ビーズが光ってる
キラキラキラわたしは見惚れてしまいます
あなたが笑ってる
キラキラキラわたしは自惚れてしまいます
ビーズの髪飾りをつけて
あなたが嬉しそうに笑ってる
キラキラキラキラキラキラキラ
わたしは なんだかとても幸せになってしまって
わたしを幸せにしてくれた
あなたとビーズがとても愛しくなってしまって
ただその やらかい髪の毛に
愛をこめて キスをひとつ落としたのです
キラキラキラキラ…
フロイトはいっている思春期における同性間の友愛について異性間の性愛への架け橋あるいは偽装された異性愛への志向にすぎないと。
さすれば純然たる同性愛とは一体なんであるか。
簡単に答えを出すその前に、古代ギリシヤの史書をひもといてみる、と古代日本の伝統的同性愛のそれとが、あまりにも似ていることに気付くのだ。
われわれ詩人は学者ではない。だからといって厳密なる思索への敬意は捨ててなどいないし、むしろそうした研究者たちの膨大な成果から、
多大の恩恵を受けてきたし、いまも受けていることは誰の眼にもあきらかであろう。
デリダはいう。「友愛の政治学」、と。また生理学の領野においては、女体の生命意志と男性のそれとはいうまでもなく、ちがっている。
自然界においてはオスはオスの使命を終えるやいなや死んでしまう。ほとんど即死ともいえよう。
だが、哺乳類へと近づくにつれて様相は変わってくる。人間にいたっては、やりっぱなしの放りっぱなしという事態すら招いた。
もちろん、イタリア・ルネサンス芸術が果たした友愛とはまったく異なった意義をもって、現代のそれは存在している。
現代のそれらしく「見えている」だけの友愛。その意義が有している意味とは、すべての人類に考え直す機会を与えてくれたことと、
もう一つは、残念ながら、口ばかりの友愛には、もはや「意義」すら認められない、
という動かしがたい滅びへの宴への青写真が今日のどこかで描かれているという意味のみだ。
だが、われわれには生身の体とともに、戦争を発明できるほどの頭脳を持っている。
なにがいいたいかというと、その逆もまた不可能ではないというそのことだ。
偽装された、あるいは暴力的に同姓愛者へと転向せざるをえなかった彼女たちが、もし友愛という銘を大空に向けてかかげんとするならば、
そこには一つの踏み絵がちゃっかり用意されている。いうまでもない。その名は、嫉妬とよばれて君臨している。