三雲修の言動から見る葦原大介
ワールドトリガーの(片)主人公として描かれている三雲修
この少年、フツメン・学力不明・運動音痴・ぼっちと一般的に言うところの「冴えない主人公」の分類に属するのだが
ところがどっこい、その正体は侵略者から街の住民を守る組織「ボーダー」の隊員
つい先ほどまで自分を殴りつけていた不良を助けるために勝ち目のない敵に向かって行ったり
もう一人の主人公で、熟練の戦士であるユーマから行けば死ぬと念を押されているにも関わらずクラスメイトを救うため死地へ赴くなど、
自己犠牲精神の塊のような行動を取る
その上、ボーダーに入隊し命の危険さえ伴う戦地に身を置くことを決心した理由は、
名誉のためでも金のためでもなく、先輩の妹を助けるため
徹底した聖人っぷりである
さらにすごいことに、これほどの聖人的行為をとっておきながら、本人自身はその行為を全て「あくまで利己的なもの」と称している
己の行動を鼻にかけず、驕ることもない まさに完璧主人公である
が、しかしこの主人公、一見完璧に見えるが一つだけ欠点がある
そして不運なことに、そのただ一つの欠点が、この主人公に人間的魅力を見出す上で致命的な欠点となってしまっているのだ
そう、この主人公悲しいことに「無能」なのである
別に「無能」だから悪いというわけではない
むしろ最初から万能な主人公などつまらない
だがこの主人公の場合「無能」の程度があまりに酷すぎて
先ほどまでに述べた聖人的行為の全てが、大言壮語、ビッグマウスの捨て身の行為にしか見えなくなってしまっているのである
作品開始時点でのこの少年の役職はC級隊員
ボーダー内での地位は最底辺であり、戦闘を前提としていない練習用の武器しか持たせて貰えない立場
実際彼にとってネイバーは「勝ち目のない」敵なのであり、作中で彼が捨て身の行動を取った際にネイバーを倒し彼を救うのはユーマである
「そうすべきと思ったことから逃げない」と大きな口を叩く割には、あまりにも能力が伴っていない
勿論入隊から日が浅かったり、努力ではどうにもできない壁にあたっているなど、
本人の責任とは異なるところに「無能」の原因があるかもしれないのは事実だ
だが、作者自身が単行本で「バムスターに負ける修は恥ずかしい」と書いていたり
基礎体力トレーニングで、運動が得意なわけでもない年下の女子の千佳以上にへばっているなど
描写を読み取る限りでは、能力不足の原因は本人の怠慢にあるようにしか見えなくなっている
本人もユーマに助けられたり、手柄を横取りしてしまったことに後ろめたさは感じているものの
明確に「強くなりたい」という意思を示すことはない
「そうすべきと思ったことから逃げな」くても済むように努力する、という様子がほとんど見られないのである
そのため、先ほどの修の「聖人的」行為を正確に描写すると
「無能な上努力もしないが口だけは立派な少年が、心が綺麗という理由だけで強大な力を持ったパトロンを味方につけて昇進していく」というお話になってしまうのだ
普通に見れば意味不明だ
が、三雲修が葦原の自己投影的存在であると考えると、このお話は結局「葦原の願望を描いたもの」なのだということがよくわかる
「無能な上努力もしないが口だけは立派な少年」は葦原のことなのである
そう、葦原は、心が綺麗な自分は超常的存在に助けられてたとえ能力がなくとも名誉を得るべきだと考えているのである
さらに注目すべきは、このテンプレートは、葦原がお気に入りと公言している名作漫画「ドラえもん」を温くしたものに非常に近いということである
ドラえもんのストーリーも、何の能力もない上努力もしない少年のもとに強大な力を持った味方が現れるというもの
しかしドラえもんの場合は、話の基本は悪ガキのび太が道具を悪用ししかるべき報いを受けるという因果応報ギャグである
一部例外を除き、のび太が名誉を得ることもなければ、ドラえもんが無条件の味方になることもない
努力しない無能は無能らしく怠け虐げられている
しかし葦原はこの作品の「能力もない上努力もしない少年のもとに強大な力を持った味方が現れる」という部分のみに憧れ
そしてそれを己の作品に反映させてしまったのだ
「心が綺麗」というのは、あくまで無能を持ち上げるための理由付け、帳尻合わせに近いもの
だから修の大言には努力が伴っていない
鳴呼悲しいかな藤子・F・不二雄大先生
あなたの名作はとんでもない方向に曲解され、そして最低最悪の漫画を生み出す一因となってしまいました
でもこれは勿論先生の責任ではありません
どうか草葉の陰で泣いていないことを祈ります;×;