1 :
世界@名無史さん :
百済が4世紀頃に中国大陸へ進出したと、時々見かけるんですが、
史実として認められる事なんでしょうか?
2 :
世界@名無史さん:01/09/18 12:34
え?北方には高句麗の存在があるし、海を越えて行ったとでも??
3 :
世界@名無史さん:01/09/18 12:36
誇大妄想の朝鮮人学者の論文か??
4 :
世界@名無史さん:01/09/18 12:37
宋書か何かに、百済に山東地方の支配権を認める記述があるそうです
5 :
世界@名無史さん:01/09/18 12:44
宋は南朝だから北朝支配圏の山東、遼西の形式的支配権を朝貢国の百済に
認めた?でもそうだとしても南朝だけが認めた形式的なものと思うが。
今の威海衛あたりは百済の居留地があったとか聞きました。
百済が滅んだのは山東からの唐軍の渡海攻撃でしたね。
7 :
世界@名無史さん:01/09/18 14:36
知り隊ね。
8 :
世界@名無史さん:01/09/18 18:52
韓国の国定教科書にも、この記述があるようですね。
中国側のほうは、どういう見解なんでしょう?
9 :
世界@名無史さん:01/09/18 19:33
私は知らないけど、当時の中国(北朝側)の情勢がキーでしょうね。
中国北部が分裂状態にあったなら、可能性がなくもないんじゃないですか?
4世紀の華北だと、南北朝ではなくて五胡十六国の時代でしょうね。
朝鮮の古代史関係の話題は、電波だらけですから、まともに相手にする
と疲れますよ。
11 :
世界@名無史さん:01/09/18 21:20
5世紀の高句麗なら、あながち間違いということもないだろうが、4世紀の
百済が遼東半島というのは、地理的に無理がありすぎるな。
12 :
世界@名無史さん:01/09/18 21:38
>>11 百済って、4世紀中頃に成立したのでは?
それが4世紀に遼東半島を支配したというのは、ちょと無理があるように思われ。
13 :
世界@名無史さん:01/09/19 05:02
2チャンはウヨと差別主義者だらけだ
14 :
世界@名無史さん:01/09/19 05:21
>>13 地図を見て半島南西部と山東・遼東半島が
どれだけ離れているのか確認してからいってほしいです。
15 :
世界@名無史さん:01/09/19 05:26
6 名前:梵阿弥 :01/09/18 13:28
今の威海衛あたりは百済の居留地があったとか聞きました。
百済が滅んだのは山東からの唐軍の渡海攻撃でしたね。
16 :
世界@名無史さん:01/09/19 05:55
居留地というのを、都合のいいように解釈してるだけだと思うね。
17 :
世界@名無史さん :01/09/19 06:41
韓国国定教科書の記述
「・・・同時に、洛東江流域の伽耶諸国に対しても支配権を行使した。≪中略≫
また、百済は水軍を増強して中国の遼西地方に進出し、つづいて山東地方と
日本の九州地方にまで進出するなど、活発な対外活動を展開した。」
みなまにほんふ神話と同じ(w
>>15-16
同じ方ですか。>6はちょっとあっさり書きすぎましたね。唐が百済攻撃に先立ち山東半島の
百済人居留地を攻撃したのです。ただこれは7世紀のことなので4世紀の状態と直に繋げられ
ませんが。奈良の石上社の七支刀は百済から贈られた物で360年頃の年号が入っているので
偽物でなければ海を越えての交易くらいはしていた証拠になるでしょう。
20 :
世界@名無史さん:01/09/19 10:47
日本と百済の交流は誰も否定はしないでしょう。
山東半島の居留地はアユタヤとかの日本人町的
意味合いのものでは?
進出→×支配と考えなければ納得できるでしょう。
日本人町も交易拠点であってその国から割譲せしめ
たものではないですよね。
とてもじゃないですが百済が高句麗・新羅と対立しつつ
中国でも人口の多かった山東半島に侵略・支配など
電波以外の何者でも有りません。
21 :
世界@名無史さん:01/09/19 11:30
>20
前に「水軍を増強して」ってありますから、遼西地方に山東地方、
九州は軍事力を背景とした百済の勢力下にあったように読めるんですけど。
それとも、移民やらなんやらを水軍で護送していったのだろうか。
>>20 山東の居留地は幾つあったかも知らないしおおむね日本人町程度なのか香港的なのも在った
のかも知りません。ただ、間に黄海があっても住んでいた百済人が数家族とかそんな数では
なかったでしょう。私としては莱夷などと呼ばれていた山東半島端部が百済建国に何か
関わっていないか気になります。
>>21 ならただの基地外ですね
有り得た話も要らない誇張で誰も信じてくれない
馬鹿話に変化する。半万年の知恵でしょう。
これは「梁書」の「諸夷傳」の百済の条の「其の國(百済)は本より句驪と
遼東の東に在り、晋の世に句驪は既に略して遼東を有し、百済も亦た遼西・
晋平の二郡の地を據有す」という記事に基づく説でしょう。全くあり得ない
ことでもないように思われます。これについて井上秀雄さんの論文があった
ように記憶しますが不確かです。
>>21 >17に則って韓国の国定教科書を文字通り受け取ればそうなりますが、何が根拠に
なっているのでしょうねえ。
>>24 句驪は高句麗でしょうか。百済王家は扶余とされていて、高句麗は夫余族から成るとか聞き
ましたが、漢人が混同した恐れはないでしょうかね。というよりある時期まで一つだった
かも知れない。
宋だったか、柔然と坦貢党(字が違うかも、チベット系)と結んでいたので拓跋魏は高句麗
と結んでいまして、高句麗が隣り合ったシナの國と敵対していなかったのはこのときのみ
だそうです。宋と百済が通交して認め合うのが自然な状況だったといえましょう。
26 :
世界@名無史さん:01/09/19 15:32
井上秀雄によると、この手の疑問はすでに『梁書』が編纂されたころから
あるそうな。
井上秀雄『古代朝鮮』から抜粋
「前燕が三七〇年に前秦に滅ぼされてからは、高句麗が遼東地方を支配した。
百済は広開土王・長寿王の圧迫に苦しんだが、中国の南朝宋の冊封を受け、
南朝鮮諸国と連合して高句麗と対立した。おそらくその一時期に、遼西方面と
政治的な連携ないしはその一部を支配したのではないかと思われる。
百済は東晋や宋との国交を海上交通で結んでおり、当時東アジアでもっとも
進んだ海上交通国であった。(中略・日本は国際社会の末端で、云々)
百済は三七七年に北方の前秦にも朝貢しており、北方の遼西地方に
強い関心を抱いていた。前秦の崩壊にともなう遼東・遼西地方の政治的混乱期に
百済が三七一年の対高句麗戦の大勝の余勢をかって一時的にしろ遼西郡を
侵略することは、じゅうぶん可能性のあることである。さらに可能性の強い
考え方をすれば、南朝宋では高句麗に対抗するものとして百済を高く評価
している。高句麗が北朝の魏や燕と結んでいるのを牽制する意味でも、百済の
遼西郡侵略を誇張して取り上げる必要があったのでなかろうか。」
27 :
世界@名無史さん:01/09/19 18:02
居留地を攻撃というのは今でいうと
海外資産を接収したってことなのでは
28 :
世界@名無史さん:01/09/21 04:41
29 :
世界@名無史さん:01/09/21 17:24
202 :世界@名無史さん :01/08/26 11:26
韓国教科書の古代史観について
市販されている韓国国定の歴史教科書を読むと、古代において百済は『中国の山東省や倭
国の九州に進出しました』と書かれており、教科書か分かりませんが以前読んだ韓国側か
らの歴史関係の書籍にも「古代において九州には百済の分国がありました」と図入りで書
かれていた記憶があります。
今まで古代史に多少の関心は有りましたが、こんな説を見たのは初めてで、日本人が書い
た書籍で見た事はありません。
ずっと、「根拠はなんだろう?」と疑問に思っていたのですが、先日読んだ「加耶諸国と任
那日本府(李永植著)」「広開土王碑研究の軌跡(星野良作著)」という2冊の書籍から大体
彼等の考えが分かりましたので2冊から内容をある程度省略抜粋した上でここに書かせて
いただきます。
203 :世界@名無史さん :01/08/26 11:27
@ 百済の中国進出説の根拠
倭の五王が5世紀に南宋に遣使朝貢し、将軍号の冊封要請を主な内容とする対中国外交を
展開した事は有名であり、倭王済と倭王武は南宋から「使持節都督、倭・新羅・任那・加
羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の称号をそれぞれ授与された。
戦前の日本では、倭以外の新羅・任那などの韓南部諸国名がその軍事号に含まれた事をも
って、これらを当時の倭王の支配対象とみなし「任那日本府説」の根拠の一つとされてきた。
同様に百済王とその臣下に対しても南朝から「都督東青州諸軍事東青州刺史」「西河太守」
等の中国山東省一帯の州勅史号や郡太守号が授けられた記事を根拠に、これらの地域に対
する百済の支配権を認める一方、倭王の都督諸軍事号はまったく形式的なものとする説が
ある。これに対して日本の古代史学会では百済の中国山東省地域の支配権は認めないもの
の、倭王の韓諸国における軍事権は認めている。
実際には中国山東省一帯は北魏の支配領域であり、領土を次々に失っていた南朝による形
式的な意味しか持たないものと私は思う。
204 :世界@名無史さん :01/08/26 11:28
また、「宋書」巻97・列伝57の百済国条には「百済国本与高驪、倶在遼東之東千里余、
其後高驪略有遼東、百済略有遼西。百済所治、謂之晋平都晋平県」とあり、「梁書」巻54・
列伝48・百済条にも「其国(百済)本与句驪在遼東之東、晋世、句麗既略有遼東、百済
亦拠有遼西、晋平二郡地矣。自置百済郡」とある。また、「三国史記」巻46・列伝6の崔
致遠条にも近似の内容を伝え、「高麗百済全盛之期、強兵百万、南侵呉越、北撓幽燕斉魯、
為中国巨蠧」とある。韓国古代史学会では早くからこれらの記事を根拠に、いわゆる百済
による遼西経略の説が出され、近年においては百済の臣下たちに除正された華北郡名の太
守号と関連させ、百済が五世紀末〜六世紀中葉間に華北沿海の広陵、清河、城陽、広陽等
の地に軍事的拠点を確保していた、あるいは商業基地を確保していたという見解がある。
この記事がどの程度信憑性を持つのかはひとまず置くが、資料上でも百済の軍事活動は晋
代のこととされ、太守号を除正された南北朝時代とは時代的な隔たりがあり、これをもっ
て軍事基地や商業基地と解釈するのは飛躍しており、学説の再検討が望まれる。
訂正がございます。>25のタングトは「党項」と書きます。さらに、
宋と結んでいたのは「吐谷渾」でした。
北シナは前秦、拓跋魏と騎馬民の國家だったので沿岸部の漢人達が百済に亡命したり
すれば渤海湾に勢力を持ってもおかしくは無いと思いますが。
31 :
世界@名無史さん:01/10/06 11:25
もともと夫餘王尉仇台が遼西に本拠を置いたのが始まりで、
馬韓の中の「伯済国」ってのは半島方面に築いた橋頭堡だった。
32 :
世界@名無史さん:01/10/20 07:56
>31
初耳だよ
33 :
世界@名無史さん:01/10/20 08:16
16世紀のタイ王国では、大規模な日本町が栄え日本人傭兵団が国軍の最強部隊だったわけだが、もしこの当事者が日本ではなく韓国だったらタイは当時ウリナラの領土だったと韓国人は本気で主張するのかも。
・・・夕べTVで山田長政やってたけど、うーん。そこで韓国とかもちだされると辛いなあ(笑)
当時の日本の文化的質の高さによる海外進出というよりは、アフガン帰還兵とかイラン・イラク戦争当時の
イラン人出稼ぎ者の感覚でとらえんと。日本人傭兵は
35 :
世界@名無史さん:01/10/20 10:13
>>34 微妙に反論になりえていない。
出稼ぎ傭兵として海外に溢れ出した日本人の質が高かったんだから。
タイでは誰も山田長政なんて知らないよ
イギリス人が三浦安針にこだわっていると笑えるだろ?
やめたほうがいいよ。
>>36 七つの海を支配した大英帝国とイベリアみたいな封建社会のカスにおびえきってた日本とじゃわけが違うよ。
日本人にとってはシャム王の下僕が唯一の精神安定剤なのです。
進出しただけなんだから別にいいじゃん。
39 :
世界@名無史さん:01/10/20 13:11
26でもう終わったんじゃないの?
40 :
世界@名無史さん:01/11/06 08:19
井上秀雄の説は採れんな
41 :
世界@名無史さん:01/11/06 10:44
>>37 その時代は、まだ大英帝国じゃないよ。7つの海にやっと到達し始めた頃。
当時のスペインは、どう考えてもカスじゃないだろ。
42 :
世界@名無史さん:01/11/19 09:24
遼西には白檀、白狼などの古地名がある。百済の起源はこのへん。
43 :
世界@名無史さん:01/12/26 07:53
百済まんせー
44 :
世界@名無史さん:02/01/04 15:41
しかし、百歩譲って、山東に進出してたとして、百済に何のメリットがあるんだろう?
倭人が半島南部で活躍するのは、鉄など物資の補給に不可欠だから分かるんだけどさ。
山東に百済人がいたとして、半島の倭将みたいなもの?
45 :
世界@名無史さん:02/01/07 04:34
だから、遼東や山東に進出したってのは南朝による名目的な冊封なんだよ。
これが事実だというのは完全な電波説。
でも、遼西の件は有力な説でなくても一説としてはありうる説なんだよ。
遼西の件と、遼東・山東の件はまったく別次元の問題。
46 :
世界@名無史さん:02/01/26 23:37
gnohuhen sohu j koji desyurai
2 4 5 1 6 3
↓↓ ↓ ↓ ↓ 舌
1 4 6 3 5 2
47 :
世界@名無史さん:02/02/11 07:31
↑これって何ですか?
千年後には日韓併合も韓日併合になっているよ
もちろん、大和の朝鮮南部支配説も電波説。
51 :
世界@名無史さん:02/02/24 02:07
千年後には日韓併合も中断された統一の理想だったということになっているよ。
52 :
世界@名無史さん:02/02/24 07:06
千年後には統一韓国は中国の省になってるよ。 日本はアメリカの州に
53 :
世界@名無史さん:02/02/24 13:10
>>45 禿げ同。倭王武の安東大将軍号と同じようなもんだよね。
韓国の国定教科書が史実というならば、任那日本府も史実としないと論理の破綻
になるよね。
54 :
世界@名無史さん:02/03/01 16:46
>>54 わざわざトンデモサイトを紹介してくれてありがとう。
そして市ね。
>>53 ちがうだろ。倭王武の安東大将軍は名実備わったもの。一緒にはできない。
57 :
世界@名無史さん:02/05/04 21:30
58 :
世界@名無史さん:02/05/05 02:13
ローマ文化王国百済の偉大さを認めようとしないコヴァが多いね
日本の右傾化きわまれりってかんじだね
>>58 煽ってくれてありがとう。
チョンスレは評判が悪いから最近盛り上がらんね。我々電波ハンターも寂しいかぎりだ(w
ついでに日本史板の百済スレのリンクぐらい貼っとけヨ
>>56 百済と高句麗は安東大将軍より上の称号を受けてますが。
61 :
世界@名無史さん:02/05/06 21:22
>>60 もちろん知ってるよ。でもそれは格式の上下であって司令系統が
倭王(安東大将軍)の上ということではない。
>>56への反論になってないね。
高句麗王の軍事指揮権は高句麗1国、百済王の軍事指揮権は百済1国にしか及ばない。
百済を除く南韓地域の軍事指揮権は倭王のものと認められた。
62 :
世界@名無史さん:02/05/06 22:34
煽りだと?
百済帝国がローマ文化帝国だということを知らないのか?
64 :
世界@名無史さん:02/05/06 23:32
>>63 そういう本は実際にあったけど、どれほど信憑性があるかわからん。
65 :
世界@名無史さん:02/05/13 23:34
age
66 :
世界@名無史さん:02/05/20 00:23
>>64 信憑性はないだろ。明らかに。
「そういう本はある」っていうけど、あるの? 見たことないぞ??
韓国の歴史サイトでは時々そういう話があるらしいから
韓国にはそういう本売ってるのかも知れないが、邦訳はないでしょ?
67 :
世界@名無史さん:02/05/20 00:33
9世紀の円仁の記録だと山東半島に新羅人のコミュニティがあることがわかるし、
江南にも新羅人の活動基盤があった。円仁は日本人だから唐でも隣国で
親しみのある新羅系住民とのつき合いばかり書き残しているが他にベトナム人や
ペルシア人のコミュニティが存在したことにも触れている。新羅人コミュニティ
は世界帝国唐にすみついた外人居留地のone of themにすぎない。
そのような感じの居留地が5世紀ごろにも山東半島にあっても全然不思議でない
がそれを「支配」を呼ぶのは電波であろう。
68 :
世界@名無史さん:02/06/24 02:44
>>29 >市販されている韓国国定の歴史教科書を読むと、古代において百済は『中国の山東省や倭
>国の九州に進出しました』と書かれており、教科書か分かりませんが以前読んだ韓国側か
>らの歴史関係の書籍にも「古代において九州には百済の分国がありました」と図入りで書
>かれていた記憶があります。
まじかよ
69 :
世界@名無史さん:02/06/24 05:42
29さんが紹介しているように、百済がもと中国東北地方にあって、高句麗より
南にあったのであれば、そこから西へ行けば遼西、東へ行けば朝鮮半島で、
時の勢いで西へ行ったときもあったのではないかと思う。
百済は日本に支配されていた平和的な国(民族)という先入観念があるみたい
だが、朝鮮南部に建国したこと自体が征服の結果であることを考えれば、
扶余としての侵略性を旺盛に持っていた時期に周囲の地域を支配しても少しも
おかしくない。
その後の南朝による册封も名目的ではあっても過去の実績に基づいている
のではないか。あるいは実際に支配していなくても支配した頃の遺民がまだ
いたとか。
70 :
世界@名無史さん:02/06/24 17:31
書名 『ローマ文化王国-新羅 』
著編者 由水 常雄
出版社 新潮社
刊行日 2001.07
ISBN 4-10-447601-3
大きさ 22cm
ページ等 317p
本体価格 3,200円
71 :
世界@名無史さん:02/07/17 04:57
百済って以外とすごいのね
日本に百済の分国があったとかいう電波はどの辺から
妄想したのだろう?
あと、日本に土器の作り方を教えたとか言うのも?
73 :
世界@名無史さん:02/08/12 04:05
74 :
世界@名無史さん:
>73 ハン板ねぇ・・・・・・
お里が知れるってやつ?