小田原で下車したときには十時を回っていた。
できるだけ安い宿を捜そうと駅前の宿をいくつか回ったが、何処も予想よりも高かった。
これまで満足に旅行することもできなかった栞はともかく、少なくとも私は宿泊にかかる値段
をある程度わかっているつもりだった。――甘かった。私は今まで親の脛をかじって生きてきた
のだ。その厳然とした事実を私は眼の前に突き付けられた。旅行にいくらかかるのかすら私は知
らなかった。とにかく体力を消費しきっていたので、適当に安めの宿に泊まることにしたが、私の
貯金のすべてを使い切ったとしてもこれでは一ヶ月ももたない。それにあまり長い時間同じ宿に
泊まるわけにもいかないだろう。怪しまれる。
どうしたらいいんだろう――?
私は何も考えていなかった。
私はどうなっても仕方がない。どんな状況になってもそう思えるかどうかはわからないが、とに
かくすべては自業自得だ。
しかし栞は――。
私のせいで。
今よりももっと、悲惨な目にあわせてしまうかもしれない。
そう思うと、胸の奥がぎりぎりと締め付けられる。
後悔が心臓を串刺しにする。
自分のなかからなにかが染み出して流れ尽くし私は乾き水分が失われ萎縮する。
「ごめんね――栞」
私は宿の部屋で栞に声を掛けた。
「――え?」
「私といるせいで、栞を嫌な目に合わせるかもしれない」
「何言ってるの?」
「何言ってるのって――私何も考えずに栞連れ出しちゃったりなんかして……」
「聖。……私の眼を見て」
私は黙って従う。
「私が後悔しているように見える?」
私はどうしていいかわからない。ただ願望から、首を振る。
「私は聖といられるだけで幸せだから」
私は栞を抱き締めた。きつく、きつく、ずっと離れないように。
夜になった。そもそも基本的に、することがない。本を何冊か持ってきてはいたのだが、読む気に
なれなかった。浴衣に着替える。
「……寝ようか」
そう私が言ったのは夜八時のことだった。
うん、と栞は頷く。布団はすでに敷いてあった。二人分。
ぎこちない動作で布団にもぐりこむ。
当然のように、眠れない。眼が冴える。意識が不必要に覚醒している。焦っている、と感じた。
何に焦っているのか。これからのこと? それももちろんそうだ――いや、そうだ。そうに違いない。
「聖」
不意に、栞が暗闇のなかで話し掛けてきた。
「私ね――後悔はしてないけど……心残りはあるんだ」
「何……?」
「私――マリア様を裏切ったから」
得心がいくと同時に、背筋を冷たいものが走った。マリア様。その言葉は、栞にとってどれだけ大
きいものだったろう。私はそれを、栞から引き離したのだった。
「でも――」
「うん。今は聖の方が大事。けど……ほんとうは順番なんてつけられないくらいに、私にとってマリ
ア様は大切なの――わかってくれるのよね?」
「うん」
頷いてもわからないから、はっきり声に出した。
「でも。私は裏切ってしまった。だったら――もう、振りかえっちゃ、いけない。逃げ出すんだったら、
もう振りかえっちゃいけない」
「……………」
「だから、私はもうマリア様を棄てなくちゃいけない。聖、あなたのために」
――栞の潜在的な意思の強さは知っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
「多分近い将来もっとはっきりとした形で裏切ることになると思うけど――でも、今のうちに私は覚悟
を決める必要があると思うの。だから――とても失礼な話だと思うけど、けど……」
そして栞は言ったのだった。
私を抱いて、おねがい。と。