しばらくお互い動かない状態が続いたが、いたたまれなくなったのか、八雲は顔を俯けて踵を返し、屋上の出入り口へ走り出した。まるで逃げるような背中に、
播磨はかけるべき言葉も、
言葉をかけようという発想すら思いつかず、ただ呆然とドアが閉まるのを見送った。
ようやく知覚が追いついたのは、昼休みが終わりを告げる五分前に鳴る予鈴が鳴った時だった。今から戻らなければ、授業には間に合わない。しかし、
今の播磨は授業を受けようという気分ではなかった。
最後に残した八雲の言葉が、頭に残っている。呪いをかけられたように、その一言が今まではただ通り過ぎていたもやもやした
何かを動かし始めていた。逃げ場を求め、心の奥底で叫ぶその何かを処理した
いと願う播磨だったが、どうすればいいのか皆目わからず、いつものようにそんな己の心を静観するだけに終わった。
今までにない息苦しさを覚えた播磨は、それでもどうすることもできず、投げ槍に屋上へ身を横たわらせた。このまま、
今日は授業が終わるのを待とう。無気力だけだった今までの自分の中に新たな何かが
波紋を投じたのがわかったが、やはりどうすることもできなかった。
最後の授業が終わりを告げるチャイムが鳴り響き、「じゃあ今日はここまで」
の教師の合図を皮切りに、教室に喧騒が戻った。
教科書や筆記用具を沢近愛理が片付けていると、「沢近ー」と聞きなれた声が耳朶を打った。振り向けば、
案の定そこには周防美琴の姿があった。逸早く帰り支度を済ませた美琴の姿に、愛理は嘆息した。
「なぁ、今日はどうする? 晶も誘って喫茶店行くか?」
「あのね、美琴……」
「天満も誘いたいとこだけど、あいつは今日も烏丸と一緒だろうなぁ」
「待ちなさい、待ちなさい。美琴、あなた今日から掃除当番だって忘れてない?」
愛理が嘆息した理由を告げると、みるみるうちに美琴の顔が曇っていった。
「……あっちゃー。そっか、そういやそうだったよな。すっかり忘れてた」
「まったく……」と相槌を打ちながら、愛理はさっきの美琴の言葉を思い出していた。
今日も烏丸と一緒だろうなぁ……。それは天満の想いが成就した今だからこそ言える言葉で、等しくヒゲと
サングラスの男の失恋も意味していた。天満の愛は本物だ。それは愛理にも容易に理解でき、
最初からヒゲの付け入る隙はなかったのだと考えていた。
その一方で、播磨の想いが本物だったことも理解している。それは今までよく見てきた自分だからこそ、確信をもって言えることだった。
それだけに、失恋した時のショックが
大きかったことは理解できるが、未だにそれを引きずっている様子なのには、我慢しがたい衝動が走った。
いつまで倒れたままでいるつもりなのか。目の前にあのヒゲを引っ張り出し、鼓膜が破れるほどの勢いで問い詰めてやりたい。
その怒りが募るが、肝心の播磨が学校にほとんど来ないとなれば、
その機会は得られなかった。
溜まった鬱憤は、屋敷でのクレー射撃に消費される。デフォルメした猿の絵に播磨の顔を重ねたクレーを、ひたすら撃ち続ける毎日。
それは発砲の衝撃を受け止める手首や肩に、
激痛という代償をもたらした。
発散したはずの鬱憤も、日に日に強まる痛みの相乗効果で逆に蓄積されるばかり。出口のない迷路に飛び込んだ己の心に苛立つ毎日を過ごしながら、
唯一の出口となる播磨を探していた。
いつまで引きずるつもりなのか。さっさと終わった恋を諦めろ。倒れたままでいるな。立てないなら私が手を――。
言いたいことを脳内でリストアップしていた時、愛理は教室の開いたドアの隙間から、階段を下りる播磨の姿を捉えた。
「じゃあ沢近、あたしはこっちの窓拭くから――」
「ごめん、美琴。ちょっと急用を思い出したわ」
有無を言わせない口調で遮った愛理は、大股に一歩を踏み出していた。背後から「え、おい? ちょ、沢近?」と慌てた様子の
美琴の声が追いかけてきたが、
播磨を視界に収めた瞬間から
真っ白になっていた脳には届かなかった。
人に会いたくない気分だった播磨は、普段はほとんど使用されない方の階段を使うことにした。昇降口からも目立った教室からも遠いその階段は、
都合のいいことに人の姿がなく、
あとは遠回りしながら昇降口に向かってさっさと帰ろう、というのが播磨が考えた計画だった。
だが、それも「ヒゲ!」の大音声に呼び止められるまでの計画だった
最悪。播磨の中では疫病神の位置に置かれている沢近愛理の姿が、踊り場から仰ぐ段上にあった。
愛理はサングラスの下でしかめた播磨の表情に気付くことなく、不機嫌そのものを表現した足取りで踊り場まで下りてきて、
開口一番「あんた何やってんの!?」と叫んでいた。
「何って……帰ろうとしてんだよ」
「そうじゃないわ。何で学校に来てるのか、って聞いてるのよ」
「俺が学校に来んのが、そんなにおかしいかよ?」
「おかしいわね。無様に倒れたまんまのあんただからよ」
明らかな侮蔑と挑発の内容だったが、だからといって今の播磨には怒鳴り返すほどのエネルギーはなかった。
「そーかい。けどな、お譲にゃ関係ねえだろ。ほっとけ」
うざったさが募り、いい加減に喋るエネルギーさえなくなってきた播磨は、これ以上愛理の相手をするのが億劫だった。
ぷい、と顔を背け、さっさと帰るに限ると思った播磨だが、「関係あるわよ!」の声と共に肩を掴まれて、振り向かざるをえなかった。
「あんたね……! いつまで天満のこと引きずってんのよ? いつまでもウジウジして……女々しいにもほどがあるわ! いい加減
に立ちなさいよ!
どうしても無理なら――」
そこまでは聞いた播磨だが、もう疲れきって「だったら何なんだ?」と発して愛理の言葉を遮った。
「俺は俺のもんだ。てめえにどうこう言われる筋合いはねえし、いちいち干渉されたくもねえ」
二年ほど前には、よく頻繁に言っていた言葉だ。そう播磨が頭のどこかで漠然と思っている目の前で、愛理の顔が怒りとも悲しみ
ともとれない形に歪んだ。
「そう……。だったら勝手にするといいわ。あんたなんか、ずっとそうやって倒れてればいいのよ……!」
そう言い切った愛理の目には、はっきりと涙が浮かんでいた。それを見た瞬間、播磨は昼休みに続いて二度目の衝撃を味わうことになった。
固まる播磨を置き去りにし、愛理は階段を駆け上がって去ってしまった。後に残された播磨は、お譲が泣いた? と目の前で見たものが信じられず、
動揺する羽目になった。
今日だけで二人の涙を見た。女を泣かせたという事実が、播磨の心に影響を与えて、八雲の一件から動き出していたもやもやした
何かが、今度は暴れ始めるようになった。
「くそっ……」と息苦しさが倍加するのを少しでも楽にできればと思って吐いた悪態だったが、効果はなかった。
「まるで俺が悪者じゃねえか……」
そりゃそうだ、俺は不良だもんな。心のどこかで茶化して気分を紛らわそうとしたが、重たい現実の前には無力だった。
急に感じた居心地の悪さに、いたたまれない気分。思考がばらばらになり、とにかくこんな状態でバイクを走らせたら危ないとだけは判断し、
どこかで気を落ち着けなければ、と考えた播磨が真っ先に思いついたのは、茶道部の部室だった。
ふとした経緯から入り浸るようになった茶道部の部室と、その時から世話になり始めた高野晶が淹れる紅茶の美味さと温かさ。あれがあれば多少は気が落ち着くので
はないかと思った播磨は、やりきれない思いを引きずりながら茶道部部室へ向かった。
このドアを開くのも二ヶ月ぶりか……。
今日、部活があるのかは知らないが、もし八雲がいたら即座に帰ろう、と昼休みの一件を思い出しながら、播磨はドアを開いた。
中の光景を視界に入れた播磨は、
そこに一人の女子生徒がいるのを発見した。
高野晶。紅茶を淹れている真っ最中だったらしい彼女は、ドアが開く音に振り返り、そこに播磨の姿を見て、驚いたような――それ自体が驚きだが――表情を播磨に見せた。
驚いた? 高野が? と立て続けに三度も信じられないものを見せられた播磨は、いや気のせいか、と判断した。
「あー……。うっす、久しぶり」
「……いらっしゃい、播磨君」
数週間ぶりの再開にも関わらず、以前と変わらぬ様子で部室に受け入れてくれた晶に、内心で感謝した。自分からひきこもりになっているとはいえ、
日常だった学校から自分の居場所が消えていく感覚に陥っていた播磨にとって、それは何よりもの救いだった。
部室を眺めながら他に誰もいないことを確かめた播磨は、円卓の窓辺に一番近い椅子――頻繁に出入りしている頃は指定席だった――に久しぶりに座った。何も言わずに新たなティーカップを出して紅茶を淹れる晶を見ながら、「今日、部活は?」と播磨は質問した。
「今日はないよ。私は紅茶が飲みたかったからここに来ただけ」
「そっか……」と返し、それならゆっくりできる、と播磨は椅子に深くもたれかかった。
窓辺の陽光。紅茶の湯気。それを淹れる彼女の姿。その三つが揃った時、播磨は一番リラックスできることを経験から知っていた。その原因が何かを考えるにはここの雰囲気は優しすぎて、播磨はまどろみながら紅茶が淹れられるのを待った。
「どうぞ」
差し出されたティーカップを受け取り、懐かしい香りに少しはやりきれない思いも霧散した感じだった。一口飲めば、その味にかつてここで過ごした時間さえ浮かび上がるような心境になった。
投稿はここまでアディヨス