前スレ【実況@番組】北朝鮮関連番組実況 part164

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お待たせ。
読売社会面、拉致の特集をうpしました。
多分、明日以降、一日遅れで読売のHPにうpされると思うんだけど、とりあえず。

讀賣新聞9/11 社会面トップ
奪われた時間(とき)@
見出し 「拉致」壊れた人生設計
    「弟の姿見るまで耐える」

 史上初の日朝首脳会談から17日で丸一年が過ぎようとしている。金正日総書記が小泉首相に拉致を
認めて謝罪したにもかかわらず、五人の被害者が帰国した以後は、大きな進展は見られない。そして、
運命を変えられた人達にとっては、あの日以後も、時の流れが止まったままだ−。
317LIVEの名無しさん :03/09/11 08:30 ID:ciXnCcwi
>>316続き

 札幌市郊外のアパートの一室。1980年に拉致された石岡亨さん(当時22歳)の兄、章さん(48)が、
居間のパソコンに向かい、キーボードを叩く。
 「ごめんね」。これは亨さんに向けた言葉。三年前に亡くなった母親へは「悪いね」。「考えると頭が
おかしくなる」「それでも頑張らなければならないのにね」「これを書いて少しさっぱりした」−。心の
中に浮かんだ言葉や時々の心境を、そのまま打ち込んでいく。何時間もかけて、結局A4判の紙にして
1枚か、多くても1枚半しか埋まらない。液晶画面に最後に浮かび上がる文章はいつも一緒だ。
 「明日からもまた、頑張ろう」
 この儀式を終えると、ようやく眠りに入ることが出来る。「いつかは亨と生きて会えるかもしれない」
「いい夢が見られるかもしれない」。そう自分に言い聞かせながら。
       *         *          *
318LIVEの名無しさん :03/09/11 08:31 ID:ciXnCcwi
>>317続き
 今年4月、測量士として10年近く勤務した会社を辞めた。北朝鮮が拉致を認めて以来、政府や北海道庁
との連絡、殺到する報道陣の対応に追われ、会社に顔を出せない日々が続いた。経済状況が特に厳しい北海道。
従業員数人の小さな会社に、社員を”遊ばせておく”余裕はないことは分かっていた。上司は「悪いけど
切るよ」と通告した。事実上の解雇だった。
 実家で同居していた姉に負担を掛けまいと、常に一人で取材に応じ続けていた。何をどう応えればいいのか
迷い、電話が鳴るたび、心臓がドキドキして止まらない。ノイローゼ気味になり、病院の神経科通いは今も続く。
 「もう仕事のストレスに耐えられない」。解雇の通告を黙って受け入れた。
 章さんが、三歳下の亨さんと最後に会ったのは、渡欧直前の80年3月。実家に立ち寄った亨さんと、
健在だった両親を交えて、一家揃ってにぎやかに食事を取った。日大で食品の勉強をした亨さんは、ピレネー
山脈のふもとでパンやチーズ職人の技術を学びたい、と希望していた。海外へと旅立つ弟の姿を頼もしく思った。
319LIVEの名無しさん :03/09/11 08:31 ID:ciXnCcwi
>>318続き
 職を失い実家に一日中居ると、当時の記憶が鮮明によみがえってくる。間もなくアパートで一人暮らしを始めた。
保険を解約し、貯金を取り崩す日々。「くよくよしても始まらない」。大きなハイビジョンテレビを買った。映画の
ソフトも揃えた。
 だが結局、その大画面で見るのは折々のニュースだけだ。帰国した五人の動向がイヤでも目に飛び込んでくる。
「あの人達は笑って見せているけど、毎日毎日、針のむしろだ。ものすごい、つらい思いをしているはずだ」。
北朝鮮に向かって心の中で叫ぶ。「弟を若い頃の姿に戻して返せ」
 「声高に帰国を訴えれば、北朝鮮で生きている弟がかえって危険にさらされる」と考えていた章さんは、今も
表立って行動することは控えている。家族連絡会や救う会とは距離を置いているが、亨さんと同時期、やはり
スペインで拉致された松木薫さん(当時26歳)の弟、信宏さん(30)とはよく話をする間柄だ。
320LIVEの名無しさん :03/09/11 08:32 ID:ciXnCcwi
>>319続き
 昨年9月以来、信宏さんは集会に参加したり、街頭に立ったりして、積極的に救援活動に取り組むように
なった。それまで新聞販売店従業員としてセールスに明け暮れてきた信宏さんから、「仕事以外の時間は殆ど
拉致の為に裂いているので、私生活のことは考えられない。結婚を考える余裕もない」と聞かされ、思わず
深く頷いた。「拉致に巻き込まれたら、否応なしに人生設計を放棄しなければならない。私と同じだ」
 将来が見えず、押しつぶされそうな気持ちに襲われ、また、パソコンの前に座り、「泣き言」をつづる。
 「弟の姿を見るまでは、待つしかない。耐えるしかない」

写真=章さん「石岡章さんは弟の亨さんや亡き母と写した古い写真をパソコンに保存している。当時の思い出話に
   笑顔がこぼれた(札幌市郊外の自宅で)