UQ HOLDER!【ネタバレスレ】 Part2

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764DOF@白羽 ◆D/w5oCAtaw
http://www.zenkoji.jp/about/index.html
(前略)
 >『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、
>欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。
>この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。
>後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、
>後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年
>(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」
>と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、
>民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。
>東下り
>▲善光寺奉納絵馬より「東下り」
>草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。しかし、
>発掘史料や史書などから、いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできます。
>大正十三年と昭和二十七年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、
>7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。
(後略)
http://www.st.rim.or.jp/~success/zennkouji08_ye.html
(前略)
>寺伝によれば、善光寺を開山したのは、若麻績東人(わかおみのあずまびと)
>で別名を本田善光(ほんだよしみつ)という人物だった。そこから善光寺という名が付いたとされる。
>何でも、この本田善光という人物が、推古十年(603)に、信濃国司の従者として都に行った折り、
>難波(大阪)の堀江で、ありがたい仏像を見つける。この仏像は、「欽明天皇十三年
>(552年)、インドを経て、仏教伝来の折り、百済からわが国へ伝えられた日本最古の仏像」
>(善光寺HPの善光寺縁起より引用)と言われる。ところが、この仏像が、蘇我氏と物部氏の仏教をめぐる争いの中で、
>悪疫流行の禍根と見なされ、難波に放置されていたものだった。本田善光は、
>この仏像を長野の飯田に持ち帰って、寺を建てたのが始まりで、後(642)に、
>それが現在の地に移されたものと言われている。
(後略)
765DOF@白羽 ◆D/w5oCAtaw :2013/10/25(金) 06:20:39.32 ID:dtn2o0+w0
2086年の1400年前、飛鳥時代の686年頃の「宍戸甚兵衛」という人名について合理的に考えられるのは、

1.>>708も指摘しているように後世名乗った可能性
2.甚兵衛自身が最初の方の記憶は曖昧と言ってんだし、1400年という数字が単にホラの可能性
(自分の歳をサバ読むという行為自体は手塚治虫も泉重千代もやっていた)

の二通り。ID:L2dqqHLp0は善光寺縁起に「飛鳥時代の若麻積東人はあくまで若麻積東人であり本田善光なわけねーw
それに律令以前のその時代は国司じゃなくて国造だろwFラン私大出身者ばかりの善光寺の人間じゃ、
そんな初歩的な日本文化史も判らないwwwww」とでも大真面目に突っ込んでろよ。

>>711 :名無しさんの次レスにご期待下さい:2013/10/23(水) 03:46:41.30 ID:L2dqqHLp0
>>1400年前に生まれたんなら宍戸甚兵衛って本名じゃないよな

>Fラン私大出身者ばかりの赤松スタジオの人間じゃ、そんな初歩的な日本文化史も判らない

>>714 :名無しさんの次レスにご期待下さい:2013/10/23(水) 04:32:43.64 ID:L2dqqHLp0
>>713
>くだらんのは認めるが、別に煽りとかじゃない
>赤松スタジオでは、本名かどうかのつじつま合わせが必要かどうかにすら、
>無自覚だろうといいたいだけ

>設定に凝れとは言わんが、要するにもの作りが雑
766DOF@白羽 ◆D/w5oCAtaw :2013/10/25(金) 06:31:22.62 ID:dtn2o0+w0
http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/50.html
>『神道集』の神々
>第五十 諏訪縁起事
>人皇第三代安寧天皇から五代の孫に、近江国甲賀郡の地頭・甲賀権守諏胤という人がいた。
>奥方は大和国添上郡の地頭・春日権守の長女で、甲賀太郎諏致・甲賀次郎諏任・
>甲賀三郎諏方という三人の息子がいた。
>父諏胤は三代の帝に仕え、東三十三ヶ国の惣追捕使に任ぜられた。
>七十余歳になった諏胤は病床に三人の息子を呼んだ。そして、三郎を惣領として東海道十五ヶ国、
>太郎に東山道八ヶ国、次郎に北陸道七ヶ国の惣追捕使の職を与えた。
>諏胤は七十八歳で亡くなり、三十五日の塔婆供養の三日後に奥方も亡くなった。
>父の三回忌の後、甲賀三郎は上京して帝に見参し、大和国の国司に任じられた。
>甲賀三郎は春日郡の三笠山の明神に参詣し、春日権守の歓待を受けた。
>そして、春日権守の十七歳になる孫娘の春日姫と巡り会った。その夜、
>甲賀三郎は春日姫と夫婦の契りを交わし、近江国甲賀の館に連れ帰った。
>ある年の三月、甲賀三郎は一千余騎を伴い伊吹山で巻狩を行った。
>甲賀太郎は五百余騎、甲賀次郎も三百余騎を伴って加わった。三郎は北の方を麓の野辺の館に住まわせ、
>狩の様子を観覧させた。八日目に上の山に二頭の大きな鹿が現れたと報告があり、
>三郎は上の大嶽に登って行った。
>麓の館で北の方が女たちに今様を歌わせていると、美しい双紙が三帖天下って来た。
>北の方がその双紙を見ていると、双紙は稚児に姿を変え、北の方を捕らえて逃げ去った。
>甲賀三郎は天狗の仕業だろうと考え、二人の兄と共に日本国中の山々を尽く探し回ったが、
>北の方を見つける事は出来なかった。
(後略)
767DOF@白羽 ◆D/w5oCAtaw :2013/10/25(金) 06:34:55.01 ID:dtn2o0+w0
http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/50.html
(前略)
>そこで、三郎の乳母の子である宮内判官の助言で、信濃国笹岡郡の蓼科山を探してみる事にした。
>そこには大きな人穴があり、春日姫が最後に着ていた着物の片袖と髪の毛が見つかった。
>甲賀三郎は簍籠に八本の縄をつけ、それに乗って人穴に入っていった。
>簍籠を降りて東の人穴を進むと、小さな御殿の中から春日姫が千手経を読む声が聞こえた。
>甲賀三郎は北の方を連れ出すと簍籠に乗り、家来たちに縄を引き上げさせた。
>ところが、北の方は祖父から貰った唐鏡を置き忘れてしまったので、甲賀三郎は引き返して再び人穴に入った。
>甲賀次郎は弟を妬んでいたので、縄を切り落として三郎を人穴の底に取り残した。
>そして、春日姫を甲賀の舘に連れ込み、宮内判官経方をはじめ三郎の一族二十余人を殺戮した。
>残った家臣たちは次郎に臣従を誓った。甲賀太郎は次郎が父の遺言に背いた事を知り、
>下野国宇都宮に下って神と顕れた。
>甲賀次郎は春日姫を妻と定め、政事を行った。しかし、姫は次郎に従おうとしなかった。
>怒った甲賀次郎は家来に命じ、近江の湖の北岸、戸蔵山の麓で春日姫を切らせることにした。
>そこに宮内判官の妹婿である山辺左兵衛督成賢が通りかかり、春日姫を救い出して春日権守の邸まで送り届けた。
>その後、春日姫は三笠山の奥にある神出の岩屋に閉じ籠ってしまった。
>その頃、甲賀三郎は唐鏡を取り戻して簍籠の所に引き返したが、縄は切り落とされており、
>殺された一族の死骸が転がっていた。三郎は地下の人穴を通って好賞国・
>草微国・草底国・雪降国・草留国・自在国・蛇飽国・道樹国・好樹国・陶倍国・
>半樹国など七十二の国を巡り、最後に維縵国に辿り着いた。
>三郎は維縵国の王である好美翁に歓待された。好美翁には、八百歳・
>五百歳・三百歳になる三人の姫君がいた。
(後略)
768DOF@白羽 ◆D/w5oCAtaw :2013/10/25(金) 06:52:36.54 ID:dtn2o0+w0
南北朝時代に編集された「神道集」に収録されている「諏訪縁起事」な。
当時の人々は「欠史八代の頃に地底探検が行なわれ、
そこで目にしたのは無数の国々と何百年と生きている人々であった…」
といった似非古代ファンタジー冒険小説を書いてはwktkしていた。

三代安寧天皇5世孫が近江国甲賀郡地頭・甲賀権守諏胤で、
その三男が甲賀三郎という大和国司で…と時代考証めちゃくちゃだけど、
そのズレッぷりが現代人の目にはかえって面白かったりする。
赤松作品は分かる人が読めばむしろ日本文学の文脈を踏襲しているのがわかるよ。
ID:L2dqqHLp0は学校でお勉強してきたまんまの”日本史”を機械的に当てはめては、
調子に乗って「日本文化史」などという単語を持ち出して墓穴を掘ったのであった。

>>711 :名無しさんの次レスにご期待下さい:2013/10/23(水) 03:46:41.30 ID:L2dqqHLp0
>>1400年前に生まれたんなら宍戸甚兵衛って本名じゃないよな

>Fラン私大出身者ばかりの赤松スタジオの人間じゃ、そんな初歩的な日本文化史も判らない