられたに過ぎない。
◎20世紀の射撃試験によると16−18世紀の銃で一般的な甲冑は撃ち抜けなかった。すなわち高級な鎧を使える貴族や騎士身分のほうが線上では有利だっただろう。
◎銃が普及した理由は弓兵(ヨーマンのお家芸)や石弓兵(イタリア傭兵のお家芸)のように、その土地に根付いた技芸ではなく、誰でも扱える簡単な道具だったから。(性能では劣る)
◎銃の性能の向上は黒色火薬の粒化による。しかしこれはよりよく爆発するためではなく、保存を良くするための改良であった(性能向上は副産物)。
◎銃は防衛用兵器だった。クレシーの戦いでの弓兵のように、銃兵の前には塹壕や防御工作物を設置しなくては、騎士に簡単に蹴散らされた。
◎銃兵は当初槍兵を守るために導入された。しかしパヴィアの戦い(1525年)スペイン軍は逆に騎士の突進をくい止める障害物として槍兵を運用。銃兵が主、槍兵が縦の体制が生まれた。
◎槍と銃の組み合わせで騎士の活躍が封じられると騎士が廃れ始めた(フランス軍はずっと騎士を主兵としていたが、さすがに廃止しはじめた)
◎それに加えて、騎乗で使えるピストルが16世紀に発明されて、騎士は決定的に廃れた。ピストル騎兵は騎士と同じ機動力を持つ上に、敵の馬を撃って致命傷を与える戦術を好んだから。
299世界@名無史さん:02/10/18 07:27
「標準の哲学」という本を読んだ。
共通規格の誕生と銃の歴史には深いつながりがあるのね。
感動したなり。
300世界@名無史さん
>>12っすな