ちょっと待ってよ――私は納得が行かない。
女の子なのに太郎という名前、日本人離れした褐色の肌。明らかに不自然すぎるだろう。
見た事のない子がクラスにいるというのに、その事実を平然と流してしまうとは、
智恵先生もこのクラスの皆もどうかしている。
私はそういう曖昧な事に我慢のできない性質だ。帰国子女の木村さんじゃないけど、
「おかしいよ」と叫びたい気分だった。もっともクラスの空気を読めばそんな事言えない。
イライラした気分のまま、私はその日の授業を受けた。普段から予習をきっちりしているから
学業に差し障りがないとはいえ、各教科の先生の声が脳にまで届かない。
ああイライラする――
放課後になり、私は下校する自称『関内太郎』を追跡した。
今日の茶道部はお休みだ。もちろん予め部員を昼休みに呼び出して、今日は休むと
きっちり告げている。そうでなくては委員長も部長も務まるまい。
彼女との距離はきっちり十メートル。普段から教室の机を並べる時に測量機器を
扱っているので、目測でも距離はきっちり把握できる。
人込みの中で特定の人物を尾行するのは、スリルがあって案外楽しかった。
常月さんが先生の後を付ける気分が少しは理解できる。決して好きになれる人ではないけど。
それにしても駅前の商店街は猥雑である。都市計画がきっちりしていない為だろうか。
区役所は何をやっているんだ。ああきっちりしていないのは本当に辛抱ならない――
いけない。
考え事なんかしているラグタイムで、あの子を見失いかけた。
尾行を成功させる為にも、きっちり落ち着いた気分で臨まねばならない。特に最近は
妙に苛立つ日々が続くから尚更だ。何の為に茶道部をやっているんだ私は。
あの子を探し出すのは一苦労しそうだ。背が低いのですぐ人込みに紛れてしまいそうだと
思ったからだ。
けれども私にとっては幸いな事に、彼女の肌は日本人離れした褐色だった。表通りから
角を曲がって裏路地に入るあの子を見つけ、きっちり十メートルの距離を詰め直す。
脱皮、脱毛、脱税――
ガモンラーメン――
清酒高見盛――
表通りに輪をかけて乱雑な看板が、狭く小汚い道に向かって迫り出している。
あの子が不意に立ち止まり、きょろきょろと周囲を窺った。私は傍の電柱に身を隠す。
どうでもいいが、なぜ石神井総合病院の案内がこんな所にあるのだろう。ここだって近所に
大きな病院があるんだし、練馬区の病院はきっちり練馬区で宣伝すべきだと思うんだけど。
あの子はほっと息を吐いて更に先へと進む。きっちり十メートルの距離をとり続けて
後を追うと、えらく老朽化したアパートの前に到着した。
築何十年だろう。直下型地震どころか、震度三か四くらいで倒壊しそうな雰囲気だった。
こんな危険なアパートが未だに取り壊されないのも、行政がきっちり仕事をしないからだ。
後で都市整備部に電話して、きっちり話をつけなければなるまい――
その間にあの子は外壁材の剥がれ落ちた入り口を潜った。私もきっちり距離を詰め直す。
床板の軋みであの子に気付かれぬよう、靴を脱ぎ手に持って摺り足で進む。
見るからに建付けの悪いドアを開け、あの子はアパートの一室に上がり込んだ。
ここが彼女の住まいだと言うのか。
味噌でもしょう油でもキムチでもない、甘酸っぱくて魚臭い匂いを帯びた、湿度の高い
温気が鼻をくすぐって思わず噎せ返る。
慣れない匂いに戸惑いながらそっと中を覗き、私は――
絶句した。
あの子と同じ色の肌をした男たちが、三畳一間の部屋で鮨詰めに座っていた。
十何人いるんだろう。平静であればきっちり数えたい所だけど、そんな心の余裕は奪われている。
皆ぱっちりとした目、高く通った鼻筋。そんな顔がボロアパートに雁首揃えて並んでいる光景を、
私はテレビか家族旅行で行った某国のスラムでしか見た事がなかった。
あの子が聴き慣れぬ言葉で挨拶をして、男たちはこれまた聴き慣れぬ言葉で嬉しそうに返す。
「この人たち――」
湧き上がる唾液を飲み込み、目前の光景を私なりに少しでも理解しようと懸命に努める。
不法入国者――
私の推論はそれだった。否、断定しても差し支えはない。
今でもニュース等で取り上げられる現実の問題だというのに、私はついぞ彼らを見かけた事は
なかった。それどころか今朝出席を取るまで、彼らが身近に存在する事にさえ気付かなかったのだ。
「何で不法入国者がウチのクラスにいるのよ……」
ショックのあまり足が竦んで動けない。入国管理局にきっちり通報するにせよ、それとも黙って
看過ごすにせよ、一刻も早くこの場から離れた方がよいのは判っているのに――
「あ、委員長」
背後から聞き覚えのある陽気な声で呼びかけられ、私は驚いて振り返る。
どこから入って来たのか、いつもポジティブな風浦可符香さんがニコニコとその場に立っている。
「風浦さんどうしてここに?」
咄嗟に思いついた質問を投げかけたけれど、彼女は答えずに私の肩の真横を素通りして
部屋の中へと足を踏み入れる。
自称関内太郎くんが風浦さんに気付き、二人は呆然と見つめる私の目の前で手を高く掲げ、
まるで十年来の友人みたいに親しげな態度で互いの掌をぱちん、と打った。
「私ナマエ、セキウツ・タロウ」
小柄な褐色の女の子は、顔いっぱいに無邪気な笑みを湛えて私にたどたどしく名乗った。
「ワタシ、マツシタ」
「ワタシ、ホンダ」
「ワタシ、ソニー」
すぐに彼女の後ろで控えていた不法入国者たちがめいめいに声を上げた。風浦さんが
そんな彼らの前に立ち、得意げな笑みを見せる。
「みんな日本名でしょ。だからこの人たちは不法入国者じゃなくて帰国子女なの。
委員長なんだからクラスメイトの事くらい覚えてて下さいよ」
しっかりして下さいよもう――ぽんぽんと肩を叩かれ、私はつい怒鳴ってしまった。
「松下とか本田はともかく、ソニーなんて日本人の名前聞いた事もないわよ!
知っている会社のブランドを思い付くまま言ってるだけじゃない!明らかに偽名でしょーが!」
反論が終わると、私は肩で息をした。風浦さんはどこ吹く風だ。
「でも生徒会の役員だって菊正宗とか白鹿とか剣菱とか、有名な会社と同じ名前じゃないですか」
どうしようもない疲労感が肩に圧し掛かった。
「ここは有閑倶楽部の舞台じゃなくて現実なの!きっちりした現実にはそんな人いません!」
デモ私ホントの名前だヨ――関内太郎を名乗る少女が私たちの会話に割って入る。風浦さんへの
突っ込みも忘れ、私は黙って太郎にその先を話すよう促した。
私と風浦さんとの間に流れる空気を窺いながら、太郎は上目遣いに遠慮がちな様子で言った。
「ミドルネームあるカラ――正確にはセキウツ・マリア・タロウネ」
そう言って見上げる様子は本当に愛くるしい。一瞬名前なんてどうでもいいから
ぎゅっと抱き締めてやりたい、などと考えてしまう。
頭の中に浮かんだそんな妄想を振り払い、私はつとめて冷静な態度で彼女に訊いた。
「ところで何でウチのクラスにいたの?それに本当の名前ってどういう事?」
エットネ、と実に幼けない態度で彼女は口を開いた。
「ソレハ――」
つたない日本語で太郎――いやマリアが語ってくれた所によると、こういう経緯だった。
コンテナで日本に入国したばかりのマリアにとって、必要なのは身の安全を保障する物だった。
出席番号さえあれば学校の生徒だと主張する事ができ、太陽の下を堂々と歩ける身分になれる。
そう考えて彼女が目を付けたのが、関内太郎という二年へ組の生徒だ。クラスメートにも関わらず
『という』と付いているのは、私も彼の存在を今まで知らなかったからであるが。
既に人生を投げ、売れるものは臓器でもプライドでも売り尽くしていた彼と、出席番号が
喉から手が出る程欲しかったマリアとの間で、利害関係はさしたる調整も要らずに一致した。
彼からへ組の出席番号を買って、以後彼女は関内太郎の名を借りているのだった。