「あーあー、いけません。また落ちてしまわれたようですねぇ」
無感情気味の声音に、部下たちが肩越しに振り向いた。
彼の部下たちに囲まれうつむいたままの人間だけが、何の反応も示さない。
「どうしやすか武市さん」
問いに、能面のような顔のまま、武市は応じる。
「しかたありません。水でもかけて起してください」
「おい、持ってこい」
指示通り、手桶に汲まれた水がすぐに運び込まれた。
水は勢いよく気絶したその人物にぶちまけられた。
「……っ」
わずかばかりのうめき声が漏れ聞こえた。
武市の部下の一人が、水の滴る長い黒髪をひっつかんで上を向かせた。
「う、ぐ……ッ」
武市は猿轡をはめられた彼の前にひざまずき、顔を近づけた。
「お目覚めですかねぇ、桂さん」
「……」
濡れてなお艶ややかさを増したようにも見える黒髪の間から秀麗な顔がのぞく。苦しげに細められた眼は、それでも真正面の敵へ意志を持って向けられていた。
「お休みになられたいなら……たった一度だけ頷いていただければ、それで結構なのですが」
「……」
頭が小さく横に振られた。
武市は立ち上がり、部下に告げた。
「続けてください」
「へい」
彼らからゆっくりと離れ、武市は言う。
「高杉さんの言う通り……簡単には、堕ちてくれませんねえ」
まだまだかかりそうだと、彼はどこか愉しげにため息をついた。
結局、外が明るくなってもそれは続けられることになった。
桂小太郎は塀からとび移った屋根の上で立ち上がり、そこから館を見下ろした。
外装がもろかったのかさびれた風体をさらすその館は、今も明かりがほとんど灯っておらず、幽霊屋敷と評判の館だった。もともとは天人の持ち物だったが、今は地主が変わって知られていない商人の持ち家となっている。
しかしその商人が河上万斉とつながりがある可能性が高いという情報が届いた。
仲間たちとともに動乱以降は常に情報を集めていたが、鬼兵隊の動きはなかなかつかめない。情報がやや不確かだっために可能性は低かったが、
この館で鬼兵隊の情報が何か探れることを期待してやって来たのである。
「高杉め……いったいどこに隠れている。それに……」
何をたくらんでいるのだ。
月明かりの夜に浮かび上がる館を見下ろし、桂はつぶやいた。
屋敷の中に入り込むのは簡単だった。外に見張りがいなかったからといって中にいないとも限らなかったが、警戒しながら忍び込んだものの、人の気配が感じられなかった。
階下にはいるかもしれないが、最上階の天井裏に潜んでいる以上、よほど油断しない限り見つかる可能性は低い。
最上階の部屋を見て回り、一番端の部屋を調べ終えたが、なんの変哲もない少し傷んだだけの屋敷だった。人がいて使っている様子はあったが、ただそれだけである。
とりあえず怪しい部屋か地下室のようなものがないか探してみようと、桂は階下へのルートを考え始めた。
すると、階段のほうから誰かが上がってくる足音が聞こえた。しかも一人ではなく、複数である。
耳を澄ませた彼のもとに、やがて話し声が届いてきた。
「――?」
「……ぃゃ、……は、まだできておらん」
「では、河上殿にはなんとお伝えすれば」
(河上……やはり河上万斉か……?)
さらに話を聞こうとしたが、声と足音は廊下の反対側へと離れていった。
彼はそれを追って天井裏を進んだ。
が、階段付近の天井まで来たところで、再び足音を聞いた。
「む……」
ちょうどいいところに下を覗き込める隙間を見つけた桂は、そこから廊下を見下ろしてみた。
うってつけなことに、その隙間は階段がちょうど見えるようになっている。
ぎしぎしと階段を軋ませながら、一人の男が上ってくる。
ヘッドホンにサングラス、逆立った髪。そして背中には三味線を背負っている。
(河上、万斉……まさか本人がいるとはな)
桂にしてみても、まさか視認できようとは思わなかった相手である。通じている商人とやらから河上万斉の名を聞くことができれば、それだけでここが鬼兵隊の息がかった拠点の一つだと判明するはずだったのだ。
彼とのつながりを確認できた以上、ここにいるのは危険だと判断し、桂はすぐに撤退することを決めた。
その瞬間。
「!!」
奴の足音が消えた、そう理解した瞬間、桂は後ろに大きく飛びのいていた。
一瞬前まで彼が体重をかけていた梁が、周囲の天井板ごと吹き飛んでいく。
「なるほど……さすがは逃げの小太郎。よくぞかわしたでござる」
パラパラと破片が廊下に舞い落ちるが、万斉はすでにそこにいない。桂と目線を同じくする位置に立ち、彼に刃を向けている。
梁の上で互いに対峙したまま、つぶやく。
「……気づいていたのか」
「ここ数週間、確実に聞いたことのないリズムが聞こえた。それも天井裏から」
万斉は隙なく桂を見据えながら言葉をつづけた。
「こんな夜中に人様の屋敷に侵入するとはなかなか無礼な客でござる。だが、ぬしが大人しくしているのであれば、手厚くもてなしてもよい」
「あいにく予定があってな!」
言うなり桂は素早く取り出した拳ほどの球を万斉に向かって投げつける。万斉はそれをあっさりと切り割ったが、球体はぼわんという間抜けな音をたてて煙を広げた。
人が来る可能性があったが、桂は廊下へと飛び降りた。案の定、先ほど会話していた二人が音を聞きつけてやってくる。その頭上を越えて二人をかわし、着地するや廊下を一気に駆ける。
だが、次の瞬間、右手首に違和感を覚えた。
「……!?」
右腕が伸びきるまでひっぱられ、桂は足を止めた。ビンッと空気を震わす音。
「糸……!」
三味線の弦。
左手で腰の刀を逆手に抜き、素早く糸を断ち切る。
桂が顔を廊下に戻すと、万斉はすでに床を蹴っていた。迫る刃を、真っ向から受けてたつ。
白刃がきらめき、甲高い金属音が響き渡った。
「なかなか、心地よい曲だ。人を酔わせ、躍らせる曲でござる」
品定めをするような視線をサングラスの奥に感じた。何かを見透かされたかのような、嫌な気持ちを振り切るように相手の刀をはじく。
するどい切っ先をかわし、受け流し、そして攻め合う。
「さすが天下の桂小太郎……以前見受けた時から、是非に一度死合うてみたかった!」
「人斬り河上万斉……お前も噂にたがわぬ腕だ!」
ひと際大きな音を奏で、刃が互いをはじきあう。二人は同時に一歩退きあった。少しあがった息を意識する。
相手の腕は悪くなかった。悔しいが、高杉の人を見る眼、人を見抜く眼は確かなものがあった。少し銀時を思わせる大振りな剣筋と身軽な足裁き。体格に恵まれ一撃の重さも申し分ない。
対して自分の剣は軽かった。その分速さは勝っているものの、まとわりついてくる鋼の弦を断ち切ることに費やされる。技術でしのぐも限界がある。
いくら目の前の男と互角に戦えようと、もうしばらくすれば、おそらく階下から騒ぎを聞きつけて応援がやってくるはず。
(その前に、なんとかこの場を)
そう思った桂が軸足を移動させた瞬間だった。
響き渡る銃声。
「くっ!」
とっさに左に飛び退き、さらに打ち込まれる銃弾をかわす。
「ほんとに素早いッスね。でも一発かすったッス」
万斉の後ろから銃を構えた露出の高い女が現れた。鋭い視線で桂をにらみながら、ゆっくりと歩いてくる。
「逃げ切れないっスよ、その足じゃ」
彼女の言うとおり、彼は右足から出血していた。銃弾は足をかすめただけだが、かわした姿勢、半ばしゃがみこんだままいきなり走りだせるような傷ではなかった。
「ふむ。このような幕切れとは思わなかったでござるな……」
少し咎めるように万斉が隣に並んだまた子につぶやいた。
「うるさいっス。大体、どでかい音たてすぎなんスよ。近所迷惑もいいとこっス」
「銃声のほうがよほど近所迷惑でござる。しかも品がない」
「年中ヘッドフォン外さないあんたに品とか言われたくないっス! さっさとそいつとっ捕まえるっスよ!!」
向き直ったまた子の目の前で、桂は半身をずらし隠しながら取り出していた爆弾を、やや壁寄りに放った。
「なっ……」
「ちっ」
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ズガァァン!
爆発で吹き飛んだ壁の穴に桂は飛び込んだ。規模も予想通りの爆発だったため、次の行動に移るのは敵よりも速い。だが、銃弾は桂の右足をかすめ、軽くえぐっていた。痛みが強く、素早い動きは制限される。
「……っ、この、逃がさないっス!!」
たちこめる煙の中で拳銃が火花を散らしたが、危ういところでかわした桂は、古めかしい机の反対側に隠れながら窓ガラスに柄の底を叩きつけた。また子の乱射も手伝い、窓は完全に割れる。
転がるように飛び出て、さらに屋根の傾きに任せて落下。わずかなとっかかりに左手を掛け、そのままぶら下がる。
ここは三階。遙か下に庭が見えた。少しくらりとする。
懐から取り出した小さな爆弾を三つ、彼は飛び出てきた部屋に向かって投げ込んだ。
軽快に大砲でも連射されたような音が鳴り響き、同時に人々の悲鳴だか怒号だかが聞こえた。つかんでいる屋根のでっぱりが揺れ、それに耐えてから桂は反動を一回つけて二階の部屋に飛び込んだ。
ガラスの破砕音がひびく。だが、彼は一度横に転がって体勢を立て直すと、すぐさま窓の外に向かった。
直観的に考えたことは、来島はともかく、河上はそう簡単にやられはしないだろうということだった。
予感は的中した。
桂の爆弾のような轟音より一瞬早く、二階の部屋の天井に切れ目が走る。
退きながら桂はつぶやいた。
「ふん……床を切り飛ばしたか。大工が泣くぞ」
「ぬしのせいでござるがな」
「イッテー……急に足場切り崩すとか、なにしやがるんスか……!」
天井と一緒に飛び降りてきたのは万斉。そして落っこちてきたのが全身埃まみれのまた子だった。反応は遅れたようだが、大した深手を負わせられなかったらしい。
問題の男は健在。追いかけっこはまだ終わらない。
舌打ちしながら桂は踏み込みざまの一撃を刃で弾き返し、飛び退るや窓に足をかけ脱出する。そろそろ本格的にまずかった。着地が予想以上に響いて顔をしかめる。
すいと空気に何かが閃いた。
「残念ながら、そろそろフィナーレでござるよ」
言葉が降って来るのと、首にかけられた弦が上へ引かれるのは同時だった。
「か……はッ!」
「その怪我さえなかったら、弦が巻きついた瞬間に気づいたかもしれないでござるな」
首をつられるように締めあげられ、彼の息が詰まる。弦をつかむが、ゆるむ気配はない。
「首を狩るわけではないが、その意識、刈り取らせていただくでござる」
万斉の声が遠くなり、視界が揺れる。そしてぼんやりと焦点を失っていく。
やがて全身から力が抜け、桂はその場に崩れ落ちた。